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異世界料理道  作者: EDA
第七十三章 群像演舞~八ノ巻~
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     ひとつなぎの道(三)

2022.10/3 更新分 1/1

 ザッツ=スンが病魔に倒れて、家長会議で姿を見せなくなったのち――ドンダ=ルウは、いっそう落ち着かない心地で日々を過ごすことになってしまった。

 今こそスン家を打倒するべきか、さらなる力を目指すべきか。そんな葛藤が、より重みを増してドンダ=ルウの双肩にのしかかってきたのである。


 無論、ザッツ=スンが病魔に倒れようとも、北の一族を筆頭とするスンの眷族は健在であるのだから、うかうかと手を出すことは許されない。

 しかしそれなら、自分たちはいつまで手をこまねいていればいいのか。スン家が衰退の陰りを見せたことにより、ドンダ=ルウはこれまで以上の煩悶を抱え込むことになってしまったのだ。


 そんなさなかに産まれたのが、末妹のリミ=ルウである。

 ザッツ=スンがズーロ=スンに族長の座を継承したと告げた家長会議の、翌年――ザッツ=スンとミギィ=スンがそろって家長会議に姿を現さず、スン家の衰退が明らかにされたその年に、7番目の子が誕生したのである。順番としては、まず黄の月に赤子の生誕を見届けてから、青の月の家長会議に臨んだ格好であった。


「まさかこの年になっても、新しい子を授かれるなんてねぇ。上の子たちとは、ずいぶん年が離れちまったけど……寂しい思いをさせないように、手をかけてあげないといけないね」


 ミーア・レイ=ルウは心から幸福そうな様子で、そのように言っていた。

 もちろんドンダ=ルウも、それと同じぐらい幸福である。新たに産まれたリミ=ルウは母親とそっくりの赤茶けた髪をしており、いくぶん身体は小さかったが、これまでの子供たちの中で一番元気よく泣いていた。それはドンダ=ルウが顔をしかめるほどの盛大な泣き声であったが、それがいっそうの愛おしさをかきたててやまなかったのだった。


 ドンダ=ルウは、まぎれもなく幸福である。

 しかし――幸福であるというのは、今の生活で充足しているということだ。守るべき存在が、それだけ増えたということだ。その幸福感の大きさが、スン家を打倒しようという覚悟の足枷になっているのではないか、と――ドンダ=ルウは、そんな思いまで抱え込むことになってしまったのだった。


(俺は本当に、スン家の衰退のさまを正しく見定められているのか? 今こそが、刀を取る時なのではないのか? 俺は家族や血族を守りたいと願うばかりに、千載一遇の好機を見逃してしまっているのではないか?)


 ドンダ=ルウの心には、常にそういった疑問がわきかえっていた。

 ただし、それを余人に打ち明けることはかなわない。ルウの家長に、そんな柔弱な真似は許されないのだ。父たるドグラン=ルウが耐え忍んでいたように、ドンダ=ルウも耐え忍ばなければならなかった。


「最近のドンダは、ずっと気が張っているようだねぇ。しんどいときには、どうか家族や血族を頼っておくれよ」


 時には、伴侶からそのような言葉をかけられることもあった。

 しかし言われるまでもなく、ドンダ=ルウは家族や血族を頼っている。愛する家族や血族こそが、ドンダ=ルウの支えであるのだ。そうして彼らから途方もない力を授かっているというのに、ドンダ=ルウは惑ってしまっている。それが、不甲斐なく思えてならなかった。


 そして、リミ=ルウが産まれてから3年後――ドンダ=ルウの気を休ませてなるものかとばかりに、さまざまな出来事が立て続けに起こった。

 それらの多くは、喜ばしい変転である。しかしこの頃のドンダ=ルウにとって、希望や喜びというのは無念や怒りと同じぐらい心をかき乱す存在であった。


 まず最初に生じた変転は、リリンの家にまつわる一件である。

 滅びを目前にしていたリリンの家長が、事もあろうにレイから嫁取りを願ってきたのだ。

 森辺においては、ただひとたびの婚儀で血の縁が結ばれることになる。リリンとレイで婚儀を挙げれば、リリンをルウの眷族に迎える他ないのだ。


「実のところ、リリンの家には5歳を過ぎた家人というものが、俺を含めて4名しかいない。このように滅びかけている氏族の人間が嫁取りを望むなど、不遜に過ぎる行いなのであろうが……どうか、肯んじてもらえないであろうか?」


 ルウの本家を訪れたリリンの家長は、そのように言いたてていた。

 ついに37歳となったドンダ=ルウとさほど齢の変わらない、中肉中背の男衆である。さして飢えている様子はなかったが、その首には1本の牙も飾られておらず、家の滅びが目前であることを如実に示していた。


「それはもう、不遜というもおこがましいほどの申し出であろうな。……どうしてレイの家長はその場で断らず、俺たちを集めようなどと考えたのだ?」


 そうように問うたのは、マァムの家長である。かつて眷族になりたいと願い出てきた頃の家長はすでに魂を返し、こちらもドンダ=ルウより若い長兄が家長の座を継いでいた。体格は父親よりも劣っているが、眷族の家長に相応しい力量を持つ狩人だ。レイの家長の願い出によって、この場にはすべての眷族の家長が集められていたのだった。


「俺はさほど、余人の力量を見抜く眼力も持ち合わせていないのだがな! それでもこのリリンの家長には、並々ならぬ力量を感じたのだ! 俺たちはスン家を打倒しなければならないのだから、今はひとりでも力のある狩人を血族に迎えるべきであろう?」


 真っ赤な髪をしたレイの家長は、片方しかない目にはちきれんばかりの期待の念をたたえていた。

 そこで「ほほう」と身を乗り出したのは、ルティムの家長たるダン=ルティムだ。


「俺も余人の力量を見抜くのは不得手であるが、こやつはそれほどの力量であるのか? であれば、ぜひとも力を比べさせてもらいたいものだな!」


「うむ! こやつが大した力量でなかったなら、俺はレイの家長として嫁取りの話を断るつもりだ! だから、ドンダ=ルウよ! まずはこやつの力量を見定めてもらえないだろうか?」


 ドンダ=ルウはしばし思案した末、レイの家長の申し出を許すことにした。いかにも直情的な言い分ばかりであったが、それでもレイの家長の言葉には正しき理が感じられたのだ。


 そうしてドンダ=ルウと眷族の家長たちは、その場でリリンの家長と力を比べることになった。

 その結果――勝利できたのは、ドンダ=ルウとダン=ルティムのみである。勇者の称号を持つレイの家長までもが、呆気なく敗れることになってしまったのだ。


「こやつの力量は、俺の想像を遥かに超えていた! ドンダ=ルウよ、どうかこやつをルウの眷族に迎えてもらいたい!」


 レイの家長は子供のようにはしゃぎながら、そのように言いたてていた。

 しかしドンダ=ルウは即答せず、まずはリリンの家人の人柄を見定めるべしと言いつけた。たとえどれだけの力を持っていようとも、邪な心を持つ人間を眷族に迎えることは許されないのだ。


 しかし、リリンの家人はいずれも清廉な存在であった。

 家長であるギラン=リリンも、その弟である男衆も、いまだ若年たる2名の女衆も、5歳に満たない幼子たちも――家の滅びを目前に迎えながら、誰もが清く正しい心を保持していたのだった。


 そうしてギラン=リリンはレイの分家の女衆と婚儀を挙げることになり、リリンの家はルウの眷族に迎えられた。

 次なる変転がもたらされたのは、その婚儀の祝宴のさなかである。

 なんとそちらの祝宴において、長兄ジザ=ルウの婚儀までもが取り決められてしまったのだった。


 相手は、レイの本家の家人である。ただし家長の子ではなく分家の生まれで、他の家族が死に絶えたために本家に引き取られたという身分であった。

 しかしまあ、生まれはどうあれレイ本家の家人であればルウ本家の長兄とも釣り合いは取れるし、ここ最近はレイから嫁を迎える機会も減っていた。眷族の数が増えれば増えるほど、血の縁は薄く広く広がっていくものであるのだ。古き時代からの眷族であるレイとは、なるべく頻繁に血の縁を深めておくべきであろうと思われた。


 そして、それらの慶事が重なった裏で、楽しからぬ事件も生じていた。

 小さき氏族たるダイの男衆が、リリンとレイの婚儀の祝宴を覗き見して――その場で、長姉ヴィナ=ルウを見初めてしまったのである。


 当時のヴィナ=ルウは15歳で、赤子の頃からの評判通りに美しい女衆に成長していた。見ず知らずの人間がひと目で心を奪われてもしかたないぐらいの美しさである。

 ただし、そのような話は森辺の習わしに則って対処すればいいだけのことだ。もしもその男衆が正式に嫁取りや婿入りを願ってきたのなら、ギラン=リリンの際と同様に正否を見定めるばかりである。


 しかしこのたびの一件には、さらに複雑な状況が絡み合っていた。

 そのダイの男衆は、ヴィナ=ルウを見初める前――こともあろうに、スン本家の長姉を見初めていたという話なのである。


 そちらの男衆、ディール=ダイは本家の次兄であったため、家長会議で家長の供をしていた。それでスン家に参じた折、たまたま見かけた女衆の姿に心を奪われてしまったのだという話であった。


 無論、そちらの女衆にも、婚儀がどうのという話はあっさり断られたらしい。族長ズーロ=スンには数多くの子供が存在したが、本家の長姉というのは決して軽くない立場であるのだ。ルウの本家の長姉であるヴィナ=ルウと同様に、仇やおろそかで伴侶を決めることは許されなかったのだった。

 しかしディール=ダイという男衆は、それからすぐさまヴィナ=ルウに懸想した。そしてまたもや家長からの了承も得ぬままに、おのれの思いを打ち明けてしまったのだ。


 そして――ドンダ=ルウが事の重大さを思い知らされたのは、すべてが終わってからのことであった。

 婚儀の祝宴の数日後、ヴィナ=ルウ自身からすべての事情を打ち明けられることになったのである。


「実は今日、スンの家人と出くわすことになったのよぉ……あのディール=ダイっていう男衆は、スンの長姉の命令で、ダイの分家の女衆と婚儀を挙げることになったそうよ……」


 そんなひと言で、晩餐の場は一気に過熱することになった。

 しかしながら、家人の男衆で激情をあらわにしたのは、次兄のダルム=ルウのみである。ただ長兄のジザ=ルウも、糸のように細い目を鋭く光らせたようであった。


「ディール=ダイとは、ヴィナに懸想していると告げてきた男衆だな? そやつが何故、スンの長姉に命令されねばならんのだ? そやつは、まさか……やはりスン家のたくらみで、ヴィナと婚儀を挙げようと目論んでいたのか?」


「ううん、そういう話じゃなくってぇ……もう、なんて説明したらいいのかしらぁ……」


 ヴィナ=ルウはけだるげに息をつきながら、それでも訥々と説明し始めた。

 すべてを聞き終えたジザ=ルウは、「なるほど」と腕を組む。ヴィナ=ルウが語っている間、食事を進めていたのは女衆と幼子のみであった。


「ディール=ダイという男衆は、スンとルウの両方に婿入りを願うような真似をした。それを放置しておけば、スンとルウの諍いの原因にもなりかねないので、禍根を絶つために別の女衆と婚儀を挙げさせることにした――スンの長姉は、そのように語っていたというのだな?」


「うん……だいたい、そんな感じだったと思うわぁ……まあ、スンの長姉がダイの男衆と婚儀を挙げるだなんて、先代家長が許すはずもない、なんて言っていたけれど……」


「先代家長――ザッツ=スンか」


 ジザ=ルウは静かにつぶやきながら、ドンダ=ルウのほうを見やってくる。

 やはり、いまだスンの支配者はザッツ=スンであるのだ。ドンダ=ルウは口を閉ざしたまま、ただ拳を握り込むことになった。


「それで、お前の身に危険はなかったのか? そのスンの長姉は、まさか供も連れずにこのような遠方まで出向いてきたわけではなかろう?」


 そのように問い質したのは、ダルム=ルウである。ダルム=ルウはいまだ14歳の若衆であったが、その青い瞳には炎のごとき激情が渦巻いていた。


「うん……ひとりだけ、奇妙な男衆を連れていたわねぇ……灰色の髪をして、ずいぶん陰気な感じだったけれど……なんだか、薄気味悪かったわぁ……」


「薄気味悪いとは? そやつに、何かされたのか?」


「何もされてないし、口ひとつきいてないわよぉ……わたしはこうして、無事な姿を見せているじゃない……」


「しかし、スン家の人間が勝手にルウ家の人間と関わったのだぞ! そんな真似を許しておいていいのか?」


 ダルム=ルウは完全に猛ってしまっていたが、ドンダ=ルウよりも先にジザ=ルウがたしなめてくれた。


「あちらもただ声をかけてきただけのようだから、それで罪に問うことはできまい。そして、族長筋のスンがダイに何を命じようとも、我々には関わりのない話であるし……いちおうは、諍いを生まぬための措置であるのだからな」


 そのように語るジザ=ルウは、すでに18歳である。本家の長兄という立場を重んじているジザ=ルウは、ドンダ=ルウと同じぐらいこの一件を重く受け止めているようであった。


(スンの長姉はザッツ=スンの意思を汲んで、このたびの騒ぎを力ずくでおさめてみせた。それは……ザッツ=スンもまた、ルウとの悶着を避けようとしているということだ)


 であればやはり、今こそがスン家を打倒する好機であるのだろうか。

 ザッツ=スンが病魔に倒れた今の内に、雌雄を決するべきであるのか――ドンダ=ルウは、何度となく繰り返してきた煩悶に胸を満たされることになった。


 ドンダ=ルウは、いったい何を指針として、それを見定めればいいのか。

 スンも北の一族も、力のある氏族である。それには一歩およばないものの、ハヴィラやダナ、ディンやリッドも、決して柔弱な氏族ではないだろう。家長会議で見るそれらの家長たちは、明らかに他の小さき氏族たちよりも力にあふれていた。


 しかしドンダ=ルウは、それらの氏族が何名の狩人を抱えているのか、風聞でしか耳にしたことがない。それでどうやって、おたがいの戦力差を見定めればいいというのか。ドンダ=ルウの惑いの根源は、そこにあった。


 そして、このたびの一件である。

 リリンとレイの婚儀を迎えることで、ドンダ=ルウは自分の子供たちがどれだけ成長しているかを思い知らされた心地であった。


 18歳となったジザ=ルウは、間もなくレイの女衆と婚儀を挙げる。

 15歳となったヴィナ=ルウは、ディール=ダイばかりでなく数々の男衆から懸想されている身である。

 そして14歳となったダルム=ルウはいまだ見習いの狩人であったが、こうしてスン家の行いに激しい怒りを燃やしている。

 7名にも及んだ子供たちの中で、年長者たる3名はすでにそこまで成長を果たしていたのだった。


 もしもスン家と刀を交える事態に至れば、ジザ=ルウもダルム=ルウも刀を取ることになる。もはや彼らは守られるべき存在ではなく、ドンダ=ルウとともに戦いへと身を投じるべき立場であるのだ。

 そしてドンダ=ルウは、その戦いの時期を定める責任を背負わされているのだった。


(それは、いつだ? 俺はいつ、何を目安に、スンとの戦いに挑めばいいのだ? 俺が、狩人としての盛りを迎えてからか? その頃には、ザッツ=スンの病魔も癒えているかもしれんし……それに柔弱なるズーロ=スンも成長を果たして、今よりも厄介な存在になっているやもしれんのだぞ)


 やはりドンダ=ルウが頼りとするのは、おたがいの眷族の家長の力量であった。スンの血族の戦力といえば、家長会議で目にする家長の存在を目安にする他なかったのだ。

 今のところ、血族の家長の力量というものは――質においても数においても、スンが上回っているという印象であった。


 ルウの血族で卓越した力を有するのは、ルウ、ルティム、レイ、リリンである。いまだリリンは眷族に迎えたばかりであったが、家長のギラン=リリンは勇者たるレイの家長に打ち勝ったのだから、ルウの血族で指折りの力量であるはずであった。

 それに次ぐのはマァムの家長で、ミンとムファは数段下がる。ミンの家長は聡明であるが狩人としての力量は並であり、ムファに至っては何もかもが並であった。


 いっぽう、スンの眷族は――やはり、北の一族の力が際立っている。

 ザザの家長はちょうどザッツ=スンが家長会議に姿を現さなくなった年に代替わりしていたが、その力量はドンダ=ルウと五分であろうと踏んでいた。

 ドムの家長はドンダ=ルウよりも若いようだが、ドンダ=ルウよりも早くから家長の座を担っている。そしてその力量は、ザザの家長と同等ていどと思われた。

 ジーンの家長は、ドムやザザにいくぶん劣る。それでも、レイの家長と同等ぐらいの力量であろう。


 ここまでは、ルウの血族がまさっている計算になる。

 ドンダ=ルウとダン=ルティムがザザおよびドムと五分であり、ジーンとレイが五分であるならば、リリンの戦力がまるまる余ることになるのだ。それは、親筋たるスンの家長ズーロ=スンが狩人としての力をまったく持ち合わせていないゆえであった。


 しかし、スンはルウよりも多くの眷族を有している。

 そして、残る4つの眷族――ハヴィラ、ダナ、ディン、リッドの家長たちは、いずれもマァムの家長と同等かそれ以上の力を持っていたのだった。


 こちらは7名で、あちらは8名。家長だけが総出で刀を交えても、最後に勝つのはスンの血族であろう。

 そしてさらに、すべての男衆が戦いに加わったならば――こちらはリリンが2名の狩人しか有していない上に、北の一族は誰もが勇猛であるという風評であった。


 もちろん風評は風評に過ぎないので、確かなことはわからない。

 しかし、北の一族が家長会議に供として連れている男衆は、いずれも確かな力を持っていた。仮にドンダ=ルウたちが家長会議でいきなり戦いを仕掛けても、勝利できる見込みはごく薄いのだ。


 では、家長会議の場に、自分たちだけがすべての狩人を引き連れて、戦いを挑めばどうなるか。それはもちろん、こちらの圧勝であろう。ただし、そのように卑怯な真似が、森辺で許されるはずもない。たとえドンダ=ルウがそのような命令を下しても、血族からの信頼を損なうだけで終わるはずであった。


 実際は、北の集落に何名の狩人が控えているのかもわからないのだから、戦力差もわからない。

 しかしそれがわからないゆえに、ドンダ=ルウは惑ってしまうのだった。


 そうしてドンダ=ルウが思い悩む中、また3年もの日が過ぎ去って――新たな変転が訪れた。

 ファの家が、再びスン家と悶着を起こしたのだ。

 ただしこのたびは家長のギル=ファではなく、その娘であった。スンの長兄がその娘の美しさに心を奪われて家に押し入ったが、返り討ちとなって川に突き落とされたとのことである。


 そんな話を伝え聞いたドンダ=ルウは、思わず笑ってしまった。

 スン家のぶざまさとファの家の果敢さにさまざまな激情をかきたてられた上で、笑ってしまったのだ。


 その娘――アイ=ファという女衆に関しては、以前から名前だけは知らされていた。4年ほど前、いまだ2歳であったリミ=ルウと散歩に出ていた最長老ジバ=ルウが、道端でその娘と縁を結んだという話であったのだ。

 しかしべつだん、ドンダ=ルウは気にもとめていなかった。ファの家長ギル=ファが子を授かったという話は本人から聞いていたし、女衆同士が家の外でどれだけ出くわそうとも、こちらの知った話ではなかったのだ。ただ、どうしてファの人間というのはこうして思わぬところで自分の家に関わってくるのだろうと、小さな疑問を覚えるばかりであった。


 その、ルウ家とわずかに関わりのあったファの女衆が、スン家と悪縁を結んだ。

 しかも、あのギル=ファという家長は魂を返し、ファの家はその娘が最後の家人であるらしい。そんな弱みにつけこんで、スンの長兄は家に押し入ったわけである。


(であれば……俺や家族がファの人間にちょっかいをかけられていたのも、母なる森の意思なのであろうか)


 得体の知れない情念に衝き動かされて、ドンダ=ルウは動くことにした。

 その跳ねっ返りの女衆をルウの家に迎えてみてはどうか、と――そんな思いに至ってしまったのだ。


 リミ=ルウやジバ=ルウは、そのアイ=ファという娘にずいぶん執心しているようなのである。その両名が信頼を置いているのであれば、きっと悪い人間ではないのだろうし――リミ=ルウたちは、アイ=ファが破滅しないようにと心から案じていたのだった。


(そいつをルウ家に迎えれば、スン家が牙を剥いてくるやもしれん。さすれば、大義は我々のものだ)


 ドンダ=ルウには、そのような打算もあった。最近のスン家はすっかり卑屈に成り下がり、人目を忍んで悪事を働くようになっていたのだ。それもあって、ドンダ=ルウは戦いを挑もうという契機を失っていたのだった。

 しかしこのたび、スン家は明らかな悪行を働いた。無断で家に押し入って、娘に乱暴を働こうなどとは、言い逃れのできない悪行である。そうしてルウ家がアイ=ファを守るために家人として迎え入れ、スン家が牙を剥いてきたならば――家の遠いディンやリッドがスン家を見限る可能性もあったし、また、多くの小さき氏族をこちらの味方につけられるかもしれなかった。


 そして何より、ドンダ=ルウは母なる森の意思を感じていた。

 古きの恨みを晴らすのではなく、小さき氏族たるファの家の苦境を救うために刀を取るのなら、母なる森もルウ家の正義を認めてくれるのではないか――いや、そもそも現在の状況こそが、母なる森の意思なのではないか――ドンダ=ルウは、そんな心境にも至っていた。


 しかしそれは、大きな間違いであったのだ。

 ドンダ=ルウは自らファの家に出向くことで、その事実を思い知らされたのだった。


「私は狩人として生きることに決めた。だからルウの家に嫁入りはできない。せっかくの厚意を無にすることを申し訳なく思っている」


 アイ=ファはそのような言葉でもって、ドンダ=ルウの申し出を退けた。

 アイ=ファはレイナ=ルウと同じ齢であるため、15歳である。そして彼女は2年前から、見習いの狩人として父の仕事を手伝っていたのだという話であった。


 13歳で見習いの仕事を始めた狩人は、おおよそ2年ほどで一人前と認められることになる。

 確かにそのときのアイ=ファは、狩人として申し分のない気迫を漂わせていた。ドンダ=ルウがひとたびだけ目にしたことのある母親とそっくりの容姿で、きわめて美しい女衆であったのに――そのほっそりとした身体には狩人ならではの力感がみなぎり、青い瞳には闘志の炎が燃えていた。そして彼女は断固とした意志でもって、ドンダ=ルウの差し伸べた救いの申し出を跳ねのけてみせたのだった。


 ドンダ=ルウは、母なる森の御心を見誤っていたのだ。

 いや、森の御心を勝手に見定めようとしたことが、間違いであったのだ。ドンダ=ルウの胸中に渦巻く無念と憤懣の思いは、そんな愚かさに対する罰であったのかもしれなかった。


 しかしドンダ=ルウは、別のところでアイ=ファに腹を立てていた。

 リミ=ルウやジバ=ルウはアイ=ファを救いたいと願っているのに――アイ=ファはそれを退けて、孤独に狩人として森に朽ちようとしているのだ。すべての家人を失った女衆がたったひとりで狩人としての仕事を果たそうなどというのは、生命を無駄に扱う愚か者の所業であるはずであった。


 よってドンダ=ルウは、アイ=ファの存在を見限ることにした。

 ファの家を利用してスン家との決着をつけようとした、己の愚かさとともに――アイ=ファの存在を、自らの心から切り離したのだった。


 やはりドンダ=ルウは、自らの意志で、自らの決断で、スン家を打倒しなければならないのだ。

 ドンダ=ルウは果てしない苦々しさを噛みしめながら、そんな思いを新たにすることになった。


 そして、翌年――まるで追い打ちをかけるように、大きな変転が訪れた。

 まずは茶の月に、ジザ=ルウに最初の子が産まれた。婚儀を挙げてから4年も過ぎて産まれた、待望の赤子である。しかもその子は男児であり、輝かんばかりの生命力を宿しているように思えてならなかった。


 それからほどなくして、ドンダ=ルウはレイの家長を失い、スン家はドムの家長を失うことになった。

 幼少期から友誼を結び、あれほど陽気で、猛々しく、そして力にあふれていたレイの家長が、狩人としての盛りを迎える40歳になる直前で魂を返してしまった。彼は片目を失っていたので、それが狩人として働ける時間を大きく縮めてしまったのかもしれなかった。


 協議の結果、次の家長は長兄のラウ=レイに定められた。ラウ=レイはいまだ16歳の若年であったが、分家に本家を移すことなく、姉の伴侶にその座を譲ることもなく、彼が家長の座を受け継ぐことになったのだ。

 ラウ=レイは父親に負けないほど陽気で、猛々しく、そして力にあふれかえっていた。闘技の力比べに関してはすでに父親に次ぐ力量であったため、それもひとつの決め手となったのだ。もちろん家人を導くという点ではまだまだ未熟さも否めないだろうが、それは分家の者たちに支えてもらう他なかった。


 そうしてドンダ=ルウは、ラウ=レイとともにその年の家長会議に挑むことになり――その場で、ドムにおいても家長の座が長兄に継承された事実を知らされたのだった。


 ドムの新たな長兄もずいぶん若年であるようだが、身体の大きさはドンダ=ルウ以上であった。

 そして――彼はそのような若年であったにも拘わらず、ドンダ=ルウやダン=ルティムにも劣らぬ力量が感じられたのだった。


 少なくとも、かつてのドムの家長に劣る力量ではないだろう。しかも、ギバの頭骨の陰に見えるその古傷だらけの顔には、若年とも思えぬ静かな気迫がたたえられていた。この若者であれば、かつての父親と同じように家人を導けるのではないかと、そんな風に思えてならなかった。


 いっぽうラウ=レイも、若年としては卓越した力量であったが――現時点では、まだ父親に届いていない。それはすなわち、ジーンの家長よりもわずかに劣るという力量であるはずであった。


 つまり――血族の家長の戦力という意味では、またスンに一歩先を行かれてしまったのだ。

 それは血族の持つ力のすべてではないと承知しつつ、ドンダ=ルウはひそかに落胆せずにはいられなかった。それはもちろん、自分自身への落胆に他ならなかった。とりわけ、友たるレイの家長がスンの滅びを見届けることもかなわぬまま魂を返してしまったという事実が、ドンダ=ルウの胸を苛んでやまなかった。


(やはり俺は慎重を期するあまり、スン家を討つ好機を失してしまったのではないだろうか? ザッツ=スンが病魔に倒れ、ミギィ=スンが姿を見せなくなった時点で、勝負をかけるべきではなかったのだろうか?)


 ドンダ=ルウはそんな煩悶を抱えながら、その年の家長会議を過ごすことになった。

 そして――その年に初めて家長会議に参じたアイ=ファは、女衆の身で狩人の衣を纏い、供の家人もないままに、誰よりも凛然とその場に座していたのだった。


 アイ=ファのそんな姿にも、ドンダ=ルウは激情をかきたてられてしまう。

 女衆の身で家長を担うというのが、どれほどの労苦であるものか――ジバ=ルウの背中を見て育ったドンダ=ルウには、それが痛いほど心に刻みつけられていたのだ。そんなドンダ=ルウにとって、アイ=ファの存在は腹立たしいまでに愚かしく思えてならなかったのだった。


(貴様などに、家長が務まるものか! 女衆の身で、たったひとりで、狩人の仕事など果たせるものか!)


 ともすれば、ドンダ=ルウはそんな激情に押し流されてしまいそうだった。

 あるいは、それは――何のしがらみも持たないまま、ひとりで破滅しようとしているアイ=ファに、嫉妬にも似た感情を覚えてしまっていたのだろうか。


 ドンダ=ルウはさまざまなしがらみにとらわれて、もう20年近くも無念の思いを抱え込んでいる。しかしアイ=ファはたったひとりの家人も持たないがゆえに、自らの誇りだけを重んずることが許されて――その姿が、あまりに自由で清廉に見えてしまうのかもしれなかった。


 そうして家長会議を終えたドンダ=ルウは、やるかたない思いを抱えながら家に戻ることになり――その場で、さらなる訃報を聞かされることになった。

 ドンダ=ルウの上の弟が、ギバ狩りのさなかに魂を返してしまったのだ。


 ドンダ=ルウがそちらの分家の家に駆けつけると、魂を返した弟の子が家人たちに介抱されていた。ジザ=ルウの2年ほど後に産まれた、この家の長兄である。その長兄も深手を負ったらしく、目だけを残して顔中が灰色の包帯に覆われてしまっていた。


「おお、家長会議から戻ったのか、ドンダ=ルウよ。もう聞いているかと思うが、俺の父は魂を返すことに相成った。ともに仕事を果たしていた俺も、このざまだが……しかし、このていどの手傷はどうということもない。この家は俺が家長の座を受け継ぐので、心配は無用だぞ」


 包帯の陰から覗くその双眸には、父にも負けない熾烈な眼光が宿されている。

 ディグド=ルウという名を持つその男衆は、若年ながらも確かな力を備えていたのだ。


 だが――ルウ家がまた有力な狩人を失ったという事実に変わりはない。

 そしてドンダ=ルウにとっては、旧友たるレイの家長と大事な弟を立て続けに失ったということでもあった。


 遥かなる昔日、ドンダ=ルウは父たるドグラン=ルウを失った年に、父の弟とレイの先代家長を失うことになった。そしてこのたびは、自らの弟とレイの家長を失うことになったのだ。母なる森は何を思って、このような運命をルウの血族にもたらしたのか――ドンダ=ルウがどれだけ頭を悩ませようとも、正しい答えなど見つけられそうになかった。


「そうかい……あの子も、逝ってしまったんだねぇ……」


 ドンダ=ルウから訃報を聞かされたジバ=ルウは寝具に横たわったまま、はらはらと涙をこぼしていた。この頃のジバ=ルウはすっかり足腰が弱くなり、1日の大半を寝具の上で過ごすようになっていたのだ。


「あの子が産まれた日のことは、今でもしっかり覚えているよ……この子と長きの時間を過ごすのは、あたしじゃなくってあんたなんだから、しっかり面倒を見ておやりと……あたしはそんな風に言いつけていたっていうのに……まったくの虚言になっちまったねぇ……」


 確かにドンダ=ルウとジバ=ルウは、弟とまったく同じだけの時間をともに過ごし――そして同時に、失うことになったのだ。

 ジバ=ルウはすでに84歳という年齢になり、腹を痛めて産んだ子供ものきなみ魂を返している。そして今日という日には、ついに孫まで失うことになってしまったのだった。


 それはいったい、どれだけの悲しみであるのだろう。

 ドンダ=ルウはつい先日、初めての孫を授かった身なのである。あの小さくて可愛らしいコタ=ルウが、いずれ立派な狩人に成長し――そして自分よりも早く魂を返してしまう姿など、ドンダ=ルウに想像できるわけもなかった。


 敬愛する最長老が嘆き悲しむ姿を目の当たりにして、さしものドンダ=ルウも心が軋んでしまう。もとよりドンダ=ルウ自身、旧友と弟を立て続けに失った悲しみをこらえていた立場であったのだ。

 それでもなお、ドンダ=ルウに挫折することは許されない。

 ドンダ=ルウはすべての悲しみを胸の奥底にねじ伏せて、これまで通り運命に立ち向かうしかなかったのだった。

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― 新着の感想 ―
[一言] なるほど、ドンダ=ルウはジバ婆の生きざまを一番近くで見てきたから、アイ=ファの生き方に無謀と憤りながらも嫉妬していたのか。 ただでさえスン家との確執が、片付くどころか溝が深まっていくばかりの…
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