⑧毒牙(下)
2014.11/15 更新分 1/1
2014.11/17 誤字修正
「……ヤミル、婿殿を連れてきてやったぜえ?」
家の戸板を叩きながら、ディガ=スンが低く呼びかける。
スンの集落でも、そうとう外れにある家だった。
ディガ=スンの掲げた燭台だけが目の頼りなので正確な位置はわからないが、祭祀堂からの道のりを考えるに、北の端の、西寄りあたりだ。
南側にあるというドンダ=ルウの眠る家からはますます離れてしまったことになるが、まだ身体のほうは回復しきれていない。
手足にはそこそこ力が戻っているのだが、平衡感覚がおぼつかないのだ。
これでは、真っ直ぐ走ることすら、できそうにない。
しかも、ドッド=スンに襟首と右腕をしっかり握られてしまっている。
アイ=ファのことを思うと心臓が潰れてしまいそうなぐらいであったが、短慮だけは、禁物だ。
もしもここでしくじってしまったら、俺たちには破滅の道しか残されていないのだろうから。
「ああ……ああ、そうだな……大丈夫だよ、上手くやるさあ……」
閉まったままの扉に向かって、ディガ=スンがぼそぼそと囁きかけている。
その目が、やがて俺たちのほうを見た。
「よし、それじゃあ婿殿とご対面だあ……せいぜい可愛がってもらうといいぜ、小僧?」
ドッド=スンに引きずられるような格好で、戸板の前に立たされる。
ヤミル=スンと俺を、ふたりきりで引き合わせようというつもりか。
ならば、そこにこそ勝機があるかもしれない。
ヤミル=スンも、腰に細身の短刀ぐらいは下げていたはずなので、それを奪って、人質に取って――という、俺には不相応な荒事にも従事してみせよう。
そんな覚悟を固めているうちに、ディガ=スンの手によって戸板が引き開けられ、ドッド=スンに、容赦のない力で突き飛ばされた。
俺は家の中に転がりこみ、その背後で、戸板が閉められる。
その瞬間。
俺は、叫び声をあげそうになってしまっていた。
「待っていたわ、アスタ……手荒な真似をして、悪かったわねえ……」
ヤミル=スンの声が、薄暗がりに響く。
しかし俺は、冷たい木の床に突っ伏したまま、声をあげることもできなかった。
血が。
血の匂いが、家に充満している。
そのおぞましい匂いが、ほとんど物理的な圧力でもって、俺の鼻腔に突き刺さってきたのだ。
匂いとは、微粒子である。
大気中の分子が鼻腔の粘膜を刺激することによって、それが匂いとして知覚されるのだ。
これほど濃密な血臭などは、もう鼻の奥に腐った血液を流しこまれているのと同じぐらい、俺には不快で、気色が悪かった。
嘔吐感が、咽喉もとにせりあがってくる。
「どうしたの? ……こんな手段で愛しい女主人と引き離されてしまったものだから、怒っているのかしら?」
その言葉が、我を失いかけていた俺の意識に楔を打ちこんでくれた。
こんなところでへたりこんでいるひまはない。
俺は、アイ=ファを救わなければならないのだ。
俺は、ゆっくりと面を上げる。
血まみれの足が、視界に入った。
血まみれの腰。
血まみれの腹。
血まみれの腕。
血まみれの胸。
血まみれの首。
血まみれの顔。
一糸まとわぬ裸身を血まみれにしたヤミル=スンが、そこに立っていた。
「な……」
かすれた声が、咽喉から漏れる。
「何をしてるんですか、あなたは……?」
「うふふ……何をしてるって? ……わたしは、森の恵みを味わっているだけよ……?」
どっぷりと血にまみれた長い髪の向こうで、ヤミル=スンが笑っていた。
血まみれの顔で、笑っていた。
普段は冷たい黒褐色の瞳が、濡れたように輝いている。
「わたしたちには、力が必要なの。ギバの肉だけじゃあ、全然足りない……だからこうして、森の力を全身に浴びているのよ……?」
「それは、ギバの血なんですね……?」
だんだん、目がなれてきた。
室内には、か細いながらも燭台の火が灯されていたのだ。
おかげで――見たくもないものが、見えてしまう。
ヤミル=スンの背後に吊るされた、黒い動物の影。
天井の梁から鎖で吊るされた、巨大なギバの骸――だ。
今日の昼下がり、ミダ=スンが狩ったギバなのだろう。
「わたしたちの祖は、こうして森の力を体内に取り込んできたの。だから、凶悪なギバをも超える狩人としての力を得ることができたのよ……?」
ぺたり、と不気味な音が響いた。
ヤミル=スンが、俺のほうに足を踏み出してきたのだ。
床にも、ギバの血がしたたっている。
おそらくは、ギバの咽喉でも裂いて、その血を頭から浴びたのだろう。
薄暗がりの中、オレンジ色の火に照らされて、全身を赤黒い血に濡らした、裸身の女――そんな悪夢のような情景に戦慄しながら、「何てことをするんですか、あなたは!」と、俺は叫んだ。
「ギバの生食は森辺でも禁じられているのでしょう? だったら、ギバの血だって、同じように危険なはずです! 火を通さないギバの血は、人間にとって毒なんですよ!?」
「関係ないわ……これは、必要な儀式なの……」
「そんな儀式は聞いたこともありません! たとえ大昔にはそんな儀式が存在したとしても、きっと危険だから禁じられるようになったんですよ! そんなものは、今すぐ洗い流すべきです!」
ヤミル=スンの恍惚とした目が、俺を見る。
「あなたは、スン家に滅べと言うの? スン家には、力が必要なのよ。……だから、あなたの力も、ちょうだい……?」
ぺたり、ぺたり、とヤミル=スンが近づいてくる。
怒りとも恐怖ともつかない感情に全身を震わせつつ、それでも俺は身を起こし、ヤミル=スンと相対した。
「言っている意味が、わかりません! どうしてスン家は――どうしてスン家だけが、こんな風なんですか? 森辺の民は、みんなあんなに清廉で、誇り高く生きているのに――どうして族長筋のスン家だけが、こんな風になってしまったんですか!?」
「それは……きっと、すべての毒をスン家だけで引き受けてきたからじゃないかしら……?」
ほとんど正気を失ってしまっているように見えるヤミル=スンの目に、得体の知れない光が宿る。
「スン家が闇に堕ちれば堕ちるほど、何も知らない民びとたちは、いっそう清く、輝かしく生きることができる……スン家はそうやって森辺の民を守ってきたのよ、きっと……」
「わかりません! あなたたちだって、他のみんなと同じように、胸を張って堂々と生きればいいじゃないですか!?」
「……それは、無理なの……」と、ヤミル=スンの瞳にまた異なる光が宿る。
「わたしたちは、もう引き返せないのよ……滅びの日が、近づいている……もうこれ以上、眷族たちの目をあざむくことはできない……」
「眷族たちを、あざむく?」
「あなたももう気づいているんじゃないの? ……それとも、スンのかまどを預かりながらそれに気づけないほど、あなたは愚鈍な人間だったのかしら……?」
俺は、とっさに言葉が出なかった。
それじゃあ、やっぱり――そうなのか。
俺の想像は、的中してしまっていたのか。
「もういいの……どうせ滅ぶなら、最後の希望に取りすがってみよう、と思ったのよ……あなたがいれば、スン家は救われる。1日にあれほどの銅貨を生み出すことができるあなたを手に入れることができれば、スン家は滅びずに済むのよ……」
「そんなの……そんなの、おかしいですよ! 俺なんかを頼らなくったって、普通にギバを狩ればいいだけのことじゃないですか! それで普通に生きていくことはできます! 他のみんなだってそうやって生きてるんですから、あなたたちだけそれができないなんていう道理はありません!」
「……わたしがスンの家長だったら、そういう道も選べたかもしれないわね……」
ヤミル=スンの唇が、半月型に吊り上がった。
しかし。
その顔は、まるで泣いているように見えた。
「だけど、駄目なのよ……先代家長のザッツは愚かな男で、今の家長のズーロはもっと愚かで……家長を継ぐ長兄のディガはもっともっと愚かで……スンの家には、もう何の救いも残されていないのよ……」
「だけど……」
「スンを救うことができるのは、あなただけ」
ヤミル=スンが、間近にせまってくる。
耐え難いほどの血の匂いと、目もあてられぬような絶望に引き歪む笑顔が、俺の心を凍てつかせた。
「……わたしの婿になって、スンを救って……? ……それが嫌なら、一緒に滅んで……?」
血まみれの指先が、ゆるゆると伸びてくる。
その先端が頬に触れる寸前に、俺は「嫌です」と首を振った。
「どちらも、嫌です。あなたたちが救われたいというなら、俺はファの人間として、その力になります。だけど、スンの人間になることはできません」
「……そう……」
ヤミル=スンの指先が、俺の横を通りすぎ、戸板にぺたりと当てられた。
「……わたしたちを、救ってはくれないのね……」
「いや、だから、本当に救われたいんだったら、もっときちんとした方法で――」
「残念だわあ」
ヤミル=スンの手によって、がらりと戸板が引き開けられた。
それと同時に、背後から襟首をつかまれて、地面に引き倒されてしまう。
「……本当に、残念だわあ……」
ヤミル=スンの姿が、戸板の向こうに隠されていく。
最後に見えた、その血まみれの顔は――小さな子どもの泣き顔のように見えた。
「待ってたぜ。俺の望み通り、ムントの餌になる道を選んでくれたみたいだなあ?」
ドッド=スンの、狂った喜悦にひび割れた声。
俺は、素早く立ち上がった。
が――よろけて、戸板に手をついてしまう。
まだ少し、メレメレの葉とやらの効能が身体に残ってしまっているようだ。
「貴様がその道を選んだんなら、ファの女狩人も一蓮托生だ。ディガの気が済んだら、一緒に谷底に落としてやるよ」
俺は愕然と目線を巡らせた。
ドッド=スンのかたわらで燭台を掲げているのは、ディガ=スンではなく、テイ=スンだった。
「……ディガ=スンは、どこに行ったんだ!」
無意識の内に、怒声が噴きこぼれる。
ドッド=スンは、口もとを歪めてせせら笑った。
「今頃はお楽しみの真っ最中だろうさ。あんな獣の目をした女の、何がそんなにいいんだかな」
「お前ら……」
怒りで、視界が真っ赤に染まっていく。
身体が、爆発しそうだった。
「……お前らは、どこまで性根が腐っているんだ……?」
そんな言葉が、勝手に口からこぼれ落ちた。
ドッド=スンの顔から笑みがかき消え、その手が腰の刀に伸ばされる。
「何だ、その目は……貴様、この場で叩き斬られたいのか?」
「やれるもんなら、やってみろ!」
俺は、戸板から手を離した。
心臓が、早鐘のように胸郭を打っている。
頭の血管が、ぶち切れてしまいそうだった。
こんなに――これほどまでに他人を憎いと思ったのは、初めてだ。
もしもディガ=スンが、本当にその手をアイ=ファにかけていたのなら――
たぶん俺は、どんな罪にでもこの手を染めてしまうだろう。
「そこをどけ……俺の邪魔をするな!」
ドッド=スンが、後ずさった。
その手が蛮刀の柄を握りしめ――革の鞘から、一気に引き抜く。
その瞬間。
闇の向こうから、黒い人影が飛び出してきた。
何が起きたのかは、わからない。
ただ、ドッド=スンは数メートルばかりも吹っ飛んだのちに地面を転がり、テイ=スンは、革鞘ごと刀をかまえた。
「やめとけよ。あんたが相手じゃ、俺も手加減はできないぜ?」
耳に懐かしい、少年の声。
俺よりも小柄な人影が、長い棒を手に、テイ=スンと相対する。
「できれば、死人は出したくねーんだよ。親父にもきつくそう言われてるしな」
「ル――ルド=ルウ!?」
後ろ姿でも、見間違えるはずはなかった。
黄褐色の髪をした少年が、グリギの棒をかまえたまま、ちょいと肩をすくめやる。
「ごめんな、アスタ。スン家の連中が言い逃れのできないぐらいの禁忌を犯すまでは、絶対に手を出すなって言われてたからよ。そこのぼんくらが刀を抜いてくれたおかげで、やっと出てこれたぜ」
「どうして……どうしてルド=ルウが、ここに?」
「親父の命令だよ。寝ないで一晩、スンの集落を見張ってろってよ。このまま何も起きなかったら、退屈すぎて死ぬところだったぜ」
「ルド=ルウ。無駄口は後にするべきだ」と、さらに新たな人影がテイ=スンの背後に進み出る。
ルド=ルウと同じぐらい小柄でほっそりとした、黒褐色の髪の少年――分家の家長、シン=ルウだ。
「スンの男衆よ、無駄な抵抗はよせ。お前ひとりで俺たちを退けることはできまい」
シン=ルウも、長い棒をかまえていた。
たぶん、グリギの棒であろう。ふたりとも腰に刀を下げているが、それを抜く素振りは見せない。
「な……何をやっている、テイ=スン! とっととそいつらを、ぶち殺せ!」
と、地面に這いつくばったドッド=スンが、惑乱しきったわめき声をあげる。
テイ=スンは、感情の欠落した目で、そちらをちらりと見た。
「それは、本家の人間としての命令か、ドッド=スンよ?」
「うるせえ! ぶち殺せ!」
テイ=スンは、燭台をそっと足もとに置いた。
その手が刀の鞘にかけられるのを見て、ルド=ルウが「おい」と声をあげる。
「やめろって。あんた、無茶苦茶に強そうじゃん。ふたりがかりでも、あんたを殺さずに仕留められる自信はねーよ」
「……ならば、殺すがいい」
どろりと濁った目つきのまま、テイ=スンが抜き身の刀を正眼にかまえる。
「ちぇっ。親父にしこたま怒られちまうな、こいつは」
緊迫感の欠片もない声でつぶやき、ルド=ルウはグリギの棒を放り捨てた。
その手が、腰の鉈を取る。
あの、宿場町で買った、ごつい鉈だ。
そいつを革鞘に収めたまま、だらりと右腕にぶら下げる。
「馬鹿どもめ……貴様ら全員、ムントの餌にしてやるよ!」
と、ドッド=スンが大声でわめき、刀ごとルド=ルウに突進し始めた。
それと同時に、テイ=スンも刀を振りかぶる。
まずい――と、ほとんど無意識の内に、俺は足を踏み出していた。
渾身の力で、ドッド=スンの背中にショルダータックルをぶちかます。
普通の男衆だったら、きっと小ゆるぎもしなかっただろう。
しかし、ドッド=スンは、酩酊していた。
もしかしたら、ルド=ルウの一撃で相当なダメージもくらっていたのかもしれない。
何にせよ、ドッド=スンは俺ごときの体当たりであっけなくバランスを崩し、ふたりでもつれあいながら地面に倒れこむことになった。
「くそッ!」と、ドッド=スンが身を起こそうとする。
その、刀をつかんだドッド=スンの右手の甲に、俺は渾身の力でかじりついた。
「ぎにゃあっ!」とかいう雄叫びをあげて、ドッド=スンが俺の腹を蹴ってくる。
まともに胃袋を蹴り抜かれて、俺は後ろざまに倒れこんだ。
「くそ! 殺す! 殺してやるぞ、異国人め!」
血に濡れた右手を抱えこみ、ドッド=スンが跳ね起きる。
その背後に、小山のような黒影が、ぬうっとそびえ立った。
「何をしているのだ、お前は……?」
怒りに震える、野太い声。
ドッド=スンが、愕然と振り返る。
その顔面が、巨大な手の平で、張り飛ばされた。
それで、終わりだ。
ドッド=スンは、さっきの倍以上の距離を吹っ飛び、ごろごろと地面を転がって、やがてヤミル=スンの家の壁に激突し、停止した。
「アスタ! 大丈夫か!?」
その人影が、巨体に似合わぬ敏捷さで俺につかみかかってくる。
燭台の光も遠かったが、この特徴的なシルエットを見間違えるはずもない。
俺の身体を軽々と引き起こし、ほとんど泣きそうなぐらいに慌てふためいた顔を寄せてきたその人物は――誰あろう、ダン=ルティムその人であった。
「ダン=ルティム……どうしてあなたまで、こんなところに……?」
ずきずきと疼く腹を抱えこみつつ、それだけの声を振り絞ると、ダン=ルティムはほっとしたように顔をほころばせた。
「それはこっちの台詞だわい! 何やら騒がしいと思って来てみれば……あんまり心配をかけるな、アスタよ! このようなところで、いったい何をやっているのだ、お前は?」
「いや……それよりも、ルド=ルウたちは……」
「うん?」とダン=ルティムが目線を巡らせて、今度は怒れる魔神の形相に成り果てる。
「大馬鹿者がもうひとりおったか! スン家の男衆よ、ルウの眷族に刀を向けるつもりならば、この俺が相手になってやるぞ!」
このわずかな時間で、どれほど苛烈な闘いが繰り広げられたのだろう。ルド=ルウとテイ=スンはともに頭から血を流しており、グリギの棒をへし折られたシン=ルウは、胸のあたりをおさえて地面に膝をついていた。
「……ルティムの家長。貴方を殺せとの命は受けていない」
と、テイ=スンはその手の刀を下げる。
そして、その腐った魚のような瞳が、無気力にルド=ルウを見た。
「しかし、貴方は私に近づかぬことだ。近づけば、殺さねばならない」
「何だよそりゃあ? わけのわかんねーおっさんだなあ」
顔のほうにまで垂れてきた血をぬぐいつつ、ルド=ルウは少しだけ後ずさる。
「ダン=ルティム! だったらあんたが何とかしてくれ! このままじゃあ俺も刀を抜く羽目になっちまうよ!」
「ふぬう?」と、おかしな声をあげつつ、ダン=ルティムは俺をひきずるようにしてまずはルド=ルウのほうに近づいていった。
そうして俺の身柄をルド=ルウに託してから、テイ=スンの前に立ちはだかる。
「いったい何だと言うのだ? 刀を収める気があるなら、収めよ」
「私は自分の意志でそれを為すことはできない。この若衆ふたりを討ち倒すように命じられているのだ」
「そうか」と言いざまに、ダン=ルティムはテイ=スンの腹を蹴り飛ばした。
テイ=スンは刀を取り落とし、無言のまま地面に崩れ落ちる。
「本当にわけがわからんな。スン家にまともな人間はおらんのか?」
憮然とつぶやくダン=ルティムを尻目に、俺はルド=ルウにつかみかかった。
「ルド=ルウ! アイ=ファは!? アイ=ファのほうにも、誰か別の男衆がついてくれているのか!?」
「え? いや、見張ってたのは、俺とシン=ルウだけだよ。アイ=ファのほうまでは手が回らなかったな」
「そんな! どうしてだよ!」
「だって、アスタのほうが危なそうだったじゃん。こっちは刀が抜けねーんだから、ひとりでふたりを相手にするのはきついし」
と、ルド=ルウが不満そうに口をへの字にする。
「そうか。ごめん。助けてくれてありがとう。……それじゃあ今度は、アイ=ファを探すのを手伝ってくれ!」
そこに、ダン=ルティムが割りこんできた。
「何を騒いでおるのだ。アイ=ファがどうかしたのか?」
「アイ=ファは、ディガ=スンの家に連れ去られてしまったんです! 早く探さないと、アイ=ファのやつが……」
蹴られた腹よりも、胸が苦しい。
焦燥のあまり、呼吸が止まってしまいそうだ。
ルド=ルウが、そんな俺の顔を横合いから覗きこんでくる。
「アイ=ファだったら、大丈夫だろ? 何かぐったりしてたみたいだけど、スン家の長兄なんざにどうこうされたりしないって」
「いや、スン家の連中は何かおかしな香草を焚いて、祭祀堂にいた全員を眠らせてしまったんだ。その効き目が残っているうちは、危険なんだよ!」
こんな説明をしている時間すら、惜しい。
しかし、ルド=ルウはまだけげんそうな顔をしていた。
「ああ、何か燭台を持ってもぞもぞしてると思ったら、そういうことだったのか。……だけど、アスタやダン=ルティムはこうしてピンピンしてんじゃん? それなら、アイ=ファも大丈夫だろ」
「ふむ。しかし俺は、寝ている最中におかしな匂いがしたから、慌てて祭祀堂の外に這いずり出たのだ。そのときに何人もの人間を踏み潰したはずなのだが、誰も目を覚まそうとはしなかったな」
ダン=ルティムも、その鋭敏な嗅覚によって難を逃れたのか。
それはまさしく僥倖であったが――しかし今は、とにかくアイ=ファだ。
「力を貸してください! この集落のどこかには絶対にいるはずなんです!」
「うむ。それならば、片っ端から家の戸をぶち破って……」
と、そこでダン=ルティムの目が、ぎらりと光った。
「そこにいるのは誰だ!」
遠くのほうで、「ひいっ」と、か細い声があがる。
「待てい! 逃がすか!」
ダン=ルティムの姿が、かき消えた。
ヤミル=スンの家とは反対の方角に、「ぬおー!」と走り始めている。
無茶苦茶に、足が速い。重量100キロはあろうかという巨体なのに、一流のスプリンターみたいに美しいフォームだ。
その頼もしくもユーモラスな姿が闇の向こうへと消えていき、やがて、「うひゃあ!」という悲鳴が響いた。
「放してヨ! アタシは何にもしてないヨ! 何か騒がしいから、様子を見にきただけサ!」
ピイピイと甲高い、ヒステリックな少女の声。
スン本家の末妹、ツヴァイ=スンだ。
小さな小さなその姿が、ダン=ルティムの小脇に抱えられて登場する。
「ツヴァイ=スン! ディガ=スンの家は、どこにあるんだ!?」
ツヴァイ=スンは、不機嫌そうに俺をにらみつけてきた。
それから、ぴくりとも動かないドッド=スンと、無気力にへたりこんでいるテイ=スンのほうにも視線を巡らせる。
「何だかよくわかんないけど……スン家は、もう駄目なのかもしれないネ」
「おい、ツヴァイ=スン――!」
「そんな怖い目をして、にらまないでヨ。アタシは本当に無関係なんだから」と、ツヴァイ=スンは下唇を突き出した。
「ディガの家は、本家をはさんで反対側の、隣りの隣りだヨ」
「よし! 行くぞ、アスタ!」
ツヴァイ=スンを抱えたまま、ダン=ルティムが走りだす。
足もとの燭台を拾いあげてから、俺も全力でその後を追った。
「シン=ルウ! お前はこいつらを縛りあげとけ! あと、その家の女衆も逃がすなよ?」と、ルド=ルウも並走してくる。
「大丈夫だよ、アスタ。アイ=ファは、狩人だ。狩人としての誇りを忘れたスン家のぼんくらなんざに遅れを取るわけはねーって」
そんな風に呼びかけてくるルド=ルウの言葉を頭から信じることができれば、どれほど幸せだっただろう。
(アイ=ファ……頼むから、無事でいてくれ……!)
これほどまでに絶望の深淵を深く覗きこんでしまったのは、たぶん生まれて初めてのことだと思う。
もといた世界で業火に飛び込んだときだって、ここまでの気分は味わされなかったはずだ。
心臓が苦しい。
膝が砕けそうになる。
アイ=ファ――
神でも悪魔でも何でもいいから、アイ=ファを守ってやってくれ。
一生のお願いだ。
俺の生命なんて、どうなったっていい。
アイ=ファがいないと、俺は駄目なのだ。
アイ=ファがそんなひどい目に合うなんて、俺には耐えられない。
「……あの家だヨ」
他の家と代わり映えのしない木造の家が、夜闇に浮かびあがる。
先頭を走っていたダン=ルティムが、そのままの勢いで、戸板を蹴り飛ばした。
めしゃっと鈍い音をたてて、戸板がひしゃげる。
「ふん! 頑丈だな!」
ダン=ルティムがツヴァイ=スンの身体を放り捨て、もう1度足を振り上げた。
その一撃で、戸板はかんぬきごと弾け飛ぶ。
「アイ=ファ!」
ダン=ルティムの巨体をすりぬけて、俺は屋内に踏み込んだ。
大広間である。
誰もいない。
ただ――その奥の壁に設えられた扉のひとつが、半分だけ開いて、わずかばかりの光をもらしていた。
「おい! むやみに飛び込むなよ!」
ルド=ルウの声を背中で聞きながら、俺は広間を駆け抜けた。
戸板を引き開け、足を踏み込み――
そして、転倒する。
「うわっ!」
部屋の入口に、何かぐにゃりとしたものが横たわっていたのだ。
そいつにつまずいて、床に倒れこむ。
手に持っていた燭台も床に落ち、毛皮の敷布をぶすぶすと焦がした。
「……アイ=ファ!」
アイ=ファが、いた。
両腕と両足を縛られて。
胎児のように身体を丸めて。
室の奥に広げられた寝具の上で。
アイ=ファが、力なく横たわっていた。
「アイ=ファ……」
その肩に手を伸ばそうとする。
とたんに――革紐で縛られた手が、ものすごい勢いで俺の胸ぐらをひっつかんできた。
青い瞳に、激情の炎が爆発し――すぐに沈静化する。
「アスタ……無事であったか……」
「うわっ!」
おもいきり胸ぐらを引き寄せられて、俺はアイ=ファの上に倒れこんでしまう。
そして、すべすべの頬を頬にこすりつけられた。
「心配していたぞ……無事で何よりだ……」
「それはこっちの台詞だよ……」
俺は全身全霊で、安堵の息をつくことになった。
救われた――
アイ=ファを、失わずに済んだ。
この世界の運命を憎悪せずに済んだ。
自分自身のうかつさを呪わずに済んだ。
人の心を失わずに済んだ。
俺はこの世の神仏のすべてに感謝の念を送りつつ、アイ=ファの身体を抱きすくめた。
「ほらな、大丈夫だっただろ?」と、ルド=ルウの得意げな声が近づいてくる。
「こいつがスン家の長兄だよな? 気持ちよさそうに失神してらあ」
アイ=ファの身体を寝具の上に抱き起こしつつ、俺はそちらに目線を向けた。
俺がけつまずいてしまったのが、ディガ=スンの身体であったのだ。
許されざるべきスン家の長兄は、部屋の入口で大の字でひっくり返っていた。
「あれは、アイ=ファがやったんだよな? よく手足を縛られながら撃退できたもんだな?」
「……たとえどのように不自由な身であっても、スン家なんぞに遅れを取るものか……顔面に肘を入れて、そのまま蹴り倒してやったのだ……」
と、まだ半分正気の戻っていなそうな声でつぶやきながら、今度はおでこのあたりを頬におしつけてくる。
さすがにちょっと気恥ずかしいかな、という理性が俺にも戻ってくると――その鼻に、とても嗅ぎ覚えのある甘い匂いが流れこんできた。
果実酒の香りだ、これは。
そして、その香りは明らかにアイ=ファのほうから漂ってきていた。
「おい、アイ=ファ、動くなよ?」と、ルド=ルウが腰の小刀を抜いて、アイ=ファの手足の拘束を寸断してくれた。
とたんに、自由を得たアイ=ファの腕が、俺の首にまとわりついてくる。
「よかった……本当に無事でよかったな、アスタよ……」
「う、うん、本当によかったよ。……アイ=ファ、お前、大丈夫か? まだちょっと寝ぼけてるみたいだな?」
ルド=ルウと、そして入口のあたりに立ちはだかったダン=ルティムが、とても不思議そうな面持ちで俺たちのことを眺めやっている。
そんな目線にも気づかぬまま、アイ=ファはようやく俺の顔から頭を離して、「何がだ?」と首を傾げやった。
その目が、ヴィナ=ルウみたいにとろんとしてしまっている。
少しとがらせたピンク色の唇が、むやみに色っぽい。
そして――その頬が、ほんの少しだけ赤くなっているような気がした。
「……お前、もしかしたら酒でも飲まされたのか?」
「うむ? ……そういえば、眠っている間に、何かを口の中に流しこまれたような気がするな……それで私は、目を覚ましたのだ……」
「なるほど。それで起きぬけにディガ=スンをぶちのめしてやったってわけだ」
きっと、アイ=ファが眠ったままだったので、気つけの酒でも飲ませたのだろう。
そのあげくに叩きのめされるなんて、いかにもあの愚鈍な男に相応しい末路だ――などと考えていたら、アイ=ファは「いや……」と、首を横に振った。
「……スン家の長兄がやってきたのは、もっと後だ……何かを飲まされて、目が覚めて、どうして自分がこのような場所で手足を縛られてしまっているのかと、ぼんやり思い悩んでいるうちに……そのうつけ者が、やってきたのだ」
そうしてアイ=ファは、再び俺の首ったまにかじりついてきた。
「とにかく、お前が無事でよかった……私から決して離れるなと言っただろうが、アスタよ……?」
「あ、ああ、ごめん。とにかくおたがい、無事で良かったよ」
常ならぬアイ=ファのスキンシップに心臓をどきつかせつつ――俺は、素早くあたりを見回してみた。
確かに、果実酒の土瓶などはどこにも転がっていない。
ディガ=スンならぬ第三者が、アイ=ファの危地を救ってくれたのだ。
(もしかしたら、カミュア=ヨシュか?)
まず真っ先に、あのとぼけた男の顔が思い浮かんだ。
だけど――少しだけ、しっくりとこない。
あの男が、こんな中途半端な真似をするだろうか?
助けるなら助けるで、手足の拘束ぐらいは解除してくれそうなものだ。幸いアイ=ファの手は前側で縛られていたので、うまいこと撃退はできたようだが。アイ=ファが覚醒するのを見届けたわけでもないようだし、こんな運まかせの助け方をするぐらいなら、傍観者に徹するのではないだろうか……?
(それじゃあ……もしかして……)
テイ=スン――なのか?
アイ=ファを縛ったのは、テイ=スンのはずだ。
あえて自由度の高い前側でアイ=ファの手を拘束したのは、テイ=スンであるはずなのだ。
本家の人間には逆らえない、などと言いながら、ダン=ルティムの前ではあっさりと刀を下ろした、あの無気力そうな瞳をした男――
あいつが、アイ=ファに希望を残してくれたのだろうか?
「……さて。それではそろそろ出発するぞ、アスタよ?」
と、褐色のあご髭をしごきながら、ダン=ルティムがそんな風に呼びかけてきた。
「出発ですか? ……どこに?」
「もちろん、ドンダ=ルウのもとに。……その後は、我らが族長のもとに、であろうよ」
ダン=ルティムが、にーっと楽しそうに笑う。
「たった一晩でこれだけの禁忌を犯しまくってくれたのだ。いかに族長が頭を下げようとも、このぼんくらどもの罪を帳消しにはできまい。もしかしたら、今日こそがスン家最後の日であるのかもしれぬなあ」
「……それは、そうかもしれませんね」
背水の陣で挑んだ大博打に、スン家は敗れてしまったのだ。
ただ――どうしてこんな愚かしい博打を、よりにもよってこのような日に仕掛けることになってしまったのだろう?
そんな無茶をしてまで、俺とアイ=ファをスン家に取りこもうとしたのは、何故だ?
ほんのちょっとのほころびで破綻してしまうような、こんな無謀な企みに手を染めたのは何故なのだ?
これは、誰の意志なのだ?
ズーロ=スンの命令なのか?
ディガ=スンたちの暴走か?
わからないことが、多すぎる。
だけど――とにかく、決着だけは着けなければいけなかった。
「……行きましょう」と、俺は立ち上がろうとした。
しかし、アイ=ファが放してくれない。
「おい、アイ=ファ、行くぞ? 自分の足で歩けるか?」
「うむ? ……駄目だ、私から離れるな」
と、そのしなやかな腕がいっそうぎゅうっと俺の身体を抱きすくめてくる。
「いや、離れないからさ。スン家の連中に、落とし前をつけにいこうぜ?」
「うむ……?」と、アイ=ファはまた頬を頬にこすりつけてくる。
ルド=ルウとダン=ルティムは、きょとんと目を丸くしてしまっていた。
「いや、あの、違うんです。たぶん、おかしな香草の煙を嗅がされたあげくに果実酒まで飲まされて、ちょっと酔っ払ってしまっているだけなのですよ?」
俺は慌てて弁明したが、おふたりの表情は変わらなかった。
そして、ダン=ルティムがルド=ルウを振り返る。
「……ルド=ルウよ、ひとつ提案したいことがあるのだが」
「んー? 何だよ、いきなり?」
「ファの家はルウの眷族ではないが、ルティムの友だ。アスタとアイ=ファが婚儀の宴をおこなう際は、ルウの広場を貸し、ルウの眷族で祝ってやることはできぬものかな?」
「あー、別にいいんじゃね? 祝いたいやつだけ集まらせるとかなら」
「いや、だから、違うんですってば!」
説得力の欠片もない有り様でも、俺としてはそんな風にわめくしかなかった。
わめきながら、俺はぼんやり考える。
これで本当に、すべての決着がつくのだろうか、と。
すべてが、あまりに唐突すぎた。
こちらの準備した策略や提案はすべて台無しにされてしまい、相互理解の道は絶たれて、スン家は勝手に滅んでしまうのだろうか?
俺の頭の中では、不吉な響きをはらんだいくつかの言葉がぐるぐると渦を巻いている。
(……それが嫌なら、一緒に滅んで……?)と、ヤミル=スンは言っていた。
(……ならば、殺すがいい)と、テイ=スンは言っていた。
もしかしたら――
スン家の内側にいる一部の人間こそが、もっとも強くスン家の滅びを望んでいるのではないだろうか?