ひとつなぎの道(二)
2022.10/2 更新分 1/1
それからドンダ=ルウは、ふたつの相反する思いを抱え込みながら生きていくことになった。
ルウの血族がいよいよ隆盛していく喜びと、暴虐なるスン家への憎悪――それらが複雑に絡み合った、果てしない日々である。
余所の氏族の人間はまだまだ飢えで苦しんでいるようであったが、もはやルウの血族が貧しさに脅かされることはない。食料も薬も鋼の武器も望むだけ手にすることができたし、産まれる赤子たちもそのほとんどが健やかに育つことになった。収穫祭の力比べでは狩人たちがその力を示し、女衆もみんな美しく強靭で――ドグラン=ルウの導きによって、ルウの血族はまたとない力と豊かさを授かることになったのだ。
しかしそれでも、まだまだスンの血族には及ばない。もとよりスンにはザザ、ドム、ハヴィラ、ダナという4つの眷族があり、近年にはザザからジーンという新たな氏族が生まれ出で――そしてついには、ディンにリッドという遠方の氏族までをも眷族に迎えることになったのである。
ルウの血族が捨て身でかかれば、それでも五分の勝負はできたかもしれない。しかし、五分の勝負では許されないのだ。ルウの血族はただスン家を滅ぼすのみではなく、戦いの後まで生き残り、さらには新たな族長筋として森辺の民をまとめあげなければならなかったのだった。
(サウティやラッツの連中も、ずいぶん力をつけてきたようだという話であったが……それでも、新たな族長筋などは務まるまいからな)
もとよりルウ家は、スン家に族長筋の座を譲った立場であった。かつて先人がモルガの森を新たな故郷と定めた頃、族長筋はガゼ家であったのだが、そちらは眷族のリーマともども滅びることになってしまったのだ。
そこで新たな族長筋を定める段に至ったとき、候補にあげられたのはスンとルウであった。その頃はスンとルウも貧しさにあえいでいたが、それでも他なる氏族に比べれば家人も多く、そして傑出した力を持っていたのだ。
ただ一点、スンとルウには大きな差があった。
当時はどちらもすべての眷族を親筋にまとめあげた上で、数多くの家人を得ていたわけであるが――さらに、古きの時代から勇猛さで知られていたザザとドムが、スンの新たな眷族として迎えられたのである。
「スンにザザとドムが加われば、ガゼやリーマにも負けぬ力で一族を導くことがかなおう。どうか新たな族長筋の座は、スン家に担ってもらいたく思う」
当時のルウの家長であったジバ=ルウの父親は、そんな言葉でスン家を祝福していたらしい。
当時のスンの家長――ザッツ=スンの父親というのは、よほどの器量であったのだろう。そうであるからこそ、勇猛ゆえに集落でも孤立しかけていたザザとドムも頭を垂れることになったのだ。その当時のことは、ドンダ=ルウも幼い頃にジバ=ルウから聞かされていた。
「その頃のスンの家長は、まだまだ若くてね。あたしの父親より、あたしに齢が近いぐらいだったはずだよ。だけど、ただ狩人としての力を持っているだけじゃなく、人を自然に従えられるような器量をあわせもっていたのさ」
そのように語るジバ=ルウは、我がことのように誇らしげであったように記憶している。
それから長きの歳月が過ぎ、すっかり年老いてしまったジバ=ルウは、スン家の乱心にひどく心を痛めていたのだった。
しかしジバ=ルウがどれほど嘆き悲しもうとも、スン家は許されざる罪を犯した。族長のザッツ=スンがミギィ=スンを庇い立てしようというのなら、もはや同罪である。ルウ家はかつてスン家に族長筋を譲ってしまった間違いを正し、自らが新たな族長筋として同胞を導いていかなければならなかった。
そうしてスン家と決裂してからは、実に慌ただしく時間が過ぎていくことになった。
まずは、ムファとの婚儀である。もともとルウに嫁入りするはずであった女衆はミギィ=スンに害されてしまったが、このままではムファがどのように扱われるかもわからない。そんな彼らをスン家の魔手から守るためにも、ルウとムファはあらためて血の縁を結ぶしかなかった。それでルウは、ようよう5つ目の眷族を迎えることになったのだ。
そんなさなか、ドンダ=ルウは新たな子を授かった。長姉ヴィナ=ルウを授かった翌年に、次兄が産まれることになったのである。
ダルム=ルウと名付けられたその赤子は、兄や姉に負けない力強さと愛くるしさを備えていた。そして、この子はひときわドンダ=ルウに似ているようだと、ジバ=ルウは涙をこぼしていたのだった。
父たるドグラン=ルウが狩りのさなかで深手を負ったのは、その翌年のことである。
生命に関わるような負傷ではなかったものの、すぐ目前にはその年の家長会議が迫っていた。それでドンダ=ルウは父たる家長の代理として、初めて家長会議に臨むことになった。
そのとき、ドンダ=ルウは24歳である。ムファの女衆を巡る悲劇からは2年が過ぎており、ドンダ=ルウがスン家に出向くのもそれ以来であったのだが――ザッツ=スンやミギィ=スンは、狩人としてさらなる力を身につけたようであった。また、ドムやザザの狩人たちも、それは同様であった。
(これで家人の数もあちらがまさるとあっては、俺たちがどれだけ奮起しようとも相討ち以上の結果は望めまい。俺たちには、まだまだ力が足りていないのだ)
そんな思いで、ドンダ=ルウは腹の奥底に煮えたぎる激情を押し殺すことになった。
そして――その場で出会ったのが、ファの家長たるギル=ファである。
ギル=ファはミギィ=スンと悶着を起こしかけていたが、なんとか血を流すような事態だけは回避していた。ギル=ファというのは妙につかみどころのない男衆で、ドンダ=ルウは何か引っかかるものを感じていたが、すでに滅びかけている小さき氏族にかかずらっているいとまはなかった。ただ、ファの美しき女衆がミギィ=スンに目をつけられてしまったという話であったので、それならとっとと婚儀でも挙げてしまえばいいと助言を送ったまでであった。
そしてその翌年は、また新たな子の誕生である。
次兄ダルム=ルウの2歳年少となるその赤子は女児で、レイナ=ルウと名付けられた。ルウには珍しい黒髪をしていたが、こちらもまた輝くように可愛らしい赤子であった。
ドンダ=ルウは4名もの子を授かり、今のところは全員が健やかに育っている。長兄ジザ=ルウと長姉ヴィナ=ルウは『アムスホルンの息吹』でも魂を返すことなく、赤子から幼子へと成長を果たしていた。
しかしつくづく、禍福 は交互にやってくるものなのであろうか。
レイナ=ルウを授かった2年後、ドンダ=ルウはまた新たな子を授かり――それからほどなくして、父たるドグラン=ルウを失うことになってしまったのだった。
その頃のドグラン=ルウは、49歳。ドンダ=ルウは、27歳である。
ドグラン=ルウは狩りのさなかに再び深手を負い、そしてこのたびは返らぬ人となってしまったのだ。
無論、この齢まで狩人として働ける人間は、そう多くない。しかもドグラン=ルウは、この齢までまだ勇者としての力を保っていたのだ。それはルウの家長に相応しい力量と誉れであるはずであった。
だが――これより5年前、ムファにまつわる悲劇が起きた際、ドグラン=ルウはすでに狩人としての盛りを過ぎていると宣言していた。ドンダ=ルウはドグラン=ルウの死を迎えることで、ついにその事実を思い知らされたような心地であった。
「貴様であれば、俺よりも強き力で一族を導くことがかなうだろう……」
そんな言葉を残して、ドグラン=ルウは魂を返した。
そうしてついに、ドンダ=ルウは家長の座を授かることに相成ったのだった。
(父ドグランが家長となったのは15歳、祖母ジバが家長となったのは25歳ていど……であれば、何も早すぎることはない)
ドンダ=ルウは、そんな思いでルウの家長としての生を歩み始めたのだった。
「我々もまた、狩人としての盛りは過ぎていよう。しかし、もうしばらくは眷族の家長として、ドンダ=ルウに力を添えたく思う」
そのように言ってくれたのは、ルティムやレイの家長たちであった。
彼らが家長の座を退けば、その長兄たちがそれを引き継ぐことになるのだ。ルティムとレイの長兄たちはこの齢になっても稚気が抜けず、人並み外れて血気盛んであったため、ドンダ=ルウとしてはありがたい限りであった。
何せドンダ=ルウは、ルウの家長として家長会議に臨まなければならないのである。憎きザッツ=スンらを前にして、自らの激情を抑え込みながら、眷族の家長の怒りまでをもなだめなければならないというのは、考えただけで気の遠くなるような労苦であった。
(しかし、そのように甘えたことは言ってられん。ラー=ルティムらも、遠からぬ内に家長の座を退くのだろうから……俺はその前に、親筋の家長としての器量を体得せねばならんのだ)
そうして迎えた、家長会議の日――
ザッツ=スンやミギィ=スンは、ドンダ=ルウが想像していた通りの醜悪さでドグラン=ルウの死を嘲ってきたのだった。
「ついにルウの家長も、魂を返すことになったか……まあ、あのていどの力量であれば、決して早すぎる死とは言えぬことであろうな」
そのように語るザッツ=スンは、40歳をわずかに超えたていどの齢であろう。そのがっしりとした体躯には、今こそが盛りとばかりに猛烈なまでの気迫と生命力がみなぎっていた。
いっぽうのミギィ=スンは、ドンダ=ルウよりも遥かに若年である。そしてこの男衆はもっと若年の頃から誰よりも巨大な図体をしており、見るたびに力を増していっているようであった。
(だが……今の俺であれば、ミギィ=スンを討ち倒すことも難しくはなかろう)
5年の歳月を経て、ドンダ=ルウはようやくそう確信することができた。
ただし、敵はミギィ=スンのみではない。スンの血族を屈服させられるだけの力を得るまで、ルウの血族は耐え忍ばなければならないのだ。
そうしてドンダ=ルウは眷族の家長らの支援のもと、ザッツ=スンらの挑発を受け流し、なんとかその年の家長会議を無事に終えることができた。
会議を終えた後は、そのまま祭祀堂で晩餐である。ドンダ=ルウはその際もスンの血族から距離を取り、眷族の人間だけを相手にひっそりと過ごしていた。そこにひょっこりとやってきたのは、3年前にひとたびだけ言葉を交わしたファの家長である。
「ひさしいな、ルウの長兄――いや、今はルウの家長か。父たる先代家長が魂を返したことに、悔みの言葉を届けさせてもらいたい」
ギル=ファという名を持つその男衆は、相変わらず飄然としていてつかみどころがなかった。
そしてドンダ=ルウが口を開く前に、ルティムの家長たるラー=ルティムが鋭く声をあげた。
「おぬしは、ファの家長であったな。我らに、いかなる用向きであろうか?」
「うむ? 俺は悔みの言葉を届けたく思っただけなのだが、何か都合が悪かったかな?」
「……ファとルウに、さしたる縁は存在すまい。ぶしつけに言葉をかけられる筋合いはないように思う」
ラー=ルティムが厳しい声音で言いたてると、ギル=ファは「そうか」とやわらかく微笑んだ。
「それでは、もうひとつだけ伝えさせてくれ。実は2年ほど前に、俺と伴侶のメイは赤子を授かることになったのだ」
「……それを何故、我々に?」
「俺とメイが無事に婚儀を挙げることがかなったのは、ルウの家長の助言のおかげであったからな。あのミギィ=スンにちょっかいをかけられる前に、さっさと婚儀を挙げてしまえばいいと、俺たちはそのような助言を受け……そしてついには、赤子を授かることができたのだ。俺たちはこの上なく幸福であるということを、どうしても伝えておきたかった」
そう言って、ギル=ファはいっそう柔和に目を細めた。
「しかし確かに、ミギィ=スンと悪縁を持つ俺たちがむやみに近づくべきではないのだろうな。今後は控えるので、どうか容赦してもらいたい。……ではな。ルウとその血族が健やかな行く末を迎えられることを祈っている」
それだけ言って、ギル=ファは早々に立ち去っていった。
ラー=ルティムは小さく息をつき、鋭く瞬く目をドンダ=ルウに向けてくる。
「差し出口をはさんでしまい、すまなかった。しかしあやつが語っていた通り、我々はスン家を刺激するべきではない。……来たるべき打倒の日まではな」
無論、ドンダ=ルウとしても異論はなかった。スン家を滅ぼすその日まで、ルウの血族はじっと力を蓄えなければならないのだ。
ただ、ドンダ=ルウの心には、ギル=ファの笑顔と言葉が長く残されることになった。
(2年前に赤子が産まれたということは……ちょうどレイナと同じ齢か)
それらの子供たちが、いずれどのような邂逅を果たすのか――当時のドンダ=ルウには、想像することもできるわけはなかった。
そうしてドンダ=ルウは家長として臨む最初の家長会議を無事に終えることになったが、その後も激動の日々が静まることはなかった。
まず最初に迎えたのは、ドグラン=ルウの弟たる男衆の死である。
この男衆は、2年前もこの年もドンダ=ルウの供として家長会議に付き添ってくれた人物であった。そしてドンダ=ルウにとっては、幼き時代に同じ家で暮らしていた家族である。そちらにもドンダ=ルウよりわずかに年少の男衆が育っていたので、無事に家長の座を受け継ぐことがかなったが――ドンダ=ルウにしてみれば、同じ年に父とその弟を失ったわけであった。
「まさかこんなに次々と、我が子の死を見届けることになるなんてねえ……長生きってのは、そんなにいいことばかりじゃないようだよ……」
さしもの気丈なジバ=ルウも、そんな言葉で悲嘆の思いをあらわにしていた。
そして次に訪れたのは、レイの家長の死である。
家長会議を終えるなり、レイの家長も森に朽ちることになってしまったのだった。
「俺の父も、50近くまで確かな力で仕事を果たすことがかなった! 今後は俺が父の分までギバを狩り、そして家人を導いてみせよう!」
真っ赤な髪を持つレイの長兄は、勇猛なる笑顔でそのように言いたてていた。
ドグラン=ルウもその弟もレイの家長も、長きにわたって狩人の力を示すことがかなったのだ。その死は大きな悲しみをもたらしたが、残された人間は彼らの強靭さを誇りに思い、さらなる力を示すしかなかった。
ただ――ドンダ=ルウは、ひとつの懸念を覚えていた。
これはまったくの偶然であるが、ルウとその眷族の家長たちは、おおよそ同じていどの年齢であったのである。
なおかつ、森辺の狩人というのは40歳あたりで盛りを迎え、そこからじわじわと衰退していく傾向が強い。であれば、今後も次々と眷族の家長たちは力を失っていき、まだまだ力の盛りでない長兄たちがその座を受け継いでいくというわけであった。
もちろんドンダ=ルウも10年以上の歳月を狩人として過ごし、現在では勇者の称号を授かっている。また、この近年の力比べでは、ドグラン=ルウを相手に勝利を収めることもできていたのだ。
しかしそれは、ドグラン=ルウがすでに盛りを過ぎていたゆえであるし――また、家長としての器量というのは、闘技の力比べだけで推し量れるわけではない。より重要であるのは、人を導く力であるのだ。それが長きの経験によって錬磨され、ついに完成を迎えるのが、おそらく40歳ていどということなのであろう。
(そして、ザッツ=スンは今こそが狩人としても家長としても盛りであるように感じられる。もしかして……父ドグランはここまで見越して、俺たちに父を越えよと言いつけていたのだろうか)
真相は、永遠に闇の中である。
ただドンダ=ルウは、いっそうの覚悟で父の無念を受け継ぐ所存であった。
現在のドンダ=ルウは、27歳。49歳で魂を返したドグラン=ルウとは、22歳の差がある。そしてさらに、ドグラン=ルウはドンダ=ルウより12年も早くから家長の座を受け継いでいたのだった。
ドグラン=ルウは34年という歳月をかけて、ルウの血族をここまで導いてきたのだ。
ドンダ=ルウがどれだけあがこうとも、父よりは短い期間で家長としての役目を終えることになるだろう。であれば、ドンダ=ルウはその短い期間で父と同等の働きを成し、スン家を滅ぼしてみせる覚悟であった。
そうしてまた、2年ていどの月日が過ぎて――ドンダ=ルウは、新たな子を授かった。
ついに、6人目の子である。長兄ジザ=ルウは10歳、長姉ヴィナ=ルウは7歳、次兄ダルム=ルウは6歳、末弟ルド=ルウは2歳となり、誰ひとり魂を返していなかった。
新たな赤子は女児であり、ドグラン=ルウさながらの真っ赤な髪をしていた。それでランの名をつけようかという話になったが、小さき氏族にその氏が存在することを、ドンダ=ルウは家長会議で知っていた。べつだん女衆に余所の氏と同じ名をつけることは禁じられていなかったが、弱き氏族と同じ名を与えるのは気が進まなかったので、ララの名を与えることになった。
「でも、ドグランの名にあやかってしまうと、気性の激しい女衆に育ってしまうかねぇ。……まあ、ドグランぐらいそれを抑え込む力があれば、きっと立派な人間になれるはずさ」
伴侶のミーア・レイ=ルウは、笑顔でそのように語っていた。
ミーア・レイ=ルウはドンダ=ルウよりも1歳年少であるので、この年で28歳となる。子を生すたびに肉づきがよくなって、すっかり貫禄が出てきたが、しかしドンダ=ルウにとっては誰よりも美しく見える姿であった。
母たるティト・ミン=ルウは52歳、祖母たるジバ=ルウは72歳――当たり前の話であるが、全員が等しく齢を重ねている。そしてこの頃にはジバ=ルウと同世代の人間もおおよそ死に絶え、ついに呼称は長老から最長老へと変じていた。
きっとジバ=ルウもドンダ=ルウと同じぐらい、大きな喜びと大きな無念を抱えていることだろう。あるいは、スン家が正しかった時代を知るジバ=ルウのほうが、現在の在りように深く心を痛めているのかもしれない。ジバ=ルウの身には年齢にそぐわぬほどの生命力が宿されていたが、ふとしたときにはかなげな表情を見せることが多くなっていた。
それでも時間は容赦なく流れ過ぎていき、さまざまな変転を世界にもたらしてくる。
ドンダ=ルウがその予兆を感じ取ったのは、ララ=ルウが産まれて3年後のことであった。長兄ジザ=ルウが13歳となり、ついに見習いの狩人として働き始めた頃合いである。
その年に、ついにルティムでも家長の座が長兄ダン=ルティムに受け継がれることになった。
ラー=ルティムもいまだ健在であったが、齢も48歳となり、力の衰えが顕著になってきたのだ。これではスン家に力なき氏族と侮られる恐れも出ようということで、家長会議の前に取り急ぎ継承の儀が行われることになったのだった。
それはまた、ドンダ=ルウに年長者の補佐も必要なくなったと見なされた証でもあったのだろう。ドンダ=ルウは、そんな誇らしさを胸に、家長会議に臨むことになった。
いっぽうようやく家長と認められたダン=ルティムは、もう満面の笑みである。ドンダ=ルウよりひとつ年少であるダン=ルティムは31歳で、若衆の頃はずいぶん細身であったのに、今ではすっかり恰幅がよくなっていた。
また、それよりもうひとつ年少であるレイの家長は、これが5度目の家長会議となる。彼はギバ狩りの仕事のさなかに片目を失ってしまったが、猛々しさはまったく衰えることもなく、旧友たるダン=ルティムが家長になったことを子供のようにはしゃぎながら祝福していた。
幼き頃から友誼を結んでいたこの3名が、ついに肩を並べて家長会議に臨むことになったのだ。もはやドンダ=ルウも、この両名の勇猛さを持て余すことなく、父と同様の沈着さでたしなめることができるようになっていた。
そうして他なる眷族の家長や供も引き連れて、ドンダ=ルウらはいざスンの集落に出向いたわけであるが――その場には、実に暗澹たる空気がたちこめていたのだった。
「うむ? 俺がスンの集落に足を踏み入れるのは、実に10年ぶりになるかと思うが……その間に、ずいぶんうらびれたものではないか」
ダン=ルティムがそのように言いたてると、レイの家長も「そうだな」と応じた。
「実のところ、この数年でスンの集落はいくぶん気配が変わったようであるのだ。何やら空気が重苦しいし、時おり見かける分家の家人などは、ずいぶん陰気な眼差しをしているしな」
「いやいや! これはいくぶんどころの話ではあるまい! 俺は何だか、ムントのねぐらにでも足を踏み入れたような心地だぞ!」
ダン=ルティムは齢を重ねるごとに丸みをおびてきた鼻を獣のようにひくつかせながら、そのように言葉を重ねた。
実際のところ、ドンダ=ルウもレイの家長と同じ気持ちを抱いていた。この数年――おそらく3年ほど前から、スンの集落は雰囲気が変わってきていた。そして本年は、その度合いが急速に強まったようなのである。ダン=ルティムなどはこの近年の様相を知らぬままに足を踏み入れたので、いっそう強い違和感を覚えたのであろうと思われた。
ルウの血族が12名という人数で乗り込んできたのに、いずれの家屋もぴたりと戸板を閉めたまま、誰ひとり顔を覗かせようとしない。そこには確かに数多くの家人の気配が感じられるのに、まるでそのすべてが死に絶えてしまったかのような陰気さであった。
「まあ、変にわきかえっているよりは、まだましであろうよ。この調子でザッツ=スンやミギィ=スンもしおれかえっていれば、幸いであるのだがな」
レイの家長はそのように言っていたが、事実はいくぶん異なっていた。ドンダ=ルウたちが祭祀堂に足を踏み入れ、他の氏族らとともに家長会議の開始を待っていると――いつも以上の気迫を纏ったザッツ=スンが姿を現したのだ。
小さき氏族の家長たちなどはすかさず目を伏せるほど、その日のザッツ=スンは殺気だっていた。
しかし、ドンダ=ルウの目がその変調を見逃すことはなかった。
(ザッツ=スンは、明らかに調子を乱している。いったい何があったというのだ?)
ザッツ=スンは目もとが落ちくぼみ、頬のあたりがげっそりとこけていた。それでいっそう凶悪な面相となっていたのだが、ドンダ=ルウとしては飢えて狂暴になったギバと相対しているような心地であった。
そしてもう一点、おかしな点がある。
ザッツ=スンの両脇に控える狩人たちの中に、ミギィ=スンの巨体がなかったのだ。これは、ドンダ=ルウが家長となってから初めてのことであった。
「うむ? ミギィ=スンは、どうしたのだ? 俺はあやつの醜悪な顔を10年ぶりに拝むのを楽しみにしていたのだぞ!」
遠慮を知らないダン=ルティムがそのように言いたてると、ザッツ=スンは黒い炎のごとき双眸でその姿をねめつけた。
「見慣れぬ顔であるな……供に過ぎない男衆は、口をつつしむがいい」
「否。こちらはルティムの新たな家長となる、ダン=ルティムである。挨拶はこれからとなるが、今後はこの者が家長会議に参ずるものとわきまえてもらいたい」
ダン=ルティムよりも早く、父親のラー=ルティムが鋭い声音でそのように伝える。家長が生ある内にその座を継承させる際は、最初の年だけ家長会議に同行する習わしであったのだ。
ラー=ルティムからの言葉を聞かされたザッツ=スンは、「ほう……」と口もとをねじ曲げた。
「それは奇遇であるな……我も今日、同じ話を伝えようと考えていたところだ……」
「同じ話? それはもしや……」
「スン家において、家長の座は長兄ズーロ=スンに継承された……これよりスンの家長と森辺の族長の座は、こちらのズーロ=スンが担うことになる……」
ザッツ=スンのすぐ隣に座したズーロ=スンは、気弱そうに目を泳がせていた。ザッツ=スンはこれほどの力を持つ狩人であるのに、ただひとつ後継者にだけは恵まれなかったようであるのだ。
言うまでもなく、祭祀堂の家長たちはざわめいていた。ザッツ=スンもずいぶん齢は重ねたが、まだまだ凶悪なまでの生命力をみなぎらせていたし、今もなおそれは健在なのである。そんなザッツ=スンが早々に身を引いて、柔弱なる息子に族長の座を継承させるなど、意想外もはなはだしかったのだった。
(しかしザッツ=スンは、確かに調子を乱しているように見える。これは俺たちにとって好機なのかどうなのか……厳しく見定めねばなるまい)
ドンダ=ルウがそのように思案していると、今度はレイの家長が声をあげた。
「それで、ミギィ=スンはどうしたのだ? もとより分家の家長にすぎないあやつが家長会議に立ちあう理由はないはずだが、いきなり姿を消すというのはうろんな話に思えるぞ」
「さて……あやつは奔放な気性であるゆえ、どこぞで果実酒でも楽しんでいるのやもしれん……まあ、何かあればすぐさま駆けつけるので、心配は無用である……」
「誰が心配などしているか」と、レイの家長は忌々しげに言い捨てた。
実のところ、ドンダ=ルウはこれ以降、1度としてミギィ=スンの姿を見ていない。つまりこの時点で、ミギィ=スンは魂を返していたようであるのだ。
しかしスン家の人間は、その事実を決して語ろうとはしなかった。あれほどの力を持つミギィ=スンが森に朽ちたのだと告げるのは、スン家の支配力に悪い影響を及ぼすとでも考えたのであろうか。
そしてそれは、ザッツ=スンについても同様である。
この日を境に、ザッツ=スンも家長会議でいっさい姿を現さなくなったのだ。それぐらい、ザッツ=スンは重い病魔に見舞われていたようなのである。
しかしザッツ=スンは最後に凄まじい気迫を見せることで、小さき氏族の家長たちを威圧した。自分はどのような病魔を患おうとも、これまで通りの力でお前たちを支配するのだ、と――忌まわしい呪いをかけていったのだ。
もちろんドンダ=ルウは、そんな威圧に屈したりはしなかった。ダン=ルティムやレイの家長も、それは同様である。
ミギィ=スンは魂を返し、ザッツ=スンは病魔に倒れた。そして族長の座を受け継いだのは、柔弱なるズーロ=スンだ。この翌年の家長会議でザッツ=スンとミギィ=スンが両名とも姿を現さなかったことで、ドンダ=ルウたちはその事実を確信するに至ったのだった。
しかし――それでもなお、北の一族は健在である。
ザザとドムとジーンの狩人たちは、これまで通りの迫力で家長会議の場に臨んでいた。偉大なるザッツ=スンが病魔に倒れ、柔弱なるズーロ=スンがその跡を継いだのなら、自分たちこそがスン家の誇りを守るのだ、と――そんな気迫をあらわにしていたのである。
よって、状況は何も変わっていない。
病魔に倒れたザッツ=スンは狩人としての力を失ったのかもしれないが、その身に備わった執念だけでスンの血族を支配し続けていたのだ。
ルウの血族は、それを打ち破れるだけの力を手中にしなければならない。
そうしてドンダ=ルウたちは大きな変転を迎えつつ、それでも長きにわたって雌伏の時間を過ごすことになったわけであった。




