第三話 ひとつなぎの道(一)
2022.10/1 更新分 1/1
ドンダ=ルウがこの世に生まれ落ちたとき、ルウの集落には火の渦巻くような熱気がたちこめているように感じられた。
無論、生まれたての赤子がそうまで正しく世界の様相を見て取ることはできないだろう。ただ、ドンダ=ルウがもっとも古い記憶を辿ろうとすると、そこにはいつも真紅の烈火が吹き荒れていたような気がしてならなかったのだった。
ドンダ=ルウが生誕した頃、ルウはまだまだ今ほどの力を有しておらず、眷族もルティムとレイとミンしか存在しなかった。飢えに苦しむことも多く、若年で魂を返す人間も決して少なくはないはずであった。
「森辺の民っていうのはね、このモルガの森に辿り着くまでの間に半分の同胞を失い……モルガの森に辿り着いてからも、また半分の同胞を失うことになってしまったんだよ。黒き森からモルガの森までは、歩いて何ヶ月もかかるような距離だったっていうし……モルガの森でギバを狩るっていうのは、それだけ危険な仕事だからねぇ」
ドンダ=ルウにそんな話を聞かせてくれたのは、母たるティト・ミン=ルウである。ドンダ=ルウが生まれたとき、母はすでに22歳となっていた。
「わたしらの祖がモルガの森に辿り着いてから、もう40年ぐらいは経ってるのかねぇ。その間に、民の数が半分に減ってしまったから……おおよその家は、親筋の氏族とひとつになることになったんだよ。このルウも、すべての眷族を家人に迎えることで、なんとかルウの氏を守ることができたのさ。それでその後に、ルティムやレイやミンと新たな血の縁を結んだっていうわけだね」
まだ幼かったドンダ=ルウは、そんな母の言葉もしっかりとは理解できていなかった。よって、もう少し大きくなってから、自分の感じるものと世界の在りようを重ね合わせることがかなったのである。
(それじゃあ、自分が感じていたあの熱気というのは……何としてでも生き延びようという、そんな思いから生まれたものなのかもしれない)
いつしかドンダ=ルウは、そんな風に思うようになっていた。
また、物心がついてもなお、ルウの集落には熱気が感じられる。猛々しい、生命力の炎である。それはギバの肉やアリアやポイタンと同じぐらい、ドンダ=ルウの糧になっているのではないかと思えるほどであった。
「あんたの父親であるドグランも、その母親であるジバも、とにかく猛々しい気性だからねぇ。家長がそれだけの力を持っているから、家人のわたしらも強い気持ちで生きることができているのさ」
母たるティト・ミン=ルウは、そんな風にも言っていた。
確かにドンダ=ルウの父たるドグラン=ルウは、きわめて猛々しい気性である。ただし、むやみに怒鳴り散らすことはなく、いつも重々しい態度でありながら、炎のごとき気迫を纏わせていたのだ。
そんな気性を表しているかのように、ドグラン=ルウは燃える炎のように赤い髪をしている。確かに当時のドンダ=ルウにとっては、父の存在こそがルウの象徴であったのかもしれなかった。
ただし、祖母たるジバ=ルウもそれに負けていない。当時のジバ=ルウは40歳を少し過ぎたぐらいの年頃で、きわめて若々しい容姿をしており、身体などは幼子のように小さかったのだが――ドグラン=ルウに劣らぬほどの気迫を、その小さな身にひそめていたようなのである。
「ジバはね、長兄のドグランが一人前の狩人に育つまで、10年ぐらいもルウの家長として血族をまとめあげていたんだよ。女衆が一時的に家長の座をあずかるっていうのは、森辺でもない話じゃないようだけど……それだけ長きにわたって家長をつとめあげた女衆は、きっとジバが初めてだったんだろうねぇ」
しかもジバ=ルウは、自らの娘や分家の女衆を嫁入りさせることで、ルティムとレイとミンの3氏族を眷族として迎えてみせたのである。それがどれだけものすごいことであるか、ドンダ=ルウがそれを理解したのはもう少し齢を重ねてからのことであった。
女衆たるジバ=ルウが家長の座につくことになったのは、他に相応しい人間がいなかったためである。つまりジバ=ルウは、父親や兄弟や伴侶などを失うことで、新たな家長と定められたのだ。
おそらく当時のルウは力を失った眷族を家人に迎えたばかりであり、他に家長として相応しい血筋の人間も存在しなかったのだろう。分家というのはかつて眷族の血筋であった家であり、そちらに本家を移すということもかなわなかったのだ。
女衆として幼き子供たちの面倒を見ながら、家長として貧しさにあえぐ家人たちをまとめあげる。それがどれほどの労苦であるかは、女衆の身で家長を継いだジバ=ルウにしかわからぬことだろう。そういう過酷な環境が、ジバ=ルウにこれほどの気迫を与えたのだろうと思われた。
「だから、決してジバを怒らせちゃいけないよ。本当は、ドグランよりジバのほうが、よっぽどおっかないんだからね」
ティト・ミン=ルウはそのように語っていたが、それは語られるまでもないことであった。ドンダ=ルウの目には、ジバ=ルウの内にひそむ烈火の気迫が、目に見えるような心地であったのである。
ただしジバ=ルウもドグラン=ルウと同様に、滅多に声を荒らげることもなかった。とりわけ初めての孫であるドンダ=ルウには、深い情愛を抱いてくれていたのだ。ドンダ=ルウを抱きあげる手はとても温かかったし、ドンダ=ルウを見つめる目はいつも優しげであった。ドンダ=ルウもまた、父や母と同じように祖母たるジバ=ルウを愛していた。
ドンダ=ルウが幼かった頃、本家の家人であったのは両親と祖母、それに父の弟とその伴侶のみであった。通常、長兄を除く人間が伴侶を娶った場合は家を出る習わしであったが、むやみに家を分けても手間が増えるばかりであったので、父の弟も長らく本家で暮らしていた。
「あんたのところにも赤子が産まれたら、女衆ひとりで面倒を見ることもできないからね。分家の人間を頼るぐらいなら、あたしを頼ればいいさ」
次兄とその伴侶に対して、ジバ=ルウがそのような言葉をかけていたことがあった。そんな言葉を語るときも、ジバ=ルウはとても厳しい表情で、とても優しい眼差しをしていた。そして、父の弟の子やドンダ=ルウの弟妹たちが産まれた際は、我が身を粉にして面倒を見てくれたのだった。
「ドンダ。あんたもまだまだ幼いけれど、もっと幼い子供たちのために力を貸しておくれ。……この子たちと長きの生を送るのは、あたしじゃなくてあんたなんだからね」
ドンダ=ルウもまた、そんな言葉で助力を求められることになった。
最初の弟が産まれたときも、最初の妹が産まれたときも、父の弟に最初の赤子が産まれたときも、2番目の弟が産まれたときも――新たな赤子を迎えるたびに、同じ言葉を聞かされるのだ。そうして2番目の弟たるリャダ=ルウが産まれた頃にはドンダ=ルウももう6歳になっていたので、ジバ=ルウに言葉の意味を問い返すことになった。
「うん? あたしの言葉が難しかったかい? 何もそんな、難しい話じゃないはずだよ。あたしなんかはいつ魂を返してもおかしくないんだから、この赤子たちともそれほど長きの時間を過ごすことはできないはずなのさ」
ジバ=ルウは、ただ優しいだけでなく、ひどく透き通った眼差しでそんな風に言っていた。
「でも、あんたはこれからこの赤子たちと、長きにわたって同じ時代を生きる。だからあんたは、力を惜しまずに面倒を見ておやり。あんたの父親のドグランだって、そうして弟や妹や分家の赤子の面倒を見ていたんだからね」
ドンダ=ルウはジバ=ルウのそんな言葉によって、大人たちにも赤子や幼子の時代があったのだということを理解することがかなった。そして、父や祖母のように立派な人間になるために、精一杯の思いで幼子たちの面倒を見ることになったのだった。
そうしてドンダ=ルウが10歳となり、男衆の装束を与えられた頃――ルウは、新たな眷族を迎えることになった。ミンのそばに集落をかまえるという、マァムの家である。
「俺たちマァムもすべての眷族を家人として迎えることで、ようよう今日まで生き永らえることができた。しかしそれも、限界が見えてきている。親筋の座はルウに譲るので、俺たちを眷族として迎えてもらいたい」
ルウの本家を訪れたマァムの家長は、そのように語っていた。ルウでもあまり見ないぐらい立派な体格をした男衆で、その胸もとにはたくさんの牙や角が下げられている。誰もが貧しさにあえいでいたこの時代、これだけの体格を保持できるのは大したことであるはずであった。
「俺たちは、すでにルティムとレイとミンの家を眷族としている。それらをすべてあわせれば、血族はかなりの人数に及ぼう。それらのすべてを家族と同じように慈しむことが、お前たちにできるのか?」
「それには時間がかかろうが、何としてでも成し遂げたく思っている。そちらにも、どうか公正な目で見定めてもらいたい」
マァムの女衆がミンに嫁入りすることになったのは、それからひと月後のことである。
それはドンダ=ルウにとって、最初に心に刻みつけられた祝宴のさまであった。
もちろんドンダ=ルウはすでに10歳であるのだから、これまでに何度となく祝宴を見届けている。収穫祭は年に3度も行われていたし、年に1度はすべての血族をルウの集落に招いていたのだ。
しかしその日の祝宴には、ドンダ=ルウにとって忘れ難い華々しさと熱気が感じられた。人数としてはマァムの家人が20名ほど増えたのみであるのだが、それ以上の熱気と活力が渦巻いているように感じられたのだった。
それはきっと、新たな眷族を迎え入れるという喜びが上乗せされていたのだろう。
一時はすべての眷族を失ったルウ家が、ついに4つ目の眷族を迎えることになった。それも、狩人として確かな力を持つマァムの家である。ルウの血族はこれからさらなる繁栄を手中にするのだ、と――そのような決意を母なる森に示しているようにも感じられた。
「4つもの眷族を迎えたのは、きっとルウとスンぐらいだろう……これでルウの行く末も安泰かねぇ」
祝宴のさなか、儀式の火に横顔を照らされながら、ジバ=ルウはそんな風に語っていた。
ドンダ=ルウが10歳の頃、ジバ=ルウは53歳である。さすがにその顔には深い皺が刻みつけられ、小さな身体はいっそう小さく痩せ細っていた。ドンダ=ルウが成長したためか、それはずいぶんおとなしげな姿に見えてしまい――そして実際、ジバ=ルウの烈火の気性というのはずいぶんなりをひそめていたのだった。
それでもジバ=ルウは、ルウ家のもっとも苦しい時代を支えた、先代の家長だ。
ドンダ=ルウがジバ=ルウに抱く敬愛の心にはいっさいの変わりもなく、今後は自分が年老いたジバ=ルウを守っていくのだと、ドンダ=ルウは幼い心でそのように誓うことになったのだった。
それから3年後、ドンダ=ルウは13歳となり、見習いの狩人として働くことになった。
この頃には、ドンダ=ルウにも2名ずつの弟と妹が産まれている。今度は自分が家族のために力を尽くすのだと、ドンダ=ルウは奮起して狩人の仕事に励むことになった。
「5人もの子供がみんな『アムスホルンの息吹』をこらえて生き抜くなんて、そうそうないことだからねぇ。こんなに誇らしいことはないよ」
そのように語る母は、心から幸福そうな顔をしていた。
そしてその頃には父の弟もようやく家を出て、そちらでも3名の子を生していた。集落がこれほど幼子であふれかえるのはいつ以来だろうと、ジバ=ルウもひそかに涙をにじませて喜んでいた。
実のところ、ドンダ=ルウはそうまで貧しさにあえいでいたという記憶がない。食事はいつでも好きなだけ口にできたし、ルウの幼子が飢えや病魔で身罷るという話もそう多くなかったのだ。
それはきっと、年老いた人間が自らの食事を切り詰めてでも、幼子たちを飢えさせないようにと心を砕いていたのだろう。ジバ=ルウがあんなに痩せ細ってしまったのも、それが原因であったのかもしれなかった。
(だったら俺は、誰も飢えさせない。赤子も幼子も老人も、誰もが腹いっぱいで過ごせるような行く末をつかむのだ)
ドンダ=ルウは、そんな思いで仕事を果たすことになった。
齢を重ねれば重ねるだけ、父や他の男衆がどれだけの力量を持つ狩人であるかが実感できてくる。それに比べて自分は何と非力なのだろうと、歯噛みすることも少なくなかった。そんな口惜しさも糧にして、ドンダ=ルウは修練を積み、森にギバの影を追った。
そうして狩人となったことで、周囲との関係にも変化が生じた。これまでは家族をねぎらう立場であったドンダ=ルウが、家族にねぎらわれる立場となったのだ。母や祖母ももはやドンダ=ルウを子供あつかいすることはなく、それが何より誇らしかった。そして、自分が父とともに家族を守るのだと、そんな思いをますます強めることがかなった。
そして、同世代の友たちである。
幼い頃には遊ぶだけの相手であった者たちも、今ではともに修練に励み、狩人の仕事を果たす間柄となったのだ。それは友としてよりも同胞としての意識が高まったような心地であった。
そんな中、ドンダ=ルウが特に絆を深めた相手が、2名存在する。
ルティムの長兄と、レイの長兄である。
それはどちらも本家の長兄であり、どちらもドンダ=ルウより少しだけ年少であった。そうして祝宴などで顔をあわせると、彼らはひと足先に狩人として働き始めたドンダ=ルウのことを、ひどく羨望していたのだった。
「俺はまだ12歳だが、これほど身体が大きくなったのだから、森に入ることを許してもらいたいものだ!」
「まったくだな! 重要なのはギバを狩る力なのだから、年齢ではなくその身の力で決めるべきであろう!」
彼らはどちらも気性が激しく、なおかつ陽気でもあった。それで親筋たるドンダ=ルウにも、そんな遠慮のない言葉をぶつけてくるわけである。
ルティムの長兄はくりくりとした目をしており、いくぶん幼げな面立ちであったが、木登りや駆け足などは年長の男衆にも負けない力量であるという評判であった。なおかつ彼の母はジバ=ルウの娘であったため、その身にはドンダ=ルウと同じだけジバ=ルウの血が受け継がれているはずであった。
レイの長兄はドグラン=ルウと似た真っ赤な髪をしており、こちらもなかなかの腕力を持っていた。そしてその内には、やはり炎のごとき気迫を携えているようであった。
いずれ齢を重ねれば、彼らが眷族の家長として家人を率いていくのだ。そしてドンダ=ルウは親筋の家長として、そんな彼らをまとめあげるのが役割となる。そんな遥かな行く末を想像すると、ドンダ=ルウは胸の中が熱くなってやまなかったのだった。
そうしてドンダ=ルウが15歳となり、一人前の狩人と認められた頃には、彼らも見習いの狩人として森に出ることになった。そして彼らはかつての大口に恥じることのない勇猛さで、めきめきと力をつけていったのだった。
(本当に、頼もしい連中だ。あいつらであれば、何の不足もなく家人を率いることがかなうだろう)
そんな風に思うと同時に、ドンダ=ルウは父や祖母の偉大さを痛感させられることになった。
ドンダ=ルウはこの齢で一人前と認められ、狩人の衣を授かることになった。しかし父たるドグラン=ルウは、その瞬間に家長の座をも受け継ぐことになったのだ。
祖母のジバ=ルウが家長となったのは、もう少し齢を重ねてからになる。しかし、10年ばかりも家長の座を守ってきたということは、長兄のドグラン=ルウが5歳ていどの頃から家長の座を継いだということであり――両者の年齢差を考えると、それは25歳ていどの頃合いとなる。25歳ていどの女衆が、5歳ていどの幼子たちを抱えながら、家長として血族をまとめあげていたのだ。それはある意味で、15歳の男衆が家長となるよりも過酷な運命であるはずであった。
ようやく15歳となった今のドンダ=ルウに、家長の役割など務まるかどうか。
答えは、「否」である。ルウの血族は昔ほど貧しくもなく、4つもの眷族を抱える立場になっていたが、それならそれで数多くの血族をまとめあげなければならないという労苦も発生するのだった。
(無論、血族の数が少なく、貧しさにあえいでいたならば、さらに大きな労苦となろう。それでも父ドグランや祖母ジバは、強き力で血族を導いてみせたのだ)
それがどれだけ途方もないことであるか、ドンダ=ルウはこの齢でようやく痛切に実感できた心地であった。
ドグラン=ルウはきわめて卓越した力を持つ狩人であったので、まだまだ長きにわたって血族を導いてくれるだろう。しかしドンダ=ルウはそんな父の頼もしさに甘えることなく、1日でも早くルウの家長に相応しい器量を身につけなければならなかった。
そうしてそれから、3年後――18歳となった年に、ドンダ=ルウは伴侶を迎えることになった。
相手はひとつ年少の、レイの分家の女衆である。ドンダ=ルウが彼女を見初めたのは、次兄の婚儀の祝宴の場であった。もとよりドンダ=ルウは彼女の美しさに心をひかれていたが、その場で見せつけられた求婚の舞によって、完全に魂をつかまれてしまったのである。
両親はともに40歳、祖母のジバ=ルウは61歳の年となる。
その頃のジバ=ルウはすっかり老人らしい風貌となり、かつての烈火の気性などはもはや面影もなく、ひたすら優しげな眼差しでドンダ=ルウたちの婚儀を祝福してくれた。
「孫の婚儀を、2度も連続で見届けることができるなんてねぇ……あとはリャダの婚儀さえ見届けることができれば、あたしも思い残すことはないよ……」
末弟のリャダ=ルウはまだその年の生誕の日を迎えておらず、11歳である。
また、同じ孫であるルティムの長兄などは前年に婚儀を挙げて、すでに赤子まで授かっていた。
60歳を超えて生きる人間はルウでも珍しかったため、最近のジバ=ルウは長老などと呼ばれ始めている。もはや残りの生は、それほど長くないのかもしれないが――しかし、ルウを支えたジバ=ルウの血は、脈々と伝えられているのだ。たとえジバ=ルウが魂を返そうとも、その偉大さに変わりはないはずであった。
それから翌年には、ドンダ=ルウらも赤子を授かることができた。
身体が大きくて肉づきのいい、男児である。いずれはこの赤子が家長の座を受け継ぐことになるのかと思うと、ドンダ=ルウは頭の芯が痺れるほどに幸福であった。
(しかしその前に、まずは俺が家長の座を受け継ぎ、この子が育つまでしっかり守り通さなくてはならんのだ)
ドンダ=ルウはそのように考えたが、幸福なことに変わりはなかった。
そして両親と祖母もまた、同じぐらいの強い気持ちで赤子の生誕を祝福してくれた。
「これほど立派な男児であれば、立派な狩人に育つことだろう。お前が父として、正しき道を示してやるのだぞ」
「本当に、玉のような赤ん坊だねぇ。いつも笑ってるみたいに目を細めてるけど、それがまたたまらなく可愛らしいじゃないか」
「ああ……孫の婚儀だけじゃなく、孫の子の顔まで拝ませてもらえるなんてねぇ……この子やダン=ルティムの子なんかが、いずれルウの血族を導いていくことになるんだねぇ……」
ルティムの長兄のもとに産まれたのも、男児であったのだ。今にして思えば、初めての曾孫をそちらに先んじられたのが口惜しいところであった。
「それで……この子の名前は、もう決まったのかい……?」
ジバ=ルウがそのように問いかけると、ドンダ=ルウの伴侶たるミーア・レイ=ルウが「ええ」と笑顔で答えた。
「男児であれば、ジザにしようと……あらかじめ、そのように決めていたのです」
「ジザかい……いい名前だね……ただ、ちょっとばっかり、あたしの名前とまぎらわしいかもしれないけれど……どうせあたしなんて、そんなに長くはないだろうしねぇ……」
「いえ。どうか長老ジバは、末永く血族の行く末をお見守りください。……ジザという名は、ジバの名にあやかってつけさせていただいたのですよ」
ミーア・レイ=ルウがそのように答えると、ジバ=ルウは驚きに目を見開いてドンダ=ルウのほうを見やってきた。
しかしドンダ=ルウは口を開く手間をはぶいて、愛しき我が子の髪を撫でる。先代家長を敬愛する気持ちに変わりはなかったが、そのような思いを口で伝えるのはドンダ=ルウの性分ではなかった。
それから3年ほどは、時間が輝いていたように思う。
息子のジザ=ルウはすくすくと育ち、ルウとその血族はさらに強き力で仕事を果たし、もはや誰を飢えさせることもなく、豊かな暮らしを手に入れて――誰もが、この世の幸福を謳歌しているように感じられた。そしてジザ=ルウが3歳となった頃、ドンダ=ルウは2人目の子を授かることになったのだった。
次に産まれたのは、女児である。
こちらも肉づきのいい、輝くような可愛らしさであった。ヴィナ=ルウと名付けたその赤子も、兄に負けないほどよく乳を飲み、産まれて数日も経つとますます顔立ちがくっきりとしてきて、これは途方もない美人に育つに違いないと、訪れる人間がみんなやかましく騒ぎたてるほどであった。
そうしていよいよ、ルウの血族が華々しい熱気と活力を手中にしたとき――あの、おぞましい事件が起きたのだ。
ルウに嫁入りしたいと願い出たムファの女衆が、スンの狩人にかどわかされて、魂を返すことになったのである。
ルウ本家に2人目の子が産まれて、さらにムファという新たな眷族を迎えることになり、これ以上もなくわきたっていたルウの集落が、それで憤激と悲嘆の空気に閉ざされることになった。前々から族長筋たるスン家の横暴さは取り沙汰されていたが、これほどの暴虐が働かれたのは初めてのことであったのである。
「まさかスン家の人間が、そんな真似をするだなんてねぇ……あたしには、とうてい信じられないよ……」
烈火の気性を失ったジバ=ルウは、悲嘆に暮れるばかりであった。
しかしもちろんルウの血族の狩人らは、炎のごとき憤激を燃やしていた。なんの罪もない女衆をかどわかし、それを殺めるなど、決して許されることではないのだ。父たる家長に代わってスン家までおもむき、女衆の亡骸を引き渡されることになったドンダ=ルウは、本当にこの身から炎がわきあがるのではないかというほどに怒り狂っていた。
「あの忌まわしき男衆は愚にもつかない虚言を並べたて、罪はムファの女衆にあるなどと言いたてていた! あやつは、人の心を持っていない! どうして森辺にあのような存在が生まれついたのか、俺にはまったく理解できんぞ!」
そのように怒声をあげていたのは、ドンダ=ルウとともにスンの集落まで出向いたルティムの長兄、ダン=ルティムであった。なるべく事を荒立てないようにと、ルウの血族は若い人間だけでスン家に向かうことになったのだ。
しかし、さらわれた女衆はすでに魂を返しており、それを殺めたスンの男衆は自分に罪はないと言い張っていた。それでドンダ=ルウたちは、いっそうの怒りを抱え込むことになったのだった。
「スンの分家の家長、ミギィ=スン……最近のスン家がおかしくなったのは、すべてあやつのせいであろうと考えていた。よって、あやつが取り返しのつかぬ罪を犯せば、族長ザッツ=スンも処断するしかなく、スン家の道も正されようと考えていたのだが……ザッツ=スンはこれだけの事態に至っても、ミギィ=スンを処断しようとしなかったのだな?」
ルウの本家にて報告を受けたドグラン=ルウは、底ごもる声でそのように反問した。
「その通りだ!」と応じたのは、レイの長兄である。この場には、眷族の本家の長兄だけが集められていたのだ。そしてその場にいる人間は、誰もがダン=ルティムに負けぬ勢いで怒りをあらわにしていた。
「むしろザッツ=スンは、ミギィ=スンと一緒になって俺たちを嘲っていたのだぞ! そのそばに控えていたザザやドムの連中も、すっかりあやつらの言い分を信じ込んでいるようだった! もはやあのような者どもを、族長筋として認められるものか!」
「そうだ! あのような暴虐を許すことはできん! 森辺の族長に相応しいのはザッツ=スンではなく、ドグラン=ルウであろう!」
猛る若衆を前にして、ドグラン=ルウはただ爛々と青い目を燃やしている。その真っ赤に逆立った髪もまた、内心の怒りを表しているかに見えるほどであったが――しかしドグラン=ルウは、決して声を荒らげることもなかった。
「しかしザッツ=スンは森辺でもっとも力のある狩人であり、ザザやドムもスンに負けぬほどの力を備えている。お前たちも、それはその目で見届けたな?」
「うむ! しかし、そのようなことで怯む俺たちではないぞ!」
「おう! たとえこの身を引き換えにしてでも、あやつらを叩き斬ってくれよう!」
「そう。俺たちがスンとその血族を滅ぼすには、同じだけの血を流すことになろう。スンの血族が滅ぶとき、ルウの血族もまた滅ぶのだ」
ドグラン=ルウはその内に渦巻く激情をねじ伏せるようにして、重々しくそう言った。
「俺や眷族の家長たちは、何年も前からその事実を思い知らされていた。しかし、本家の長兄たるお前たちは家長会議の際にも家を守る役割があったため、その目でやつらの力を見定める機会がなかった。それでこのたびは、お前たちをスン家に送りつけたのだ」
「うむ? それはどういう――」
「俺たちは、必ずやスン家を討ち倒す。しかし、ともに滅ぶことは許されんのだ。血族の狩人が死に絶えてしまえば、残される女衆や幼子も魂を返すことになるのだからな」
ドグラン=ルウの静かな気迫が、さしものダン=ルティムたちを黙らせた。
「俺たちは、スンとその血族を圧倒できるほどの力をつけなければならん。それには、長きの時間がかかることであろう。そうして俺やお前たちの父親は、すでに力の盛りを過ぎているのだから……お前たちの成長こそが、何より重要であるのだ」
「そ……それではみすみす、スン家の罪を見逃そうというのか?」
「見逃すのではない。スン家を確実に滅ぼせるだけの力を、手中にするのだ。まずお前たちは、それぞれの父親を越えてみせろ。それだけの力を身につけなければ、愛する家族を守ることもままならんと知れ」
それが、ルウの家長たるドグラン=ルウの決意と覚悟であった。
ダン=ルティムらは唇を噛んで退去し、ドンダ=ルウは寝所に向かう。すでにとっぷりと日は暮れて、子供たちはすっかり寝入っていたが、伴侶のミーア・レイ=ルウは寝ずにドンダ=ルウの帰りを待っていた。
「お疲れ様でした、ドンダ。ずっとダン=ルティムたちの大きな声が聞こえていましたけれど……やはり、スンとの戦になるのでしょうか?」
ドンダ=ルウは「いや」とだけ答えて、伴侶のかたわらに膝を折った。
そして、安らかに眠る子供たちの髪を、そっと撫でる。
血族の狩人が死に絶えれば、この子供たちも死に絶えるのだ。
だからドグラン=ルウは、あれほどの怒りを抑え込むことができるのだろう。血族に迎えるはずであった女衆を奪われ、この身が燃えるほどの激情をかきたてられながら――それに耐え忍ぶ道を選んだのだった。
(やっぱり俺は、まだまだ親父にかないそうもない。だが……いずれ必ずや、この手で血族の無念を晴らしてくれよう。それが、次代の家長たる俺たちの役割であるのだ)
そんな情念を抱え込みながら、ドンダ=ルウは限りなく苦い一夜を明かすことに相成ったのだった。




