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異世界料理道  作者: EDA
第七十三章 群像演舞~八ノ巻~
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     東の風と北の銀花(中)

2022.9/29 更新分 1/1

 翌朝――アルヴァッハは、幼子たちのはしゃぐ声を聞きながら目を覚ますことになった。

 そうしてアルヴァッハがまぶたを開くと、こちらを覗き込んでいた男女の幼子がきゃあきゃあとはしゃぎながら逃げまどっていく。その姿に、年配の女が優しく「こら」と声をあげた。


「客人たちはお疲れなんだから、邪魔をするんじゃないよ。……悪かったね。かまわないから、好きなだけ寝ていておくれ」


「否。眠り、十分である」


 そのように答えながら、アルヴァッハは半身を起こした。

 北の自由開拓民たちが住まう、山小屋の中である。夜の間も薪が燃やされていたために室内は温かく、それでアルヴァッハはひさかたぶりに安楽な眠りを授かることがかなったのだった。


 朋友たるナナクエムは、まだ毛皮の外套をひっかぶって寝入っている。しかし、その寝顔も安らかなものだ。アルヴァッハは父たる東方神とその兄弟たる北方神に感謝の祈りを捧げてから、部屋の内を見回してみた。

 年配の女と若い娘は敷物の上に座し、ほぐした草で縄を編んでいる。男女の幼子はそれらの背中に隠れつつ、好奇心にきらめく紫色の瞳でアルヴァッハの姿を見やっていた。


「……主人、子息、何処であろうか?」


「ふたりは、薪を集めに行ったよ。まだまだ吹雪はおさまりそうにないけど、それならなおさら薪が必要になるからねぇ」


「外、出向いたのであるか? ムフル、危険である」


「こんな吹雪じゃ、ムフルだって縮こまってるだろうさ。それに、凍え死ぬぐらいなら、ムフルを相手取るべきだろうよ」


 そう言って、女は温かく微笑んだ。


「あんたたちだって、ムフルを狩る一族なんだろう? もしも男衆の留守にこっちが襲われたら、存分に頼らせていただくからね。毒の武器ってやつも、そっちに返しておいたよ」


 女の指し示すほうを見ると、背後の壁に弓と矢筒がたてかけられていた。ナナクエムの毒の短剣も、大事そうに置かれている。

 アルヴァッハたちに毒の武器を返し、女衆と幼子だけを残して、家を出ていったということは――主人もその子息も、アルヴァッハたちを信用してくれたということなのだろう。アルヴァッハは敷物の上で膝をそろえて、昨日から何度も捧げている感謝の礼を繰り返してみせた。


「貴殿ら、信頼、報いよう。ムフル、現れたなら、生命、賭して、戦うこと、約束する」


「そんなに気張らなくても、ムフルなんてそうそう姿を現すもんじゃないさ。あんたたちはまだ身体が弱ってるんだから、ゆっくり休んでおきなさいな」


 女がそのように言いたてると、娘のほうも同意するように微笑んだ。娘はこの一家でもっとも寡黙な気質であるようだが、善良さに差はないようである。


 アルヴァッハは「いたみいる」と応じてから、あらためて部屋の様子を見回した。

 簡素な造りの、丸太小屋である。足もとには毛皮の敷物が敷きつめられているが、壁などは丸太が剥き出しだ。ただし、丸太と丸太の隙間には木屑と土を練り合わせたものが詰め込まれており、防寒の工夫が凝らされている。窓の鎧戸や石造りの暖炉も、立派なものであった。


「……こちら、4人で、築いたのであるな? 造作、見事である」


「ああ。だけど、ムフルの縄張りがそんなに近いんじゃ、危なっかしくてしかたないし……何より、東の地に勝手に住まうことは許されないしねぇ。吹雪がやんだら、出ていくしかないよ」


「故郷、戻るのであるか?」


「まあ、そういうことになるだろうね。どんなに居心地が悪くったって、あたしらは山を母とする身だからさ。ここが東の山だってんなら、あたしらの居場所じゃないってことだよ」


「なるほど」と、アルヴァッハは息をついた。

 すると足もとから、『落胆しているな』という東の言葉が聞こえてくる。


『貴殿の思惑は、わかっているぞ。この家の子息を料理番として迎えたいなどと夢想していたのであろう? しかし貴殿が何を望もうとも、北の自由開拓民を屋敷に迎えることなど不可能であるはずだ』


『ナナクエム、目覚めていたか。恩人の前で、東の言葉を使うのは礼を失しているように思う』


『貴殿とて、昨晩は東の言葉を長々と並べたてていたではないか』


 そんな風に言いながら、ナナクエムはゆっくりと身を起こした。そうしてアルヴァッハと同じように膝をそろえて、女衆らに感謝の礼を捧げる。


「安楽な眠り、感謝する。……主人、子息、別室であろうか?」


「主人、子息、薪拾いである」


 同じ説明を繰り返させるのは申し訳なかったため、アルヴァッハがそのように答えてみせた。

 するとナナクエムは眼光を鋭くしながら、アルヴァッハに向きなおってくる。


『外には、ムフルが徘徊している。しかもあのムフルは、我々との戦いで手負いとなっているのだ。手負いのムフルほど、危険なものはあるまい』


『承知している。しかし、我が目覚めたときには、すでに家を出た後であったのだ』


『危険だな。我々も、助力に出向くべきであろう』


 ナナクエムは年配の女に向きなおり、北の言葉で同じ内容を伝えた。

 しかし女は、ゆったりとした笑顔で首を横に振る。


「お気遣いはありがたいけど、伴侶も息子も狩人の端くれだからねぇ。心配はご無用だよ」


「しかし――」とナナクエムが食い下がろうとしたので、アルヴァッハがそれを押しとどめた。


「我々、家、守るべきである。そのため、武具、返却されている。我々、主人の信頼、応えるべきであろう」


「そうそう。あんなむさ苦しい男どもより、か弱き女衆の心配をしておくれよ」


 年配の女はおどけたように笑い、若い娘はやわらかく微笑む。彼女たちも心から家族の身を案じつつ、その上で信頼して送り出したのだ。ナナクエムもそれを理解した様子で、「そうか」と息をついた。


「心、乱してしまい、恥ずかしく思う。我、未熟者である」


「そういえば、あんたたちはまだずいぶん若そうだよね。東のお人ってのは、ちょいと年齢の見当がつけにくいんだけど……あんたたちは、何歳なんだい?」


「我、16歳である」


「我、15歳である」


「あれまあ」と、女は目を丸くした。娘のほうも、同様である。


「若いだろうとは思ってたけど、まさかうちの息子より若いとは思ってなかったよ。そっちのあんたなんて、上背だけなら息子よりもありそうなぐらいだもんねぇ」


「うむ。これもまた、北の血である。我々、ゲルドの民、マヒュドラ、血の縁、重ねることで、またとなき力、得たのである」


「なるほどねぇ。あたしらなんかはずっと山にこもってるもんだから、こんなすぐそばに住まってるゲルドのお人らのことも、何もわかっちゃいないんだよ。あんたたちと巡りあわせてくれた神々に、感謝の念を捧げなくっちゃね」


「そうですね。でも……勝手に東の地に小屋などを建ててしまい、何かの罪に問われたりはしないのでしょうか?」


 寡黙なる娘が不安げな声をあげたので、アルヴァッハは「否」と答えてみせた。


「貴殿ら、救いの手、差し伸べてくれた。ゲルド、恩人、罰する法、存在しない。心配、無用である」


「でも……罰を下すかどうかを決めるのは、貴族とかそういうお人たちなのでしょう?」


「我々、ゲルド、貴人である」


 ナナクエムはいくぶん止めたそうな目つきをしていたが、アルヴァッハはかまわず告白してみせた。

 娘ばかりでなく、女のほうもけげんそうに首を傾げる。


「貴人ってのは、貴族のことかい? どうして貴族様が、こんな山奥でムフル狩りなんかに励んでいたのさ?」


「ゲルド、狩人の一族である。ムフル、自らの手、狩ること、力の証である。貴人、誇りであり、通過儀礼である」


「はあ……よくわからないけど、あんたがたが虚言を吐くことはなさそうだよねぇ」


 そう言って、女はにこりと微笑んだ。


「でも、あたしらは貴族様のもてなしかたなんて、何もわきまえちゃいないからね。粗相があっても、ご勘弁をお願いするよ」


「気遣い、無用である。貴殿ら、親切、報いること、約束する」


 アルヴァッハがそのように答えたとき、帳の向こうから扉の軋む音がした。

 アルヴァッハとナナクエムは、すぐさま足もとの刀を引っつかむ。しかし、年配の女は変わらぬ表情で微笑んでいた。


「ようやく男衆が戻ってきたみたいだね。あたしが見てくるから、あんたがたはゆっくりしてなさいな」


「否。用心、必要である」


 アルヴァッハとナナクエムは取り上げた刀を腰に差し、弓と矢筒を肩に負う。さらにナナクエムは、毒の短剣を帯に差し入れた。

 そうして3名で帳の外に出てみると、雪まみれの主人と若者が扉を開け放しにしたまま、荒い息をついている。その足もとには、やはり雪まみれの薪が山積みになっていた。


「畜生め。これだけの薪を掘り出すのもひと苦労だったぜ。……なんだ、ずいぶん物々しいお出迎えだな」


「ムフルが出るんじゃないかって、客人たちも心配してくれたのさ。こんな吹雪の中、お疲れ様」


 女は慈愛のあふれる声でそのように言ってから、ぶるりと身を震わせた。


「やっぱり外は、大変な寒さだねぇ。早いところ、扉を閉めておくれよ」


「こう風が強くっちゃあ、扉を閉めるのもひと苦労なんだよ。……東方神ってのは、風を司る神様なんだろう? あんたがたのお祈りか何かで、とっとと吹雪をおさめてくれねえかなぁ」


 おどけた調子で言いながら、若者が開け放しの扉に手をかけようとする。その向こう側は、豪雪の吹き荒れる白と灰色の世界だ。

 そして――アルヴァッハはその一点に、他とは異なる灰褐色の影を見出した。

 それを知覚すると同時に、アルヴァッハは床を蹴って若者のもとに駆けつける。そしてほとんど若者を突き飛ばすようにして、扉を叩き閉めることになった。


「な、なんだよ。そんな乱暴にしなくても――」


「ムフルである。即刻、身、引くべし」


 アルヴァッハは床に落ちていたかんぬきを掛け、両腕で主人と若者を後方に追いやった。

 若者はきょとんとしているが、主人のほうはその手の斧を握りなおしている。その紫色の瞳も、爛々と燃えていた。


「ムフルだと? おい、それは確かな話なんだろうな?」


「確かである。身、引くべし」


「家の中で、逃げ場なんてあるもんかよ。こいつで頭を叩き割ってやらあ」


「否。毒の矢、有効である。我々、一任するべし」


 アルヴァッハがそのように答えたとき、落雷のごとき音色とともに小屋が揺れた。

 同時に、頑丈そうな扉が呆気なくひしゃげる。ムフルがその爪を扉に叩きつけたのだ。


「お前は部屋に戻れ! 絶対こちらに出てくるなよ!」


 主人の言葉に従って、女は帳の向こうに消え去った。

 そして若者は自分の斧を握りしめながら、決死の形相で帳の前に立ちはだかる。それを横目に、アルヴァッハは弓に毒の矢をつがえた。

 ナナクエムもまた一瞬遅れて、同じように弓を構える。その顔は緊張の色をあらわにしていたが、臆する気配は皆無であった。


 扉が斜めに傾いだために、隙間から雪と寒風が吹き込んでいる。

 そして次の瞬間には、再びムフルの爪が振るわれて――扉が、土間に倒れ込んできた。


 四角く空いた空間に、荒れ狂う吹雪のさまを背後にして、ムフルの巨体があらわにされた。

 いや――あまりに巨体であるために、まだ全容は判然としない。そのムフルは上背も横幅も、小屋の入り口を上回る大きさであったのだった。


 その巨体ごしに吹き込んでくる風の流れまで計算に入れつつ、アルヴァッハは矢を放つ。

 ほとんど同時に、ナナクエムの矢も放たれた。

 アルヴァッハの矢はムフルの右胸に、ナナクエムの矢は左脇腹に命中した。


 ムフルは地鳴りのごとき咆哮をあげ、その場にうずくまる。

 しかし、絶命はしていない。そして身を伏せたために、その凶悪な顔貌がアルヴァッハたちの前にさらされた。


 暗灰色の毛に覆われた、巨大な頭である。

 その目は憤激の炎を燃やし、めくれあがった口からはぞろりと牙が覗いている。人間の肉体など簡単に噛み砕くことのできる、強靭な牙であった。


 小山のように盛り上がった背中は、ところどころが赤褐色の血に汚れている。やはりこのムフルは、一昨日アルヴァッハたちが仕留め損なったムフルであるのだ。あの際は吹雪の到来とともに襲撃を受けたので、毒矢を使うこともままならなかったのだった。


(だが今も、2本もの毒矢をくらって絶命する気配がない。おそらく風の勢いに負けて、矢の当たりが浅かったのだ)


 そのように判じたアルヴァッハは弓を捨て、腰の刀に手をのばした。

 ナナクエムも同じように弓を捨て――そして、ムフルのほうに躍りかかった。


 ムフルは巨体を斜めに倒して、土間に這い込もうとしているさなかである。

 その首に、ナナクエムは短剣を突きたてた。

 毒を塗布した、『ド』の短剣だ。


 ムフルは再び咆哮をあげて、ナナクエムの身に牙を突き立てようとする。

 しかし巨体でありすぎるため、両方の肩が入り口の壁に激突する。その隙に、ナナクエムは素早く後方に引きさがった。


 ムフルは狂おしげにうめきつつ、なんとか巨体をよじって土間の内に這いずり込み――そして、ようやく腰まで侵入したところで、ついに力尽きたのだった。


「し……死んだのか?」


「うむ。ムフルの魂、天、召された。我々、勝利である」


 アルヴァッハは息をつきつつ、刀の柄にのばしていた手を下ろした。

 ナナクエムはさらに荒い息をつきながら、魂を召されたムフルの姿を見下ろしている。わずかに震えをおびたその肩に、アルヴァッハはそっと手を置いてみせた。


『ナナクエム、見事な手際であった。これは、貴殿の誉れである』


『……もともと我は、このために狩り場へと出たのだからな』


 そのように答えながら、ナナクエムは自分の口もとに手をやった。初めてムフルを仕留めた喜びと誇らしさで、表情が乱れてしまうのだろう。アルヴァッハもまた祝福の気持ちを込めて、その肩を強くつかんでみせた。


「たった2本の矢と短剣の一撃だけで、こんな馬鹿でかいムフルを仕留めちまうとはな。シムの毒ってのは、恐ろしいもんだ」


 主人は額の汗をぬぐいながら、そのようにつぶやいた。

 若者のほうは、帳の前でへたり込んでしまっている。しかしその顔に浮かべられているのは、安堵と感嘆の色であった。


「こんな馬鹿でかいムフルを見たのは初めてだよ。俺たちの斧だけじゃあ、こいつを仕留めるのは難しかったろうな。あんたたちは、生命の恩人だ」


「否。こちら、2日前、我々、遭遇した、ムフルである。背中の傷、その証である。我々、2日前、取り逃がしたため、手負いとなり、狂暴さ、増したのである」


 アルヴァッハは、そのように答えてみせた。


「それゆえに、貴殿ら、危険、及ぼす事態、至ったのである。深く、陳謝したい、思っている」


「謝る必要なんて、ありゃしないさ。とにかくこいつは、あんたたちの手柄だ」


「ああ。吹雪がやんだらこいつを持ち帰って、家族にでも自慢するがいい。お前さんがたは、大した狩人だよ」


 主人のほうも、勇ましい面持ちでアルヴァッハたちに笑いかけてくる。

 それを見返しながら、ナナクエムは一礼した。


「貴殿ら、厚意、感謝する。では、首から上、毛皮、持ち帰りたい、思う」


「あん? そんなもんより、重要なのは肉だろうがよ。……もしかして、毒で仕留めたムフルは、肉も台無しになっちまうのか?」


「否。バナギウズの毒、熱すれば、消失する。火、通せば、食用、可能である」


「だったら、引きずってでも持ち帰りな。……いや、ふたりでこんな大物を持ち帰ることはできねえか。だったら雪の中に埋めておいて、あとで取りにくりゃいいさ」


「否。貴殿ら、親切、報いるため、こちらの収獲、捧げたい、思う。アルヴァッハ、異存、あろうか?」


「異存、皆無である。ナナクエムの収獲、どう扱おうと、ナナクエム、自由である」


 そのように答えてから、アルヴァッハは若者の呆れ返った顔を見据えた。


「ただ……貴殿、ムフルの肉、如何なる料理、生み出すか、強い興味、抱いている。よければ、所望、願えるであろうか?」


「はあ……あんたたち、欲がないのか欲深いのか、さっぱりわからねえなぁ」


 そうして若者が笑い声をあげたところで、背後の帳から「ちょっと」という女の声が響いた。


「そっちは何を呑気に語らってるんだい。ムフルを仕留めたんだったら、さっさとあたしらを安心させてくれないもんかねぇ?」


「ああ、悪い悪い! みんな、こっちに来てみろよ! こんな凄い獲物は、なかなかお目にかかれないからな!」


 年配の女と若い娘、それに男女の幼子たちが、おそるおそる顔を覗かせる。そうして誰もが、驚嘆に目を見開くことになったのだった。


                  ◇


 その後は幼子を除く全員が一丸となって、ムフルの始末をつけることになった。

 まずはムフルの巨体を土間に引きずり込んで、破壊された扉を補修する。ムフルは人間4人分ぐらいの重量であったため、それだけでも大変な苦労であった。


 ただし、アルヴァッハたちも北の民たちもムフル狩りの一族であったので、処置に困ることはない。毛皮を剥いで、内臓を抜き、肉を部位ごとに解体していく。そのさまを、幼子たちは目を輝かせて見守っていた。


「いずれはお前たちも、こうしてムフルの始末をつけることになるんだからな。しっかり手順を覚えておくんだぞ」


 主人は厳しい表情と優しい眼差しで、そのように語っていた。

 約束通り、首から上の毛皮だけはナナクエムに与えられる。これは自らの手でムフルを仕留めた証として、故郷に持ち帰るのだ。もはやナナクエムも表情を乱すことはなかったが、その瞳はずっと誇らしげに瞬いていた。


 そして、肉は必要な分だけ取り分けて、残りは毛皮に包んで雪の中に埋められる。肉を燻製に仕上げるには吹雪がおさまるのを待たなければならなかったので、ひとまずはそうして保存するしかなかったのだ。また、自由開拓民である彼らが、これだけの肉を塩漬けにできるほどの塩を持ち合わせているわけもなかったのだった。


「塩なんてもんは、町まで出向いて買いつけるしかないからな。しかも俺たちは集落を出た身だから、ろくろく持ち合わせがないんだよ」


「うむ。今日の調理、不足、ないだろうか?」


「ああ。香草や野菜も心もとないところだが、この吹雪だって明日ぐらいにはおさまるだろうさ」


 そうして肉と毛皮の始末をつけた後は、ついに調理が始められることになった。

 それを手掛けるのは、主人を除く3名である。ただし、女衆に指示を出すのは若者の役割であった。


「相手がムフルだと、血抜きするゆとりなんざそうそうないからな。他の獲物に比べると、どうしても臭みが出ちまうもんだ。そいつはもう、徹底的に肉を洗うしかない。……って、あんたたちもムフルを食ってるなら、そいつは先刻承知だろうな」


 そんな風に語りながら、若者は作業を進めていった。

 ムフルの肉は、幼子でもひと口で食せるぐらいの大きさに切り分けられる。これは幼子への配慮ではなく、小さく切り分けたほうが臭みを取りやすいためだ。

 切り分けた肉は、雪を溶かしたたっぷりの水で下茹でする。その際に生じる灰汁の量は、ギャマや野鳥やランドルの兎の比ではなかった。これはアルヴァッハも承知していたが、この灰汁こそが臭みの原因であるのだ。よって若者は、妥協することなく灰汁の除去に努めていた。


 そうして下茹でした肉は、別に沸かした湯で洗浄する。文字通り、指でもんで洗うのである。そこで文句をつけたのは、父親たる主人であった。


「集落でも、そんな真似をする人間は他にいなかった。そんな汚れ物みたいに肉を洗っていたら、大事な滋養も流されちまうんじゃねえか?」


「こいつは肉の中に残ってる血を洗い流してるんだよ。血抜きをしたムフルだって、滋養がないわけじゃないだろう? こうして俺たちは健やかに生きてるんだから、きっと大丈夫さ」


「うむ。ゲルドにおいても、肉の滋養、水、溶けることはない、伝えられている」


 アルヴァッハがそのように言葉を添えると、若者はいっそう意気揚々と肉の洗浄に勤しんだ。

 そうして灰汁が出なくなるぐらい入念に肉を洗ったならば、ついに煮込みの開始である。そこで若者が持ち出してきたのは、ゲルドでもよく使われるユラル・パであった。ゲルドもマヒュドラも山あいの土地は気候がほぼ同一であるため、同じような野菜が収穫されているのだ。


 ただ若者は、持ち出したユラル・パを半分しか鍋に投じなかった。

 そうして鍋を火にかけながら、半分のユラル・パは脇によけられたままである。なるべく黙って見届けようと考えていたアルヴァッハも、そこで疑念を呈することになった。


「ユラル・パ、半分、取り分ける意図、何であろうか?」


「うん? ああ、こいつをあらかじめ一緒に煮込むと、いっそう肉の臭みが消えるみたいなんだけどさ。でも、肉は二刻や三刻も煮込まないといけないから、そうするとユラル・パもみんな溶けちまうんだよ。とろとろに溶けたユラル・パも美味いことは美味いけど、どうせだったらもともとの噛み応えも楽しみたいだろ? だから、半分は後から加えるようにしてるってわけさ」


 アルヴァッハはなかなか自分の真情を北の言葉で表現できなかったため、ただ「素晴らしい」としか言えなかった。


 その間に、若者は香草をも鍋の中に投じていく。アルヴァッハはたちまち居住まいを正したが、若者の手つきは無造作で、味見のひとつもしようとはしなかった。


「どうせじっくり煮込んでる内に、もとの味なんて変わり果てちまうんだからな。こんなもんは、適当だよ」


 若者は、苦笑まじりにそう言った。

 ここで香草を投じるのは、味付けというよりも臭み取りとしての意味合いが強いのだろう。若者は3種の香草をひとつかみずつ鍋に投じるとそのまま蓋を閉めてしまったため、アルヴァッハもひとまず身を引くしかなかった。


 そうして鍋が煮込まれている間、他の家人はめいめい好きに過ごしている。もとより雪山で暮らす人々は暖を取るために一日中火を焚いているので、それを調理に活用することが許されるのだ。ムフルの肉をやわらかく仕上げるには長時間の煮込み作業が必要であるため、それも幸いな話であった。


 その時間は若者も談笑していたが、時おり鍋の蓋を開けては灰汁を取ることを忘れない。ただそれは、おそらく香草やユラル・パから出ている灰汁であるのだろう。入念に洗われたムフルの肉は、ただ透明な脂と出汁だけを出しているように思えてならなかった。


 それから二刻ほどが経ち、ついに灰汁がまったく出なくなってきた頃合いで、若者が次なる動きを見せた。再び香草の袋を取り上げて、味付けを開始したのだ。

 3種の香草の内容は、昨晩と同じものである。ただしそれらの香草は、いずれも粗挽きと細挽きのものが準備されており、若者は入念に味を確かめながらそのひとつずつを鍋に加えていった。


(味付けは、塩と3種の香草のみか。我の屋敷であれば、魚醤やマロマロのチット漬けを加えるところであるが……それらはいずれも、ドゥラから買いつけた食材だ。マヒュドラの自由開拓民に、ドゥラの食材を買いつける機会はあるまいな)


 どれほど臭みを取ろうとも、ムフルの肉には独特の強い風味が存在する。それを塩と香草だけでどのように調和させるつもりであるのか、アルヴァッハの興味は尽きなかった。


 そうしてアルヴァッハが若者の調理に注目している間、ナナクエムは幼子たちの相手をさせられている。ムフルを仕留めたのがナナクエムであると聞き、幼子たちはすっかり心をとらわれてしまったのだ。拙い北の言葉で幼子たちを相手取るのは大変な労苦であったろうが、ナナクエムは持ち前の誠実さで懸命に答えているようであった。


「えー! それじゃああなたたちは、シムのきぞくさまなの?」


 と、年配の女からアルヴァッハたちの素性が語られると、幼子たちばかりでなく主人や若者も目を丸くした。


「うむ。ただし、若年であるため、責任、生じる仕事、受け持っていない。貴人、名ばかりである。今後、貴人、相応しい働き、果たす所存である」


「ふうん? 貴族様なんて、お屋敷でふんぞりかえってりゃいいんじゃないのかい?」


「否。領民、健やかな生活のため、尽力する、貴人、務めである」


 ナナクエムが生真面目に答えると、主人や若者は笑い声をあげた。


「どこまでが本当の話かもわからねえけど、お前さんがたが本当に貴族様なら、王国の民ってのも悪いもんじゃないのかもしれねえな。ま、自由開拓民である俺たちには、関わりのない話だけどよ」


「うむ。しかし、北と東、友である。貴殿ら、健やかな行く末、願っている」


 ナナクエムは、穏やかな声音でそのように答えていた。

 その間に、調理は最後の工程に差し掛かっている。脇によけていたユラル・パも投じられ、半刻ほど煮込まれて、その末に塩と香草でまた味を調えられて――それでついに、完成であった。


「待たせたな。ムフルの汁物の完成だ」


 若者の宣言に、幼子たちがはしゃいだ声をあげる。

 無表情を取りつくろいつつ、アルヴァッハもそれと同様の心持ちであった。主人の男も仏頂面をこしらえつつ、目もとに浮き立った気持ちがこぼれている。


「ようやく完成か。こんな吹雪じゃ昼か夜かもわからねえけど、すっかり腹が空いちまったよ」


「それだけ腹が空いてりゃあ、いっそう満足な気持ちで食えるだろうさ。……まあ、貴族様のお口に合うかはわからないけどな」


 若者は気さくに笑いながら、煮汁を木皿に取り分けていった。

 塩と3種の香草に、ムフルの肉とユラル・パ。メレスが入っていない分、昨日よりもさらに簡素な料理と言えるだろう。しかし、ムフルは野鳥よりも強烈な風味を有しているため、実に力強い香りが部屋中に満ちていた。


 アルヴァッハはナナクエムとともに食前の礼をして、木匙を取る。

 本日はすべての家人がアルヴァッハの動向に注目していたが、こちらの気持ちはすべて料理のほうに持っていかれていた。

 そうして昨日よりも強い期待を胸に、アルヴァッハは木匙を口に運び――期待を上回る喜びと驚きを授かったのだった。


「どうだい? 昨日の鍋に負ける出来栄えではないと思うんだけどな」


 若者がそのように問うてきたので、アルヴァッハは「きわめて、美味である」と答えてみせる。しかし、それだけの言葉で胸の昂りを抑えられるわけがなかった。


『ムフルの肉は入念に煮込まれているため、ランドルにも負けないやわらかさとなっている。しかしそれでも心地好い噛み応えが残されているのは、火加減が絶妙である証である。暖を取るための暖炉では火の加減もままならぬのに、鍋の位置をずらすことで強火と弱火を使い分ける手腕には、きわめて感服させられた。……また、3種の香草は昨日と同様に完全な調和を見せている。ただし、肉も野菜も具材が異なっているのだから、当然のことながら香草の分量にも手が加えられている。それで、同じ香草を使いながら、まったく異なる味わいが完成されているのである。舌の作りが鈍い人間には、同じ香草しか使われていないなどとは信じ難いほどの差異であろう。こちらの料理は昨日の料理よりも辛みと清涼感が強く、苦みが抑えられている。そしてそれが香草の分量のみでなく、挽き方の加減で調整されていることを、我はこの目で見届けることがかなった。さまざまな料理に対応できるように、あらかじめ異なる加減で挽いた香草を準備しているという其方の周到さに、我は感服させられている。それは言わば、3種の香草を6種に増やしたも同然の功績なのである』


「あ、いや、東の言葉で何を言われても、俺たちにはさっぱりわからねえから……」


『そして特筆するべきは、ユラル・パの扱いであろう。確かに最初から投じられていたユラル・パは、ほとんど原型を留めぬほどに溶け崩れてしまっている。しかしこれは肉の風味を調和させるための工夫であるのだから、ゲルドにおいてもよく見られる手法である。ただし我の屋敷において、溶け崩れたユラル・パは食する前に除去されていた。こうまで溶け崩れたユラル・パは、料理の味を阻害する恐れが生じるためである。しかし其方は溶け崩れたユラル・パの食感をも活用し、味の調和を成している。とろりと溶け崩れたユラル・パが塩気や香草や出汁を内包しつつ、肉と溶け崩れていないユラル・パに纏わりつき、実に趣き深い食べ心地を作りあげているのだ。それは食材を無駄にしまいという思いから生まれた手法なのであろうが、溶け崩れたユラル・パを除去するよりもさらに高い完成度を目指せるのは、其方に確かな舌と手腕が備わっている証に他ならない。其方が天性の料理番であるという事実を、我は迷いなく断言したく思っている』


 それだけ言って、アルヴァッハは重く息をついた。


「……気持ち、抑えられなかったため、東の言葉、語る他なかった。失礼、容赦、願いたい」


「いやあ、さっぱり意味がわからないんだから、失礼もへったくれもないけどさ。……でもまあ、あんたが満足できたんなら、何よりだよ」


 若者は、どこかくすぐったそうな顔で笑っている。

 娘は伴侶をねぎらうような微笑をたたえており、年配の女は温かい笑顔、主人の男は苦笑であったが――ともあれ、全員が笑顔であったのは幸いなことであった。もとより幼子たちは、料理の素晴らしい味わいで最初から笑顔であったのだ。


(本当に……野に放っておくのは惜しいほどの手腕だ)


 ナナクエムに指摘されるまでもなく、アルヴァッハはこの若者を屋敷の料理番に迎えたいと熱望していた。

 しかし、彼らの織り成す和やかな空気に包まれていると、そんな思いも腹の底に引きずり戻されてしまう。自由開拓民というのは、母なる自然の中にこそ幸福を見出すものであるのだ。


 よって、アルヴァッハは無言のままに食事を進めることになった。

 彼らがもとの集落に戻るのであれば、アルヴァッハがこの若者の料理を口にするのもこれ限りとなるだろう。であれば今は邪念なくその手腕を楽しみ、この素晴らしい味わいを心に焼きつける他なかった。


 小屋の外ではまだまだ豪雪が吹き荒れているが、室内には温かい空気が満ちている。

 アルヴァッハとナナクエムは昨日死にかけていたところであったのに、そんな暗鬱なる記憶をこれほどに充足した思い出に塗り替えられることになったのだ。心の片隅にほろ苦い寂寥感を抱えつつ、それでもアルヴァッハは幸福な気持ちで彼らとの時間を過ごすことがかなったのだった。

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