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異世界料理道  作者: EDA
第七十三章 群像演舞~八ノ巻~
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第二話 東の風と北の銀花(上)

2022.9/28 更新分 1/1

 それは今から、6年ほど前――アルヴァッハが16歳、ナナクエムが15歳の頃である。

 ナナクエムはアルヴァッハよりも2歳年少であったので、年が明けてからナナクエムだけが齢を重ねて、アルヴァッハはこれから生誕の日を迎えるという、そんな時期のはずであった。


 そんな若かりし頃、アルヴァッハとナナクエムは雪山で死に瀕していた。

 彼らはどちらも藩主の第一子息という立場であったが、狩人としての力を示すために、雪山でムフルの大熊を狩ることになったのだ。それは貴き身分であるがゆえに、避けては通れない通過儀礼であった。


 もちろん貴人の身に危険が及ばぬよう、アルヴァッハたちは大勢の同胞に守られていた。しかし、そうであるにも拘わらず、突然の吹雪に大熊との遭遇という危険が重なり、両名は同胞とはぐれてしまったのだった。


『この時節に吹雪に見舞われるなど、そうそうないことだ。もしや父たる東方神は、「ゲル」も「ド」も第二子息こそが藩主を継ぐべきだと判じたのやもしれんな』


 断崖の下で吹雪に耐えながら、ナナクエムはそんな言葉をこぼしていた。誰よりも誠実な彼がそんな言葉で神を揶揄するのは、きわめて珍しいことである。それぐらい、ふたりは危機的な状況にあったのだった。


 そそりたつ断崖を背に取って、ふたりは雪面に掘った穴の中に身をひそめている。しかし吹雪はおさまる気配もなく、穴の底にまで風と雪を届けてくる。まだ日が暮れるまでにはずいぶんな時間が残されているはずであったが、周囲は暗灰色の薄闇に包まれて、ただ荒れ狂う雪だけが燦然と白かった。


 同胞とはぐれてしまったふたりは、もう丸一日この場に身をひそめている。その間に携帯の酒と食糧は底をつき、大事に灯していた薪も燃えつきた。そうして炎が失われると、ふたりの肉体は急速に体温を奪われて、いよいよ逃れようのない死が目前に迫ってきてしまったのだった。


『このままでは、貴殿の言葉通りの結末となってしまおう。まだわずかでも力が残されている内に、この場を脱するべきではないだろうか?』


 アルヴァッハがそのように声をあげると、ナナクエムは紫色の瞳でうろんげにねめつけてきた。


『この穴ぐらを出て、どこに逃げようというのだ? 今は星も太陽も見えぬので、方角すらも定かではない。なおかつ、昨日のムフルが吹雪の向こう側にひそんでいるのかもしれんのだぞ』


『だが、このまま夜を迎えることになれば、骨まで凍てつくことになろう。我は命運を天に託すのではなく、自らの手で切り開きたく思う』


『……ふん。このような穴ぐらで魂を返してしまったら、遺骸を探す同胞も難渋しそうなところだな。狩人は狩人らしく、最後まで獲物を追い求めるべきか』


 そう言って、ナナクエムは毛皮の手袋に包まれた手をぎゅっと握り込んだ。


『相分かった。であれば、早々に出立しよう。ムフルに出くわしたならば、必ずや道連れにしてくれるぞ』


『うむ。ただし我々は、生きるために出立するのだ。貴殿も魂を返すその瞬間まで、生きるために力を尽くしてもらいたく思う』


 ナナクエムは無言のまま、強張った手でアルヴァッハの胸もとを小突いてきた。

 そうして穴の外に這い出してみると――白い嵐はいっそうの勢いで世界を蹂躙している。風のうなりは野獣の咆哮そのもので、横殴りの雪は石つぶてのようにふたりの総身を叩いてきた。


 方角はさっぱりわからないが、彼らの故郷はこの断崖の向こう側に存在する。彼らはムフルから逃れるために、この断崖を滑りおりてここまで辿り着いたのである。であれば、最初に目指すべきはこの断崖をのぼるための道筋だ。そんな事実を視線だけで確認してから、ふたりは断崖に沿って雪面に足を踏み出すことになった。


 ふたりは毛皮の装束と外套を着込み、刀と弓で武装している。この暴風では弓など役立たずであったが、この先にどのような運命が待ちかまえているかもわからない以上、荷物を捨てることは許されない。吹雪がやんで、大熊に出くわせば、弓と毒の矢こそがもっとも重要な存在となるのだ。


 一歩ごとに、足は膝まで埋まっていく。昨日までは足首までしかなかった雪が、そこまで降り積もることになったのだ。この身に残されていたなけなしの体力も、あっという間に奪われてしまいそうであった。


(この崖の上には、我々の狩り場が広がっている。そうして狩り場には、あちこちに身を休めるための小屋が設置されているのだから……そこまで辿り着けば、生命を繋ぐこともできよう)


 そんな思いを胸中にたぎらせながら、アルヴァッハは吹雪の中を突き進んだ。

 隣を歩くナナクエムは、すでに足取りが鈍り始めている。その顔は頭巾と襟巻きで隠されていたし、どのみち彼らは感情を表すことを許されない東の民であったが、ナナクエムに限界が近いことは明白であった。


 アルヴァッハはすでに昨年、この手でムフルを仕留めている。それで今年はナナクエムが狩人としての力を示す姿を見届けるべく、同行を願ったのだ。

 昨日の昼、ともに雪山へと足を踏み出した際、ナナクエムは強い意欲をあらわにしていた。狩人としてムフルを仕留めるというのは、ゲルドの民にとって何よりの誉れであるのだ。そんなナナクエムが、今は手負いの獣じみた眼光で、懸命に雪面をかき分けている。大切な朋友たるナナクエムのそんな姿が、アルヴァッハの胸を痛めてならなかった。


(ナナクエムは、このような場で終わっていい人間ではない。父なる東方神よ、運命神ミザよ、どうか朋友たるナナクエムに、正しき運命をもたらしてもらいたい)


 アルヴァッハがそのように考えたとき、ナナクエムがふいに腕をつかんできた。

 そして逆の手で、あらぬ方向を指し示す。今は豪雪のうなりによって、言葉を交わすことも難しいのだ。


 ナナクエムの指し示す先に、ぽつんと明かりが灯されていた。

 針の穴から差しているような、かそけき光である。しかし、白と暗灰色に塗り潰された世界の中で、それは生命の輝きそのものであるように感じられた。


(このような場所に、人里が……? いや、山小屋か何かであろうか。何にせよ、あれは建物からもれる明かりであるはずだ)


 アルヴァッハはナナクエムと目を見交わしてから、そのはかない明かりを目指すことになった。

 ともすれば、吹き荒れる豪雪によってその明かりもまぎれてしまう。しかしアルヴァッハたちにとって、それは希望の光そのものであった。ふたりは死に物狂いで目を凝らし、石のように重い手足を励まして、ひたすら雪面を突き進んでみせた。


 その末に現れたのは――やはり、山小屋である。

 丸太を組んだ簡素な造りで、屋根には分厚く雪が積もっている。そして、ぴったりと閉められた窓の鎧戸の隙間から、ほのかに明かりがこぼされていたのだった。


 ナナクエムは震える指先で扉に手をかけたが、かんぬきが下ろされているらしく、微動だにしない。それでナナクエムは、扉を殴打することになった。


『すまないが、我々も暖を取らせてもらいたい! 決してあやしき身分でないことは、東方神に誓う!』


 しかし、答えるものはなかった。

 ナナクエムは紫色の双眸を爛々と燃やしながら、今度は足で扉を蹴りつける。


『我々は、ゲルドの立場ある人間だ! 我々を見殺しにすれば、大きな禍根を残すことになろう! 脅す気はないが、おたがいの安寧のために扉を開けてもらいたい!』


 それでもなお、返事は返ってこなかったが――アルヴァッハは、吹雪のうなりの向こう側に、ごとりと硬い音が響いたような気がした。おそらくは、かんぬきが外されたのだ。

 ナナクエムは何も気づいていない様子であったため、また足を振り上げようとする。それに蹴りつけられる寸前に、扉が内側に大きく開かれた。


 身を溶かすような熱気が、ふわりとふたりの身に吹きつけてくる。

 そして――ふたりよりも大柄な人影が、その手で巨大な斧を振り上げていた。


「何者だ! 俺の家族に害を為そうというのなら、まとめて頭を叩き割ってくれるぞ!」


 異国の言葉で、男はそのように言い放った。

 金褐色の髪に、紫色の瞳。赤銅色に焼けた肌に、ゲルドの民よりも頑強な巨躯――これは、マヒュドラの民である。アルヴァッハとナナクエムは、大いに惑乱することになった。


『ど、どうしてこのような場に、北の民が山小屋を設えているのだ? ここはまだ、東の領土であるはずだぞ』


『いや……我々の狩り場は崖の上までで、その下にまで足をのばす機会はなかった。確かに地図上ではシムの地であるが、王国の管理が及んでいなければ、マヒュドラの自由開拓民がまぎれこんでも不思議はなかろう』


 ふたりがそのように言葉を交わしていると、男はいっそう物騒な感じに両目を燃やした。赤ら顔のほとんどが金褐色の無精髭に覆われた、壮年の男である。


「俺のわからない言葉で、何を語らっている! 本当に頭を叩き割られたいのか?」


「否。我々、ムフル狩りのさなか、吹雪、見舞われ、難渋している。貴殿、助力、願いたい」


 アルヴァッハは、北の言葉でそのように応じてみせた。ゲルドの貴人として、北の言葉は幼い頃から学ばされていたのだ。いまだ拙い口調ではあったが、日常の会話に不自由はないはずであった。

 男はうろんげに眉をひそめて、アルヴァッハとナナクエムの姿を見比べてくる。その手に掲げられた大ぶりの斧は、迷うように虚空を掻いていた。


「その黒い肌は、東の民だな。どうして東の民が、このような場所をうろついているのだ?」


「地図上、この地、東の領土である。無論、王国の管理、行き届いていないため、貴殿、責める気、皆無であるが……ともあれ、我々、難渋している。助力、願えるであろうか?」


 男はますます眉根を寄せながら、アルヴァッハたちの背後を透かし見た。


「山の外では、ゲルドの山賊というやつが旅人を襲うものだと聞いている。まさかお前たちも、山賊の一味ではなかろうな?」


「我々、確かに、ゲルドの民である。ただし、山賊、我々の恥である。いずれ、撲滅したい、願っている」


 男はしばらくアルヴァッハたちの姿を検分してから、ようやく斧を足もとに下ろした。


「何にせよ、今のお前たちに悪さをする力は残されていないようだな。……さっさと入れ。俺の家が、雪まみれになってしまうわ」


「感謝する」と、アルヴァッハたちは山小屋の内に足を踏み入れた。

 そうして背後の扉を閉ざすと、一気に冷気がやわらいだ。そこは土間のような場所であり、奥の部屋の入り口にはしっかりと毛皮の帳がおろされていたが、そこからもれでる暖気だけで、凍てついた身がゆっくりと溶かされていくような心地であった。


「まずはその場で、雪を払え。……あと、毒の武器を持ち込むことは許さんぞ。東の民というのは、そういう物騒なものを携えているはずだ」


「承知した。鋼の武器、許されるであろうか?」


「ふん。俺だって、こうして立派な斧を携えているからな。……靴はぬいで、こちらに持ってくるがいい」


 アルヴァッハは弓と矢筒を壁にたてかけ、ナナクエムはさらに短剣を床に置いた。普段はさまざまな毒の武具を隠し持っているナナクエムであるが、狩りの場にあってはそれがすべてである。そうして大刀だけは腰にさげ、湿った毛皮の靴を手に、ふたりは帳をくぐることになった。


 そちらには、さらなる熱気が渦巻いている。

 そして、5名もの家人が顔をそろえていた。年配の女と、若い男女、そして2名の幼子である。その全員が、金褐色の髪と紫色の瞳をしていた。


「おやまあ、東の方々じゃないか。だから、わけのわからない言葉が聞こえてきたわけかい」


 年配の女が、雪焼けした顔でにこりと微笑む。北の民らしい厳つい顔立ちであるが、その笑顔はとても温かかった。

 若い男女は息子夫婦、幼子たちは孫であるのだろう。息子は父親から髭を除いただけのような風体であったが、その伴侶はすらりとした体形で眉目も整っており、幼子たちはどちらも可愛らしかった。そして誰もが、驚嘆に目を見開いてアルヴァッハたちを見やっている。


「驚いたな。東の民をこんな間近に見たのは、初めてのことだ。これが噂の、シムの行商人ってやつかい? 東の民は、どんな場所でも商売のために駆けつけるって噂だからな」


 若者がそのように言いたてると、父親であろう男は「ふん」と鼻を鳴らした。


「東の行商人ってのはジギとかいう土地の一族で、誰もが棒みたいにひょろひょろとした身体つきをしているそうだ。こいつらは、悪名高いゲルドの民だとよ」


「ゲルドの民? だったら、山賊じゃないか!」


 若者はとたんに勇ましい顔つきとなり、美しき伴侶を背中にかばう。

 男は顔をしかめつつ、その手の斧を壁に掛けた。


「とりあえず、こいつらは山賊じゃないと言い張っている。まあ、一族のすべてが山賊なんて、そんな馬鹿な話はないからな。だいたい山賊だったら、こんな粗末な山小屋を狙うこともないだろうよ」


「だけど、もしも山賊だったら――」


「そのときは、返り討ちにするだけだ。いいからお前は、おたおたするんじゃねえ。ちびどものほうが、よっぽど性根が据わってるじゃねえか」


 ふてぶてしく笑う男の足もとで、ふたりの幼子たちは丸い目を好奇心にきらめかせている。片方は男児で、片方は女児であるようだった。


「お前たちも突っ立ってねえで、その格好を何とかしやがれ。大事な敷物を濡らすんじゃねえぞ」


 男の言葉に従って、アルヴァッハたちは外套に手をかけた。すると、年配の女が笑顔でこちらに近づいてくる。


「こんな猛吹雪に見舞われて、さぞかし大変だったろうね。靴も手袋も外套も、壁に掛けておけばすぐに乾くだろうよ」


「いたみいる」と応じつつ、アルヴァッハとナナクエムはそれらの一式を女に手渡した。

 そして、頭巾と襟巻きをも外すと、驚きの声が巻き起こる。アルヴァッハは赤い髪に青い瞳、ナナクエムは黒褐色の髪に紫色の瞳をしていた。


「驚いたな。東の民は、みんな黒い髪をしているものと思ってたよ。それに、そっちのあんたは……俺たちみたいな瞳の色をしてるんだな」


「うむ。我々、古くより、マヒュドラと、血の縁、重ねてきた。その結果である」


「ああ、マヒュドラには赤い髪や青い瞳をした人間も多いって聞いた覚えがあるねぇ。あたしらの一族は、みんなこういう色合いだけどさ」


 年配の女は温かく笑いながら、アルヴァッハたちから受け取ったものを壁に掛けていく。その姿を見やりながら、アルヴァッハは問うてみた。


「ひとつ、質問である。貴殿ら、自由開拓民であろうか?」


「ああ、そうだよ。ちょいと周りの連中とうまくいかなくなってきたんで、こんな山奥にまで住まいを移すことになったのさ」


 すべての装備を壁に掛け終えた女は、がっしりとした指先で足もとを指し示してきた。


「さあさ、とにかく温まりなよ。ほら、客人のために場所を空けておあげ」


「いたみいる」と応じつつ、アルヴァッハとナナクエムは暖炉の前で膝を折った。

 石を組んだ暖炉の内では、赤い炎が燃えている。その熱で、感覚を失っていた手足の先に正しく血が通っていくのが感じられた。そうして身体が温まっていくと、固く強張っていた心や魂までもが解きほぐされる心地であった。


「貴殿ら、親切、感謝する。我々、感謝、報いること、約束する。……我、アルヴァッハ=ゲル=ドルムフタンである」


「我、ナナクエム=ド=シュヴァリーヤである」


「なんだい、そりゃ。そんな長ったらしい名前を覚えていられるもんかい」


 男は自分も敷物に座しながら、強い眼差しをアルヴァッハたちに向けてきた。


「そんなことより、さっきの話をもう少し詳しく聞かせてもらいてえもんだな。……この場所は、本当に東の領地なのか?」


「うむ。マヒュドラ、シム、国境である。地図上、シム、領土である」


 その言葉に、若者が慌てた声をあげた。


「やっぱり俺たちは、もとの集落から離れすぎたんだよ。だから、谷まで越える必要はないって言ったじゃないか」


「ふん。あんな岩場じゃ何の収獲も望めなかったんだから、しかたねえだろうがよ。ただ……ちょうど吹雪に見舞われる前、この付近にムフルの足跡を見つけちまったからな。そっちのほうが、よっぽど厄介だ」


「うむ。あちら、崖の上、ムフル、狩り場である。崖の下もまた、ムフル、現れる可能性、あろう。ムフル狩り、準備なければ、危険である」


 ナナクエムがそのように応じると、男はまた「ふん」と鼻を鳴らした。


「ムフル狩りなら、俺たちだってお手のもんさ。しかし、俺と息子が家を離れている間に家族を襲われたら、どうにもならねえ。こいつはまた、住処を変える他ねえだろうな」


「やっぱり、集落に戻りましょう。父たちは、わたしが説き伏せてみせます」


 と、若い女が初めて口を開いた。その容姿に似つかわしい、澄んだ声音である。


「貴殿ら、何故、集落、離れたのであろうか? よければ、事情、聞かせてもらいたい」


「ふん。余所者のお前らには、何の面白みもねえ話だろうよ」


 そんな風に言いながら、男は簡単に事情を説明してくれた。どうやらこの若い娘は集落の長の血筋で、他なる相手との婚儀が望まれていたらしい。しかし、父親の言いつけに背いてこの家の息子と結ばれて、それで集落に居場所がなくなってしまったのだそうだ。


「なるほど。難儀である。しかし、ムフルの縄張りにおいて、一家のみ、住まう。いっそう、難儀であろう」


「わかってるよ。吹雪がやんだら、また引っ越しだな。ここが東の領土だってんなら、勝手に住みつくこともできねえだろうしよ」


 北の民の豪放さであるのか、誰の顔にも深刻ぶる気配はなかった。きっともとの集落では、彼らもムフルを狩る一族であったのだろう。ムフル狩りにおいては、ゲルドよりもマヒュドラのほうが本領であるのだ。


「お前たちも、吹雪がやむまでは好きにするがいい。ただし、俺の家族に悪さをするようなら、その頭を叩き割ってやるからな」


「貴殿ら、親切、感謝している。身、つつしむこと、約束する」


 アルヴァッハとナナクエムは指先を組み合わせて、感謝の礼を捧げてみせた。

 すると、年配の女が「さて」と声をあげる。


「それじゃあちょっと早いけど、晩餐の支度をしようかねぇ。客人らも、ずいぶん弱ってる様子だからさ」


「我々、晩餐、所望、許されるのであろうか?」


「だってあんたがた、今にも倒れちまいそうな様子じゃないか。北と東は友なんだから、困ったときは助け合わないとね」


 女はそのように言っていたし、他の家人らも文句はないようである。

 それでアルヴァッハとナナクエムは、また「いたみいる」と感謝の礼を捧げることになったのだった。


 やはり北の民というのは、自由開拓民であっても実直な気性であるのだ。また、それと同時に、勇敢でもあるのだろう。そうでなければ、いきなりやってきた異国の民にこれほどの親切は施せないはずであった。


 女は「ちょいとごめんよ」と言いながらアルヴァッハとナナクエムの間に割り込み、暖炉の上に手をのばす。そこには最初から、鉄鍋が火にかけられていたのだ。

 そうして女が鉄鍋の蓋を開くと、得も言われぬ芳香が室内に広がった。アルヴァッハたちにとっても馴染みの深い、香草の香りである。その芳しい香りを嗅がされただけで、アルヴァッハの胃袋は猛烈な勢いで暴れ始めてしまった。


「うん、具材は煮えてるみたいだね。お味のほうは――」


 女は巨大な杓子で煮汁をすくい、それを自分の口に運んだ。


「ああ、こいつはいい出来だ。あんたも確認してくれるかい?」


「どれ」と腰を上げたのは、若い男である。彼はまだいくぶん警戒した目つきでアルヴァッハたちを見下ろしつつ、母親から受け取った杓子で料理の味を確かめた。


「うん、悪くないと思うけど……もう少しだけ、香草を加えてみようか」


 若者は壁に掛けられていた小袋の中身を鉄鍋に投じ、それを攪拌してから、再び口に運んだ。


「よし、これで十分だろう。お前、器を取ってくれ」


 若い娘が「はい」と応じて、若者に木皿を差し出していく。若者はそこに鉄鍋の中身を注いで、まずは家族に回していった。


「……貴殿、調理、取り仕切っているのであろうか? 狩人の一家、男子、調理、取り仕切る、珍しいように思う」


 狂おしいほどの飢餓を抱え込みつつ、アルヴァッハはそのように問うてみた。

 若者はアルヴァッハのほうをちらりと見てから、「はん」と鼻を鳴らす。


「調理だなんて、すいぶん気取った言葉を使うもんだな。鍋に香草をぶちこむぐらい、男でも女でも不自由はないだろうがよ」


「何を言ってるんだい。あたしや嫁の作ったもんには、文句ばっかりつけるくせにさ」


 そのように口をはさんだのは、年配の女であった。


「客人の言う通り、あたしらの家でももともとは女衆がかまど仕事を受け持ってたんだよ。でも、この子が文句ばかり言うもんだから、自分で作らせることになったってわけさ」


「だって、せっかくの獲物は最高の形で口にしたいじゃないか。何もそんな小難しい話じゃないんだしよ」


「でも、あんたが作ると格段に味がよくなるからねぇ。同じ材料を使ってどうしてこんなに出来栄えが違ってくるのか、あたしらにはさっぱり理由がわからないよ」


 そんな言葉を交わしている間に、料理の木皿は家族に行き渡った。

 そして、アルヴァッハとナナクエムのもとにも同じものが届けられてくる。


「吹雪がやむまで、手持ちの食料で食いつながないといけないんだからな。心して口にしろよ」


「貴殿ら、親切、感謝する。必ずや、報いる、約束しよう」


 アルヴァッハとナナクエムは受け取った木皿を敷物に置き、もういっぺん正式に感謝の礼を捧げてみせた。

 若者はいくぶん困ったように笑い、鉄鍋に蓋をする。敷物に座した幼子たちは、期待の表情で料理の香りを嗅いでいた。


「それじゃあ、食うか。……父なる大地と母なる山に、感謝を」


 家族は家長の言葉を復唱し、アルヴァッハとナナクエムはそれぞれ食前の礼をする。

 そうしてアルヴァッハは逸る気持ちを抑えながら、木皿を取り上げ――まずは、香りを確認した。

 アルヴァッハの知識にある香草の香りが、3種ほど入り乱れている。いずれもこの付近に自生する香草である。アルヴァッハにとっては、いずれも馴染み深い香りであったが――それが常とは異なる心地好さで鼻腔をくすぐってきた。


(つまりこれは、香草の配分が絶妙であるという証であろう)


 木皿の煮汁は褐色に濁っており、そこに溶けきらなかった緑と黄色の香草の粉が浮いている。最後に加えられたのは黄色のほうで、そちらの香りが際立っていた。

 さらによくよく検分すると、表面に黒い粒が散っている。これが、3種目の香草だ。よほど入念にすり潰されているらしく、一見では目にとまらないほどであった。


(なるほど。分量だけではなく、挽き方の加減によっても香りが変わってくるわけだな)


 香りの違いとは、すなわち味の違いである。

 これほど魅惑的な香りをした料理が、いったいどのような味わいをしているものか――アルヴァッハはわずかに震える指先で木匙を動かし、まずは煮汁だけを口に運んだ。


 その瞬間、想像よりもさらに素晴らしい味わいが舌の上に弾け散る。

 3種の香草が肉や野菜の出汁と正しく絡み合い、これほどの調和を為しているのだ。

 黄色の香草は辛みが強く、緑の香草は清涼で、黒い香草は苦みが強い。それらの風味がおたがいを支え合いつつ、さらに具材の出汁と調和していた。

 いまだ具材は口にしていないが、アルヴァッハはこの出汁の味わいだけですべての正体を言い当てることができる。肉は野鳥、野菜はファーナ、穀物はメレスである。そして、いくぶん癖のある野鳥の肉と、自生であるために苦みの強いファーナと、メレスの甘い味わいが、完全に正しい形で香草の風味と結びついているのだった。


「……まったく匙が進んでないみたいだねぇ。客人は、そいつの味が気に食わなかったのかい?」


 年配の女が、心配そうな声をアルヴァッハに投げかけてきた。

 アルヴァッハはそちらを見返しながら、『否』と答えてみせる。


『こちらの料理は、きわめて美味である。自生のファーナというのは苦みが強くて扱いの難しいものであるのに、その苦みすらもが好ましい形に昇華されているのは、賞賛に値しよう。それに、癖の強い野鳥の肉の風味も同様である。それでいて、野生の滋養ともいうべき力強さはまったく損なわれておらず、それこそがこちらの料理の主眼に成り得ている。また、具材も香草も3種ずつのみであるのに、こちらの料理では甘みと辛みと苦みの調和が為されおり、火加減にも塩加減にも不備は見られない。ただ一点、こちらの料理には野菜がファーナしか使われておらず、人が健やかに生きていくための滋養が足りていないように思われるが……このような吹雪のさなかにあっては食材を切り詰める他なかろうから、致し方のないことであろう。それよりも、限られた食材でこれほどの調和を成せる手腕こそを、我は高く評価したく思う』


 年配の女ばかりでなく、すべての家人がぽかんとした顔でアルヴァッハを見やっていた。

 そしてアルヴァッハのかたわらでは、ナナクエムが溜息をついている。


「アルヴァッハ。こちら、東の言葉、通じない。北の言葉、返すべきである」


 アルヴァッハはつい我を失って、東の言葉を並べたててしまったのだ。

 そうと知ったアルヴァッハは、慌てて北の言葉で同じ内容を伝えようと考えたが――アルヴァッハはまだ、そこまで北の言葉を習得できていなかった。よって、口にできたのは、「きわめて、美味である」のひと言のみであった。


「きわめて美味とか言われてもなぁ。あんたはまだ、煮汁をひとすくいしただけじゃないか」


 と、若者は苦笑を浮かべていた。


「ゲルドの民ってのは、ずいぶんおかしな連中なんだな。少しばかり、俺の想像とは違ってたよ」


「否。アルヴァッハ、ゲルドの民として、変人、部類である。誤解、なきよう、願いたい」


 ナナクエムがそのように言いたてると、他の家人らがこらえかねたように笑い声をあげた。

 そうしてアルヴァッハとナナクエムは、九死に一生を得て――なおかつ、美味なる料理と人々の温もりまでをも授かることがかなったのだった。

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