新たな星々(下)
2022.9/27 更新分 1/1
「まったくお前は、新たな子の生誕に立ちあうたびに涙を流そうという心づもりであるのか?」
ダルム=ルウの家を出るなり、アイ=ファが厳しい面持ちでアスタの頭を小突いた。
手の甲で涙をぬぐいながら、アスタは「しかたないだろ」と笑顔で弁明する。
「俺たちが立ちあうのは、いつも大切な人たちの出産なんだからさ。スドラの双子に、ゼディアス=ルティムに、ルディ=ルウと来て、今度はシーラ=ルウとダルム=ルウのお子さんだもんな。これで涙をこぼすなっていうのが、無理な話だよ」
「何が無理なものか」と、アイ=ファは拳でアスタのこめかみを圧迫した。
しかし、厳しい面持ちをしながらも、アイ=ファもまた先刻のダルム=ルウに負けないほど優しげな眼差しになっている。彼女自身、アスタと同じぐらい強い思いで、シーラ=ルウの無事な出産を喜んでいるのだろう。
「シュミラル=リリン、挨拶は済んだか。では、荷車の運転をよろしく頼むぞ」
と、ダリ=サウティを先頭にした面々がこちらに近づいてくる。彼の伴侶であるミル・フェイ=サウティ、ガズラン=ルティム、モルン・ルティム=ドム、そしてディック=ドムという顔ぶれである。サウティとドムの面々は家が遠いため、本日はルティムの家に逗留する予定であったのだ。ヴェラの両名は、すでにレイ家の3名とともに姿を消していた。
「承知しました。ですが、そちら、挨拶、不要ですか?」
「ええ。シーラ=ルウの負担になっては申し訳ありませんので、明日の帰りがけにご挨拶をしようかと考えています」
そのように答えたのは、モルン・ルティム=ドムである。彼女も一時期、シーラ=ルウとともに屋台の仕事を果たしていたのだった。
「シュミラル=リリンこそ、伴侶の様子が気がかりでしょう? よければ、我々をルティムまで運んだのちは、荷車を置いていってください。シュミラル=リリンの手綱さばきであれば、夜の道でも危険なことはないでしょう」
ガズラン=ルティムがそのように言ってくれたので、シュミラル=リリンは「ありがとうございます」と一礼してみせた。
そうしてシュミラル=リリンたちが荷車に向かおうとすると、アスタが慌てた顔で取りすがってくる。
「シュミラル=リリン、どうぞお気をつけて。あと……ヴィナ・ルウ=リリンの無事な出産を祈っています」
「ありがとうございます。アスタ、心づかい、感謝しています」
「いえ。俺なんて、祈ることしかできませんので。……こういうときだけは、血族でないことがもどかしくてなりません」
「いえ。森辺の民、数多くのトトス、および荷車、買いつけられたのは、アスタ、功績であるはずです。トトスと荷車、数多く存在する、ゆえに、リリンの家、血族の助力、願うこと、容易くなりました。アスタの存在、同胞の力、なっているのです」
シュミラル=リリンがそのように答えると、アスタは泣き笑いのような表情を浮かべた。
「すみません。今はシュミラル=リリンのほうが大変な状況なのに、お気を使わせてしまって……本当に、不甲斐なく思います」
「いえ。不甲斐ないこと、ありません。アスタ、それだけ、我々のこと、気づかってくれているのですから――」
シュミラル=リリンがそのように答えかけると、アイ=ファが苦笑をこらえているような面持ちで「おい」と割り込んできた。
「それよりも、シュミラル=リリンはすみやかに家に戻るべきであろう。長々と語らうのは、無事に子が産まれた後にするがいい」
「はい。アイ=ファ、心づかい、感謝します」
「うむ。私もヴィナ・ルウ=リリンの無事な出産を、心より祈っているぞ」
そうしてシュミラル=リリンの運転する荷車は、アスタとアイ=ファに見送られながら出立することになった。
まずはルティムの集落に向かいながら、シュミラル=リリンはさまざまな感情を噛みしめる。自らの伴侶が臨月を迎えているさなかに、別の相手の出産に立ちあうというのは、やはりとてつもない感慨をもたらすものであるようであった。
(母なる森に父なる西方神よ、どうぞ我々にも慈悲の手を……我々もまた森の子として、西方神の子として、正しく生きていくことを誓います)
荷台ではダリ=サウティらが語らっていたが、それらの言葉もシュミラル=リリンの耳には入らなかった。
そうしてルティムの集落に到着したならば、荷車から解放したトトスの背にまたがる。目の頼りとなるのは松明ひとつであったが、シュミラル=リリンにとっては自分の足で駆けるのと変わりはなかった。
「シュミラル=リリン、お気をつけて。そちらも健やかに出産が果たされることを祈っています」
穏やかに微笑むガズラン=ルティムに見送られて、シュミラル=リリンは森辺の道に舞い戻った。
リリンの家は眷族の中でもっともルウの家から離れているが、トトスにまたがって駆けさせれば何ほどの距離でもない。それでもシュミラル=リリンは気の昂りで手綱さばきを間違えないように心がけながら、慎重に夜道を突き進むことになった。
左右の森は闇に沈んでいるが、その向こう側では昼間と変わらぬ騒擾が巻き起こっていることだろう。モルガの森にひそむギバやムントやギーズたちは、夜の間こそ活性化するものであるのだ。人間の気配を嫌って闇の奥にひそみつつ、ギバは森の恵みを喰らい、ムントやギーズは腐肉をあさっているはずであった。
空には果てしなく星々がきらめき、青白い月は静かに下界を見下ろしている。
そんな中、ひとりでトトスを駆けさせていると――シュミラル=リリンは、夢の中にでもさまよいこんだような心地であった。
ほんの1年と数ヶ月前まで、シュミラル=リリンは一介の商人に過ぎなかったのだ。
それは故郷にいるよりも大陸を駆け巡っている時間のほうが長いという、あまり普通ではない生活であったのかもしれないが――それでもジギの草原の民としては、さほど珍しくもない生き方である。なおかつ、シュミラル=リリンは若年の頃より父とともにそういった生活に身を置いていたため、それこそが唯一の正しい生であると信じていたのだった。
そんなシュミラル=リリンが、今は森辺の民として生きている。商人としての生も捨ててはいないものの、それよりも長い時間を森辺で過ごし、狩人としての仕事を果たしているのだ。それはアスタやヴィナ・ルウ=リリンと出会うまで、想像したこともなかったような人生の変転であったのだった。
もちろんシュミラル=リリンの中には、一片の後悔もない。シュミラル=リリンはこの世で巡りあった最愛の相手を伴侶とし、森辺の民という魅力的な一族を同胞とするために、神と故郷を捨ててみせたのだ。一片でも後悔の残る余地があったならば、そのような決断ができたはずもなかった。
だが――天上の神々やモルガの森は、シュミラル=リリンのことを赦しているのであろうか?
恋心のために神を捨て、余所者でありながら森辺の中にまぎれこもうとするシュミラル=リリンのことを、四大神やモルガの森はどのような目で見守っているのか。それは神ならぬ身のシュミラル=リリンには、まったくうかがい知れないことであった。
もしもシュミラル=リリンが神々の怒りに触れたのならば、その行く末には大きな絶望が待ちかまえていることだろう。
シュミラル=リリンが幸福に生きることを赦さず、シュミラル=リリンを迎え入れた人々にも罰をくだすかもしれない。そんな風に考えると、シュミラル=リリンはいつも冷たい手で胃の腑をつかまれるような心地になるのだった。
(私ひとりのことならば、どうなってもかまいはしない。……以前は、そのように考えていた)
しかし今は、その頃よりも深甚な恐怖に見舞われてしまっている。
もしも自分が神々の怒りに触れて、魂を返すことになってしまったら、残される伴侶はどれだけの悲しみに見舞われることになるか――シュミラル=リリンは、そのような思いまで抱え込むことになったのだった。
シュミラル=リリンは愛する相手と婚儀を挙げて、魂までもが結び合わされた。相手がどれだけ自分のことを愛し、慈しんでくれているか、それを心から実感することがかなったのだ。それは魂が震えるほどの喜びであるのと同時に、同じ大きさの恐怖をも孕んでいた。シュミラル=リリンは愛する伴侶が懐妊したことにより、その事実を痛切に思い知らされたのだった。
(私は、なんと愚かだったのだろう。なんと幼く、世界のことが見えていなかったのだろう)
シュミラル=リリンは、想いを成就させた。それはつまり、愛する相手を自分の運命に巻き込むのと同義であったのだ。
シュミラル=リリンの行いひとつで、ヴィナ・ルウ=リリンも道連れとなる。そして、たとえ神々がシュミラル=リリンひとりに罰をくだしたとしても――ヴィナ・ルウ=リリンには、伴侶を失う絶望と悲哀を与えてしまうのだった。
しかしまた、運命をともにするというのはそういうことであるのだ。
希望と不安は表裏一体であり、その片方だけを享受しようなどという甘い考えは通用しないのである。
だからシュミラル=リリンは胸中に渦巻く不安をねじ伏せて、希望の道をつかみ取ろうとしていた。
ヴィナ・ルウ=リリンと手を携えて、正しい運命を目指すのだ。
ともすれば、今も目の前の暗闇がぽっかりと口を開いて自分を呑み込もうとするのではないか――などという妄念がわきおこってくるが、シュミラル=リリンはそれをトトスの足で踏みつけて、懸命にリリンの家を目指しているのだった。
そうしていくつかの脇道を通り過ぎたのち、ついにリリンの集落へと通ずる道が見えてきた。
そちらにトトスの首を巡らせたシュミラル=リリンは、鋭く息を呑む。
ルウ家とは比べるべくもないささやかな広場に、かがり火が焚かれている。
そして、本家の前には男衆や幼子たちが身を寄せ合って立ち尽くしていたのだった。
(まさか……)
シュミラル=リリンはトトスに乗ったまま、その場に駆けつけた。
幼き娘を抱いた家長のギラン=リリンが、とても柔和な眼差しを向けてくる。
「戻ったか、シュミラルよ。ご覧の通り、ヴィナ・ルウが産気づいてしまったのだ」
トトスの背から降りたシュミラル=リリンは、心臓が痛いぐらいに跳ね回るのを感じながら「はい」と応じた。
「ルウ家、ダルム=ルウとシーラ=ルウの子、産まれました。ヴィナ・ルウの出産、シーラ=ルウよりも遅い、言われていましたが……いまだ、産まれていないなら、見込み、正しかったということです」
「ほう、あちらでも子が産まれたのか。母なる森も、ずいぶん小粋なことをするものだ」
そんな風に言いながら、ギラン=リリンはわずかに眉尻を下げた。
「しかし、無理をするなよ、シュミラル。今のお前は……まるで東の民のように、感情を殺しているように見えるぞ」
「はい。感情、隠す必要、ないこと、わきまえていますが……不安の感情、表すこと、苦手です」
「案ずるな」と、別なる男衆が呼びかけてくる。ギラン=リリンの弟である、分家の家長だ。この場では、この両名だけが壮年であった。
「この日に備えて、血族から年をくった女衆を招いていたのだからな。他の家人らも、懸命に力を尽くしてくれている。だから、大丈夫だ」
リリンの家はかつて滅びかけていたほど家人が減じていたため、壮年の人間が少ない。女衆に至っては、シュミラル=リリンよりも年若いウル・レイ=リリンが最年長なのである。
よって、ヴィナ・ルウ=リリンの出産が近づいてからは、血族の女衆が3名ほどリリンの家に待機してくれていた。ヴィナ・ルウ=リリンの祖母たるティト・ミン=ルウも、そのひとりだ。他の人間は数日ごとに顔ぶれを入れ替えていたが、ティト・ミン=ルウだけはもう半月ばかりもリリンの家に留まってくれているのだった。
シュミラル=リリンは乱れる心を抑えながら、その場にたたずむ面々の姿を見回す。
ギラン=リリンとその弟、ギラン=リリンの子たる男女の幼子たち、余所の血族から婿入りした若い男衆が2名、10歳ぐらいの男女が1名ずつ――総勢は、8名だ。リリンは他にも幼子がいたので、それは分家で女衆に面倒を見られているのだろう。
「……あなたも、ヴィナ・ルウの無事、祈ってくれているのですね」
シュミラル=リリンはその場に膝をつき、家長の子たる幼子の肩に手を置いた。つい先日に6歳となった幼子は泣くのをこらえているような面持ちで、「うん」とうなずく。
「ヴィナ・ルウ、すごくくるしそうだったから……ヴィナ・ルウ、だいじょうぶだよね?」
「大丈夫です。ヴィナ・ルウ、誰よりも、強いのですから」
すると、若い男衆の片方がシュミラル=リリンに笑いかけてきた。かつてシュミラル=リリンが身を呈してギバの牙から守った、精悍かつ誠実な男衆である。
「お前は大したものだな、シュミラル=リリンよ。俺が最初のお産に立ちあったときなどは、余人にかまけている余裕もなかったぞ。……どれ、トトスの手綱を預かろう」
シュミラル=リリンは「はい」とうなずき、その男衆に手綱を託した。
ギラン=リリンと2名の若き男衆は、この数年間でそれぞれ2名ずつの子を授かっている。子を持っていないのは、ギラン=リリンの弟のみだ。ただ、10歳ぐらいの幼子たちはすでに両親を失っており、ギラン=リリンの弟を親のように慕って、ともに暮らしているのだった。
こうして見ると、人々はそれぞれの境遇によって、心持ちが異なっているようだ。
若い男衆は、どちらも明るい表情である。むろん、心配そうにはしているのだが、出産が無事に終わることを迷いなく信じているのだろう。彼らは家長や自分たちの子がそうして無事に産まれ、健やかに育つ姿を見届けているのである。なおかつもっとも新しい赤子などは、シュミラル=リリンが家人となってから生誕していたのだった。
それに対して、ギラン=リリンの弟と10歳ぐらいの男女は、厳しく表情を引き締めている。ギラン=リリンの弟というのは兄と同様に大らかな気性であるのだが、今は真剣そのものの面持ちでシュミラル=リリンのことを気づかってくれていた。
この3名は、リリンがルウの血族になる前からの家人であり――筆舌に尽くし難い貧しさというものを体験しているのである。
だからきっと、彼らは不幸なお産というものも目にした経験があるのだろう。当時の彼らは満足な食料を買うための銅貨もなく、飢えと病魔で数多くの家族を失っているのだった。
「……何をそのように、あらぬ想念に身をひたしておるのだ?」
と、ギラン=リリンがやわらかくシュミラル=リリンに微笑みかけてくる。その手の女児は、最初からすうすうと安らかな寝息をたてていた。
「心が乱れるのは致し方のないことだが、今はヴィナ・ルウと赤子の無事だけを祈るがいい。余所のことにまで気を回していたら、身がもたんぞ」
「はい。……私、あらぬ想念、浮かべていたこと、どうしてわかりましたか? 私、表情、動いていないはずです」
「俺はもう、これで2年近くもお前とともに暮らしておるのだぞ。まあ、その内の半年ていどは、お前も家を離れていたわけだが……何にせよ、お前の心情を見間違うものか」
そう言って、ギラン=リリンは温かい手をシュミラル=リリンの肩に置いてきた。
「とにかく今は、伴侶と子のことだけを考えろ。それがお前の役割であるのだ」
ギラン=リリンもまた、この数年で2度の幸福な出産を見届けている。しかしその前には、滅びかけていた家を支えていた身だ。それで家長という立場であったなら、誰よりも家人の不幸に胸を痛めていたことだろう。
しかしギラン=リリンの瞳には、いつも通りの明るさと力強さが宿されている。彼は数々の苦難を乗り越えた上で、このような眼差しをしているのだ。シュミラル=リリンは、その眼差しにこそ心を慰められたような心地であった。
「……私、リリンの家人、迎えられたこと、幸福、思っています」
「いきなり何を抜かしておるのだ? とにかく、お前は――」
ギラン=リリンが苦笑を浮かべて、そのように言いかけたとき――
しんと静まりかえった母屋から、弾けるような泣き声が響きわたった。
つい先刻、ルウの集落で聞いたのと同じ泣き声である。
シュミラル=リリンは思わず立ちすくみ、若き男衆らは歓呼の声をあげた。
「静まれ。祝福をあげるには、まだ早いぞ」
決して声は荒らげぬまま、ギラン=リリンはそのように言い放った。
そして――赤子の泣き声が、ふっとかき消える。
シュミラル=リリンは、世界が真っ二つに断ち割れたような心地であった。
「な、なんだ? どうしていきなり、泣き声がやんでしまったのだ?」
若き男衆が惑乱した声をあげると、ギラン=リリンは「静まれ」と繰り返した。
「俺たちが騒いでも、どうにもならん。ただ、祈るのだ。それがヴィナ・ルウと赤子の力になろう」
6歳の長兄が、シュミラル=リリンの腰のあたりに取りすがってくる。
その頭に手をのせながら、シュミラル=リリンはすべての力で神々と森に祈った。
そうして何もかもが死に絶えたかのような静寂の中で、のろのろと時間が過ぎていき――やがて、何の前触れもなく、母屋の戸板が開かれたのだった。
「お待たせしました……ご心配をかけてしまって、申し訳ありません。ヴィナ・ルウは、無事に子を産み落とすことがかないました」
そのように告げてくれたのは、ギラン=リリンの伴侶たるウル・レイ=リリンであった。何かの精霊のように美しいウル・レイ=リリンは、その細面にやわらかな微笑をたたえている。
「ほ、本当に赤子は無事であったのか? あのようにすぐさま泣き声がおさまることなど、これまで1度としてなかったはずだぞ」
若き男衆がそのように言いたてると、ウル・レイ=リリンは「無事です……」と繰り返した。
「ですがまずは、本家の家人だけこちらにどうぞ……分家の皆は、そこでお待ちください」
「よし。では、新たな赤子の姿を拝ませてもらうか」
ギラン=リリンが、シュミラル=リリンの背中を叩いてくる。それでシュミラル=リリンは、ようやく我に返ることができた。
シュミラル=リリンは腰に男児をすがらせたまま、母屋の戸板をくぐる。
そこに待ち受けていたのは、つい先刻ルウ家で見たのと同じような光景だ。ただし、ヴィナ・ルウ=リリンの左右に控えるのは、合計で3名の女衆のみであった。
ヴィナ・ルウ=リリンの祖母たるティト・ミン=ルウ、ルティムから助力におもむいてくれた年配の女衆、そしてリリン分家の女衆である。もう1名の女衆は、ミンから来てくれた女衆とともに幼子の面倒を見ているのだろう。これにウル・レイ=リリンを加えた4名で、ヴィナ・ルウ=リリンのお産を手伝ってくれたのだ。
ヴィナ・ルウ=リリンはさきほどのシーラ=ルウと同じように、寝具の上に半身を起こして、産着にくるまれた赤子を抱いている。
そしてその美しい顔にはこれ以上もなく幸福そうな表情がたたえられ、頬には涙のあとがあった。
「戻っていたのね、シュミラル……約束通り、無事に子を産んでみせたわよ……」
シュミラル=リリンは震える声で「はい」と応じつつ、ヴィナ・ルウ=リリンのかたわらに膝を折った。
そうして、おそるおそるヴィナ・ルウ=リリンの手もとを覗き込むと――そこには、またとなく愛くるしい赤子の寝顔が待っていた。
ダルム=ルウたちの子よりは、いくぶん小さいだろうか。
老人のようにしわくちゃであるが、それは産まれたてでふやけているためだ。小さな唇はわずかに開かれて、そこから健やかな寝息をこぼしている。
そして――頭を覆うわずかな髪は、白銀の色に透けていた。
「あなたとそっくりの髪色だけど、女の子よ……いったいどのような子に育つのかしらね……」
シュミラル=リリンが「はい」としか答えられずにいると、ヴィナ・ルウ=リリンはくすりと笑った。
「どうしたのよ……? なんだか、夢うつつのようだけど……」
「はい。……泣き声、ふいに途絶えたため、世界の終わり、感じました。その衝撃、引きずっているようです」
すると、ヴィナ・ルウ=リリンの向こう側に寄り添っていたティト・ミン=ルウが「ああ」と笑い声をあげた。
「あれにはわたしらも、肝を冷やすことになったよ。とても元気に泣いていたのに、産湯につけたとたん、ぴたりと泣きやんでしまったのさ」
「ええ、本当に……わたしこそ、魂が砕けたような心地だったわぁ……」
ヴィナ・ルウ=リリンは愛しき赤子をかき抱きながら、くすくすと忍び笑いをもらした。
「それで慌てて、ティト・ミン婆たちが様子を見てくれたのだけど……ご覧の通り、この子は安らかに眠っていただけなのよ……」
「……産湯、つかるなり、寝入ってしまったのですか? 例のない話、思います」
「ええ……産まれる早々、人騒がせよねぇ……もしかしたら東の血筋というやつで、感情を隠そうとしたのかしら……」
「いえ。シムでも、そのような話、聞きません。また、赤子、シムの習わし、知識にないはずです」
「当たり前よぉ……冗談に決まってるじゃない……」
ヴィナ・ルウ=リリンは、いっそう幸福そうに微笑んだ。
「とにかくあなたは、手を清めたら……? そうしないと、赤子を抱くことも許されないのよ……」
シュミラル=リリンはまだ情緒も定まらないまま「はい」と応じて、手を清めた。
そうしてヴィナ・ルウ=リリンから赤子を受け取り、その重さを感じ取ったところで、堰を切ったように涙があふれかえったのだった。
「やあねぇ……そんな、アスタみたいに涙をこぼさないでよぉ……」
そんな風に言いながら、ヴィナ・ルウ=リリンもシュミラル=リリンに負けないほど涙をこぼし始めた。
涙に暮れる両親に見つめられながら、白銀の髪をした赤子は安らかに寝息をたてている。しわくちゃで、人と思えぬほど小さくて――そして彼女は、何よりも美しかった。
「ヴィナ・ルウ、ありがとうございます。私、ヴィナ・ルウとこの子のため、いっそう強く、生きること、誓います」
「わたしも、同じ気持ちよ……そしてこの子を、誰よりも立派な森辺の民に育てると誓ってみせるわぁ……」
ヴィナ・ルウ=リリンは、かつて森辺の外に憧憬を抱いていた。
そしてシュミラル=リリンは、森辺の外からやってきた人間である。
そんなふたりであるからこそ、この子には誰よりも正しい道を指し示してあげなければならなかった。
しかしそれと同時に、この子の運命はこの子自身のものだ。
この子が森辺の女衆として、立派なかまど番を目指そうとも、女だてらに狩人を目指そうとも、あるいは父親のような商人を目指そうとも、これまで誰も手を染めなかったような仕事につきたいと願おうとも――いずれにせよ、シュミラル=リリンとヴィナ・ルウ=リリンは死力を尽くしてそれを支援するだろう。
そんな思いを込めながら、シュミラル=リリンは愛する伴侶と我が子に微笑みかけることになったのだった。
◇
そして、翌日――
リリンの家は、朝から騒擾に包まれることになった。
あちこちの家から、お祝いに駆けつける人間があったのだ。
そしてその中には、当たり前のようにアスタとアイ=ファも含まれていたのだった。
「シュミラル=リリン、ヴィナ・ルウ=リリン、おめでとうございます! ご無事に赤ん坊が産まれて、何よりでした!」
母屋に踏み込むなり、アスタはそのように告げてくれた。
そしてその感じやすい目は、早くも涙に濡れてしまっている。シュミラル=リリンはそれを心からありがたく思いつつ、「はい」と一礼してみせた。
「ですが、アスタたちの到着、早くて、驚かされました。連絡、ルウ家からですか?」
「はい! リミ=ルウたちが、朝一番で伝えてくれました! それでこうして、一緒にやってくることになったんです!」
そのように語るアスタの背後から、新たな人影がどやどやと押しかけてくる。アイ=ファ、リミ=ルウ、ララ=ルウ、ルド=ルウ、ジバ=ルウという顔ぶれである。そして彼らが到着する前に、すでにドンダ=ルウとミーア・レイ=ルウ、ジザ=ルウとサティ・レイ=ルウ、レイナ=ルウとコタ=ルウとルディ=ルウという面々が顔をそろえていたのだった。
ティト・ミン=ルウは最初からこの場に居残っていたので、ダルム=ルウを除くヴィナ・ルウ=リリンの家族はこれで全員集結したことになる。
そうして家族に囲まれたヴィナ・ルウ=リリンはその手の赤子をやわらかく抱きすくめつつ、今にも涙をこぼしてしまいそうな顔で微笑んでいた。
「もう……まさかこんなに早くから、これだけの人数を迎えることになるとは思わなかったわぁ……そちらでもダルムたちの子が産まれたのだから、わたしにばかりかまけることはないでしょう……?」
「あっちはあっちで、血族の人間が山ほど押しかけているからね。とにかくあたしらは、一刻も早くその子の顔を拝みたかったんだよ」
ミーア・レイ=ルウが朗らかに笑いかけると、ヴィナ・ルウ=リリンは同じ表情のまま目もとをぬぐった。
「まだ産まれたてだっていうのに、賢そうな顔をした赤子だねぇ。髪の色だけじゃなく、そういうところもシュミラル=リリンに似ているみたいじゃないか」
「ええ……頭の中身も、父親に似てほしいものねぇ……」
「何を言ってるんだい。あんたも母親として、この子を正しく導いておやり」
そう言って、ミーア・レイ=ルウは身を起こした。
「さて。それじゃああたしらは、いったん席を譲ろうか。あんたたち、赤子に触れる前にきちんと手を清めるんだよ」
そうして最初にやってきた7名は、リリンの家を出ることになった。
その道すがらで、幼いコタ=ルウがまたアスタに「だいじょうぶ?」と声をかけている。今日はララ=ルウも涙をこらえていたのに、アスタだけが頬を濡らしていたのだった。
「うん、大丈夫だよ。いっぺんにふたりも従兄弟を迎えることになって、コタ=ルウは幸せだね」
アスタが涙をぬぐいながら笑いかけると、コタ=ルウは昨晩と同じように「うん」と微笑んだ。
そうしてドンダ=ルウらは退室し、新たな6名がヴィナ・ルウ=リリンを取り囲む。その中で、最長老のジバ=ルウが痩せ細った手を赤子の胸もとに置いた。
「新たな血族に、祝福を……あたしこそ、こんなに次々と新しい赤子の生誕を見届けることができて……何より幸福な心地だよ……」
ジバ=ルウにとって、この赤子らは孫の孫という立場になるのだ。さらに言うならば、ガズラン=ルティムの祖母はジバ=ルウの子であるという話であるのだから、あちらのゼディアス=ルティムという赤子もジバ=ルウにとっては同じだけの血の縁が存在するはずであった。
しかし、どれだけ血の縁が広まろうとも、新たな赤子に対する思いの深さに違いはないのだろう。それを示すかのように、ジバ=ルウの眼差しは果てしなく幸福そうであった。
アスタやアイ=ファやリミ=ルウたちも、同じ眼差しでヴィナ・ルウ=リリンと赤子の姿を見守ってくれている。そんな温かな空気に包まれて、ヴィナ・ルウ=リリンは安らいだ微笑をたたえていた。
と――その手に抱かれた赤子が、何かに呼ばれたかのようにゆっくりとまぶたを開く。
たちまち歓声をあげそうになったリミ=ルウやララ=ルウは、赤子を驚かさないようにと慌てて自分の口をふさぐ。赤子はまだまともに物を見る力もないはずであるので、ぱちぱちとまばたきながらあらぬ方向に視線を飛ばしていた。
その瞳は、やわらかな暁光を凝り固めたかのような、淡い茶色だ。
それに気づいたアスタが、涙に濡れた目でシュミラル=リリンとヴィナ・ルウ=リリンを見比べてきた。
「髪の色はシュミラル=リリンそっくりですけれど、瞳の色はヴィナ・ルウ=リリンにそっくりですね。いったいどんな子に育つのか、本当に楽しみです」
「はい。どうか、お見守りください」
「はい」とうなずきながら、アスタはなんべんも織布で顔をぬぐっている。アスタはシュミラル=リリンが狩人の衣を授かったときも、ヴィナ・ルウ=リリンと婚儀を挙げたときも、このように涙をこぼしてくれたのだ。そんなアスタの姿を見ているだけで、シュミラル=リリンまで涙をこぼしてしまいそうであった。
「そーいえば、この子の名前はもう決まったの? ダルム兄たちは、まだ迷ってるみたいだけど!」
リミ=ルウがそのように問いかけてきたので、ヴィナ・ルウ=リリンが「ええ……」と応じた。
「この子の名前は、エヴァとしたわ……森辺に伝わる古い言葉……つまり、東の言葉で『星』という意味よ……」
「エヴァ! エヴァ=リリンかー! いい名前だね!」
「ええ……東では、星という言葉に運命という意味も備わっているらしいから……この子が正しい運命をつかみ取れるように、そう名付けることにしたの……」
そのように語りながら、ヴィナ・ルウ=リリンはシュミラル=リリンに微笑みかけてきた。
シュミラル=リリンも、同じ思いで微笑みを返してみせる。
ふたりがそのような名を思いついたのは、アスタのおかげであった。
アスタは運命の星を持たない、『星無き民』である。しかしアスタは占星師にも読み解けない暗闇の中で、誰よりも懸命に生きている。そんなアスタと同じように、自らの力で正しい運命をつかみ取ってほしい――エヴァ=リリンの名前には、そんな思いが込められているのだった。
エヴァ=リリンは赤子とも思えない静謐な面持ちで、まだぼんやりと視線を漂わせている。
まだ彼女には何も見えていないし、耳に入ってくる言葉の意味も理解できないだろう。
しかしきっと、この温かな空気だけは感じ取れるはずだ。
これだけ数多くの人々が、彼女の幸福な行く末を願ってくれている。それがどれだけ得難いことかを噛みしめて、彼女には幸福な道を歩んでほしかった。
そうしてシュミラル=リリンは、愛する伴侶に続いて愛する我が子をも授かり――第二の故郷で生きていく気持ちを、いっそう強く固めることに相成ったのだった。




