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異世界料理道  作者: EDA
第六章 背徳の家
125/1675

⑦毒牙(上)

2014.11/14 更新分 1/1 ・2018.4/29 誤字を修正

「それじゃあな。後は頼んだぞ、ダルム」


 そう言い残して、ドンダ=ルウは祭祀堂を出ていった。

 アイ=ファを除くすべての女衆を引き連れて、である。


 家長たちはこの場で雑魚寝だが、さすがに女衆たちはそうもいかない。ゆえに、彼女たちはスン家から宿泊用の空き家をあてがわれたのだった。

 そして、女衆だけをその場に移すのには不安が残ったので、ドンダ=ルウが同行する段となったのだ。


「……アスタとアイ=ファもこっちに移ったほうがいいんじゃないのかねえ?」と、最後までミーア・レイ母さんが心配してくれていたが、けっきょく俺たちは祭祀堂に居残ることになった。


 確かにかんぬきの掛けられる家屋のほうが安全であるようにも思えたが。その反面、ディガ=スンやドッド=スンあたりが家長の意向を無視して暴走するかもしれない――という部分を警戒するならば、むしろスンの眷族の目が光る祭祀堂に身を置いたほうが、まだしも安全であるように思われた。


 それに、こちらにはドンダ=ルウを除く猛者たちが居残るのだ。

 ダン=ルティムやラウ=レイを筆頭とする、13名の男衆。

 さらにその周囲には、中立の立場である森辺の民が、数十名。


 スン家の連中が何を企んでいたとしても、この肉の壁を突破して不埒な真似に及ぶのは、物理的に不可能であろう。


 さらに言うならば、安全面の他にも、この場に居残りたい理由が俺たちには存在した。


 他の氏族たちとの、交流だ。


 ファの家の行為に賛同してくれた家長たち、興味をもってくれた家長たちが集結して、しきりに俺たちの話を聞きたがってくれたのである。


 その代表格は、サウティ家の家長ダリ=サウティと、長老のモガ=サウティだった。


「サウティは、森辺の南端に居をかまえる氏族だ。5つの眷族を統べる長の血筋でもあり、まあ、スンとルウに次ぐ大きさの氏族と考えてもらってかまわないと思う」


 顔立ちは朴訥としているが風格はたっぷりのダリ=サウティが、四角い顔に微笑を浮かべながら、そんな風に自己紹介してくれた。


「それゆえに、スンにもルウにも気安く肩入れはできない身の上でな。もしも俺たちがどちらかの眷族に加わってしまったら、両家の力関係がかなり偏ることになる。……しかも俺たちの集落は、どちらかといえばルウのほうに近いから、スン家にはものすごく警戒されてしまっているのだよ」


「なるほど……」


「森辺に混乱をもたらすのは、本意ではない。だから俺たちは、なるべくスンともルウとも関わりを持たぬよう気をつけてきた。……それに、森辺の同胞でありながらいがみあっている両家の有り様に、少々鼻白んでもいた。いいから黙ってギバを狩れ、というのが、1番正直な俺の気持ちだ」


 そのルウの眷族たちは、少し離れた場所で酒盛りを始めている。ダン=ルティムの笑い声が、とても賑々しい。


「だが、このたびのファの家の行動は、それらのことを差し置いても、とうてい捨てて置けぬだろう。だから、話を聞かせてもらいたいのだよ、ファの家のアイ=ファに、アスタ」


 そんな風に述べるダリ=サウティの周囲には、彼の眷族である家長たちと、それに、フォウやラッツといった小さな氏族の家長たちが集まっていた。


 ルウを筆頭とする7つの眷族、スンを筆頭とする8つの眷族、それにファの家を除けば、小さな氏族は21ほど存在する勘定になるが。そのうちの8割ぐらいは集まっているように思える。

 そのすべてが俺たちに賛同してくれているのではないのだろうが、とにかく詳細を聞きたいのだろう。


「ルウの眷族は、すでに血抜きという技術をファの家から習得しているという話であったが、それは誰にでも覚えられるものなのか? ……そして、それを覚えれば、すべてのギバの肉が今日食べたあの肉のような味になる、ということなのか?」


「はい。もちろん失敗することもありえますが、そこまで難しい技術ではありません。ルウやルティムの男衆は数日で体得できたようでありますし、そもそも俺自身だって、まだそれほど多くのギバをさばいた経験もないのですよ。……ところで、料理のお味はいかがでした?」


「美味かった。正直に言って、驚きのあまり心臓が止まりそうになるぐらいだった」


 と、ダリ=サウティは太い指先でがりがりと頭をかいた。


「だから、宿場町での商売云々を抜きにしても、その技術は体得させてもらいたいのだが。しかし、サウティの集落は南の端で、どの家からもとても遠い。ルウの眷族で1番近いのはマァムかミンあたりだと思うが、それでも気安く通える距離ではない。そんな俺たちが、技術を学ぶことなど可能なのだろうか?」


「はい。そのあたりのことは、ルティムの長兄であるガズラン=ルティムとも相談しました。家が遠ければ、数日間だけ、男衆を交換すればよいのではないでしょうか?」


「……男衆を、交換?」


「そうです。例えばルティムの男衆を2名と、サウティの男衆を2名、おたがいの家に差し出しあうのです。ルティムの家ではその2名に技術を学ばせて、サウティの家では、ルティムから出向いた2名が皆に技術を披露する。そうすれば、おたがいに男衆の数は変わらないのですから、狩人としての仕事は普段通りにこなしたまま、技術を体得することが可能になります」


 ダリ=サウティは目を丸くして、他の家長たちはざわざわとどよめいた。


「それは……何とも奇抜なやり口だな……眷族でもない男衆を、数日間とはいえ、おたがいの家に住まわせる、というのか」


「はい。家同士の信頼関係がなければ、とてもできない荒業ですね。……森辺の民は、そうして信頼関係を再構築するべき時期なのではないか、とガズラン=ルティムはそんな風に言っておりました。思うに、森辺では個々の家が遠すぎる。それゆえに、眷族ではない家との縁が薄くなりすぎてしまったのではないか、と」


「……ルティムの長兄ということは、それはあのルティムの家長の息子であり、そして家長を継ぐ後継者である、ということだな?」


「ええ。その通りです」


「面白い。あの火の玉のような家長の跡取り息子は、そのような弁を述べる男であるのか。実際に顔を合わせて、言葉を交わしてみたいものだな」


 このダリ=サウティという御仁は、どこかガズラン=ルティムと雰囲気が似ている。

 それも、大柄な体型や、実直そうなたたずまいばかりでなく、若者らしからぬ風格や、沈着で理知を重んじていそうなところなど――ガズラン=ルティムの美点と思える部分が、似ているように感じられるのだ。


 これにジザ=ルウまでもが加わったら、ものすごい面子になると思う。それこそ、ディガ=スンなどの出番は一切なくなってしまうだろう。


 もちろん、そんな彼らでも主義や主張はまったく異なる。

 だけど、そのようなものは異なっていたほうが良いのではないだろうか。


 森辺の秩序を重んじるジザ=ルウと、革新的なガズラン=ルティムと、保守的でありながら能動的でもあるダリ=サウティと――こういった傑物たちが意見をぶつけあい、もっとも正しいと思える道を模索することにこそ、意義があるように感じられる。


(……って、そんな風に考えてしまうところが、俺のよそ者気質なのかな)


 俺にはどうしても、自分自身が先導役をつとめる覚悟が固められない。

 俺の存在は叩き台として、その上で最善の道を模索してもらいたい、という意識が抜けきらないのだ。


 だけど俺は、ファの家の人間だ。

 俺の失敗は、ファの家の失敗であり、アイ=ファの失敗にもなってしまう。


 だから俺も、この傑物たちとともに歩いていく覚悟を固めなければならないのだろう。

 自分にとっての正しい道はこれなのだ、と、胸を張って主張しなければならないのだろう。


(それに――)


 アイ=ファであれば、この傑物たちと肩を並べることも可能なのではないだろうか?

 アイ=ファがザザやドムの家長たちと真っ向から意見をぶつけあう姿を見て、俺はそんな風に考えることができるようになっていた。


 ガズラン=ルティムの言葉にぶらさがるのではなく、アイ=ファは自分自身の言葉によって、ザザやドムの家長たちと渡り合うことができた。ジバ=ルウの言葉や気持ちを咀嚼して、そこから自分の言葉や気持ちを再構築することができた。そんなのは、ジザ=ルウやガズラン=ルティムにだって、なかなかできることではないと思う。


(そう、それにあのスン家の眷族たちだって――)と、俺はこっそり目線を飛ばす。

 ダン=ルティムらとは対角線上のエリアで果実酒をあおっている、ザザ家の家長らのほうに、だ。


 ドンダ=ルウよりも頭が固い、とミーア・レイ母さんに評された彼らの主張は、ジザ=ルウと重なっているように思える。


 掟や、しきたりや、秩序を重んじる、言ってみればガチガチの保守勢力である。

 彼らにとっては、俺やアイ=ファの存在など、さぞかし忌まわしいものなのだろう。


 だが、彼らは決して敵ではない。

 彼らこそが、森辺の民としてのひとつの正しい姿なのだ、とさえ思えてくる。


 そんな彼らさえも納得させることできて、初めて「変革」は許されるのではないだろうか?


(だからやっぱり……俺にとっての不穏分子は、スン家の存在だけなんだよな……)


 そんなことを考えていたら、「ファの家の家長よ」と新たな声があがった。


 フォウの家の家長だ。


「フォウの家は、今までファの家との縁を絶ってきた。それは、スンの家と悪縁を結んだファの家と縁を結ぶのは危険だ、という判断を、家長であるこの俺が下したからだ」


 アイ=ファは、静かにそちらを振り返る。

 フォウの家長は、床に右の拳をつき、頭を深々と垂れた。


「その判断が間違っていたことを、ここに認める。……だから、改めて、フォウの家と縁を結んでほしい」


「……フォウの家長の判断が間違っていたとは、私には思えない。フォウの家がうかつにファの家と縁を結んでいれば、スン家の愚かな息子たちがどのような振る舞いに及んでいたかもわからないからな」


 そう言って、アイ=ファはぎこちなくフォウの家長の肩に手を置いた。


「だから、家長の判断は家族の安全を守っていたのだろうと思う。それは何も恥ずべき行動ではない」


「……しかし、お前はそんな俺たちにすら情けをかけて、毛皮を与えてくれていたというのに、俺たちは……」


「それは、何かの見間違えだ」と、とたんにアイ=ファの顔が不機嫌そうになってしまう。


「それはフォウの家の女衆にも伝えたはずだ。私は誰にも毛皮など分け与えていない。……そのようなことよりも、私の言葉に賛同してくれるのならば、フォウの家も血抜きと解体の技術を学ぶがいい。アスタ、近いうちにギバの肉が大量に必要になる、と言っていたな?」


「ああ。青の月の終わりまでには大量の干し肉を作らなきゃならないし、そこまで待たなくても、宿屋に料理を卸す時点で今まで以上の量が必要になる。いつまでもルウ家だけを頼ってはいられなくなるだろうな」


 フォウの家長は、真摯な眼差しで俺とアイ=ファの顔を見比べた。

 かつてファの家を訪れたサリス・ラン=フォウという女衆はこの人物の嫁か娘なのだろうか、とか考えながら、俺はそちらにうなずきを返す、


「宿場町で肉そのものを売るにはまだまだ時間が必要でしょうが、現時点で、料理に使う肉も不足しそうな状態なのですよ。ですから、フォウの家でも肉を準備してくださるのなら、それをファの家で買い取らせていただきたく思います」


 これは、ルウ家からの申し入れでもあった。

 このままではルウの眷族ばかりに富が集中してしまい、小さな氏族の反感を買うことにもなりかねないので、上手く分配してほしい、と願われたのだ。


 フォウの家長は、無言のまま、また頭を垂れた。

 そこで、聞き役に回っていたダリ=サウティが大あくびをする。


「さて、話は尽きぬが、ずいぶん夜も更けてきたようだな。あちらの酒盛りも終わったようだし、そろそろ眠ることにするか」


 見ると、いつのまにやら祭祀堂の中央あたりに移動していたダン=ルティムが「おおい」とこちらに手を振っていた。


「いつまでくっちゃべっておるのだ? こちらに来い、アスタにアイ=ファ!」


「了解です。……それでは、こまかい話はまた明日にでも」


「ああ。帰りの道中でも色々と聞かせてくれ。ここではスンの眷族の目もうるさいからな」


 サウティやフォウの家長らも、空いたスペースに散っていく。

 俺はアイ=ファと連れ立って、ダン=ルティムらのほうに寄っていった。


「ここだここ! お前たちは、ここで眠れ!」と、ダン=ルティムが床に敷かれた敷布を叩く。

 それは、ルウの眷族に取り囲まれた、まさに祭祀堂のど真ん中のポジションであった。


「こ、ここですか。何だか落ち着かない位置取りですね」


「何がだ? ここならスン家のぼんくらどもが何を企もうが手出しはできまい! やつらが俺たちの身体を乗り越えようとしたら、その足の肉を噛みちぎってくれるわ!」


 そうして大声で笑ってから、ダン=ルティムはごろりと横たわった。

 ダルム=ルウやラウ=レイたちも、次から次へと寝転んでいく。


 確かにまあ、これほど強固な防御壁も、そうそう存在しないだろう。

 いかに広大な祭祀堂とはいえ、70名もの人間が寝そべってしまえば、ほとんど足の踏み場もなくなってしまう。この肉の絨毯を踏み超えて俺たちに近づくことなど、絶対に不可能だと思う。


「えーと……じゃあ、寝るか?」


「うむ」と、アイ=ファは腰を下ろした。

 そして、金褐色の髪をほどいてから、いつもの通りに横たわる。


 去年の家長会議においても、アイ=ファはこうして男衆に囲まれながら、雑魚寝をしたということか。

 そんな風に考えたら、少なからず胸の中がざわついてしまった。


(まあ、スン家の他にはよからぬ真似をするような人間もいないんだろうけど、そいつはあまりに無用心な話だよなあ)


 俺はその矮小なスペースで可能な限りアイ=ファから距離を取りつつ、身を横たえた。


 が――そんな気遣いは、何の役にも立たなかった。

 仰向けに寝転んだ俺のもとに、アイ=ファがにじり寄ってきたのである。


「うつけ者。私から離れるな」


 アイ=ファが、ぴったりと寄りそってくる。

 そして、その指先が、俺の胸もとをわしづかみにした。


「あ、あのなあ、アイ=ファ……」


「やかましい。私は疲れているのだ。話なら明日にしろ」


 そう言って、アイ=ファは俺の右肩に額を押しつけてきた。


「本当に疲れた。1年分の言葉を喋った気分だ。……頭も、少し痛い」


「……うん、まあ、今日は本当に頑張ったもんな」


 どこかでダルム=ルウが目を光らせたりはしていないよな、と危ぶみつつ、俺はアイ=ファの頭をぽんぽんと軽く叩いてやった。


「おやすみ、アイ=ファ。ゆっくり休んでくれ」


「うむ……」


 普段以上の寝つきの良さで、アイ=ファはそのまますやすやと安らかな寝息をたて始めた。


(眷族もいないファの家の家長が森辺の行く末を決めてしまうのか、なんてジザ=ルウは言っていたけど、家の大きさなんて関係ないよな)


 その子どもみたいに無防備な寝顔を見下ろしつつ、俺はこっそり考える。


(それに、アイ=ファひとりがそんなものを背負うわけじゃない。森辺の行く末を決めるのは、森辺の民だ。その代表のひとりとして、大勢いる家長のひとりとして、アイ=ファは自分の仕事を果たそうとしているだけなんだ、きっと……)


 族長筋でありながら森辺の規範から外れてしまった、スン家。

 あの連中さえ何とかすれば、きっと森辺の未来は開ける。


(その方向性も、何となく見えてきた。要は、ドムやザザといった眷族たちに、スン家が見放されてしまうような状況をこしらえてやればいいんだ。……俺の悪知恵とルウの武力があれば、それはきっと難しい話じゃない)


 ものすごい肩透かしで終わってしまった家長会議であるが、そのような筋道を立てられたのだから、まずは満足するべきなのだろう。


 それに、サウティやフォウといった氏族とも縁を結ぶことができた。


 こうなってくると、当面の問題は、俺の料理に執着するミダ=スンぐらいのものだ。


 だけど、その点についても対応策は講じることができた。

 俺たちは、明日の朝、ミダ=スン自身をルウの集落に呼び寄せる算段を立てていた。


『美味い肉を食べたいなら、自分でその技術を学べ』ということだ。

『それが嫌なら、美味い肉を食べることはあきらめろ』ということでもある。


 この提案を、ザザやドムといった人々の立ち会いのもと、俺たちはスンの本家に述べてみせるつもりだった。


 ミダ=スンは、俺の料理に執着している。このままでは、勝手に宿場町まで下りて、何か騒ぎを起こしてしまうかもしれない、というヤミル=スンの脅迫めいた言葉を逆手にとって、その解決策を提示してみせよう、という心づもりであるのだ。


 別にミダ=スン本人ではなく、分家の男衆でもかまわない。とにかく、スン家でも血抜きや解体の技術を学べ、ということだ。


 それでもしも、スンの人間だけをルウの集落に向かわせるなどとんでもない、と、ザザやドムの人々までもが同行を求めてきたら、理想的ではないだろうか?


 晩餐の後、そういった話を聞かせると、ドンダ=ルウはしばらく沈思したのち――「勝手にしろ」と言い捨てた。


 たぶん、俺の思惑が正確に伝わったのだろう。

 ザザやドムとは刃を交えるべきではない、という俺の思惑が。

 ルウ家が彼らと縁を深めるごとに、スン家は力を失っていくであろう、という俺の悪知恵が。


 本来的に、ルウ家と彼らが敵対する原因など、どこにもないのである。

 ルウ家はスン家を忌避しており、彼らはスン家を信奉している。食い違っているのは、ただその一点だけであるはずなのだから。


(その突破口となるのがミダ=スンの食欲だっていうのは、何とも愉快な話だけどな)


 だけど本当に、それこそがスン家にとっては最後の希望になりうるかもしれない。


 美味いものを食べたいという欲求の権化であるミダ=スンが、率先してギバ狩りの仕事に励むようになれば、このスンの集落に澱んだ重苦しい空気を、少しばかりは払うことができるのではないだろうか?


 男衆がギバを狩り、女衆が調理をする。美味しい料理のために家族同士が力を合わせ、豊かな生を得る、という――そこに喜びを見いだせるような情感を、彼らが取り戻せることができれば、あの、腐った魚のような瞳にも光が宿るかもしれない。


(俺の想像が外れていなければ、あの人たちだって被害者なんだからな。そうやってスンの本家の人間を丸裸にすることができれば、血を流さずに族長筋としての権威をひっぺがすことだってできるかもしれないんだ)


 少し時間はかかるかもしれないが、何十年もかけて堕落と頽廃の歴史を積み重ねてきたのであろうスン家を再生させるには、それぐらいの労力が必要なのだろう、と思う。


(まあ……すべては明日になってから、だな)


 最後にもう1度アイ=ファの愛くるしい寝顔に目線を落としてから、俺も薄闇の中でまぶたを閉ざした。


         ◇


 それから、どれぐらいの時間が経過しただろう。

 得体の知れない感覚に襲われて、俺の意識はゆるやかに現世へと引きずり戻されることになった。


(……何だ?)


 何が起きたのかは、わからない。

 ただ、何かが明らかにおかしかった。


 頭の中で、危険信号が明滅している。

 まだ半覚醒である俺の意識に、得体の知れない感覚が「違和感」として流れこんでくる。


 この匂いは――何だ?


 奇妙に甘たるい――それでいて、妙に鼻腔をちくちくと刺激するこの匂いは、何だろう?


 重いまぶたを、のろのろ開ける。

 しかし、世界は暗黒に閉ざされていた。

 獣脂蝋燭も、すっかり燃えつきてしまったようだ。


 頭が、重い。

 身体も、重い。


 何だか、意識の一部分だけが覚醒してしまったかのような、夢うつつの気分だ。


 もしかしたら、これが世に言う金縛りというやつなのだろうか?


(いや……)


 それじゃあ、この匂いは何なのだ?


 この匂いは――何か、不快だ。

 俺の鼻や咽喉や肺が、この匂いが体内に侵入することを、強く拒んでいる。

 違和感の正体は、危険信号の正体は、これか。


(まさか……毒ガスか何かで、俺たちを皆殺しにするつもりじゃないだろうな……?)


 そんな突拍子もない思考が、突然ぽんと浮かびあがってくる。

 たちまち俺は猛烈なる不安感の虜となり、大あわてで身体を起こすことになった。


 が――思考に、身体がついてこない。


 気持ちばかりが空回りして、俺の身体は鈍重な亀のようにのろのろと動かすことしかできなかった。


 その胸もとに、ちょっとした重さと、熱を感じる。


 アイ=ファだ。

 アイ=ファの指先だ。


 俺は、他人のもののように感覚の鈍い右腕を持ち上げて、その指先に手の平を重ねた。


 アイ=ファの体温が、ゆっくり伝わってくる。

 完全に眠りに落ちてなお、アイ=ファは俺の胸もとを引っ捕まえたままだった。


「アイ=ファ」と呼ぼうとした。

 しかし、咽喉が収縮しており、うまく言葉を発することができない。

 気づけば、口の中がカラカラだった。

 心なしか、目も痛い。

 身体中が、乾燥しきってしまっているようだった。


(もしかしたら――これは、煙か……?)


 燭台の火が、木造の建物に引火してしまったのだろうか?

 いや、それならば、どこかに火の手があがっているはずだ。

 それに、俺よりももっと早く異変に気づく者がいるはずだろう。今この場に集結しているのは、森辺の精鋭の猛者たちなのだから。


(誰か、起きている人はいないのか……?)


 窓のひとつもない祭祀堂の内なので、いつまでたっても世界は暗黒に閉ざされたままである。

 どんなに目を凝らしても、何も見えない。


 ただ――そこは、悪夢のように静まりかえっていた。

 ダン=ルティムのいびきさえ聞こえてこない。

 俺の五感に触れるのは、奇妙な甘たるい香りと、アイ=ファの指先の体温だけだった。


(とにかく……ここにいたら、まずい……)


 俺は頭に巻きつけたままだったタオルをむしり取り、それで鼻と口を覆った。

 それだけで、少し呼吸が楽になった気がする。


 それに――そうして上半身を上げただけで、甘たるい香りが少し薄まったような気もした。

 何の匂いだか知らないが、これはLPガスのように、空気よりも重い物質であるのかもしれない。


(よし……)


 暗闇の中でアイ=ファの腕をたどり、その背に左腕を差し入れる。

 そうして、アイ=ファの身体を引き起こそうと試みたとき――


 そいつらが、やってきた。


「何だあ? あの餓鬼が目を覚ましてるじゃねえかあ?」


 悪意のしたたるような、若い男の声。

 野太いのに間延びしていて、耳に不愉快な声。


 ディガ=スンだ。


「どうしてこいつだけ目を覚ましてるんだあ? あのメレメレの葉ってのは、異国人にだけ効き目が薄いのかよ、ええ、テイ=スン?」


「さあ……わたしには、何とも」


 感情の欠落した声が、ディガ=スンに応じる。

 それと同時に、背後からオレンジ色の光を突きつけられた。


 俺は、のろのろと振り返る。


 ディガ=スンと、テイ=スン――それに、ドッド=スンまでもが、その場に雁首をそろえていた。


 ディガ=スンが、火のついた燭台をかざしている。

 残りの2名は、手ぶらである。

 手ぶらだが、腰にはしっかりと刀を下げている。


 そして――全員が、布きれで口もとを覆っていた。


「まあいいかあ。こんなひ弱そうな餓鬼だけだったら、目を覚ましていても問題はねえよなあ。とっとと運びだしちまおうぜえ?」


 毒々しい笑いを含んだディガ=スンの声とともに、残りの2名がにじり寄ってくる。


 抵抗は、不可能だった。

 もともと腕力ではかないそうもないのに、その上、俺の全身はまだ鉛のように重たいままだったのだ。


「やめ……ろ……」


 全力で、声を振り絞る。

 しかし、年老いた病人のようにか細い声しか発することはできなかった。


 俺の身体はドッド=スンに、アイ=ファの身体はテイ=スンによって引きずり起こされてしまい――アイ=ファの指先が、力なく俺の胸もとから離れていく。


 何なのだ、これは?

 いったい、何が起きているのだ?


 とびきりたちの悪い悪夢でも見ているかのように、現実感が希薄である。


「逆らったって、無駄だぜえ? お前以外は、ぐっすりおねんねしちまってるんだからなあ」


 下卑た笑い声をあげながら、ディガ=スンは足もとに横たわっていた名も知れぬ男衆の頭を蹴り飛ばした。


 しかし、その男衆は死体のようにぴくりとも動かない。


「シムの呪術師から買った、メレメレとかいう香草を焚いたのさあ。こんな面白えもんがあるなら、もっと早く知りたかったぜえ」


 香草――睡眠作用のある、没薬のようなものか?

 そんなもので、森辺の猛者たちが全員あっけなく眠らされてしまったというのか?


「こいつを嗅がせ続けると、刀で腹を切り開かれても目を覚ますことはないんだとよお。これだけの量を買うのに、白銅貨が5枚も必要だったんだぜえ? ……まあ、これで積年の恨みが晴らせるなら、安いもんだけどなあ」


 ディガ=スンの澱んだ目が、俺からアイ=ファのほうに移動する。

 反射的に俺は拳を振り上げたが、それもドッド=スンによって制されてしまう。


「無駄口を叩いてないで、とっとと出るぞ。いつまでもこのような場所にいたら、俺たちまで動けなくなってしまうわ」


 そうして俺たちは、半ば引きずられるようにして、祭祀堂の外にまで連れ出された。

 その際に、何人もの男衆の身体を蹴り飛ばしてみたのだが、やはり、目を覚ます者はいない。


 最悪だ。

 最悪の展開だ。


 本当に――こいつらはどこまで悪辣なのだろう。

 それに、とうてい正気の沙汰とも思えない。


「こんなことをして……ただで済むと思っているのか、あんたたちは?」


 外に出ると、とたんに呼吸が楽になったので、俺も少しだけまともな声を出すことができた。

 しかし、大声でわめくことなどはできそうにない。


「すべての家長がそろっている場で、こんなことをするなんて……スン家は、すべての氏族を敵に回すつもりなのか……?」


「うるせえなあ。異国人が偉そうな口を叩くんじゃねえよ」


 ドッド=スンに両脇を抱えあげられた俺の鼻先に、ディガ=スンのにやけた顔が近づいてくる。


「それに、どうしてスン家が責められなくっちゃならねえんだあ? 俺たちは、祝福を受ける身分なんだぜえ?」


「祝福だと……?」


「ああ、そうさあ。何たって、本家の長兄と長姉の婚儀がいっぺんに決まるんだからなあ。こんなめでたい話はねえだろお?」


 悪寒が、ざわざわと背筋を這いのぼってくる。

 どす黒い、今まで感じたこともないような激情のうねりが、俺の下腹に蠢いた。


「ディガ=スンは、ファの家のアイ=ファを嫁とする。ヤミル=スンは、ファの家のアスタを婿とする。滅びを待つだけのお前たちが、スンの人間になれるんだぜえ? むせび泣いて喜べよ、小僧?」


「ふざけるな……そんな話を、俺たちが了承するとでも思うのか?」


 ディガ=スンは、ギクリとしたように身を引いた。

 それから、いっそう醜悪な顔つきで笑う。


「そ、そんな目をしたって、お前らにはもうどうすることもできねえんだよ! 断るなら、ふたりまとめて谷底に突き落としてやる! そうすりゃあ他の家長どもも、ファの家は森辺を捨ててどこかの町にでも逃げたとしか思わねえだろうよ!」


「大声を出すな、ディガ。ルウの家長は、祭祀堂ではなく空き家で眠っているはずなのだからな」


 酒くさい息を吐くドッド=スンの言葉に、ディガ=スンはまたびくびくと大きな身体をすくませた。


「お、驚かすなよ、ドッド。おい、ルウの連中は1番南側の空き家に案内したんだよなあ、テイ=スン?」


「はい。仰せのままに」


「だったら、心配いらねえよお。ここから大声で叫んだって、そうそう聞こえる距離じゃあねえからなあ。……だからお前も、あきらめな。ヤミルの婿になるか、谷の底でムントに食われるか、お前にはもうそのふたつの道しか残されてねえんだよお」


 そしてディガ=スンは、テイ=スンのほうを振り返った。

 ぐったりと意識を失ったままのアイ=ファを抱えた、テイ=スンのほうに。


「アイ=ファを、俺の家に運んでおけ。まだしばらく目を覚ますことはねえだろうけど、きっちり手足を縛っておけよお? ヤミルと話をしたら、俺もすぐに行くからなあ」


「はい」とテイ=スンがきびすを返す。

 その背に、俺は「やめろ」と呼びかけた。


「アイ=ファに少しでもおかしな真似をしてみろ……俺は絶対に、あんたたちを許さない」


 ディガ=スンが、再び後ずさった。

 うすら笑いをへばりつかせたまま、その顔から見る見る血の気が下がっていく。


 しかし、テイ=スンのほうは、無表情のままだ。


「……自分の足で立つこともできない人間が、何をどう許さないってんだ?」


 そんなドッド=スンの声が響くと同時に、俺の脳天に鋭い痛みが走り抜けた。

 俺の身体を抱えたドッド=スンが、力まかせに俺の髪をひっつかんできやがったのだ。


「頼むから、ヤミルの婿になるなどと抜かすなよ、異国人め? 俺は貴様なんぞを一族に迎える気はない。逃げられないように両足を叩き斬って、そのままムントの巣に叩き落としてやるよ」


「……やれるもんなら、やってみろ」


 飢えた野犬のように光るドッド=スンの目を、俺は至近距離からにらみ返してやった。

 ドッド=スンもまたびくりと身体を震わせ、それから己の怯懦を恥じるかのように、黄ばんだ歯を剥き出しにする。


「ああ、やってやる。いつまでそんな目つきをしていられるか、楽しみだぜ。……行くぞ、ディガ。貴様もさっさと行け、テイ=スン」


「はい」


 アイ=ファの姿が、闇の向こうへと消えていく。

 俺は、割れてしまいそうなほど強く奥歯を噛みしめながら、大きく呼吸を繰り返した。


 新鮮な酸素を吸うごとに、手足に力が戻っていくのがわかる。

 ドッド=スンの腕にもたれかかりつつ、実はもう半分がた身体は回復しかけていた。


 だけど――まだだ。

 これではまだ、こいつらを振り切って逃げることはできない。


 あともう少し力が戻ったら、スキをついて、一気に逃げる。

 絶対に――絶対に、アイ=ファにおかしな真似はさせない。


(ドンダ=ルウがいるのは、1番南側の空き家だって言ったよな?)


 そんな情報を簡単に漏らすから、こいつらは小物なのだ。


 腹の内側を激情の炎に炙られながら――そうして俺は、悪逆なるスン家の虜囚と成り果ててしまったのだった。

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― 新着の感想 ―
読み返してますが本当に悪辣だなこれは。。。
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