⑥森辺の家長たち(下)
2014.11/13 更新分 1/1
「ありあまる富は、森辺に堕落をもたらす。……その考えもわからないではないが、もちろん私とて、そのようなものをもたらすために、このようなことを始めたわけではない」
訥々と、アイ=ファは語っていく。
「私はただ、森辺に豊かな生活をもたらしたいと願っただけだ。貧しさにあえいでいた民びとが、豊かな生活を得て、さらなる力を得ることができれば、これまで以上に狩人としての仕事を果たすことも可能になるであろう?」
ザザ家の家長は、「ハッ」と荒っぽく咽喉を鳴らして、それに応じた。
「それはどうだかな。1頭のギバで今まで以上の銅貨を得られるようになれば、多くのギバを狩らずとも生きていくことができるようになる。それこそが、堕落だ!」
「しかし、飢えてしまえば、狩人としての仕事を果たすこともかなわなくなるであろうが? ザザや、ジーンや、ドムのように大きな氏族であればまだしも、力を持たぬ小さな氏族には、もういくばくかの豊かさが必要であるのだ」
「……力を持ち得ぬなら、森に朽ちればいい。我らはそうして狩人としての力を練磨してきたのだ」
と、低い声が、割り込んできた。
今まで無言で同胞の言葉に聞き入っていた、ギバの頭骨をかぶった大男――ドム家の男衆だ。
「弱き狩人に生きる資格はない。強き狩人だけが生きぬき、強き血を遺す。無用な富で弱き狩人が弱き血を遺せば、それは森辺に滅びをもたらすであろう」
「無用な富とは何だ? 牙や角や毛皮から得られる代価は有用で、肉から得られる代価は無用だと、どうしてそのようなことが余人に決められるのだ?」
アイ=ファの瞳に、青い炎がゆらりとゆらめく。
「牙も角も、毛皮も、肉も、すべてはギバからもたらされる富だ。そこに何の違いがあるのか、お前には説明することができるのか、ドムの家長よ?」
「……我らは80年の昔から、牙と角と毛皮を富に換えてきた。それが、答えだ」
「それはただ、肉を富に換える手段を有していなかったというだけのことではないか? その手段を得ながらもみすみす富を打ち捨てるのが正しい道だとは、私には思えない」
勇猛なるドムの家長らにも負けぬ気迫を漂わせつつ、アイ=ファは少しだけ口調を和らげた。
「ドムの家長よ、私は昨晩、森辺の最長老であるジバ=ルウと言葉を交わしたのだ」
「……それがどうした、ファの家長よ」
「私は、疑問に思ったのだ。町の人間は、カロンとかいう動物の毛皮と肉で富を得ている。しかし、森辺の民はギバの毛皮のみを富として、肉は森に打ち捨ててきた。それは何故なのか、とな」
その話は、俺も一緒に聞いていた。
そこで俺たちは、森辺の知られざる歴史を知ることになったのだ。
「ジバ=ルウをふくむ森辺の民の先人らは、かつてジャガルの南の森で生きていた。その森には、人間を喰らう巨大な黒猿の他には、小さな蛇や蜥蜴ぐらいしか獣は存在しなかったという。……そして、人間をも喰らう黒猿の肉を喰らうことは強い禁忌とされ、先人らは、蛇や蜥蜴や虫などを喰らって生きてきたのだそうだ」
「それぐらいの話は、ドムにも伝わっている。それでも先人たちは己と血族を守るために黒猿を狩り続け、そうして狩人としての力を育んだ、ということであろうが?」
「その通りだ。そして、先人らは黒猿の毛皮を剥ぎ、それを身に纏い、己の誇りを示すようになった。……つまりはそれが、毛皮を剥ぐ手段のみを有し、肉を正しい方法で喰らう手段を有さなかった理由だ」
「…………」
「やがて私たちの祖は、南の森からこのモルガの森辺へと移り住み、黒猿の代わりにギバを狩り――そして、その肉を喰らうことを許されたが、正しい方法で喰らう手段を探そうとはしなかった。獣の肉を喰らえるだけで歓喜し、充足してしまったのだと、ジバ=ルウはそんな風に言っていた」
「だから、それがどうしたというのだ? ……ならば我らも、ただ肉を喰らうだけで充足するべきではないのか?」
「それは違う。……違うと、思う」
きっとアイ=ファは、昨晩のジバ=ルウの姿を思い出しているのだろう。
無限の悲しみと、そして、そこにかすかな希望の光をたたえた、ジバ=ルウの不思議な眼差しを。
「それは自分たちの怠惰であったのかもしれないと、ジバ=ルウは言っていた。町の人間たちとの交流を拒み、どうしてギバの肉だけが銅貨に換えられる価値を持たないのか、その謎を解き明かそうともしないまま、80年もの時を過ごしてしまった、と――ジバ=ルウは、とても悔いているように見えた」
「何故、悔いる? 先人たちが悔いる必要などない。先人たちが道を示してくれたからこそ、今の我々があるのだ」
「だから、今よりももっと豊かな道を示すことができたのではないかと、ジバ=ルウは悔いていたのだ。……そして、その豊かさがあれば、先人たちもこれほどまでに生命を落とさずに済んだのではないか、と」
このモルガの山麓の森辺にまで到達したとき、民の数は1000人を数えたのだ。
その内の半数が、最初の数年で死に絶えた。
凶悪なギバとの闘いと、そして、飢えによって、である。
その逸話は、ジバ=ルウと最初に出会った夜に、聞いている。
「町の人間は、おそらく肉の正しい食べ方を最初から知っていた。先人たちが町の人間を忌避せずに、正しく縁を結んでいれば、最初からギバの肉を銅貨に換えることもできたはずだ。その努力をしてこなかった怠惰が、今もなお飢えて死ぬことが珍しくない森辺の貧しさを招いてしまったのならば、それは自分たちの罪であるとジバ=ルウは言っていた」
「…………」
「ありあまる富は堕落を招くというドムの家長の言葉が間違っていると、私に断言することはできない。だけど、私は――ありあまる富が、弱き民を強き民に変えることもできる、という可能性を信じて――森辺に、豊かさをもたらしたい、と思う」
そうしてアイ=ファは、ちらりと俺のほうを見た。
「それはあまりに途方もない話に聞こえるかもしれないが、このアスタの力があれば、可能なのではないかと思えたのだ。……アスタの料理は、美味くはなかったか?」
答える者はいない。
それでもアイ=ファは、とても穏やかな目つきになり、少しだけ口もとをほころばせた。
「私には、とても美味いと思えた。だから、自分の信じた道を進みたい。……それを皆に賛同してもらえたら、嬉しく思う」
しん――と、祭祀堂の中が静まりかえっていた。
まだ大半の人間は食事の最中であったろうと思うが、身動きをしようとする者もいない。
スン家も、その眷族も、ルウ家も、その眷族も――かまど番をつとめた女衆も、小さな氏族の家長たちも、全員が奇妙な感じに息をひそめ――
そして、にわかに静寂が破られた。
「……フォウの家は、ファの家長に賛同する」
全員が、ゆっくりとそちらを振り返る。
ひとりの壮年の男衆が、祭祀堂の片隅に立ちはだかっていた。
「フォウの家は、小さな氏族だ。眷族も少なく、十分な数のギバを狩ることもできてはいない」
黒っぽい蓬髪に、同じ色の髭。長身だがいくぶん痩せ気味の、40がらみの男衆だった。
「肉は食えるが、牙や角が足りていない。せっかく授かった幼子も、飢えて死なせる羽目になりかけていた。しかし、男衆に今少しの余力があれば、これほど家族を苦しめることもなかったはずだ」
薄闇の中に、青い瞳が燃えている。
狩人としての誇りと、無念の思いが渦巻く、一種悽愴な眼光である。
「石の都のほどこしなどはいらぬ。しかし、この手で狩ったギバから富を得られるなら、それは正当な代価だと思える。それでさらなる力が得られるならば、誓って我々はこれまで以上に狩人としての仕事を果たしてみせよう。……だから、フォウの家は、ファの家長の言葉に賛同する」
「……ラッツの家も、ファの家長に賛同する」と、今度はその反対側にいた男衆が立ちあがった。
まだ20になるならずの青年だ。
「俺たちは、この1年で、メイとギームというふたつの眷族を失った。その中でも特にメイの家長は勇猛な狩人であったが、わずかな傷から悪い風が入り、病を得て、あっけなく死んでしまった。……今少しの蓄えがあれば、宿場町で病を癒す薬を買うこともできたのであろうがな」
その、深い怒りをたたえた目が、食い入るように、ドム家の家長を見る。
「ドムの家長の言に従うならば、メイやギームは滅んで然るべしということになる。そのような言には従えぬので、ラッツの家は、ファの家長の言葉に賛同する」
「何もそのように言葉を荒げることはない。ドムの家長とて、小さき氏族など滅んでしまえばよい、などと願っているわけではないのだからな」
と、しわがれた声とともに、また新たな影が立ち上がる。
それは、ジバ=ルウのように白い髪をした痩せぎすの老人であった。
「スンともルウとも縁を持たぬ小さな氏族は、総勢で300余名にも及ぶ。それらのすべてが死に絶えてもかまわぬなどと考える人間はおるまい。それではとうてい西の都を守ることなどはかなわなくなるのだからな」
「サウティの長老か。……まさか、貴様までもがファの家に賛同するなどと抜かすわけではあるまいな?」
しばらく黙りこんでいたザザ家の家長が、火のような目でその老人をにらみすえる。
「賛同するかは、家長の決めることだ。ただ、儂のような老いぼれには、最長老の言葉が痛いほど心に滲み入ってくるのだよ。儂らが道を間違えた分は、若い衆が余計な回り道をすることになるのだな、と」
森辺の民にしてはずいぶん穏やかな眼差しを持った老人だった。
その柔らかい眼差しが、ザザの家長から俺やアイ=ファのほうに転じられる。
「町の人間は儂らを忌避して、儂らは町の人間を忌避した。それはそれで逃れられぬ運命であったのやも知れぬが、その運命に抗おうという努力を十分に果たしてきたとは言えぬであろう。……もしかしたら、ファの家の者たちは、そんな儂らの代わりに道を切り開こうとしてくれているのではないのかな」
「このような異国人に、いったい何ができるというのだ!?」
「宿場町の人間と、悪縁ならぬ縁を結ぶことができる。そのようなことのできる人間は、今の森辺には存在するまい」
悠揚せまらぬ老人に対して、ザザの家長はいっそう凶悪に顔面を引きつらせる。
「ルウの眷族ばかりでなく、サウティまでもが族長筋を誹謗する心づもりか? 石の都と森辺の縁を結んでいるのは、スンの家だ!」
「スンの家が繋いでいるのは、ジェノスの城との縁であろう? 城の人間と、町の人間は、違う。……そして、まことに残念なことながら、スン家は町の人間と正しい縁は結べておらぬ。つい先だっても、本家の次兄が町で刀を抜いた、という話ではないか?」
「それは、町の人間が森辺の民を誹謗したためであり――!」
「誹謗には刀で報いるべし、という掟はなかろうよ、ザザの家長よ?」
ルウの眷族以外でも、ここまで面と向かってスン家に苦言を呈する氏族があるのか、と俺は少なからず驚かされた。
老人は、静かに微笑みながら、また俺たちのほうを見る。
「儂のような老いぼれには、サウティの道を決する力はない。しかし、儂自身はお主たちの存在を祝福したいと思っておるよ、ファの家の家長と家人よ」
「ならば、家長を差し置いてあれこれと余計な口を叩くな、長老モガよ」
と、老人のかたわらに座りこんでいた若者が、大儀そうに立ち上がる。
ものすごく大柄で、なおかつジザ=ルウやガズラン=ルティムにも匹敵する風格を有する若者であった。
「サウティの家長、ダリ=サウティから、ひとつ質問させていただきたい。ルウの家長たるドンダ=ルウよ、貴方はこの件に関して、どのような考えを持っているのだ?」
これまで頑なに沈黙を守っていたドンダ=ルウが、じろりとその若者をにらみすえる。
「ルティムの家長は、ファを友と呼んだ。しかし、実際に力を貸しているのは、ルウの女衆なのであろう? ルティムの長たるルウもまた、ファを友として、志を同じくしている、ということなのか?」
「……俺は別に、こんな連中を友と呼ぶ気はない」
底ごもる声で言いながら、ドンダ=ルウはゆらりと立ち上がった。
「女だてらに狩人の真似事にいそしむうつけ者と、得体の知れない異国人なんざを、どうしてこの俺がそんな口はばったい名で呼ばなくてはならないのだ?」
「ならば、どうして女衆を貸しているのだ? 単に代価が目的であるのか?」
いぶかしそうに、ダリ=サウティと名乗った若者が太い首を傾げやる。
その朴訥とした顔をにらみすえつつ、ドンダ=ルウは、低く言った。
「ギバの肉に、銅貨と換えられるだけの価値を与える――そんな夢物語が実現するとは思えねえし、町のぼんくらどもが心を入れ替えるとも思えねえ。俺はただ、正当な代価と引き換えに、女衆を貸しているだけだ」
「そうか。それならば――」
「しかし、そんな夢物語が実現したなら、森辺はさらなる力を得ることができるだろうよ」
ドンダ=ルウの重々しい声音が、鉈のように若者の言葉を断ち切った。
その目が爛々と燃え始め、口もとには不敵な笑みが浮かんでいく。
「ありあまる富が森辺の民を堕落させる。……そんな馬鹿げたことがあるわけはねえ。そんな風に考えるやつこそが、森辺を堕落させるんだろうさ」
「何だと……?」と、一気にザザやジーンの男衆たちが色めき始めた。
「ザザよ、ジーンよ、貴様たちは、100枚の銅貨を手にしたら、それを費い果たすまでギバを狩らずに遊び惚けるのか?」
「ふざけるな! 貴様はどこまで我らを愚弄する気なのだ、ルウ家の家長よ!」
「そこで頭に来るっていうなら、それ自体が答えだろうがよ?」
ドンダ=ルウは、まだ笑っている。
最近は難しい顔をすることが多くなっていたが、そういえばこの御仁はこういう気性であらせられたのだ。
笑いながら、敵を威圧し、屈服させようとする、烈火のごとき豪傑なのである。
「俺が貴様を愚弄したんじゃない。貴様が俺たちを愚弄していたのだ、ザザの家長よ。ありあまる富で、堕落する? そんな人間は、最初から狩人じゃねえ! そんな人間は、最初から森辺で生きる資格もねえんだよ!」
「しかし……!」
「それで堕落するような人間がいれば、そんなやつは森辺から追放しちまえばいいだけのことだ。森辺の秩序は、それで保たれる」
ドンダ=ルウは、楽しくてたまらぬように口もとをねじ曲げる。
もちろんそれは、スン家に対する痛烈な罵倒であり、宣戦布告の言でもあるのだろう。
そんなこととはつゆ知らぬままに、ザザの家長らは険悪な形相でドンダ=ルウの弁に聞き入っている。
「ルウの家に、これ以上の富は必要ねえ。ルティムも、レイも、それは同様だ。……しかし、リリンやムファは、まだ力が足りない。眷族の助けがなければ、メイやギームのように滅びることもありうるだろう」
「…………」
「だが、今回の一件で、ルウはさらなる富を得た。そして、ファの家に女衆を貸したゆえに、毛皮をなめす人手が足りなくなり、その毛皮をリリンやムファに分け与えることができた。……豊かになるっていうのは、そういうことなんじゃねえのか、ええ、ザザの家長よ?」
「…………」
「森辺の民は、まだ堕落できるほどの豊かさを手に入れてねえんだよ。そんな心配は、飢えて死ぬ人間がひとりもいなくなってからすりゃあいいんじゃねえのか?」
「ならばやはり、貴方はファの家と志を同じくしている、ということなのではないか、ドンダ=ルウよ?」
そんな風に口をはさんできたのは、ダリ=サウティだった。
ドンダ=ルウは野獣のごとき笑みを消し去り、うるさそうに顔をしかめる。
「言っただろうが? 俺にはそんな夢物語を信じることはできねえってな」
「しかし――」
「だが、それがかなえば森辺の民はさらなる力を得ることができる。……だったら、それを邪魔する道理もねえだろうが?」
「やれやれ……」と、小声でつぶやく声が後方から聞こえた。
そっとそちらを盗み見ると、ミーア・レイ母さんが苦笑していた。
「本当に意固地な家長だね」と、その顔に書いてある。
「ふむ……実に興味深い話であるな」
と――くぐもった声が、いくぶん調子の外れた感じでその場に響き渡った。
ズーロ=スンである。
ドンダ=ルウは、狩人の眼光をそちらに突きつける。
「しかしまあ……そのような話を実現させるには、まだまだ時間が必要であろう。今はゆるりと情勢を見守るべきではないのかな……?」
何とも間の抜けた発言である。
これだけ白熱した議論に対する感想が、それなのか。
主義も主張も、何ひとつ感じられない。
「くだらねえなあ。まさか、ファの家の口車に乗るような氏族がルウの他にもいるとは思いもしなかったぜえ」
と――そのかたわらから、間延びしたディガ=スンの声もあがる。
「フォウの家と、ラッツの家か。……こいつはしっかり覚えておいたほうが良さそうだなあ?」
それらの家長たちは、まだその場に立ったまま、射るような目つきでディガ=スンをにらみすえていた。
俺の胸中に、それで初めて怒りの激情が燃えあがったが、それが発露される機会は与えられなかった。
俺よりももっと沸点の低い御仁が、「おい!」と蛮声を張りあげたのである。
「お前のその言い草は何なのだ、スンの長兄よ! 森辺には、ファの家と縁を結んではならじ、とでもいう掟が存在するのか!? 逆恨みも大概にするがいいわ、この下衆めが!」
ダン=ルティムである。
その禿頭には太い血管が走りぬけ、どんぐりまなこには怒りの炎が噴きあがっている。
そう――おそらく、これまではスン家の目をはばかってファの家との縁を絶ってきた小さな氏族の家長たちが、今、2年ぶりに、その行動をひるがえそうと試みたのだ。
この火は、絶対に消してはならない。
「げ、下衆とは何だ? 貴様なんぞにそんな悪態をつかれる覚えはねえぞ、ルティムの家長よ?」
まだへらへらと笑いながらも、ディガ=スンの顔はいくぶん引きつり始めていた。
100キロ級のギバを投げつけられたトラウマが蘇ったのかもしれない。
そこで、こっそり他の連中の様子を観察してみると――ズーロ=スンはもちろん、ザザやジーンの家長たちさえも、苦々しい表情になってしまっていた。
ズーロ=スンは、単に波風を立ててほしくなかっただけなのだろうが、スンの眷族たちに関しては――主義主張で対立するならばともかく、ディガ=スンのかつての悪行まで擁護する気は、さらさらないのだろう。
もしかしたら、彼らもドンダ=ルウと同じように、女衆の身で狩人を名乗るアイ=ファを忌々しく思ったりはしているのかもしれない。
それに、ありあまる富に関しても、彼らは彼らなりの考えに基づいて、真っ向から反対しているのだろう。
しかし、アイ=ファが父親を失ったその夜に、許可もなく家にまで乗りこんで乱暴をはたらこうとしたディガ=スンの悪行など、族長筋を信奉する彼らにしてみても、言語道断の振る舞いであるはずだ。
そこのところが、ディガ=スンにはまったくわかっていない。
族長筋としての権威を振りかざしつつ、何が許されて、何が許されないのか、その線引きができていないのだ、この男は。
だから――小物なのだろう。
(もしかしたら俺たちは、族長の座がズーロ=スンからこのディガ=スンに引き継がれる日を待っているだけでいいんじゃないか?)
そんな考えすら、かきたてられてしまう。
このディガ=スンが家長となり、族長となれば、たぶん遠からずして、ドムやザザの信頼を失うことになるだろう。
そうすれば、ドンダ=ルウが刀を奮うまでもなく、俺などが悪知恵をはたらかせるまでもなく、きっと、スン家は勝手に瓦解する。
(何とも消極的な策だけど、ある意味ではそれが1番、平和的な解決方法なのかもしれないな……)
そんな中、現在の族長であるところのズーロ=スンが、「まあまあ」とでも言いたげにダン=ルティムのほうを見る。
「……そのように声を荒げるものではない、ルティムの家長よ……お主は2年前のことを取り沙汰しておるのか? そのように古い話をわざわざ蒸し返すことはなかろう……?」
「だったらその不出来な息子の口をしっかり縫い合わせておけ! 聞いているだけで、虫唾が走るわ!」
ダン=ルティムがどかりとあぐらをかきなおして、半ば無意識のように右手を下方にさまよわせる。
俺がこっそり自分のぶんの木皿をそちらに押しやると、いったいどのような察知能力を有しているのやら、スン家の連中をにらみすえたまま、ダン=ルティムは至極正確にあばら肉をつかみ取った。
俺の代わりに言いたいことを言ってくれた、せめてもの御礼である。
「……フォウとラッツの名など、覚えるに値しない。覚えるのなら、スドラの名も覚えていただこう」
と、陰気な声がどこかから上がった。
スン家からはもっとも離れた下座の果てで、あまり大柄でない男衆が立ち上がる。
「スドラの家も、ファの家の家長に賛同する。……スドラの家にだって、今少しの豊かさは必要だ」
すると、少し離れた位置からも男衆が立ち上がる。
「……ガズの家も、ファの家長に賛同する。ギバの肉が美味いだの不味いだの、最初は何を言っているのかもまったくわからなかったが、このギバの肉を食べて、気持ちが変わった。……これならば、町の人間が銅貨を差し出すこともありうるだろう」
ならば――と、あちこちでそれに続こうとする気配が上がったが、それはズーロ=スンの少なからず抑制を欠いた声によって押し留められた。
「待つがいい、氏族の長たちよ……何も我は、この場でファの家の行動の是非を決めるべし、とは思っておらん……さきほども言うた通り、ファの家の行動が実を結ぶか否かには、相当な時間が必要になるであろうからな……今少し、ゆるりと情勢を見守るべきであろう……?」
「それでは、族長も今の段階でファの家の行動に異を唱えるつもりはない、ということなのだな?」
そのように言葉をはさんだのは、ダリ=サウティだった。
「しかし、異を唱えているのはスン家の眷族たるザザやドムの家長たちであるわけだが、そこのあたりはどのようにお考えなのか?」
「無論、ザザやドムの家長たちの言い分は正当であると思えるし、我自身も、ありあまる富の危険性は無視できぬ、という立場である……しかし、ルウの家長の言う通り、ギバの肉に銅貨としての価値を与える、などというのは、途方もない夢物語でもあろう……そのような些事で、森辺の同胞が相争う必要はない、と我は考える……」
そうしてズーロ=スンは、憮然と立ちつくすザザの家長らに脂っぽい目線を向けた。
「我が眷族たる、ザザにジーンにドムの家長らよ……ここは我の顔に免じて、矛を収めてはもらえぬかな? ……ファの家がもたらすのは、堕落か、繁栄か、我らがそれをしかと見定めれば、森辺の秩序が乱されることもなかろうて……」
「……族長の意のままに」と、感情を殺した声で述べ、ザザの家長らは腰を下ろした。
その姿を見届けてから、ドンダ=ルウも腰を下ろす。
フォウも、ラッツも、スドラも、ガズも――そして、サウティの家長と長老もそれに従うと、あたりには、何だか白けた雰囲気がたちこめた。
「……次の家長会議においては、何らかの結果が出ているであろう……それまでは、己の志に従って励むがよいぞ、ファの家の家長にかまど番よ……」
アイ=ファは、取りすました顔で目礼を返した。
「ねぇ……いったい、どういうことなのぉ……?」
と、ヴィナ=ルウがこっそりTシャツのそでをつまんでくる。
「これじゃあ結局、何も解決してないんじゃなぁい……?」
「うーん、どうなんでしょう。……逆に、すべてが解決した、という言い方もできるかもしれませんけれども」
言ってみれば、これは族長筋のスン家に「しばらくは好きにやってみるがいい」と、お墨付きをいただけたようなものだ。
これならば、もうザザやドムといった恐ろしげな連中に文句をつけられることもない。少なくとも、俺たちの行為が堕落をもたらした、という具体的な実例でも示されない限りは。
こんなに呆気なく許されてしまっていいのか、というぐらいの話である。
(本当に……本当にこのズーロ=スンっていう男は、そこまで徹底した日和見主義なのか?)
どうせなら、多数決ぐらいは取ってほしかった。
フォウやラッツといった4つの氏族は賛同を示してくれたが、ここにはスン家を含めて37もの氏族の家長がそろっているのである。そのうちの何人が、俺やアイ=ファの決意を是としてくれるのか、俺たちとしては、それを見極めるためにすべての事情をぶちまけたようなものなのだ。
なのに、結論は――「来年を待とう」である。
不完全燃焼もいいところだ。
こんな強烈な肩透かしが存在していいものだろうか?
ドンダ=ルウは、不機嫌そうな顔つきで果実酒をあおっている。
ダン=ルティムも、ものすごくつまらなそうな面持ちで白い骨をかじっている。
いざとなれば荒事に持ちこんででも――というぐらいの覚悟は固めていたのだろう。
荒事にならなかったのは何よりだが、これでは拳の持っていき場所がない。
(もしかしたら、俺にかまどの番を申しつけたのも、本当にミダ=スンをなだめるためだけだったとか……そんなことも、ありうるんだろうか?)
ヤミル=スンは、いかにも何かを企んでいそうな毒気を発散していたのに、このズーロ=スンという男には、何も感じられない。
愚鈍で、怠惰で、そして無気力。
現時点での安寧さえ守ることができれば、後はどうでもかまわない、という投げやりな態度。
これが、ズーロ=スンの本質なのだろうか?
(実は、ヤミル=スンがすべての黒幕である、とか……? いや、それにしたって、このまま家長会議が終わったら、何も情勢を動かすことはできなくなるだろう。これでディガ=スンやドッド=スンあたりが俺たちの商売を邪魔してきたら、族長の決定に逆らったっていう結果にしかならないし……いったい何なんだよ、これは?)
ズーロ=スンは、至極満足そうなうすら笑いを浮かべている。
ディガ=スンは、少しふてくされた表情。
ドッド=スンは、無言で酒をあおっている。
俺たちは――というか、俺は勝手に敵を大きく見積もってしまっていただけなのだろうか?
スン家など、蓋を開けてみればこのていどの、小悪党の集団でしかなかった、ということなのだろうか?
わからない。
わからない、が――結局その後は何の波乱もなく、しめやかに晩餐は終了した。
それと同時に家長会議の終了も宣言され、スン家の人間たちは家に帰っていく。家長たちは、この場で雑魚寝だ。
あとはこの一晩を乗りこえれば、懐かしの我が家に帰還することができる。
(……もちろん、このまま終わらせることはできないけどな)
晩餐の後片付けに従事しながら、俺はこっそり考える。
たとえ小悪党の集団でも、スン家を放置しておくことはできないのだ。
ディガ=スンに跡目を継がせれば、勝手に自滅するだろう――とは思えても、5年も10年もそれを待ってはいられない。
これはもはや、ファやルウだけの問題ではないのだから。
ミラノ=マスや、ドーラの親父さん、そしてユーミなどといった人々の姿や言葉が、俺の頭の中で渦巻いている。
俺や、俺のそばにいる人間を信用することはできても、森辺の民そのものの存在を許すことはできない――というのが、彼らの共通認識だ。
森辺の民としての誇りを忘れた人間がのさばっている限り、本当の意味でジェノスの人々とわかりあうことは不可能なのである。
そして俺たちは、この地でスンの分家の人間たちとも知己を得てしまった。
腐った魚のような瞳をした、あの女衆たち。
彼女たちを放っておくこともできない。
たとえこの夜が無事に終わったところで、まだまだ問題は山積みなのである。
(まあ、すべては明日になってからだな……)
そんな風に、俺は考えていた。
呑気にも、そんな風に俺は考えていたのだった。
これはもう、完全に結果論になってしまうのだが――
スンの集落における本当の災厄は、この夜にこそ一気に牙を剥いてきたのである。