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異世界料理道  作者: EDA
第七十一章 碧落の婚礼
1235/1695

エピローグ ~帰還~

2022.8/4 更新分 1/1

・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。


・カクヨムにて新作を公開いたしました。『夏の輪廻』というタイトルで、ループやタイムリープなどの要素があるミステリ系の作品となります。ご興味を持たれた御方はよろしくお願いいたします。

(https://kakuyomu.jp/works/16816927861629507618)

 黒の月の23日――バナームにおける婚儀を見届けた俺たちは、順当にジェノスへの帰路を辿っていた。


 婚儀の翌日は休養日であったため、また城下町をのんびりと見物させていただき、バナームを出立したのは昨日の早朝になる。そして昨晩はムドナで夜を明かし、現在に至るという感じだ。この2日間の旅路には何の問題もなかったので、日が暮れる頃にはジェノスに帰りつけるはずであった。


 往路と同じように同乗を願ってきたフェルメスと語らいつつ、俺の脳裏にはまだ華々しい祝宴のさまがくっきりと渦巻いている。炎と熱気に彩られた祝宴の記憶は、しばらく俺の頭から離れそうになかった。


 それに、婚儀の翌日にはウェルハイドやコーフィアとあらためて言葉を交わすことがかなったのだ。夫婦となった両名はとても穏やかな面持ちをしながら、おさえようもない幸福の気配をたちのぼらせて、俺たちをいっそう温かい心地にさせてくれたのだった。


 それに、その場にはアラウトも同席していた。コーフィアの乱心を気にかけていたアラウトもすっかり安心した様子で、終始笑顔であった。そしてこれからバナーム伯爵や使節団の関係者と相談して、ジェノスにおもむく算段を立てるつもりだと熱っぽく語っていた。


「きっとその折には、アスタ殿にも大きなお手間をかけさせてしまうことでしょう。ジェノスにとっても実りのある通商になるように尽力しますので、どうかご容赦ください」


 もちろん俺は、心からの笑顔とともにその申し出を了承することになった。この数日間の滞在で、俺はすっかりアラウトという少年に好感を抱いていたのだ。ウェルハイドと同じぐらい誠実で、熱情的で、そして兄よりもまだまだ幼い部分を残しているアラウトは、ひとりの人間として信用できるのと同時に、とても可愛らしく思えたのだった。


「バナームで宴料理を作りあげるなんて、それなり以上の大仕事だったけどさ。でも、すごく充実した数日間だったと思うよ」


 バナーム滞在の最終日の夜、眠りの前のひとときで俺がそのように告げてみせると、アイ=ファも満足そうな微笑とともに「うむ」とうなずいていたものであった。


「我々は多くの人間と言葉を交わすことがかなったし、古都たるバナームの様相もしっかり見届けることがかなった。……多少なりとも苦痛であったのは、遠慮を知らぬ者たちに取り囲まれたことぐらいであろうかな」


「あはは。それでも深刻な事態にならなかったのは何よりだよ。それに今後は、ジェノスの城下町の人たちの誠実さが、いっそう実感できるようになるんじゃないのかな」


「ふん。若い娘の騒がしさは、ジェノスでもバナームでも大差ないようだがな」


 そんな風にぼやきつつ、アイ=ファは穏やかな眼差しをしていた。


 ともあれ――7日間にわたったこの旅も、ついに終わりを迎えるのだ。

 俺の胸には、ただひたすら充足の思いだけが満ちている。こんな気持ちで帰路を辿れるというのは、何より幸いな話であった。


 そうして最後の小休止から二刻ほど車に揺られて、車内が薄闇に包まれた頃、車が静かに停止したのだった。


「どうやら到着してしまったようですね。次にお会いできるのは、城下町か森辺の集落か……何にせよ、再会の日を心待ちにしています」


 フェルメスはどこか甘えるような調子でそのように囁き、俺の手をぎゅっと握りしめてから、ジェムドとともに車を降りていった。

 しばらくして、護衛の役を担っていたアイ=ファとラヴィッツの長兄が戻ってくる。そして最後に、カミュア=ヨシュがひょこりと車内を覗き込んできた。


「それじゃあ俺たちは、このまま宿場町に戻るとするよ。アスタたちは明日、さっそく屋台を開くんだっけ?」


「ええ。いちおう、その予定です。まあ、森辺に戻ってみないと、無事に下ごしらえが終了してるかどうかもわからないのですが……きっと大丈夫だと、俺は信じています」


「それじゃあ、また明日ね。その他の面々も、どうぞお元気で」


 チェシャ猫のような笑顔を残して、カミュア=ヨシュは扉を閉ざした。

 ほどなくして、車はゆるゆると動き始める。半日ぶりにアイ=ファと再会したリミ=ルウはその腕をぎゅっと抱きすくめつつ、「わーい!」と歓呼の声をあげた。


「森辺の集落も、もうすぐだね! バナームも楽しかったけど、早くみんなに会いたいなー!」


「ええ。きっと誰もが、同じ思いであることでしょう」


 そのように答えたのは、ともにフェルメスと語らっていたガズラン=ルティムだ。ガズラン=ルティムなどは愛息のゼディアス=ルティムと離ればなれであったのだから、そんな気持ちもひとしおであったことだろう。


 ただ俺も、それに負けないぐらい胸を弾ませているつもりである。この旅は20人がかりであったのだから物寂しさとも無縁であったが、しかしそれでも7日間も森辺の集落を離れていたのだ。近しい人々とこれほど顔をあわせずに過ごしたのは、もちろんこれが初めてのことであったのだった。


 リミ=ルウに腕を取られたアイ=ファも凛々しい表情を保ちつつ、ちょっとそわそわしているように感じられる。その心情を察した俺は、アイ=ファに笑いかけることにした。


「きっとブレイブたちも、さびしがってるぞ。早く元気な姿を見せてあげたいところだよな」


「うむ。ルウ家で挨拶をしたならば、すぐさまフォウの家に向かうとしよう」


 ブレイブたちはアイ=ファの留守中も、フォウの狩人たちとともに狩り場を巡っているはずであるのだ。どれだけ帰りが遅くなろうとも、俺たちは今日の内に大事な家人を迎えにいくと告げていたのだった。


「太陽は、まだ半分がた残されている。これならば、フォウの家人に迷惑をかけることにもなるまい」


「ああ、晩餐の支度もフォウの人たちにお願いしてたもんな。サリス・ラン=フォウたちにも、土産話をたっぷり聞かせてあげよう」


 そうして俺たちは胸を高鳴らせながら、森辺の集落を目指すことになった。

 軽快に街道を駆けていたトトス車は、やがてゆったりと速度を落とす。宿場町に到着して、御者が地面に降りたのだろう。それから数分が経過すると、車がぐっと後ろに傾いて、わずかに速度が上げられた。森辺に通ずる小道をのぼり始めたのだ。


 ここまで来れば、森辺の集落ももう目前である。ルウ家の広場には、俺たちがそれぞれの家に戻るためのトトスと荷車が準備されているはずだ。よって、ギルルとの再会ももう目前であった。


「ダリ=サウティたちは、ここからサウティの家まで戻るのですか? だとしたら、ちょっと遅めの帰宅になってしまいますね」


「うむ。さすがにゲオル=ザザたちは、ディンの家で一夜を明かすそうだがな。俺たちは、家に戻る手はずになっている。一刻も早く、家族を安心させてやりたいのでな」


 ダリ=サウティも、幼い子供と伴侶を抱える身であるのだ。その顔にも、家族との再会を期待する表情が垣間見えていた。

 そうして小道を乗り越えたトトス車は、ぐんとスピードを上げて森辺の道を疾駆する。しかし、ルウの集落はそこからすぐの場所であったので、一分と経たずに停止することになった。


 が、車は停止したまま動かない。

 歩調を落として広場にまで踏み入っていくことを予想していた俺たちは、思わず顔を見合わせることになった。


「何故に、集落の手前で足を止めているのであろうな。……何か不測の事態でも生じたのか?」


 アイ=ファはたちまち鋭い眼差しになって、腰の刀に手をかける。

 しかしそれをなだめるように、後部の扉が全開にされた。


「皆、ご苦労だったな。ここからは、自分の足で広場に向かってもらいたい」


 そのように告げてきたのは、ルウ分家の若き家長たるジーダである。

 一同を代表して、ダリ=サウティが言葉を返すことになった。


「それはまったくかまわんが、どうして城下町の車をこの場で止めたのであろうかな?」


「集落の広場に、車を迎える隙間がないからだ。それを告げるために、俺とシン=ルウが集落の前で待っていた。日没の前に戻ってきてくれたので、俺たちもありがたく思っているぞ」


 今ひとつ実情が知れなかったが、とにかく俺たちは車を降りることにした。

 もう片方の車からも、10名の同胞がぞろぞろと降車しているさなかである。そして、俺たちがバナームから持ち帰ったお土産の木箱や酒樽なども、どさどさと道端に積まれることになった。

 そちらの作業が終了したのち、護衛役として同行してくれていた騎兵のひとりが、トトスの上からダリ=サウティに呼びかけてきた。


「では、我々は城下町に帰還いたします。森辺のご一同、お疲れ様でありました」


 2台のトトス車はUターンをして、騎兵たちとともに立ち去っていく。

 その姿を見送ってから、俺たちはあらためてジーダおよびシン=ルウに向きなおることになった。


「それで、広場に車を迎える隙間がないというのは――」


「行けばわかる」と、ジーダはさっさと歩き始めてしまった。

 ジーダほど不愛想ではないシン=ルウは、歩きながら俺たちに静かな微笑を届けてくる。


「あちらの荷物はすぐに運ばせるので、皆も移動を願いたい。広場で待っている者たちも、きっとやきもきしているであろうからな」


「ふむ。何やら広場が賑やかなようだな。もしや……分家の若衆が、狩人の衣でも授かっているのであろうか?」


 そのように問いかけたのは、ジザ=ルウだ。見習いの狩人が自らの手でギバを仕留めたのなら、一人前の狩人と認められて、新たな刀と狩人の衣が贈られるのだ。それならば、時期を選ばずに粛々と儀式が行われるはずであった。


「この7日間で、そのような変事が生じることはなかった。広場に集まっているのは――」


 シン=ルウの言葉は、広場のほうからわきたった歓声にかき消されることになった。俺たちが姿を見せたことにより、その場に集まっていた人々が喜びの声をあげたのだ。


「みんな、おかえりー! シン=ルウが慌てた顔をしてないってことは、みんな元気に戻ってきたってことだね! こっちもみんな元気だから、心配はいらないよー!」


 と、ララ=ルウがぶんぶんと手を振りながら、こちらに駆け寄ってきた。

 そして、その後に続いてきた人物の姿に、ダリ=サウティがきょとんと目を丸くする。それはダリ=サウティの伴侶たるミル・フェイ=サウティであり、しかも彼女は5歳ぐらいの男の子の手を引いていたのだった。


「家長ダリ、お疲れ様でした。無事なお帰りを、心から祝福いたします」


 クールな気性をしたミル・フェイ=サウティは恭しげに一礼してから、幼子を抱えあげてダリ=サウティのほうに差し出した。これは両名の間に産まれた3兄弟の、末子である。

 幼子は輝かんばかりの笑顔で「おかえりなさい!」と言い放ち、ダリ=サウティの首っ玉にかじりつく。それを抱きとめたダリ=サウティは、まだ驚きの表情であった。


「どうしてお前たちが、ルウの集落まで出向いているのだ? トトスと荷車さえ預けておけば、迎えの人間も不要と言い渡しておいたろう?」


 ミル・フェイ=サウティは小首を傾げつつ、シン=ルウのほうを振り返った。


「家長らは、いまだ事情をわきまえていないのでしょうか?」


「うむ。その前に、広場に着いてしまったのだ」


 すると、広場に群れ集っていた人々も続々とこちらに駆けつけてきた。

 その顔ぶれに、あちこちから驚きの声があげられる。なんとそれは、バナーム遠征に参加した20名の家族たちであったのだった。


「無事な帰りを待っていたぞ! 誰もが息災であるようだな!」


「バナームの話を聞きたいところですけれど、あなたたちもお疲れでしょう? まずは晩餐を始めましょうか」


「何を呆けた顔をしておるのだ? さあ、こちらに進むといいぞ!」


 遠征メンバーの親や兄弟たちが、笑顔でそれぞれの家族を取り囲む。そこでひときわ豪快な笑い声が響きわたり、我らがダン=ルティムがずかずかと接近してきた。


「ガズラン! ご苦労だったな! ゼディアスが寝付く前に戻ってこられたのは、僥倖だ! さあ、まずは大事な我が子と伴侶に挨拶をするがいい!」


 そのように言い放つダン=ルティムのかたわらに、ゼディアス=ルティムを抱いたアマ・ミン=ルティムが笑顔で進み出る。その姿に、ガズラン=ルティムは穏やかな微笑をこぼした。


「そちらもみんな健やかに過ごせていたようで、何よりだ。つまりこれは、我々の家族がすべてルウの集落に寄り集まっているということなのかな?」


「はい。家の近いわたしたちはともかくとして、ザザやサウティなどでは晩餐をともにすることも難しいでしょう? それならいっそ、全員がルウの集落で出迎えればよいのではないかという話に落ち着いたのです」


 ガズラン=ルティムとよく似た微笑をたたえつつ、アマ・ミン=ルティムがそのように説明してくれた。その背後には、ラー=ルティムにオウラ=ルティムにツヴァイ=ルティムという本家の家人が居揃っている。ダリ=サウティのもとにも、残る2名の子供たちが駆け寄っていた。


「ただ、このたびの仕事に加わった顔ぶれには本家の長兄も多かったため、そちらの家では父たる家長が参じることがかないませんでしたが……それ以外の家人は、おおよそ集まったように思います。それらの女衆が手を携えて、晩餐の準備に取り組んだわけですね」


「では、このルウの広場で晩餐を?」


「はい。第一の目的は、家族がともに晩餐を食することでしたので」


 そのような答えを聞くまでもなく、そこには芳しい料理の香りが漂っていた。

 そうしていよいよ闇が深くなってきたために、広場の外周にかがり火が焚かれる。そうすると、祝宴そのままの熱気と活力がその場にあふれかえったのだった。


 遠征メンバー20名の家族であるのだから、きっと総勢は100名ぐらいにも及ぶのだろう。それにおそらくはルウの家人も総出で姿を現しているために、そちらも含めれば150名ていどの人数になっているはずであった。


 なおかつ今回の遠征にはさまざまな氏族の人間が参加していたため、この場に集まった人々も実に多彩な顔ぶれである。ルティム、マァム、ザザ、ディン、サウティ、ラヴィッツ、ナハム、ベイム、と――それだけの氏族が寄り集まっているのだった。


 もちろん招集されたのは、同じ家で暮らす家族のみであったのだろう。しかしそれでもルティムやサウティなどは本家のみならず分家の家族もひと組ずつ呼ばれていたし、祝宴ではないために5歳未満の幼子も集められていた。また、最近はナハムの家にフェイ=ベイムを預けているベイムの家も、長兄を除く全員が居揃っているようであった。


 逆にディンの家などは、家長ではなく長兄が出向いてきている。アマ・ミン=ルティムがさきほど説明していた通り、家長か長兄のどちらかは家を守らなければならないのだ。よって、マァムやナハムの家長に、デイ=ラヴィッツやグラフ=ザザの姿もない。しかし、それ以外の家族がこの場に勢ぞろいしているということは――それらの家長は分家にでも身を寄せて、晩餐を食しているはずであった。

 グラフ=ザザたちはそれほどの不自由を強いられながら、家族をルウの集落に向かわせたのだ。その事実が、俺の胸をいっそう温かくしてやまなかった。


 マルフィラ=ナハムの姉たる人物も、ふたりの幼子の手を引いて兄や妹と相対している。その片方は、モラ=ナハムの前妻の子だ。モラ=ナハムはモアイ像を思わせる無表情のまま、がっしりとした腕で我が子を抱きあげた。

 ラヴィッツの長兄はにやにやと笑いながら、母たるリリ=ラヴィッツや伴侶や弟らと語らっている。その手にも、まだ1歳にも満たない赤子と3歳ぐらいの幼子が抱かれていた。

 トゥール=ディンとゼイ=ディンは家長を除く本家の家人たちと笑顔で語らっており、ザザの姉弟も母親や長姉やその子らと語らっており、ジィ=マァムとその妹も母や弟や分家から引き取った家人らと語らっており――誰もが、7日ぶりの再会の喜びにひたっていた。ルウ家の人々などは、言わずもがなである。


 その温かな光景を、アイ=ファは少し眩しそうに目を細めながら見守っていた。

 俺たちだけは、この場で出迎えてくれる家族を持たない身であるのだ。

 しかし、ギルルだけはどこかにいるはずだ。そのように考えた俺が、アイ=ファに声をかけようとしたとき――人垣をかき分けて、思いも寄らぬ人々が現れたのだった。


「アイ=ファにアスタ、お疲れ様です! 無事に再会することができて、心から嬉しく思っています!」


「あれ? ユン=スドラに、サリス・ラン=フォウ! それに、アイム=フォウまで! どうしてみんなが、ルウの集落に?」


「すみません。どうしても今日の内にお会いしておきたかったので、わたしたちも参ずることを許していただいたのです」


 そう言って、ユン=スドラはおひさまのような笑みを広げた。


「アスタが不在であった7日間、屋台の商売に問題はありませんでした。本日は休業日で、明日の下ごしらえも無事に果たせましたので、明日の商売も問題なく行えるはずです」


「ユン=スドラは、それをお伝えするために参じたのです。わたしとアイムは……ただアイ=ファに会いたかっただけなのだけれど」


 アイム=フォウを抱いたサリス・ラン=フォウは、ちょっぴり気恥ずかしそうにアイ=ファへと微笑みかけた。


「これだけ大勢の方々が出迎えていれば、何も物寂しいことはなかっただろうけれど……でも、自分の気持ちを抑えることができなかったの。ごめんなさいね、アイ=ファ」


「何を詫びる必要があるのだ。もとより、我々はフォウの家に出向く算段であったが……わざわざこちらまで出向いてくれたことを、心から嬉しく思っている」


 アイ=ファは言葉の通りの微笑みをたたえつつ、サリス・ラン=フォウの腕に抱かれたアイム=フォウの頭を撫でた。アイム=フォウははにかみながら、俺とアイ=ファの顔を見比べている。


「わたしもこのような話は、ルウの方々に言伝するだけで済んだのですけれど……でも、どうしても自分の口から伝えたかったのです。子供じみた真似をしてしまって、恥ずかしく思っています」


 と、ユン=スドラはわずかに頬を赤らめた。

 俺はそちらに、心からの笑顔を届けてみせる。


「何も恥ずかしがることはないよ。大変な仕事を果たしてくれて、どうもありがとう。俺も今日の内にお礼を言うことができて、嬉しいよ」


「ありがとうございます。帳簿は明日お渡ししますので、間違いがないかご確認をお願いいたします」


 こんな際でも、ユン=スドラはしっかり者であった。

 そんなさなか、集落の入り口あたりから喧噪の気配が伝えられてくる。振り返ると、ルウの分家の男衆らが道端の荷物を運び入れてくるところであった。


「あ、そうだ。実はユン=スドラたちに渡したいものが――」


 俺がそのように言いかけたとき、横合いから「ひゃあっ!」という誰かの悲鳴が聞こえてきた。

 そちらを振り向いた俺の目に、漆黒の巨大な影が飛び込んでくる。それはギバと見まごう恐ろしげな姿であり、俺も思わず悲鳴をあげかけてしまったが――きらきらと輝くつぶらな瞳が、俺の恐怖を霧散させた。


 それは、ジルベであったのだ。

 ジルベは漆黒の長い毛を炎のようになびかせながら、俺の胸もとに飛び込んできた。

 もちろん俺は後方に倒れ込むことになったが、アイ=ファがすかさず背中を支えてくれたため、なんとか事なきを得ることができた。


「ジルベらしからぬ、乱暴な所作であったな。しかしそれだけ、お前の帰りを待ちわびていたのであろう」


 アイ=ファは優しげな声でそんな風に語りつつ、俺の身をそっと地面におろした。

 ジルベはあらためて俺の身にのしかかり、紫色をした大きな舌で顔をなめ回してくる。そのくすぐったさに耐えながら、俺はたてがみに覆われたジルベの首筋を撫でてあげた。


「ただいま、ジルベ。元気そうで何よりだよ」


 ジルベは「わふっ!」と元気に吠えてから、今度は大きな頭を俺の胸もとにすりつけてくる。

 すると、ジルベの背中の一部分が盛り上がり、分離した黒い毛の塊がしゅるりと俺の肩に乗ってから、「なう」と鳴き声をあげた。黒猫のサチも、一緒に俺たちを出迎えてくれたのだ。


「申し訳ありません、アスタ。ジルベも他の猟犬たちとともに、待っているように言いつけておいたのですが……」


 サリス・ラン=フォウがそのように声をあげると、アイ=ファが「大事ない」と答えた。


「ジルベは護衛犬として育てられたため、猟犬たちとはしつけの内容が異なっていたようであるのだ。ゆえに、我慢がきかなかったのであろう」


「そうなのね。でも、猟犬たちはきちんと言いつけ通りにアイ=ファたちを待っているはずよ。まずはそちらを安心させてあげないとね」


 ということで、俺たちは分家の家屋を目指すことになった。

 ジルベは俺の足に接触しそうな位置を歩いているし、サチは肩の上から動こうとしない。サチも人間の肩に乗るにはもうずいぶん大きく成長しているわけであるが、今日ばかりはすました面持ちのまま動こうとしなかった。俺としては、肩と足もとから情愛の圧力に挟撃されているような心地である。


 そうして到着したのは、シン=ルウ家の母屋の前だ。

 ようやく日没になろうかという刻限であるため、そこにはルウ家の猟犬や雌犬たちもずらりと並んで、広場の賑わいを興味深げに眺めていた。

 その内の1頭が、不動のまま尻尾をぱたぱたと振っている。アイ=ファは迷うことなくそちらに近づき、惜しみない愛情を込めて家人の頭を撫でた。


「待たせたな、ドゥルムアよ。この7日間、無事に仕事を果たすことができたようだな」


 猟犬は、むやみに吠えないようにしつけられている。よってドゥルムアもアイ=ファに頭を撫でられながら、ただ瞳を輝かせるばかりであった。

 アイ=ファもまた無言のまま両手でドゥルムアの頭や背中を撫で回してから、サリス・ラン=フォウのほうを振り返った。


「あとは、ブレイブとラムだな。あやつらはどこで身を休めているのだ?」


「あとの2頭は、家の中よ。ちょっと、事情があって……」


 サリス・ラン=フォウはアイ=ファをなだめるように微笑みつつ、母屋の戸板に手をかけた。きっと事前に、戸板を開ける了承を得ているのだろう。

 アイ=ファはうろんげに眉をひそめつつ、サリス・ラン=フォウのほうに近づいていく。そして俺もそれに続こうとすると、ジルベがちょっぴり寂しそうな面持ちで歩を止めた。


(もしかして……)


 アイ=ファとともに母屋の土間を覗き込んだ俺は、そこに予想していた通りの光景を見出すことになった。

 ブレイブとラムがぴったりと寄り添いながら、俺とアイ=ファを見返してきたのだ。

 アイ=ファは愕然と立ちすくんでから、常になく焦った様子でサリス・ラン=フォウを振り返った。


「サ、サリス・ラン=フォウよ。もしや、ブレイブたちは――」


「ええ。こちらの2頭が、つがいになったようね。アイ=ファたちが森辺を出て4日目に、ラムが他の犬を寄せつけなくなってしまったの」


「そうか……」と深く息をついてから、アイ=ファはその場に膝を折った。

 ブレイブとラムは他の犬たちほどはしゃいだ様子は見せず、それでも嬉しそうに尻尾を振っている。その姿をじっと見つめてから、アイ=ファは口もとをほころばせた。


「お前たちが、結ばれることになったのだな。そのように大事な場に立ちあえなかったのは、残念な限りだが……しかし、ブレイブとラムが伴侶を見いだせたことを、得難く思う」


 アイ=ファがそっと手を差し出すと、ブレイブはまるで握手をするかのようにその手の平をぺろりと撫でた。

 ラムはブレイブに寄り添ったまま、「くうん」と小さく声をあげる。発情期を迎えた雌犬は、いくぶん情緒が不安定になるという話であったのだ。しかし、半月も過ぎればもとの元気さを取り戻すはずであった。


 アイ=ファはなおもしばらく両名の姿を見やってから、ようやく身を起こす。そうして最後に両名へとうなずきかけてから、ぴたりと戸板を閉めた。


「黒の月も終わりに差し掛かっているので、このような事態も想定していないわけではなかったが……しかし本当に、我々の留守の間に伴侶が決められてしまうとはな」


「うん。でも、俺たちが出立して4日目ってことは、ちょうどウェルハイドたちの婚儀の日だな。それもなかなか、楽しい偶然じゃないか」


 俺がそのように答えると、アイ=ファは「そうだな」と微笑んだ。

 とても嬉しそうでありながら、どこかちょっぴり寂しそうな――それこそ、大事な娘を嫁に出す親のような表情である。しかし、ブレイブもラムも同じファの家の家人であるのだから、何も寂しがる必要はないはずであった。


 そうして俺たちが語らっている間に、広場のほうはいっそう賑わっている。あちらでも家族との再会を喜ぶあまりに、なかなか晩餐を始められないようだ。そんな騒ぎを横目で確認してから、ユン=スドラがにこりと微笑んだ。


「では、わたしたちも敷物に向かいましょうか。つがいとなった犬たちは静かな場所で休ませておくべきでしょうが、それ以外の家人は連れていってあげればいいと思います」


「うん、そうだね」と答える俺の足もとに、すでにジルベがすりよってきている。俺とアイ=ファが留守にしたあげく、仲良しのラムとも遊べなくなってしまったため、ジルベはいっそうの寂しさにとらわれてしまったのだろう。

 俺はジルベの頭を撫で、アイ=ファはドゥルムアの頭を撫でる。そうして俺たちが移動を始めようとしたとき、木箱を抱えたミダ=ルウがどすどすと近づいてきた。


「アイ=ファ、アスタ、会えて嬉しいんだよ……? この木箱を、アイ=ファたちに届けるように言われたんだよ……?」


「ああ、どうもありがとう。よかったら、ミダ=ルウも一緒に晩餐を食べようよ」


「うん……でも、ミダはファの家人じゃないのに、いいのかな……?」


 ミダ=ルウがぷるぷると頬肉を震わせると、アイム=フォウを抱いたサリス・ラン=フォウがそちらに微笑みかけた。


「わたしとユン=スドラも、家族ならぬ身でこの場に駆けつけてしまった立場です。どうかともに、再会の喜びを分かち合いましょう」


「うん……」とミダ=ルウが嬉しそうに目を細めたとき、遠からぬ場所で賑やかな声があげられた。

 そちらを見ると、ルウ本家の姉妹とツヴァイ=ルティムの姿がある。どうやらレイナ=ルウとリミ=ルウが、それぞれララ=ルウとツヴァイ=ルティムに感謝のお土産を手渡したところであるようだ。綺麗な彩色が施された木皿を手にしたララ=ルウは気恥ずかしそうな面持ちで目もとをぬぐっており、ツヴァイ=ルティムは仏頂面でタマネギ頭をひっかき回していた。


「いったい何の騒ぎでしょうね。ララ=ルウは、嬉し涙をこぼしているようですけれど」


 ユン=スドラとサリス・ラン=フォウは、きょとんとした顔でそちらを見やっている。

 俺がアイ=ファを振り返ると、そちらには温かな笑顔が待ち受けていた。


「ちょうどミダ=ルウが運んできてくれたところであるし、我々もこの場で用事を済ませておくか」


「うん。早いに越したことはないもんな」


 ミダ=ルウが抱えている木箱には、ユン=スドラとサリス・ラン=フォウとその家族たちのためのお土産が詰め込まれているのだ。

 そんな彼女たちが、ちょうどこの場に駆けつけてくれたというのは――決して偶然ではないのだろう。彼女たちとそれだけの絆を結ぶことができたからこそ、俺とアイ=ファはバナームの地でこれらの品を買い求めることになったのだった。


 ユン=スドラたちも、ララ=ルウのように嬉し涙をこぼしてくれるだろうか。

 そんな楽しい想像を巡らせながら、俺はミダ=ルウから木箱を受け取ることにした。


 そうして森辺で再会の喜びを分かち合うことにより、俺たちのバナームへの旅は正しく終わりを迎えることがかなったのだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] アイ=ファ「家人に先を越されてしまったか」 [一言] ユン=スドラとサリス・ラン=フォウの、お土産を貰った時のリアクションが見たかったなぁw
[良い点] お互いがお互いを想いあってるのが確認できるのめちゃくちゃいいな、つい目頭が熱くなってしまった
[良い点] 森辺のみんなでこれだけの出張が叶ったのもこれまでの積み重ねあっての事と思うと、何だか感慨深くもほっこりします。新しく知己を得たアラウトとの今後の関わりも楽しみです。 ジルべのお出迎えはこれ…
感想一覧
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