婚礼の日③~婚姻の儀~
2022.7/31 更新分 1/1
「……今宵、我が血族たるウェルハイドとルアマット男爵家の息女コーフィアの婚儀にこれだけの賓客を迎えられたことを、光栄に思う」
バナーム侯爵家ご当主の挨拶によって、婚姻の儀はおごそかに開始された。
その重々しく響く言葉を拝聴しながら、俺は炎に照らしだされる大広間の様相をあらためて検分する。
こちらの大広間は、きわめて巨大な規模を有していた。本日の参席者は200余名と聞いていたが、少し詰め込めばその倍ぐらい収容できそうなほどだ。しかし、余分なスペースを衝立などで隠すことなく、広大な敷地が余すところなく開放されていた。
こちらはおそらく、バナーム城の背後に築かれた別館であるのだろう。1階であるのに屋根に穴などが空けられているのが、その証拠だ。ジェノスではそういった施設を小宮として別個に築いていたが、こちらはあくまで同じ城の一部として扱われており、石造りの回廊を通ってこの場に足を踏み入れた俺たちも、別館に移ったという意識はまったく持ち合わせていなかったのだった。
左右の壁際には侍女や小姓や礼服を纏った武官がずらりと立ち並び、その背後では燭台や灯篭がいくつも灯されている。そして手前の側には等間隔で細長い卓が並べられて、クロッシュで覆われた宴料理が祝宴の開始を待ちわびていた。
あとは大広間のあちこちに、小さな円卓がいくつも置かれている。宴料理に皿を使わないというのはジェノス独自の習わしであるようなので、落ち着いて料理を食したいときはそちらを使用するのだろう。ただし、椅子の準備はなく、円卓は立ったまま使用できる高さに統一されていた。
壁や床は灰色の石造りで、やはり壁掛けや絨毯などの調度は見られない。
ただし、床はぴかぴかに磨きあげられており、壁にはさまざまな彫刻が凝らされていた。それが燭台の火に照らされて、ゆらゆらと幾何学的な陰影を浮かびあがらせているのだ。この場においては、炎と影こそが何よりの装飾になっているようだった。
また、ウェルハイドとコーフィアだけが立ち並んだ壇の背後の壁には、婚儀を司る女神エイラの姿が大きく刻みつけられている。ジェノスにおいてはあちこちに神像が設置されていたが、このバナームでは神の姿も壁画に表されていたのだ。
女神エイラは大きな聖杯を掲げているものであるので、俺がその姿を見間違うことはない。
ただし、これもまた500年余りの昔に造られたものであるのだろう。お世辞にも、精緻な出来栄えとは言い難い彫刻であったが――その分、荒々しい生命力のようなものが感じられてならなかった。
エイラは月の女神でもあるので、造形そのものが雄々しいわけではない。そちらの壁に刻みつけられたエイラも、きわめて静謐な表情で大広間の様相を見守ってくれている。ただ、彫刻の技術が洗練されておらず、どこか粗雑なタッチであり――それでもエイラの慈愛深さや美しさを表現しようと願う職人たちの情念が、この時代にもいまだ色濃くにおいたっているような様相であったのだった。
そんなエイラに見下ろされながら、200余名の人々はじっと立ち尽くしている。
その参席者たちの姿もまた、大広間の中央に焚かれた巨大な火によって陰影をゆらめかせていた。森辺の祝宴では見慣れた光景であるが、立派な身なりをした貴族やそれに準ずる人々が、原始的な炎に照らしだされるさまというのは――やはり、得も言われぬ幽玄な空気を生み出すものであった。
「……それでは、婚姻の儀を開始する」
侯爵家当主の言葉に従って、大勢の小姓たちが壇上にのぼり始めた。
それらの手に握られた銀色の鈴が、しゃりしゃりと澄んだ音色を響かせている。小姓の数は20名ばかりにも及ぶため、それらの音色が細い糸のように絡み合いながら、大広間の広大な空間をやわらかく満たしていった。
小姓たちは背後の壁に立ち並んだが、ウェルハイドとコーフィアは不動のままである。
小姓たちは、一定の抑揚をつけながら鈴を鳴らし続けている。すると、それらの音色に導かれるようにして、新たな人々が壇上にあがった。
淡い黄色の長衣を纏った老女と、侍女らしき2名の少女である。長衣はシンプルなデザインであったが、筒形の帽子と肩掛けには金色の糸で豪奢な刺繍が施されていた。
侍女たちはしずしずと進み出て、ウェルハイドの槍とコーフィアの聖杯を受け取る。そして、司祭と思しき老女が壇上の中央に陣取ると、ウェルハイドとコーフィアはおたがいに向き合う格好でひざまずいた。
司祭は女神エイラを思わせる静かな面持ちで、片方の侍女から真っ赤な儀式用の槍を受け取る。
そして、もう片方の侍女が携えた聖杯の口に槍の穂先をひたすと、それをゆったりとした仕草で新郎と新婦の頭上に振った。
穂先から散った透明のしずくが美しくきらめきながら、ウェルハイドとコーフィアの頭上に降り注ぐ。
司祭は役目を終えた槍を侍女に返すと、両腕を胸の前で交差させた。
それを合図として、ウェルハイドとコーフィアは身を起こし、それぞれ自分のかぶっていた冠を外す。そして、まずウェルハイドが自らの冠をコーフィアにかぶせると、コーフィアは恭しく一礼してから自らの冠をウェルハイドにかぶせた、
「……現世では決して交わることのない日輪と月輪が、いま両者の内で交わりました。月神エイラとその伴侶たる太陽神アリルの名のもとに、バナーム侯爵家のウェルハイドとルアマット男爵家のコーフィアは、伴侶として魂を結び合わされたのです」
とても静かに冴えざえと響く声音で、司祭たる老女がそのように宣言した。
「魂を返すその日まで、今日の喜びと幸福を忘れませぬよう……月神エイラは、いつでもあなたがたを見守っております」
ウェルハイドとコーフィアはおたがいの姿をじっと見つめ合ってから、参席者のほうに向きなおってきた。
壁際の侍女たちが盛大に鈴の音を響かせると、それにうながされて大広間の人々が手を打ち鳴らす。もちろん俺も、厳粛な気持ちでそれにならうことにした。
ウェルハイドとコーフィアは、ずっと口をつぐんでいる。それがバナームに伝わる婚儀の取り決めであるのだろう。
ただ、ウェルハイドは幸福そうに微笑んでおり、コーフィアもまた笑顔で涙をこぼしていた。
司祭と2名の侍女は後方に向きなおり、女神エイラに深々と頭を垂れてから、壇の下へとおりていく。すると、鈴を鳴らす侍女たちもその後に続き、壇上にはまた新郎と新婦だけが残された。
「これにて、婚姻の儀は終了となります。続きまして、祝福の花の贈呈となります」
触れ係の小姓がそのように言いたてると、今度は大勢の小姓たちが壇上にのぼってウェルハイドらの左右に控えた。
そして、俺たちのもとには草籠を抱えた侍女たちが近づいてくる。そちらには、白と黄色の花がどっさりと積まれていた。
「殿方は白い花を、ご婦人方は黄色の花をお取りください。殿方は新郎に、ご婦人方は新婦に祝福の花をお捧げくださいますようお願いいたします」
侍女の説明に従って、俺たちはそれぞれ花をつまみあげた。
そして別なる侍女がやってきて、俺たちを壇の手前まで案内する。花の献上は、入場と逆の順番で行われるようだった。
よって、真っ先に壇上へと導かれたのは、ジェノス侯爵家の3名である。
オディフィアは案内役の侍女に手を取られて、しずしずと階段をのぼっていた。
デルシェア姫、フェルメス、伯爵家の6名に、デヴィアスが続き、その次が森辺の一行となる。ダリ=サウティとサウティの末妹に続いて壇上にあがった俺とアイ=ファは、ようやく間近からウェルハイドとコーフィアを見ることができた。
ふたりとも、澄みわたった微笑みをたたえている。
コーフィアは涙をぬぐったようだが、その目もとにはまた新たな輝きが溜められていた。いっぽうウェルハイドは熱情的な気性を覗かせて、コーフィアよりもくっきりと頬を火照らせていた。
「おめでとうございます、ウェルハイド」
俺が白い花を捧げると、ウェルハイドは心から嬉しそうに笑ってくれた。
が、どうやらこの段に至っても口をきくことは許されないらしく、ただ頭を下げてくるばかりである。俺もまた、ウェルハイドとコーフィアにそれぞれ一礼してから、壇をおりることになった。
その後は、他の参席者たちが花を捧げる姿をひたすら見物だ。
そこで初めて口を開いたのは、ガズラン=ルティムであった。
「これで我々は宿場町における婚儀に続いて、貴族の婚儀をも見届けることがかないました。バナームとジェノスでは、きっとさまざまな部分で作法が異なるのでしょうが……バナームのほうが、より古きからの作法を重んじているのでしょう。とても興味深く思います」
「ええ。貴族の婚儀でも、冠の交換というものが存在するのですね。宿場町の婚儀では花の交換というものが行われていましたけど、こちらのほうがより森辺の婚儀と似通っているようです」
「はい。これもまた、すべての人間がかつては同胞であったという何よりの証であるのでしょうね」
ガズラン=ルティムは、とても感慨深げな面持ちであった。
いっぽうラヴィッツの長兄は、「ふふん」と鼻を鳴らしている。
「では、花を捧げるのは牙や角を捧げるのと同じようなものか? あるいは、生誕の日に花を捧げるのと同じことか? そのようなものは、いくらでもこじつけられそうなところだな」
「そうですね。愛する相手と持ち物を交換するというのも、めでたき場で祝福の品を贈るというのも、人間にとっては自然な気持ちから生まれる行いであるのかもしれません。そう考えれば、たまたま似たような作法が生まれたという可能性もあるのでしょう」
そんな風に言いながら、ガズラン=ルティムの表情に変わりはなかった。
「しかしそれなら、我々は貴族や狩人の区別なく、似たような心のありようを有しているという証になります。それはそれで、喜ばしい話なのではないでしょうか?」
「ふん。お前と言い合いで勝てる気はせんな。まったく、小賢しい人間が森辺に生まれついたものだ」
憎まれ口を叩きつつ、ラヴィッツの長兄もこの状況をこよなく楽しんでいるようである。そして、いまだ無言であるアイ=ファは、式の前と変わらぬ真剣さで壇上の新郎新婦を見つめていた。
「……ウェルハイドもコーフィアも幸せそうで、何よりだったな」
俺がそのように囁きかけると、アイ=ファは我に返った様子で「うむ」と応じた。
「かの者たちは森辺の同胞ならぬ相手であるし、レビやテリア=マスほど交流の深い相手でもないが……それでも、この場に立ちあえたことを喜ばしく思う」
「うん。ウェルハイドなんかは、生死をともにした間柄だもんな。俺も感慨深くてならないよ」
「生死をともに? それはずいぶん大仰な物言いだな」
「いやいや。トゥラン伯爵邸での対決の場では、一緒に矢を射かけられただろ。ちっとも大仰ではないと思うぞ」
俺がそのように言葉を重ねると、アイ=ファは「ああ」と目だけで微笑んだ。
「あれしきのことで、我々の生命が脅かされる恐れはない。そうでなければ、お前をあのような場に連れ出すものか」
「ああそうかい。あのていどのことで生命の危険を感じるのは、ただの臆病者ってことだな」
アイ=ファはうろんげに眉をひそめつつ、俺のほうにぐっと顔を近づけてきた。
何せ美しい宴衣装の姿であるのだから、俺はいつも以上に心臓を騒がせてしまう。そうして俺の目の奥を覗き込んだアイ=ファは、余人に見られない角度でやわらかく微笑んだのだった。
「子供のようにすねているのではなく、浮かれて軽口を叩いただけであるようだな。まあ、お前がすねても可愛らしいだけなのだが」
「アイ=ファこそ、その物言いはずいぶん浮かれてるように思えるぞ」
俺が笑顔を返してみせると、アイ=ファは「そうかもしれんな」といっそう魅力的に微笑んだ。
森辺の祝宴を思わせる炎の躍動が、森辺の民をも浮かれさせているのだろうか。俺やアイ=ファばかりでなく、周囲の面々も少なからず昂揚しているように見受けられる。リミ=ルウやサウティの末妹などは言うに及ばず、レイナ=ルウやトゥール=ディンもお城の祝宴ではなく森辺の祝宴に立ちあっているかのような瞳の輝きであった。
そんな中、ただひとり涙を流している人物がいる。
誰あろう、フェイ=ベイムである。
そのかたわらに寄り添ったモラ=ナハムやマルフィラ=ナハムたちが少なからず慌てている様子であったので、俺はアイ=ファをうながしてそちらに近づくことにした。
「大丈夫ですか、フェイ=ベイム? まあ、大丈夫だとは思うのですけれど……」
「はい……何も悲しくて涙を流しているわけではありませんので……心配はご無用です」
そんな風に語りながら、フェイ=ベイムは怒っているかのような顔つきで涙をこぼし続けている。手持ちの織布でぬぐってはいるのだが、ちっとも追いついていない様子だ。
「フェイ=ベイムは、レビたちの婚儀でも感銘を受けていましたもんね。それと同じようなものなのでしょう?」
「はい……コーフィアもまた、大きな苦難を乗り越えた上で、今日という日を迎えたのだと聞き及びましたので……どうしても、心を揺さぶられてしまうのです。見苦しい姿をお見せしてしまい、申し訳なく思います」
「見苦しいことなど、まったくない」
と、モラ=ナハムがいつになくはっきりとした口調でそう言った。
そのモアイを思わせる顔はいつも通りの無表情であるが、高い眉の陰に瞬く小さな目には、とても穏やかな光がたたえられている。
「フェイ=ベイムが泣いている理由がわからなかったので、こちらもつい心を乱してしまったが……そういうことなら、何も恥じる必要はないように思う。フェイ=ベイムの流した涙も、あちらのふたりにはまたとない祝福になることだろう」
「め、面と向かってそのように言われると、気恥ずかしくてなりません」
フェイ=ベイムは顔を赤くしながら、なおも涙をこぼし続けた。マルフィラ=ナハムはほっとした様子で、ふにゃんと笑っている。
壇上では、次から次へと花が捧げられている。そしてそれらの花は、小姓たちが持ち込んだふたつの座席と卓に飾られていった。
そうしてたっぷり四半刻近くもかけて花の献上が終了すると、ウェルハイドとコーフィアは花にうずもれた座席に着席する。ウェルハイドは白い花、コーフィアは黄色い花に包まれて、それもまたおとぎ話の一幕であるかのようだった。
「それでは、祝宴を開始したく思いますが……本日はバナーム城の料理番のみならず、ジェノスからお越しである森辺の方々からも数々の宴料理を賜ることがかないました。ジャガルの王族ダカルマス殿下より勲章を授かったという、ギバ料理と菓子をお楽しみください」
触れ係の小姓がそのように告げると、こらえかねたように歓声がわきたった。これまでは拍手でのみ祝福の気持ちが伝えられていたので、このような歓声が生まれるのも初めてのことである。そして、手近な場所にたたずんでいた人々は、これまでの遠慮をかなぐり捨てた様子で俺たちのほうを見やってきたのだった。
「ふん。うかうかしていると、取り囲まれて身動きが取れなくなりそうだな。さっさと腹を満たすことにするか」
ゲオル=ザザが姉やトゥール=ディンをせきたてて、その場を離脱した。ゼイ=ディンもすぐさまそれを追ったので、昨日と同じ4名で行動するようだ。
俺たちも、それにならって移動する。貴族の方々はその場に留まって挨拶回りを受けて立つ構えのようであるが、こちらはしがない平民の身であるのだ。ご挨拶は、宴料理を食しながらということにさせていただきたいところであった。
「ルウ家は4人で固まったようだな。では、ファとサウティで組を作らせてもらうとするか」
そんな風に言いながら、ダリ=サウティが俺とアイ=ファに笑いかけてきた。そのかたわらでは、サウティの末妹が頬を火照らせながらにこにこと笑っている。アイ=ファは貴婦人の作法でしずしずと歩きながら、「うむ」と応じた。
「やはりこの場も、4名ていどで組になるべきであろうな。何も危うい気配はないが、見知らぬ相手ばかりであるのだから用心は必要であろう」
「うむ。貴族の祝宴でこれほど見知らぬ相手ばかりというのは、実にひさびさのことだな」
そのように言葉を交わしつつ、アイ=ファもダリ=サウティも表面上は柔和そのものだ。むしろ、普段の城下町の祝宴よりもリラックスしているように感じられるぐらいである。500年余りの歴史を持つ建造物の中で、赤い炎の躍るこの場が、森辺の狩人たちにも常ならぬ感銘を与えているようであった。
周囲の人々は俺たちのほうを注視しつつ、なかなか声をかけてこようとはしない。あちらはあちらで、見慣れない姿をした森辺の民に多少は警戒しているのだろう。何せこちらはつい近年まで、ぞんぶんに悪名を轟かせていた存在であるのだ。それらの悪名が払拭されていたとしても、森の中にこもって凶悪な獣を相手取る狩人の一族というものに対してどのように接するべきか、多少は及び腰になるのが当然であろうと思われた。
しかしそれでも、アイ=ファやダリ=サウティにはとりわけ熱い眼差しが送られているように感じられてならない。森辺の狩人が有する野生の生命力というものが、そういう眼差しを招くのだろう。それにつけ加えてアイ=ファはこの美しさであるものだから、誰よりも注目を集めているはずであった。
そうして無事に壁際まで到着した俺たちは、クロッシュを取りはらわれた料理の山と相対することになった。
こちらの卓に並べられているのは、いずれも見慣れぬバナームの宴料理だ。アイ=ファはちょっぴりガッカリしたようだが、文句をつけようとはしなかった。
「俺たちも、祝宴の参席者であることに変わりはないのだからな。バナーム城の料理番というものの心尽くしを、ぞんぶんに味わうべきであろうよ」
ダリ=サウティはそのように語りながら、卓の上の料理を物色した。
右から順番に、血のしたたるようなカロン肉のソテー、カロン乳をベースにしているのであろう乳白色のスープ、とろりとした乾酪の掛けられた謎の料理というラインナップである。いずれも小皿に取り分ける形式で、かつてのジェノスの祝宴とはまったく異なる趣であった。
「ふむ。とりあえずは、味見ていどに留めるべきであろうかな」
ダリ=サウティは同じ皿にソテーと乾酪の料理を取り分けてもらい、サウティの末妹はスープをいただいていた。そういえば、彼らは同じ家に住む家族ではないので、同じ皿から料理を食することが許されないのだ。
いっぽう俺とアイ=ファは何の遠慮もいらない間柄であるため、同じ方式で2名分の料理を獲得する。そうして卓の前から退き、それぞれ料理を口にしたのだが――アイ=ファとダリ=サウティは、同時に顔をしかめることになってしまった。
「これは、いささか……舌に馴染まぬ味わいだな」
「うむ。ジェノスの城下町で口にする料理とも、また別の意味で不可解な味わいであるようだ」
ふたりが口にしたのは、乾酪が掛けられた謎の料理である。
俺とサウティの末妹がいただいたカロン乳のスープは実に罪のない味わいであったため、一緒に小首を傾げることになった。
「最初の夜の晩餐会では、それほど奇抜な料理はありませんでしたよね。そんなにお口にあわない味わいなのでしょうか?」
「うむ。アスタであれば、別なる感想になるのであろうかな?」
「さて、どうでしょう」と応じつつ、俺はアイ=ファと皿を交換した。
確認してみると、乾酪の下には肉と野菜が隠されている。赤みの強いカロンの肉に、ホウレンソウのごときナナール、ニンジンのごときネェノン、あとはタケノコに似たチャムチャムなどもうかがえるようだ。ただ、たっぷりと掛けられた半液状の乾酪から、あまり嗅ぎなれない香りがたちのぼっていた。
(でも、俺たちの知らない食材なんかは使われてないはずだよな。いったいどういう味付けなんだろう)
俺は心を引き締めつつ、乾酪にまみれた肉とナナールを口に運んでみた。
とたんに、馴染みのない味わいが口に広がる。
これは、砂糖の甘さとママリア酢の酸味であるようだ。そのひとつひとつは馴染み深い味わいであるのに、それが乾酪の風味とあわさることで、ずいぶん素っ頓狂な味わいに変じてしまっていた。
「なるほど。これはいささか、食べ慣れない味わいであるかもしれませんね」
「うむ。最初から覚悟を固めていれば、これほど驚かされることにはならなかったのかもしれんがな。普通の乾酪であろうと思い込んでいたがゆえに、こうまで心を乱されたのかもしれん」
ダリ=サウティは苦笑を浮かべつつ、同じ料理を再び食した。
「やはり、顔をしかめるほどの味ではないようだ。ただ、そうまで上出来とは思えないのだが……アスタであれば、この料理をどのように評するのだ?」
「そうですね。これは一昨日の晩餐会から感じていたことなのですが……バナーム城の料理は、以前のジェノスの宿場町の料理に通ずるものがあるかもしれません。バナームも砂糖などのジャガルの食材を使い始めたのはこの2年以内であるはずなので、まだまだ試行錯誤の段階なのではないでしょうか?」
「ふむ。ジェノスとの通商が始められるまで、バナームではジャガルの食材を扱う機会がなかったということだな。しかし、ママリアの酢というものは、バナームでも作られているのであろう?」
「はい。逆に言うと、バナームでは近年まで塩と白いママリアの酢が調味料の要であったのだろうと思われます。だからこうして乾酪の料理にも積極的に使われていて……そこに、砂糖やタウ油など外来の調味料を加えるのが、新たな流行になっているのかもしれませんね」
「なるほど。ジェノスではアスタや城下町の料理人たちが砂糖やタウ油などの扱い方をわきまえていたため、宿場町の者たちもそれを見習うことができたが……バナームには、見習う相手も存在しないというわけだな」
「ええ。宿場町の方々も、当初は苦戦していたようですからね。俺やヤンが手ほどきすることで、ようやく道筋が見えたのだろうと思います」
なおかつ、バナームはジェノスほど豊かではないのだと聞いている。そうすると、いささか値の張る外来の食材を無駄に扱うこともできず、結果的に試行錯誤の時期が長引いているのではないかと思われた。
「だが、先日の晩餐会の料理に不満はなかったし、こちらの肉料理や汁物料理は食べにくいこともないようだ。バナームのかまど番たちも、懸命に力を尽くしているのであろうな」
と、アイ=ファも穏やかな表情を取り戻して、そう言った。
確かに乾酪の料理だけは食べなれない味わいであったものの、かつてのジェノスの城下町の料理人のように、むやみに多彩な食材を使おうとしているわけではないのだ。俺としては、バナームの人々の誠実な人柄までもがこれらの料理に表されているのではないかと思えるほどであった。
「こっちの肉料理なんかは、タウ油や砂糖の使い方にも不備はないみたいだな。白いママリアの酢やペペの風味とも、いい具合に調和していると思うよ」
「ああ、何やら懐かしい風味がすると思ったら、こちらの料理にはペペが使われていたのか。……森辺でも、またペペを使った料理を食したいものだな」
ペペとは、ニラのごとき香草である。ジェノスではいまだにアリアとポイタンとタラパとペペが不足気味であったため、俺たちももうずいぶん長らく口にしていなかったのだった。
「それに先日の晩餐会から引き続き、チャムチャムがよく使われているように思います。あれはダレイムでも育てられていない食材であったかと思いますが、バナームでは手に入りやすいのでしょうか?」
サウティの末妹がそのような疑念を呈してきたので、俺は「そうだね」と答えてみせた。
「チャムチャムやロヒョイやラマンパの実なんかは、セルヴァの西部から買いつけてるはずだよ。バナームは少しだけジェノスより西寄りのはずだから、そういった食材は手に入りやすい環境なんじゃないのかな」
「なるほど。こちらの汁物料理には、マ・プラも使われているようですが……これもジャガルばかりでなく、セルヴァで育てられているのでしたっけ?」
「うん。マ・プラとマ・ギーゴはそうだったはずだよ。バナームでは、ジェノスで収獲できるようなアリアやチャッチやネェノンより、そういった野菜のほうが馴染み深いのかもしれないね」
俺がそのように答えると、サウティの末妹はいっそう昂揚した様子で頬を火照らせた。
「荷車で2日ほどの距離が空くだけで、そこまでの変化が生じるのですね。なんだか、とても不思議な心地ですし……そのような違いを我が身で確認できたことを、心から嬉しく思います」
きっと他のかまど番たちも、彼女と同じ感慨を噛みしめていることだろう。
俺たちは大いに浮き立ちながら、次なる料理を求めて足を踏み出すことにした。




