婚礼の日②~入場~
2022.7/30 更新分 1/1
そうして、下りの四の刻の半――宴料理は、無事にすべて完成した。
祝宴の開始は、これより一刻の後となる。昨日の朝から頑張ったおかげで、それだけのゆとりを残すことができたのだ。
ただし、そうまでゆっくりとはしていられない。俺たちは料理の取り分け方を担当の小姓たちに説明したのち、浴堂で身を清めて、宴衣装に着替えなければならなかったのだった。
「それじゃあ、また後でねー! 宴料理のお味を楽しみにしてるから!」
最後まで厨に居残っていたデルシェア姫は、そんな言葉を残してニコラとともに立ち去っていく。プラティカは、俺たちと一緒に浴堂だ。小姓の案内で回廊を歩きながら、「やれやれ」という言葉をこぼしたのはラヴィッツの長兄であった。
「今日は朝から、ひたすら立っているだけであったな。これではいい加減に、身体がなまってしまいそうだ」
「そうですね。ですが、異なる氏族の人間と長きの時間を過ごせるだけで、私にはきわめて有意に思えました」
そのように応じたのは、頼もしきガズラン=ルティムである。ラヴィッツの長兄にとっては、かつて邪神教団の討伐でもご一緒した間柄だ。ガズラン=ルティムの長身をすくいあげるような眼差しで見上げながら、ラヴィッツの長兄は「ふふん」と鼻を鳴らした。
「そしてこの後は、貴族どもと思うさま交流か。お前のような人間には、それも楽しくてならないのだろうな」
「ええ。ですがそれは、あなたも同様なのではないでしょうか?」
「お前のような変わり者と一緒にされるのは、心外の極みだな。……しかしまあ、バナームの貴族どもがどのような性根をしているのかは、いささか楽しみなところだ」
そんな言葉を交わしている間に、浴堂に到着した。
カミュア=ヨシュたちは昼から姿が見えないが、小姓によるとすでに身支度を終えて待機しているとのことである。あちらはあちらの流儀でもって、バナームの滞在を楽しんでいるのだろう。今日は姿を見ていないジェノスの貴族たちも、また然りであった。
年季の入った浴堂で身を清めたのちは、一昨日と同じように小姓の手伝いで身なりをあらためる。
本日準備されていたのは、セルヴァ風のふわりとした宴衣装であった。七分丈のワンピースのごとき長衣の上から袖なしで丈の長い上衣を羽織り、さらに首飾りや腕飾りなどを装着するという様式だ。ちょうどひと月前、ティカトラスが開催した肖像画のお披露目の祝宴でも持ち出されたのが記憶に新しいところであったが、あのときは俺とダリ=サウティだけ別なる宴衣装が準備されていたので、俺がこちらに袖を通すのはダカルマス殿下をお見送りする晩餐会以来なのであろうと思われた。
(そういえば、これは西の王国の伝統的な宴衣装だって話だもんな。バナームの祝宴には、きっと相応しいんだろう)
それにこちらは礼賛の祝宴でも使用されたため、今回の旅に同行したメンバーはおおよそ仕立て済みである。男衆の中で唯一準備がなかったのはジィ=マァムであるが、そちらはディック=ドムが着用していた分の使い回しであるとのことであった。
「5日ていどでは、新たな宴衣装を準備することも難しいらしいからな。もしもドムの家長がこの宴衣装をあつらえていなかったら、俺が同行することは許されなかったのやもしれん」
着慣れない宴衣装を纏ったジィ=マァムは、苦笑まじりにそう言っていた。
「ああ、俺たちがこちらの宴衣装をいただいたのは闘技会の祝賀会でしたけど、出場者だったジィ=マァムは森辺の装束で参席していたんですよね。でも、宴衣装もよくお似合いですよ」
「ふん。俺のように図体の大きな男衆に、こんな派手派手しい装束が似合うとは思えんな」
確かにこちらの宴衣装はあちこちに瀟洒な刺繍が施されているので、なかなかにきらびやかであるのだ。
しかし俺は、お世辞ぬきで「いえいえ」と答えることができた。
「森辺の狩人らしいかどうかはさておくとして、本当にお似合いだと思います。体格のいい森辺の狩人がこちらを纏うと、おとぎ話に出てくる戦士か何かみたいだなと、俺は以前からそんな風に考えていたのですよ」
かつて俺にそのような感慨を抱かせたのは、本日も同席しているモラ=ナハムであった。
それに今回は、ジザ=ルウ、ガズラン=ルティム、ダリ=サウティ、ゲオル=ザザという立派な体格をした狩人が居揃っている。ルド=ルウ、ゼイ=ディン、ラヴィッツの長兄という大柄ならぬ面々ももちろんこちらの装束はこよなく似合っていたが、ジィ=マァムたちはそれともまた異なる雄々しい風格があふれかえっていたのだった。
「では、最後にこちらをお願いいたします」
と、小姓が俺たち全員に細い腕章を装着し始めた。貴族ならぬ身分を示すための目印であろう。ジェノスでは朱色をしていたが、バナームのそれは鮮やかな青色であった。
あとはラヴィッツの長兄がざんばら髪を油で整えられるのを待って、俺たちはお召し替えの間から控えの間へと案内される。
そちらで待ち受けていたカミュア=ヨシュとザッシュマは、ふたりそろって「ほうほう」と感心しきった眼差しを向けてきた。
「これはこれは、たいそう立派なお姿でありますねぇ。異国の王族の一団でもお迎えしたような心地でありますよ」
「それは言葉が過ぎような。……そちらは、武官の装束であったのか」
「ええ。荒事を生業にする《守護人》には、こういった身なりが相応しいのでしょう」
そのように語るカミュア=ヨシュたち《守護人》の一行は、ジェノスの祝宴でもお馴染みである武官の礼服というやつであった。俺の故郷の軍服と通ずるようなデザインで、美々しい純白であるために、宴衣装に見劣りすることもない。カミュア=ヨシュもザッシュマもいつも通りの髭面であったが、そういうワイルドさもこちらの礼服にはそれなりにマッチしていた。
それに、レイトである。
レイトはもともと端整な面立ちをした少年であったため、そのような格好をしていると貴公子そのものであった。彼の持っている大人びていて静かな雰囲気が、貴族めいた気品をかもしだすのだろう。それでカミュア=ヨシュたちがいくぶん崩れた印象であったので、歴戦の部下を従える高貴な指揮官という風情になっていた。
「これはますます、女性陣の登場が待ち遠しいところだねぇ。アイ=ファやレイナ=ルウなどは、きっと輝かんばかりの美しさなのだろう」
カミュア=ヨシュがやにさがっていると、ジザ=ルウが糸のように細い目でその姿を見据えた。
「カミュア=ヨシュよ、貴方も森辺の習わしはわきまえているかと思うが――」
「はいはい。異性の容姿をむやみに褒めそやすのはご法度というお話でありましたね。俺も理性を総動員して、固く口をつぐんでいるつもりでありますよ」
すると、タイミングよく扉がノックされた。お召し替えを済ませた女衆が案内されてきたのだ。
アイ=ファ、レイナ=ルウ、リミ=ルウ、トゥール=ディン、スフィラ=ザザ、マルフィラ=ナハム、フェイ=ベイム、サウティの末妹、ルティムの女衆、マァムの女衆、そしてプラティカ――いずれも、セルヴァ伝統の宴衣装を纏った姿だ。カミュア=ヨシュは「おお!」とひと声さけぶなり、あとは表情だけで感嘆の思いをあらわにしていた。
そしてそれは、俺も同じことである。これだけの人数の女衆が宴衣装を纏えば華やかなことこの上ないし、なおかつ俺は毎度のようにアイ=ファひとりの美しさに心を奪われてしまうのだった。
アイ=ファもティカトラスの開いた祝宴では特別あつらえの宴衣装を準備されていたので、こちらの宴衣装を纏うのは俺と同じぐらいひさびさであろう。その艶やかなる姿に、俺は息が詰まるような思いであった。
女性用の宴衣装も、基本的なデザインは男性用と似通っている。ワンピースタイプのゆったりとした装束に、袖なしガウンのような上衣を羽織った格好だ。ただ、刺繍や装飾品の豪奢さは男性陣と比較にならないし――アイ=ファには、ひときわこちらの宴衣装が似合うようなのである。
アイ=ファが特別に感じられるのは、やはり体格の違いなのだろうか。アイ=ファはこの場に集まった女衆の中でもっとも長身であったし、それに狩人として鍛錬しているためか、ボディラインの起伏がもっとも際立っているのである。もとより森辺にはスタイルのいい女衆が多いものであるが、アイ=ファは広背筋や大殿筋などが発達しているためか、腰のくびれがいっそう顕著であり――そしてこちらの宴衣装はきわめて薄手の生地で作られていたため、やたらとボディラインが強調されるのだった。
そうして露出は少ないデザインであるのに、ただ胸もとだけは大きく開かれている。ゆったりとしたU字の襟ぐりで、かなり際どいラインまで胸もとがあらわにされているのである。そしてアイ=ファは大胸筋に底上げされているのか、胸もとの起伏も人並み外れているのだった。
それにやっぱりこういうふわふわとした宴衣装は、アイ=ファの研ぎ澄まされた雰囲気を多少なりとも緩和させるのかもしれない。他なる宴衣装では艶やかさと凛々しさが混在するアイ=ファであるのだが、こちらの宴衣装では少しだけ艶やかさが上増しされるようであるのだ。
ただし凛々しさが弱まるわけではないので、アイ=ファ独特の魅力は十全に保たれている。これほど優美で典雅であるのに、まったくはかなげなところのない、生命力にあふれかえったアイ=ファの美しさだ。
ゆるくウェーブがかった金褐色の髪には七色に輝く花の形の飾り物が、大きく開いた胸もとには銀の装飾が施された青い石の飾り物が、それぞれきらめいている。淡いグリーンをした宴衣装の生地に、褐色の肌はいっそう鮮やかに際立って――本日も、宴衣装のアイ=ファはとてつもなく美しかったのだった。
「……今日はお前も、そちらの宴衣装であったのだな」
と、カミュア=ヨシュやザッシュマたちの視線を黙殺し、アイ=ファがしずしずと俺のほうに近づいてきた。
凛然とした表情を保ちつつ、その青い瞳がさりげなく俺の胸もとを確認してくる。こういう際には俺がいつでもアイ=ファの首飾りに着目してしまうように、アイ=ファもまた自分の贈った首飾りを確認せずにはいられないのだろう。その瞳にいつも通りの満足そうな光が浮かぶのを目にした俺は、いっそう胸を高鳴らせることになってしまった。
「いやぁ、まいったなぁ。森辺の習わしを重んずるとなると、俺は二の句が告げないよ! このたぎるような思いは、どのように発散すればいいのかな!」
カミュア=ヨシュは顔中で笑いながら、そんな風に言っていた。ザッシュマも、「まったくだなぁ」と頭をかいている。
「本当にこいつは、想像を絶していたよ。普通は平民がそんな立派な宴衣装を着させられたら、多かれ少なかれ不格好に見えちまうもんなんだが……これはきっと、森辺の民ならではの気迫ってやつなんだろうな」
「気迫? 宴衣装を着込むのに、気迫なんざ関係ねーだろ」
ルド=ルウがそのように口をはさむと、ザッシュマは「うーん」と首をひねった。
「他に言葉が見つからなかったんだが、そうまで的外れではないと思うぜ。森辺の民は男も女も立派な性根をしてるもんだから、立派な宴衣装に負けることもねえんだよ」
「ああ、それは言い得て妙だねぇ。森辺の民の持つ野生の風格というものが、貴族さながらの宴衣装と不思議な調和を織り成しているのじゃないかな」
カミュア=ヨシュも、そんな風にザッシュマを援護していた。
俺としても、異論はない。アイ=ファに強烈な魅力を覚えてしまうのは俺個人の思い入れというものも大きく関わっているのであろうが、それ以外の女衆だって一種独特の魅力であふれかえっているのである。
レイナ=ルウやスフィラ=ザザなどはもとより容姿に優れているが、彼女たちほど強い個性を持っていない女衆や、まだまだ幼い女衆でも、魅力のほどでは負けていないのだ。リミ=ルウやトゥール=ディン、サウティの末妹やルティムの女衆などは何かの妖精のように可愛らしいし、マルフィラ=ナハムやフェイ=ベイムやマァムの女衆も、祝宴で目にする貴婦人がたとは別種の存在感を有している。とりわけフェイ=ベイムなどは父親似の四角い顔で、身体つきもそれなりにがっしりとしており、女性らしい優美さとは無縁であるのだが――それでもふわふわとしたセルヴァ伝統の宴衣装が、こよなく似合っているのだった。
それはやっぱり、ジィ=マァムやモラ=ナハムやラヴィッツの長兄に通ずるものであるのかもしれない。彼らとて、男前と称するにはあまりに厳つい風貌で、こんな宴衣装や装飾品など似合うわけもないように思えるのだが、無難に着こなすばかりでなく、独特の魅力や存在感を引き出されているのだった。
カミュア=ヨシュの言う通り、森辺の民というものは野生の風格や生命力というものを備え持っている。それがなよやかな宴衣装を纏うことにより、普段とは異なる調和を為すのだろうか。
俺としては、それもまた、野生の世界と石の都の狭間に生きる森辺の民ならではの魅力や調和なのではないかと思えてならなかったのだった。
(それに、ゲルドの民だって狩人の一族だから、それは同じことなんだろうな)
プラティカもジェノスの城下町ではしょっちゅう祝宴に参席していたが、こうまでしっかり女性用の宴衣装を纏うのは初めてなのではないだろうか。アイ=ファとそっくりの金褐色をした髪を腰のあたりまで垂らしたその姿は、別人のように優美であった。
もとよりプラティカは、切れ長の目と高い鼻梁が印象的な、東の民らしい美人さんである。年齢はまだ14歳ていどなのやもしれないが、背丈も165センチぐらいはあり、すらりとしなやかな体格をしているため、そのような若年だとは信じられないほどだ。ただ、胸もとだけはララ=ルウのようにすっきりしていたが、そのていどのことで彼女の魅力が損なわれることはなかった。
「……アスタ。そのように見られると、羞恥、禁じ得ないのですが」
と、プラティカが黒い頬に血をのぼらせつつ、紫色の瞳で俺をにらみつけてくる。同時にアイ=ファも至近距離から鋭い眼光を向けてきたので、俺は少なからず慌てることになってしまった。
「ぶしつけに見てしまって、失礼しました。アイ=ファと同じような格好をしていると、ますます姉妹みたいに見えてしまいますね」
「……その言葉も、羞恥、禁じ得ないのですが」
プラティカは表情が乱れるのをこらえる代わりに、恥ずかしそうに身をよじる。それでけっきょく、俺はアイ=ファに頭を小突かれたわけであった。
「ふむ。オディフィアから贈られた首飾りも、そちらの宴衣装には似合っているようだな」
ゲオル=ザザが気さくに声をかけると、トゥール=ディンはいくぶん頬を赤らめつつ、嬉しそうに「はい」とうなずいた。
他の顔ぶれもおおよそは血族と寄り集まり、和やかに言葉を交わしている。ルティムやマァムの女衆などは初めての祝宴であるのかもしれないが、それほど気後れはしていないようだ。マルフィラ=ナハムが目を泳がせているのはいつものことであるし、サウティの末妹は心から楽しそうな様子であるし、誰もが心安らかに祝宴の開始を待ち受けているようであった。
が――祝宴の開始とされていた下りの五の刻の半の鐘が鳴らされても、なかなかお呼びがかからない。
そこまで時間が深くなると、室内はどんどん薄暗くなってくる。そうしてさらに四半刻ばかりが経過すると、小姓が燭台に火を灯すために入室してきたので、代表者のダリ=サウティが疑念をぶつけることになった。
「すでに祝宴の開始とされていた刻限を大きく過ぎているようだが、予定が遅れているのであろうか?」
「いえ。式場となるエイラの大広間においては、すでに賓客の方々の入場が始められております。こちらの皆様の入場にはもう四半刻ほどがかかる見込みですので、もう少々お待ちくださいませ」
「なに? それでは部屋に踏み入るだけで、半刻もの時間がかけられるのか?」
「はい。こちらの皆様は主賓の立場であられますので、入場の順番も最後と定められているのです」
恭しいお辞儀とともにそんな言葉を残して、小姓は退室していった。
壁と卓上にいくつかの燭台が灯されたが、この広い控えの間のすべてを照らし出すには至っていない。そんな薄明りの中で、俺たちは顔を見合わせることになった。
「まあ、主賓と言ってもその末席なのだろうけれどね。200名にも及ぶ招待客の最後に回されれば、これほど時間がかかってしまうということなのかな」
カミュア=ヨシュがそのように言いたてると、ゲオル=ザザは呆れた様子で肩をすくめた。
「それにしても、部屋に踏み入るだけで半刻がかりとは馬鹿げているな。ジェノスで300人を集めた祝宴でも、それほどの時間はかけられなかったはずだぞ」
「それが伝統あるバナームの流儀ということなのだろうね。急かすわけにもいかないし、のんびり待とうじゃないか」
「しかし」と声をあげたのは、ジザ=ルウだ。
「部屋に踏み入るのが最後となると、我々はその場に集まった人間の素性を知るすべもない。今日はそのほとんどが見知らぬ相手であるはずなのだから、なかなか不便に感じられてしまうな」
「そうですねぇ。まあ、身分の高い人間ほど入室の順番が後回しにされるということは……先に入室した者たちが挨拶に回るべしということなのでしょう」
「俺たちが、挨拶を受ける立場ということか。こちらは貴族ならぬ身であるのに、おかしなものだな」
「きっとウェルハイド殿は、最大級の礼節でもって森辺の方々をもてなそうというお心なのでしょう。こちらはどっしり構えていればいいのだと思いますよ」
そんな風に言いながら、カミュア=ヨシュはにんまりと笑っていた。
それからほどなくして、再び小姓がやってきた。今度こそ、入場の案内をするための小姓である。たっぷり10分ぐらいは経過しているように思えたが、それでも何とか下りの六の刻の鐘が鳴る前に入場できるようだった。
俺たちは、薄明るい部屋から薄明るい回廊へと移動する。
もう日没が目前であるので、窓の外は深い藍色だ。バナーム城の荘厳なる回廊が、か細い燭台の明かりにぼんやりと照らされて――宴衣装を纏った森辺の一行の姿は、いっそう神話やおとぎ話の住人のように見えてしまった。
そうして案内されたのは、回廊と大広間の狭間に存在する、次の間である。
24名にも及ぶ一行がゆったりと立ち並ぶことのできる大きな部屋で、そこには何か甘いお香のようなものが焚かれていた。
「ふん。毒を帯びてはいないようだが、何やら嗅ぎなれぬ香りだな」
ラヴィッツの長兄が用心深げにつぶやくと、そのそばにいたザッシュマが小声で応じた。
「こいつは月香草といって、女神エイラの象徴とされる花と葉の香りだよ。町の婚儀なんかでも、こいつを焚くのは定番の習わしだ。ただ、涼しい土地にしか生えない草なんで、ジェノスで見かけたことはないな」
「なるほど。これも異郷の習わしか」
ラヴィッツの長兄がそのように答えたところで、小姓のひとりがこちらに近づいてきた。
「ではまず、《守護人》とゲルドの方々からこちらにどうぞ」
カミュア=ヨシュとレイト、ザッシュマとプラティカの4名が、部屋の奥の通路へと案内されていく。その後に呼ばれたのは、ラヴィッツとナハムとベイムの面々だ。
森辺の氏族の格式については、事前に通達されているのだろう。ジェノスでも、おおよそは格式の高い人間が後に回されるものであるのだ。
ただし今回は、ルティムとマァムとザザの6名が俺やアイ=ファより先に呼び出されることになった。どうやら名指しで呼びつけられた俺とレイナ=ルウとトゥール=ディンの組は、族長たるダリ=サウティの組の手前に設定されたらしい。むろんジザ=ルウたちは、バナームの流儀に文句をつけることなく、無言でそのさまを見守っていた。
ザザの組の後には、ルド=ルウとリミ=ルウ、ジザ=ルウとレイナ=ルウが案内をされる。その次がゼイ=ディンとトゥール=ディンで、その後にようやく俺とアイ=ファである。
「森辺の民、ファの家の家長アイ=ファ様、家人アスタ様」
触れ係の小姓の声に従って、俺とアイ=ファはともに大広間へと踏み入った。
バナーム城の大広間は――これまで待機していた次の間と大差のない薄明りである。そんな場所に200名もの人間が集められているのが、とても奇妙な感覚であった。
(婚儀の祝宴も、こんな薄明りの中で進行されるのかな。だとしたら……ずいぶん意外だなぁ)
おごそかな調子で打ち鳴らされる拍手の中、俺はそんな風に思案した。
その拍手の隙間に感嘆のざわめきが感じられるのは、このていどの薄明りでもアイ=ファの美しさが際立っているためであろう。壁に灯されたささやかな光源によって、アイ=ファの姿は神秘的にきらめいていたのだった。
アイ=ファが狩人の眼力でもって同胞の居場所を察知してくれたため、俺たちは迷うことなく大広間の奥側へと進んでいく。そのさなかにダリ=サウティと分家の末妹の名も呼ばれて、こちらの24名は無事に入室を果たすことができた。
俺たちは大広間の奥部に寄り集まり、入場の儀を見届ける。ただ後に残されているのは、俺たちとともにジェノスからやってきた面々のみであった。
騎士階級のデヴィアス、伯爵家の6名、王都の外交官フェルメス、南の王族デルシェア姫――そして、ジェノス侯爵家の3名だ。明かりが乏しいので確認するのもひと苦労であったが、本日はデルシェア姫を除く全員がセルヴァ伝統の宴衣装を纏っているようであった。
「本日の祝宴に参席される賓客の方々は、以上となります。続きまして、本日婚儀を挙げられるおふたかたの入場です」
小姓の澄んだ声音が、大広間の隅々にまで響きわたった。
「バナーム侯爵家、爵位継承権第7位、ウェルハイド様……ルアマット男爵家、第一息女、コーフィア様……ご入場です」
俺たちの背後に位置する両開きの扉が、大きく開かれる。
そして、俺たちがそちらに向きなおった瞬間――突如として、大広間がまばゆい輝きに包まれた。壁沿いにずらりと立ち並んでいた小姓や侍女たちが、いっせいに燭台へと火を灯したのだ。
さらに、大広間の中央からも大きな炎が燃えあがる。これまでは薄暗くて判然としなかったが、そこには丸く石の柵が築かれて、その真ん中に薪が積み上げられていたのだった。
薪には、油でもしみこませていたのだろう。そちらの炎は森辺の祝宴における儀式の火よりも勢いよく噴きあがり、それだけでも大広間の薄闇の大部分が消し飛ばされていた。
そうして一瞬で大いなる輝きに包まれた花道を、新郎新婦がしずしずと進んでくる。
ウェルハイドは炎のきらめきを映したかのような真紅の宴衣装、コーフィアは純白の宴衣装だ。どちらもセルヴァ伝統の様式であったが、その豪奢さは参席者たちの比ではなかった。ウェルハイドの宴衣装もコーフィアの宴衣装も、全身に金色の糸で渦巻く炎のような刺繍が施されていたのである。
さらに両者は黄金にきらめく王冠のようなものをかぶっており、ウェルハイドは儀式用と思しき立派な槍を、コーフィアは銀色に輝く聖杯を掲げていた。
頭の冠には、炎のごとき真紅の宝石が輝いている。真紅と純白、金と銀――ふたりの身につけているものは、それらの色合いだけで構成されているかのようだ。そしてそれが赤々と燃える炎に照らし出されているものだから、古めかしく重厚なバナーム城の様相に馴染んでいた目や心が、驚嘆におののいてしまいそうだった。
気づけば周囲は、万雷の拍手に包まれている。それで呆気に取られていた俺も、慌てて手を打ち鳴らすことになった。
ウェルハイドは凛々しい表情で、コーフィアはつつましい表情で、それぞれ花道を進んでいく。そうして彼らは中央に焚かれた巨大な炎をぐるりと一周してから大広間の奥部に舞い戻り、1メートルばかりの高みに設えられた壇の上に立ち並んだ。
その間にも燭台が追加されたようで、大広間はいっそうの輝きに包まれていく。今ではもう、ジェノスの城や宮殿に負けないほどの明るさであった。
ただし、ジェノスにおいてメインの光源となるのは、天井に設置されたシャンデリアである。シムの硝子細工で作られたシャンデリアに煙の少ない油で火が灯されて、透明の輝きを室内に広げるのだ。
しかし、あのように立派な照明の装置が開発されたのは、きっと近年になってからであるのだろう。それがいつぐらいの時代であるのかは知るすべもないが、少なくともシムとの通商が始められてからであるはずなのだ。
然して、こちらのバナーム城は500年余りの歴史を有しており、こちらの大広間にも改修の跡は見られない。壁や卓に設置された燭台や灯篭などはともかくとして、部屋の中央に焚かれる炎などは、きっとその頃から伝えられる様式であるのだ。
城の中で儀式の火さながらの炎を焚くなど、俺が初めて目の当たりにする光景である。
炎は今でも勢いよく燃えており、その周囲は腰ぐらいの高さの柵に囲まれている。そして黒煙が室内に広がらないように、小姓たちが四方から大きな扇でゆったりと仰いでいた。
その黒煙の行き着く先は、天井だ。
俺が頭上を見上げてみると、天井にはぽっかりと大きな穴が空けられていた。
きっと普段は、なんらかの手段でふさがれているのだろう。そうでなければ、雨が降るだけでこの大広間も水びたしになってしまうのだ。
ジェノスの洗練された城や宮殿に比べると、あまりに粗くて、原始的な様相である。
しかし――きっと500年余りの昔にも、このようにして婚儀の祝宴が執り行われていたのだろう。そのように考えると、俺はむやみに胸が高鳴ってならなかった。
夜は暗いのが当然であり、むやみに明るく照らしだそうとしないバナーム城のありようは好ましく思うと、アイ=ファはかつてそのように語っていた。
しかし、昼間のように明るい光の中で、ウェルハイドとコーフィアの姿を見つめるアイ=ファの瞳には、ごく純然たる祝福の思いだけがたたえられているような気がした。
かくして――俺たちは大きな驚嘆の気持ちを抱えつつ、バナーム城における婚儀の祝宴に臨むことに相成ったのだった。




