⑤森辺の家長たち(上)
2014.11/12 更新分 1/1
そして――ついに太陽は西の果てに差しかかり、それと時を同じくして、すべての料理が完成した。
小さなアクシデントは多々あったが。ミダ=スンの乱入以外に本家の人間から妨害を受けることもなく、ある意味、あっけなく完了してしまった、とさえ言えるぐらいかもしれない。
しかし、油断は禁物だ。
調理中にちょっかいを出してこなかったということは、食事中か、あるいは食後に何らかの陰謀が張り巡らされている、ということなのだろうから。
少なくとも、ミダ=スンがやかましいから、とか、ちょっとした好奇心を満たすために、とか、そんな生ぬるい目的で俺を呼び寄せたわけではあるまい。
莫大な銅貨を稼ぐことができる俺という存在を我が物にしてやろう、という目論見なのか。
あるいは、俺の存在が目障りだから排除したい、という目論見なのか。
真意は、わからない。
わからないが、ろくでもない目的である、ということに間違いはないと思う。
そんなわけで、俺たちは調理の仕事を終えた後も、緊張の糸は緩められぬまま、配膳の作業に取り組むことになったのだった。
◇
「――失礼いたします」
温めなおした『ギバ・スープ』の鉄鍋を、ヴィナ=ルウとともに祭祀堂へと運びこむと、幾対もの鋭い視線が無言のままに突きつけられてきた。
日没も間近である上に、祭祀堂の中は外界よりもなお暗く、すでにあちこちの燭台に火が灯されている。
そのオレンジ色の火に照らされて――いずれも屈強なる男衆たちが、野獣のごとく双眸を燃やしていた。
家長会議は、ひとまず終了したはずである。
しかし、空気は嫌というほどに張りつめている。
そのぴりぴりとした空気をかきわけるようにして、俺とヴィナ=ルウは壁ぎわに設置されたかまどへと近づいていった。
外観からのイメージ通りの、竪穴式の造りだ。
床は、地表よりも1メートルばかりも低い。だから、余計に広々として見える。
4本の柱と、柱をつなぐ桁、それに放射状に組み合わされた垂れ木によって、円形の屋根が支えられている。
かまどは四方の壁面に設置されていたので、入口から1番近い場所にあったやつに、鉄鍋を乗せる。
そうして俺たちがかまどに火を焚く間も、男たちは無言だった。
族長筋のスン家と、36の氏族の家長たち。
そして、それに付き添ったひとりずつの男衆。
総勢で、そこには70名以上の人間が控えていることになるが――囁き声のひとつも聞こえてこない。
全員がそれぞれ毛皮の敷布の上に座し、俺たちの挙動を無言で見守っている。
刀はどこかに預けてあるのだろうが、狩人の衣は纏ったままである。
祭祀堂には4つの出入口があったので、そちらからも他の女衆たちが鉄鍋を運びこんできていたが、誰も彼もが申し合わせたように、無言だ。
別にかまど番の挨拶が必要な場面でもなかろうと思い、かまどに火を焚いた後は、次の配膳に取りかかるべく、俺たちはそそくさと退去しようとしたが――
そこで、初めて声があがった。
「ご苦労であったな……ファの家のかまど番、それにルウとルティムの女衆たちよ」
聞きとりづらい、妙にくぐもった声だった。
その声のあがった方向に、俺はゆっくり視線を巡らせる。
「宿場町の人間が銅貨を払ってまで食べようとする、ギバの肉……それをついに口にすることができるわけだ……」
2名の男衆を左右に従え、ひとりの大男がそこに座していた。
円形の建物だが、そこがきっと上座なのだろう。男たちの背後には、奇妙な形に組みあげられた祭壇のようなものが設えられており、その天辺には巨大なギバの頭骨が掲げられている。
(こいつが、スン家の家長、ズーロ=スンか……)
それは、間違いないと思う。
何せ、その人物の左右に控えていたのはスン本家の長兄と次兄、ディガ=スンとドッド=スンであったのだから。
ディガ=スンは、嘲弄の笑みを浮かべて、俺を見ていた。
ドッド=スンも、飢えた野犬のような目で、俺を見ている。
そんな息子たちを左右に従え――ズーロ=スンは、にたにたと不気味な笑みを浮かべていた。
(ふうん……)
想像していたよりは、凶悪な面がまえではなかった。
だけど何だか――異様な雰囲気である。
図体は、でかい。大柄なディガ=スンよりも、一回りは大きそうだ。
ただし、ミダ=スンほどではないにせよ、ずいぶんと肥え太ってしまっている。
頭には1本の毛髪もなく、まぶたや頬の肉がだらしなく垂れ下がっている。
やたらと口が横に大きくて、何だか水にふやけたヒキガエルのような面相である。
身に纏っているのは、森部で定番の布地の装束であるが。その脂肪ののった腕や足には、女衆のようにじゃらじゃらと飾り物が巻きつけられていた。
そして、その胸もとには、ちょっと尋常でないぐらい大量の角と牙が揺れている。
森辺の民にとっては、その首飾りこそが狩人としての誇りであり、証しであるはずなのだが。残念ながら、この人物に限っては虚栄の象徴にしか見えない。
(この体型じゃあ、狩人の仕事はつとまらないだろ……)
体型だけで言うならば、ミダ=スンのほうが人間離れはしているが。しかし、あの末弟はいちおう地面を走るぐらいの運動能力は有していたし、腕力なんかは、ものすごく強そうだった。
しかし――このズーロ=スンという人物には、大きな図体をした人間特有の圧力みたいなものが、見事に欠落してしまっていた。
姿勢が悪く、あぐらをかいたその身体が少し右側に傾いでしまっている。
小さな黒い目だけは脂っこく光っているが、表情は何だかけだるげだ。
清廉にして苛烈なる狩人の一族の長――という肩書きに相応しい風格などは、微塵もない。
「どうした? ……我は、ご苦労であったと言っているぞ……?」
薄笑いを浮かべた大きな口が、再びくぐもった声を発した。
俺は「恐縮です」と一礼してみせる。
「ですがこれは、代価と引き換えに果たされる仕事なのですから、ねぎらいの言葉などは不要なのではないでしょうか」
なるべく平坦な声でそう応じると、ズーロ=スンはいっそうにたにたと口の端を吊り上げた。
「それもそうだな。埒もないことを言った。……晩餐の準備を続けるがいい」
「はい。それでは失礼いたします」
俺たちは粛々と作業を再開させる。
スン家の女衆たちはみんな自分の家に帰っていったので、配膳に取り組んでいるのはルウとルティムの女衆のみ、である。
普段は明朗な彼女たちも、その場にたちこめた重苦しい空気にあてられてしまったかのように、みんな固い表情になってしまっている。
「……わたしたちも、あの中で食べるのよねぇ……?」
と、祭祀堂を出て、かまどの間に戻る道中で、ヴィナ=ルウが溜息混じりにそうつぶやいた。
「そうですね。いちおうそれが森辺のしきたりでもありますし」
ただし、スンの分家の女衆たちは、自分の家で自分の家族たちに食事をふるまう役を担っていた。
『かまどをまかされた人間は同じ場で同じものを食するべき』というしきたりを完全にまっとうするには、分家の人間も全員同じ場に集まるべきであろうとも思うのだが。こういう拡大解釈は許されているらしい。
それに、ヤミル=スンやミダ=スンも祭祀堂には集まらないそうで、それにも少し拍子抜けしてしまった。
「心の弾まない話ねぇ……ドンダ父さんたちがそばにいれば、何も危険なことはないんだろうけどぉ……とにかく、雰囲気が悪すぎるわぁ……」
一触即発のスン家とルウ家が眷族とともに一同に会しているのだから、それはまあ空気が凍てついて然りであろう。
家長会議においては、いったいどのような舌戦が展開されたのか。
その中で、アイ=ファは自分の仕事を果たすことができたのか。
それに対して、家長たちはどのような気持ちや考えを得ることになったのか。
そんなことも知らされぬまま晩餐を始めなくてはならない俺たちの精神的負荷も、なかなかのものだった。
ともあれ、仕事は果たされなければならない。
スープを運んだ後は焼きポイタン、それからアリアを添えたミャームー焼きと、モモ肉のステーキ、スペアリブ、と次から次へと料理を運んでいき、スープをひとりずつによそって、ようやく完了だ。
「……アスタ、こっちだ」と、仕事を終えたところでアイ=ファに招かれて、ヴィナ=ルウとともに足を進めていく。
スン家が陣取った上座を左手側に見る一画に、見知った姿が結集していた。
ドンダ=ルウ、ダルム=ルウ、ダン=ルティム、ラウ=レイ――ルウの眷族たる14名の男衆たちと、アイ=ファである。
ミーア・レイ母さんやレイナ=ルウたちもすでに着席しており、彼女たちが運んでくれたらしい俺やヴィナ=ルウのための料理もきちんと並べられている。
「ああ、おたがいに無事で何よりだ」と、アイ=ファの隣りに腰をおろしつつ、俺はこっそり耳打ちしてみせる。
アイ=ファは、いつも通りの仏頂面だった。
「……家長会議のほうは、どうだったんだ?」
「何とも言えん。すべては今宵の晩餐を食してからだなと、スンの家長はあの調子で薄笑いを浮かべるばかりであった」
それはまあ、実際にその料理が登場する予定であるならば、そういう流れにもなってしまうか。
「その他のことは? 宿場町におけるドッド=スンのご乱行とか、ルティムの祝宴の一件だとか、そういうものを告発する場でもあったんだろう?」
「そちらのほうは、いつもの通りだ。のらりくらりと言い逃れをして、最後にスンの家長が頭を下げれば、それで大概のことは収められてしまう」
そのやり口は、俺も事前にガズラン=ルティムから伝え聞いていた。
不本意ながらも表沙汰になってしまった悪行に関して、スン家の家長はいつも最終的に「謝罪」という伝家の宝刀を奮うのだそうだ。
威厳もへったくれもない話である。
(だけど――そういう連中だからこそ、厄介なんだろうなあ)
恥を知らない人間は、怖い。
それは、ドッド=スンと初めて相まみえたときにも痛感したことだ。
「……それでは、晩餐を始めるとしよう……」
と、恥知らずの総元締がくぐもった声をあげる。
「家長会議でも取り沙汰された、ファの家のかまど番の手による晩餐である。各人、心して食するがいい……」
そして、お馴染みの文言である。
「……森辺の恵みに感謝して……火の番をつとめたファの眷族、ルウの眷族、スンの眷族に礼をほどこし、今宵の生命を得る……」
大半が男衆であるために、きわめて重々しい声音でその言葉が復唱される。
そうして人々は――器を取った。
(……いったいどういう感想になるんだろうなあ)
これはただの晩餐ではない。
ある意味では、寸評会のようなものだ。
血抜きや解体といった新しい技術をもちいて、ギバの肉に変革をもたらした。この肉に、ゆくゆくは銅貨に換えられるような価値を与えたい――その前準備として、ファの家は現在ルウやルティムの協力のもとに、宿場町で料理の屋台を開いている。
それだけの情報を開示した上での、晩餐なのである。
スンの眷族、ルウの眷族、そのどちらにも属さない小さな氏族、それらの家長が何を思い、何を考えるか――すべてが手探りの、出たとこ勝負だ。
「……おい、モルン、どうしてあばら肉が1本しかないのだ? たった1本で俺の胃袋が満足するわけがないではないか?」
と、ダン=ルティムの低くひそめた声がぼしょぼしょと聞こえてくる。
「今日は130人分の料理を作ったんだよ? 1人に1本ずつでも大変だったんだから、文句を言わないで」
「いや、しかし……!」
「ああもうわかったよ。あたしの分をあげるから騒がないで。……その代わり、ミャームーの肉をもらうからね?」
何とも平和なやりとりである。
この際は、彼らの豪胆さがとても心強い。
それでは俺もダン=ルティムに自分のあばら肉を献上してさしあげようかなあと、そちらを振り返ろうとしたとき――その声が、響いた。
「何だ、さんざん偉そうなことを抜かすからどれほどのものかと思えば、何てことはねえただのギバ肉じゃねえかあ」
ディガ=スンだった。
相変わらずの間延びした声で、スン家の跡取り息子はさらに言った。
「こんなもんで、本当に100枚以上の白銅貨が稼げたのかあ? 俺には、信じられねえなあ」
ふむ。
スン家としては中傷か絶賛の二択であろうとは思っていたが、まずはそういう方向から攻めてくる心づもりであるらしい。
「スン家の長兄ディガ=スン。それはファの家に対する質問なのでしょうか? そうであるならば、お答えしますが」
よどんだ眼光が、じっとりと俺をにらみつけてくる。
これで3度目の対面であるが――やはり、この御仁に恐怖心を誘発されることはない。
「うむ……ファの家の家長は、10日間で白銅貨100枚以上の富を得た、としか言うてはおらんかった……いま少し詳しい内容を聞かせてほしいものであるな……」
そう応じたのは、父親のほうだった。
「では」と、俺は木皿を下ろす。
「まず、それが真実であるかという問いには、真実であるとお答えします。10日間で1000食以上の料理を売ることができたので、その売り上げは白銅貨200枚以上にのぼり、材料費などを差し引いた利益は、白銅貨123枚分、ギバの角と牙92頭分となりましたね」
黙然と食事を続ける家長たちの間に、さすがに少しばかりのざわめきが広がり始める。
自慢たらしく聞こえないように、俺はつとめて淡々と収支報告をさせていただいた。
「ただし、その10日間の最初の数日は料理の準備が足りなかったため、満足な数を売ることができませんでした。ここ最近の1日に売れる料理の平均は150食ていどで、稼ぎは白銅貨17枚から18枚ほどとなります。……さらに、2日後からは宿屋にも料理を卸す予定ですので、それも合わせれば白銅貨20枚以上の売り上げを見込むこともできるでしょう」
「1日で、白銅貨が20枚……確かに信じ難い数字ではあるな」
笑いをふくんだ、ズーロ=スンの声。
「……しかしそれは、異国人であるお主が店を開いているゆえ、なのではないか? 森辺の民を忌み嫌うジェノスの民が、我らからギバの肉そのものを買うことなど、本当にありうるのだろうか……?」
「もちろんそういう関係性を構築するには長い時間が必要となるでしょう。ですが、屋台ではルウの女衆にも手伝ってもらっています。彼女たちを通して森辺の民の正しい姿に慣れ親しんでもらうことができれば、根拠のない蔑みや怖れの感情などは、いずれ氷解していくと思っています」
いくぶん目に力を込めて、俺はそう述べる。
それはあくまで「根拠のない」部分の話であり、もしも実際に悪行をはたらく森辺の民が存在するならばその限りではない――より多くの富を得たいならば、悪行ははたらくな――という意を言外に含めたつもりだ。
しかし、ズーロ=スンのうすら笑いに変化はない。
まあ、このていどの牽制で行いを改めるような連中なら苦労はないよな、と俺はこっそり息をつく。
「もしかしたら、このような形で森辺の民がジェノスと関わることをよしとしない、という向きもあるかもしれませんが。少なくとも、ファの家は自分たちの富のためだけにこのような真似に及んだわけではない、ということはご理解いただきたいと思います」
「ふむ……森辺にさらなる豊かさを、という話であったな……」
何だろう。
このズーロ=スンという人物の思惑が、まったく読み取れない。
そのヒキガエルのような顔には薄笑いがへばりつき、声には揶揄するような響きが強かったが――それでも明確な悪意は感じられないし、それほどの関心も感じられない。
例えばあのツヴァイ=スンのように銅貨への執着心でも見せてくれれば、まだしも扱いやすいのだが。魂胆が知れないので、こちらも何を強く主張すればよいのか、わからなくなってしまう。
(こいつは本当に、何のために俺をスン家まで呼び寄せたんだろう……?)
ズーロ=スンは、うっすらと笑いながら食事を進めている。
ディガ=スンも、へらへらと笑いながら肉をかじっている。
ドッド=スンは――ちょっと見逃してしまっていたが、きちんと料理を食べているのだろうか? 今はひたすら果実酒をあおっている。
「しかし……富など、必要なのであろうか……?」
やがて、ズーロ=スンは咽喉にからんだ声で、そう言った。
「富は、人間を堕落させる……我は森辺の族長として石の都の住人ともたびたび顔を合わせておるから、その言葉が真実であるということを、この場にいる誰よりも強く知っている……身にあまる富は、人間を堕落させる悪い酒のようなものだ……」
いったいどの口がほざくのだ、という内容である。
しかし、スン家の連中を相手にここで怒っていては、きっと話が始まらないのだろう。
だから俺は大人しく口をつぐんでいたのだが。黙っていない人物が、ひとりいた。
ダン=ルティムである。
「それがわかっていながら都からの褒賞金を独り占めにしておるのは何故なのだ、族長ズーロ=スンよ? ありあまる富が悪い酒だと言うのならば、そのようなものは石の都に突き返してやればよいではないか?」
それほど声を荒げるわけでもなく、ただ十分に不愉快そうな口調で、ダン=ルティムはそう言った。
そう言ってから、その手のあばら肉を骨からかじり取った。
どうやらアマ・ミン=ルティムから3本目のあばら肉を献上されたらしい。
「愚問だな、ダン=ルティムよ」と、若い声がそれに応じる。
スン家の男衆ではない。その声は、俺のななめ後方からあがった。
レイの家長、ラウ=レイだ。
「ダン=ルティムには、族長らの慈悲深さがわからぬのか? 悪い酒だからこそ、族長らはそのようなものを我らに与えぬよう、自分たちだけで飲み干してくれているのだろうさ。それぐらいのことは、察して然るべきであろう」
「なるほど。そういうことだったのか」と、ダン=ルティムは豪快に笑う。
たちまち、スン家の左側に控えていた幾つかの黒い影が、猛然と立ちあがった。
「レイの家長に、ルティムの家長よ! 貴様たちはまた何の証左もなく族長筋を誹謗する気か? 石の都から与えられた銅貨は、すべてジェノスの田畑を守るために費やしているのだと、これまでに何べんも説明されているだろうが!」
それは、ギバの頭部つきの毛皮をかぶった大男たちだった。
その中で、もっとも体格がよく、もっとも魁偉な風貌をした男が、ドンダ=ルウにも劣らない胴間声を張り上げる。
「いみじくも、いま貴様が言った通り、そのような富は森辺には必要ない、というお心から、族長はその褒賞金を使って町の人間を雇い、木材を集めさせ、ジェノスの田畑を守る壁を築いているのだ。貴様たちに誹謗されるいわれなど、どこにもない!」
「それこそ、証左のないことではないか、ザザ家の家長よ? 毎年毎年おなじ言い訳ばかりで、俺もいい加減に聞き飽きてしまったのだ」
ダン=ルティムは平気な顔であばら肉をかじり続け、ザザ家の家長とやらは、いっそういきりたつ。
「俺はこの目で、田畑に壁が築かれていくさまを見ている! あれだけの壁を築くには何十人というジェノスの男衆が必要になるから、多大な銅貨と多大な時間が必要となるのだ!」
田畑を守るための、壁?
本当にそのようなものが建設されているのだろうか?
だったら――ドーラの親父さんたちがそこまで苦悩することもない、と思えるのだが。
「……あやつらが言っているのは、城の北側にある田畑のことだ。そちらは城の人間の田畑であるため、木の壁で固く守られている――と、以前にジバ婆が言っていた」
と、アイ=ファがそっと耳打ちしてくれた。
なるほど。町の人間の田畑は城の南側にあるはずだから、そちらにまでは手が及ばず、飢えたギバに蹂躙されるまま、ということか。
「スン家は、その壁を作るために褒賞金をつぎこんでいると言い張ってるんだな。……それが真実であるという可能性はないのかな?」
周囲の人間に聞こえてしまわぬよう極限まで声を潜めてそう問いかけると、アイ=ファは「ない」と首を振った。
「貴族の田畑を守る壁はもう何十年も前に完成されている、とジバ婆は言っていた。もちろん、飢えたギバにその壁をも破られれば、そのつど補修が必要になるのであろうがな」
「ふむ……」
「そもそも、都からの褒賞金など微々たる額であるのだから、それであのように立派な壁を築くことは不可能だと、ジバ婆は笑っていた」
それではけっきょくザザ家の家長もスン家にたぶらかされているだけ、ということか。
よくもまあこのように恐しげな相手をたぶらかす気になれるものだと、溜息がこぼれてしまう。
(本当に、誰も彼もがドンダ=ルウばりにおっかない顔つきをしているもんな……)
だけど、これこそが森辺の民であろう、と思う。
野獣のごとき気迫と生命力。清廉にして苛烈なる狩人の一族――ザザやドムやジーンといったスン家の眷族たちは、みんなその名に相応しい勇猛さを持ち合わせていた。
その勇猛なるザザ家の家長が、深甚なる怒りに双眸を燃やしながら、ダン=ルティムやラウ=レイたちをにらみすえている。
「ありあまる富は狩人を堕落させる! だからこそ、そのように余計な富は森辺に持ちこまず、ジェノスの田畑を守るために費い果たしているのだ! 族長の決断に何の不服があるというのだ、貴様たちは!?」
「その言葉が真実であるならば、何の不服もない。ただ、何年経ったらその壁とやらは完成するのかと、俺は宿場町のトトスのように首を長くしているだけだ、ザザ家の家長よ」
そんな風に言い返してはいるが、ダン=ルティムのほうはまったく激している様子もない。むしろ、その顔は早くも問答に飽いて、あくびのひとつもしそうな風情であった。
きっと、家長会議においても同じような問答が繰り返されたのだろう。
族長筋の不備をルウの眷族がつつき、スン家の眷族がそれを擁護する。この奇妙なパワーバランスの上に、スン家の支配は頼りなく存続しているだけ、なのではないだろうか。
ドンダ=ルウは、そのように不毛な問答には加わろうとせず、ただ双眸だけを物騒な感じに燃やしながら、果実酒をあおっている。
(何だかずいぶん危なっかしいやり方だなあ……)
ルウ家とスン家が争えば、森辺を二分する大きな戦いになるかもしれない、と聞いていた。
だけどそれは、眷族あっての話であろう。
ザザやジーンといった有力な氏族の助けがなければ、スン家がルウ家に抗えるとも思えない。
それなのに、スン家が虚言をもって眷族たちの信頼を勝ち得ているというのならば――そんなものは、砂上の楼閣であるようにしか思えないではないか。
(スン家のやり口は、穴だらけだ。こんなもん、俺とかカミュアみたいな人間がちょいと悪知恵をはたらかせるだけで、簡単に決壊させることができるんじゃないか?)
そんな風にすら、思えてしまう。
もちろん慢心は禁物だが、おかしな具合に文明国かぶれしているように見受けられるスン家のやり口は、あまりに杜撰でほころびだらけのように思えてしかたがなかった。
そんな風に考えこんでいたところに、突然叱責の声を叩きつけられた。
ザザの家長である。
「……だから、森辺にありあまる富を招こうというファの家の行為は、森辺の民を堕落させる行為に他ならぬのだ!」
俺は、ハッとして面を上げる。
ザザの家長らが、狩人の眼光で、俺とアイ=ファをねめつけていた。
「異国人をたらしこみ、その手腕をもって銅貨を稼ぐというのは、まあいいだろう。べつだんそれは、森辺の掟に反する行為でもない。……しかし、その富で森辺の民を堕落させようという心づもりならば、刀をもって粛清せねばなるまい!」
いきなり、こちらにお鉢が回ってきた。
いや――そうではない。きっと、家長会議においてアイ=ファの言葉を聞いて以来、彼らはずっとそんな思いをくすぶらせていたのだろう。
ありあまる富は、森辺の民を堕落させるかもしれない――それはまさしく、店を出す前に俺が最初に抱いた懸念であったのだ。
その懸念を打ち砕いてくれたのはガズラン=ルティムであり、アイ=ファであった。
そのアイ=ファが、座したまま背筋を伸ばし、ザザ家の家長を凛然とにらみすえる。
「ありあまる富は、森辺の民を堕落させる。ザザの家長は、そう考えるのか」
「その通りだ。ギバの肉を使って銅貨を稼ぎたいなら、それは好きにするがいい。ただしその富は、森辺に撒き散らすな! ……まあ、ルウやルティムがファの家に尻尾を振るならば、そちらにはいくばくかの銅貨を分け与える必要も出てくるのやもしれんがな。それぐらいは、目をつぶってやろう」
「ほう……?」と、ダン=ルティムが巨体を揺すった。
きわめてにこやかに笑いながら、そのどんぐりまなこにグラグラと激情を沸騰させ始める。
「愉快なことを抜かしてくれるな、ザザの家長よ? 我らが銅貨欲しさにファの家と縁を結んでいる、とでも言うつもりか?」
「違うと言うのか? ならば何故、血の縁も持たぬファとルティムがそのように行動をともにしておるのだ?」
「ファとルティムは、友だからだ!」
蛮声を張り上げるや、ダン=ルティムは右の拳を床に叩きつけた。
敷布に覆われた土の地面が、その一撃でぼこりと沈んでしまう。
「血の繋がりは何よりも重いが、血の繋がりがすべてであるというわけでもあるまい! ただ眷族であるというだけでスン家なんぞに付き従っているお前らにはわからんのかも知れんがな!」
「貴様! まだ族長筋を愚弄する気か!」
その場の空気が、一気に煮えたっていく。
そこに水を差したのは、彼らの長であるドンダ=ルウやズーロ=スンではなく――アイ=ファであった。
「ルティムの家長もザザの家長も、今少し冷静になってほしい。肝要なのは、ありあまる富について、であろう?」
アイ=ファの瞳も、厳しく光っていた。
しかし、その表情や口調は、落ち着いている。
アイ=ファは怒れるダン=ルティムをなだめるようにうなずきかけてから、ザザの家長に向きなおり――そして、静かに語り始めた。