前日④~大いなる世界~
2022.7/28 更新分 1/1
スフィラ=ザザとの密談を終えたのち、コーフィアは単身でバナーム城に戻っていった。
広場でトトス車が駆け去るのを見送った俺たちは、おのおの安堵の息をつく。そののちに、アラウトがスフィラ=ザザに向かって深く頭を垂れたのだった。
「スフィラ=ザザ殿、ありがとうございました。コーフィア姫をなだめるのは、僕の役割でしたのに……けっきょく最後まで、スフィラ=ザザ殿に頼りきりになってしまいました」
「わたしはわたしの気持ちに従っただけですので、何も礼には及びません。ウェルハイドの弟であるあなたなどは、たいそう苦しい立場だったのでしょうしね」
そんな風に応じながら、スフィラ=ザザはふっと口もとをほころばせた。
「それに、さきほどの言葉には、一片の偽りもありません。ウェルハイドであれば、きっとコーフィアの心を救ってくれることでしょう。わたしは、そのように信じています」
「はい。僕も同じ気持ちです。そして、スフィラ=ザザ殿にそのように言っていただけることを、心から誇らしく思います」
アラウトは顔を赤らめたりもせず、ただ感服しきった眼差しでスフィラ=ザザを見つめていた。
退屈そうにしていたゲオル=ザザは、「やれやれ」と逞しい肩をすくめる。
「どのような話を語らったのか知らんが、丸く収まったのなら何よりだな。スフィラが恥を忍んで真情をぶちまけた甲斐もあったというものだ」
「わ、わたしは人に恥じ入るような真似はしていません。憶測で勝手な言葉を述べるのはおやめなさい」
「だったらどうして、俺を外にしめだしたのだ? お前はやたらと大人ぶっているくせに、そういう部分は子供じみているな」
「う、うるさいですよ!」と、スフィラ=ザザのほうが顔を赤くして、弟の背中を引っぱたいた。
その間に、別のトトス車で待機をしていたメンバーがぞろぞろと降りてくる。ルド=ルウとリミ=ルウ、ダリ=サウティとサウティの末妹、リフレイアとメリムの一行、そして案内人の若者だ。
「よー。話は終わったのかー? 城下町の見物が許されるんなら、さっさと続きを済ませちまおうぜー」
「もちろんです。余計なお時間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした。……ザザ家のおふたりは、他の方々と行動を別にされたのですね?」
「ええ。トゥール=ディンやオディフィアたちを巻き込むのは気の毒でしたので、わたしたちだけで戻ることになりました」
「では、そちらと合流するまでは、僕がご案内いたします。まだ半刻ほどは、時間も残されているはずですので」
そうして俺たちは、ようやく城下町の見物を再開することになった。
こちらの組もルウとサウティの組も次は革細工屋を目指すところであったので、一緒になって街路を進む。そのさなか、嘆息をこぼしていたのはレイナ=ルウであった。
「コーフィアはわたしのせいで心を乱していたというのに、わたしはこれっぽっちも彼女の心を安らがせることができませんでした。わたしはスフィラ=ザザよりも年長であるはずなのに……自分の不甲斐なさを恥ずかしく思います」
「そんな、レイナ=ルウに責任のある話じゃないさ。それに、スフィラ=ザザは……きっとあれだけ大変な恋をしたから、人に助言することができるんじゃないかな。俺だって、あんな立派に振る舞うことはとうていできないよ」
「でもアスタは、テリア=マスのことで悩むレビに助言をして、ふたりを婚儀に導くことがかなったのでしょう?」
「いやいや。あれはどちらかというと、ラウ=レイのおかげだよ。ラウ=レイが荒っぽい真似をしてまでレビの心に踏み込んでくれたから、ああいう結果に落ち着いたのさ」
すると、俺たちの後ろをてくてくと歩いていたルド=ルウが、「んー?」と首を突っ込んできた。
「話が丸く収まったんなら、誰のおかげでもいいだろー? アスタやレイナ姉は色恋の話よりかまど仕事のほうが得意なんだから、そっちで力を見せつけてやれよ」
「……それじゃあまるで、かまど仕事しか能がないみたいじゃん」
レイナ=ルウがちょっぴりすねたお顔で言い返すと、ルド=ルウは「ははん」と鼻を鳴らした。
「だったらレイナ姉もララやシーラ=ルウみたいに、色恋のほうでも頑張ればいいんじゃねーの? そうしたら、親父やジザ兄も安心するだろうしさー」
「う、うるさいな! ルドだって、婚儀の話を断ってばっかりじゃん!」
「俺はまだ17歳だからなー。婚儀を急かされる筋合いはねーや」
そんな風に言いながら、ルド=ルウは手をつないで歩いていたリミ=ルウをひょいっと抱え上げ、肩車をした。リミ=ルウは「わーい!」とはしゃいだ声をあげながら、兄の頭にしがみつく。そうして俺がアイ=ファのほうをうかがうと、「私を見るな」と赤い顔で頭を小突かれたわけであった。
そうして7、8分ほど街路を進むと、目的の地である革細工屋の商店に到着する。バナームはカロンの牧畜が盛んであると聞いていたので、こちらにもダバッグに負けない品が取りそろえられているのではないかと思い、見学を所望したのだ。
「ですが、森辺の方々はギバという獣を狩っておられるのでしょう? そちらの毛皮で細工物を加工したりはしないのですか?」
アラウトがそのような疑念を呈すると、ダリ=サウティが「うむ」と応じた。
「我々がギバの毛皮でこしらえるのは、狩人の衣と敷物ぐらいだな。古きの時代には、もっとさまざまなものをこしらえていたのかもしれんが……モルガの森に移り住んでからの80年ていどで、それらの技も失われてしまったのだろう」
「何故に失われてしまったのでしょうか?」
「それはおそらく、毛皮を売って銅貨に換えなければ、満足な食料を買うこともかなわなかったゆえであろう。多くの氏族の人間は、つい近年まで飢えに苦しんでいたからな」
「なるほど……それがアスタ殿のおかげでギバの肉を売るすべを見出し、豊かな生活を送れることになったというわけですね」
アラウトは、妙にしみじみとした面持ちで息をついた。
「僕は森辺の方々について、まだまだ何も知りません。かなうことなら、傀儡の劇というものを拝見したいところなのですが……傀儡使いの方々も、バナームへの道は素通りしてしまうようなのですよね。ムドナの方々などはもう2度や3度も傀儡の劇を拝見しているという話であるのに……無念な限りです」
「あの傀儡の劇は、本当に見事な出来栄えですものね。……ねえ、アスタ。あの傀儡使いたちは、もうしばらくジェノスには戻ってこないのかしら?」
リフレイアがそのように声をかけてきたので、棚の革細工を物色していた俺は「いえ」と答えてみせた。
「復活祭ではまたジェノスに腰を据えたいので、しばらくはジェノスを拠点にして活動するつもりだと言っていましたよ。今頃はジャガルの地を巡っているさなかかと思いますが、藍の月にはいっぺん戻ってくるはずです」
「あら、そうなのね。それじゃあ彼女たちが戻ってきたら、バナームにも足をのばすように伝えておきましょう。……それともいっそ、アラウト殿がジェノスにいらっしゃるというのはどうかしら?」
アラウトは瞳を輝かせつつ、子供のようにもじもじとした。
「そ、そうさせていただきたいのは山々なのですが……でも僕は、兄上の補佐が仕事ですし……」
「ウェルハイド殿だって、以前はしょっちゅうジェノスを訪れていたでしょう? それに、ゲルドや南の王都の食材について知りたいなら、やっぱりジェノスでアスタの料理を口にするべきではないかしら。今日の軽食や明日の宴料理だけでは、なかなか判断もつかないでしょうしね」
そう言って、リフレイアはまた魅力的な笑顔を覗かせた。
「ウェルハイド殿が婚儀を挙げたら、それこそしばらくはバナームから動く気持ちにもなれないでしょうしね。アラウト殿がその分まで動いたら、きっとウェルハイド殿のお役に立てるのじゃないかしら。……なんて、わたし風情の言葉には、なんの説得力もないでしょうけれどね」
「そ、そんなことはありません! ……でも、僕なんかがジェノスに押しかけたらご迷惑なのではないでしょうか?」
「ジェノス侯も最近は思わぬ客人をお迎えすることが多くて大変そうだけど、アラウト殿を迷惑がることなんてありえないと思いますわ。……アスタとしては、如何かしら?」
「はい。バナームの方々がゲルドや南の王都の食材にご興味を持たれているなら、俺も力になりたいと思います」
俺がそのように答えると、アラウトは子供っぽい表情や仕草を引っ込めて、若き貴公子らしい面持ちを取り戻した。
「では……兄上とも相談して、前向きに検討したく思います。もしも実現の運びとなったあかつきには、どうぞよろしくお願いいたします」
「ええ、こちらこそ。……かなうことなら、わたしもアラウト殿と一緒にアスタの料理を口にしたいものね」
リフレイアがそんな言葉をつけ加えると、アラウトはたちまち顔を赤くしてしまった。
そして、シフォン=チェルとサンジュラは、そんなリフレイアたちの姿を静かに見守っている。きっと彼らも、俺と同じような想念に至ったのではないかと思われた。
(なんでもかんでも色恋の話に結びつけるのはどうかと思うけど……でも、リフレイアとアラウトって、なんかお似合いに見えちゃうんだよな)
しかしリフレイアは、いまだ13歳の若年であるのだ。貴族の結婚適齢期などはまったくわきまえていないものの、まだまだ結婚を急ぐ年でないことは確かだろう。そして、リフレイアの伴侶となる人間はトゥラン伯爵家の次期当主となるわけであるから、身分や立場というものがよくよく吟味されるはずだった。
(でも、バナーム侯爵家の人間がトゥラン伯爵家との悪縁を乗り越えて、婚儀を挙げられるようになったら……それも、素晴らしい結末なんじゃないかな)
そんな思いをひそかに抱きつつ、俺は隣の棚に移動した。
そちらでは、レイナ=ルウとリミ=ルウがルド=ルウに付き添われながら、熱心に棚を物色している。とりわけレイナ=ルウは、青い瞳をきらきらと輝かせながら、ひとつの鞄を見つめていた。
「レイナ=ルウは、その鞄が気に入ったのかな? これは調理器具を収めるのにちょうどよさそうだね」
「は、はい。わたしもそのように思っていたのですけれど……でもわたしは、アスタのように調理器具を運ぶ機会も多くはありませんし……」
「でもレイナ姉は、城下町でも仕事を引き受けてるよね! そういうときに、便利じゃない?」
「う、うん。だけど、貴族の屋敷にはわたしが使うものよりも立派な器具がそろってるし……」
「でもでも、調理刀なんかはふだん使ってるやつが一番だーって言ってたよね!」
「う、うん。刀はやっぱり、ふだん使ってるやつのほうが指に馴染むから……」
すると、後ろで話を聞いていたルド=ルウが、また首を突っ込んだ。
「そんなに欲しいなら、買えばいいだろ。俺が買った刀よりは、安いんじゃねーの? レイナ姉なんかは屋台の取り仕切り役としてどっさり銅貨をもらってるんだから、銅貨を惜しんでるわけじゃねーんだろ?」
「う、うん……でも、毎日使うものでもないのに、そんなに銅貨をつかってもいいのかなって……」
「だったら、ジザ兄に聞いてみりゃいいんじゃねーの? おーい、ジザ兄!」
レイナ=ルウの護衛役たるジザ=ルウは、遠からぬ場所でザザの姉弟と語らっていた。その糸のように細い目が、ルド=ルウではなくレイナ=ルウのほうを見る。
「そちらの会話も、聞こえていたぞ。……分家のマイムや城下町のかまど番たちも、そういったものでかまど仕事の道具を持ち歩いていたはずだな。それがかまど番にとって重要な品であるなら、何も迷う必要はあるまい」
「ほ、本当に? ありがとう、ジザ兄!」
喜びのあまりか、レイナ=ルウは丁寧な言葉を使うことも忘れている。そしてジザ=ルウもまた、柔和な面持ちでレイナ=ルウの頭をぽんと優しく叩いたのだった。
(レイナ=ルウはさっきの騒ぎで気落ちしてたから、きっとジザ=ルウも心配してたんだろうな)
俺はとても温かい気持ちで、そんなルウ家の人々のやりとりを見守ることになった。
そうしてレイナ=ルウが立派な革細工の鞄を購入し、俺たちは商店を後にする。すると、街路の向こうからトゥール=ディンやオディフィアたちがやってきた。
「ああ、スフィラ=ザザ。無事にレイナ=ルウたちとお会いできたのですね。なかなか戻ってこなかったので心配していました」
「申し訳ありません。トゥール=ディンたちは、どこの店を巡っていたのですか?」
「目当ての店は見終わったので、飾り物の店まで出向いていました。その……オディフィアが、そのように望んでいましたので」
と、トゥール=ディンはこらえかねたように幸福そうな微笑をこぼす。その首には、銀の鎖の首飾りがさげられていた。
いっぽう白い頬を火照らせたオディフィアの首にも、まったく同じ首飾りがさげられている。とても瀟洒なデザインで、トップには青色と灰色が入り混じった綺麗な石が飾られていた。
「なるほど。おたがいに同じ首飾りを贈り合ったというわけですか」
「は、はい。わたしはいつも飾り物を贈られるばかりであったので、これを旅の記念にしようかと思って……」
「とても素敵な色合いの石ですね。まるで、おふたりの瞳の色が混ざり合っているかのようです」
スフィラ=ザザがそのように告げると、トゥール=ディンはいくぶんもじもじとしながら俺とアイ=ファのほうをうかがってきた。トゥール=ディンの気持ちを察した俺は、無言のままに笑顔を返してみせる。
(そうか。トゥール=ディンは、俺たちの首飾りを参考にしたんだな)
アイ=ファの首には青い石の首飾りが、俺の首には黒い石の首飾りがさげられている。それもまた、瞳の色にあわせた贈り物であったのだ。それを参考にして、ふたりの瞳の色が混ざり合ったような石の首飾りをチョイスするというのは、なかなかのセンスであるように思えた。
しかしトゥール=ディンが何も語ろうとしないのは、周囲にたくさんの人間がいるためであろう。俺やアイ=ファがルド=ルウあたりに冷やかされることを懸念して、口をつぐんでくれているのだ。そんなトゥール=ディンの心づかいに、俺は感謝するばかりであった。
「では、わたしたちはトゥール=ディンらと合流いたします。……とはいえ、見物の時間もそろそろ終了のようですね」
「はい。間もなく下りの四の刻になってしまうようです。こちらの不始末のせいで見物の時間が削られてしまい、まことに申し訳ありません」
アラウトが無念そうに頭を下げると、ダリ=サウティが鷹揚に「いや」と応じた。
「こちらが希望していたのは、この革細工屋という店までだからな。すべての希望はかなえられたので、何も謝罪には及ばない。では、広場に戻ることにするか」
そうして俺たちは、街路を引き返すことになった。
その道中で「うーん」と声をあげたのは、ルド=ルウである。
「城下町をぶらつくのはもう十分だけど、なんか物足りねーよなー。昨日の夜から、石造りの建物に囲まれっぱなしだしよー」
「申し訳ありません。城下町の外に出るとなると、それなりに警護の兵が必要になってしまいますので……それでは宿場町や牧場の見学も気詰まりではないかと考えた次第です」
アラウトがすかさずそのように答えると、ルド=ルウは「んー」と首を傾げた。
「別に、宿場町や牧場ってのを見物したいわけじゃねーんだよなー。カロンだったら、ダバッグに出向いたときに見てるからさ。ただ、なんていうか……俺たちは昨日の夜、街道から城まで車で運ばれたろ? だから、自分がどこに立ってるのかピンとこなくて、ちっとばっかり落ち着かねーんだよなー」
「そうか。車に乗って城に入った者たちは、そのような思いにとらわれるのやもしれんな」
そのように答えたのは、アイ=ファだ。アイ=ファやゼイ=ディンたちなどは昨日も午後から護衛役の任務を受け持っていたため、トトスにまたがった状態でバナームの地に踏み入ったのである。
「我々はジェノスの城下町においても、長らくそのような心地を抱えていた。実際に自分たちの足で城下町の門をくぐったのは、1年以上も経ってからのことであったからな。それと似たような心地を抱えているわけか」
「たぶん、そーゆーことなんだろうなー。ダバッグでは、こんな気分にもならなかったからさ」
「なるほど……」と、アラウトは難しげな顔で考え込んでしまった。
「ですが、今から城壁の外に向かうとなると、さまざまな手配が必要になってしまいますし……よろしければ、物見の塔にご案内いたしましょうか?」
「ものみのとー?」
「はい。バナーム城の左右に立っているのが、物見の塔になります。あちらで最上階までお越しいただければ、バナーム全土を見渡せるはずです」
「えーっ! バナームの宿場町とかぼくじょーまで見られるの? リミ、見てみたーい!」
リミ=ルウははしゃいだ声をあげ、ルド=ルウも瞳を輝かせた。
「それで俺のおかしな気分が引っ込むかどうかはわからねーけど、そいつはちょいと見てみてーもんだなー。ジザ兄、許しをもらえるかー?」
「それは、族長たるダリ=サウティに了承を得るべきであろう」
「俺は、かまわんと思うぞ。というか、俺も好奇心をかきたてられてしまうな」
「では、物見の塔にご案内いたします。その前に、貴族の方々はバナーム城にお送りいたしますので――」
「あら、わたしたちには拝見させてくれないの? 物見の塔なんてジェノスでも足を踏み入れたことがないから、むやみに胸が躍ってしまいますわ」
リフレイアがそのように言い出すと、オディフィアやメリムも同意した。
「では、見学を希望される方々全員を物見の塔にご案内いたします。広場で合流したのち、他の方々のご希望も確認することにいたしましょう」
そうして俺たちは意気揚々と、街路を進むことになった。
そのさなか、どこか心配げな面持ちをしたアイ=ファが俺の耳もとに口を寄せてくる。
「アスタよ、お前は本当に大丈夫であるのか? このような話で、無理をする必要はないからな」
「ああ、やっぱりアイ=ファは覚えててくれたか」
俺はあんまり高い場所が得意ではなく、かつては森辺と宿場町の間に存在する峡谷の吊り橋で情けない姿をさらすことになったのだ。
「心配してくれて、ありがとう。でも俺は、そこまで高所恐怖症ってわけじゃないからさ。以前に情けない姿をさらしちゃったのは、吊り橋の頼りなさが不安だっただけなんだよ」
「そうか。しかし、たとえ石造りであろうとも、物見の塔というものが森辺の吊り橋よりも頼もしい存在であるとは限らんぞ」
「そのときは、またアイ=ファに抱きつくから大丈夫さ」
俺はおどけて答えたつもりであったのに、アイ=ファは真剣そのものの表情で「うむ」とうなずいた。
「あのような高みから落ちれば、魂を返す他ないからな。もしも恐怖を感じた折には、羞恥の念など忘れて私の身につかまるがいい」
そんな大真面目に答えられると、おどけた俺のほうが気恥ずかしくなってしまうものである。それに加えてアイ=ファに混じり気のない情愛をぶつけられた俺は、ひとりで顔を赤くすることになってしまった。
そうして広場に到着して、他のメンバーとも合流すると、そちらも全員が物見の塔に向かうことを希望したのだった。
「物見の塔というのは、敵の接近を見張るための場所であるそうですね。あのような高みからは世界がどのように見えるのかと、以前から興味を覚えていたのです」
そのように語っていたのは、ガズラン=ルティムである。そしてラヴィッツの長兄も無言のまま、にやにやと笑うことでほのかに期待感をあらわにしていた。
四半刻ほどをかけてバナーム城の前庭にまで戻った俺たちは、アラウトの先導のもとに物見の塔へと歩を進める。もちろんそちらも頑丈そうな扉と槍をかまえた衛兵に守られており、アラウトに来意を告げられた彼らは心から仰天した様子であった。
「も、物見の塔を見物されるのですか? もちろんアラウト様のご命令とあらば、否やはございませんが……侯爵様のご了承は如何いたしましょうか?」
「ご当主には、後で僕から報告しておくよ。今から了承を取りつけていたら、日が沈んでしまいそうだからね」
ウェルハイドの弟であるアラウトは、おそらく爵位継承権第8位という身分であるのだろう。それがどれだけの権威であるのかは知れないが、とりあえず衛兵たちは不安げな顔をしながらも扉を開いてくれた。
近くで見ると、こちらの尖塔も十分に巨大である。城郭のほうがいっそう巨大であるため細長く見えるのだが、最下層などは直径が20メートルほどもありそうな規模であったのだ。
そして扉を開いた瞬間、得も言われぬ異臭が漂ってきた。
リフレイアが「まあ」と驚きの声をあげると、アラウトが申し訳なさそうに振り返った。
「事前にご説明しておくべきでしたね。物見の塔の最下層は、トトスの飼育場となっているのです。もしもバナーム城にお戻りでしたら、案内の人間を――」
「ああ、これはトトスのにおいであったのね。それなら、かまいませんことよ」
そうして扉の内に踏み込んだ俺たちは、また驚きの声をあげることになった。事前に想像していても、やはりトトスの飼育場というのはなかなかの壮観であったのだ。そこには一面に藁のようなものが敷かれて、巨大なトトスたちが思い思いに身を休ませていたのだった。
階段は外壁に沿う形で設えられており、それ以外のスペースはトトスに埋め尽くされている。いちおう階段との境には木の柵が立てられていたが、トトスがその気になれば簡単に跳び越えられるはずであった。
「こちらには、これから調教が始められる若いトトスが集められています。特に危険はありませんが、手をのばしたりはしないようにご注意ください」
そのように説明しながら、アラウトは階段をのぼり始めた。
階段は2メートルほどの幅があり、壁を一周する前に2階に到着する。壁に身を寄せて歩けば転落の危険もなかったが、幼きオディフィアがのぼるにはいささか難儀な高さであった。
「よければ、俺がオディフィアを抱えよう。……それとも、貴族の身に触れるのはつつしむべきであろうか?」
ゼイ=ディンがそのように言い出すと、オディフィアの護衛役である近衛兵の若者は「いえ」と笑顔で応じた。
「できれば小官がそのお役目を果たしたいところなのですが、それで最上階までのぼるとなると力が尽きてしまうやもしれません。まことに申し訳ないのですが、ゼイ=ディン殿にお願いできますでしょうか?」
「承知した。オディフィアも、それでかまわないだろうか?」
オディフィアはむしろ灰色の瞳を輝かせながら、「うん」とうなずいた。
そうしてオディフィアの小さな身体は、ゼイ=ディンの腕に抱えられる。狩人の腕力であれば、何ほどの重さでもないのだろう。
その次に若年かつ小柄であるのはリミ=ルウであるが、こちらは元気いっぱいに階段をのぼり始める。それよりも、やはりリフレイアやメリムたちがそれぞれの従者に心配されていた。
「もしもおつらくなったら、無理をせずに仰ってください。このような場でメリム様に万が一のことがありましたら、私の首を差し出しても取り返しがつきませんので……」
「承知しましたわ。確かにこれは、なかなかの運動になりそうですね」
メリムはにこにこと笑いながら、階段をのぼり始めた。
当然のことながら、石造りの階段はきわめて頑丈に造られており、数十名の人間が踏みしめても微動だにしない。これもまた500年以上の歴史を持つ建造物であるのなら、大した建築技術であると言わざるを得なかった。
そうして2階に到着してみると、そちらは内側が壁で隠されている。そして5メートルほど平地を進むと壁に扉が現れたが、そちらには如何にも頑丈そうな錠前がつけられていた。
「この中には、剣だの甲冑だのが仕舞われてるんだってよー」
と、俺の前を歩いていたルド=ルウがそのように伝えてくる。きっと先頭を進むアラウトがそのように説明したのだろう。俺たちは1列になって進んでいるため、もう手近な相手としか言葉を交わせない状態にあったのだ。
それ以降は、ずっと同じ調子である。外壁に沿って造られた階段をしばらくのぼると、5メートルていどの平地が現れる。おそらく足を踏み外したときの用心として、この踊り場が準備されているのだろう。なおかつ、内側も壁でふさがれているために、俺たちはひたすら2メートルぐらいの幅を持つ階段をのぼるばかりであった。
外壁には小さな窓が切られていたものの、やはりなかなかの薄暗さだ。そんな中、石壁にはさまれた単調な階段をのぼり続けていると、なんだか目が回ってしまいそうだった。
ただし、階が上がるごとに、壁の曲面は丸みが強くなってくる。上に向かうほど、塔が細くなるゆえであろう。そうして7階あたりに達した頃には、俺も背中にうっすらと汗をかくことになった。
しかし、階段はまだまだ終わらない。
ようやく見通しのいい場所に出られたのは、12階を数えた頃であった。
そして――その瞬間、俺は得も言われぬ感慨にとらわれることになったのだった。
「おい、立ち止まるな。後ろがつかえているのだぞ」
アイ=ファはそのように言っていたが、俺に続いてその場に出ると、やはり息を呑んだようだった。
ここが物見の塔の最上階であるのだ。
その上には屋根が設えられているために、太い石柱が何本も立てられていたが――その隙間からは、絶景と呼ぶも愚かしい世界の様相が広げられていたのだった。
「これは……見事なものですね」
そのようにつぶやいたのは、ガズラン=ルティムであった。
階数は12階ていどであるが、1階ずつの天井が高いようであったし、そもそもバナーム城は高台に築かれている。おそらく地上からは、50メートルほどの高みなのではないかと思われた。
俺はあんまり展望台などに興味を抱いていなかったので、このような高みにのぼったのは初めてであるかもしれない。また、森辺においては切り立った崖の下を覗いて総身を震わせたものであるが、やはりこのような高みから世界を見下ろすのはまったく感覚が異なるものであった。
確かにこの場からは、バナームの領土が一望できるようだ。
ほんの足もとに見えるのは、つい先刻まで俺たちが散策していた城下町であろう。あちらの家屋もたいそう大きく感じていたのに、ここから見ればミニチュアの町並みであるかのようだった。
いずれも灰色の色合いをした建物の間を、小さな黒い人影が動いている。そのひとつひとつを認識することなどはとうていかなわず、俺の目には黒い砂が波打っているように感じられるばかりであった。
その灰色の町並みが、遠くにいくにつれて少しずつ別の色合いを帯びていく。近年になって建てかえられたという、赤い煉瓦造りの建物であろう。そうして城壁に至るあたりは赤煉瓦の建物のほうが多いぐらいであったため、灰色から赤色へのグラデーションが形成されていた。
そして城壁の向こう側には、広々とした平野が広がっている。
おそらくは、カロンの牧場だ。俺の視力では判然としなかったが、黒みがかったラインのように見えるのが、牧場を区切る柵なのだろうと思われた。
そしてその向こう側には、大自然が広がっている。
暗緑色の原生林に、黄色い砂に覆われた荒野に、名も知れぬ山の峰――それは俺が想像していたよりも、遥かに雄大な風景であった。
時刻はそろそろ日没の一刻前ぐらいであるので、東の天空は紫色になりかけている。そうしていっそうのやわらかみを帯びた陽光に照らされる世界は、息を呑むほどに美しかった。
「世界は……これほどに広いのだな」
やがてアイ=ファが、ぽつりとそのようにつぶやいた。
半ば無意識の内にそちらを振り返ると、アイ=ファは眩しそうに目を細めて世界の様相に見入っている。その金褐色の髪が激しくなびいて、まるで炎のようだった。俺はまったく知覚していなかったが、この場には強い風が吹いていたのだ。
この場は胸の高さまである石造りの柵で囲まれているため、転落の危険はない。しかし、高所恐怖症のケがある俺であれば、足がすくみそうなところである。
しかし俺は、恐怖よりも大きな感慨にとらわれていた。
それほどに、この高みから見る世界は圧倒的であったのだ。
(これが、大陸アムスホルン……俺たちは、こんなに大きな世界の中で生きていたんだ)
50メートルていどの高さでは、トトスで1日もかかる隣の領地までは目にできない。原生林の隙間に走る街道などは、糸のように細く見えた。
きっとジェノスもこのように、雄大なる大自然の中にぽつんと存在しているのだろう。
森辺の集落などは、さらにささやかな規模であるのだ。端から端まで歩くには半日もかかる森辺の集落だって、この高さから見下ろせば一望できるぐらいのものであるのだろう。
俺は、自分のちっぽけさを思い知らされたような心地であった。
そして――それと同時に、世界の雄大さに心をくるまれたような心地であった。
俺たちがどれだけ大騒ぎをしても、この世界は簡単に受け止めてくれるに違いない。
たとえ大神アムスホルンは深い眠りに落ちていたとしても、これだけの力強さで人間たちのささやかな営みを支えてくれていたのだった。




