到着②~対面~
2022.7/10 更新分 1/1
・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。
それからしばらくして、俺たちはようやくバナーム城の食堂に案内されることになった。
ジザ=ルウの隣を歩くレイナ=ルウは、いくぶん悩ましげな面持ちで目を伏せている。さきほど控えの間にやってきた女性は、本当にウェルハイドの婚儀の相手であったのか。それが気になってならないのだろう。俺自身、何の懸念もないとは言い難い心境であった。
(でも、当時のウェルハイドがどういう気持ちであったかは、俺もしっかり聞かせてもらってるからな。あれが本音なら、なんの心配もいらないはずだ)
かつてレイナ=ルウはサトゥラス伯爵家のリーハイムに執着されて、小さからぬ騒動のきっかけを作ることになってしまった。その騒ぎを聞きつけたウェルハイドはリーハイムに対して「貴族にあるまじき節度のない行い」と厳しい態度を示しており――なおかつ、ちょっぴり物寂しげな面持ちであったのだ。
確かにウェルハイドは、レイナ=ルウに心をひかれかけていたのだろうと思う。しかし、リーハイムのように節度を欠いた行いに及ぶことなく、自らの想いを捨て去ったようであるのだ。それはおそらく、レイリスとスフィラ=ザザのように悲しい結末を迎えることを回避するための行いであったのだろうと、俺はそのように判じていたのだった。
(それでスフィラ=ザザの言う通り、レイナ=ルウのことを完全に吹っ切れたからこそ、別の相手と婚儀を挙げようって気持ちになれたんだろうし……そうじゃなきゃ、わざわざレイナ=ルウを指名しようなんて考えないはずだよな)
俺がそのように考えていると、かたわらを歩いていたアイ=ファが「案ずるな」と囁きかけてきた。
「ウェルハイドがどのような人間であるかは、私もおおよそわきまえているつもりだ。あやつが以前の通りの人間であれば、何もおかしな方向に話が転ぶこともあるまい」
「うん、そうだよな」と俺が答えたとき、案内役の従者が足を止めた。
大きな両開きの扉の左右に、槍を携えた2名の衛兵が立ち並んでいる。初めて森辺の狩人を目にする彼らはぴくりと肩を震わせていたが、その顔だけは無表情を保っていた。
小姓の少年が来意を告げて、自らの手で扉を引き開ける。
そちらの食堂も、オレンジ色の薄明りにぼうっと照らし出されていた。
「ああ、みなさん。ようこそバナーム城にいらしてくださいました。ご挨拶が遅くなってしまい、まことに申し訳ありません」
懐かしい声が、石造りの部屋に響きわたる。それはずいぶんひさかたぶりに再会する、ウェルハイド当人に他ならなかった。
と、いうよりも――そこは広々とした食堂であるのに、ウェルハイドの他には従者や侍女たちの姿しか見られない。ただ、クロスを掛けられた大きなテーブルには、さまざまな食器がずらりと並べられていた。
「おひさしぶりです、アスタ殿。それに、レイナ=ルウ殿も。……ああ、そちらにいらっしゃるのは、カミュア殿にザッシュマ殿ですね。みなさんをバナーム城にお招きすることがかない、光栄の至りです」
そのように語るウェルハイドは、俺が知る通りのウェルハイドであった。
年齢は、俺よりも少し上なぐらいであろう。ジェノスではあまり見られない黒髪で、黄白色の肌をしており、茶色の瞳が明るく輝いている。初対面の際にはまだ幼さが残っているようにも感じられたものだが、今では立派な貴公子だ。どことなくレイリスと似た雰囲気を持っており、きわめて実直そうな面立ちをしていながら、その表情や声音には若々しい熱情があふれかえっていた。
「どうもどうも。俺などは、1年以上ぶりになるでしょうか。ウェルハイド殿もご壮健なようで、何よりです」
俺たちと同じような格好をしたカミュア=ヨシュが如才なく応じると、ウェルハイドは「ええ」と口もとをほころばせた。
「僕も最近はバナームに留まって指示を出す立場になってしまったため、この1年ほどはジェノスの地を踏む機会もほとんどなかったのです。ですが、みなさんのご活躍はバナームにまで高く鳴り響いておりますよ」
「おやおや。俺たちはそれほどに世間を騒がせてしまっていたでしょうか?」
「ええ。古きの時代には苦役の地から逃亡した大罪人シルエルと《颶風党》なる盗賊団を退け、さらには邪神教団と刀を交えることになったというのでしょう? そのようなお話をうかがうだけで、僕まで血がたぎるような思いでした」
そんな風に応じながら、ウェルハイドは並み居る狩人たちに視線を巡らせていった。
「そして今年の青の月には、ジェノスと森辺の精鋭が邪神教団の本拠にまで出兵したのだと聞き及んでいます。みなさんも、そちらの一団に加わっていたのでしょうか?」
「それに加わっていたのは、こちらのルティムの家長とラヴィッツの長兄のみとなるな」
ダリ=サウティが穏やかな表情で答えると、ウェルハイドは「ああ」と懐かしそうに目を細めた。
「族長ダリ=サウティ、ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ありません。他なる族長の方々もご壮健でありましょうか?」
「うむ。ドンダ=ルウもグラフ=ザザも、変わらぬ力で仕事を果たしている。こちらの両名が、ルウとザザの次期家長となる男衆だ」
「ジザ=ルウ殿に、ゲオル=ザザ殿ですね。名簿にて、お名前を確認させていただきました。昔日には我が父の無念を晴らす戦いにて手を携えてくださり、森辺の方々には心から感謝しています」
ウェルハイドに真っ直ぐな視線を向けられたジザ=ルウは、いつでも微笑んでいるような面持ちで「うむ」と重々しくうなずいた。
「こちらこそ、父の仇たる森辺の民と手を携えてくれたこと、心より感謝している。族長にして父たるドンダに代わって、感謝と祝福の言葉を伝えさせてもらいたい」
「とんでもない。僕などはカミュア殿に事情を打ち明けられるまで、何ひとつ真実をわきまえていなかったのですからね。みなさんの尽力があったからこそ、トゥラン伯爵家およびスン家の大罪人を糾弾することがかなったのです」
ジザ=ルウたちの眼力であれば、もうこのていどのやりとりだけでウェルハイドの人柄を見抜けたことだろう。俺の目から見ても、ウェルハイドは相変わらず実直そのものの好青年であった。
格式の高い貴族の出でありながら驕ることなく、森辺の民や《守護人》にも礼節ある態度で接してくれる。ジェノスではすっかり見慣れた光景であるものの、ここ1年以上はすっかり疎遠になっていた現在でも、ウェルハイドは変わらぬ誠意と親愛を抱いてくれていたのだった。
「どれだけ言葉を交わしても、話は尽きないところなのですが……みなさんもお疲れでしょうし、他の方々をあまり待たせるわけにもいきません。そろそろ歓迎の晩餐を始めたく思うのですが、よろしいでしょうか?」
「うむ。他なる者たちは、別の場所で待ちかまえているのであろうか?」
「はい。バナームにおいては、立場と身分に応じて入室と着席の順番が取り決められているのです。お手数をかけて恐縮なのですが、こちらではバナームの作法に従っていただけますでしょうか?」
ダリ=サウティが「是非もない」と応じると、ウェルハイドが自ら出迎えの作法を教示してくれた。俺たちはこの場に整列し、貴き方々の入室をすべて見届けてから、最後に着席するのだそうだ。
「入室の際も膝などをつく必要はありませんが、全員が着席するまでは目を伏せて、相手のお顔を見ないようにお願いいたします。……堅苦しい作法ばかりで、本当に申し訳ありません」
「あなたがそうまでへりくだる必要はあるまい。バナームの地にあってバナームの作法に従うのは、当然のことであろう」
「ですが、みなさんをバナームにまでお招きしたのは、僕ですからね。このように面倒な依頼を快諾していただき、心より感謝しています」
そんな風に言ってから、ウェルハイドは俺やレイナ=ルウのほうに視線を戻してきた。
「特に、アスタ殿やレイナ=ルウ殿などは名指しで呼びつけてしまいましたし……あ、トゥール=ディン殿というのは、あなたでしょうか?」
「は、はい。ディンの家人で、トゥール=ディンと申します」
トゥール=ディンが緊張した面持ちで進み出ると、ウェルハイドはいっそう好青年めいた面持ちで微笑んだ。
「きっとトゥール=ディン殿とはさほど面識もなかったように思うのですが、あなたが試食会にて第1位の座を獲得したという逸話はバナームにまで届いていました。バナームには甘い菓子を好む人間が多いので、どうしてもあなたのお力をお借りしたかったのです」
「きょ、恐縮です」と、トゥール=ディンは頭を垂れる。
ウェルハイドはそちらにうなずきかけてから、また俺とレイナ=ルウのほうを見やってきた。
「それに、同じ栄誉を授かったアスタ殿は言うに及ばず、レイナ=ルウ殿も最近では独自に調理の仕事を受け持っておられるそうですね。少し前の晩餐会においてはバナームの人間も同席することがかなったそうですが、ご記憶にあるでしょうか?」
「は、はい。サトゥラス伯爵家の晩餐会において、バナームの使節団の御方が招待されると聞いて、わたしはてっきりウェルハイドがいらっしゃるのかと思っていました」
レイナ=ルウがまだいくぶん心配げな面持ちでそのように答えると、ウェルハイドは屈託なく微笑んだ。
「その頃には、僕ももう年に数回しかジェノスにおもむいていなかったのです。ジェノスとの通商が安定したがゆえに、責任者たる僕が足を運ぶ理由が失われてしまったわけですね。僕個人としては残念な限りでしたが、通商が安定したことを嘆くわけにもまいりません。……アスタ殿の助手であられたレイナ=ルウ殿がそうまで躍進されたことを、このバナームにてひそかに寿いでいました」
「あ、ありがとうございます」と頭を下げるレイナ=ルウのかたわらから、ジザ=ルウはじっとウェルハイドの様子をうかがっている。しかし、レイナ=ルウ当人と言葉を交わしていても、ウェルハイドの実直で節度のある態度にいっさいの乱れは見られなかった。
(やっぱりウェルハイドは、レイナ=ルウに未練を引きずったりはしていないんだ。さっきの娘さんが本当に婚儀の相手だったんなら、早く安心させてあげたいな)
俺がそのように思案していると、ウェルハイドは穏やかな面持ちのまま身を引いた。
「では、僕もいったん下がらせていただきます。小姓の合図がありましたら、私語をつつしんで他の方々の入室をお見守りください。それまでは、自由に語らってくださってけっこうです」
そうしてウェルハイドは、食堂の横合いに設置された扉の向こうへと消えていった。
その扉が閉められてから、ゲオル=ザザが「やれやれ」と肩をすくめる。
「これは確かに、ジェノスよりもよほど格式ばっているようだ。祝宴ならばいざ知らず、ただの晩餐でこうまで面倒な作法が存在するとはな」
「しかしジェノスでも会合を行う際などは、貴族の入室を立って出迎える作法が存在する。案外、祝宴よりもこういった場のほうが、物々しい作法が生じるものであるのやもしれんな」
ダリ=サウティはそんな風に言っていたし、何度か会合の場に招かれた経験のある俺にも覚えのある話であった。そのときよりも、いっそう物々しく感じられるのは――やはり、この城の重厚な雰囲気と薄暗さのせいであるのだろうか。あまりこういう場に慣れていないマルフィラ=ナハムやフェイ=ベイム、それにルティムやマァムの女衆などは、ずいぶん気を張っている様子であった。
そして、そんな時間が数分ばかりも継続される。たとえこちらの準備が整っても、貴き方々が急かされる筋合いはない、ということなのだろうか。そういうところも何となく、あくまで貴族を中心に据えた作法なのだと思い知らされたような心地であった。
が、ルド=ルウやリミ=ルウなどは変わらぬ元気さで言葉を交わしていたし、ラヴィッツの長兄などはこの状況を面白がっているかのようににやにやと笑っている。同じ森辺の民であっても、こういう場では個人の気質や経験によって反応が違ってくるものであるのだ。ダリ=サウティにジザ=ルウにガズラン=ルティムといったメンバーは、小声でおたがいの心情を打ち明け合っている様子であった。
俺としてはレイナ=ルウの心情が心配なところであったのだが、小姓や侍女の耳があるためにうかつなことは口走れない。それでアイ=ファを見習って、大人しくその場に立ち尽くしていると――ふいに食堂の奥のほうから、軽やかな鈴の音が鳴らされた。
「貴き方々のご入室です。そのままそちらでお出迎えください」
こちらのメンバーは、全員が折り目正しく口をつぐんだ。
そんな中、横合いの扉のそばに控えた小姓がボーイソプラノの声を響かせる。最初に告げられたのは、まったく馴染みのない子爵家とふたりの人間の名であった。
それで入室してきたのは、赤い礼服を纏った2名の男性である。その内の片方は入城の際に案内役を務めてくれていた初老の男性であり、もう片方は――いくぶんふくよかな体形をした、壮年の男性だ。それもまた、かつて城下町の晩餐会でお見かけした使節団の関係者であるはずだった。
(あれはたしか、ヴァルカスと初めて一緒に厨を預かった日のことだから……やっぱりもう2年ぐらいは経ってるんだろうな)
ジェノスとバナームが正式に通商を交わすことになり、バナームの使節団を歓迎するための晩餐会が開催された。俺はその場で使節団の面々にギバ料理の素晴らしさを知らしめてほしいと、ウェルハイドから願われることになったのである。このいくぶん肥え気味の男性などはずいぶん懐疑的な態度であったものの、最終的には満足そうに舌鼓を打っていた姿が印象に残されていた。
そちらの両名が俺たちと向かい合う格好で食堂の奥側に立ち並ぶと、小姓の澄んだ声音が再び響き渡る。それで告げられた「ルアマット男爵家」というのが、ウェルハイドと婚儀を挙げる娘さんのご一家であった。
顔を見てはならないという話であったので、俺は相手の腰ぐらいの高さに視線を据えておく。それでも周辺視というやつで、おおよその容姿は把握できた。
男爵家の当主はずんぐりとした体格、その伴侶は細身で長身の女性だ。
そしてウェルハイドの婚儀の相手となる姫君――コーフィアなる名を持つ女性は、母親よりもさらに長身であった。
オリーブ色の清楚な装束を纏っており、肌の白さが際立っている。いかにも貴婦人らしい、しずしずとした足取りだ。
俺の目が節穴でなければ、このコーフィアこそがさきほど控えの間にやってきた謎の女性であろう。顔をはっきり確認しなくとも、肩掛けの隙間から覗いていた装束の色合いとその長身痩躯は、はっきりと見覚えがあった。
(やっぱり、こっちの推測通りだったな。まあ、あっちもヴェールをかぶるだけでそれ以上は顔を隠そうとしてなかったから、そうまで隠し通すつもりはなかったんだろう)
俺がそんな風に考えている間に、今度はバナーム侯爵家の入室が告げられた。
侯爵家の当主と、その伴侶。ウェルハイドと母親と弟で、総勢は5名だ。主役はあくまでウェルハイドであるため、その家族と当主夫妻だけが参じたようだった。
しかしまた、婚儀の前々日たるこの日には、各地から多くの招待客が参じているはずである。それでも侯爵家の当主たる人物がこの場の晩餐に参じてくれたのは、ジェノス侯爵家こそがもっとも身分の高い賓客であるためなのだろうと思われた。
(この近隣に存在する侯爵家はジェノスとバナームだけだし、ウェルハイドていどの身分だったらそれより遠方の貴族を招待することはないはずだ――って、フェルメスがそんな風に言ってたもんな)
そしてその後は、ともにジェノスから駆けつけてきた人々の名が告げられる。
騎士階級のデヴィアス、伯爵家の6名、王都の外交官フェルメス、ジャガルの王族デルシェア姫、そして侯爵家の3名――格式としてはフェルメスやデルシェア姫のほうが上であるはずだが、ここはきっと主賓という立場が重んじられたのであろう。
ともあれ、これにて入場の儀は終了であった。
最後に入室したジェノス侯爵家の人々から順番に、小姓の案内で着席する。10名ぐらいが着席できる長方形の大きな卓が4脚準備されており、まずはそれらの片面が貴き人々によって埋められていった。
(貴族と平民で席を分けられるわけじゃないのか。身分の高さだけで、すべてを取り決めるわけではないんだな)
そしてこちらも、小姓に案内された席を目指す。
俺とアイ=ファに割り振られたのは、新婦たるコーフィアとその両親、使節団の初老の男性、およびダレイム伯爵家の両名が座する卓であり、ともに招かれたのはジザ=ルウとレイナ=ルウであった。
(よりにもよって、レイナ=ルウとコーフィアが同じ卓か)
俺はその場で、ようやくコーフィアの姿をはっきり視認することができた。
ウェーブがかった褐色の髪をぴっちりと結いあげて、つつましげに目を伏せた、俺と同じぐらいの年齢である女性――やはりさきほど控えの間にやってきたのと、同一人物である。その白い顔も肉が薄くて面長であったが、十分に端整で貴婦人らしい容姿だ。
そんなコーフィアも彼女の両親たちも、それほど華美な装いではなかったものの、燭台の薄明りと相まって、誰もが高貴さにあふるる姿であるように思えてならなかった。
「それでは、歓迎の晩餐会を開始いたします。皆様お疲れでありましょうから、どうぞ気兼ねなく料理と酒をお楽しみください」
隣の卓に陣取ったバナーム侯爵家の当主が、慇懃なる口調でそのように宣言した。四角い顔に立派な髭をたくわえた、恰幅のいい御仁だ。年齢は、50を超えているぐらいだろう。その年齢と身分に相応しい風格と落ち着きであるように感じられた。
それに、多くの人々は初めて森辺の狩人を目の当たりにしたはずであるのに、誰もが平静な態度を保持している。モラ=ナハムやラヴィッツの長兄などはなかなかの強面であるし、ジィ=マァムに至っては北の民にも負けない巨漢であるのに、いっかな心を動かした様子もないのだ。ただそれは、豪胆さや大らかさではなく、貴族らしいつつしみを守ろうとする気概の表れであるのかもしれなかった。
(だけどまあ、初対面で同じ卓についてくれるっていうのは、ありがたい話だよな)
俺がそのように考えていると、小姓や侍女たちが料理の配膳を開始した。
主菜は、カロン乳の煮込み料理である。四角く大ぶりに切り分けられた肉も、きっとカロンであろう。その他にはネェノンやナナールらしき野菜もうかがえて、見た目はクリームシチューさながらだ。
副菜は、蒸した野菜にたっぷりととろけた乾酪が掛けられている。それ以外にも乾酪で満たされた壺や、こってりと脂の膜が張った透明のスープに、肉と野菜の炒め物など、質量ともに申し分ない料理が並べられていく。そして付け合わせの焼きフワノは、もちろんバナーム産で暗灰色をしていた。
(ただやっぱり、食材の種類は限られてるみたいだな)
ざっと見たところ、俺に確認できたのはアリアとネェノンとナナール、それにタケノコのごときチャムチャムぐらいである。それよりも、カロンの肉と乳と乾酪の存在感が際立っているのは、カロンの産地ゆえであろう。そういう意味では、かつて訪れたダバッグとも似たところのある様相であるのかもしれなかった。
「森辺の方々も、どうぞお召し上がりください。ジェノスのギバ料理とは趣が異なりましょうが、お気に召しませば幸いでありますぞ」
と、初老の男性が俺たちに微笑みかけてくる。どうやらこちらの卓では、この人物がホスト役であるようであった。
「その間に、わたくしがご紹介させていただきましょう。そちらが森辺の族長筋ルウ家の第一子息ジザ=ルウ殿で、お隣が第二息女たるレイナ=ルウ殿。そしてジェノスで随一の料理人と名高いファの家のアスタ殿に、ファの家長アイ=ファ殿でありますな」
こちらの名前は、名簿で確認済みなのだろう。なおかつその人物は、俺だけではなくレイナ=ルウにもにっこりと微笑みかけてきたのだった。
「ずいぶん前の話となりますが、わたくしはサトゥラス伯爵家の晩餐会にてレイナ=ルウ殿にご挨拶をさせていただきました。あの夜のギバ料理も、素晴らしい出来栄えでありましたな」
「……いえ、恐縮です」
「アスタ殿にお目見えしたのは、さらに古い話となりますが……あれは初めてギバ料理を口にした日であったため、きわめて印象に残されております。あの頃からすでに、アスタ殿の才覚の片鱗がはっきりとうかがえましたな」
「過分なお言葉、ありがとうございます。バナームにまでお招きいただいて、光栄に思っています」
まずは尋常に、挨拶の交換である。男爵家の人々はいずれもひっそりとしていたが、初老の男性とポルアースたちのおかげで、その場には和やかな空気が形成されつつあった。
「僕も記憶を掘り起こしたのですけれども、たしかあの日はアスタ殿とヴァルカス殿に晩餐会の厨を預かっていただいたのですよね」
ポルアースの言葉に、初老の男性は「左様です」とにこやかに応じる。
「アスタ殿の力強いギバ料理に対して、ヴァルカス殿なる御方の料理は複雑怪奇でありましたな。晩餐を食べ終えたのちにはどちらの料理が素晴らしかったかと、味比べの場のように白熱した議論が巻き起こってしまいました」
「ああ、懐かしいですね。ダカルマス殿下による試食会の場においても、そういった議論が巻き起こっておりましたよ」
「それでアスタ殿は第1位を、ヴァルカス殿は第2位の座を獲得されたわけですな。去りし日の晩餐会がどれだけ豪勢なものであったかを思い知らされた心地であります。そして、それほどの腕を身につけられたアスタ殿をバナームにお招きすることがかない、心より喜ばしく思っておりますぞ」
「……それもすべては、ウェルハイド殿のご配慮とご尽力でありますな」
と、男爵家の当主が初めて発言した。そのずんぐりとした体格に相応しい、野太い声である。その顔には、いかにも謹厳そうな表情がたたえられていた。
「遠きジェノスから10名もの料理人をお招きするなど、大変なお手間であったことでしょう。我が娘との婚儀にそれほどのご尽力をいただき、恐悦の限りであります」
「ええ。ウェルハイド殿はかねてより、ギバ料理の素晴らしさをバナームに広めておいででしたからな。祝宴に参席される皆々様も、さぞかしご期待されていることでしょう」
初老の男性は、男爵家の当主に対しても柔和で大らかな対応であった。いっぽう男爵家の方々は、誰もがつつましい気性であるようだ。母君や娘のコーフィアなどは、まだ俺たちのほうを直視しようとしないぐらいであった。
きっとレイナ=ルウなどは先刻の来意を尋ねたくてうずうずしているのであろうが、ご両親の前ではそれも難しい。カロンの料理をいただきながら、コーフィアのほうをちらちらとうかがうばかりである。アイ=ファやジザ=ルウももちろん余計な口を叩こうとはしないまま、ひそかに男爵家の人々の様子をうかがっているようであった。
「わたくしどもはバナームにお招きされるのも初めてであったため、とても心待ちにしておりました。明後日の祝宴も楽しみでなりません」
と、ポルアースの伴侶たるメリムも朗らかな笑顔で発言した。
そのきらきらと光る瞳が、邪念なくコーフィアのほうを見る。
「でもきっと、婚儀を挙げるご当人は気が張ってならないのでしょうね。どうか婚儀の当日まで、心安らかにおすごしくださいね」
「ありがとうございます」と、コーフィアは目を伏せたまま一礼する。
そして――彼女はにわかに面を上げると、とても柔和な微笑みをたたえて森辺の面々を見回してきたのだった。
「わたくしも、ジェノスと森辺の方々にお会いできる日を楽しみにしておりました。……さきほどは名乗りもあげずに中途半端なご挨拶をしてしまい、心より申し訳なく思っております」
「うむ? ご挨拶とは、なんの話であろうか?」
当主たる父親がうろんげに声をあげると、コーフィアは同じ微笑みをたたえたままそちらに向きなおった。
「さきほど席を外した際に、森辺の方々がくつろいでおられた控えの間までご挨拶に出向いたのです。でも、森辺の方々の雄々しさと美しさに、つい心を乱してしまい……名乗りもあげずに失礼してしまったのですわ」
「このような席で一部の方々にだけ事前にご挨拶を申し上げるなど、礼節を欠いた行いでありましょう」
痩身である母君は、父君よりも厳しい目つきで娘を見据える。
コーフィアは静かに微笑んだまま、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「本当に、貴族にあるまじきはしたない真似をしてしまいました。わたくしはかねてよりレイナ=ルウ様のご高名を聞き及んでいたため、つい好奇心を抑えることができなくなってしまったのです」
「……アスタではなく、レイナの?」と、ジザ=ルウが落ち着いた声で反問する。
コーフィアはそちらに向きなおりながら、「ええ」と首肯した。
「もちろんアスタ様のご高名はバナームに鳴り響いておりますけれど、使節団の方々が直近でお会いになられたのはレイナ=ルウ様でしたので……レイナ=ルウ様がどれだけ素晴らしい料理人であり、なおかつどれだけ美しい女性であるか、わたくしは念入りに聞き及ぶことになったのです」
「いや、お恥ずかしい。そのような話を吹聴してしまったのは、わたくしに他なりませんな」
と、初老の男性がいくぶん照れくさそうに発言した。
「あのサトゥラス伯爵家の晩餐会にていただいたギバ料理は、それほどまでに素晴らしい出来栄えであったのです。また、森辺の女性の容姿をむやみに褒めそやしてはならじという習わしも重々承知していたのですが、それは本人を前にしていなければ許されるものと聞き及んでおりましたため……もしもレイナ=ルウ殿をご不快にさせてしまったならば、お詫びを申し上げますぞ」
「い、いえ。何もお詫びには及びませんけれど……」
レイナ=ルウは心配げにコーフィアのほうを見たが、そちらの柔和な微笑みに変化はない。そして、口を開いたのはその隣に座した父君のほうであった。
「ともあれ、娘がぶしつけに控えの間にお邪魔するなどという失礼を働いてしまい、まことに申し訳ございませんでした。ふつつかな娘に代わって、当主たるわたくしから謝罪させていただきます」
「いや。そちらに関しても、何も詫びられるほどのことではないと考えている。ただ、あの際にはコーフィアがどこかただならぬ様子に見えたので、我々に含むところでもあるのかと案じていた次第だ」
ジザ=ルウがそのように答えると、コーフィアはまた眉尻を下げつつ一礼した。
「さきほども申し上げました通り、わたくしはレイナ=ルウ様のお美しさについつい見入ってしまいましたの。その前には、そちらのアイ=ファ様のお美しさにも驚かされてしまいましたし……本当に、森辺の方々というのは誰もが輝くようなお美しさですのね」
とりたてて、コーフィアの言動に不審な点は見られない。アイ=ファやレイナ=ルウの美しさに驚嘆したというのも、きっと本当のことなのだろう。
だからやっぱり肝要なのは、ウェルハイドがかつてレイナ=ルウに心をひかれかけていたということを知っているかどうか――そしてもしも知っていたならば、彼女がその事実をどう受け止めているかであったのだった。
(俺なんかの眼力じゃ、そんな内心を見通すことなんてできそうにないな。アイ=ファたちは、どう思ってるんだろう)
食事の開始からずっと無言であるアイ=ファは、ただ静かに光る目でコーフィアの挙動をうかがっている。そして糸のように細い目をしたジザ=ルウは、それ以上に内心が知れなかった。
「何にせよ、明後日の祝宴が楽しみなところですね。森辺の面々は、素晴らしい料理でおふたりの婚儀をいっそう華やかに彩ってくれることでしょう」
ポルアースが場を取りなすように明るい声音で発言すると、初老の男性が笑顔で「そうですな」と応じた。
男爵家の人々もまたつつましい表情を復活させて、食事を再開させる。コーフィアばかりでなく、その両親もうかうかと内心をさらすようなタイプではないようだった。
「そういえば、森辺の方々は明日をどのようにお過ごしになるのでしょう?」
メリムがそのように問うてきたので、僭越ながら俺が答えさせていただいた。
「明日は朝から宴料理の下ごしらえに取りかかり、時間が余ったら城下町の見学をお願いしています」
「まあ。祝宴の前日からお仕事があるのですね。でも、城下町の見学というのはお羨ましいですわ」
「メリムたちは、どのように過ごされるご予定なのですか?」
「それはもちろん、バナームの方々にご挨拶をして回ることになるかと思いますけれど……でも、こちらはこのように大人数ですし、婚儀の前日にお手をわずらわせるのはご迷惑なので、あまりはっきりとは決まっていないのですよね」
「皆様、長旅でお疲れでありましょうからな。どうぞこちらのことはお気になさらず、ごゆるりとお過ごしくださいませ」
初老の男性が、如才なく応じる。その如才のなさこそが、俺に少しだけ息苦しさを感じさせた。
この人物は十分に大らかであり、それほど格式ばっているようにも感じられないのだが――どうもジェノスの晩餐会でお目見えしたときとは様子が違っているように思えてきたのだ。
あるいはそれは、この人物そのものの変化ではなく、場所のもたらす空気感であるのだろうか。
ぼんやりとした薄明りの中、飾り気の少ない石造りの部屋で静かに語らいながら食事をしていると、どこか神妙な気分になってしまうのだ。もしかしたら、それこそが500年以上の歴史を持つという古都ならではの圧迫感であるのかもしれなかった。
(うーん。まったく嫌な感じではないんだけど……初対面の貴族を相手に、気安い口をきけるような雰囲気じゃないみたいだな)
そんな風に考えながら、俺はもういっぺんコーフィアのほうをうかがってみた。
コーフィアは、ひっそりと目を伏せながら銀色の匙で汁物料理をすすっており――果てしなく貞淑そうな面持ちをしたその姿からは、やっぱりいかなる内心も見て取ることはできなかったのだった。




