到着①~古都の城~
2022.7/9 更新分 1/1
明けて、翌日――黒の月の18日も、順調に旅は進められた。
朝早くにムドナの屋敷を出立し、ひたすら街道を北上である。そして森辺の民にあてがわれた車には、またフェルメスやオディフィアらが同乗を願ってきたのだった。
「ここから半日ほど北上したならば、北西の道に入ります。10年ほど前に、バナームの主導で切り開かれた道ですね」
案内人として、フェルメスはきわめて有能であった。どうやらフェルメスは、大陸の地図がのきなみ頭にインプットされているようなのである。
「バナームからジェノスに向かうには、やはりこの南北の主街道に出るのが近道であったのでしょう。それでバナームは新たな道を切り開いたわけですが……ジェノスとの通商を計画するなり、襲撃事件に見舞われてしまったのです。当時の人々にとっては、無念の極みであったでしょうね」
「バナームとの通商はトゥラン伯爵家の不利益になると見なされて、そのような事態に至ってしまったのですね。サイクレウスは物珍しい食材の獲得に腐心していたのに、バナームのフワノやママリアには魅力を感じなかったのでしょうか?」
「それ以上に、トゥラン伯爵家の富を支えるフワノとママリアの価値が下がることを恐れたのでしょう。……おそらくは、サイクレウスではなくシルエルが。サイクレウスの証言を信じるならば、悪行の計画を立てていたのはすべてシルエルであったようですからね」
フェルメスはそのように語っていたし、俺もその証言を信じていた。サイクレウスの罪は、弟の暴虐を止めることがかなわず、その非道な行いからもたらされる安楽な生活を享受してしまったことであるのだ。それもまた大きな罪であるとしても、実際に采配をふるっていたシルエルとは罪の内容が異なるはずであった。
そうして半日ほどが経過し、護衛役の狩人たちが持ち場を交代させた頃、フェルメスの言う通りに北西への道が現れた。真っ直ぐに続く石敷きの街道から、未舗装の道が分岐する格好だ。砂の地面に移行すると、座席の振動がいくぶんやわらかくなったように感じられた。
「んー、やっと中天を過ぎたところなのに、なんだか夜みたいに涼しく感じられるねー」
リミ=ルウがそのように疑念を呈すると、すかさずフェルメスが的確な答えを返してくれた。
「さすが森辺の方々は、気候の変化にも敏感なようですね。ちょうどこの辺りは、太陽神の境界線と呼ばれる区域であるはずです」
「たいよーしんのきょーかいせん?」
「ええ。これより北側では陽光がやわらぐように感じられるため、そのように名付けられたようです。それほど極端に気温が変わるわけではないのですが、境界線の北と南では住まう人間の肌もいくぶん色合いが異なってくるものとされていますね」
「そーいえば、ウェルハイドとかフェルメスとかは、昔のアスタみたいに色が白いもんね!」
そんな風に言ってから、リミ=ルウは可愛らしく小首を傾げた。
「あれれ? でも、ジェノスの貴族でも女衆なんかは、同じぐらい色が白いような気がするけど……」
「それはおそらく日に焼けるのを嫌って、パナムの樹液を肌に塗っているのでしょう。南の民もそうして肌を守っているため、そういった文化がセルヴァにも広まったのでしょうね。たとえ生粋のジェノスの民であろうとも、幼き頃からパナムの樹液を用いていれば、北方の人間と同程度の白さを保てるかと思われます」
「ふーん! それじゃあユーミとかロイとかも、パナムのじゅえきってやつを塗ってるのかなー? あと、ユーミの父さんのサムスとかも!」
「いえ。セルヴァにおいて貴族ならぬ人間がパナムの樹液を用いることは稀でしょう。そういった方々は、北方の民の血を引いておられるのではないでしょうか? メルフリード殿もパナムの樹液などは用いていないはずですが、母君がアブーフのお生まれであったため、白みがかった肌をしておられるものと思われます」
「あー、そっかそっか! サムスは別の地で生まれた人間だって聞いた気がするー! 宿場町にも、白っぽい肌をした人はいーっぱいいるもんねー!」
「ええ。ジェノスはこの200年ほどで急速に栄えた地でありますため、北方から移り住んだ領民も数多く存在するのでしょう」
そんな感じに、フェルメスと同乗しているだけで俺たちは退屈するいとまもなかった。フェルメスはとにかく博識であったし――そしてやっぱり、普段以上に能弁であったのだ。フェルメスが機嫌よくおしゃべりに興じるその姿は、俺の心を和ませてやまなかった。
そうしてトトス車は、北西の道に踏み込んでからも順調に進軍し――ついに辺りが薄暗くなってきた頃、バナームに到着した旨が告げられてきたのだった。
昨晩と同じように車を降りてみると、周囲にはまたずらりと兵士が居並んでいる。ただし今回は、ジェノスともジャガルともデザインの異なる甲冑を纏った人々の姿が見受けられた。鎧の留め具や帯などに鮮やかな真紅の配色がされた、バナームの兵士たちである。
ここはすでに城壁の内側であるらしく、俺たちの背後には何メートルもの高さを持つ石の壁が立ちはだかっている。その天辺でオレンジ色の光がゆっくりと移動しているのは、おそらく巡回の兵士であろう。ジェノスの城下町でも、何度か目にした光景だ。
そして、数十メートル先の眼前には、黒い巨大な影が立ちはだかっていた。
これが、領主の住まうバナーム城であるに違いない。ずいぶん夕闇が濃くなっているので細かな部分は見て取れなかったが、ジェノス城とはいくぶん趣の異なる、どっしりとしたシルエットであるようであった。
その巨大な影のあちこちにもオレンジ色の光が灯されており、左右には細長い尖塔の影も見て取れる。俺たちは、バナーム城の前庭である石敷きの広場に立ち尽くしているようであった。
「遠路はるばる、ご苦労様でございました。ここから先は、わたくしが皆様をご案内いたします」
と、甲冑ではなく礼服のようなものを纏った人物が、穏やかな笑顔でこちらに進み出てきた。いくぶん痩せ気味で、口髭を上品に整えた、初老の男性だ。ずいぶんひさびさのご対面であったが、この人物もウェルハイドとともにたびたびジェノスを訪れている使節団のメンバーであるはずだった。
その人物の案内で、ジェノスの一行はバナーム城の入り口へと向かう。
城のシルエットはジェノス城と異なっていたが、高台に据えられているという点に変わりはなく、まず幅の広い石の階段をのぼらされる。その最果てに現れた両開きの扉は、怪物のようにぽっかりと口を開けていた。
武官の身ならぬ人間は、ここで刀を預けることになる。森辺の狩人や《守護人》の面々はもちろん、俺はかつてアルヴァッハたちから賜ったゲルドの立派な短剣を、プラティカは毒の武具が隠された外套をそのまま受け渡すことになった。
それから城内に足を踏み入れると、屋外と大差ないぐらいの薄暗さだ。壁のあちこちに燭台が灯されていたものの、広大なる回廊のすべてを照らしだすには至っていなかった。
それに、壁も足もとも灰色の石が剥き出しで、美々しい装飾なども見受けられない。ただ、天井を支える石柱の巨大さが、何やら遺跡めいた貫禄を演出している。華やかさなどは望むべくもなかったが、重厚で、荘厳で、俺は自然と背筋がのびる思いであった。
それに、大勢の人間が松明を掲げていた屋外よりも、むしろこの城内のほうが肌寒く感じられる。雨季の夜ほどではないにせよ、長袖の装束でも暑苦しく感じることはなさそうだ。ひときわ軽装である森辺の女衆などは、さすがにもう1枚羽織るものが欲しくなるぐらいなのではないかと思われた。
「森辺の皆様と《守護人》の皆様、それにゲルドのプラティカ様は、こちらでお待ちください」
と、俺たちはまた控えの間に押し込まれる。例によって、順番に身を清めるらしい。
その控えの間も、回廊と大きく印象が変わることはなかった。やはり基本的には石の壁や床が剥き出しで、申し訳ていどに花が飾られているぐらいである。回廊よりは明るかったものの、ジェノスの城下町ではなく宿場町の宿屋などと同程度の光量であった。
(つまりこれは、油とかの燃料を節約してるってことなのかな)
バナームは、ジェノスほど豊かな地ではない――道中で聞いたフェルメスの言葉が、俺の頭にまざまざと蘇っていた。
他の面々も昨晩ほどははしゃいでおらず、どことなく厳粛な面持ちでたたずんでいる。そんな中、ふっとつぶやいたのはプラティカであった。
「心、引き締まると同時に、どこか、落ち着きます。こちら、古都、作用でしょうか」
「ふむ」と応じたのは、すぐそばにいたアイ=ファである。
「確かに、ジェノスの城や小宮などとはまったく趣が異なっているようだ。我々には、こちらのほうが馴染みやすいのやもしれんな」
「森辺の民、馴染みやすいですか?」
「うむ。我々は、家の内を飾りたてる習わしを持っておらぬし……夜は、暗いものであるからな。夜でも昼のように明るい部屋というものには、いささか馴染みにくさを覚えることもあった」
確かに他の人々も沈静したたたずまいであるが、決して悪い感情を抱いている様子はない。そこにひかえめな笑い声を響かせたのは、カミュア=ヨシュであった。
「俺もそれほど数多くの城に足を踏み入れたわけではないけれどね。王都に次ぐ豊かさを有しているとされているジェノスと、500年の歴史を持つ古都のバナームでは、なかなか両極端なのかもしれないよ。きっとアルグラッドの王城などは、その両方の要素をあわせ持っているのだろうねぇ」
「ふむ。カミュア=ヨシュも、王城というものには足を踏み入れていないのであろうか?」
ジザ=ルウの問いかけに、カミュア=ヨシュは「もちろん」と肩をすくめる。
「王城など、貴族ならぬ身でそうそう足を踏み入れられるわけがないし、ましてや俺は北の血を引く人間でありますからね。君なんかはどうなのかな、ザッシュマ?」
「たとえ生粋の西の民でも、《守護人》風情が王城なんざに招かれるもんかよ。そもそもセルヴァの王陛下がおわすのは、城じゃなくって宮殿じゃなかったか?」
「ああ、そうだったそうだった。王都の誇る、七宮殿! 王族がおわすは、聖なる銀獅子宮だったね」
「そうか。《守護人》とは王都で認可を受けるものと聞いていたが、王と対面するわけではないのだな」
「俺たちが王陛下に拝謁を賜れるとしたら、よほどの武勲をあげたかよほどの大罪を働いたときでしょうねぇ」
そう言って、カミュア=ヨシュはにんまりと笑った。
「まあ何にせよ、古都の城に足を踏み入れる機会なんて、そうそうあるものではないだろうからさ。500年前の人々と同じ場所に立ち、同じ空気を吸っているなんて、なかなか胸が躍るじゃないか。これだけでも、分不相応な招待を受けた甲斐があったというものだ」
すると今度は、ルド=ルウが「んー?」と声をあげた。
「でもカミュア=ヨシュは、バナームまで出向いてウェルハイドって貴族を引っ張ってきたんだろー? そのときに、この城には足を踏み入れなかったのかー?」
「そりゃあそうさ。いくらメルフリードのしたためてくれた紹介状を携えていようとも、そう簡単に城門をくぐれたりはしないのだよ。城下町で丸一日待たされたあげく、ようやく城の外でお目見えすることを許されたのさ」
「なるほど。ウェルハイドは傍流の血筋と聞いていましたが、それでもそれほどの格式であるのですね」
お次は、ガズラン=ルティムの番である。カミュア=ヨシュはくるくると身をひるがえし、いちいち発言者と正対してから「左様です」と答えた。
「まあウェルハイド殿は現当主の妹君のご子息であられるから、直系と称されるのは母たる妹君までかもしれませんけれども。それでも侯爵家の系譜から外れたわけではないし、爵位継承権だって第7位であらせられるわけですからねぇ」
「第7位? 以前は、第6位ではありませんでしたか?」
「おお、ガズラン=ルティムはさすがの記憶力でありますね! この2年ほどで現当主の第一子息に新たな子が産まれて、ウェルハイド殿はひとつ繰り下げられることになったのですよ」
貴族の序列など俺にはまったく馴染みのないものであるが、それならきっとウェルハイドが侯爵家の当主となる可能性は限りなくゼロに近いのだろう。森辺においても、家長の妹の子が家長の座を受け継ぐ事態など、そうそう訪れないはずであった。
「しかし……それが500年も続く血筋であるのだと考えると、ずいぶんとてつもない話であるように思えてしまうな」
アイ=ファがそのようにつぶやいたが、それはごく低くひそめられた声であったため、カミュア=ヨシュが反応することはなかった。その代わりに紫色の目を向けてきたのは、アイ=ファのかたわらに控えていたプラティカである。
「500年、血筋、不思議ですか?」
「うむ。ゲルの藩主というものに仕えるお前には、今さら驚くような話ではないのであろうかな」
「はい。ゲルの一族、王国の誕生より、古くから、存在します。ただし、魔術の時代、文字、存在しなかったため、詳細、不明です。……であれば、誰もが、同じような立場、違いますか?」
「うむ? 同じような立場とは?」
「私たち、この場、存在します。であれば、人間、発祥の瞬間から、現在まで、血脈、続いているのです。王族や貴族、王国の時代から、先人の名、書き残しているだけで、血脈の古さ、誰でも同一です。私、大きな差、感じません」
アイ=ファはきょとんと目を見開いてから、ふっと口もとをほころばせた。
「そうか……お前は聡明だな、プラティカよ」
「な、何ですか? いきなりの笑顔、卑怯、思います」
と、プラティカは凛々しい面持ちのまま、黒い頬に血をのぼらせる。そんなプラティカを見返すアイ=ファの眼差しは、とても優しかった。
「お前の言う通り、誰もが同じような立場であるのだろう。重要なのは、現在の立場に相応しい振る舞いをしているかどうかであるのだ。むろん、長きの歴史を持つ家には相応の誇りや責任というものが生じるのであろうが……祖父母の名を知らぬ私でも、ファの家の名を軽んずるつもりはない。お前のおかげで、当たり前の話を再確認できたような心地だ」
「アイ=ファ、最初から、誇り高いです。私、羞恥心、抱くいわれ、ありません」
「どうして私が笑うと、お前が羞恥心などを抱くことになるのだ? 聡明なくせに、よくわからぬやつだな」
アイ=ファだって俺に対して「いきなり可愛い顔で笑うな」などと言うくせに、この言い草である。きっと、他者の振る舞いはよく見えるということなのだろう。とりあえず俺は足を蹴られたくなかったので、余計な口は叩かないまま、アイ=ファと一緒にプラティカの可愛らしい姿を堪能することにした。
そうこうする内に、ようやく侍女と小姓が控えの間にやってくる。さきほどの人物は、身を清めた貴族たちの案内をしているのだろう。俺たちは昨晩と同じように、男女に分かれて身を清めることに相成った。
浴堂は、やはり蒸気が満ちた蒸し風呂だ。
ただし、ヨモギのような香りはしない。それに、石の壁や床などは清潔に保たれていたものの、尋常でないぐらい黒ずんでおり、とてつもない年季を感じてやまなかった。
「それにしても、アスタは見るたびに逞しくなっていくねぇ」
と、金褐色の髪を蒸気でしんなりさせたカミュア=ヨシュが、のんびりと笑いかけてくる。昨晩は離れた場所で身を清めていたので、彼の裸身を目にするのはこれが初めてのことであった。
「背丈もずいぶんのびて、もう俺と拳ひとつ分しか変わらないぐらいじゃないか。以前はアイ=ファとほとんど変わらないぐらいだったのにね」
「アイ=ファだって、成長してるはずですよ。ただ、俺のほうが伸びしろがあったみたいですね」
「うんうん。やっぱりギバ肉というのは滋養が豊かなのかな。レイトもジェノスにいる間は、たくさんギバ料理を食べるといいよ」
「僕は年齢相応の背丈であるはずですよ。カミュアが大きすぎるというだけです」
レイトはにこにこと笑っていたが、ほんのちょっぴりだけ不本意そうな目つきになっている。これはカミュア=ヨシュのほうが、無神経であったのだろう。思春期の少年が背丈の伸び具合を気にすることは、ままあるものであるのだ。
「レイトは、13歳だったっけ? それなら確かに、まったく小柄ではないだろうね。俺が13歳だった頃は、もっと小さかったように思うよ」
レイトもこの2年ほどですくすくと成長して、そろそろ160センチに届こうかというぐらいになっていたのだ。このままいけば、西の民の平均身長を余裕で超えるのではないかと思われた。
それにレイトは少年らしい華奢な骨格をしていたが、その身にはびっくりするぐらいしなやかな筋肉がついていた。きっとこれも、《守護人》としての鍛錬の賜物であるのだろう。森辺の狩人らの雄々しい裸身に囲まれながら、まったくひ弱そうに見えないというのは、大した話であるはずであった。
それに、カミュア=ヨシュである。
彼はずいぶんな痩身であり、裸になるといっそう骨ばって見えたが――それでもやっぱり、ひ弱そうな印象は皆無であった。なんというか、骨ばって見えるのは骨そのものが太くて、なおかつ無駄肉の一片もない引き締まった身体をしているためなのではないかと思えてならないのだ。
それにカミュア=ヨシュはレイトと似たような黄白色の肌をしていたが、ふだん陽光にさらされていない胴体や足などはさらに白みが強いように感じられた。
頑強な骨格に、白い肌――それはやっぱり、北の民の血なのだろうか。
まあ、そういった話はどうでもいいのだが。何にせよ、カミュア=ヨシュは森辺の狩人とはまた別種の強靭そうな肉体を有しており、ドンダ=ルウにも匹敵する力量であるという風評にいっそうの説得力が加味されたようだった。
そうして身を清めた俺たちが、浴堂を出てみると――今回は、新たな装束が準備されていた。
ただし、それほど華美なものではない。セルヴァ風ともジャガル風ともつかない、ゆったりとした長袖の胴衣と脚衣だ。それなりに瀟洒な刺繍がされて、色合いも地味なわけではなかったものの、小姓のお仕着せよりは上等なのかなと思えるていどのもので、なおかつ保温性の高そうなしっかりとした生地で縫製されていた。
「なんだ、ここじゃあ着替えなきゃいけねーのかー。ま、窮屈そうな装束ではないみてーだけどよ」
そんな感想をこぼすルド=ルウを始めとして、俺たちはその装束に袖を通した。
そうして着替えを済ませてみると、1名だけ異なる格好になっている。ジィ=マァムのみ、セルヴァ風の長衣が準備されていたのだ。
「申し訳ありません。バナームにはこれほどご立派な体格をされた御方に相応しい装束の準備がありませんでしたので、取り急ぎ簡素な作りの装束をご用意いたしました。どうかご容赦をいただけたらと思います」
着替えの面倒を見てくれていた小姓が、かしこまった面持ちで頭を垂れる。
この場には180センチオーバーの立派な体格をした人間も多かったが、ジィ=マァムだけは195センチぐらいもありそうな巨漢であったのだ。その体格に相応しい魁偉な容姿をしたジィ=マァムは、いかにもどうでもよさそうな面持ちで「かまわん」と言い捨てた。
「狩人の衣も首飾りも帯びることができぬのなら、あとの装束など何でも一緒だ。そちらの意向に文句をつける気はない」
「ありがとうございます……もしご希望でしたら、首飾りのほうはおつけください」
「うむ? それは許される行いであるのか?」
「はい。飾り物の着用を禁ずるいわれはございませんので……」
ならばと、森辺の民の全員が牙と角の首飾りを装着することになった。狩人ならぬ俺も、ルウ家の人々から賜った13本の誇りを着用だ。
「ほう。城の装束に狩人の首飾りというのも、なかなか粋なものだな」
こちらの様子をうかがいながら、ザッシュマは楽しげに笑っている。彼も彼で普段からたくさんの飾り物を身につけていたが、この場では着用しないらしい。それに、ターバンのようなものを巻かずに短い頭髪をさらしているのが、なかなかに新鮮であった。
そうしてお召し替えを済ませた俺たちは、控えの間へと案内される。
そちらでしばらく待っていると、女衆も合流した。そちらの面々が纏っていたのは、やはり小綺麗で清楚なワンピースのような装束である。そして示し合わせたかのように、そちらもギバの首飾りを装着していた。
が――こちらのジィ=マァムに対抗するかのように、そちらでも1名だけ異なる装束を纏っている人物がいる。
それは、我が愛しき家長殿であった。
アイ=ファは何故だか、俺たちと同じ男性用の胴衣と脚衣を纏っていたのだった。
「女衆の装束は身動きが取りにくそうであったので、他の装束はないものかと相談したのだ。私が狩人の身分であり、刀はなくとも護衛の役目を負っているのだと説明したら、快くこちらの装束を準備してくれたぞ」
すました顔で、アイ=ファはそのように言っていた。
まあ確かに、女衆の装束はロングスカートの丈である上に、裾がずいぶんすぼまっており、大きく足を開くこともままならなそうな形状をしている。それもまた、保温のための細工であるのだろうか。ワンピースタイプの装束はジェノスでも珍しくなかったが、長袖で生地もしっかりしているために、ずいぶん趣が違っているように感じられた。
それにしても、アイ=ファが準備された装束に文句をつけるのは珍しいことだ。やはり異郷ということで、普段よりも気が張っているのだろうか。そしてジザ=ルウやダリ=サウティたちも、そんなアイ=ファの行いを咎めようとはしなかったのだった。
「ふむ。そうして同じような格好をしていると、お前はますます森辺の同胞めいて見えてしまうな」
アイ=ファを咎める代わりに、ダリ=サウティはそのように言いたてた。そんな言葉を投げかけられたのは、プラティカである。彼女も森辺の女衆と同じ装束を纏っていたのだ。
ただし彼女はギバの首飾りではなく、立派な宝石や銀細工の飾り物をさげている。東の民である彼女が、もともと身につけていた飾り物だ。しかしそれでもダリ=サウティが言う通り、プラティカは居並ぶ森辺の女衆の中にすっかり溶け込んでいた。肌の色に若干の差はあったものの、狩人の一族たるゲルドの民は森辺の民と似た雰囲気を有しているのである。なおかつ、彼女の普段着は男性用の装束であったため、女性らしいスカートの姿がとても新鮮であった。
「私、ゲルドの民として、誇り、持っています。……ただし、ダリ=サウティの言葉、光栄、思います」
と、プラティカはきつく眉をひそめつつ、またほのかに頬を赤らめている。彼女がなんとか感情をこぼすまいとするときの、愛くるしい表情だ。
他の女衆は、みんなつつましい面持ちでたたずんでいる。だけどやっぱり若年のリミ=ルウやサウティの末妹などは、昂揚を隠しきれていなかった。バナーム城の重厚な雰囲気と薄暗さによって、ここが異郷の城であるという気持ちをいっそうかきたてられているのだろう。それは俺も同じことであった。
そこで扉がノックされて、ひとりの女性が「失礼いたします」と入室してくる。
案内役の侍女かと思ったが、その人物は透けない素材のヴェールで人相を隠していた。それに、大きな肩掛けのようなものを羽織り、その下の装束や飾り物をも隠しているようである。俺はいささか不審に思ったが、並み居る狩人たちは平静なたたずまいであったため、危険なことはないようであった。
「おくつろぎのところを、失礼いたします。食堂にご案内する前に、ご挨拶を――」
と、その人物がヴェールの陰から俺たちを見回してくる。
その目がアイ=ファの凛々しい姿をとらえるなり、くわっと大きく見開かれた。
「あ……あなたがもしや、レイナ=ルウ様なのでしょうか……?」
「うむ? 私はファの家長、アイ=ファという者だが」
「レイナ=ルウは、わたしです」と、レイナ=ルウがしずしずと進み出る。
そちらに慌ただしく視線を向けなおした謎の女性は、食い入るようにレイナ=ルウを見つめた。
「あなたが……レイナ=ルウ様なのですね……?」
「はい。わたしに何かご用事でしょうか?」
落ち着いた面持ちで応じるレイナ=ルウのかたわらに、ジザ=ルウが音もなく進み出る。しかしその女性はレイナ=ルウだけを注視しており、他の人間には目もくれようとしなかった。
西の民の女性としては、けっこう長身なほうだろう。アイ=ファよりいくぶん小柄なていどであったので、170センチ近くはありそうだ。ただしずいぶんな痩身で、趣としては姿勢のいいマルフィラ=ナハムといったところであろうか。
部屋が薄暗い上にヴェールを深くかぶっているため、顔立ちはあまり判然としない。ただ、バナームの民としてもすいぶん色白で、ちょっとした立ち居振る舞いから気品なようなものが感じられて、ただの侍女などでないことは明白であった。
「俺はレイナ=ルウの兄で、ジザ=ルウと申す者だ。妹のレイナに、何か緊急の用事であろうか?」
ジザ=ルウがそのように声をかけると、その女性はハッとした様子で立ちすくんだ。
「……申し訳ありません。間もなく食堂にご案内いたしますので、もう少々お待ちください」
そうしてその女性は身をひるがえしたが、最後の瞬間までレイナ=ルウの姿から目を離そうとしなかった。
扉が元通りに閉められると、ジザ=ルウは糸のように細い目で妹を見下ろす。
「今のは、何者であろうな。レイナに心当たりはあるのか?」
「いえ。バナームの使節団というのはいずれも男衆であったため、わたしのことを見知っている女衆などいないはずです」
「確かにあの者も、レイナの姿を見知らぬ様子だったな。となると――」
ジザ=ルウがそこで口をつぐむと、ゲオル=ザザが「何なのだ?」と急かした。
「お前こそ、心当たりがあるならば口にするがいい。あやつは非力な貴族の娘であるようだったが、ずいぶん穏やかならぬ目つきでお前の妹を見やっていたようだぞ」
「うむ。俺の考え違いであればいいのだが……バナーム侯爵家のウェルハイドというのは、かつてレイナに心をひかれかけていたようであると聞いているのだ」
ジザ=ルウのそんな言葉に、レイナ=ルウはたちまち顔を赤くした。
「そ、それはルドたちの軽口です。わたしはウェルハイドから礼節を欠いた態度を取られたこともありません」
「うむ。それのみならず、ウェルハイドはかつてレイナに執心していたリーハイムの態度に厳しい言葉を向けていたのだと聞いている。ゆえに、俺もウェルハイドが乱心することはあるまいと考えていたのだが――」
「あー、でも、もしウェルハイドと婚儀をあげる娘がそんな話を聞かされたら、ちっとばかり心配になって、レイナ姉の顔を拝んでおこうって気になるかもしれねーなー」
頭の後ろで手を組んだルド=ルウは、気安い口調でそんな風に言っていた。
顔色を戻したレイナ=ルウは、困り果てた様子で眉を下げている。そして他なる人々も、そばにいる相手と当惑した顔を見交わしていた。
「ここに来て、ようやく面倒事のにおいがしてきたようだな。しかしまあ、ウェルハイドなる貴族が心を乱していなければ、何も問題はあるまいよ」
ゲオル=ザザがそのように言いたてると、スフィラ=ザザが凛々しい面持ちで「その通りです」と同意した。
「ウェルハイドなる貴族がレイナ=ルウに未練を残していたならば、婚儀の祝宴に名指しで呼びつけることなどありえないでしょう。そしてそれ以前に、他者と婚儀を挙げようなどという心持ちにもなれないはずです」
「うむ。そのウェルハイドなる貴族が、レイリスぐらい道理を知っている人間であるならな」
ゲオル=ザザが余計な口を叩くと、スフィラ=ザザは顔を赤くしてその頑丈そうな肩を引っぱたいた。
そうして俺たちは突如として舞い降りた一抹の不安を抱え込みながら、晩餐の始まりを待つことになったわけであった。




