往路③~ムドナの夜~
2022.7/8 更新分 1/1
そうして1日を車の中で過ごし、太陽がずいぶん傾きかけてきた頃――初日の目的地に到着したことが告げられた。
車の外に出てみると、周囲は松明を掲げた大勢の兵士たちに取り囲まれている。そして俺たちの正面には、巨大な石造りの建造物が立ちはだかっていたのだった。
「こちらが本日の宿泊地となる、ムドナの領主の屋敷ですね」
ともに車を降りたフェルメスが、そのように説明してくれた。
ムドナという領地については、事前に話を聞かされている。ここは大きな宿場町で、貴族に任命された領主が管理する自治領区というものであるのだそうだ。ジェノスの貴族らと森辺の民は、本日この場所で夜を明かすのだいう話であった。
「この人数を宿泊させることができるだなんて、ずいぶん立派なお屋敷ですね。俺はもっと、宿屋の延長みたいなものを想像していました」
「ジェノスからアブーフまで連なるこちらの街道も、貴族が行き来する機会は少なくないのでしょう。そうすると、貴族を宿泊させるための施設が自然に整えられるものであるのです。……とはいえ、ムドナの領主にしてみても、これほどの人数を宿泊させるのは初めてであるかもしれませんね」
森辺の民は20名で、《守護人》は3名、貴き方々はデルシェア姫やプラティカを含めて13名となる。ただし貴き方々は従者や侍女などを同伴させているため、倍ぐらいの人数に膨れあがってしまうのだ。総勢は50名ぐらいになるはずであるのだから、それらをすべて収容できるというのは大した話であるはずであった。
トトスを兵士に返したアイ=ファは、ほとんど駆け足でこちらに近づいてくる。それを安心させるために、俺はすぐさま笑顔を返してみせた。
「アイ=ファ、お疲れ様。半日もトトスに乗っていたら、さすがに疲れただろう?」
「いや。車で揺られているよりは、むしろ安楽なぐらいだが――」
と、アイ=ファは俺のすぐ隣にたたずむフェルメスの姿を横目で注視する。そこで声をあげてくれたのは、ガズラン=ルティムであった。
「フェルメスのおかげで、大陸の歴史についてずいぶん学ぶことができました。アイ=ファもご興味がありましたら、のちほどアスタからお聞きください」
フェルメスは何も悪さをしなかったと、暗に伝えてくれたのだ。
アイ=ファは「そうか」と鋭い視線を少しだけやわらげた。
「では、我々も屋敷に向かうとしよう。……兵士たちは交代で、屋敷を守るのだという話であったな」
「ええ。ただし、護衛の武官と指揮官だけは――」
ガズラン=ルティムがそのように言いかけたとき、白い甲冑を纏った大柄な人物がのしのしと近づいてきた。
「おお、アイ=ファ殿! ようやくご挨拶をすることがかなったな! 明日には俺も、アイ=ファ殿らとともにトトスを駆けさせたいものだ!」
それは200名の兵士たちの指揮官である、デヴィアスに他ならなかった。やはり大がかりな遠征であるためか、このたびも大隊長という身分である彼が指揮官に任命されたのだ。
「さあさあ、屋敷に参ろうぞ! 明日からの旅に備えて、しっかり英気を養わねばな!」
そうして俺たちはずらりと並んだ騎兵たちに左右を守られながら、その屋敷に足を踏み入れることになった。
造りとしては、ジェノスの貴族の屋敷と大きな差はないようだ。まあ、トトスで1日の距離であれば、文化の差などが生じる余地もないのだろう。ただそれは、自治領区の領主というものがジェノスの貴族に負けない豊かな暮らしをしているという証であった。
そちらで最初に案内をされたのは、それなりの規模を有した控えの間である。これから順番に、浴堂で身を清めるのだそうだ。フェルメスとジェムドは別室に招かれて、その代わりにカミュア=ヨシュたち《守護人》の3名およびプラティカと合流することになった。
別の車に乗っていた面々とはこれがひさびさの再会であったため、待ち時間はそちらとの歓談に興じることにする。半日ばかりをオディフィアと同乗していたトゥール=ディンは、とても幸せそうな笑顔を見せていた。
それから半刻ほども待たされたのち、ようやく俺たちの順番となる。浴堂もヨモギのような香りのする蒸し風呂で、俺たちにとっては馴染みのある造りであった。
「順番的に、まずはジェノスが交易の要として栄えてから、こちらのムドナも発展を遂げたということなのかもしれませんね。であれば、屋敷の造りなどもいっそうジェノスに似通るものであるのかもしれません」
ガズラン=ルティムがそのように語っていたのは、日中にフェルメスから聞かされた話がまだ頭に残されていたためなのかもしれなかった。
そうして浴堂を出てみても、お召し替えの準備がされたりはしていない。狩人も帯刀を許されたまま、今度は食堂に案内されることになった。
「おお、森辺の方々もいらっしゃいましたな! さあさあ、どうぞおくつろぎください!」
そちらではすでに貴き方々が着席しており、そしてころころと肥え太った壮年の男性が待ち受けていた。貴族のような長衣を纏った、いかにも西の民らしい風貌の男性だ。
ジェノス侯爵家からは、メルフリード、エウリフィア、オディフィア。トゥラン伯爵家からは、リフレイアとトルスト。ダレイム伯爵家からは、ポルアースとメリム。サトゥラス伯爵家からは、リーハイムと若き貴婦人。そして、王都の外交官たるフェルメスとジェムド、ジャガルの王族デルシェア姫、護衛部隊の総指揮官デヴィアス――ジェノスの城下町の晩餐会などでも、お馴染みの顔ぶれだ。そして貴き方々の背後には、シェイラやニコラやシフォン=チェルといった面々を含む侍女や従者がずらりと居並んでいた。
狩人の衣だけを従者に預けて、森辺の面々も着席する。椅子の背に刀を収める筒が取りつけられた、いわゆる騎士の椅子というやつだ。ただ、かつてこれだけの人数を迎える機会がなかったことを示すように、卓のサイズや椅子の形状などがいくぶん不揃いであるようであった。
「ジェノスの貴き方々とジャガルの王族たるデルシェア姫に加えて、森辺の方々をもお迎えすることができようとは、光栄の限りでございます! 何かと至らぬ点はございましょうが、どうぞご容赦くだされ!」
そのように語る壮年の人物は、予想通りこの地の領主に他ならなかった。
デルシェア姫に対しても森辺の民に対しても、臆するところはないようだ。ずいぶん大らかな人物なのだなと思っていると、隣の卓からエウリフィアが笑いを含んだ声をあげてきた。
「こちらの御方は去年の復活祭で、ジェノスまで足をのばしておられたそうよ。それで、屋台や宿屋でギバ料理を味わったのですって」
「ほう。1日をかけて、わざわざジェノスにまで?」
ダリ=サウティが穏やかな面持ちで反問すると、その人物は元気いっぱいに「はい!」と応じた。
「ギバ料理の素晴らしさについては、このムドナにまで鳴り響いておりましたからな! わたくしも領主としての責務がありましたため、祝日と祝日の合間に1日だけジェノスにお邪魔したのです! 屋台の料理も宿屋の料理も、素晴らしい出来栄えでありましたぞ!」
「なるほど。復活祭には近隣の土地からも人間が集まっているものと聞き及んでいたが……あなたもそのひとりであったわけだな」
「その通りです! 先日の鎮魂祭には出向くことがかないませんでしたが、このたびはバナームの祝宴にてギバ料理を賞味できるという幸運を授かり、心より嬉しく思っておりましたぞ!」
この人物もまた祝宴の招待客のひとりであり、明日からはこちらの一行を追いかける形でバナームを目指すという話であったのだ。
ムドナの領主はにこにこと笑いながら、短めの腕を大きく開いた。
「ともあれ、長旅でお疲れでありましょう! 森辺の方々のギバ料理には遠く及びませんが、どうぞ当屋敷の心尽くしをお味わいください! ジャガルの名酒も取りそろえておりますので!」
貴族を客人に迎えることには慣れているらしく、如才のない立ち居振る舞いだ。そんなムドナの領主に見守られながら、俺たちは空腹を満たすことになった。
準備されていたのは、血のしたたるようなカロン肉のソテーに、カロン乳をベースにした汁物料理、それに蒸した野菜と乾酪の副菜などである。シンプルながらも手抜きのない仕上がりで、慣れない長旅で疲れている身体に確かな滋養と料理番たちの真心がしみわたるような心地であった。
それにやっぱり、旅情というものがいっそう豊かな心持ちにしてくれるのだろう。森辺の面々も貴族の面々も羽目を外して騒ぎたてることこそなかったが、多くの人々が昂揚した様子で言葉を交わしている。貴族の卓の末席に控えたムドナの領主は、そんな俺たちの姿を至極満足そうに検分している様子であった。
「……アイ=ファよ。お前たちはダバッグという地においても、こういった料理で腹を満たしていたのであろうな」
しばらくして、そのように問うてきたのはゲオル=ザザだ。
「べつだん、料理の出来に文句はないのだが……ギバの肉が存在しない晩餐だけで腹を満たすのは、これが初めてのことだ。お前たちは、物足りなさを覚えなかったのか?」
「むろん、十全に心が満たされたとは言い難い心持ちだった。しかし、こればかりはどうしようもあるまい?」
「ふん。宴料理ではギバ肉が使われると聞いていたので、俺も道中の晩餐までは頭が回らなかったな。こんなことなら、腸詰肉でも余分に持ってくるべきだったぞ」
すると、ずいぶん離れた席からラヴィッツの長兄も声をあげてきた。狩人の聴覚で、アイ=ファたちのやりとりを聞き取ったのだろう。
「だから俺たちも邪神教団を討伐する際にはギバ肉を持参したのだが、確かに今回は頭が回らなかった。明日の昼に、干し肉や腸詰肉をかじるのが待ち遠しいところだな」
俺たちは道中の携帯食として、干し肉や腸詰肉を持参しているのだ。
それはともかくとして――ラヴィッツの長兄は遠い席から発言したため、いささか声が大きくなり、それが隣の卓にまで届いてしまったようであった。
「やはり森辺の方々には、ギバの料理が必要であったのでしょうな! ムドナにはギバ肉が存在しないため、まことに申し訳ありません!」
「いやいや。そんなことは百も承知であったのだから、詫びられる筋合いはない。俺たちの戯れ言など、聞き流すがよかろうよ」
そんな風に言いながら、ラヴィッツの長兄はねっとりとした眼差しでムドナの領主を見返した。
「それにしても……そちらは俺たちを恐れる気配もないようだな。復活祭にてジェノスまで出向いたゆえに、森辺の狩人の姿にも見慣れたというわけか」
「左様ですな! それにわたくしは、傀儡の劇も拝見しておりますので! 森辺の方々をむやみに恐れる必要はないのだと心得ておりますぞ!」
ムドナの領主のそんな言葉に、今度はダリ=サウティが「ああ」と微笑む。
「そういえば、傀儡使いのリコたちはこの街道を何度か北にのぼっているという話であったな。このムドナでも、傀儡の劇を見せていたということか」
「はい! わたくしは折よく、2度も目にすることがかないました! あれは素晴らしい劇でありましたし……森辺の方々の誤った印象を払拭するのに、きわめて効果的でありましょう!」
「ふむ。やはりこちらにも、かつては我々の悪名が轟いていたのであろうな」
ダリ=サウティは穏やかな面持ちであったが、ムドナの領主は初めて気まずそうに口ごもった。
すると、同じ卓のポルアースが楽しげな笑顔で発言する。
「べつだん、言葉を選ぶ必要はないでしょう。森辺の方々は率直な物言いを美徳としておりますし、すべては過去の話なのですからね」
「さ、左様でございますか。……そうですな。それこそが、森辺の民というものであるのでしょう」
と、ムドナの領主は明るい表情を取り戻しつつ、なおかつこれまでよりも真剣な眼差しとなった。
「確かに以前は森辺の民に関して、悪名としか言いようのない風聞が出回っておりました。10年の昔には、この近隣を騒がせる盗賊団も森辺の民なのではないかと囁かれておりましたからな」
「ほう。ジェノスの外でも、そのように察しがつけられていたのか」
「はい。盗賊団の被害者はすべて魂を返しておりましたが……こちらでは、浅黒い肌をした怪しげな集団が夜な夜な街道を駆けていると、そのような風聞が出回っていたのです。この近隣で浅黒い肌と言えば森辺の民の他にないとされておりましたので、すぐさま察しがつけられたのでしょう。しかし、ほどなくして処刑されたのは義賊として知られる《赤髭党》でありましたため……それがまた、いっそうの反感を招いてしまっていたわけですな」
居住まいを正しながら、ムドナの領主はそのように言葉を重ねた。
「むろん、貴き方々からムドナの領主に任命されたわたくしは、《赤髭党》に与することは許されない立場と相成ります。ですが、領民の多くは《赤髭党》に敬愛の念を抱いておりましたので……それがそのまま、森辺の民に対する反感に転じてしまったわけですな」
「うむ。森辺の民の一部はまぎれもなく悪行に手を染めていたので、何も弁明できる立場ではない。それは、正当な怒りであろうよ」
「ですが、すべては解決したのだと、ジェノス侯の名で布告されました。あれはもう、2年も昔の話となるのですな」
そう言って、ムドナの領主は笑顔になった。
「それが真実であったことを、わたくしどももこの2年ほどで理解するに至りました。さらに、傀儡の劇によって、よりつぶさに真実を知ることがかなったのです。今ではこのムドナからも数多くの領民が、ギバ料理を求めてジェノスまで出向いておりますよ。先日の鎮魂祭でも、十や二十ではきかぬ人数がジェノスに押しかけたことでしょう」
「そうか。リコたちに傀儡の劇を作ることを許した甲斐があったというものだな」
ダリ=サウティが、ゆったりとした笑顔を俺やアイ=ファに向けてくる。
すると、ムドナの領主ももじもじとしながらこちらに向きなおってきた。
「ところで、その……アスタ殿とアイ=ファ殿に願いたき儀があるのですが、それをこの場でお伝えすることをお許し願えるでしょうか?」
「うむ? 我々に如何なる用向きであろうか?」
「わたくしの家族や親戚一同が、おふたりにご挨拶を願っているのです。ジェノスまで出向くことのできなかった人間にとっては、これがおふたりにご挨拶をできる希少な機会でありますため……」
アイ=ファは完全に虚を突かれた様子で、目を白黒させていた。
「な、何故に我々にばかり挨拶などを求めるのだ? そのようなことを願われるいわれはないはずだぞ」
「いえいえ。あの傀儡の劇においては、アイ=ファ殿もアスタ殿に劣らぬご活躍でありましたでしょう? また、ジェノス随一の料理人たるアスタ殿のご高名はこちらのムドナにも響きわたっておりますし、アイ=ファ殿に関しては――復活祭や鎮魂祭などでジェノスに出向いた人間から、たいそうな風聞が出回っているのです。傀儡の劇で披露された凛々しさはそのままに、実物は光り輝くようなお美しさであったと――あ、いや、異性の容姿をむやみに褒めそやすことは禁じられているのでしたね! これは失礼いたしました!」
閉口するアイ=ファの代わりに、ラヴィッツの長兄が愉快そうに笑い声をあげた。
「ファの家長は復活祭でも鎮魂祭でもべったり家人にはりついていたようだから、屋台まで出向いた人間は嫌でも目に入ってしまおうな。それにしても、森辺の掟がこのような地にまで伝わっているというのは、いささかならず意想外であったぞ」
「左様ですか。こちらではバナームの使節団の方々もたびたびお招きしておりましたため、そちらからおうかがいすることに相成りました」
「なるほどな。まあ、ファの家は外界の人間とも正しき交流を深めるべしと言いだした張本人であるのだから、そちらの両名も感無量であろうよ」
ラヴィッツの長兄の人を食った物言いに、アイ=ファは口をへの字にしてしまう。
そんな感じで、ムドナにおける晩餐の時間はきわめて和やかに過ぎ去っていったのだった。
◇
その後、俺とアイ=ファは領主の親戚一同とご挨拶をしてから、それぞれに割り振られた寝所を目指すことになった。
それに同行してくれたのは、ルド=ルウとリミ=ルウの仲良し兄妹だ。従者の案内で回廊を進みながら、リミ=ルウはにこにこと笑っていた。
「ムドナの人たちと仲良くなれて、よかったねー! やっぱりアイ=ファはきれいだしかっこいいから、みーんな好きになっちゃうんだねー!」
「……いらぬ言葉は心にしまっておくがいいぞ」と、アイ=ファは仏頂面でリミ=ルウの赤茶けた髪をかき回した。頭の後ろで手を組んで歩きながら、ルド=ルウは「まったくなー」と声をあげる。
「宴衣装ならともかく、普通の格好でもあそこまで騒がれるとは思ってなかったぜ。俺たちなんかはすっかり見慣れちまったけど、やっぱりアイ=ファってのは別格なんだなー。バナームでも、大変な騒ぎになっちまいそうだ」
「……リコたちは、バナームにまでは足をのばしていないはずだぞ」
「傀儡の劇を見てなくったって、アイ=ファは祝宴で宴衣装をさらすんだろ。おかしな貴族にちょっかいを出されないように、せいぜい気をつけてなー」
「だいじょーぶだよ! アイ=ファのそばには、アスタがついてるもん!」
リミ=ルウの無邪気な発言に、俺は「まかせとけ」とサムズアップしてみせる。それで俺ばかりがアイ=ファに足を蹴られるのは、なかなかに理不尽な話であった。
「それにしても、ダバッグまで出向いたときとは、ずいぶん様子が違ってるよなー。あのときは、森辺の民なんざ半分獣の蛮族だとか抜かす連中がいたぐらいだもんなー」
「うん、まあ、あれは無法者の集団だったからね。貴族とご縁のあるこの屋敷の人たちと比べることはできないけど……でもそれ以上に、リコたちのおかげで誤解が晴れてきたのかな」
「だったらそれは、アスタのおかげでもあるんじゃねーの? リコたちは、本当にあった話を広げてるだけなんだからよー」
「それを言うなら、俺だけじゃなく森辺の民みんなのおかげだろう? むしろ、生粋の森辺の民であるアイ=ファやドンダ=ルウやダリ=サウティの立ち居振る舞いが、森辺の民の実情を知らしめることになったんじゃないかな」
「それもそーか」と、ルド=ルウが白い歯をこぼしたところで、寝所に到着した。そして通路の逆側から、大小の人影がこちらに近づいてくる。それは、トゥール=ディンとゼイ=ディンであった。
「あれ? トゥール=ディンたちも、どこかに行ってたのかい?」
「はい。オディフィアの寝所に招かれていました。だけどやっぱり旅の疲れが出たらしく、オディフィアもすぐに寝入ってしまいました」
そんな風に語るトゥール=ディンは、心から幸福そうな表情をしていた。大事なオディフィアが可愛らしく寝付く姿を見届けて、至福の境地であるのだろう。
「それじゃあ、俺たちも休むとするか。……あー、アスタたちは、また家人だけで話し合いかー?」
「ああ、うん。それじゃあ、そうさせてもらおうかな」
「明日は出発も早いみてーだから、無理しねーようになー。ま、眠かったら車で眠れるんだろうけどよー」
そんな言葉を残して、ルド=ルウはゼイ=ディンとともに同じ部屋へと消えていった。さすがに個室や二人部屋は埋まってしまったそうで、俺たちは大部屋で眠ることになったのだ。リミ=ルウとトゥール=ディンも隣の部屋に消えていき、案内役の侍女も立ち去ると、薄暗い回廊には俺とアイ=ファだけが残された。
「ようやく最初の日も終わりだな。アイ=ファとしては、どんな心持ちだろう?」
「これといった騒動もなく、至極順調な道行きであろう。……さきほどの挨拶には、いささか閉口することになったがな」
「あはは。アイ=ファの人気は、さすがとしか言いようがないな」
アイ=ファは苦笑しながら、俺の頭を優しく小突いてきた。
「しかし……お前たちがさきほど語らっていた通り、ダバッグとの差は強く感じた。ザッシュマの家族などは、邪心なく我々を迎え入れてくれたが……あれはおそらく、森辺の民をよく知らぬがゆえであったのであろうからな」
「うん。でもきっと、今ならダバッグでも同じような扱いなんじゃないかな。リコたちはダバッグでも傀儡の劇を見せているはずだし……俺たちがダバッグまで出向いてから、もう2年近く経ってるわけだからな」
それだけの期間、森辺の民は正しき道を進もうと尽力してきたのだ。たとえ傀儡の劇が披露されていなくとも、そういった話は風聞として近隣の領地にまで伝わっているはずであった。
「それに、ウェルハイドだってさ。これが去年ぐらいの話だったら、森辺の民を婚儀に招待しようなんて思わなかったかもしれないぞ。それに親御さんたちも、そんな望みをかなえてくれなかったかもしれない。森辺の民が一歩ずつ地道に頑張ってきたからこそ、ここまで信用を勝ち取ることができたんじゃないのかな」
「うむ……そうかもしれんな」
とても優しげに目を細めながら、アイ=ファはそう言った。
「私もそれを喜ばしく思ったからこそ、悩むことなくこの申し出を受けようという気持ちになれたのかもしれん。7日も森辺を離れることなど、楽しいと思えるわけがないのだが……しかし私はそれ以上に、誇らしい気持ちであったのだ」
「うん。ここ最近はすっかりご無沙汰だったウェルハイドが、大事な婚儀の宴料理をまかせてくれたんだもんな。俺も誇らしい気持ちでいっぱいだよ」
「うむ。我々はまたひとつ、スン家の紡いだ悪縁を解きほぐすことがかなったのだ。……テイ=スンやザッツ=スンも、きっと胸を撫でおろしていることであろう」
アイ=ファがそのような言葉を口にしたのは、やはり鎮魂祭で彼らについて語り明かした影響であるのかもしれなかった。
十余年前、ウェルハイドの父親が率いる使節団を襲撃したのは、まず間違いなくスン家の者たちであったのだ。死罪人の集団であった《黒死の風》にそういった悪行が引き継がれたのは《赤髭党》の面々が処刑されたのちの話であるのだから、時系列的にそれは疑いのないことであった。
「あるいはザッツ=スンなどは、まだ得心していないやもしれん。これではまだまだ、貴族に媚びへつらっているだけだ、とな」
「うん。それならこれからも、これが正しい道だったんだって証明し続けていかないとな」
「うむ」とやわらかい表情でうなずいてから、アイ=ファはやおら鋭く目をすがめた。
「それで……お前は何用であるのだ、カミュア=ヨシュよ?」
「いやぁ、アイ=ファとアスタがふたりきりでどんな話をしているのかと、ついつい気になっちゃってさぁ」
俺がびっくりして視線を動かすと、寝所の扉が5センチぐらい開かれて、そこから紫色の瞳が覗いていた。そういえば、《守護人》の面々も同じ場所で休むように言いつけられていたのだ。
「それにしても、アイ=ファは大したもんだねぇ。その位置と角度なら、扉なんて視界に入っていないはずだろう?」
「目だけに頼る狩人などおらん。それはお前も同じことなのではないのか?」
「うんうん。だけどそのような睦言のさなかにまで気を張っているとは、驚きだよ」
「何が睦言か」と、アイ=ファはこちらを向いたまま頬を赤くした。
「……アスタよ。寝所に戻った際には、私の分まであやつの頭を引っぱたいてやるがいい」
「うん。だけど、俺の攻撃がカミュアに当たるかなぁ」
「であれば、ルド=ルウやガズラン=ルティムに助力を願うがいい。さすれば、あやつも逃げようはあるまい」
「やだなぁ。旅はまだまだ始まったばかりなのだから、仲良くやっていこうよ」
扉の隙間で、カミュア=ヨシュの目がにっこりと細められる。
アイ=ファは憤慨することしきりであったが、きっとこれも楽しい旅の思い出のひとつになってくれることだろう。そんな思いを抱えながら、俺は悪戯なカミュア=ヨシュの待つ寝所へと足を向けることになったのだった。




