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異世界料理道  作者: EDA
第七十章 灰と黒の祝祭
1217/1697

黒の月の鎮魂祭⑩~鎮魂の祈り~

2022.6/22 更新分 1/1

・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。

 ミダ=ルウたちに別れを告げたのち、俺たちはあらためて『ギリ・グゥの広場』を目指すことになった。

 ディアもチル=リムもティカトラスも、さきほどの一幕については何も触れようとしない。これは気安く取り沙汰できるような話題ではないのだと、そのように察してくれたのだろう。ディアたちはもちろん、ティカトラスまでそのように配慮してくれたのはありがたい限りであった。


 アイ=ファやライエルファム=スドラはこれまでと変わらぬ凛然とした面持ちで、護衛の役目を果たしてくれている。どのような思いを抱えようとも、それで心を乱すことはないのだろう。俺もテイ=スンの死に思いを馳せつつ、なんとか平静を取りつくろっていた。


「……それにしても、『ギリ・グゥの広場』というのは遠いのだな。人混みのせいもあって歩は遅くなっているものの、もうずいぶんと進んだように思うぞ」


 こちらの先頭を歩くライエルファム=スドラが数分ぶりに声をあげると、ティカトラスが待ってましたとばかりに答えた。


「『ギリ・グゥの広場』というのは、弔いの儀で使われる場であるからね! 主街道を拠点にする行商人たちには用事のない場であるから、居住区域の真ん中あたりに造られているのだよ! そのほうが、領民たちにとってもありがたいだろうからさ!」


「なるほど。婚儀が行われた『エイラの広場』と同じことか。それにしても、このような場所までずいぶんな人混みだ」


 ライエルファム=スドラの言う通り、進めど進めど街路には人があふれかえっている。きっとこれは、多くの領民が祝祭を楽しんでいる証であるのだろう。街路には主街道のように火壺が置かれているわけではなく、家屋の玄関口に掲げられた灯篭のようなものだけが目の頼りであったため、いっそう薄暗く、冥界の住人たちの不気味さを際立たせているようであった。


「これは『ギリ・グゥの広場』に通ずる街路だから、いっそう混み合ってしまっているのだろうね! でももう八半刻もしない内に到着するはずだよ!」


 八半刻というのは馴染みのない言葉であるが、まあ要するに四半刻の半分ということであろう。到着まで、残り7、8分ということだ。


「これだったら、別の街路から迂回したほうが早かったかな? でもまあ、まだまだ夜は長いのだから――」


 ティカトラスがそのように言いかけたとき、アイ=ファが「待て」と鋭く声をあげた。


「どうもおかしな気配がする。デギオンにヴィケッツォよ、変事に備えるがいい」


 それと同時に、ライエルファム=スドラとディアも周囲を見回していた。きっとアイ=ファに遅れることなく、変事の気配を察知したのだ。

 しかし、ティカトラスのかたわらにぴったりと寄り添っていたヴィケッツォは、眉をひそめながらこちらをにらみつけてきた。


「いったい何だというのです? このような人混みであっても、我々が殺気を見逃すことはありません」


「いや。これは殺気ではなく――」


 アイ=ファの言葉は、突如としてわき起こった喚声にかき消された。

 向かう先で、喧嘩か何かが始められたらしい。男同士の罵り合う声と、見物人のはやしたてるような声が、一緒くたになって夜気を震わせた。


「用心せよ! あれはおそらく――」


 アイ=ファがそのように言いかけたが、ヴィケッツォは「わかっています!」と険悪な声でさえぎった。


「ティカトラス様、こちらに! 街路の端に寄って、やりすごします!」


 ティカトラスらは俺たちよりも先を歩いていたので、その喧噪に近い位置となる。それでヴィケッツォとデギオンはティカトラスを左右からはさみこみつつ、街路の右側に移動しようと試みたが――前側から人波が押し寄せてきたため、それもままならなかった。


 数メートル先では、黒い布をかぶったふたつの人影が取っ組み合いを始めている。人々はその争いに巻き込まれないように、距離を取ろうとしているのだ。それで人波にうねりが生まれて、俺たちも後ろに押し戻されることになってしまった。


「アスタ、離れるなよ!」と、アイ=ファは周囲に鋭い視線を走らせつつ、俺の腕をわしづかみにしてきた。きっとディアとライエルファム=スドラも、それぞれの相方を同じように守ろうとしていることだろう。


 幸い、こちらの6名はまだひとかたまりの状態にあったが――ティカトラスたち3名とは、距離が空いてしまっていた。あちらとこちらの間に、黒い人影がいくつも割り込んできたのだ。それらはいずれも、黒い布を頭からかぶっていた。


「おい、アイ=ファ。何か様子がおかしくないか?」


 俺がそのように呼びかけると、アイ=ファは無言のまま割り込んできた面々の後ろ姿をねめつけた。

 そんな中、ヴィケッツォの「貴様!」という声が響きわたる。


「待て! それを返しなさい! ……邪魔立てするなら、容赦はしません!」


 いったい何が起きているのか。俺には、人垣の上に飛び出るデギオンの白い頭しか見えなかった。

 そして、遠からぬ場所から甲高い笛の音のようなものが響きわたる。

 それと同時に、目の前の黒い布をかぶった一団の何名かがきびすを返そうとした。


 アイ=ファはやはり無言のまま、空いていたほうの左腕を虚空に突き出す。

 その指先にこめかみを突かれた男は、声もなく地面に倒れ込んだ。笛の音の合図で逃げようとした人間のひとりである。


 残りの者たちは、愕然とした様子でアイ=ファのほうを振り返った。

 俺の身を背中にかばいながら、アイ=ファは右足を振り上げる。その爪先で下顎を蹴りあげられて昏倒した男の手には、短剣が握られていた。


「この人混みでは、逃げ場もないぞ。大人しく武器を捨てるがいい」


 アイ=ファは鋭い声音でそのように宣言したが、残る2名が同時に短剣を引き抜いた。

 すると、俺の胸もとに温かいものが押しつけられてくる。それはチル=リムの小さな身体であった。


 俺にチル=リムの身を託したディアは、助走もなしに跳躍して、短剣をかまえた男の頭を蹴り飛ばす。

 それと同時に、アイ=ファも再び華麗なハイキックを繰り出して、最後のひとりをノックアウトした。


 この騒ぎにようやく気づいた周囲の人々は、悲鳴まじりの声をあげながら遠ざかっていく。

 それでようやく、視界が開けた。

 ティカトラスは街路の真ん中でへたりこみ、「あはは」と呑気に笑っている。頭にかぶった王冠はななめに傾き、首から掛けていた飾り物はまるまる消え失せていた。


 デギオンとヴィケッツォは、そんな主人の左右に傲然と立ちはだかっている。

 そして、ヴィケッツォの足もとには何人もの男が倒れ伏しており――デギオンは、その細長い腕で無法者のひとりを拘束していた。背後から羽交い絞めにするような格好で、相手の装束の襟をつかみ、それで咽喉もとを締め上げていたのだ。


「いやあ、驚いた! まさか、これだけの数の無法者に取り囲まれていたとはね! ……デギオン、殺してはいけないよ? 鎮魂祭で人を殺めることは、つつしむべきだろうからね!」


「ですが、この無法者どもは……ティカトラス様の飾り物を奪いました」


「うんうん。でも、逃げのびた人間はいないのじゃないかな? アイ=ファたちも、ずいぶんな数を仕留めてくれたようだからね!」


 すると、ディアが倒れていた男の黒いかぶりものを足の先で器用に剥ぎ取った。

 その男が抱え込んでいたものが、じゃらりと石敷きの路面に広げられる。それはいずれも、きらきらと輝く銀細工の飾り物であった。


「なるほど。こやつらは人混みにまぎれてお前たちを取り囲み、これらを奪い取ろうとしたわけか。殺気は感じなかったので、お前たちを殺める気はなかったのだろうな」


「うむ。しかしこれだけの人数が気を張れば、空気が乱れて当然であろう」


 ディアとアイ=ファは、落ち着いた面持ちでそのように言葉を交わしている。

 ヴィケッツォは白く塗られた唇を噛みながら、そんな両名をねめつけた。


「では、あなたがたは……前方で起こった騒ぎではなく、これらの者どもの気配を察知したというわけですか?」


「うむ。おそらくは、騒ぎを起こした者たちも無法者の一味であろう。そちらに注意を引きながら、お前たちを取り囲んだのだ」


 すると、ティカトラスたちの背後の人垣が、モーゼの十戒のようにふたつに割れた。そこから現れたのは、我らがダン=ルティムである。


「おお! アスタにアイ=ファではないか! なんだ、そちらでも騒ぎがあったのか?」


 ダン=ルティムはその両手に一体ずつ、黒い布をかぶった男たちを引きずっていた。そしてその後から、ディム=ルティムやルティムの女衆らが追従してくる。


「こちらでは、こやつらがいきなり取っ組み合いを始めたので、やめるように取りなしたのだ! そうしたら、いきなり短剣を抜いてきおってな! しかたないので、眠らせることになったのだ!」


「そうか。では、無法者は残らず捕らえることができたやもしれんな」


 すると、デギオンが拘束していた無法者に囁きかけた。


「あなたがたは、何名で編成されていたのですか……? 正直に告白しなければ、咽喉を潰させていただきます」


「じゅ、10人だ!」と、無法者は息も絶え絶えに告白した。


 アイ=ファが仕留めたのが3名、ディアが1名、ダン=ルティムが2名――それに、ヴィケッツォの足もとに3名、デギオンの手もとに1名で、合計はきっかり10名だ。デギオンはひとつうなずくと、相手の咽喉もとをきゅっと締めて眠りにつかせた。


「このように立派な飾り物をこれ見よがしにぶらさげているから、無法者につけ狙われるのだ。少しは用心をするがいいぞ」


 ディアが地面から拾い集めた飾り物をティカトラスのもとに届けようとすると、ヴィケッツォが素早く主人の前に回り込んだ。

 そしてヴィケッツォは飾り物を受け取りながら、ものすごく悔しそうな目つきでディアとアイ=ファの姿を見比べる。


「……ティカトラス様の飾り物を守っていただき、心より感謝しています」


「ふむ。ディアは何でもかまわんが、森辺の民たるアイ=ファはそのような上っ面の言葉など喜ばんと思うぞ」


「……上っ面? わたしは、真情から感謝の気持ちをお伝えしています」


「しかしお前は、敵を見るような目でディアたちを見ているではないか」


「……これは、自らの不甲斐なさに憤っているのです」


 そのように語るヴィケッツォは小さく肩を震わせながら、なめらかな頬につうっと涙を伝わせた。ディアはフードごしに頭をかきながら、溜息をつく。


「何も泣くことはないではないか。お前はそのように立派ななりをしているのに、どこか幼子めいた部分があるようだな」


「だ、誰が幼子ですか!」と、ヴィケッツォは手の甲で涙をぬぐう。決して口にはできないが、そんな仕草は確かに頑是ない幼子のようだった。


 そうして俺たちが立ち尽くしていると、おっとり刀で衛兵たちが駆けつけてくる。そして立派な房飾りをつけた隊長格の人物は、ティカトラスの姿を見るなり飛び上がっていた。


「ティ、ティカトラス様! いったい何事でありましょうか?」


「ああ、余計な仕事を増やしてしまって、申し訳なかったね。これなる10名の無法者がわたしの飾り物を強奪しようと目論んだため、従者と森辺のお歴々が退治してくれたのだよ」


 普通であれば事情聴取が開始されるところであろうが、さすが特権階級たるティカトラスの威光でもって、俺たちが詰め所に連行されることはなかった。いずれも意識を失った10名の無法者は衛兵たちに捕縛され、この一幕は終了である。


「アスタたちは、広場に向かうところであったのか? あれは確かに、一見の価値があろうな! ぞんぶんに楽しんでくるがいいぞ!」


 ルティム家の一行は、俺たちとは反対の方角に立ち去っていく。

 そうして俺たちは、気持ちも新たに『ギリ・グゥの広場』を目指すことに相成ったのだった。


「いやぁ、それにしても、やっぱり森辺の狩人というのは、大したものだね! しかし! 無法者の狙いがわたしの生命であったなら、デギオンとヴィケッツォだけでも役目を果たすことはかなったのだろう! だからヴィケッツォも、そんなに気を落とすことはないよ!」


 進軍が再開されるなり、ティカトラスは高笑いをあげながらヴィケッツォをねぎらった。こちらに背中を向けているため、ヴィケッツォがどのような顔をしていたかは不明である。


「ところで! アイ=ファはどうして、逃げようとする無法者をわざわざ仕留めてくれたのかな?」


 ヴィケッツォの肩に手を置いて後ろ歩きの体勢になりながら、ティカトラスがそのように問うてきた。

 そちらに対して、アイ=ファは「うむ?」と小首を傾げる。


「悪いが、質問の意味がわからない。無法者を仕留めることに、理由が必要なのであろうか?」


「だってあの無法者たちは首尾よく飾り物をかすめ取って、逃げ散ろうとしていたのだろう? アイ=ファの役目はアスタたちを守ることなのだから、自ら危険をかぶる必要などないはずじゃないか?」


「あのていどの無法者に危険を感じることはなかったし……罪人をみすみす見逃すことはできまい?」


 アイ=ファがそのように答えると、ティカトラスは心から愉快そうに瞳を輝かせた。


「本当に森辺の民というのは、底抜けに清廉であるのだね! そんな言葉を聞かされてしまうと、またアイ=ファを側妻に迎えたくなってしまいそうだよ!」


「……であれば、無法者を見逃すべきであったやもしれんな」


「あっはっは! 決して無理強いしたりはしないから、アイ=ファはどうか清廉なる魂を大事にしてくれたまえ!」


 そんな風にのたまわってから、ティカトラスはふいに俺のほうへと視線を転じてきた。


「それにしても、アスタは大したものだねぇ。外界の生まれでありながら、こんな清廉なる民の同胞としてつつがなく生きていくことができているのだからさ」


「いえいえ。俺以外にも、外界から森辺に移り住んだ方々はおられますけれど――でも、ティカトラスの目に、俺はどのような存在として映されているのでしょうか?」


 俺が思わずそんな風に問うてしまったのは、ティカトラスの明け透けな物言いについつい引きずられてしまったゆえなのかもしれなかった。

 ティカトラスは「そうだねぇ」と、いっそう愉快そうに目を細める。


「君の魂は、確かに唯一無二の色合いをしている。でも、わたしの目に映るのは……ただの森辺のかまど番、だね」


「ただの森辺のかまど番、ですか」


「うん。もちろん君は、森辺で随一の力量である料理人なんだろうけどさ。それでも、森辺のかまど番であることに変わりはない。ヴァルカスやダイアがどれだけ特筆すべき力量であろうとも、ジェノスの城下町の料理人であるように……君は、森辺のかまど番だ」


 そのように語るティカトラスの笑顔は、どこか普段とは質の異なる無邪気さをたたえているように思えてならなかった。


「だからこそ、君は大したものだと思えるのだよ、アスタ。たとえばシュミラル=リリンも立派な森辺の狩人であるのだろうけれども、彼には東の民としての気配が半分がた残されている。マイムやミケルといった人々も、また然りだ。しかし君は余人とまったく異なる魂の色合いをしながら、どこからどう見ても森辺のかまど番にしか見えない。そちらを歩くユン=スドラと君の間に感じるのは、せいぜい男女の差ぐらいであるのだよ。だからわたしは、君に対して特別な関心をかきたてられないのかもしれないけれど……別の視点で考えると、森辺の外で生まれた君がこうまで森辺の民らしく見えてしまうというのは、驚くべき話なのだろうね。だからきっと――」


 と、ティカトラスはそこで「うわあ!」と悲鳴をあげて、ひっくり返りそうになった。いつまでも後ろ向きに歩いていたものだから、路面のわずかな段差にけつまずいてしまったのだろう。しかしその背中は、デギオンの細長い腕でしっかりと支えられることになった。


「ティカトラス様、お気をつけください……間もなく『ギリ・グゥの広場』であるようです」


「おお、そうか!」と、ティカトラスは前方に向きなおる。

 それと同時に、ライエルファム=スドラが「ふむ」とうなった。


「また何か、おかしな声が聞こえてきたな。あれは……歌か? あるいは、祈りの声であろうか?」


「それはきっと、鎮魂の祈りだね! ただし! この世でもっとも美しい歌のひとつでもあると思うよ!」


 ティカトラスがそのように応じたが、やっぱり俺の耳では判別できない。往来は大変な賑わいであるため、まだ常人の耳で知覚できる距離ではないのだろう。

 そうして耳をすまそうとした俺は、かたわらのアイ=ファが横目で視線を送っていることに気づいて慌てることになった。


「ごめん。なんかついつい、ティカトラスの意見を聞きたくなっちゃったんだよ」


 アイ=ファはほんの少しだけ唇をとがらせながら、手の甲で俺の頭を優しく小突いてきた。

 ティカトラスにどう思われようと、俺は俺である――と、俺たちは城下町の祝宴において、そのように語らっていたのだった。


(でも、ただの森辺のかまど番なんて、俺にとっては一番うれしい言葉だな)


 そんな思いを抱えながら、俺は人混みを歩き続けた。

 その耳に、ようやくライエルファム=スドラの語っていたものが聞こえてくる。地を這うような、異国の言葉による詠唱である。


 俺たちは、『ギリ・グゥの広場』に到着したのだ。

 その場に足を踏み入れた瞬間――俺は思わず、息を呑むことになった。


 他の広場に負けない規模を有した『ギリ・グゥの広場』は、たくさんの人間によって埋め尽くされている。

 そしてその過半数は東の民であり、広場に響く詠唱は彼らの口から発せられていたのだった。


 どうも少し前から東の民の姿を見かけないように思っていたのだが、彼らはこの場に集結していたのだ。

 なおかつ、その場に集まった東の民のほとんどは、頭から黒い布をかぶっているようであった。


 そして広場の中央には大鴉の神輿が据えられており、その眼前に明々と巨大なかがり火が焚かれている。

 本来、地べたで火を灯すことは禁じられているため、この日は特別に許されることになったのだろう。それは森辺の祝宴の儀式の火にも負けないぐらい、巨大な炎の柱であった。


 東の民の人々は、その炎を取り囲んで重々しい詠唱を唱えている。

 そして、東の民ならぬ人々が列を為して、その炎に白い花を投げ入れていたのだった。


 ひっきりなしに白い花をくべられて、炎は天高く白い煙をのぼらせている。

 そうして人々は、魂を返してしまった大事な相手に花と思いを届けているのだ。

 きわめて異国的な節回しの詠唱と相まって、そこには現世とも思えぬ幻想的な空気が作りあげられていた。

 東の民たちによる詠唱は、地の底から響くような重々しさでありながら、とても流麗で、そっと優しく心を包み込んでくれるようなやわらかさをも備えていたのだった。


「……なるほど。東の行商人のほとんどは男性だし、ジェノスには鎮魂の祈りをわきまえている女性も存在しないというわけだね」


 そう言って、ティカトラスがかたわらのヴィケッツォを振り返った。


「では、ヴィケッツォがその穴を埋めてあげるといい」


「……わたしひとりで、この中に割り込めと仰るのでしょうか?」


「うん。これではギリ・グゥのもとまで祈りが届くかどうか、覚束ないところであるからね。それに、わたしもしばらくヴィケッツォの美声を聞いていなかったからさ」


 ヴィケッツォはひとつ息をついてから、背筋をのばして引き締まった腹部に両手を置いた。

 そしてその白く塗られた唇から、驚くほど優美な声音が解き放たれる。

 東の民たちの重厚な詠唱に、その美しい声音が乗せられて――おそらくは、それで冥神ギリ・グゥへの祈りが完成された。ヴィケッツォの妙なる声音はところどころ男性陣の詠唱と異なる節回しでありながら、完全無欠に調和していたのだった。


 ヴィケッツォはたったひとりであるというのに、男性陣に負けぬほどの鮮明さで声を響かせている。それは夜空を翔ける何かの翼のように優美でありながら、彼女本来の雄々しさと勇壮さで、力強く夜気を震わせていた。


「さあ、もしも鎮魂の花を携えてきているなら、炎にくべてくるといいよ。わたしとデギオンは、しばらくこの場から動けなくなってしまったからね」


 ティカトラスからそのようにうながされたアイ=ファは、しばし思案してから狩人の衣の隠しポケットをまさぐった。この習わしについても事前に聞き及んでいたので、アイ=ファはいちおう玄関の前に飾っていた三輪の花を持参していたのだ。

 厳粛なる手つきで包みを解いたアイ=ファは、その内の一輪を俺に差し出してくる。

 俺はそれを受け取ってから、ヴィケッツォの祈りに聞き入っているティカトラスに向きなおった。


「あの、ティカトラス。さっきの会話についてなのですが……最後に何か、言いかけていませんでしたか?」


「うん? そうだったかな? ……ああ、そうだそうだ。外界で生まれたはずの君が、こうまで森辺の民らしく見えるのは不思議だという話についてだったね」


 そう言って、ティカトラスはさきほどと同じように無邪気な笑みをこぼした。


「これはわたしの憶測にすぎないし、森辺の民は星読みに興味が薄いと聞いているから、大して実のある話だとは思えないかもしれないよ。それでも、聞きたいかね?」


「ええ、是非」


 ティカトラスはにっこりと笑いながら、その言葉を口にした。


「このまま君が森辺で暮らし続けていれば、いつかその魂も森の色に染めあげられて……いずれはアムスホルンの子としての星を授かるかもしれないなと、わたしはそのように考えたのだよ。だって君は、生粋の森辺の民ではないということが信じ難いぐらい、森辺の民らしく見えてしまうのだからさ」


 その言葉は、思いも寄らない勢いでもって、俺の心の真ん中に食い入ってきた。

 思わず言葉を失う俺に向かって、ティカトラスはひらひらと手を振ってくる。


「あくまで、わたしの想像だよ。そんな事例が存在するのかどうか、わたしは聞き及んでいないしね。そういう話を突き詰めたいなら、わたしではなくフェルメス殿と論じ合うべきだろうと思うよ」


「いえ……俺には、ティカトラスのお言葉だけで十分です。どうもありがとうございました」


「何もお礼を言われる筋合いではないさ。どうかわたしのような人間の言葉に惑わされることなく、君は立派な森辺の料理人を志してくれたまえ、アスタ」


 ティカトラスは、最後まで無邪気な笑顔であった。

 俺はそちらに一礼して、アイ=ファとともにきびすを返す。護衛の都合があったため、ライエルファム=スドラたちも同伴だ。そうして広場の中央を目指しながら、俺はアイ=ファに「ごめん」と謝っておくことにした。


「……私に詫びねばならんのなら、そのような行いはつつしむべきではないのか?」


 そう言って、アイ=ファはまた俺の頭を小突いてきた。

 ただその青い瞳には、悪戯な幼子を叱る母親のような光が浮かべられている。


「これでティカトラスに意に沿わない言葉を聞かされていたならば、私は大いに気分を害していたように思うぞ。そのように心得て、身をつつしむがいい」


「はい。家長の言葉を胸に刻みつけたく思います」


 俺が真面目くさった顔でそのように答えると、アイ=ファはくすりと笑いながら、もういっぺん俺の頭を小突いてきた。


 列に並んだ人々は、炎に白い花をくべると、しばらく白い煙を見上げてから引き下がる。けっこうな人出であったため、俺たちの順番が回ってくるまで数分ほどがかけられた。


 ライエルファム=スドラとユン=スドラ、ディアとチル=リムに付き添われながら、俺とアイ=ファは炎の前に立つ。

 炎のゆらめきの向こう側に見えるのは、冥神ギリ・グゥの黒い羽毛と青白い顔だ。

 屋台の前で拝見した際には、何の感情も感じられなかったギリ・グゥの顔であるが――オレンジ色の炎に照らし出される今の顔は、どこか穏やかに微笑んでいるように見えなくもなかった。


 そんな冥神の依り代に目礼を捧げてから、俺は一輪の花を炎に投じる。

 アイ=ファもまた、二輪の花を投じ入れた。


 小さな花は、炎の中で妖精のように身をよじらせつつ、あっという間に燃え尽きてしまう。

 俺はアイ=ファとともに、天までたちのぼる煙を見上げた。


 俺たちの手向けた花は、これで故人のもとまで届けられたのだろうか。

 俺はゆらゆらとたなびく煙の中に母親の面影を見出そうと試みたが、なかなか上手くはいかなかった。


 ただ、心の中にはくっきりと母親の姿が映し出されている。

 縁側に座って、幼い俺や玲奈が庭ではしゃぐさまを見守ってくれていた姿や――台所に立ち、夕食の準備をしてくれていた後ろ姿や――病の床で、俺と親父に優しく微笑みかけてくれた姿や――たった7年間でも、母親は俺にたくさんの思い出を残してくれていたのだった。


 そして俺は、他なる故人にも思いを馳せる。

 死の間際に穏やかな微笑をこぼしていた、テイ=スン――罪人として街道を引き立てられながら、呪いの言葉を吐いていたザッツ=スン――リフレイアの手によって、ギバ・スープを口にしていたサイクレウス――この世のすべてを憎悪しながら、断崖の底に身を投じたシルエル――いい思いも悪い思いも区別しないのが、この鎮魂祭の作法であるのだ。


(まあ……親父や玲奈にしてみれば、俺のほうこそが死人なんだろうけどな)


 引きつるような痛みを心の奥底に感じながら、俺は天に祈った。


(母さん。俺のことはいいから……どうか、親父や玲奈のことを見守ってあげてくれ)


 ヴィケッツォと東の人々の詠唱に心をくるまれながら、俺はアイ=ファとともに炎の前から退いた。

 アイ=ファは凛然とした面持ちで、口もとを引き結んでいる。ライエルファム=スドラも厳しい表情で、ユン=スドラはひそかに目もとをぬぐっていた。ディアとチル=リムはフードと襟巻きで表情を隠していたが、いつしかしっかりとおたがいの手を握っている。白い花を投じていない人々も、この時間に祈りを捧げていたようであった。


「……アスタ、今日はありがとうございました。わたしたちは、そろそろみんなのもとに戻ろうかと思います」


 広場の片隅にまで身を引くと、チル=リムがそのように言いだした。

 俺はとても静かな気持ちで、「うん」と応じてみせる。


「まだまだ名残惜しいけど……でもきっと、たったひと晩で気持ちを満たすことはできないんだろうね。復活祭では、またジェノスに来てくれるんだろう?」


「はい。座長たちは、そのように語らっていました。そのときに、またアスタと語らせていただけますか?」


「もちろんだよ。半月もあれば、たっぷり語らえるだろうしね。よかったら、ピノたちと一緒に森辺に招待させておくれよ」


 チル=リムは襟巻きをずらして、涙に濡れた笑顔をあらわにしてから、「ありがとうございます」と言ってくれた。

 ディアもまた、素顔をさらして俺たちを見回してくる。


「復活祭まで、せいぜいふた月ていどであるのだからな。それまで、息災でいるのだぞ」


「そちらこそな。再び会える日を心待ちにしている」


 アイ=ファが穏やかな面持ちで応じると、ディアは「うむ」と白い歯をこぼした。


「しかし、主街道に出るまでは行動をともにするべきであろう。あのおかしな貴族に挨拶をしてから、まずはそちらに戻ることにするか」


「そうだな。ティカトラスらも明日ジェノスを出立するならば、この夜の内に別れを告げておくべきであろう」


 そうして俺たちは、ティカトラスのもとを目指すことになった。

 その道行きで、俺はアイ=ファに語りかける。


「なあ、アイ=ファ。そろそろ森辺に戻らないか? この夜の内に、アイ=ファともっと語らっておきたいんだ」


 するとアイ=ファはこちらに顔を向け、「私もそう思っていた」と優しく微笑んでくれた。


 俺にはたくさんの大切な人々がいる。2日目の夜の商売を終えてから、ようやく鎮魂祭の何たるかを知り得た俺には、それらの人々の全員と語らうことなどとうていかなわないだろう。

 であれば、まずはアイ=ファと語らなくてはならない。きっとこの祝祭は、ジェノスにも森辺にもしっかりと根付くであろうから――来年には、もっとたくさんの人々と語らわなければならなかった。

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― 新着の感想 ―
[一言] うーん。ティカトラスとフェルメスが語り合えたら 仲良くなれそうなんやけどなぁ。 フェルメスが、自分の体調面や立場柄とかで動けないなら あちこち動き回るティカトラスから話をその都度聞くだけでも…
[一言] さすが公爵様 地方の原住民には礼すら必要ないのですね
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