黒の月の鎮魂祭⑥~思わぬ再会~
2022.6/18 更新分 1/1
ギバの丸焼きがふるまわれるのを見届けたのち、俺たちは森辺に帰還した。
そうしてひと息ついたならば、先行部隊とバトンタッチをして下ごしらえの作業開始だ。本日もフォウの集落のかまどの間をお借りして、そちらはユン=スドラに取り仕切ってもらうことになった。
何せ通常の5割増しから7割増しの数量であるのだから、作業量も格段に跳ね上がっている。しかし、手伝いを引き受けてくれたかまど番たちは、想定通りの働きを見せてくれていた。2回にわたる復活祭と数々の祝宴に関わることで、誰もが順当にスキルアップしているのだ。そこに祝祭の昂揚が重ねられて、かまどの間には昨日以上の熱気と活力があふれかえることになった。
そうして作業開始から、四刻後――下りの五の刻には、予定通りすべての下ごしらえを終えることができた。
『ギバ肉のマロマロ炒め』と『ギバの玉焼き』は5割増し、『ギバ・カレー』と『ギバのミソ煮込み』は7割増しの数量だ。
ちなみにルウ家は『ギバ骨ラーメン』が5割増し、マイム特製の『ギバの果実酒煮込み』が7割増し、『ギバと海鮮のカロン乳スープ』が8割増しの数量となる。『ギバ骨ラーメン』は特に下ごしらえが大変であるため、まだこちらよりはゆとりのあるルウ家で受け持ってもらうことになったのだった。
いっぽうディン家は現地で簡易的なクレープを仕上げつつ、作り置きの焼き菓子も同じ屋台で販売するのだと聞いている。その焼き菓子はここ最近で飛躍的にクオリティが向上したロールケーキのレシピを応用したものであり、ピーナッツに似たラマンパのクリームが内側に封入されているのだという話であった。
「それじゃあ、出発ですね。みなさん、最後までよろしくお願いします」
俺たちは勇躍、宿場町を目指すことになった。
泣いても笑っても、鎮魂祭は残り半日である。もしもこの祝祭が森辺の民の気風には合わないと見なされたならば、これが最初で最後の参加になる可能性もあるわけだが――とにかく俺たちは目の前の仕事に力を尽くして、しかるのちに祝祭の全容を見届けるしかなかった。
宿場町の往来は、昨晩以上にわきかえっている。
この日中でまた新たな人々が押し寄せてきたのか、あるいは宿場町の領民がこれまで以上に姿を現しているのか――何にせよ、大量に準備した料理が売れ残る恐れはないようだった。
扮装をしている人々の数も、心持ち増えたように感じられる。いずれもモノクロームのいでたちをした冥界の住人たちは、この夜もぞんぶんに狂騒を繰り広げていた。
「よう。今日は俺たちも、5割増しの料理を準備できたからな。ルウ家のらーめんとどっちが先に売り切れるか、競争だ」
《キミュスの尻尾亭》で合流したレビは、笑いながらそんな風に言っていた。
まあ、ラーメンというのは調理のスピードアップが難しい献立であるし、2種のラーメンを出しても行列が途切れることはないと復活祭で立証されているため、同じ数量を準備したなら同じていどの刻限に売り切れることだろう。それでもそんな軽口が飛び出すぐらい、レビも気合が入っているわけであった。
「昨日は食堂も大変だったんだろう? レビたちは、きちんと眠れたのかな?」
「ああ。夜通し騒ぐってのは、今日が本番なんだろ? さすがに普段よりは遅くまで粘る客もいたけど、どうってことないさ」
若いレビはもちろん、ラーズも杖をついて歩きながらにこにこと笑っている。彼らは彼らで《キミュスの尻尾亭》のために力を尽くせることが嬉しくてならないのだろう。俺たちは同じだけの昂揚と活力を胸に、街道を進むことができた。
街道では、この時間からもう笛や太鼓を鳴らしている人々の姿が見受けられる。中にはずいぶん演奏の達者な人々がいたため、きっと数多くの旅芸人も集まっているのだろう。ただし、そういう人々はのきなみ冥界の住人の扮装をしているため、まったく正体は知れなかった。
そうして街道を進んでいくと、ますます往来は賑わっていく。日没までにはまだ半刻以上も残されているはずであるのに、大変な賑わいだ。合計で9台もの屋台を押している俺たちは、なかなか思うように進むこともできなくなるほどであった。
「なんだよ。俺たちはまだ屋台を出してもいないってのに、すいぶん端のほうまで賑わってるんだな。何か面白い見世物でもやってんのか?」
レビがそのような言葉をもらしたとき、アイ=ファがハッとした様子で視線を頭上にあげた。
「アスタよ、あれは――」
アイ=ファがそのように言いよどむのは、非常に珍しいことだ。それで慌ててその視線を追った俺は、声をあげることもできないまま立ちすくむことになった。
茜色に染まりつつある天空に、奇妙な影が浮かびあがっている。
7、8メートルはあろうかという細くて長い棒の上に立ち、横笛を吹いている小さな人影――その哀切なる笛の音が、周囲の喧噪をするするとかいくぐって、俺の耳をふわりと撫でていったような心地であった。
距離が遠いために、俺には黒い影法師にしか見えない。
しかし、あんな見事な芸を体得している人間は、この世にそうそう存在しないはずであった。
そして――ふいに横合いから飛び出してきた人影が、俺にいっそうの驚きをもたらしたのだった。
「アスタ……おひさしぶりです」
その人物は、震える声でそう言った。
俺の胸ぐらいまでしか届かない、小さな少女である。
フードつきのマントを纏い、玉虫色に輝くヴェールで顔の上半分を覆ったその少女は、そのきらめきの向こう側から一心に俺の顔を見上げているようであった。
「こら。勝手にひとりで動くなと言ったろう。まったく、こらえ性のないやつだ」
と、新たな人影が少女を追ってくる。そちらの人物も幼子のように小柄で、フードつきマントと襟巻きで人相を隠していたものの、俺がその声を聞き違えるわけはなかった。
「ディア! ディアなんだね? それじゃあやっぱり、こっちのこの子は――」
「そいつは、チルだ。氏は隠すことになったので、お前たちもそう呼んでやるがいい」
後から現れたほうの少女が襟巻きを首のほうにずらしながら、そう言った。
山猫を思わせる金色の瞳に、小さな鼻と大きな口、そして両方の頬に刻みつけられた火傷の痕――かつて聖域の民であった、《守護人》のディアである。ディアは俺とアイ=ファの顔を見比べながら、にっと白い歯をこぼした。
「どちらも息災なようで、何よりだ。しかしまずは、チルとの再会を祝ってやるがいいぞ」
ではやはり、こちらの少女がチル=リムであったのだ。
俺が呆然としながらそちらに向きなおると、チル=リムは胸の前で祈るように手を合わせた。
「アスタ、申し訳ありません……わたしはいったい、どのようにお詫びをすればいいのか……」
「え? チ、チル=リムはいったい、何を謝っているんだい?」
俺がそのように応じると、ディアが「こら」と眉を吊り上げた。
「チルは氏を隠すことにしたのだと言ったろうが? 念のために、出自が自由開拓民であることを隠すことになったのだ」
「あ、ああ、ごめん。でも、どうしてチルが俺に謝らないといけないのさ?」
「それは道中で、ジェノスを見舞った災厄について聞き及んだからだな。ジェノスは邪神教団の一派に報復されることになったのであろう?」
ディアのそんな説明で、俺もようやく察することができた。ジェノスを襲撃した邪神教団の一派というのは、そもそもチル=リムをさらった連中の本隊であったのだ。その連中はチル=リムを邪神教団の本拠に連れ去ろうとする道行きで、ジェノスに滞在することになり――そこで全滅の憂き目にあったのだった。
「そんなの、チルが気にすることじゃないよ。悪いのはみんな君を連れ去ろうとした邪神教団の連中だって、あのときに言っただろう?」
周囲の耳をはばかって、小声でそんな風に言いながら、俺は身を折ってチル=リムと目線の高さを合わせた。
玉虫色にきらめくヴェールの向こう側で、白銀の瞳が涙に濡れている。そのしずくを霧散させるために、俺は心からの笑顔を届けることになった。
「無事に再会できて嬉しいよ。《ギャムレイの一座》の人たちに受け入れてもらうことができたんだね? ……おめでとう、チル」
チル=リムは涙を消すどころか、さらに大粒のしずくをぽろぽろとこぼしながら、こらえかねた様子で俺に抱きついてきた。
その小さな手が、俺の首をぎゅっと抱え込んでくる。その温もりが、俺をいっそう温かい気持ちにしてくれた。
「チルはもう10歳だが、このていどのふれあいは許してやるがいいぞ」
ディアがすました顔でそのように言いたてると、アイ=ファは「わかっている」と不満げに応じてから、ふっと眼差しをやわらげた。
「しかし、この夜にお前たちと再会できるとは思ってもいなかった。そちらも息災なようで嬉しく思っているぞ、ディアよ」
「うむ。ディアたちはついさっき、ジェノスに到着したところであったのだ。ジェノスで鎮魂祭が行われると聞き及び、ピノたちも大慌てでトトスや岩蜥蜴を走らせることになったわけだな」
ディアがそのように応じたとき、レビが「なあ」と呼びかけてきた。
「事情はよくわからねえけど、ようやく進めるようになったみたいだぜ。積もる話は、屋台を押しながらにしたほうがいいんじゃねえか?」
町の人々には、チル=リムとディアにまつわる話も伝えられていないのだ。特に、邪神教団に誘拐された自由開拓民の少女というものは、シムに追放されたという体裁が取られていたのだった。
「ああ、うん、そうだね。でも、ディアたちがいるってことは――」
そこで「おおい」という呑気な声が届けられてきた。
人混みをかきわけて、ひょろひょろした人影が近づいてくる。さらにその後に続く小柄な人影に気づいて、レビが「あっ!」と声をあげた。
「レイト! いつジェノスに戻ってきたんだよ! ミラノ=マスたちは、首を長くして待ってたんだぜ?」
「はい。ずいぶん遅い帰りになってしまいました。でも、《守護人》として生きるというのは、そういうことですので」
レイトは年齢にそぐわぬ大人びた微笑みとともに、そのように答えた。
そしてその主人たる人物は、俺とアイ=ファのほうに「やあやあ」と笑いかけてくる。
「ひさしぶりだねぇ、アイ=ファにアスタ。どちらも元気なようで、何よりだ。本当はあちらで待っていようかと思っていたのだけれど、レイトの辛抱が切れてしまったので《キミュスの尻尾亭》に向かうところだったのだよ」
金褐色の髪に、紫色の瞳、カマキリのように痩せこけた顔に、ひょろりとした長身痩躯――言うまでもなく、《守護人》のカミュア=ヨシュである。
「ひさしいな、カミュア=ヨシュよ。しかしこの場で立ち話というのは、通行の邪魔になってしまうようだ。我々は、所定の場所に向かおうかと思う」
「おお、半年ぶりの再会だというのに、つれないことだね! ……でも、アイ=ファに再会できた喜びが、いっそう実感できたようだよ」
カミュア=ヨシュはにんまりと笑いながら、レイトのほうを振り返った。
「それじゃあ俺はアスタたちと合流するから、レイトだけでも《キミュスの尻尾亭》に向かったらどうかな? あまりに忙しいようだったら、そのまま仕事を手伝ってあげたらいいよ」
「ええ。それでは、そうさせていただきます」
そうしてレイトが立ち去ろうとすると、レビが大慌てで「あっ!」と声をあげた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! その前に、言っておかなきゃいけないことがあるんだけど……えーと、その……俺、テリアと婚儀をあげたんだ!」
レイトは変わらぬ微笑をたたえたまま、レビを振り返る。
レビはひとつ咳払いをして、ぴんと直立の姿勢を取った。
「レイトはテリアの弟みたいなもんだから、本当は婚儀を見届けてもらいたかったんだけど……でも、ちょっと事情があって、早々に婚儀をあげることになっちまったんだ。でも俺、必ずテリアを幸せにしてみせるから――」
「そうですか。ジェノスを離れていたのは僕の都合なのですから、どうぞお気になさらず」
レイトは何事もなかったかのように一礼して、そのまま風のように立ち去ってしまった。
レビは「うー」とうなりながら、両手で頭をひっかき回す。
「まいったなぁ。あとでじっくり話をさせてもらわねえと……よりにもよって、こんな刻限に帰ってきちまうとはなぁ」
「しゃんとしろよ。レイトがお嬢さんの弟みたいなもんだったら、お前さんは兄代わりになるってこったろ。弟のご機嫌をうかがう兄なんざいるもんかい」
ラーズは顔をくしゃくしゃにしながら、息子の背中を引っぱたいた。
レビたちにとっても、レイトの帰還というのはそれだけ大ごとであったのだ。俺はしみじみとした思いを噛みしめながら、まだ俺の首に抱きついているチル=リムの華奢な肩を叩くことにした。
「とりあえず、向こうに移動しようか。今はあんまり時間が取れないけど、これまでの話を聞かせておくれよ」
「はい……」と身を離したチル=リムは、まだ大粒の涙をこぼしていたが――その口もとには、幸福そうな微笑みがたたえられていた。
玉虫色にきらめくヴェールごしでも、その白銀の瞳が澱みなく輝いているのが見て取れる。この数ヶ月間、チル=リムは星見の力に脅かされることもなく、健やかに過ごすことができていたのだろう。そんな風に考えると、俺まで涙をこぼしてしまいそうだった。
◇
その後、何とか所定のスペースまで辿り着いた俺は、鉄板の温めをフェイ=ベイムにお願いしてから、チル=リムたちとあらためて再会の挨拶を交わすことになった。
「そっか。それじゃあチルたちは、ドゥラっていう地で《ギャムレイの一座》と会うことができたんだね」
「はい。そのときも、海賊を相手に大変な騒ぎになってしまったのですが……みなさんのおかげで、事なきを得ることができました」
チル=リムたちがジェノスを出立したのは、雨季のさなかとなる赤の月だ。それから半年以上もかけて、チル=リムたちはジェノスに戻ってきたのだった。
「しかし、いまだにディアたちが行動をともにしていたのは、意想外であったな。お前たちの役割は、チルを《ギャムレイの一座》に託すことであったのであろう?」
アイ=ファの問いかけに「まあな」と答えたのは、また襟巻きで人相を隠したディアである。
「ディアはチルが落ち着くまで様子を見たかったし、どうせ行くあてもない身であったので、しばらく行動をともにしようと考えたのだ。カミュア=ヨシュがどういう思惑であったのかは、知らない」
「やだなぁ。俺だって、同じ気持ちだよ。そもそも彼女を《ギャムレイの一座》に託そうと発案したのは俺なのだから、それなりの責任というものが生まれるはずだろうしねぇ」
にまにまと笑いながら、カミュア=ヨシュはそう言った。
「まあ、《ギャムレイの一座》とともにあれば、退屈するいとまもないしね。ニーヤなんかは、たいそう居心地が悪そうだったけどさ」
「それで、復活祭まではまだ間があるので、その前にひとたびだけでもジェノスに立ち寄っておこうという話になったのです。その道中で、鎮魂祭について聞き及び……大急ぎでこの夜に駆けつけることになりました」
ようやく人心地のついたらしいチル=リムが、そんな風に説明してくれる。
そんな中、通りの向こうではまだ《ギャムレイの一座》が芸を見せていた。ピノとドガの曲芸に、笛や太鼓の演奏である。《ギャムレイの一座》の半数ぐらいは、それで元気であることが知れた。
「ただ、奇妙な噂を聞いたのだけれども……今のジェノスには、ダーム公爵家のティカトラス殿が滞在されているのかい?」
カミュア=ヨシュの言葉に、アイ=ファが表情を引き締めた。
「そうだ。あやつはこの夜も、屋台に顔を見せることであろう。あやつにチルの姿を見られることは、避けるべきであるやもしれんな」
「いやいや。ティカトラス殿の眼力をもってしても、彼女の正体を見抜くことなどできないだろうさ。ただ、清き心を持つ自由開拓民の少女だな、と思われるぐらいじゃないかな」
その返答に、アイ=ファはいっそう鋭い面持ちとなった。
「カミュア=ヨシュよ。お前はもしや、ティカトラスと見知った仲であるのか?」
「うん。ダームのお屋敷に、何度かお招きされたことがあるよ。あれはなかなかの傑物だよねぇ」
飄々と笑いながら、カミュア=ヨシュはそう言った。
「ティカトラス殿は、今もデギオンとヴィケッツォだけをお供にしているのかな? ヴィケッツォがどのような姿で鎮魂祭に参じているのか、楽しみなところだねぇ」
「……ティカトラスは、カミュア=ヨシュともいささかならず似たところがあるようだな」
「あっはっは。森辺の民にしてみたら、少々あつかいにくい御仁であるのかな? だけどまあ、チルに関しては心配いらないよ。それよりも、かつて聖域の民であったディアのほうに目を奪われるだろうさ。……あとはきっと、《ギャムレイの一座》の面々にもね」
そうしてカミュア=ヨシュは、優しげな眼差しでチル=リムのほうを見た。
「だから君は安心して、アスタとの再会を楽しむといいよ。明日の朝には、もうお別れなのだからさ」
「え? チルたちは、たったひと晩でジェノスを出立してしまうのかい?」
俺が驚きの声をあげると、チル=リムは申し訳なさそうに「はい」とうなずいた。
「今回は、無事な姿をお見せすることが目的でしたので……夜が明けたら、出立する手はずになっています」
「そっか。それじゃあ、仕事が終わったら一緒に宿場町を見物しようよ。今日は俺たちも、夜通しで鎮魂祭を見物する予定になってるからさ」
「え、でも……ご迷惑ではないですか?」
「迷惑なことなんて、ひとつもないよ。なあ、アイ=ファ?」
「うむ。ディアさえかたわらにあれば、護衛役を増やす必要もなかろうからな」
アイ=ファもまた、優しい眼差しでそう言ってくれた。
チル=リムはまた涙を溜めながら、「ありがとうございます」と一礼する。
「では、アスタたちはこれから仕事なのですよね? わたしもあちらに戻って、自分の仕事を果たそうかと思います」
「うん。また会えるのを楽しみにしてるよ」
「はい。アスタたちが商売を始めたら、その料理を買うのもわたしの仕事となりますので」
チル=リムはとても穏やかな微笑を残して、ディアとともに立ち去っていった。
それらの小さな背中を見送ってから、アイ=ファはふっと息をつく。
「チルは以前よりも、よほど元気になったようだ。きっともともとは、無邪気で朗らかな気性であったのであろうな」
「うん。《ギャムレイの一座》を見つけ出すまでの間でも、彼女はどんどん元気を取り戻していったよ。それはきっと、アスタやアイ=ファたちが希望を与えてくれたからさ」
ひとりその場に居残ったカミュア=ヨシュは、ジバ婆さんのように透き通った眼差しでそう言った。しかしアイ=ファは、「うむ?」とうろんげな視線を返す。
「チルに希望を与えたのは、カミュア=ヨシュであろう? そちらが妙案をひねり出していなければ、チルはシムで孤独に過ごすことになったのであろうからな」
「いやいや。アスタやアイ=ファが彼女の力に恐れをなさず、きちんとひとりの人間として扱ってくれたからこそ、彼女は生きる希望を取り戻すことができたのだよ。そうでなければ、どのような妙案も台無しだったはずさ」
無精髭の浮いた下顎を撫でさすりながら、カミュア=ヨシュはそのように言葉を重ねた。
「ともあれ、彼女は《ギャムレイの一座》の面々とも確かな絆を結ぶことができた。今はライラノスのもとで力の制御を学んでいるさなかだし、もう何の心配もいらないよ。……しかもジェノスと森辺の精鋭が、邪神教団の一派を殲滅してくれたというのだろう? それならもう、彼女の存在が邪神教団の目を引く恐れもない。万事解決というわけさ」
「うむ。しかし、チルの存在は王都の人間にも知られてはならないはずだ。本当に、ティカトラスの目を警戒する必要はないのだな?」
チル=リムが《ギャムレイの一座》に預けられたという事実を知るのは、ごく一部の人間――別れの晩餐に立ちあった、俺とアイ=ファとサウティの血族、そしてプラティカとアリシュナのみであるのだ。マルスタインやフェルメスにさえその事実は知らされていないのだから、アイ=ファが用心するのも当然のことであろう。
しかしカミュア=ヨシュはいつもの陽気な眼差しに戻って、「うん」とうなずいた。
「あの御仁は、人の本質を見抜くことに長けているけれどね。チルの本質は清き心の自由開拓民に過ぎないのだから、何も心配はいらないよ。星見の力なんて、チルという人間の本質とは関わりのない、ひとつの技能に過ぎないのさ」
「そうか。カミュア=ヨシュがそのように言うのなら、信じよう。……アスタも安心して、自分の仕事を果たすがいい」
「うん、了解。それじゃあカミュアも、またのちほど」
俺は屋台に舞い戻り、フェイ=ベイムと合流した。
「どうもすみません。こんな大事な日に、仕事をお任せしてしまって」
「いえ。鉄板を温めるぐらいのことで、そうまで詫びられる理由はありません」
そんな風に語りながら、フェイ=ベイムは真剣そのものの面持ちである。これから始まる大仕事に、闘志を燃やしているのだろう。
「それにしても、《ギャムレイの一座》までやってくるとは思ってもいませんでした。相変わらず、見事な芸であるようですね」
「ええ、まったくです」
人垣の向こう側に、大男のドガの頭が覗いている。それに時おり、ピノの纏った朱色の装束の袖がひらひらと舞いあげられていた。他の旅芸人たちと異なり、彼らは冥界の住人の扮装をしていないのだ。
ほどなくして、すべての屋台から準備が完了したという言葉が伝えられてくる。
そうして商売を開始すると、昨晩以上の人波が押し寄せてきた。《ギャムレイの一座》が客寄せをしてくれたために、そこには膨大な数の人間が集まっていたのだ。
しばらくは、俺たちもその対応に忙殺される。俺の担当は『ギバ肉のマロマロ炒め』であったため、本日もひたすら料理を焼きあげるのが役割だ。
それから半刻ぐらいは猛烈な勢いでラッシュが続き、その真っ最中に大鴉の神輿が出現した。日没となり、鎮魂祭が正式に開始されたのだ。
今日の俺は、その神輿を検分するゆとりもない。それぐらいの客足であった。
それから四半刻ほどが過ぎて、ようやく少しばかりは客足が落ち着いたかという頃合いで――ついに、《ギャムレイの一座》の面々が屋台にやってきたのだった。
「アスタ、ご無沙汰だったねェ。でも今回は、1年足らずでお会いすることができたけどさァ」
ただ喋っているだけで歌っているように聞こえる、独特の声音が響きわたる。
人形のように精緻な面立ちで、どこか妖艶なる雰囲気を纏った、謎の童女――軽業師の、ピノである。血のように赤い唇に妖しい微笑をたたえつつ、ピノは芝居がかった仕草で一礼した。
そしてそのかたわらには、大皿を抱えたチル=リムが静かに控えている。それで俺が挨拶を返そうとすると、ピノが機先を制してきた。
「そちらサンは仕事の最中なんだから、仰々しい挨拶は不要だよォ。この賑わいじゃあ、ナイショ話も難しいしねェ」
確かに屋台ごしでは、あまり込み入った話もできないだろう。チル=リムの素性については、厳重に秘匿しなければならないのである。
「そうですね。でも、思いがけずお会いすることができて、とても嬉しく思っています。そちらの新人さんも、他の方々とうまくやれているようですね」
「あァ、コイツはいずれライ爺から星読みの芸を引き継ぐだろうから、どうぞひいきにしてやってくださいなァ」
ピノはくつくつと笑いながら、チル=リムの頭を気安く小突いた。
しかしその気安さこそが、何よりの喜びである。チル=リムもまた、ヴェールの下で幸福そうに微笑んでいるようであった。
他の面々は、手分けをして他の屋台に並んでいるようだ。とりあえず、巨体のドガと長身のディロの頭が人垣から覗いている。なおかつ、カミュア=ヨシュの金褐色の頭もちらちらと見えていた。
「とりあえず、その料理は7人前ぐらいいただいておこうかねェ。まだまだ夜は長いから、腹ごしらえをしておかないとさァ」
「承知しました。今日は天幕を張らないのですね」
「あァ、たったひと晩のために天幕をおったてるのは、割に合わないからねェ。座長やらシャントゥ爺やらゼッタやらは、役立たずの無駄飯喰らいさァ」
およそ9ヶ月ぶりの再会だというのに、ピノは相変わらずの調子だ。しかしもともと年に1度しか顔をあわせない間柄であったため、俺としても懐かしいようなそうでもないような、なんとも取り止めのない心地であった。
「でも……こういう祝祭には、やっぱり《ギャムレイの一座》のみなさんが必要ですね。ようやく最後の物足りなさが埋められたような心地です」
俺がそのように言いたてると、ピノは「あァら嬉しい」と目を細めて微笑んだ。
その笑顔には、彼女が滅多に見せないあどけなさのようなものがにじんでいて、俺をいっそう満ち足りた気持ちにしてくれたのだった。




