黒の月の鎮魂祭⑤~二日目の朝~
2022.6/17 更新分 1/1
明けて翌日――黒の月の10日である。
その日の朝、普段よりもゆるやかな感覚でまぶたを開いた俺は、思わず「うわあ」と寝ぼけた声をあげることになった。それは何故かと問うならば、枕もとに座ったアイ=ファがじっと俺の顔を見つめていたためである。
「……人の顔を見るなりそのような声をあげるのは、いささかならず礼を失した行いではないか?」
「い、いや、アイ=ファのほうこそ、なんで黙って座り込んでるんだよ? 先に起きたんなら、声をかけてくれればいいじゃないか」
「昨日は普段よりも、数刻ばかり遅く眠ることになったのだからな。朝方はそれほど仕事も立て込んではいないという話であったので、お前が自然に目覚めるのを待っていたのだ」
そのように語るアイ=ファは、すでにきっちりと髪を結いあげている。そして、片方の膝を抱え込むようにして座りながら、何だかとても満ち足りた面持ちであった。
「そ、それはお気遣いありがとう。……えーと、俺はどれぐらい寝坊をしたのかな?」
「大した時間ではない。まだ日が出てから、せいぜい四半刻ていどであろうな」
「……四半刻も、俺の寝顔を眺めていたのか?」
「うむ。そのていどの時間では、見飽きることもなかったぞ」
そうしてアイ=ファが幸せそうに微笑むものだから、俺は朝から心臓を騒がせることになってしまった。
かくして鎮魂祭の2日目は、きわめて甘やかな空気の中でスタートを切ったわけである。
◇
アイ=ファの言う通り、その日の朝方はさして仕事も立て込んでいなかった。この日は復活祭の祝日と同じように、宿場町でギバの丸焼きを振る舞ってほしいという依頼を受けていたため、もともとの屋台は休業であったのだ。
なおかつ、ギバの丸焼きに関しては、ルウ家に取り仕切り役をお任せしていた。森辺においてはこの近年ですべての氏族がギバの丸焼きを作りあげられるようになっていたため、族長筋たるルウ家の取り仕切りのもと、小さき氏族が中心となってその依頼をこなすことになったのである。
その実働部隊に選ばれたのは、ルウの血族たるムファ、マァム、そして、ダイ、ラッツ、ガズ、ベイム、ラヴィッツを親筋とする氏族となる。ギバの丸焼きには時間がかかるため、それらの氏族の当番たちはほとんど朝一番で宿場町に向かったはずであった。
よって、そちらの任務から外れた俺に、確たる仕事はない。これは初めての祝祭であるのだから、不測の事態に備えて午前中はまるまる身を空けておくことにしたのだ。
そして俺は、その時間をまんまと不測の事態への対処に当てることになった。本日の夜には昨晩以上の料理を準備するつもりであったため、そちらの下ごしらえに関わる氏族の人々に作業時間の延長と人員の補強をお願いしなければならなかったのである。
昨晩は普段の5割増しの料理を準備したのに、けっきょく半分がたは二刻足らずで売り切ることになってしまった。作り置きが可能な料理は、7割増しでも二刻で売り切ることが可能であろう。なおかつ、もともとは2割増しの分量で挑むつもりであったのだから、作業量は格段に増えてしまうわけであった。
しかし幸いなことに、いずれの氏族においても作業時間の延長と人員の補強を快諾してくれた。彼女たちはただ手伝い賃を得ることが目的ではなく、ギバ料理の美味しさを世間に広めるという一大事業に尽力しているのだ。その活動こそが生鮮肉の価値をも高めて、ゆくゆくは自分たちの豊かな生活に繋がるのだということを、誰もがしっかりと理解しているのだった。
「それじゃあ、先行部隊の作業開始は上りの五の刻、後続部隊の作業開始は上りの一の刻ということで。ご面倒をおかけしますが、どうぞよろしくお願いします」
「了解しました。どうぞおまかせくださいな」
そのように応じてくれたのは、先行部隊の取り仕切り役であるランの家長の伴侶であった。前回の収穫祭で取り仕切り役を任された際にはずいぶん不安そうにしていたものであるが、この9ヶ月間ですっかり鍛えられたのだろう。普段の昼下がりの下ごしらえなどは、この人物とバードゥ=フォウの伴侶に取り仕切り役を任せる機会が多かったのである。
そうして無事に手配を済ませた頃には、もう上りの四の刻が近づいている。買い出しのついでで宿場町の様子をうかがうつもりでいた俺は、再びあちこちの集落を巡って同行を希望したメンバーを集めることになった。
同行を希望したのは、ユン=スドラ、レイ=マトゥア、マルフィラ=ナハム、トゥール=ディンという、いつもの顔ぶれとなる。常勤組はみんな後続部隊に配属されているため、この時間は手が空いているのだ。トゥール=ディンも、菓子の準備は午後からの作業開始で十分に間に合うのだという話であった。
ただやっぱり、この時間でも護衛役は必要であろうということで、それと同数の狩人が付き添うことになる。けっきょく荷車は2台に分けて、俺はディンおよびスドラの面々と同じ荷車に乗り込むことになった。
「トゥール=ディンも、昨日はお疲れ様だったね。城下町のほうは、どうだった?」
アイ=ファが運転するギルルの荷車に揺られながら、俺はそのように尋ねてみた。
疲れの色など微塵も見せずに、トゥール=ディンは「はい」と微笑をこぼす。
「わたしたちは、屋外の庭園という場所でほとんど過ごしていたのですけれど……やっぱり屋外というだけで、ずいぶん趣が違っていたように思います」
「そっか。オディフィアも、鎮魂祭を楽しめていたのかな?」
「はい。オディフィアも白い精霊の姿をしていて、とても可愛らしかったのです」
そんな風に言ってから、トゥール=ディンは慌てて言葉を付け加えた。
「それに、エウリフィアがオディフィアの祖母について語ってくださったり、ゼイ父さんが母のことを語ってくれたりしたので、わたしもオディフィアもとても満ち足りた気持ちを抱くことができました」
「オディフィアの祖母っていうと、つまりはマルスタインの伴侶のことだよね。どこかで肖像画を見た覚えがあるけど、たしかアブーフのお生まれだったんだっけ?」
「はい。灰色の瞳というのは、アブーフの地に多いそうですね。その御方は瞳の色ばかりでなく、内面までもがメルフリードに似ていたそうです。とても厳格でありながら、その内には温かい心を秘めていて……マルスタインは若かりし日にアブーフまで出向いて、ひと目で見初めてしまったそうですよ」
アブーフというのはジェノスからひと月がかりの地であるという話であるのだから、きっとそこには大きなロマンスがあったのだろう。アブーフからジェノスに嫁ぐというのは、ジェノスから王都に嫁ぐのと同じぐらい大ごとであるはずであった。
「わたしは母の顔を知りませんし、オディフィアも祖母と顔をあわせた覚えはないそうです。でも、エウリフィアやゼイ父さんが色々なことを語ってくれたので、とても身近に感ずることができました。……鎮魂祭というのは、いいものですね」
トゥール=ディンは、心から幸福そうな面持ちでそう言った。
が、俺やユン=スドラたちが思わず顔を見合わせてしまったため、「あ、あれ?」と慌てた顔になってしまう。
「も、申し訳ありません。わたしは何か、おかしなことを言ってしまったでしょうか?」
「いやいや、謝る必要はないよ。俺たちは商売の忙しさにかまけて、まだ鎮魂祭の何たるかを実感できていないみたいなんだよね」
「そ、そうだったのですか。わたしばかり呑気なことを語らってしまって、申し訳ありません」
「だから、謝る必要はないってば。ただ、宿場町と城下町だと、いささか趣が違っているのかもね」
どうも城下町においては扮装や宴料理を楽しみつつ、故人についてしんみり語らう時間が設けられていた様子である。しかし昨晩の宿場町に、そういった気配を感ずる余地は皆無であったのだった。
「今日はわたしも宿場町で商売に取り組む予定ですので、アスタたちと同じものを感じたく思います」
根が真っ直ぐなトゥール=ディンは、まだいくぶん申し訳なさそうな顔でそのように言っていた。
それを安心させるために、俺は「うん」と笑ってみせる。
「商売の後は、宿場町を巡る予定だしね。宿場町のみんながどんな風に鎮魂祭を楽しんでいるのか、しっかり見届けよう」
そんな言葉を交わしている間に、荷車は宿場町に到着した。
街道は、今日も大いに賑わっている。ただし、扮装は夜からと定められているため、黒い布をかぶっているのは我慢のきかない幼子たちのみであった。
それに、復活祭の祝日は屋台の商売を行わないのが定例であるが、鎮魂祭にはそのようなしきたりも存在しない。ただ、ギバやキミュスの丸焼きが振る舞われるため、料理の屋台が自粛しているのみだ。他の行商人たちは、ここぞとばかりに店を出して商売に励んでいる様子であった。
それらの賑わいを検分しながら、俺たちはまずドーラの親父さんの露店を目指す。そちらでは、親父さんとターラがいつもの笑顔で待ってくれていた。
「やあ、いらっしゃい。みんな、昨日はお疲れ様だったね」
「はい。親父さんも、朝の仕事が大変だったんじゃないですか?」
「いやいや。昨日はこの主街道をぶらついただけで、さっさと帰っちまったからさ。本番は、今日だしな」
親父さんの言葉に、ターラが「うん!」と元気いっぱいにうなずく。言うまでもなく、ターラはリミ=ルウたちと夜の宿場町を巡る約束をしていたのだ。
「ダレイムに戻ってからは、いかがでした? 何か鎮魂祭らしい趣は感じられましたか?」
「いやぁ、俺はとっとと眠っちまったんで、趣もへったくれもなかったなぁ。女房なんかは妹の家まで出向いて、亡くなった親たちを偲んでたらしいけどさ」
そう言って、親父さんは苦笑した。
「俺たちにみたいに宿場町を冷やかして、さっさと帰っちまうような人間が、一番なんにもわかってないのかもしれないね。今日はじっくり腰を据えて、宿場町の騒ぎを見守ってみようと思うよ」
「それなら、俺たちと一緒ですね。おたがい頑張りましょう」
「はは。祝祭を頑張るってのも、なんだかおかしな話だけどな。……でも、森辺のお人らはそうやって復活祭を検分してたんだろうから、俺たちもそれを見習おうと思うよ」
この祝祭が、自分たちに馴染むのかどうか。ティカトラスが最初に宣言していた通り、ジェノスの民は誰もがそれを自らの目で見定めるべきであるのだ。なかなか大変な試みであるが、ドーラ家の人々と同じジェノスの民として苦労や喜びを分かち合えるのは、喜ばしい限りであった。
「それじゃあ、野菜をお願いします。内容は帳面に書き記してきました」
「おやおや、予定よりもずいぶん大量だね! それだけ屋台も盛況だったってわけだ」
陽気に笑いながら、親父さんは野菜を袋に詰めていく。2割増しの予定であった料理が7割増しに変更されたのだから、追加分の食材もそれ相応であったのだ。
「アスタたちのおかげで、ほとんど売り切れになっちまったね。よかったら、ターラをご一緒させてくれないか? もうそろそろ、ルウ家の人らもやってくるんだろう?」
「ええ。中天の二刻前ぐらいに来るはずですね。それじゃあ、一緒に行こうか?」
「うん!」と大きくうなずいて、ターラが街道のほうに飛び出してきた。そしていきなりアイ=ファの手をぎゅっと握ったものだから、我が愛しき家長は目を白黒とさせる。
「な、何であろうか? 私は、ルド=ルウではないぞ?」
「ターラはもう10歳になったから、森辺の男の人にはあんまり触っちゃいけないんでしょ? だから、アイ=ファおねえちゃんと手をつなぐの!」
「ああ、悪いね。祭の間は、ひとりでちょろちょろしないように言いつけてるんだよ」
親父さんは笑いながらそんな風に言っていたが、アイ=ファは困惑の面持ちだ。すると、心優しきユン=スドラがターラのほうに手を差し伸べた。
「ターラ。アイ=ファは護衛役であるため、自由の身でいなければならないのです。よければ、わたしが手を引きましょう」
「あ、そうなの? ……どうもありがとう」
と、ターラはちょっともじもじしながら、ユン=スドラの手を取った。ユン=スドラよりもアイ=ファに対するほうが遠慮なく振る舞えるというのは、なかなか楽しい現象である。ともあれ、アイ=ファはほっと息をつくことになった。
そんな感じで、ターラを加えた7名は荷車を引きながら露店区域の最北端を目指す。その途中で、ミシル婆さんや香草の露店におもむいていたマルフィラ=ナハムたちも合流した。そちらの護衛役は、本日もラヴィッツとガズの長兄たちだ。
昼から酒をあおっている人間も少なくはないため、狩人たちはマンツーマンでかまど番に付き添ってくれている。それに、この時間の人出は復活祭よりもまさっているようだ。復活祭では、もっと中天が近づいてから賑わうのが通例であった。
「やはり町の者たちは、ぞんぶんに浮かれているようだな。親父殿に聞いていた通りだ」
マルフィラ=ナハムのかたわらに控えるラヴィッツの長兄が、にやにやと笑いながらそのように言いたてた。昨日は家長たるデイ=ラヴィッツが宿場町に下りていたため、彼が現在の宿場町を目にするのはこれが初めてであるのだろう。
「夜はこれとも比較にならないぐらいの賑わいですよ。半分ぐらいの人たちが、冥界の住人の扮装をしていますしね」
「ふふん。来年には、俺たちも黒い布をかぶってやろうなどと思うのだろうかな」
それはまったく、想像の外である。
ただ、アイ=ファがヴィケッツォのような格好をしていたら、いったいどれだけ人目を引いてしまうだろうと、俺はそんな埒もない妄想を浮かべることになってしまった。
そうして歩を進める内に、ギバ肉の焼ける芳しい香りが漂ってくる。それが人を集めているのか、街道を進むほどに混雑の度合いが増していった。これではドーラの親父さんも、ターラをひとりで行動させられないわけである。ギバの丸焼きがふるまわれるのはまだ二刻以上も先のことであるのに、往来には期待の念があふれかえっているようであった。
「おや、アスタ。お早いお着きだったねぇ」
俺たちが露店区域に辿り着くと、タリ=ルウが穏やかな笑顔で出迎えてくれた。本家の姉妹たちは屋台の商売を受け持っていたので、この時間の取り仕切り役にはタリ=ルウが任命されていたのだ。
「どうもお疲れ様です。これはひさびさの壮観ですね」
俺たちの借り受けた所定のスペースには、7台の屋台が並んでいる。ギバの丸焼きを作りあげるための架台は森辺に7台しか存在しないため、それを総動員しているのだ。架台を設置した屋台には、1台ずつに2名から3名の女衆が配置されて、ギバの丸焼きの作製に勤しんでいた。
「去年の復活祭ではわたしやマルフィラ=ナハムも習う側であったのに、今では屋台の当番がひとりも参じないまま、この仕事をやりとげられるようになったんですものね! なんだか、感慨深く思います!」
レイ=マトゥアの言葉に、俺は「そうだね」と笑顔を返してみせる。
「それも、レイ=マトゥアたちがギバの丸焼きの作り方を普及させてくれたおかげだよ。俺なんかはあの日以来、ほとんど誰にも手ほどきしていないはずなんだからね」
「あはは。森辺では、それだけギバの丸焼きが好まれているということです」
現在の森辺において、ギバの丸焼きは定番の宴料理である。それでも架台が7台しか存在しないのは、すべての氏族で使い回しているためであるのだ。そんな風に調理器具を共有財産とするのも、これまでの森辺では見られなかった行いであるはずであった。
また、この仕事はジェノス首脳部からの依頼であるため、もちろん手間賃が発生する。ファとルウが実働部隊から外れたのは、そういう富を他なる氏族に分配するためという意味合いもあった。
とりあえず俺たちは、野菜を積んだ荷車を裏手のスペースに置かせてもらう。
そうしてひと息ついたところで、ルウ家の見届け役を乗せた荷車も到着した。その数は、2台だ。
「ターラ、お待たせー!」と、荷台から飛び出したリミ=ルウが親友に抱きついた。さらにその後から、車椅子を抱えたジザ=ルウとジバ婆さんを背負ったルド=ルウも登場する。車椅子に座したジバ婆さんは、くしゃくしゃの顔でアイ=ファに笑いかけてきた。
「アイ=ファたちも、もう来ていたんだねぇ……鎮魂祭というやつは、どんなもんだい……?」
「うむ。私はまだ、正しく見定められていない。ただ、復活祭よりも用心が必要であることは確かなようだ」
優しい眼差しになりながら、厳しい言葉を口にするアイ=ファである。
ジバ婆さんは「そうかい……」と目を細めて微笑んだ。
「あたしは昨晩、ずっとドンダたちと語らっていたんでねぇ……魂を返しちまった家族たちについて、じっくり語らうっていうのは……なかなか悪くない気分だったよ……」
「そうか。町には下りず、家族たちと語らうほうが、森辺の民の気風に合うのやもしれんな」
「どうだろうねぇ……あたしはこの夜に、町の様子を見届けたく思うよ……」
「やはりジバ婆も、町に下りることを許されたのか?」
アイ=ファの問いかけに、ジザ=ルウが「うむ」と答える。
「ただし、4人の狩人が片時も離れぬという取り決めでな。それだけ用心をしておけば、最長老が危険に見舞われることはあるまい」
「そうか。ジザ=ルウらがともにあれば、危険はあるまいな」
アイ=ファは真剣な面持ちで、ジザ=ルウは内心の読めない柔和な面持ちで、それぞれ重々しくうなずいた。
その間に、他の人々もぞろぞろと荷台を降りてくる。ジザ=ルウが参じていたのでドンダ=ルウの姿はなかったが、普段はめったに宿場町に下りることのないミーア・レイ母さんや、ダン=ルティムにガズラン=ルティム、ララ=ルウにシン=ルウ、ラウ=レイにヤミル=レイといった人々の姿も見受けられた。
「おお、お前と森辺の外で出くわすのは、邪神教団の討伐以来だな」
と、いつの間にか俺のそばにいたラヴィッツの長兄が、笑いを含んだ声をあげる。それと相対するのは、分家の若き家長たるディグド=ルウだ。
「ラヴィッツの長兄か。俺が森辺の外に出るのはあれ以来なのだから、それも当然の話であろうよ」
「ああ、お前は外界に興味が薄いという話だったな。それでも今日は、重い腰をあげることになったわけか」
「ふん。わざわざ夜にまで出向く気にはなれなかったので、日の高い内に護衛の役目を受け持っただけのことだ」
古傷だらけの顔で勇猛に笑いながら、ディグド=ルウはそう言った。
そのとき、往来から盛大な歓声がわきおこる。ついに上りの五の刻となって、城下町からキミュスの肉と果実酒の樽が届けられたのだ。
キミュスの肉は宿屋の屋台に届けられ、果実酒の樽は向かいの無人のスペースに積み上げられる。何もかもが、復活祭と同じ段取りであった。
果実酒が到着したために、往来はいっそうわきかえっていく。そして、ダン=ルティムやラウ=レイもそちらに飛んでいった。彼らは護衛役ではなく、町の様子を見届けつつ人々と交流を深めるのが役割であるのだろう。ジバ婆さんの周囲には、ジザ=ルウとルド=ルウ、ディグド=ルウとシン=ルウという強力なメンバーが居揃っていた。
「確かにこれは、復活祭に負けない賑わいであるようですね。行商人の数は、復活祭のほうがまさっているように思いますが……そのぶん、宿場町の住人が数多く姿を見せているようです」
ガズラン=ルティムが、穏やかな口調で語りかけてくる。
同じ賑わいを眺めながら、俺は「そうですね」と答えてみせた。
「昨日の夜なんかはずいぶん東の方々が多く見受けられたのですが、今はほとんど姿が見えませんね」
「はい。シムにおいて、鎮魂祭は夜にのみ祝われるそうです。東の民は、そちらの習わしに従っているのではないでしょうか? ……ああ、もちろんこれは、フェルメスの受け売りです」
「なるほど。昨晩は、フェルメスとぞんぶんに語らうことができたのですか?」
「はい。城下町にいるほとんどの時間を、フェルメスと過ごしていたように思います」
あくまで穏やかな面持ちで、ガズラン=ルティムはそう言った。
「フェルメスは、鎮魂祭をあまり好んでいないようです。本人いわく、魂を返した家族たちに思いを馳せても、自分の非情さを思い知らされるばかりだとのことでした。……フェルメスはあまり、家族に恵まれなかったようですね」
「そうですか。森辺の外では、そういう話も珍しくはないのかもしれませんね」
「はい。……アスタは、大丈夫ですか?」
意表を突かれた俺は一瞬きょとんとしてから、「ええ」と笑ってみせた。
「俺は、家族に恵まれていました。もっと親孝行したかったなぁという思いがつのるばかりです」
「そうですか。私も、同様です」と、ガズラン=ルティムは限りなく優しい面持ちで微笑んだ。彼もまた、すでに母親を亡くしている身であるのだ。
「だから私は、フェルメスの苦しみを理解することができませんでした。家族を愛することができないというのは……いったいどれだけの苦しみなのでしょうね」
「それは俺にもわかりません。でもきっと、ガズラン=ルティムと一緒にいるだけで、フェルメスの苦しみはやわらげられたと思いますよ」
「そうであれば、幸いなのですが……でも、どうでしょうね。フェルメスに必要なのは、私のように無作法な人間ではなく……新たな家族であるのかもしれません」
「新たな家族というと、伴侶ですか。それは、いい出会いを待つしかないようですね」
「ええ。私やアスタのように、幸福な出会いがあればいいのですが」
そんな風に言ってから、ガズラン=ルティムは珍しくも慌てた顔をした。
「申し訳ありません。今のは口がすべっただけで、決してアスタたちを冷やかしたわけではないのです。……アイ=ファもどうか、ご容赦ください」
「……そのように詫びられても、返答に困るだけなのだが」
もちろんアイ=ファはぴったりと俺に付き添ってくれていたので、今の会話も丸聞こえであったのだ。結果、アイ=ファは顔を赤くしながら、罪もない俺の足を蹴っ飛ばすことに相成ったわけであった。
「しかし、フェルメスはそれほどに消沈していたのか? 私には、あまり想像がつかぬのだが」
アイ=ファが気を取り直した様子でそう言うと、ガズラン=ルティムは「いえ」と応じた。
「フェルメスは、そういった苦しさを表に出そうとはしません。苦しさを隠しているわけではなく、自分は苦しんでなどいないと信じているかのようで……それがいっそう、痛々しく思えるのです」
「あやつはヴァルカスの料理のように、入り組んだ心をしているようだからな。しかし……まずはジェムドがそばにあれば、孤独に苛まれることはないのではないだろうか?」
「ああ、確かにフェルメスとジェムドは、家族のごとき絆で結ばれているようですね。昨晩も、ジェムドは兄のような目でフェルメスを見守っていました」
「うむ。沈着な兄に、奔放な弟といった様相だな」
そんな風に言ってから、アイ=ファは少し離れた場所にたたずんでいるララ=ルウを振り返った。
「それで、他の貴族たちはどうだったのであろうか? オディフィアたちと語らっていたトゥール=ディンは、鎮魂祭の意義というものをそれなりに感じたようであるのだが」
「んー、なになに? 昨日の城下町について? ……そうだねー。けっこう人それぞれだったと思うよ。ただ馬鹿騒ぎしてるだけの人間も多かったけど、中にはぽろぽろ涙を流してる娘なんかもいたしねー」
「ほう。涙をこぼすほどに、亡くした家族に思いを馳せていたということか?」
「うん。家族に限らず、友とか想い人とかね。そういう大事な相手を亡くしたことのある人間は、やっぱり心持ちが違うんじゃない? あたしなんかは、分家の家人の弔いにしか居合わせたことはないけど――」
と、ララ=ルウはいくぶん心配そうにジバ婆さんのほうを見やった。
ジバ婆さんはやわらかい面持ちで、往来の喧噪を見物している。
(そうか。きっとジバ婆さんほどたくさんの家族を亡くした人間は、他にいないんだろうな)
ジバ婆さんは、すでに87歳という年齢であるのだ。親や兄弟はもちろんのこと、子供の世代までのきなみ亡くしているのかもしれない。実際に、ララ=ルウの祖父にあたる人物や、ガズラン=ルティムの祖母にあたる人物など、俺が知るジバ婆さんの実子はすでに魂を返してしまっているのだった。
(これだけたくさんの孫や曾孫や玄孫に囲まれていたら、さぞかし幸福な気持ちだろうけど……それと引き換えに、ジバ婆さんはたくさんの子供たちに先立たれることになっちまったんだ)
俺がそんな風に考えていると、鋭い表情で眼差しだけをやわらかくしたアイ=ファが耳もとに口を寄せてきた。
「森辺でもっとも長き生を過ごしているジバ婆は、誰よりも多くの喜びと悲しみをともに抱えているのであろう。我々は、ジバ婆により多くの喜びをもたらせるように力を尽くせばよいのだ」
当然のことながら、アイ=ファは俺が考えつくことなどとっくの昔に想定済みであるのだろう。
それを嬉しく思いながら、俺は「そうだな」と笑顔を返してみせた。
そうして鎮魂祭の2日目の朝も、きわめて騒々しく過ぎ去っていったのだった。




