六氏族の合同収穫祭⑥~正しき絆~
2022.5/30 更新分 1/1
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しばらくすると、ティカトラスにおつかいを頼まれたデギオンが奇妙ものを抱えて舞い戻ってきた。
それを目にしたラウ=レイは、「ふむ?」といぶかしげに首を傾げる。
「それは、刀なのか? しかし、鋼を持ち出すことは禁じられているはずだな」
「これは剣士が稽古で使う、袋剣というものだよ! こうして刀身が革の袋に包まれているから、そのように趣のない名をつけられたのだろうね!」
確かにそれはまぎれもなく刀剣の形状をしていたが、刀身はすっぽりと革の袋に包まれていた。細長い柄と丸い鍔だけは、金属で造られているようだ。
「この袋の内に収められた刀身は、丈夫でよくしなる樹木の板が束ねられている! これならばそうそう折れることはないし、身を打たれても大きな手傷を負うことはあるまい! むろん、鍛えていない人間であれば、それだけで相当の痛手であろうがね!」
「ふむ。奇妙なものを見せられるものだ。王都の剣士というものは、これで剣の修練を積んでいるというわけか?」
「うむ! デギオンやヴィケッツォが道中でも稽古をできるように、我々もいつも荷車に積んでいるのだよ!」
デギオンが運んできた袋剣の数は、4本だ。その1本を受け取ってぶんぶんと振り回したラウ=レイは、「ふむ」と瞳を輝かせた。
「やはり軽さが気になるが、グリギの棒よりは本物の刀に似た感覚であるようだ。これで、どのように勝負をつけるのだ?」
「勝負の取り決めはさまざまだが、まともに身を打たれたら敗北というのが、もっともわかりやすいのではないのかな? 森辺の狩人であれば、誰もが審判を務められそうなところだしね!」
「面白い! それでお前たちと勝負をできるのなら、俺が相手をしてやろう!」
すると、俺たちの背後でうずうずしていたらしいレム=ドムも進み出た。
「だったら、わたしもお願いしたいわね。女の剣士というものがどれほどの力量であるのか、ずっと気になっていたのよ」
その場には、すっかり昂りの気配が満ちてしまっていた。たまたまそばにいた狩人たちも、いったいどのような勝負になるのかと期待している様子であるのだ。
すると、ヴィケッツォがいかにも不満そうな面持ちで主人に提言した。
「ティカトラス様。本当に我々が剣技の勝負に取り組むことをお望みなのでしょうか? 森辺の狩人というのは、いずれも並々ならぬ力量をお持ちであるのですから……それではこの夜にティカトラス様をお守りする力が損なわれてしまうかと思われます」
「だったら今日は他の方々に便乗して、城下町まで戻ってしまえばいいさ! そうすれば、この夜は安全に過ごせるだろうからね!」
そんな風に言ってから、ティカトラスは悪戯小僧のように微笑んだ。
「それとも、たった一夜の勝負だけで、明日にも響くほどの痛手や疲労を負ってしまう恐れがあるのかな? それなら、わたしも考えをあらためざるを得ないだろうねぇ」
珍しくも、ティカトラスがヴィケッツォを挑発したのだ。ヴィケッツォはアンズ形の目を半分だけまぶたに隠しながら、デギオンの抱えた袋剣の1本を取り上げた。
「では、ひとつだけ取り決めを加えていただきたく思います。徒手による殴打や投げの攻撃は禁じ手としていただけますでしょうか? 森辺の狩人の膂力で殴打されれば、明日どころか永久に警護の任務を果たすことも難しくなる恐れがありましょう」
「あくまで、剣技だけを競うというわけだね! ラウ=レイたちは、いかがであろうかな?」
ラウ=レイは喜色満面で「かまわんぞ!」と返事をする。
そこで沈着な声をあげたのは、ダリ=サウティだ。
「ラウ=レイよ。これは6氏族の収穫祭であるのだ。これまでになかった余興に取り組もうというのであれば、取り仕切り役たるディンの家長の了承を得るべきであろうよ」
「おう、そうだったな! ではまた俺が、了承を取りつけてきてやろう! アイ=ファ、ヤミルのことは頼んだぞ!」
ラウ=レイは、脱兎のごとく駆け出していった。
広場の中央では、すでに余興の力比べが始められているのだ。それらの合間をすいすいと縫って、ラウ=レイは儀式の火の前にたたずむディンの家長のもとを目指した。
「まったくラウ=レイというのは、我慢のきかぬやつだな! まあ、俺もあやつと同じ齢であったなら、同じように振る舞っていたところであろうよ!」
ダン=ルティムがガハハと笑い声を響かせると、ティカトラスは笑顔でそちらを振り返った。
「つまり、君はヴィケッツォたちとの勝負に興味が持てないということなのかな?」
「うむ! そやつらも大層な力量であるのであろうが、勝負の見えている力比べに興味はわかんな!」
そんな風に言ってから、ダン=ルティムは明るく力強い眼差しでヴィケッツォたちのほうを見た。
「ただし……それが生命をかけた勝負であったなら、俺も死力を尽くすことになろう。俺たちは、お前さんたちほど人を斬ることに手馴れていないのでな」
そういえば、かつて王都の武官たるダグと対峙した際にも、ダン=ルティムはそのような言葉を口にしていたのだ。
ヴィケッツォは半眼のまま黒い瞳を爛々と燃やし、デギオンは落ちくぼんだ目を陰気に光らせている。ダン=ルティムの言葉にどのような思いを抱いたのか、やはり外面から推し量ることは難しかった。
そして長い時間を待つことなく、ラウ=レイが駆け足で戻ってくる。その明るい表情で、もう返事の内容は察することができた。
「ディンの家長から、了承をいただいてきたぞ! 剣の勝負には広い場所が必要であろうから、あちらの力比べが終わるのを待てとのことだ!」
「やれやれ。とんだ騒ぎになってしまったな」と、敷物でくつろいでいたゲオル=ザザが身を起こした。
「では、俺が審判というものを務めてやろう。剣の勝負については、他の連中よりも手馴れているのでな」
「ふむ。そういうお前は、勝負に挑まんのか? 今日は邪魔くさい甲冑などを纏わずに勝負できるのだぞ?」
ラウ=レイの言葉に、ゲオル=ザザはふてぶてしく「はん」と鼻を鳴らした。
「レイの家長が敗北するようなら、考えよう。今日は力比べに興じるよりも、酒と料理を楽しみたい気分なのでな」
「それならきっと、出番は回ってこなかろう! では、あちらで出番を待つことにするか!」
ラウ=レイとレム=ドムとゲオル=ザザが、広場の中央に歩を進めていく。ヴィケッツォとデギオンはまだ主人から身を離すことを渋る様子を見せていたが、それでも最後には追従していった。
菓子の置かれた台を背後に、俺たちは並んでそちらの様子をうかがう。俺のそばにいるのはアイ=ファとシュミラル=リリン、ダリ=サウティ、フェルメスとジェムド。少し離れて、ティカトラスとララ=ルウ、ガズラン=ルティムにダン=ルティムという顔ぶれだ。ヤミル=レイは肩をすくめながら、トゥール=ディンたちの座した敷物のほうに引き下がっていった。
「そういえば、以前はジェムドとシン=ルウが余興で剣技の試合を行っていましたよね。ジェムドから見ても、あのおふたりは相当な手練れなのでしょう?」
「ええ。わたしなどは、デギオン殿にもヴィケッツォ殿にも遠く及ばないかと思われます」
ジェムドは落ち着いたバリトンの声で、そのように答えてくれた。
しかし、シン=ルウはジェムドを相手に勝利を収めていたものの、篭手の下にいくつものミミズ腫れを負っていたのだ。ジェムドはそれだけの手練れであるのだから、それを上回る力量というのは相当なはずであった。
(狩人の剣はギバを斬るものであり、剣士の剣は人を斬るものだって、さんざん取り沙汰されてたもんな。ラウ=レイたちは、本当に大丈夫なんだろうか)
俺がそんな風に考えている間に、もともとの力比べが終了したようだった。
そちらの結果に歓声をあげていた人々が、ラウ=レイたちの姿に新たな歓声を響かせる。ラウ=レイはファの家に逗留することでこの近在に勇名を馳せていたし、レム=ドムもザザの力比べでは的当ての勇士となっているのだ。それに加えてデギオンとヴィケッツォがついにその力量を見せるのかと思えば、否応なく期待をかきたてられるのだろう。
そんな人々に見守られながら、ゲオル=ザザとディンの家長を含む6名が何やら語らっている。何か細かいルールの確認でもしているのだろうか。さらにゲオル=ザザは4本の袋剣を1本ずつ手に取って、何か不正な細工がないかを確かめることも忘れていなかった。
「いやあ、胸が躍るねぇ! ヴィケッツォもデギオンもそれぞれ美しい剣技を修めているので、皆もぞんぶんに堪能してくれたまえ!」
ティカトラスは、ひとりでうきうきとはしゃいでいる。いっぽうアイ=ファは凛々しい無表情であったが、その青い瞳には苦々しげな光がたたえられていた。
「なあ。アイ=ファだったら、この勝負をどう予想する?」
「……初めて目にする取り決めの勝負であるのだから、確たることは言えん。その身に備わった力の通りに勝敗が決せられるのなら……ラウ=レイが勝ち、レム=ドムが敗れることになろう」
ではやはり、デギオンたちは勇者の力を持つ狩人には力及ばず、それ以外の狩人には勝利できるという見込みであるのだ。外界の剣士としては、それで十分な力量であるはずであった。
「ではこれより、剣技の力比べというものを始める! 我々にとっては馴染みのない内容であるが、どうか血を流すことなく勝負をつけてもらいたい!」
ディンの家長がそのように宣言すると、いっそうの歓声がわきたった。
ディンの家長はそのまま審判を務めるらしく、ラウ=レイとデギオンのそばに控える。レム=ドムとヴィケッツォの勝負を見守るのは、ゲオル=ザザだ。
「では、始め!」
ディンの家長の合図で、4名はそれぞれの対戦相手と剣先をタッチさせた。そういう挨拶も、事前に習い覚えることになったのだろう。
そうしてひとたび剣先をあわせたのち、ラウ=レイとレム=ドムは素早く後方に退いた。やはり初めて行う形の勝負であるため、いきなり突きかかったりはしないようだ。
デギオンとヴィケッツォは、それぞれ油断なく剣を構えている。デギオンは下段で、ヴィケッツォは中段だ。かつて闘技会で見たメルフリードやレイリスのように、それは美しい立ち姿であった。
ラウ=レイとレム=ドムも剣を構えているが、デギオンたちのように型は定まっていない。それがいかにも、剣術ならぬ野良の兵法といったたたずまいである。
そうして両名は申し合わせたように、対戦相手の周囲を回り――ほとんど同時に、大きく踏み込んだ。
狩人の身体能力が発揮された、鋭い踏み込みである。
だが、ふたりの剣は相手のもとまで届かなかった。
デギオンはラウ=レイが接近するより早く、右手1本に持ち替えた剣を真っ直ぐに突き出し、ヴィケッツォはふわりと動かした剣でレム=ドムの攻撃を受け流してみせたのだ。
ラウ=レイは相手の攻撃をかわすために横合いへ跳びすさり、攻撃を受け流されたレム=ドムは反撃をくらわないようにそのまま突進して距離を取った。
人垣からは、どよめきがわきおこる。ラウ=レイたちの鋭い動きと、それに対応してみせたデギオンたちの技量に感服した様子だ。
そしてそこから、ふたつの勝負はまったく異なる様相を呈した。
デギオンとヴィケッツォが、それぞれ異なるタイプの剣技を披露したのだ。
鋭い突き技でラウ=レイの接近をはばんだデギオンは、その後も突き技を連発した。彼は190センチばかりの長身であり、なおかつ腕も長かったため、かなりのリーチ差が生じていたのである。そんなデギオンがフェンシングのように突き技を繰り返すと、さしものラウ=レイもうかうかと近づけなくなってしまったのだった。
いっぽうヴィケッツォは、完全に待ちの姿勢である。レム=ドムがどれだけ攻撃を繰り出しても、それを刀身で絡め取るようにして受け流してしまうのだ。レム=ドムは女衆の見習い狩人なれども町の人間とは比較にならぬほどの膂力を有しているはずなのだから、これは驚くべき話であった。
そして、俺は――そんなデギオンとヴィケッツォの剣技を、美しいと感じていた。
機械のような正確さで剣を突き出すデギオンも、ふわりふわりと宙を舞うように剣を振るうヴィケッツォも、どこか優雅で、演舞のごとき華やかさを有していたのだった。
ラウ=レイぐらいの瞬発力であれば力ずくでどうにかできそうに思えるのに、デギオンの剣技がそれを許さない。ラウ=レイが突き技をかわして接近しようとしても、デギオンはすぐさまそちらの方向に剣先をひるがえして行く手をはばむのだ。デギオンの剣は機械のように正確なだけでなく、用心深い蛇のようにも感じられた。
ヴィケッツォのほうはもう足の運びからして優雅そのものであるが、やっぱり剣先が生き物のようにのたうって、レム=ドムの攻撃をしなやかに受け流してしまう。剣士と狩人の勝負ではままあることだが、マタドールと闘牛さながらであるのだ。それにしても、レム=ドムは森辺の狩人としても十分に俊敏なほうであったのだから、驚くべき手腕であった。
いつしか広場には、本番の力比べにも負けないほどの歓声がわきたっている。
そんな中、最初に勝負が決せられたのは、レム=ドムとヴィケッツォのほうであった。
レム=ドムの猛攻を受け流したヴィケッツォが、そのまま剣を旋回させて、レム=ドムの左肩をぴしりと打ったのだ。
ゲオル=ザザが「それまで!」と宣言し、人々はいっそうの歓声を振り絞った。
そしてそれを追いかけるように、ラウ=レイたちの勝負も決せられる。
こちらで勝利したのは、ラウ=レイだ。どうしても相手に接近できないラウ=レイは、正面を向いたまま数メートルほど後ずさり、助走をつけておもいきり跳躍してみせたのだった。
たったそれだけの助走で、ラウ=レイの身は2メートル近くの高さに浮かびあがる。
デギオンはすぐさま横合いに跳んで、ラウ=レイの攻撃をやりすごそうとした。ラウ=レイは空中であるのだから得意の突き技で狙い放題のはずだが、何らかの危険を察知したのだろう。
そうして何事もなく着地したラウ=レイは、その反動を利用して横合いのデギオンに跳びかかった。
今度こそ、デギオンは突き技で迎え撃つ。
ラウ=レイは横殴りの斬撃でデギオンの剣を打ち、それと同時に逆の方向に横回転した。そうしてデギオンの剣が弾かれた間にスピンして、今度はデギオンの胴体を横殴りで斬りはらってみせたのだった。
「それまで! ……王都の客人に、怪我はなかっただろうか?」
「ええ……もう半歩ほど深く踏み込まれていたなら、あばらを折られていたやもしれません」
デギオンは陰気な声で答え、ラウ=レイは大きく息をついた。
「剣だけの勝負とは、なかなかに厄介なものだな! しかし、楽しかったぞ、デギオンよ! 次は勝ち残りで、俺とヴィケッツォか!」
「いえ。このような勝負を連続で行っていたら、身がもちません。休息を要求いたします」
ヴィケッツォはラウ=レイの姿を鋭くにらみつけてから身をひるがえし、俺たちのほうに戻ってきた。デギオンもまた誰にともなく一礼し、それに続く。そんな両名を、ティカトラスは満面の笑みと拍手で出迎えた。
「どちらも美しい剣技であったよ! デギオンは、惜しいところであったね!」
「何も惜しくはありません……あのラウ=レイという御方に、単身で勝てる見込みはありませんでしたので」
「わたしも、それは同様です。毒の武具をもちいても、相討ちに持ち込めるかどうかといったところでしょう」
ヴィケッツォの物騒な物言いに、ティカトラスは高笑いを響かせる。そこに、ラウ=レイとレム=ドムも舞い戻ってきた。
「ティカトラスよ! そちらのふたりが休んでいる間に、袋剣というものを貸してもらえないだろうか? 他の狩人たちも、剣の勝負というものにたいそう興味を引かれたようだ!」
「どうぞどうぞ! 狩人同士で剣の勝負を行うのなら、それもまた見逃せないところだね!」
ラウ=レイは4本の袋剣を抱え込み、また広場の中央へと駆け戻っていく。剣の勝負に、すっかり夢中になってしまっているようだ。
そしてレム=ドムは闘争心と感嘆の思いが入り混じった面持ちで、ヴィケッツォにあれこれ質問を飛ばしている。ヴィケッツォはたいそう迷惑そうな様子であったが、それも有意義な交流の一環であるはずであった。
「森辺の方々は強き力を持つ人間に関心をお持ちでしょうから、これでまた絆が深まりそうなところですね」
フェルメスはいつの間にか手にしていた酒杯で赤い果実酒を揺らしながら、そんな風に言いたてた。それほど楽しそうな様子ではなかったので、俺はまた笑顔を届けてみせる。
「まあ、絆が深まるのは何よりです。俺たちも、それに負けないように励みましょう」
「おや。アスタは僕なんかに関心を抱いてくれるのですか?」
「嫌だなぁ。今日のフェルメスは、ちょっと子供に戻ってしまっているようですよ」
俺の言葉に、フェルメスはちょっと甘えるような微笑を覗かせた。
「そうかもしれませんね。きっと僕の中には、ティカトラス殿に対する妬みの気持ちというものが存在するのでしょう」
「ええ? さっきも言った通り、ティカトラスもそこまで全面的に受け入れられているわけではないと思いますが……」
「森辺の民との関係性についてだけではありません。僕は……本当であれば、ティカトラス殿のように生きたかったのでしょう」
思いがけない言葉を聞かされて、俺は思わず口をつぐんでしまった。
フェルメスは果実酒で可憐な唇を湿してから、また微笑する。
「ティカトラス殿は、ご自分の足で大陸中を駆け回っておられます。僕が書物で読みあさったものを、その目で見て、その耳で聞き、その肌で感じているのです。それを妬ましく思うのは、それほど不思議な話ではないでしょう?」
「はあ……フェルメスも、本当はご自分の足で大陸中を見て回りたかったのですか?」
「もちろんです。ですが僕には、そのような体力も財力もありません。……僕はもともと、幼い内に魂を返すだろうと言われていたぐらい、病弱な人間であったのですよ。『賢者の塔』の医術士たちが新たな薬を開発していなければ、こうして生き永らえることもかなわなかったでしょう。そんな僕が大陸中を駆け巡ろうというのは、夢のまた夢であるのです」
フェルメスはどこか陶然としているようにも見える眼差しで、そのように言葉を重ねた。
「でも僕は、そんな人生に不満を持ったりはしていませんでした。書物に没頭するだけで、僕は大陸中を駆け巡っているような心地であったのです。でも、僕は……この地でアスタと巡りあうことによって、書物では得られない幸福感を味わわされてしまいました。書物の中にしか存在しないと思っていた伝説の存在に、生身で触れ合えるという幸福感です。それは僕にとって、かけがえのない思いであるのですが……でもきっと、そこから生まれる執着心が、アスタやアイ=ファを不快にさせてしまうのでしょうね」
「いえ、決して不快だなんてことは――」
「いいのです。アスタを伝説の存在としてではなく、生身の人間として愛することが、僕にとっての命題であるのでしょうからね」
フェルメスはくすりと笑いつつ、俺から身を遠ざけた。
「確かに今日の僕は、あまり普通ではないようです。またいずれ、ゆっくり語らせてください」
そんな言葉を残して、フェルメスは立ち去ってしまった。
ダリ=サウティは俺の肩をぽんと叩いてから、その後を追っていく。ジェムドは最初からフェルメスにぴったりと寄り添っていたため、そこには俺とアイ=ファとシュミラル=リリンだけが残されることになった。
「……フェルメスは、まだあんまり調子がよくないみたいだな」
「うむ。病みあがりでティカトラスを迎えることになり、調子を乱しているのやもしれんな」
俺たちがそんな言葉を交わしていると、当のティカトラスがずかずかと近づいてきた。
「おや、フェルメス殿は行ってしまわれたのかな? まあ、フェルメス殿は剣技や闘技に興味をお持ちではないようだからね!」
そんな風に語らいながら、ティカトラスは台に置かれていたロールケーキやスイート・ノ・ギーゴを次々と口に放り入れた。その間も、きらきらと輝く目は狩人たちの勝負に向けられている。
「うんうん! やはり剣術を習得していない狩人の剣技というものは、野性味にあふれかえっているね! まるで剣が、獣の牙か爪であるかのようだ! ……これはやっぱり、わたしの推測が当たっていたのかなぁ」
「推測?」
「うん! ひょっとしたら森辺の民には、聖域の民の血が入っているのじゃないかと、そんな風に推測していたのだよねぇ」
俺は思わずアイ=ファと顔を見合わせてしまったが、ティカトラスはかまわずに語らい続けた。
「もちろん王国の民も聖域の民も、もとをただせば同じ大陸の民だけどさ。600年も隔絶されていれば、それぞれ異なる進化を遂げるのが必定だろう? 以前にちらりと拝見した聖域の民たちは、明らかに王国の民と異なる魂の輝きを放っていた。森辺の民にはそれと似た輝きが宿されていると、常々そのように考えていたのだよね」
「もしかしたら……最初に森辺を訪れたときからですか?」
「それはそうさ。ユン=スドラもトゥール=ディンも、レイ=マトゥアもマルフィラ=ナハムも……アスタを除く全員が、同じ輝きを備え持っていたからね」
ふたつ目のロールケーキをかじりながら、ティカトラスはそのように言いたてた。
「それでもって、森辺の民というのは聖域のすぐ近くで暮らしている。だからこれは、聖域を捨てた民たちが山麓で新たな民として生まれ変わったのかなと思ったのだけれども……よくよく考えたら、森辺の民は80年ていどの昔に移住してきた身であったのだよね。でも、そこで思い出したのが、ジャガルの辺境に伝わる伝承だ。ジャガルにはかつてふたつの聖域が存在したが、その片方は遥かな昔日に滅んでしまったという話であったのだよね」
「…………」
「そしてさらに、わたしはシムの伝承をも思い出した。かつて雲の民と呼ばれていた一族が、シムを捨ててジャガルに移り住んだという伝承だ。数々の苦難を乗り越えて、ジャガルに新たな故郷を見出した彼らの物語は、吟遊詩人の歌としても残されている。そこで彼らは白き女王の一族というものと巡りあうわけだけれども……もしもそれが聖域の民たる白の民であれば、ジャガルの伝承ともぴったり一致するのだよね。聖域の民が王国の民を受け入れたならば、それはすなわち聖域の滅びと称されるのだろうからさ」
「……『黒き王と白き女王』の物語は、俺たちも知っています」
「おお、そうなのか」と、ティカトラスは口もとをほころばせた。
「しかしまあ、それとて数百年前の伝承であるからね。今さら証の立てようはないし……何にせよ、森辺の民は聖域の民に負けないぐらい、美しい! もっとも重要であるのは、その一点だ!」
ティカトラスがそのように言いたてたとき、広場が新たな歓声に包まれた。剣技の勝負を行っていたチム=スドラが、大接戦の末にジョウ=ランを下したのだ。
そしてこちらには、笑顔のラウ=レイが駆けつけてきた。
「ヴィケッツォよ! そろそろ力も戻ったのではないか? デギオンにも、別の狩人が勝負を挑みたがっているぞ!」
「……あなたがたの膂力で勝負を続けていたら、いずれ袋剣が損壊してしまいそうですね」
「そのときは、俺が銅貨を支払おう! とにかく、勝負だ! この後には舞や歌も控えているのだから、そういつまでも力比べに興じてはおられんのだ!」
「舞や歌? それも楽しみなところだね! それじゃあヴィケッツォたちも、今の内に勝負を楽しんでくるがいいよ!」
ティカトラスに背中を押されて、ヴィケッツォたちはしぶしぶ勝負の場へと進み出ていった。
すると、ティカトラスを迂回したガズラン=ルティムが、俺にこっそり耳打ちしてくる。
「話はこちらにも聞こえていました。ティカトラスには何の罪もないことですが……きっとこういった話が、フェルメスの心を乱してしまうのでしょうね」
それは確かに、ガズラン=ルティムの言う通りなのだろう。きっとティカトラスは一冊の書物にも目を通さないまま、フェルメスに匹敵するほどの知識を有しているのである。
(でも……逆に言うと、それはフェルメスのほうが凄いんじゃないのかな。ティカトラスなんて、フェルメスの倍ぐらい長く生きていそうだし……フェルメスは書物とそこからの推察だけで、大陸中を駆け巡っているティカトラスに負けないほどの知識を身につけられたんだろうからさ)
何にせよ、俺たちはフェルメスともティカトラスとも正しい絆を結ぶべきであるのだろう。彼らはまったく異なる立場で、まったく異なる観点から、それぞれ森辺の民に強い興味を抱いてくれているのだ。それを正しい形に収束させるには、正しい形で交流を深めるしかないのだろうと思われた。
そうして4度目となる合同収穫祭は、これまでともまた一風異なる賑やかさの中で過ぎ去っていったのだった。




