ルウ家の晩餐①~勉強会~
2022.5/23 更新分 1/1
・今回は全8話の予定です。
王都の貴族ティカトラスの来訪によって時ならぬ騒擾に見舞われた灰の月も、じわじわと終わりの日が近づいていた。
この期間、俺などはティカトラスの存在にずいぶん生活をひっかき回されてしまっていたが、すべての人間が彼の存在にばかりかまけていたわけではない。森辺の集落に限っただけでも、水面下ではさまざまな出来事が進行していたのだった。
たとえば、アイ=ファとサウティの狩人で開発した、新たなギバ狩りの作法である。
ギバ寄せとギバ除けの実を使った新たなギバ狩りの作法というものは、この期間にも着実にさまざまな氏族へと伝えられていた。
まず、ファの近在の氏族に関しては、すでに伝授も完了している。もともとこちらでは収穫祭の時期を合わせるために、アイ=ファがランやリッドの狩り場で仕事を手伝う手はずになっていたので、そこからさらに血族であるフォウやスドラやディンにも伝えられることになったのだ。
俺にはまったく手出しも口出しもできない分野の話であるが、とにかくこの新たなギバ狩りの作法というやつは、画期的であったらしい。そのおかげで、ファの近在ではギバの収獲量がまた増大し、収穫祭の開催がいっそう遠のいてしまう始末であった。
「本来であれば、いずれの氏族においてもとっくに収穫祭を迎えていたはずであるのだがな! なかなか祝宴を行えないのは無念の限りだが、そのために仕事の手を抜くことはできまいよ!」
豪放なる気性をしたラッド=リッドなどは、そんな風に語らいながら呵々大笑していたものであった。
そして、アイ=ファから遅れること半月、サウティの血族もいよいよ他なる氏族と家人を貸し合って、その技術の指南を開始していた。
それが開始されたのは、灰の月の15日。ティカトラスの要請で開催された城下町の祝宴の、5日前の話である。ダリ=サウティはまず半月をかけて血族のすべてに指南してから、万全の態勢でその行いに臨んだのだった。
最初に指南することになったのは、やはり同じ族長筋たるルウの血族と、サウティとはもっとも近在であるダイの血族だ。ルウは眷族が多いため、まずは中核を担うルウ、ルティム、レイの3氏族に指南して、残りの血族に関しては自力で指南してもらうという形を取ったとのことであった。
また、それと同時進行で、女衆のほうでは血抜きをしていないギバ肉の扱い方の指南というものも進められている。
灰の月の前半部では、ラッツ、ベイム、ダイの血族が、北の一族とラヴィッツの血族に手ほどきをしていた。そうして月の後半部からは、サウティ、フォウ、ガズの血族が、ディン、リッド、ダナ、ハヴィラ、スンの5氏族に手ほどきすることになったのだ。これで森辺に存在する37の氏族は、余すところなくこの技術を体得できるわけであった。
森辺の民の歴史上、これほどさまざまな氏族が家人を貸し合ったことはなかったに違いない。とりわけサウティなどは、男衆と女衆がそれぞれ異なる氏族と家人を貸し合うことになったのだ。サウティの集落でルウやスンの家人などがともに暮らすという、実に混沌とした様相を呈していたのだった。
「どうせティカトラスは、もうじき森辺に押しかけてくるのだろうからな。その前に、果たせる仕事は果たせるだけ果たしておくべきであろうよ」
城下町の祝宴の場で、ダリ=サウティなどはこっそりそのように述べたてていたものであった。
斯様にして、森辺の民は意欲的に変革に取り組んでいたのである。
ギバ狩りの新たな作法に血抜きをしていないギバ肉の取り扱いというふたつの案件を優先したため、宿場町の聖堂に幼子を預けるという案件は後回しにされてしまったものの、そちらはすでにルウの血族によって道筋が立てられている。いずれ生活が落ち着いたならば、他の氏族においても同じ試みが為されるはずであった。
そうして事態が動いたのは、灰の月の23日――城下町の祝宴から3日後のことである。
その日から、ついにティカトラスの一行が森辺に押しかけてくることに相成ったのだった。
◇
その日もティカトラスたちは、中天のラッシュを終えた頃に俺たちの屋台を訪れていた。
昨日は城下町で宿を取ったとのことで、街道の北側からの来訪である。そうして屋台の前に立つなり、ティカトラスは俺に満面の笑みを届けてきたのだった。
「今日からついに、森辺の集落にお邪魔するからね! まずはルウ家のお世話になるのでアスタに面倒をかけることはないかと思うけれど、今後はどうぞよろしくお願いするよ!」
「あ、はい。それであの、ひとつお願いしたいことがあるのですけれど……今日はルウ家で晩餐を召しあがるのですよね? そこに俺とアイ=ファも同席することをお許し願えますか?」
「なんと! アイ=ファが!? それはどういう風の吹き回しだい?」
「いえ、まあ、自分たちはとりわけルウのお世話になっている身でありますので……ティカトラスがルウの方々とどのような言葉を交わすのかも気になりますし……」
アイ=ファが心配しているのは、もちろんリミ=ルウやジバ婆さんのことである。自分の目の届かないところで大切な人たちがティカトラスと晩餐をともにするというのが、どうにもたまらない気持ちであったのだろう。
「そうかそうか! いやあ、わたしはアイ=ファに煙たがられていると思っていたから、嬉しい話だねぇ! もちろん! アイ=ファが同席してくれるというのなら、わたしは大歓迎だよ!」
「ありがとうございます。俺はその前から勉強会のためにルウ家にお邪魔する予定ですので、どうぞよろしくお願いいたします」
「了解了解! それでは、屋台の料理をいただこうかな!」
ティカトラスはご機嫌な様子で料理を買いつけて、デギオンやヴィケッツォとともに青空食堂に引っ込んでいった。
俺がひと息ついていると、隣の屋台で仕事に励んでいたレビが「なあ」と呼びかけてくる。
「ついにあの素っ頓狂な貴族様が、森辺に乗り込んでくるんだな。大丈夫だろうとは思うけど、揉め事なんかにならないように気をつけてくれよ?」
「うん。ドンダ=ルウたちも、ティカトラスのことをあるていどは信用できると思ったからこそ、自分たちのいない日中に参じることを許したんだろうしね。そうそう揉め事になったりはしないだろうと思うよ」
ティカトラスは先日の祝宴の場で、ダリ=サウティに森辺を訪れたいと要請していたのだ。それで翌日には三族長で協議が為され、昨日になって了承の返事を送り、そして今日に至るというわけであった。
「族長さんらも、よく了承したもんだよな。でも、夜には宿に戻るんだろ? 昨日の内に、うちの宿を予約してたからな」
「うん。さすがに貴族を宿泊させるなんてのは、責任が取れないからね。森辺の民が宿泊を許すのは、友と認めた相手だけだしさ」
なおかつティカトラスは、送迎も不要と言いたてていた。とっぷりと日が暮れてから、デギオンとヴィケッツォだけを護衛役として、森辺から宿場町に舞い戻るのである。それで彼は、たとえ無法者に襲われようともジェノスの立場ある人間に責任は問わないという誓約書を携えていたわけであるが――何にせよ、貴族としては規格外の豪胆さであるはずであった。
そうしてしばらくすると、腹を満たしたティカトラスらがこちらに戻ってきた。
「では! わたしたちは、出発するよ! アスタもルウ家にやってくるというのなら、またのちほどね!」
「あ、もう向かわれますか? もう半刻もしない内に、こちらの商売も終わるかと思われますが……」
「待ちに待った森辺の集落なのだから、半刻もじっとはしていられないね! トトスと荷車は宿に預けているので、行き道に拾っていく手はずなのだよ! それではね!」
ティカトラスは意気揚々と街道を南下していき、デギオンとヴィケッツォは影のように付き従っていく。そのさなかも、顔見知りになった往来の人々が気安く声を投げかけていた。
「宿場町では、もうすっかり顔になっちまったな。ただなあ……森辺は生真面目なお人が多いから、少しばかり心配だよ」
感慨深げなレビの言葉には、「俺もだよ」と答えるしかなかった。
貴き身分で無邪気な人柄といえば、やはり南の王族たるダカルマス殿下とデルシェア姫であるが。今にして思えば、あちらの方々はジェノスや森辺の流儀をそれなりに重んじてくれていたのだなと痛感させられてやまなかった。
それに、デルシェア姫たちが強い関心を抱いていたのはあくまで美味なる料理に対してであったが、ティカトラスは森辺の民そのものに執心しているように見受けられるのだ。それがまた、俺たちの懸念をかきたてるのだろうと思われた。
(きっと今日1日で満足することはありえないんだろうしな。何か突拍子もない申し出をしてくることも覚悟しておこう)
そんな想念にひたりながら、俺はその日の仕事を果たすことになったのだった。
◇
そうして、下りの二の刻である。
屋台の商売を終えた俺たちは、慌ただしく森辺の集落に帰還することになった。
本日は5日間の営業日の最終日であるため、最初から勉強会はルウ家で行う日取りだった。アイ=ファは心配そうにしていたが、きっとこれも母なる森や神々のはからいであろう。彼らがルウ家でどのように過ごしているのかを見届けない限り、俺ものんびり勉強会に取り組む心持ちにはなれなかった。
そしてやっぱり他の氏族の家長たちもティカトラスの動向を気にしているらしく、本日は屋台の当番の全員が勉強会に参加することを希望していた。常勤のユン=スドラ、マルフィラ=ナハム、レイ=マトゥアに加えて、フェイ=ベイム、リリ=ラヴィッツ、ラッツ、ミームの女衆という顔ぶれだ。それにもちろん、トゥール=ディンとリッドの女衆も同様であった。
そんなわけで、3台の荷車は列を為してルウの集落を目指す。
果たして、そちらで待ちかまえていたのは――いつも通りの、のどかな昼下がりの情景であった。
「レイナ姉、アスタ、お帰り―! 客人たちは、こっちだよー!」
と、本日は当番ではなかったリミ=ルウが、分家の母屋の横合いからぶんぶんと手を振ってくる。
俺はユン=スドラたちに荷車をお願いして、レイナ=ルウとともにそちらを目指すことになった。
シン=ルウ家でもダルム=ルウ家でもディグド=ルウ家でもジーダ家でもない、俺が名を知らぬ分家の家屋である。いったいこのような場所で何をしているのかと、リミ=ルウの案内で母屋の裏手におもむいてみると――そこに、人だかりができていた。
もっとも奥まった場所では、ふたりの女衆がギバの毛皮をなめしている。ティカトラスの一行はそれを間近から見物しており、さらにそれを女衆や幼子や老人たちなどが取り囲んでいる格好であった。
「やあ、戻ったんだね。あの貴族様たちは、ずっとあの調子だよ」
と、人垣の外側に陣取っていたバルシャが、皮肉っぽい声を投げかけてきた。
「あの調子って……ティカトラスたちは、何をやっているのですか?」
「見ての通り、毛皮をなめす仕事の見物だよ。いったい何が楽しいんだかねぇ」
俺たちが小声で語らっていると、ヴィケッツォが主人に何か囁きかけた。
ティカトラスはこちらに向きなおり、「おお!」と声を張り上げる。
「アスタとレイナ=ルウも戻ったのだね! ではもう半刻ばかりが過ぎ去ってしまったということか! いやぁ、楽しい時間というのは、過ぎ去るのもあっという間だね!」
「ど、どうもお疲れ様です。……ティカトラスは、毛皮なめしの仕事を見物されていたのですか?」
「うん! ギバというのは、さぞかし巨大な獣なのだろうね! 狩人たちが収獲を持ち帰ってくるのが楽しみでならないよ!」
ティカトラスは、いつもの調子で高笑いをする。周囲の人々は、そんなティカトラスらの姿を無言でじっと検分していた。ティカトラスたちは以前にも1度だけルウ家を訪れているはずであるが、なかなか見慣れることはできないに違いない。
ティカトラスはひょろりとした体格で、けばけばしい刺繍をほどこされたターバンと長衣と長羽織のような上衣を纏っており、さらに数々の飾り物を全身に光らせている。面長の顔は鼻がくちばしのように尖っているぐらいでそれほど個性的なわけでもなかったが、その身なりだけで十分に素っ頓狂であろう。
いっぽうデギオンは190センチぐらいもある長身で、ティカトラスよりもさらに痩せており、顔などは骸骨を思わせるほどに肉が薄く、落ちくぼんだ目には陰気な光が瞬いている。旅用のマントの下には武官めいた白装束を纏っていて、いかにも武人めいた気配を発散させていた。
そして最後のヴィケッツォは東の民めいた黒い肌で、アンズ形の大きな目が特徴的な端麗なる容姿をしている。長い黒髪をアップにまとめて、デギオンと色違いの黒装束を纏った姿は、男装の麗人といったおもむきだ。また、俺の脳裏には祝宴の場で見せていた美々しい宴衣装の姿がくっきりと焼きつけられていた。
どれを取っても、個性的な面々であることに疑いはない。しかもティカトラスは王都でも高名な貴族であり、デギオンとヴィケッツォはその実子でもあるのだ。その見てくれに負けないぐらい、彼らは特殊な身分を有していたのだった。
「ああ、レイナたちも戻ったんだね。アスタは、ルウの家にようこそ」
と、ララ=ルウとリャダ=ルウを引き連れたミーア・レイ母さんもこちらに近づいてくる。
「それじゃあ、そっちは勉強会だね。客人らは、どうしますかねぇ?」
「うん! せっかくだから、そちらも見物させていただこうかな! 今日の目的は森辺の生活を見物することだけど、料理の勉強会というのもまぎれもなく生活の一部なのだろうからね!」
ということで、俺たちは列を為して本家のかまど小屋を目指すことになった。
ルウの家人で同行するのは、ミーア・レイ母さんと本家の3姉妹、そしてリャダ=ルウとバルシャである。その道中でも、ティカトラスは楽しげに声をあげていた。
「いやあ、実に清々しい心地だ! わたしは雑多な町並みをこよなく愛しているけれども、自然の息吹というものも同じぐらい好ましく思っているよ! トトスを四半刻ばかり駆けさせるだけでその両方を味わうことができるなんて、実に贅沢な話だね!」
「そうですね。俺も恵まれた環境だと思っています」
「そうだろうそうだろう! しかも! 森辺の民は男女ともに美しい! 下手な自由開拓民よりも、野性味にあふれているぐらいだからね! きっとこの壮麗なるモルガの森が、これほどに美しき民を育んだのだろう! 美しき土地に、美しき人々! ここはある種の楽園だね!」
これにはうかうかと同意できないので、俺は大人しく口をつぐんでおいた。ミーア・レイ母さんも苦笑を浮かべつつ、ノーコメントだ。
そうして本家のかまど小屋に到着してみると、その美しき民たちがずらりと立ち並んでいたものだから、ティカトラスをますます浮かれさせてしまうのだった。
「おお、ユン=スドラ! 君も相変わらず美しいね! トゥール=ディンにマルフィラ=ナハムにレイ=マトゥアも、お疲れ様!」
祝宴に招待した顔ぶれに関しては、すべて名前を記憶しているようだ。ユン=スドラたちは、つつましい面持ちで一礼するばかりであった。
「それじゃあ、二手に分かれようか。マイムは自分の家に戻ったのかな?」
「はい。そちらでミケルと一緒に勉強会の準備をしてくれているはずです」
貴族を好いていないミケルは、本家まで出向くのを差し控えることにしたのだろう。俺としては残念なところであったが、こればかりは致し方がなかった。
そして、俺が寄り道をしている間に、班分けの段取りは完了していた。なんと、常勤の3名とトゥール=ディンがまるまるミケルたちのほうに向かうのだそうだ。
(なるほど。ティカトラスがこっちに出向くと踏んで、まだあまり面識のない氏族の面々が居残ったってことなのかな)
ティカトラスはたびたび屋台を訪れていたから、当番の人間はおおよそ顔をあわせているはずだが、それでもやっぱり祝宴に招待された面々よりは交流が薄いのだ。フェイ=ベイムやリリ=ラヴィッツなどは、明らかに探るような目でティカトラスらの動向をうかがっていた。
いっぽうルウの血族のほうも、ミンやムファやリリンの女衆がこちらに居残っている。ただ、リミ=ルウだけはミケルのほうに向かったが、レイナ=ルウとララ=ルウはこちらに参加するとのことであった。
「それじゃあ今日は、この10名だね。……あ、ミーア・レイ=ルウも参加されますか?」
「いや。あたしは客人の案内役だよ」
そんな風に応じてから、ミーア・レイ母さんは客人たちのほうに向きなおった。
「それで、かまどの間にお招きするには鋼と毒の武具を預かることになるんだけど、どうしますかねぇ?」
「うん! それは事前に聞いていたから、問題ないよ!」
ティカトラスに笑顔を向けられたデギオンが、長剣と短剣をヴィケッツォに受け渡した。ヴィケッツォが毒の武具を保持するために、外に居残ることになったのだろう。
(でも、晩餐の時にはヴィケッツォもすべての武器を手放すことになるんだよな。本人は、納得してるんだろうか)
俺はそのように考えたが、それを思い悩むのは当人の役割だ。俺は自分の仕事を果たすべく、かまどの間にお邪魔することにした。
ティカトラスとデギオン、ミーア・レイ母さんとバルシャもそれに続く。刀をさげたリャダ=ルウは、ヴィケッツォとともに待機の構えだ。バルシャよりも腕の立つリャダ=ルウを表に残したのは、自分たちだけ帯刀した人間を入室させることを遠慮した結果なのかもしれなかった。
「ふむふむ! こちらの様相は、ファの家と大差ないようだね! これは、ファの家の厨がとりわけ立派であると見なすべきであるのかな?」
「そうですね。ファの家では商売の下ごしらえをする都合から、あんなに立派なかまど小屋を建てていただけることになったのです」
「うんうん! ふたりきりの家で食事を作るだけなら、あれほど立派な厨は必要ないだろうしね!」
こうして時たま鋭い洞察力を発揮するのが、ティカトラスなのである。
俺は気持ちを切り替えて、「さて」と声をあげることにした。
「今日は、どういう内容で進めようか? レイナ=ルウは、何か希望でもあるかな?」
「そうですね。蜜漬けにしたギバ肉をどうにか活用できないかと頭をひねっているのですが、なかなか上手くいきません。アスタのお力をお借りできたら、心よりありがたく思います」
「蜜漬けにしたギバ肉か。それは確かに、難題だね。ギバ肉の準備があるなら、それに取り組んでみようか」
蜜漬けにされた肉というものは、ぷちぷちとした弾むような食感になる。城下町において「肉がふくらむ」と称されるその現象は、俺の故郷に存在しないものであったため、俺もまったく検証が進んでいなかったのだった。
「蜜漬けにした肉は味がしみやすくなるという特性がありますが、それもまったく活かせていません。味と食感があまりに変わり果ててしまうと、森辺では嫌がる人間も多いのですよね」
「うん。それはつまり、ギバ肉らしさが薄くなるってことだもんね。それで面白い料理を作りあげることができても、森辺の民の口には合わないのかな」
「そうですね……たとえ宿場町や城下町の方々に受け入れられたとしても、それでは苦労をして研究する甲斐もないように思います」
そうして俺たちが議論していると、ティカトラスがふいに「蜜漬けにした肉か!」と声を張り上げた。
「あれは確かに、愉快な食感に変ずるよね! それにぐんぐん味がしみこむものだから、王都でも愉快な使い方をしている料理人が多いよ! わたしの屋敷の料理長などは、ついにそれを菓子に仕上げてしまったからね!」
「え? 蜜漬けにした肉を、菓子にですか?」
「うん! クセのないキミュスの胸肉なんかに砂糖水や果汁をしみこませて、極限まで甘く仕上げるのだよ! デギオンも、あの菓子は好物であったよね?」
「はい。……ですが、風味の豊かなギバ肉を菓子に仕上げることは難しくありましょうな」
陰々とした声音で、デギオンはそう答えた。彼は武骨な外見に寄らず、甘い菓子を好んでいるのだそうだ。
「まあ確かに、ギバ肉を菓子に仕上げるのは無理がありそうだね! デルシェア姫の作りあげたギバ肉の甘い煮込み料理などは絶品であったけれど、あれはあくまでギバ肉の豊かな風味を活かした料理だ! 強い甘みに負けないギバ肉の風味こそが、あの料理を成立させていたのだろう! 森辺の民がギバ肉本来の味わいをこよなく愛しているというのなら、その風味をも殺してしまうような強い味付けを嫌がるというのも、至極もっともな話なのだろうと思うよ!」
「そうですねぇ。そのような料理は、わたしの家でも忌避されることでしょう」
お地蔵様のように細めた目でティカトラスのほうをうかがいつつ、リリ=ラヴィッツがそのように発言した。
「血抜きをしていない肉にほどこされる強い味付けというものも、わたしはあまり好ましく思いませんでした。もちろんあれは生鮮肉を確保するための手段であるのですから、何も文句を言いたてるつもりはないのですが……あのような料理ばかりを口にしていたなら、ただ焼いただけのギバ肉が恋しくてならなくなるでしょうねぇ」
「そうですね。以前にお伝えした通り、あれは期間限定という条件つきで許される料理だと思います。調味料を過剰に使うのは、身体のためにもよくないでしょうしね」
「でも……」と、レイナ=ルウが考え深げに声をあげる。
「そうすると、やはり蜜漬けにした肉を活用するのは難しいのでしょうか? 強い味をつけずに、ただあの食感だけを活かそうというのは……余計に難しいように思えてしまいます」
「ふむ! 蜜漬けの肉というのは、おおよそ煮込みの料理で使われているよね! ギバ肉というのはあれだけ上等な肉質であるのだから、ただ塩を振って焼きあげるだけでも、十分な仕上がりになりそうなところだけれども!」
ティカトラスの無邪気な発言に、レイナ=ルウは「いえ」と応じる。
「蜜漬けにした肉は、焼き物の料理に適していないのです。鉄板で焼いても直に焼いても、肉がしぼんで不快な食感に転じてしまうのです」
「おお、それは難儀な話だね! では、煮込むだけ煮込んで後掛けの調味液を掛けるというのは、如何かな? それなら不必要に味がしみこむこともないだろう?」
「いえ。お湯で煮込むと、やたらと水っぽい仕上がりになってしまうのです。ふくらんだ肉の中に、水気が吸われてしまうようなのですね」
レイナ=ルウが生真面目に答えるため、まるでティカトラスも勉強会に参加しているような様相になってしまった。
しかしティカトラスは「そうかそうか!」と笑いながら、音をあげる。
「やはりわたしが思いつくような話は、すでに研究済みなのだね! もう大人しくしているので、なんとか活路を見出してくれたまえ!」
「いや……ティカトラスのおかげで、色々と再確認することができました。ねえ、レイナ=ルウ。煮ても焼いても駄目なら、揚げてみたらどうだろう?」
「揚げ物の料理ですか? ぎばかつでしたら試してみましたが、まったく上手くいきませんでした」
「どういう感じに上手くいかなかったのかな? 肉が油を吸い込んじゃったとか?」
「はい。古きの時代にティマロが作りあげたカロンの料理のように、不快なまでに油を吸ってしまったのです。らーどを使っても、不快なことに変わりはありませんでした」
「なるほど。分厚い肉は、熱を通すのに時間がかかるからね。それじゃあ、薄切りにした肉ならどうだろう? 手早く熱を通せれば、それほど油を吸わずに済むかもしれないよ」
「それは……試してみないと、わかりませんね」
と、レイナ=ルウは瞳を輝かせた。
俺たちは、さっそく蜜漬けにした肉を薄く切り分ける。衣は、通常のギバカツの仕様と、ただフワノ粉をまぶしたものと、卵にくぐらせた上でフワノ粉をまぶしたものの3種だ。
「衣が厚いと、そっちでも油を吸っちゃうからね。揚げ焼きの感覚で薄い衣のほうが、上手くいくかもしれないよ」
その結果は――実に興味深かった。通常のギバカツの衣ではやはり油のくどさが際立ってしまったが、残りの2種に関してはほどよく油を吸い込みつつ、ぷちぷちとした独特の食感を保持できたのである。
水気を吸っていないためか、煮込み料理よりは弾力が減じている。その反面、ギバ肉本来の噛みごたえが残されているとも言えるだろう。それでいて、蜜漬けの肉ならではの弾けるような食感も生じており――これは何か、大きな期待をかけられそうな予感がした。
「今のはレテンの油だったけど、ラードやホボイやラマンパの油だったら、どんな仕上がりになるだろうね。あと、肉の部位によって油の吸い込み具合も変わってくるはずだよ」
「はい。それに、卵にくぐらせたほうが、油の吸い込み具合が減じるようですね。どちらがより好ましいかは、もう少し確認が必要であるようです」
俺とレイナ=ルウが熱っぽく語らっていると、ティカトラスが「ねえ!」と子供のように声を張り上げた。
「ひとつだけ確認しておきたいのだけれども! この成果は、今日の晩餐で披露されることになるのだろうかな?」
「え? それは……満足のいく仕上がりに至るかどうかで変わってくるかと思われます」
「晩餐で披露されるというのなら、わたしは味見を控えようかと思っているんだよ! でも、明日以降に持ち越されるようだったら、とうてい我慢がきかないからね! どうか今の内に、見込みを立ててもらえないだろうか?」
その言いように、さしものレイナ=ルウもくすりと笑っていた。初対面で従者に勧誘されて以来、レイナ=ルウはティカトラスの前で笑顔を見せることを控えていたのだ。
「では、少なくとも晩餐で味見をできるように励みたく思います。力を尽くしますので、どうかお待ちください」
「うん! 了解! いやあ、いったいどのような仕上がりになるのか、楽しみなところだなぁ!」
そんな風に言いたててから、ティカトラスは「ところで!」と声を張り上げた。
「さっきはついつい聞きそびれてしまったけれど、やっぱり気になるから聞かせてもらうね! ……レイナ=ルウは森辺の料理人の中でもとりわけ向上心が強いと聞いているのだけれども、やっぱり森辺の同胞が好まないような料理を手掛けるつもりはないのかな?」
「はい。そのような行いに力を注ごうとするかまど番は、森辺に存在しないかと思われます」
レイナ=ルウが落ち着いた調子で答えると、ティカトラスは「ふむふむ!」と身を乗り出した。
「しかし君は、独自に貴族からの依頼を受けていたりもするのだろう? それならば、同胞に食べさせる料理と貴族に食べさせる料理で分けて考えても不思議はないのじゃなかろうかな?」
「いえ。貴族だけに喜んでいただける料理では、意味がないのです。それでは、同じ喜びを分かち合うことにもなりませんので」
「ふうむ。しかし、君ぐらい城下町の料理に慣れ親しんでいれば、もう君自身は貴族と同じ喜びというやつを分かち合えるのではないのかな?」
ティカトラスが執拗に言葉を重ねると、レイナ=ルウの面が凛々しく引き締まった。
「それはきっと、ティカトラスの仰る通りでしょう。城下町の料理――たとえばヴァルカスやダイアのギバ料理であれば、わたしと森辺の男衆では大きく意見が異なってくるはずです。わたしが美味と感じても、男衆らは美味と感じない、そういう料理はいくつかあるのだろうと思います」
「ふむ。そうして君自身が美味と思えるような料理でも、それを手掛ける気にはなれない、と?」
「はい。たとえ城下町の料理に慣れ親しもうとも、わたしは森辺の民であるのです。森辺の同胞に喜んでもらえないような料理は、手掛ける気持ちになれません。そこを踏み越えてしまったら……たぶんわたしは、美味なる料理を手掛ける目的を見失ってしまうのです」
「なるほど! それは君の気概に関わる問題であるのだね! これはくどくどと言葉を重ねてしまって、申し訳なかった! やっぱり君は、わたしが見込んだ通りの人間だ!」
と、ティカトラスは満面の笑みで両腕の袖をぱたぱたとそよがせた。
「わたしは何より自由な生というものを愛しているけれども、ある種の制約というものが力の根源に成り得ることは理解しているつもりだからね! 君はきっと気高き信念を携えているからこそ、それだけの技量を身につけることがかなったのだ!」
「いえ。それは森辺のかまど番であれば、誰もが携えている志のはずです」
「それでも君は、悩んだはずだ。悩んだ末に選び取った道であるからこそ、それは得難き輝きを放つのだよ」
ティカトラスがふいに声のトーンを落としたため、レイナ=ルウは虚を突かれた様子で口をつぐむことになった。
ティカトラスは、そんなレイナ=ルウににこりと微笑みかける。
「やっぱり君は、容姿ばかりでなく魂までもが美しいね! 従者として連れ帰れないことが、残念でならないよ! どうかその分まで、今日は君の力量を味わわさせてくれたまえ!」
レイナ=ルウは、曖昧な面持ちで一礼した。
そして、ララ=ルウやフェイ=ベイムやリリ=ラヴィッツらは、そんな両名のやりとりを真剣な眼差しで見守っている。ミーア・レイ母さんなどは穏やかな面持ちであったものの、やっぱりティカトラスの物言いに大きく関心を引かれている風であった。