箸休め ~酔狂者と旅芸人~
2022.5/19 更新分 1/1
・書籍版第27巻発売記念SSです。本編は、5/23から更新再開の予定です。
リコは薄暗い荷台の中で、恐怖に震えていた。
そのかたわらでは、小さな刀子を握りしめたベルトンが鋭く目を光らせている。
荷台の壁の向こう側から聞こえてくるのは、剣と剣が打ち合わされる硬い音色だ。
辺境の地を巡っていたリコたちの荷車は、野盗に襲われることになり――荷台の外では、ヴァン=デイロが単身でそれを迎え撃っているのだった。
リコとベルトンは、ついひと月ほど前にも野盗に襲われている。それですべての家族と仲間を失うことになったのだ。
あのときも、リコたちを救ってくれたのはヴァン=デイロであった。たまたま通りかかったヴァン=デイロがすべての野盗を討ち倒し、リコとベルトンの身を救ってくれたのである。
「大丈夫だよ。あんな野盗どもは、ヴァン=デイロの敵じゃねーし……その目をかすめて乗り込んでくるやつがいたら、俺が返り討ちにしてやる」
ベルトンはそんな風につぶやきながら、空いているほうの手でリコの手をぎゅっと握ってくれた。
しかしベルトンの指先も、わずかに震えてしまっている。ベルトンはとても勇敢な少年であったが――どうしても、ひと月前の惨劇を思い出してしまうのだろう。リコとベルトンは野盗そのものではなく、大事な人間をすべて失ってしまったときの記憶に脅かされているのかもしれなかった。
そうして、無限に続くかと思われた恐怖の時間が、ようやく終わりを告げ――扉の向こうから、ヴァン=デイロの低い声が聞こえてきた。
「もう大丈夫だ。こちらに出てきてもらえるか、リコにベルトンよ」
リコはいっそう強い力でベルトンの手を握りながら、すべての神々に感謝の念を捧げることになった。
ベルトンは深々と息をついてから、刀子をだぶだぶの袖に仕舞い込む。
「ヴァン=デイロにしては、時間がかかったな。……おい、外に出るんだから、手を離せよ」
「うん」とベルトンの手を離しながら、リコは懸命に笑ってみせた。
ベルトンは意地っ張りであるために、なかなか笑顔を見せようとはしない。ただ、拳でリコの頭を軽く小突いてから、荷台の出口へと近づいていった。
そうしてベルトンが荷台の扉を開くと――思いも寄らない高笑いが響きわたったのだった。
「おお、これは本当に幼子だ! このように幼い傀儡使いがどれだけの力量を持っているのか、なかなか興味をそそられるところだね!」
リコは何か、悪い精霊にでも化かされたような心地であった。
それはこんな辺境の区域には不似合いな、きわめてきらびやかな存在であったのである。
頭にはぐるぐると布を巻きつけ、長衣の上にひらひらとした上衣を羽織っており、それらのすべてに色とりどりの刺繍が為されている。旅芸人でもけばけばしい衣装で人目を引こうとする人間は多かったが、それとも比較にならぬほどの絢爛さだ。それに、胸もとや手首や指などの飾り物は、本物の宝石や銀細工だとしか思えないような豪奢なる輝きを灯していたのだった。
「ティカトラス様、ご用心を……そちらの男児は、数多くの刃物を隠し持っているようです」
と、陰気な声音がどこかから聞こえてくる。
リコがおそるおそる視線を巡らせてみると、ヴァン=デイロの他にもうふたりの人間が、地面に倒れた野盗たちの手足を縄でくくっていた。どちらも旅用の外套を纏っており、片方は驚くほど背が高く、もう片方は東の民のように黒い肌をしている。
「ベルトンは、刀子投げの芸を持っているのだ。恩人に刃を向けたりはしないので、心配は無用に願いたい」
ヴァン=デイロがそのように声をあげると、ベルトンはうろんげに眉をひそめた。
「恩人ってのは、なんの話だよ? ヴァン=デイロ、こいつらは何者なんだ?」
「こやつらは、無法者の退治に助勢をしてくれたのだ。儂ひとりでは、すべての無法者を退治するのにもういくばくかの時間がかかったろうな」
ヴァン=デイロがそのように答えると、けばけばしい身なりをした男が「いやいや!」と甲高い声を張り上げた。
「君の剣技こそ、実に美しかったよ! それほどの老齢で、デギオンやヴィケッツォをも上回る力量であるようだからね! よければ、わたしの従者になってはもらえないだろうか?」
「……悪いが、儂の道連れはもう決まっている。《守護人》としての仕事からも身を引いておるので、誰にも仕える気はない」
「ほうほう! 君は《守護人》であったのか! さぞかし名のある剣士なのだろうね!」
すると、捕縛の仕事を終えた黒い肌の人物がゆらりと身を起こし、凛然とした声をあげた。
「ティカトラス様。そちらの御仁は、もしや《獅子殺し》のヴァン=デイロ殿なのではないでしょうか?」
「《獅子殺し》のヴァン=デイロ? あの、セルヴァで一番の剣豪と謳われた、あのヴァン=デイロかい? それはますます、従者になってもらいたいところだね!」
ヴァン=デイロは、とても静かだが力のある眼差しでその人物を見返した。
「儂の答えは、さきほど答えた通りとなる。よもや、腕ずくなどとは申すまいな?」
「腕ずくなんて、とんでもない! 嫌なら嫌で、しかたのないことさ! でももし気が変わったら、いつでもダームの屋敷を訪ねてくれたまえ!」
「……そちらは、ダームの民であったのか? ずいぶん遠方の地にまで出張ってきたものだな」
「うん! この先には自由開拓民の集落があると聞き及んだからさ! 地図にも乗らない小さな集落なんて、興味をそそられてならないだろう? だから、ダームに帰る前にちょっと足をのばしてみようと思いたったのさ!」
そう言って、ティカトラスは細長い胴体をそらした。
「わたしはダーム公爵家のティカトラスというものだ! ダームでその名を告げれば、誰でも屋敷の場所をわきまえているからね! たとえ従者になるつもりになれなくとも、いつでも好きに立ち寄ってくれたまえ! わたしが留守でも、妻や子たちがもてなしてくれるだろうからさ!」
「はん。そんなお偉い貴族様が、こんな辺境の地をうろつくもんかよ。まったく信用のならねーやつだな」
ベルトンがそのように言い捨てると、ティカトラスは愉快そうに高笑いした。
「確かにわたしは貴族というよりも商人のようなものだし、それ以上に芸術の徒であるつもりだからね! よければ、君たちの芸も見せてもらえないだろうかな?」
「はあ? 頭に刀子でも叩き込まれてーのか?」
「刀子投げより、傀儡の劇だね! 君たちは、傀儡使いであるのだろう? こちらのヴァン=デイロが、そのように語らっていたよ!」
ベルトンが責めるような目を向けると、いつも沈着なヴァン=デイロが申し訳なさそうに眉を下げた。
「こやつがあれこれ聞きほじってくるものだから、正直に答える他なかったのだ。べつだん、隠すような話ではあるまい?」
「うんうん! この荷車は、いかにも旅芸人らしい装飾が施されていたからね! 最初から、わたしの興味をかきたててやまなかったのだよ!」
ティカトラスと名乗る男がそのように語らっている間に、長身の男が狼煙をあげていた。手近な領地に、盗賊を捕らえたと告げる合図である。それは彼らがヴァン=デイロと同じぐらい旅慣れており、なおかつ荒事に長けている証であった。
「さあ、どうだろう? もちろん、見物料は支払わせていただくよ! わたしは見事な芸には銅貨を惜しまない人間であるからね!」
「はん。こんな道端で、たった3人の客を相手に、芸を見せる人間がいるもんかよ。冗談も休み休み言いやがれ」
ベルトンがそのように応じると、ティカトラスは「そうか」とにんまり微笑んだ。
「君たちの気概がそのていどのものであるのなら、わたしの興味もしぼんでしまうね。この無法者たちはすぐに近在の領地の兵士たちが始末をつけてくれるだろうから、君たちはさっさと出発するといいよ」
「……待ってください。わたしたちに芸人としての気概がないと仰るのですか?」
リコがそのように口を出すと、ティカトラスは「それはそうだろう」と肩をすくめた。
「わたしは見るからに裕福そうな身なりをしているし、このような場所で傀儡の劇をせがむような酔狂者だ。うまくいけばどれだけの銅貨をせしめることができるかと、普通であれば舌なめずりをするところだろう? そこで尻尾を巻いて逃げだすていどの気概しか持ち合わせていないのなら、大した期待はかけられないよ」
「へん。勝手にほざいてろ。こんな連中はほっといて、さっさと出発しよーぜ」
ベルトンはそのように言っていたが、リコは「いや」と首を振ってみせた。
「そこまで言われたら、引き下がれないよ。ベルトン、わたしたちの芸をこのお人に見てもらおう」
「はあ? お前、何を言ってんだよ! だって、俺たちは――」
と、ベルトンは途中で口をつぐんでしまう。
リコとベルトンは家族を失ったひと月前から、初めて本格的に劇の修練を始めた身であるのだ。それまでも親たちの仕事を手伝ってはいたが、いまだ自分たちだけで劇を披露したことはなかったのだった。
「大丈夫だよ。そろそろ人前で劇を見せようって相談していたところじゃん。それが少し早まるだけのことだよ」
リコがそのように囁きかけると、ベルトンは深々と息をついて、帽子のつばで目もとを隠した。
「ったく、始末に負えねーな。あとで泣きを見ることになっても、知らねーぞ?」
「大丈夫だよ。わたしたちなら」
リコはぎゅっと拳を握りしめながら、にやにやと笑うティカトラスのほうに向きなおった。
「それでは、劇をお見せします。演目は、『姫騎士ゼリアと黒蛇の王冠』でよろしいでしょうか?」
「もちろん、なんでもかまわないよ! 姫騎士ゼリアの物語は、どれもわたしのお気に入りだしね!」
そうしてリコたちは地面に転がされた野盗たちのもとから少しばかり移動して、傀儡の劇を披露することになった。
せまい道端に舞台を引っ張り出して、傀儡の衣装の準備をする。それらの道具も、すべてリコの母親たちが遺してくれたものだ。
かつてはリコの母親たちが、これらの傀儡に生命を吹き込んでいた。
これからは、リコとベルトンがその役目を受け継ぐのだ。
そうしてふたりで、《ほねがらすの一座》を再興するのだと――リコとベルトンはヴァン=デイロに生命を救われたあの日に、泣き声をあげながら誓い合ったのだった。
ティカトラスは従者の準備した敷物に座し、リコたちの挙動をうかがっている。
2名の従者はその左右に立ち並び、ヴァン=デイロは少し離れたところでリコたちの姿を見守ってくれていた。
リコは大きく息をつき、すべての雑念を吐き出してから、「昔々のお話です」と語り始めた。
心臓はどくどくと胸を打ち、今にも息が詰まってしまいそうである。
しかし、ぶざまな姿をお客には見せられない。リコの母親はどれだけ調子を崩していても、劇を披露している間だけは力にあふれかえっていたのだ。
リコの願いは、ただひとつ。母親のように立派な傀儡使いを目指すことであった。
見ている人間すべてに「楽しかったねぇ」と思ってもらえるように――かつて自分が、母親たちの劇に胸を躍らせたように――ほんのひとときでも、幸福な心地になってもらえるように――そんな思いで、傀儡たちに生命を宿らせるのだ。
ベルトンもまた、怖いぐらいに真剣な面持ちで傀儡を操ってくれている。
それに勇気づけられながら、リコは語り部として語らい、自分もまた傀儡を操ってみせた。
そうして姫騎士ゼリアは黒蛇の王を討ち倒し、その王冠を故郷に持ち帰り――『姫騎士ゼリアと黒蛇の王冠』の物語は、終了した。
リコは震える膝を励ましながら、ベルトンとともに舞台の前に進み出る。
するとティカトラスが立ち上がり、手の平をぺちぺちと打ち鳴らした。
「うん! なかなか楽しい出来栄えであったよ! さすがにその若年では稚拙さもぬぐいきれなかったけれども、それを補って余りある情念が伝わってきた! 君たちの気概は、大したものだね!」
ティカトラスはにこにこと笑いながら、長衣の懐に指先を忍ばせた。
そこから取り出されたのは――鈍く輝く、白銅貨である。
「では、約束の見物料だ! どうか受け取ってくれたまえ!」
「え……これほどの銅貨をいただけるのですか?」
リコが困惑して問い返すと、ティカトラスは無邪気に「うん!」とうなずいた。
「ただし、君たちの芸はまだまだだ! 本来であれば、赤銅貨の割り銭が相応であろうね!」
「それじゃあ、どうして……」
「これは、君たちの行く末に対する期待かな! 君たちなら、これだけの代価に相応しい傀儡使いに成長するのではないかという期待を抱けるのだよね!」
そんな風に言いながら、ティカトラスは白銅貨を差し出してきた。
「小手先の技術というものは、時間さえかければ身につくものさ! しかし気概や情念というものは、自分の内側からひねり出すしかない! 君たちがその情念を失わずに突き進むことができたならば、さぞかし素晴らしい傀儡使いに成長することだろう! 次に会うときに、どうかわたしを落胆させないようにね! 君たちの成長を、期待しているよ!」
「……わかりました。過分なお言葉、ありがとうございます」
リコは両手で、その白銅貨を受け取った。
小さな銅貨が、ずしりと重く感じられる。それこそが、ティカトラスの抱いている期待の重さなのかもしれなかった。
(だけど、わたしは……母さんみたいに立派な傀儡使いを目指すんだ)
リコは両手で白銅貨を握りしめながら、ティカトラスの長身を見上げた。
ティカトラスは変わらぬ無邪気さで、にこりと微笑む。
「それでは、ご機嫌よう! ヴァン=デイロ、どうか未来ある傀儡使いたちを、この世の脅威から守ってあげてくれたまえ!」
ティカトラスは派手な装束の裾をひるがえして、自分の荷車に乗り込んだ。
黒い肌の女性と思しき人物もそれに続き、長身の人物は御者台で手綱を握る。向かう先は、リコたちとは逆方向だ。
それを尻目に、リコたちも道具を仕舞い込み、荷車に乗り込んだ。
すると、ベルトンがまた頭を小突いてくる。
「あんな酔狂者の言葉を真に受けてんじゃねーよ。誰に何と言われようとも、俺たちは俺たちだろ」
「え? 別にわたしは、落ち込んだりしてないけど……あ、ベルトンは稚拙って言われたことに腹を立ててるの?」
「へん。あんな野郎の言葉なんざ、真に受けるかよ」
そんな風に言いながら、ベルトンはとても悔しそうな顔であった。
リコは思わず、「あはは」と笑ってしまう。
「これからも頑張ろうね。わたしたちなら、きっと大丈夫だよ」
「うるせーや。俺の本職は、刀子投げだからな」
そうしてリコたちの荷車は、ティカトラスたちと反対の方向に走り始めた。
両者の道が再び交わるのは、それからおよそ2年後のことである。その際に、リコたちはどれだけの栄誉と誇らしさを授かることになるのか――それを知るのは、運命の糸を紡ぐ神々のみであった。