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異世界料理道  作者: EDA
第六十九章 西の果てより
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お披露目の祝宴②~開会~

2022.5/7 更新分 1/1

 祝宴の会場となる大広間には、すでに大勢の参席者が群れ集っていた。

 そうして森辺の一行が踏み入っていくと、あちこちから感嘆のざわめきがあげられる。宴衣装を纏って鮮烈さを増した森辺の民がこれだけの人数で現れれば、それも当然の話であろう。


「ふむ……事前に聞かされていた通り、南や東の民も数多く見受けられるようだな」


 俺のそばを歩いていたジザ=ルウが、そんな風につぶやいた。

 確かにその場には、ジャガルやシムの人々が少なからず参じていた。ここ最近でティカトラスと面識を得ることになった、行商人たちである。また、中にはククルエルのように、昔日からの関係者も含まれているのかもしれなかった。


 祝宴の始まりにはまだ猶予があるはずであったが、会場にはすでに優美な音楽が鳴らされている。壁際の一画にたたずむ楽団が、ひかえめなボリュームでそれぞれの楽器を演奏しているのだ。これもまた、芸術関連に造詣の深いティカトラスらしい演出であった。


「あー、来た来た! 森辺のみんな、こっちだよー!」


 と、大広間の片隅から、ユーミの声が聞こえてくる。子犬のように小走りになるジョウ=ランを先頭にして、俺たちもそちらを目指すことになった。

 ユーミのそばにも、すでに大勢の人々が控えている。もともと行動をともにしていたレビとテリア=マスに、こちらで合流したらしいディアルとラービス――さらには、リコとベルトンとヴァン=デイロまでもが顔をそろえていた。


「あれ? こんな時間からリコたちまでいるなんて、珍しいね」


「は、はい。普通、余興を行う芸人は控えの間で出番を待つものであるのですが……こちらの祝宴では他の参席者の方々と同じように振る舞ってよいとのお言葉をいただいてしまったのです」


 そのように語るリコもまた、準礼装ぐらいの可愛らしい格好をしていた。ベルトンもそれは同様で、老剣士ヴァン=デイロは騎士の礼装を思わせる白装束だ。


「しかもわたしやベルトンなどは、出自も定かではない放浪の民ですのに……ユーミたちが来てくれなかったら、肩身がせまくて居たたまれませんでした」


「それを言ったら、あたしなんて貧民窟の住人だしね! あの貴族様にとっては、出自なんて関係ないんでしょ!」


 ユーミは陽気に笑いながら、リコの両肩を背後からもみほぐしている。

 そしてこちらからは、アイ=ファがしずしずとヴァン=デイロの前に進み出た。


「ひさしいな、ヴァン=デイロ。息災なようで、何よりだ」


 数日前にリコたちがファの家を訪れた際、アイ=ファはまだ仕事のさなかであったのだ。ヴァン=デイロは静かな面持ちで「うむ」とアイ=ファを見返した。


「そちらも息災なようで、何よりだ。それにしても……アイ=ファはずいぶんと見違えたな」


「うむ。こういう場では、森辺の民も城下町の宴衣装を纏うのが通例となってしまったからな」


 リコたちがこういった祝宴で劇を披露する際も、ヴァン=デイロはずっと控えの間で待機していたため、森辺の民のこういった姿を目にするのも初めてなのである。誰よりも沈着なヴァン=デイロは眉筋ひとつ動かしていなかったが、ただその瞳には至極自然な感嘆の思いが灯されていた。


「ほんっと、アイ=ファは見違えるよねー! 今日なんかは、普段以上に立派な宴衣装じゃん! どこかの姫君だって紹介されても、誰も驚かないと思うよ!」


 と、ディアルが横から割り込んでくる。彼女も水色の宴衣装で、なおかつずいぶん髪ものびてきたものだから、女の子らしさが倍増していた。普段は後ろでひっ詰めている髪をほどくと、もう毛先が肩をこえるぐらいであったのだ。


「うわ、ヤミル=レイもアイ=ファに負けないぐらい立派だね!」


 ディアルと仲良しであるユーミもまた、目を輝かせて身を乗り出してくる。ヤミル=レイはクールな面持ちで無言を保っていたが、そのパートナーたるラウ=レイが「そうだろうそうだろう!」と自慢げに胸をそらした。


「おかしな貴族に言い寄られないように、俺がしっかり守ってやらなければな! ヤミルよ、何があろうとも俺から離れるのではないぞ?」


「ああもう、勝手にしてちょうだい。……本当に、こんな騒ぎはこれっきりにしてもらいたいものね」


 ヤミル=レイはそのようにぼやいていたが、ラウ=レイとともにたたずむその姿はまるきり貴公子と貴婦人である。その姿を感心しきった眼差しで検分してから、ディアルは俺のほうに向きなおってきた。


「それにしても、これはものすごい祝宴だね! みんなは礼賛の祝宴ってやつで体験済みなんだろうけど、こんなにたくさんの行商人と貴族が入り乱れてる祝宴は初めてだよ!」


「うん。礼賛の祝宴のときよりも、南や東の人たちが多いと思うよ」


「でしょー? こんなのは、ジェノスならではのことだよね! それに、西の行商人も多いらしいよ! 宿屋なんかで意気投合した人間が、片っ端から招待されたみたいだね!」


 それはずいぶんと豪気な話である。用心深い貴族であれば、いささかならず腰が引けてしまうのではないだろうか。


「で、貴族は貴族でひさびさの祝宴だから、挨拶回りが大変みたい! それが一段落したら、アスタもリフレイアとおしゃべりしてあげてね! ここ最近はすっかりご無沙汰だって、リフレイアもすねちゃってるんだから!」


「うん。確かに最近は、ポルアースを除くとジェノス侯爵家の方々ぐらいしかお目見えする機会がなかったからね」


 なおかつ、前回の晩餐会ではそちらとも卓が別々であったため、満足に交流はできていない。フェルメスやオーグも、また然りだ。俺としても、この祝宴ではさまざまなお相手と交流を深め合いたいところであった。


 いまだ祝宴は開始されていないが、広間には大変なざわめきが満ちている。行商人が多いためか、普段よりも雑多な雰囲気であるようだ。どうやら貴き身分にある人々は奥のほうに寄り集まって、今のところは平民たちと距離を取っている様子であった。


(見た感じ、半分以上は平民みたいだもんな。これは確かに、城下町の祝宴としては規格外だ)


 ただし、宿場町から招かれたのは、宿屋の関係者のみであるはずだ。であれば行商人といっても、城下町で宿を取っている人間に限られるのだろう。ティカトラス本人の意向かジェノス側の要請であったのかは知れないが、それが防犯のための最低限のラインであるのだろうと思われた。


 広間の一画に陣取った森辺の一行のもとにも、ちらほらと挨拶を願う人たちが寄ってくる。しかし貴族は奥側のスペースに留まっていたため、アイ=ファもまだ若き貴婦人に取り囲まれることはなかった。

 そしてそこに、見覚えのある老人がやってくる。それは、飛蝗の被害にあったダレイム南方の区域を管理する人物であった。


「ダリ=サウティ、おひさしぶりです。先日は、大変お世話になりました」


「おお、あなたも招かれていたのか」


 ダリ=サウティが穏やかな笑顔を返すと、その老人は目もとを潤ませながら「はい」とうなずいた。


「我々は祝宴などで浮かれていられる立場ではないのですが……時には羽をのばすことも必要であろうと、そのようにありがたいお言葉をかけられることになったのです」


「その言葉には、俺も同意する。ずっと思い詰めていては、身がもたんからな」


「ええ。ですが、自分ばかりがこのようにいい目を見るのは、気が引けてなりません」


「であれば、明日からその分まで力を尽くすしかあるまい。しかしあなたは普段から取り仕切り役として大きな苦労をしているのだろうから、何も後ろめたく思う必要はないように思うぞ」


 かつて礼賛の祝宴で再会することになった両名は、着実に絆を深めている様子であった。

 俺とアイ=ファもそちらの人物に挨拶をさせていただいていると、清楚なお仕着せを纏った小姓がしずしずと近づいてくる。


「森辺の民の、アイ=ファ様でいらっしゃいますね? まもなく祝宴が開かれますため、ティカトラス様のもとで待機をお願いできますでしょうか?」


「うむ? そのような話は、聞いておらんぞ」


「肖像画をお披露目する際に、アイ=ファ様も隣に並んでいただきたいとのことです。ティカトラス様じきじきのお言葉ですので、どうぞご了承ください」


 小姓の少年は実につつましい面持ちをしていたが、ここでアイ=ファが頑として断っていたならば、さぞかし慌てふためいていたことだろう。そしてアイ=ファがむっつりとした顔で黙り込んでしまったものだから、少年の目もとにはその予兆たる動揺の色がひらめくことになった。


「よほど無体な願い出でなければ、そうそう断るわけにはいくまいよ。心配なら、俺たちが同行してやろう」


 と、そこで助け船を出したのは、ゲオル=ザザであった。


「どうせお前が心配しているのは、自分ではなくアスタの身なのであろう? それは俺たちが守っておいてやるから、お前は面倒な仕事を片付けてくるがいい」


「……相分かった。案内を願いたい」


 アイ=ファが渋々ながらも了承してくれたので、小姓の少年もほっと安堵の息をついていた。

 ゲオル=ザザに呼びつけられて、ゼイ=ディンもこちらに寄ってくる。ふたりのパートナーであるスフィラ=ザザとトゥール=ディンも同様だ。そうして俺たちは6名で連なって、貴族たちの控える奥側のスペースへと突撃したのだった。


「おお、アイ=ファ! やはり君には青い宴衣装もまたとなく似合っているね! いったいどれほど美しい姿になるかと、何日も前から期待に胸をふくらませていたのだよ!」


 そちらで待ち受けていたティカトラスが、快哉の雄叫びをほとばしらせる。彼は普段から宴衣装のごとき姿であったため、少しばかり飾り物が増えたぐらいでほとんど変わり映えしなかった。


 そして、ティカトラスのそばにいたジェノス侯爵家の面々が口々に挨拶をしてくれる。これを見越して、ゲオル=ザザは護衛役に名乗りをあげたのだろうか。いちはやくトゥール=ディンと再会できたオディフィアは灰色の瞳をきらきらと輝かせており、トゥール=ディンもまた幸せそうに微笑んでいた。


 さらには、サトゥラス伯爵家のレイリスがザザの姉弟に挨拶をするべく近づいてくる。礼賛の祝宴でひさびさの再会を果たした彼とスフィラ=ザザの間にはもう何のわだかまりもないようで、おたがいに穏やかな微笑をたたえていた。


 遠くのほうからは、リフレイアやポルアースが視線と表情で挨拶をしてくれる。当然のことながら、伯爵家の人々はのきなみ招待されているのだ。貴族の総数が100名弱であるならば、普段の祝宴に招かれる主だった人々はあらかた集められているはずであった。


 そこで俺は得も言われぬ違和感にとらわれて、視線を手もとに引き寄せる。

 とたんに違和感の正体があらわとなって、俺は思わず「あっ」と声をあげてしまった。


「ヴィ、ヴィケッツォとデギオンもいらしたのですね。挨拶が遅れてしまい、申し訳ありませんでした」


「……我々が、ティカトラス様のおそばを離れるとでも?」


 陰気な声音で、デギオンがそのように言いたててくる。彼もまたマルスタインらと同じようにジャガル風の宴衣装を纏っていたため、すっかり存在がまぎれてしまっていたのだ。


 そしてさらに驚くべきは、ヴィケッツォであった。

 当然と言えば当然なのかもしれないが――彼女のほうは、女性用の宴衣装を纏っていたのである。

 ヴィケッツォはアイ=ファと同じぐらいの背丈をしている。そしてその身はアイ=ファと同じように、しなやかな筋肉と女性らしい曲線をあわせ持っていたのだった。


 東の民と見まごうほどに、彼女は黒い肌をしている。森辺の民よりもさらに暗い色合いをした、墨のように黒い肌だ。

 その肌が、どきりとするほど大胆にあらわにされている。その艶めかしい肢体にぴったりと吸い付くようなデザインの宴衣装で、胸もとは腹に達しそうなほど深くVの字に切れ込みが入っており、足首まであるスカートも腿まで達するスリットが入っていた。


 なんだかハリウッドスターのパーティードレスめいた様相であり、剥き出しの腕や胸もとにはシルバーで統一された飾り物が光り輝いている。そして宴衣装そのものは黒一色であったのだが、そちらもまた光を反射させる素材であったために、彼女自身が光り輝いているかのようだった。


 いつもはきっちりとまとめられている黒髪が、本日はポニーテールの形に結いあげられている。その結び目や耳にも銀の飾り物が下げられており――アンズ形をした大きな目や端麗な顔立ちと相まって、彼女はヤミル=レイに負けないぐらい妖艶で美しかった。


「どうだい、ヴィケッツォは美しいだろう? 彼女は黒神竜の民たる母親から、美しい容姿と勇敢な魂の両方を受け継ぐことがかなったのだよ!」


 と、ヴィケッツォのなめらかな肩を引き寄せながら、ティカトラスが自慢げに言いたてた。ヴィケッツォは目もとに恥じらいの色をにじませつつ、ちょっと恨めしげに横目で父親をにらみつける。


「いっぽうデギオンはずいぶん武骨な容姿に育ってしまったが、これはきっとわたしの母方の血筋だろうね! わたしの母は武門貴族の出であったため、恵まれた体格と剣士としての才覚を受け継いだわけだ! 剣技の美しさに関しては、ヴィケッツォにも劣るものではないよ!」


 ティカトラスは呵々大笑しながら、手の甲でデギオンの胸もとを小突く。デギオンは骸骨のように骨ばった顔に何の感情もうかがわせず、ただ黙然と一礼した。


「どちらも、わたしにとっては自慢の子だ! 祝宴の間は護衛の役目も半分がた休むことになるので、君たちもそのつもりで交流を深めてくれたまえ!」


「半分がたということは、護衛の役目を完全に忘れるわけではないのだな?」


 ゲオル=ザザの問いかけに、ティカトラスはにんまりと微笑んだ。


「わたしは完全に休ませたいのだけれども、当人たちが納得してくれないのでね! まあ、彼らは素手でも並々ならぬ力量であるから、暴れる酔漢を大人しくさせるぐらいはお手のものさ!」


「だろうな」と、ゲオル=ザザもふてぶてしく笑う。いっぽうゼイ=ディンは、静謐な面持ちでヴィケッツォらの姿を検分している様子であった。


「では、そろそろ祝宴を始めようか! アイ=ファには壇上に上がってもらいたいので、わたしたちと一緒に来てくれたまえ!」


 礼賛の祝宴においては俺の付添人として上がることになった、壇上だ。アイ=ファは俺とゲオル=ザザに目配せをしてから、ティカトラスとともにそちらへと通ずる階段のほうに向かっていった。


 しばらくして、銅鑼のように盛大な金属音が響きわたる。

 そして、これまで優美であった楽曲が勇壮な行進曲のようなものに変更され、広間の招待客たちに歓声をあげさせた。


 その楽曲のリズムに乗って、ティカトラスが壇上への階段を踏み越える。ヴィケッツォ、アイ=ファ、デギオンの順番でそれに続き、4名が壇上に立ち並ぶと、いっそうの歓声と拍手が巻き起こった。


「今日はご来場、ありがとう! まずはわたしの画家としての情念をこれ以上もなくかきたててくれた、アイ=ファを紹介させていただくよ!」


 城下町らしい作法などおかまいなしで、ティカトラスはそのようにわめきたてた。

 アイ=ファはしかたなさそうに、壇上で一礼する。その美しさに、あちこちから新たな歓声があげられた。


「アイ=ファの美しさが、わたしの魂を奮い立たせてくれた! わたしがこれほどの情熱でもって絵筆を走らせたのは、ほとんど数年ぶりのことだろう! その情念の結晶を、どうか数多くの人々にも見届けてもらいたい!」


 壇上の壁には、布で隠された3枚の肖像画が掲げられている。ティカトラスの合図で小姓たちがそれらの布を取り去ると、壇に近い場所に控えていた貴族の面々が感嘆の声をほとばしらせた。


 アイ=ファの美しさがそれぞれ塗り込められた、3枚の肖像画だ。

 数日ぶりに見るその見事さに、俺もまた胸を躍らせることになった。


「これらの肖像画は、祝宴の終わりまで飾らせていただくからね! どうかこの一夜で、アイ=ファの美しさを心に焼きつけてくれたまえ!」


 ティカトラスが煽るたびに、会場からは歓声が巻き起こる。これもまた、過半数が貴族でない証である。普段の気品が損なわれる代わりに、そこには闘技場もかくやという熱気が生まれていた。


「そしてこの夜は、ジェノスの城下町の名うての料理人たちに、料理を準備してもらったからね! 美食と美酒に酔いしれて、今日という日を寿いでもらいたい! それでは、祝宴を開始してくれたまえ!」


 広間の入り口の扉が開かれて、ワゴンを押す侍女や小姓たちが騎馬隊のようになだれ込んできた。

 これもまた、ティカトラスの考案した演出であるのだろう。楽団の演奏も相変わらず行進曲のような元気さで、それがいっそう人々を昂揚させるようであった。


「ふん。これは何やら、宿場町の婚儀を思わせる賑やかさだな」


 と、ゲオル=ザザが笑いを含んだ声で耳打ちしてくる。

 確かに俺たちが知る中では、宿場町の広場で行われたレビとテリア=マスの婚儀の祝宴が、もっとも近い様相であったかもしれない。貴き身分にある人々はつつましく内心を隠しながら、広間に吹き荒れる熱狂のさまを見守っているようであった。


 そうして開会の挨拶を終えたティカトラスは、意気揚々と壇の下に舞い戻ってくる。4名全員が階段を下りると、たちまち礼装を纏った武官たちが階段の前に立ちはだかった。大事な肖像画を守るために、壇上に上がることは禁止されるのだろう。


「やあやあ、お待たせしたね! この後は傀儡の劇と舞踏の時間を準備しているぐらいなので、みんな自由に過ごしてくれたまえ! わたしたちも、そうさせてもらうからね!」


 アイ=ファを俺たちのもとまで送り届けると、ティカトラスはヴィケッツォとデギオンだけを引き連れて、広間のど真ん中へと突撃していった。

 その後ろ姿を見送ってから、ゲオル=ザザは「ふふん」と鼻を鳴らす。


「アイ=ファにつきまとうのかと思いきや、そんな素振りもないようだ。あやつは自分で言っていた通り、肖像画というものを描きあげることによってアイ=ファに対する執心を打ち捨ててみせたのだな」


「ええ。わずか3日で打ち捨てられる執心など、たかが知れているのではないかと思っていましたが……あの肖像画というものには、確かに深い情念が刻みつけられているように感じます」


 スフィラ=ザザは、落ち着いた声でそのように応じていた。

 大役を果たしたアイ=ファは、こっそり深々と息をついている。


「何にせよ、私は役目を終えられたようだ。では、この後は――」


 アイ=ファがそのように言いかけたところで、蝶々の群れめいたものが殺到してきた。アイ=ファに挨拶をするべく虎視眈々と機会を狙っていた、若き貴婦人の群れである。そうして俺は、あれよあれよという間にアイ=ファから引き離されてしまったのだった。


「アイ=ファの役目は、終わっていなかったようですね。これもまた、城下町の祝宴にはつきものの習わしということでしょう」


 そう言って、スフィラ=ザザは俺に淡く微笑みかけてきた。


「アイ=ファの苦労が減じるように、わたしが力を添えましょう。アスタはその間に、他の貴族たちへの挨拶を済ませてはどうでしょうか?」


「え、でも……スフィラ=ザザは、大丈夫なのですか?」


「わたしも前回の祝宴で、多少は経験を得られましたので」


 そんな言葉を残して、スフィラ=ザザは華やかな色彩をかき分けていった。

 すると今度は、まだこの場に留まっていたレイリスが笑いかけてくる。


「礼賛の祝宴では、スフィラ=ザザも同じ目にあわれていましたからね。挨拶回りをされるのでしたら、わたしがご案内しましょう」


「うむ。俺も同行してやれば、アイ=ファが気をもむこともあるまい」


 ゲオル=ザザはにやりと笑い、ジェノス侯爵家の人々と寄り添っているディンの父子へと視線を飛ばした。


「そんなわけで、俺たちは他の貴族らに挨拶をしてくるぞ。そちらも好きに振る舞うがいい」


「ありがとうございます」と、トゥール=ディンが笑顔を返してくる。そのかたわらでは、オディフィアが透明の尻尾をぱたぱたと振りながらぴったりと付き従っていたのだ。


 そうして俺はレイリスとゲオル=ザザにはさまれて、挨拶回りをすることになった。

 広間には山のような料理が運び込まれて物凄い騒ぎになっているが、半数ぐらいの貴族は奥側のスペースに留まったままであったのだ。なおかつ、身分の高い貴族ほど、そう簡単には動かない様子であったため、俺が親しくさせていただいている人々はのきなみ居残っているのではないかと思われた。


「ああ、アスタ。ようやく挨拶をできたわね」


 と、黄色い宴衣装を纏ったリフレイアが、すました顔で貴婦人の礼をしてくる。彼女もすっかり髪がのびて、もう出会った頃と同じぐらいの長さに戻っていた。


「おひさしぶりです、リフレイア。それに、トルストとシフォン=チェルも。……あ、今日は他のみなさんもご一緒だったのですね」


 他のみなさんとは、すなわちムスルとサンジュラである。騎士階級であるムスルはレイリスと同じように祝宴の場で出くわすことも珍しくはなかったが、サンジュラが参じているのはおそらく初めてのことであった。


「ええ。今日は貴き身分ならぬ方々も大勢招待されるという話であったので、こちらも従者を参席させることは許されるかしらと打診してみたの。ティカトラス殿は、ふたつ返事で了承をくれたそうよ」


「それは何よりでしたね。みなさんも、おひさしぶりです」


 実のところ、この中でもっとも顔をあわせる機会が多いのは、屋台まで買い出しに出向いてくるサンジュラだ。ただし彼は準礼装ぐらいの立派な装束を纏っていたために、まったく見違えていた。


「ティカトラス殿と実際に顔をあわせたのは、今日が初めてだったのだけれどね。シフォン=チェルとサンジュラのことを美しい美しいと褒めちぎっていたわよ。シフォン=チェルなんて、危うくダームに連れ去られそうだったもの」


「はい……ですが、わたくしがリフレイア様のおそばを離れることはありえません」


 シフォン=チェルが優しげな微笑とともに答えると、リフレイアはすました面持ちのまま甘えるような眼差しをした。彼女たちとお会いするのもひさびさのことだが、相変わらずの睦まじさのようで何よりである。


「ユーミやテリア=マスたちも、みんなリフレイアに会いたがっていましたよ。この騒ぎだと、ちょっと時間がかかりそうですけれども」


「本当にね。礼賛の祝宴より人数が少なくても、それに負けないぐらいの騒ぎだわ。でもまあ貴族だけの祝宴よりは、よほど楽しみも多いことでしょう」


 そのとき、ふわりと近づいてくるふたつの人影があった。

 フェルメスとジェムドの主従である。貴族としては控えめな宴衣装ながら、長い髪を結いあげて瀟洒な飾り物をつけたフェルメスは、相変わらず貴婦人のように優美であった。


「あ、フェルメス。この前の晩餐会ではろくに挨拶もできず、失礼しました。王都に届けられた調書について、ずっとお礼を言いたいと思っていたのです」


「僕はごく公正な目で見たジェノスの様相を書き記しただけなのですから、何もお礼には及びません」


 そんな風に述べてから、フェルメスはさらに接近してきた。


「ところで、アスタに内密の話があるのですが……少々お時間をいただけますでしょうか?」


「あら。わたしも挨拶を交わしたばかりなのに、もうアスタを連れていってしまうの?」


 リフレイアが不平の声をあげると、フェルメスは変わらぬ笑顔でそちらに向きなおった。


「ほんのわずかな時間です。すぐにお返ししますので、どうかご了承ください」


「しかし、アスタをひとりにすることはできんぞ」


 ゲオル=ザザがずいっと進み出ると、フェルメスはそちらにも優美な微笑みを届けた。


「もちろんです。アスタは同胞に秘密を持ったりはしないのでしょうから、森辺の方々の同席を拒む理由はありません」


 そうして俺はゲオル=ザザとともに、広間のさらに奥まったスペースにまで連行されることになった。

 どこに行っても無人になることはありえないが、これだけ騒がしければ密談を盗み聞かれる恐れもないだろう。しかしフェルメスはほとんど囁くようにして語り始めた。


「ティカトラス殿はしばらく宿場町に滞在されていたのですよね? その間、アスタの屋台にもたびたび通われていたのでしょう? 何か、不測の事態が生じたりはしていないでしょうか?」


「不測の事態ですか……俺にとっては、あのお人の存在そのものが不測なのですけれども」


「では、何かアスタの警戒心をかきたてるような言動はなかったでしょうか?」


 それもまた、答えづらい質問である。というか、フェルメスの質問が抽象的すぎるのではないかと思われた。


「具体的には、どういった言動でしょう? 俺としては、アイ=ファの肖像画の一件が一番困惑させられた出来事なのですが」


「そうですか。僕自身、具体的な不安を抱えているわけではないので、確たることを言えずに申し訳ありません」


 そんな風に言いながら、フェルメスは神秘的に輝くヘーゼルアイで至近距離から俺を見つめてきた。


「ただ僕は、漠然とした不安を抱えてしまっています。どうかそれをお聞き願えるでしょうか?」


「もちろんです。フェルメスは、どういった不安を抱いておられるのですか?」


「それは……多大な知識と鋭い鑑識眼を有しながら、知性と理性に欠けているという、ティカトラス殿のきわめて特異な人柄に由来する不安となります」


 ずいぶん容赦のないことを言いながら、フェルメスは白魚のような手で俺の手をぎゅっと握りしめてきた。


「ああいった御方であれば、森辺の民に強い関心を抱くのも当然のことでしょう。ただ……アスタ個人に際立った関心を寄せていないように見えるのが、いささかならず不安であるのです」


「え? 俺に関心を寄せていないことが、不安なのですか?」


「はい。あれほどの鑑識眼を持ちながらアスタに際立った関心を寄せないことなど、ありえませんので」


 そのように語るフェルメスは、秀麗な形をした眉をいくぶん切なげに下げていた。


「たぶん僕は何もかもを先回りして考えてしまう人間であるため、自分の理解の及ばない事態というものに弱いのでしょう。何も心配はいらないかと思うのですが……でも、どうか警戒だけは怠らないでください。アスタや森辺の方々が最大限に警戒してくだされば、僕も何とかこの不可解な不安感をなだめることができるように思います」

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― 新着の感想 ―
[一言] 「星無き民」バレか~
[一言] フェルメスでさえこんな心配するほどとか大したご仁だよなティカトラスw
[一言] 国王の密偵ルート来たわね
感想一覧
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