西の果ての道楽者⑤~同行~
2022.4/15 更新分 1/1
翌日――俺はアイ=ファとともに、早朝から城下町へと出立することになった。
大事な家人たちはフォウ家に預けて、ひさびさのギルルにふたり乗りである。ルウの集落に到着すると、眠たげにまぶたをこするルド=ルウに「よー」と出迎えられた。
「ほんとにアスタも来たんだなー。……ところでアイ=ファは、どうして雨季の装束なんざ着込んでるんだ?」
「……たとえ家人であっても、むやみに素肌で触れ合うべきではなかろうからな」
「へー。昔は普通に、べったりひっついてなかったっけ?」
顔を赤くしたアイ=ファがギルルのくちばしで頭をつつかせようとすると、ルド=ルウは「にっひっひ」と笑いながらそれを回避した。
「ま、喋る相手が増えるのは、俺としても大歓迎だよ。なんせあの貴族の従者連中は、愛想がねーからなー」
「うむ。あやつらは森辺の狩人を警戒しているのであろうな。かまど番たるアスタが加われば、少しは心を安らがせるやもしれん」
そう言って、シン=ルウは真っ直ぐな眼差しを俺に向けてきた。
「何にせよ危険はなかろうし、危険があっても俺たちがアスタを守り抜いてみせよう。アイ=ファも懸念なく、自らの仕事を果たすがいいぞ」
「うむ。お前たちの力量を信じてのことだ。どうかアスタをよろしくお願いする」
そうして俺たちは、一列になって城下町を目指すことになった。
荷車を使わないのは、もちろん往復の時間を短縮させるためである。アイ=ファもいったん依頼を受けたからには、相手のために最大限の便宜をはかろうとしているのだ。
ちなみに今回の一件には、謝礼金というものも存在しない。アイ=ファと三族長の協議の末、これは王都の貴族と正しい絆を結ぶための行いであり、銅貨のやりとりは不要であると、こちらから申し出たのである。ただ、アイ=ファは朝方の仕事を行えなくなるため、本来得られるはずであった薪とピコの葉とリーロの葉に相当する銅貨を要求したのみであった。
ほとんど夜明けと同時に出立したため、宿場町の街道も閑散としている。しかし町の法を犯すことは許されないため、そこではきちんとトトスを降りて、宿場町の区域を出たのちに、またトトスを駆けさせる。そうしてファの家を出て半刻もしない内に、城門に到着した。
こちらもまた、早朝は人気が少ない。そこで待ち受けるのは、ジェノス侯爵家の紋章が掲げられたトトス車だ。その手綱を握るのは、顔馴染みである初老の武官であった。
「ガーデルは、まだ傷の具合が思わしくないのですか?」
俺がそのように尋ねると、初老の武官は気さくに「ええ」と答えてくれた。
「あやつはいっこうに熱が下がらないため、もうひとたび傷口を開いて筋や骨を検分することに相成ったのです。手当てを最初からやりなおしたようなものですので、もうしばらく休養が必要となりましょうな」
「そうですか……それはお気の毒なことです」
ガーデルは飛蝗の騒ぎの際、俺の身を案じて大暴れして、肩の古傷を悪化させることになってしまったのだ。だから俺は心から申し訳なく思ったのだが、初老の武官はいくぶん厳しい面持ちとなって「いえ」と答えた。
「あやつは虚言で職務を放り出し、宿場町まで出向いておったのです。以前の功績から罪に問われることはありませんでしたが、これも西方神の取りはからいであるのでしょう。不実な行いには、罰が下されるものであるのです」
そうは言っても、彼は俺のためにそのような真似をしでかしたのだから、俺としては忸怩たる思いであった。
しかし、この武官とそのような話を論じ合っても詮無きことであるので、大人しくトトス車に乗り込むことにする。ガーデルについては、早く容態が安定するようにとひそかに祈るしかなかった。
「俺たちがあいつに出くわしたのって、たしか復活祭の前ぐらいだったよなー。ってことは、またそれぐらいの時期まで寝込んじまうってことなのかなー」
と、しっかり聞き耳を立てていたらしいルド=ルウが、車に揺られながらそのように言いたててきた。
「ああ、そうか。《颶風党》の騒ぎがあったのは灰の月だったから、ガーデルが深手を負ったのも去年のこれぐらいの時期になるわけだね」
「ああ。そんで、紫の月に出くわしたときにも、あいつはまだ傷を痛がってたもんなー。ま、生命に関わるような深手だったんなら、それも当然なんだろうけどよー」
「うむ。死に物狂いの人間というものは、思わぬ力を発揮するものであるからな。シルエルなる悪漢はよほどの執念を携えていたのであろうから、深手を負いつつも仕留めたガーデルなる者は、実に大した剣士であるのであろう」
そんな風に応じるシン=ルウは、ガーデルを褒めることで俺の気を和ませようとしてくれているように思えた。シン=ルウというのは、そういう優しい気性であるのだ。
俺がそれをありがたく思っている内に、トトス車は四半刻ていどで停止した。
おそらくは、貴族の住まうエリアに到着したのであろう。扉が開かれて、内部の人間の顔ぶれを確認されたのち、再びトトス車は動き始めた。
それから今度は数分ていどで、目的地に到着したことが告げられる。
アイ=ファから事前に伝えられていたが、そこは俺たちにもお馴染みの白鳥宮であった。その一室が、ティカトラスの作業部屋に割り振られたという話であったのだ。
「おお、アイ=ファ! 待っていたよ! この半日が、1年の長さに感じられたほどだ!」
と、白鳥宮の入り口をくぐるなり、ティカトラスと2名の従者に出迎えられた。
そのティカトラスの風体に、俺はぎょっとさせられる。彼はけばけばしい装束から真っ白の長衣に着替えていたのだが――その長衣のみならず、顔や指先までもがあちこち絵具でカラフルに染められてしまっていたのだ。
「さあさあ! ではまず身を清めて、昨日の衣装に着替えてくれたまえ! わたしは部屋で待っているからね!」
ティカトラスはアイ=ファ以外の人間に注意を向けることなく、意気揚々と歩き始める。その後をついて歩きながら、ルド=ルウがうろんげな声をあげた。
「なあ、あんたはきちんと眠ったのか? ずいぶんしんどそうな顔になってるぜー?」
「しんどい? 滅相もない! 確かに昨晩はずっと画布に向かい合っていたけれど、気づいたら床で眠りこけていたからね! まあ、一刻や二刻は眠ったのだろうと思うよ!」
「一刻や二刻じゃ、眠りが足りねーんじゃねーの?」
「わたしは今、アイ=ファの美しさを画布に描き尽くすという崇高な行いに取り組んでいるのだよ! このように昂揚していたら、そんなのんびり眠ってはいられないさ!」
ティカトラスは呵々と笑ってから、「そうだ!」と俺に向きなおってきた。
「ファの家のアスタ! 晩餐会についてだけれどね、それは明後日の8日にお願いしたく思っているよ!」
「え、あ、はい。期日を決定するには、族長の了承が必要となるのですが……その日取りをお伝えすればいいですか?」
「うん! アイ=ファに明日まで通ってもらえれば、遅くとも明後日の朝には完成するだろうからね! その夜の晩餐会で、アイ=ファに完成した肖像画を見届けてもらいたいのさ!」
では、アイ=ファもすでに招待客に含まれているということである。俺は返事に困ってしまったが、アイ=ファが代わりに冷ややかな声をあげてくれた。
「森辺の族長とジェノスの貴族の了承も得られぬまま、我々が返答することは許されない。まずはそちらがジェノスの貴族に話を通し、しかるのちに族長まで使者を送るべきではなかろうか?」
「アイ=ファが言うなら、その通りに! デギオン! あとでメルフリード殿に話を通しておくようにね!」
「かしこまってございます」と、デギオンは陰気な声で応じた。
相変わらず、デギオンとヴィケッツォは無表情のまま、静かな気迫を漂わせている。浮かれに浮かれた主人とは、まるきり対照的な従者たちであった。
やがて浴堂に到着すると、そこに待ち受けていたのはシェイラである。
シェイラがお行儀よく一礼すると、デギオンは「よろしくね!」と言い置いて回廊を突き進んでいった。もちろん従者たちもそれに追従しているので、その場には俺たちとシェイラだけが取り残される。
「本日は、アスタ様もいらしたのですね。どうもご足労様です」
「はい。昨日もシェイラがお召し替えを手伝ってくれたそうですね」
「ええ。ポルアース様から、こちらの仕事を賜りました」
アイ=ファを着飾らせることに大きな意欲を持つシェイラは、とても嬉しそうだった。
「では、アイ=ファ様はこちらにどうぞ。……あ、アスタ様。ルイアはお屋敷にて、問題なく仕事をつとめあげております。今頃は、ニコラからかまど仕事を習い覚えていることでしょう」
「そうですか。どうもありがとうございます」
そうしてアイ=ファはシェイラとともに、浴堂へと消えていった。
それを待つ間、ルド=ルウが補足説明をしてくれる。
「アイ=ファから聞いてるかもしれねーけど、昨日はポルアースやメルフリードも居揃ってたんだよ。でもまあ特に問題はなかったんで、今日は来なかったんだろうなー。ただ扉の外で待ってるだけなんて、退屈なだけだからよー」
「ルド=ルウとシン=ルウには、本当に感謝してるよ。……でもこの白鳥宮は、ジェノスの兵士に守られてるんだよね?」
「ああ。建物の外側を守ってるんだよ。あの貴族がなるべく余計な人間を入れないでほしいとか言ってたから、アイ=ファの護衛は俺たちだけで受け持つことになったんだ」
「うむ。ポルアースは申し訳なさそうにしていたが、外から新たな曲者でも入り込んでこない限りは、何も危険はなかろうからな。建物の内部を空にする分、出入り口を堅く守ってくれているはずだ」
「そっか」と、俺は思案を巡らせた。
「でも、逆に考えると……ティカトラスは、完全に森辺の民を信用してるってことだね。ルド=ルウたちなら、あの従者たちに後れを取ることもないんだろ?」
「そりゃそーさ。ひとりでふたりを相手取るのはしんどそうだけど、シン=ルウとふたりでなら楽勝だなー。……ただ、あの貴族は俺たちを信用してるんじゃなく、そこまで頭が回ってねーだけだろ。アイ=ファの絵を描くのに夢中でさ」
「うむ。その分、あの従者たちが気を張ってしまっているということだ」
では、ティカトラスは自らの従者たちにまで気苦労をかけているということだ。つくづくお騒がせな人物であるようであった。
そうしてしばらくすると、アイ=ファとシェイラが浴堂から戻ってくる。
その姿に、俺は思わず息を詰まらせてしまった。アイ=ファはまた、俺が初めて目にする宴衣装を纏っていたのである。
様式としては、ジェノスでよく見るドレスのような装束だ。襟ぐりがものすごく開いていて、スカートの裾が大輪のようにふわりとたなびく、西洋風の宴衣装である。ただ、フリルのひだの1枚ずつがものすごく凝ったレースになっていたり、袖や裾の刺繍がものすごく精緻であったり――とにかく、城下町の祝宴でもそうそう見られないような豪奢さであった。
なおかつ、基本の生地は真紅であり、見ようによってはひどくけばけばしい。きっとアイ=ファぐらい秀麗な容姿とプロポーションをしていなかったら、衣装に負けてしまうことだろう。それでアイ=ファは、かつてないほどのきらびやかな姿に飾りたてられていたのだった。
褐色の肌には淡い色合いのほうが似合うのではないかと思っていたが、この濃厚な真紅はアイ=ファの美しさをいっそう際立たせている。そして、アイ=ファの金褐色の髪と数々の銀細工が、そこにさらなる輝きを添えているのだ。そしてアイ=ファは、このような際にも俺の贈った髪飾りと首飾りを装着してくれていたのだった。
「如何です? 素晴らしい美しさでしょう? このように麗しいお姿を、わたくしたちだけしか目にすることができないなんて……なんだか口惜しくなってしまうほどです」
と、シェイラはほとんど陶酔しきった眼差しになってしまっている。
が、それはきっと俺も同じことであったのであろう。アイ=ファは無言のまま頬を赤らめ、俺の頭を優しく小突いてきたのだった。
「では、行くぞ。アスタはくれぐれも、ルド=ルウたちから離れるのではないぞ」
「う、うん。了解」
アイ=ファはかつてシェイラから習い覚えたという城下町の作法で、おしとやかに歩を進めていく。その姿に、俺はまた心を奪われてしまった。
ティカトラスは、この美しさをキャンバスに描きとめようと腐心しているのだ。
俺は、ほんの少しだけ――そして初めて、ティカトラスの情熱に共感できたような気がしてしまった。
回廊を少し進むと、大きな扉の前に到着する。
その扉の向こうは6帖ていどの控えの間になっており、デギオンとヴィケッツォが彫像のように立ち並んでいた。
アイ=ファは最後に俺へとうなずきかけてから、単身でさらにその奥へと進んでいく。デギオンが無言で扉を開くと、アイ=ファはその中に消えていき――あとには、ふたりの従者と3名の森辺の民だけが残された。
「さーて。あとは中天の一刻前まで、また待ちぼうけだなー」
そんな風に言ってから、ルド=ルウは俺の耳もとに口を寄せてきた。
「気配を探ったけど、あの部屋にはアイ=ファと貴族のふたりだけだ。アイ=ファは手ぶらでもあんな貴族には後れを取らねーから、心配すんな」
「わかった。ありがとう」
デギオンとヴィケッツォは門番のように、扉の前に立ちはだかっている。ルド=ルウとシン=ルウはそれに向かい合う格好で回廊に面した壁にもたれかかったため、俺もその隣に並ぶことにした。
「なー。あんたたちの主人はロクに眠ってねーみたいだけど、きちんと食事はしてんのか? どうも、そんな風には見えねーんだよなー」
「……あなたがそのような話を聞いて、何になるというのです?」
ヴィケッツォが、感情を殺した声音で問い質してくる。その黒い双眸に浮かぶのは、警戒心に満ちみちた眼光だ。
「ただ気になるから聞いただけだよ。食事や眠りをおろそかにすると、病魔に見舞われちまうもんだしなー」
「……それを案じるのは我々の役目であり、あなたには関わりのないものと思われます」
「な? 何を聞いても、こんな感じなんだよ。喋り甲斐がないったらねーよなー」
そう言って、ルド=ルウは頭の後ろで手を組んだ。いっぽうシン=ルウは胸の前で腕を組んで、眼前のふたりを見つめている。どちらもリラックスしたたたずまいだが――ただ視線をまったく外そうとしないのは、この両名の力量を軽んじていない証拠なのだろうと思われた。
「デギオンに、ヴィケッツォでしたよね? お会いするのは4日ぶりですが……ジェノスの滞在は如何でしょうか?」
俺がそのように声をあげると、デギオンが190センチの高みから落ちくぼんだ目で見下ろしてきた。
「あなたとお会いするのは……5日ぶりであったかと思われます」
「あ、そうか。2日目の夜は、顔をあわせていませんでしたね。俺はおふたりの声だけうかがっていましたけれど……」
「それは、あなたの主人が我々の主人を屋外に立たせていたゆえです」
と、ヴィケッツォが鋭く言葉を差しはさんでくる。
その姿に、ルド=ルウが「ふーん」と声をあげた。
「あんたはあんまり表情を動かさねーけど、やっぱり西の民なんだろうなー。東の民だったら、そんな風に勢い込んで声をあげないだろうしよー」
「……わたくしの出自に、何か懸念でも覚えておられるのでしょうか? 西方神の宣誓が必要でしょうか?」
「いや、別にあんたが西の民でも東の民でもかまわねーんだけどさ。ただ、俺たちの知る東の民とか混血の人間とはずいぶん気配が違うみてーだから、ちっとばっかり気になっただけだよ」
すると今度は、デギオンがルド=ルウの言葉に反応した。
「……あなたは西と東の混血たる人間と面識があるのでしょうか? やはりシムに近いジェノスにおいては、東との混血が進んでいるのでしょうか?」
「俺が知ってるのは、2,3人だなー。ヴァルカスっていう料理人の弟子だとか、宿屋の女主人だとか……あとは、リフレイアにひっついてるサンジュラか。あいつのことなんかは、フェルメスやその前の連中が書いた調書とかいうやつにも書いてあったんじゃねーの?」
「リフレイア……ああ、なるほど。その人物の腹違いの兄ではないかと見なされていた人物でありますか。あなたがたは、トゥラン伯爵家の当主とも懇意にされているわけですね」
それだけ言って、デギオンはぴたりと口をつぐんでしまう。ルド=ルウは、退屈そうに黄褐色の頭をかいた。
「あんたたちって、こっちの話を探るばっかりで、自分たちのことは何にも語ろうとしねーよなー。これじゃあ絆も深められねーよ」
「……絆?」
「ああ。俺たちは、絆を深めるべき立場だろ?」
デギオンは無言のまま、ただ細長い首をうろんげに傾げた。ヴィケッツォもまた、探るようにルド=ルウの姿を見据えている。それで俺も、加勢の声をあげることにした。
「俺たちは、王都の方々とも正しく絆を深められるように心がけています。そういった話は、オーグやフェルメスから告げられていないのでしょうか?」
「……我々は従者に過ぎませんので、貴き身分にある外交官殿と直接口をきく身分にはありません」
「そうですか。でも、平民である俺たちにご遠慮する理由はありませんよね。よろしければ、これを機会に絆を深めさせていただきたく思います」
「何故でしょう?」と、今度はヴィケッツォが問い質してくる。なんとなく、彼らは彼らでおたがいを補い合っているような印象であった。
「森辺の民は長きにわたって閉鎖的な生活に身を置いていたため、さまざまな相手と交流を深めることで、正しく生きていくための道筋を見定めようと心がけています。小さき氏族の家人に過ぎない俺などがこんな話をするのは、おこがましいかもしれませんが――」
「何もおこがましくはねーだろ。外界の連中と正しく絆を深めるべしってのは、家長会議で認められた話なんだからよ」
「うむ。そのきっかけを与えてくれたのは、アスタに他ならないのだしな」
と、シン=ルウもひさびさに発言した。
「だから我々は、そちらの両名とも絆を深めたく思っている。せっかくこのように何刻も顔を突き合わせることになったのだから、絶好の機会ではなかろうか?」
「……それは、あなたがたの都合です。我々に、応じる義務はありません」
デギオンの素っ気ない返答に、俺はしつこく食い下がってみせる。
「でも、あのティカトラスという御方は1年の半分以上をダームの外で過ごされているのでしょう? それに付き従うあなたがたは、いつもそうして外界の人間と距離を取られているのですか?」
「……我々の役目は、ティカトラス様の御身をお守りすることです。それ以外の話に気を向ける理由はありません」
「確かに貴族の従者ってのは、愛想のないやつが多いよなー。でも、絆を深めておたがいに悪人じゃないって確かめられたら、少しは気苦労が減るんじゃねーの? こんな何刻も気を張ってたら、あんたたちも疲れるだろ」
「……たとえあなたがたが善人であろうとも、わたくしどもに気を抜くことなど許されません。それは、あなたがたもご同様なのでは?」
「そりゃまー確かにな」と、ルド=ルウは頭の後ろで手を組んだまま、器用に肩をすくめた。
それを最後に、控えの間には静寂がたちこめる。扉の向こうも静まりかえっているために、耳が痛くなるほどの静けさだ。それで俺が沈黙に耐えかねて、隣のルド=ルウに声をかけようとしたとき――回廊につながる扉のほうが、控えめにノックされたのだった。
「失礼いたします。ジャガルの王族デルシェア姫が、アスタ様にご面会をご所望です」
デギオンとヴィケッツォは無言のまま、俺を見据えてくる。俺はわけもわからぬまま、目を泳がせることになった。
「す、すみません。デルシェア姫をこちらにお招きしてもよろしいでしょうか?」
「……姫君はあなたとの面会をご所望なのですから、あなたのほうから出向くべきでは?」
「そ、それがですね、俺はルド=ルウたちから離れないようにと家長から厳命されておりまして……」
ヴィケッツォは軽い苛立ちを目もとににじませながら、毅然とした足取りでこちらに近づいてきた。俺はルド=ルウに腕を引かれて壁際に寄り、ヴィケッツォは油断のない挙動で扉を引き開ける。
「ぶしつけに押しかけてしまって、申し訳ありません。今日はアスタ様もいらっしゃるかもしれないとお聞きして、ご挨拶に参りましたの」
朗らかな声で言いたてながら、デルシェア姫がしずしずと入室してくる。それに付き従うのは2名の武官と――そして、フェルメスの従者たるジェムドであった。
「……ジェムド殿、何故にあなたがデルシェア姫とご一緒に?」
「ジェムド様はフェルメス様のご命令で、こちらの警護に問題がないかご確認に参られていたそうですわ。それでお姿をお見かけしたので、わたくしのほうからお誘いしましたの」
デルシェア姫が無邪気な笑顔でそのように説明すると、ヴィケッツォは感情を殺した面持ちで一礼し、所定の場所まで退いた。やはり彼女たちも、ジャガルの王族たるデルシェア姫の行動に文句をつけることはできないのだ。
いっぽうジェムドは、いつも通りの穏やかな無表情で屋内の人間を見回していく。それと目が合うなり、ルド=ルウが気安く「よー」と声をあげた。
「あんたがひとりでうろついてるなんて、珍しいなー。でもまあ、喋る相手が増えるのはありがたいこった」
「恐縮です」と、ジェムドは深みのあるバリトンの声で答える。5日前にも顔をあわせたばかりであったが、ジェムドの美声を耳にするのはずいぶんひさびさのことであった。彼もまた、主人のもとでは影のように控えて出しゃばろうとしない人間であるのだ。
「ティカトラス様は、あちらでアイ=ファ様の肖像画を描かれているのですわね? やっぱりご挨拶を申し上げるのはご迷惑になってしまうのかしら?」
「……はい。ジャガルの王族たるデルシェア姫には大変失礼な申し出であるのですが、何卒アイ=ファなる人物がお帰りになられる刻限まではご遠慮いただけないかと……」
「かまいませんわ。わたくしだって、調理の邪魔をされたらとても腹立たしく思ってしまいますもの」
どれだけおしとやかに振る舞おうとも、デルシェア姫の表情や声音には活力があふれかえっている。そしてその目がきらきらと輝きながら、俺のほうを見つめてきた。
「アスタ様、晩餐会のことはお聞きになられた?」
「あ、はい。ティカトラスは、2日後を希望しておられるそうですね」
「ええ。わたくしも、その晩餐会にお招きされましたの。アスタ様の料理もティカトラス様の肖像画も心待ちにしておりますわ」
では、ティカトラスは俺たちの了承を得る前から、すでに招待客へと声をかけていたのだ。しかしまあ、今さらそのていどのことで目くじらを立ててもしかたがないのだろう。
「つい3日前にもサトゥラス伯爵家の晩餐会にお招きされて、レイナ=ルウ様の料理をいただいたのですけれど、それは素晴らしい出来栄えでしたわ。レイナ=ルウ様はアリアやタラパを使えないことを嘆いておられたけど、そんなことはこれっぽっちも気にならないような味わいでしたもの。城下町での勉強会が、ますます楽しみなところですわね」
「あ、その件に関しては――」
俺が慌てて謝罪の言葉を口にしようとすると、デルシェア姫に「いいのですわ」とさえぎられた。
「アスタ様もお忙しい身なのですから、お時間ができたらよろしくお願いいたします。森辺の方々と城下町の方々で行われる勉強会なんて、想像しただけで胸が弾んでしまいますわ」
その勉強会にはデルシェア姫もお招きする予定であり、こちらもヤンからポルアースのルートで延期のお願いをしていたのだ。しかしきっと延期の理由は、ティカトラスの従者たちに聞かせるべきではないのだろう。それでデルシェア姫も、このように気を回してくれたのだと思われた。
「あなたがたもティカトラス様とご一緒にさまざまな土地を巡って、美味なる料理を楽しまれていたのでしょう? 心から羨ましく思いますわ」
と、デルシェア姫がふいにヴィケッツォたちへと矛先を切り替えた。
ヴィケッツォは厳しく表情を引き締めたまま、「はい」とだけ答える。しかしデルシェア姫は、めげずに笑顔で言葉を重ねた。
「でも、南の王都までは足をのばされていないというお話でしたわね。ティカトラス様は、ジャガルの土地にご興味を持たれていないのかしら?」
「いえ。ジャガルの地にも、何度となく足を運ばれています。ただ、南の王都はあまりに遠いもので……」
「そうかしら? 陸路でジャガルを目指すにはゼラド大公国を迂回しないといけないから、なかなかのお手間なのでしょう? 海路で南の王都を目指すほうが、まだしも安楽なのではないかしら?」
「……ティカトラス様は、船を苦手とされているのです」
「まあ」と、デルシェア姫は楽しそうに目を見開いた。
「ティカトラス様は独自の船団で交易に励んでおられるという話ですのに、ご自身は船を苦手にされているのですね。なんだか、不思議なお話ですわ」
「…………」
「南の王都と交易をしている船のいくつかも、ティカトラス様の持ち物なのでしょう? ですからわたくしは前々から、ティカトラス様のお噂を耳にしていたのです。船員たちは、誰もがティカトラス様を深く敬愛されているようですわね」
もしかしたらデルシェア姫は、俺たちにティカトラスの情報を与えるために、わざわざ乗り込んできたのかもしれなかった。
「あなたがたも、とても真っ直ぐなお気持ちでティカトラス様にお仕えされているようですし……これもティカトラス様の人徳ですわね。ティカトラス様のお手が空いたら、わたくしも交流を深めさせていただきたく思いますわ」
「……デルシェア姫のありがたき申し出に、主人に代わって深く御礼を申し述べさせていただきたく存じます」
陰気な声で言いながら、デギオンのほうが一礼した。
すると、無言でこのやりとりを見守っていたジェムドが、ふいに発言する。
「そういえば、ティカトラス殿の船団においては、数多くのご子息が船員として働かれているそうですね」
ヴィケッツォがうろんげな視線を突きつけたが、ジェムドはかまわずに落ち着いた声音で言葉を紡いだ。
「その他のご子息やご息女も、さまざまな形でティカトラス殿のお力になっているのだと聞き及びます。……もしかしたら、あなたがたもそうなのでしょうか?」
俺は心から驚かされてしまったが――デギオンは顔色ひとつ変えることなく、「それが何か?」と反問した。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ! それじゃああんたたちは、あのティカトラスって貴族の子供なのか?」
ルド=ルウが驚きの声を張り上げると、ヴィケッツォがたちまち怒気をたちのぼらせた。
「お静かに。ティカトラス様の集中のさまたげとなります」
「ああ、悪い。……で、どーなんだよ?」
「……それが事実だとして、あなたがたに関わりはないでしょう」
「いやいや。だけどどこからどう見たって、あんたたちのやりとりは親子に見えねーぜ?」
「……警護の任務についている間、我々はあくまでティカトラス様の従者です。親子らしい振る舞いなど、任務の邪魔にしかなりません」
それだけ言って、ヴィケッツォはつんとそっぽを向いてしまった。
デルシェア姫もルド=ルウに負けないぐらい驚きの表情で、シン=ルウもひそかに切れ長の目を見開いている。そんな中、ジェムドはただひとり満足そうにうなずいていたのだった。