西の果ての道楽者④~不本意な仕事~
2022.4/14 更新分 1/1
翌朝の森辺の集落は、なかなか大変な騒ぎであった。
まあ正確には、昨晩から大変な騒ぎであったのだ。ティカトラスから素っ頓狂な願い出をされてしまったアイ=ファは返事を保留したまま彼らを追い返し、その足でルウ家まで出向いて仔細を伝えることになったのである。
事態を把握したドンダ=ルウは、翌朝一番で城下町とザザおよびサウティに使者を出すと約束してくれた。そうしてその役目を負ったルド=ルウが朝一番で城下町に向かおうとすると、道行きでメルフリードからの使者と出くわして、早々に舞い戻ってくることに相成ったのだった。
「昨晩、ジェノス城をひそかに抜け出したティカトラス殿は、守衛たちを言いくるめて跳ね橋をおろさせて、森辺の集落に向かわれたそうです。そうしてアイ=ファ殿に、まずはジェノスの貴き方々に話を通すようにと言い含められたため、取り急ぎメルフリード殿にご事情を打ち明けられたという次第であるわけですね」
城下町からの使者たる人物は、そのように語らっていたらしい。
「それでわたくしは、森辺の方々がどのような判断をお下しになるか聞き届けるべしというご命令を承りました。ティカトラス殿は、アイ=ファ殿の肖像画を描きたいと願い出ているそうですが……如何なものでありましょうか?」
「それに答えるにはまず、アイ=ファ本人と他の族長らの言葉を聞かねばならんな」
そんなわけで、アイ=ファは朝からルウ家に招集されることになってしまった。
ただやっぱり、俺をひとりで残していくのは不安であったのだろう。アイ=ファの見立てによると、ファの家の人間ならぬ家人のみでデギオンとヴィケッツォを退けることは不可能であるようなのだ。それでアイ=ファはバードゥ=フォウに頭を下げて、護衛役の狩人を借り受けたのちに、ルウの集落へと出立したのだった。
ファの家に残された俺は屋台の商売の準備をしながら、もう戦々恐々である。あまりに話が急展開すぎて、仕事を滞りなく進めるのに全身全霊の力を振り絞ることになってしまったのだった。
「しかし、わからんな。しょうぞうがというのは、つまりは絵のことなのであろう? アイ=ファに嫁取りを拒まれた貴族が、どうしてアイ=ファの絵などを描きたがるのだ?」
そのような疑念を呈したのは、バードゥ=フォウから話を伝え聞いてファの家に来てくれたライエルファム=スドラであった。
反応の鈍い俺よりも先に答えたのは、同じようにランの家から駆けつけたジョウ=ランである。
「俺たちにとっての絵というものは、幼子が地面に描くていどのものでしかありません。しかし城下町においては、まるで世界をそのまま切り取ったかのような絵も存在するのですよ」
「うむ? どれだけ巧みでも、絵は絵であろう? たとえ地面ではなく帳面に筆で絵を描いたとしても、それほど大きな違いが生まれるとは思えんのだが」
「いえいえ、それが大違いであるのです。ほら、リコたちの荷車にも大きな鳥の骨の絵などが描かれていたでしょう? 城下町の絵は、線で描くだけでなく色まで塗られているのです。……というか、おおよその絵は線ではなく色を重ねることで描かれているようなのですよね」
「ううむ。聞けば聞くほど、わからんな。まあ、城下町の絵というものが立派であるとして……それでどうして、アイ=ファの絵を描きたいという話になるのであろうな」
「ユーミの姿が描かれた立派な絵を手にすることができたら、俺は心から幸福だと思います。その貴族も、そういう気持ちを授かりたいと願っているのではないでしょうか? ……アスタは、どう思います?」
「うん、まあ、きっとそういうことなんじゃないのかな。もともとそのお人は、絵を描くのが得意だっていう話だったからね」
俺がそのように答えると、ライエルファム=スドラが心配げな面持ちで身を寄せてきた。
「アスタはずいぶん心を痛めているようだな。やはりアスタは、アイ=ファの絵を描かれることを望んでおらぬのであろうか?」
「え、いや……絵を描かれることそのものが嫌なわけじゃなく、その過程が心配というか……とにかく、アイ=ファが王都の貴族なんかに執心されていることが、心配でならないんです」
「ではそれは、アイ=ファが普段抱えているのと同じ心情だな」
「ええ。俺も昨日から、そんな風に思っていました」
「そうか」と、ライエルファム=スドラは子猿のような顔でくしゃっと笑った。
「アスタはこれまで、数多くの人間に執心されてきた。ジャガルの王族に、ゲルドの貴人に、外交官のフェルメスに……貴き身分の人間に限っても、それだけの人数に及ぶのだ。アイ=ファはそのたびにアスタの身を深く案じることになったのであろうが、なんとか正しい道に進むべく心を砕いてきたはずだ。アスタもアイ=ファと同じように、大事な家族を見守ってやるべきだと思うぞ」
「ええ。そのつもりではあるのですが……俺はアイ=ファほど立派な人間ではないので、心が乱れてしかたありません」
「人は自分よりも、大事な相手の苦難のほうが心を乱されてしまうものだ。しかしアイ=ファは強靭な人間であるのだから、心配には及ぶまい」
そのとき、表に待機していたジルベが「わふっ!」と元気な声をあげた。
俺がたちまち目を泳がせると、向かいで作業していたユン=スドラがにこりと笑いかけてくる。
「下ごしらえも、間もなく終わりますね。あとはわたしがお引き受けしますので、アスタはどうぞアイ=ファと話してきてください」
「うん! どうもありがとう!」
俺が慌ただしく表に駆け出すと、アイ=ファは身を屈めてジルベたちの頭を撫でているさなかであった。
「アイ=ファ、お帰り! ずいぶん早かったな!」
「うむ。ザザとサウティにも事情を伝えただけで、すぐさまルウ家に参じるべしと伝えたわけではなかったからな。私とドンダ=ルウと城下町の人間で語らい、正式な返事は明日以降という話に落ち着いたのだ」
「そ、それでけっきょく、どういう話の流れになったんだろう?」
「まずは、落ち着くがよい」と、アイ=ファは優しげに目を細めた。
「我々はまず、ジェノスの貴族たちの意向を問い質した。あちらとしては、やはり我々がティカトラスなる貴族の申し出を受け入れることを願っているようだ」
「それはまあ、貴族の人たちはそう考えるだろうけど……」
「それで我々は、肖像画というものを描きあげるのにどれだけの手間と時間がかかるものか、ティカトラスに確認するよう願い出た。あとは、そちらの返答しだいであろうな」
「そ、それじゃあ時間とかの折り合いがついたら、この申し出を受け入れるってことか?」
「私が滞りなくギバ狩りの仕事を果たせるようであれば、受け入れる他あるまい。あちらとて、そうまで無法な申し出をしているわけではないのだからな」
と、アイ=ファは口をへの字にした。
「むろん、私としては、あのような者と顔をあわせるだけで不愉快きわまりないのだが……かといって、王都の貴族をないがしろに扱うわけにもいくまい。ただでさえ、我々はセルヴァの王にあらぬ疑いをかけられていた身であったのだからな」
「あらぬ疑いをかけられてたのは、俺だろう? アイ=ファには関係ないじゃないか」
「お前にかけられた疑いが、私に関係ないと抜かすのか?」
アイ=ファは怒った顔で、俺のこめかみを拳でぐりぐりと圧迫してきた。
「ともあれ、私の行いひとつで、ジェノスと王都の関係に揺らぎが生じてしまう恐れすらあるのだ。ここは慎重に取り計らうべきであろう」
「うん、そうか……アイ=ファがそう決めたんなら、俺も口出しはしないけど……」
「そのように不安げな顔をするな」と、アイ=ファが優しげな眼差しを取り戻した。
「私は、お前を見習っているのだぞ。お前はこれまでに数々の人間に執心されてきたが、すべてを丸く収めてきた。私もお前と同じように、この忌々しい苦難を乗り越えてみせる所存であるのだ」
「うん、わかったよ。でもどうか、気をつけてな。もし城下町に呼びつけられるようなら、護衛役の狩人もつけてもらえるんだろ? ドンダ=ルウは、なんて言ってたんだ?」
「だから、そのように不安げな顔をするなというのに」
と、アイ=ファはくすぐったそうに笑いながら、今度は優しく俺の頭を小突いてきたのだった。
◇
その日はティカトラスの巻き起こした騒動に影響を受けることなく、レイナ=ルウはサトゥラス伯爵家の晩餐会の厨を預かるという大役を果たし――明けて、灰の月の4日、その一件についての結論が出されることになった。
肖像画を完成させるのにどれだけの時間と手間がかかるのかがティカトラスより伝えられ、その内容をアイ=ファと三族長で吟味することになり――その結果、あちらの申し出を受け入れることになったのだ。
肖像画の作製に費やされるのは、3日間。その期間、アイ=ファは午前中だけ城下町に通うことになってしまった。
もちろん族長たちはアイ=ファに護衛役をつけるように手配してくれたが、その人数は2名のみであった。あまり仰々しい人数だとティカトラスの真情を疑っていることになってしまうため、なんとか最低限の人数に留めてほしいと、ジェノスの側からそのように通達されてしまったのだ。
「むろん、ジェノスの貴族たちも何か間違いが起きないように目を光らせておくと言っていた。だから、そのように案ずることはない」
肖像画の作製が開始される、灰の月の5日の朝。アイ=ファはそのような言葉を残して、城下町へと向かっていった。
あとに残された俺は当然のことながら、不安と焦燥の権化である。何せ相手はアイ=ファを側妻に迎えたいなどと公言していた人物であるのだから、そうそう簡単に心を安らがせることはできなかったのだった。
(でもきっと、アイ=ファもこんな心地で俺のことを見守っててくれたんだろうな)
ただ一点、俺とアイ=ファでは異なっている点がある。こういう際、アイ=ファは決して護衛の役目を余人に譲らず、俺に同行してくれていたのだ。しかし俺には同行する名目が存在しないため、こうして不安と焦燥に苛まれながらアイ=ファの帰りを待つ他なかったのだった。
「なんだかずいぶん、おかしな方向に話が転がっちまったな。でもまあ荒事はまぬがれたみたいだから、俺もひと安心だよ」
そんな風に語らっていたのは、ふらりと屋台に現れたザッシュマであった。
「この数日でだいぶんティカトラスって貴族様の人となりもわかってきたんだが、とにかくそいつは女人を大切にする人間であるらしい。力ずくなんてのはもっての外で、女子供を虐げる人間を何より忌み嫌ってるそうだよ」
「……それは、信頼できる情報なのですか?」
「ああ。情報源は、おおよそ王都の外交官だからな。ポルアース殿が外交官から聞きほじった話を、そのまま俺に伝えてくれたのさ。あの外交官がジェノスの貴族連中をだまくらかそうって魂胆じゃない限り、まあ信頼できるんじゃないのかね」
と、ザッシュマは陽気に笑いながらそのように言いたてた。
「あのティカトラスって貴族様は、何より自由を愛するお人柄だってんだろう? で、自分が他人にとやかく干渉されたくない気質なもんだから、自分もそうしないように心がけてるんだとさ。そういう意味では、筋の通った人間なのかもしれねえな」
「でもザッシュマは、あのお人を厄介な人間だと認識していたのでしょう?」
「ああ。俺もダームには、しょっちゅう立ち寄ってたからな。ダームってのは王都の西の果ての領地で、西竜海に面してるんだよ。今のジェノスに負けないぐらい活気のある港町で、あの土地柄がああいう人間を育てたのかもしれねえな」
何かを懐かしむような眼差しになりながら、ザッシュマはそのように言葉を重ねた。
「で、俺なんかは港町の酒場に入り浸ってたわけだが、そっちでもしょっちゅうあの道楽者の風聞が出回っててさ。貴族のくせに場末の娼館を荒らしまくってるだの、酒屋の娘を側妻に取りたてただの……そうそう、渡来の民と揉め事を起こしたなんて風聞もあったな」
「渡来の民? そちらには、大陸の外の人間も出入りしているのですか?」
「ああ。俺も何度か見かけたことがあるよ。北の民と見まごう大男ばっかりで、やたらと腕の立ちそうな連中だったな。そもそも西竜海ってのはそいつらの縄張りで、大昔からダームの連中と通商をしてたのさ」
そういえば、渡来の民は竜神の民とも呼ばれているのだ。だからこそ、彼らの縄張りに西竜海という名がつけられているのかもしれなかった。
「で、渡来の民に喧嘩を売るような生命知らずだったら、森辺の民に恐れ入ることもないんじゃないかって、俺はそんな風に心配してたわけだよ。なまじ腕の立つ人間を護衛役に雇えると、気が大きくなっちまうもんだしな。……ただ、外交官殿いわく、女にはめっぽう甘いらしい。困っている女を助けるために揉め事を起こすことはあっても、自分から女を襲うような真似は決してしないそうだ」
「そうですか……それが本当なら、俺も少しは安心できますけど……」
「安心しろよ。何をどんな風にあがいたって、貴族なんぞにアイ=ファをどうこうできるわけねえだろ? 今日なんて、ルド=ルウとシン=ルウがお供としてひっついてるわけだしな」
「あ、城下町でアイ=ファたちの姿を見かけたのですか?」
「遠目から、こっそりとな。その小宮はジェノスの兵士たちにがっちり守られてたし、貴族様はふたりの護衛役しか引き連れてなかった。王都からくっついてきた兵士たちが兵舎でのんびりくつろいでる姿も確認済みだ」
ザッシュマも、しっかりとティカトラスの動向を探ってくれているのだ。だいぶん気の弱っていた俺は、これまで以上に深い気持ちでザッシュマに感謝することになった。
そうしてその後にやってきたのは、ちょっとひさびさのロイとシリィ=ロウである。いくぶん怖い顔をしたシリィ=ロウは開口一番、俺を問い詰めてきた。
「アスタ。王都から来られた貴き御方の関係で、明日の城下町における勉強会を延期させてほしいと、ヤン殿からそのようにおうかがいいたしました。それはいったい、どういう了見なのでしょうか?」
「あ、すみません。ちょっとこちらも、色々とややこしい話になってしまっていて……」
「ややこしいとは? その御方はアイ=ファの肖像画を手掛けることになったそうですが、べつだん揉め事などは生じていないのでしょう?」
「まあ落ち着けよ」と、ロイが苦笑まじりに掣肘してくれた。
「つい一昨日、レイナ=ルウはサトゥラス伯爵家の晩餐会を受け持ったってんだろう? だからこっちも揉め事にはならなかったんだろうと安心してたんだよな。でも、そうじゃなかったってわけなのか?」
「いや、まあ、揉め事とまではいかないのですが……今はちょっと、身動きが取れない状態でありまして……」
俺が事情を打ち明けると、ロイは「なるほどな」と溜息をついた。
「身動きが取れないのは、アスタじゃなくってアイ=ファのほうってことか。それじゃあ、しかたねえな」
「何がしかたないのです? アイ=ファがおらずとも、勉強会を開くことに支障はないでしょう?」
「すみません。本当はアイ=ファも明日はギバ狩りの仕事を休みにして、勉強会に同行する手はずになっていたのです。だけど、ジェノスの貴き方々に、それは取りやめてほしいと願われてしまいまして……」
「どうして貴き方々が?」とシリィ=ロウが身を乗り出すと、「そりゃあそうだろ」とロイが苦笑まじりに解説してくれた。
「アイ=ファは狩りの仕事があるから、中天までしか貴族様の道楽にはつきあえないと言い渡したってんだろ? それでこっちの護衛役なんざを受け持ってたら、貴族様の道楽より料理人の集まりを重んじるのかって難癖をつけられる恐れがあるじゃねえか」
「でも……それならアイ=ファは約定通りにギバ狩りの仕事を果たし、別の御方に護衛役を担っていただけば……」
「そんな厄介な貴族様がジェノス城に居座ってるのに、アイ=ファがアスタだけを城下町に出向かせたいと思うわけがねえだろ。トゥランの姫様にアスタをさらわれたときだって、自分のいない隙を狙われたって話なんだからな」
そう言って、ロイは俺のほうに目を向けてきた。
「だいたいさ、今のアスタは呑気に勉強会をしてられるような心持ちじゃねえんだろ? なんか、顔色まで悪いみたいじゃねえか」
「……すみません。たとえ他の誰かに護衛役をお願いできたとしても、俺自身がまったく集中できないと思います」
俺が正直に弱音をぶちまけると、シリィ=ロウはまた眉を吊り上げて何か言いかけたが――途中でしょぼんと肩を落としてしまった。
「そう……ですね。わたしが同じ立場でも、きっと勉強会どころではないと思います。ついつい自分の気持ちばかり押しつけようとしてしまい、大変失礼いたしました」
「お、珍しく引き際がいいじゃねえか。想い人が貴族様にさらわれるところでも想像しちまったのか?」
「わ、わたしに想い人など存在いたしません! ……そうではなく、わたしはもともとアスタと似たような懸念を抱いていたものですから……」
「アスタと似たような懸念って、どういうこったよ。想い人がいないってんなら、それを連れ去られる心配もないだろ?」
「ですから、想い人ではなく、ヴァルカスについてです。このたびの貴き御方は美食家であられるに留まらず、きわめて奔放なお人柄であられるというお話でしたので……もしヴァルカスを王都に連れ帰りたいなどと言いだしたらどうしようかと……そんな心配を抱いてしまっていたのです」
「そいつはずいぶんと、想像力が豊かなもんだな」
ロイは苦笑を浮かべていたが、その口調にはいたわりの気持ちが込められているように感じられた。
それはそれとして、俺はひとつの疑念を抱くことになった。
「あの、もしかしておふたりは、アイ=ファが肖像画を描かれることになった経緯をご存じなのでしょうか?」
「ん? 経緯って、その貴族様がアイ=ファを側妻に迎えたいって言い出した話のことか? それだったら、城下町中に知れ渡ってるだろうよ」
「そ、そうでしたか。俺たちはいちおう、むやみに口外しないようにと言いつけられていたのですが……」
「城下町では、ご本人が口外しまくってるんだよ。まあ、その貴族様はあちこちの人間に従者になれだの侍女になれだの誘いをかけてるみたいだから、べつだん驚きもしなかったがな」
そう言って、ロイは俺をなだめるように笑った。
「ただおそらく、側妻になれなんて言われたのは、アイ=ファだけなんだろう。周りにしてみりゃ笑い話でも、当人たちにとっては大ごとだわな。察してやれなくて、悪かったよ」
「はい。わたしもです。その御方は肖像画を描くだけでご満足であると伝え聞いたため、何も大ごとではないのだろうと思ってしまっていました。本当に申し訳ありません」
「とんでもないです。俺の性根が据わってないばかりに、せっかくの勉強会を延期することになってしまって、申し訳ありません」
「いいのです。ただ……ヴァルカスは、アスタたちのご来訪を心待ちにしているのです。どうかそちらの問題が落着したら、すみやかに勉強会の日取りを決めていただけますか?」
シリィ=ロウが珍しくもすがるような眼差しでそのように言いたててきたので、俺は「もちろんです」と答えてみせた。
「俺もみなさんとの勉強会を楽しみにしていたのです。肖像画の話は3日間で終わる予定ですので、あと少しだけお待ちください」
「はい。アスタたちの懸念が残らず晴れることを願っています」
そうしてロイとシリィ=ロウは、いくつかの料理を買い求めて青空食堂に立ち去っていった。
俺は波打つ心を静めながら、なんとか仕事に集中する。しかし、こうしている今もアイ=ファがティカトラスと向かい合っているのかと思うと、俺は胸が騒いでならなかったのだった。
そんなやるせない時間がひとまず終わりを迎えたのは、中天まで四半刻を切った頃合いだ。
それぞれのトトスを引き連れたアイ=ファとルド=ルウとシン=ルウが、北の方角から歩いてきたのである。
「アイ=ファ! ずいぶん遅かったな!」
俺が思わず大声をあげてしまうと、アイ=ファはくたびれ果てた面持ちで「うむ」とうなずいた。
「これではラン家に到着する前に、中天を過ぎてしまおうな。時間がないので、仔細は晩餐の折にでも語ることにする。何も問題は生じなかったので、お前も心配は無用だぞ」
「うん、わかったよ。……ギバ狩りの仕事も気をつけてな」
「うむ」とアイ=ファは優しげな眼差しを残して、早々に立ち去った。
ルド=ルウはのんびりとした笑顔で、シン=ルウは凛々しい面持ちで、それぞれ俺にうなずきかけてから、アイ=ファの後を追っていく。その様子からして、確かに問題は生じなかったのだろう。俺としては、めいっぱい安堵の息をつくばかりであった。
(こんな日が、あと2日も続くのか……)
しかし、明日は屋台も休業日だ。だからこそ、城下町での勉強会を計画していたのである。
俺はひとつの決意を胸に、中天のラッシュに向けて賑わいを増しつつある屋台の仕事に取り組むことに相成った。
◇
「肖像画なるものを描かれる仕事というのは、とにかく退屈でならなかったぞ」
晩餐の刻限、アイ=ファはそのように言いたてていた。
「私は三刻もの間、ひたすら椅子に座っているばかりであったのだ。口を開くことさえ許されず、ただ人形のようにな。無論、あのような男と言葉を交わしても不愉快なばかりだが……それにしても、あのような苦行に身を置いたのは初めてのこととなろう」
「それは大変だったな。……でも、アイ=ファはほとんど朝一番に城下町へ向かったよな? 往復で二刻ばかりはかかるとして、もう一刻は何をしてたんだ?」
「浴堂にて身を清めたのちは、ひたすら城下町の宴衣装を着させられていたのだ。一着を着込むごとにティカトラスの前まで連れ出され、文句をつけられては新たな装束を着させられて……あの時間も、苦痛そのものであったな」
そうしてアイ=ファは、雄弁なる溜息をついた。
「しかし、纏うべき装束は決定されたので、明日からはその時間も椅子に座ることになるわけか。想像しただけで、気が滅入りそうだ」
「動かずにただじっとしているだけなんて、本当に大変だな。他に何か、意に沿わないことはなかったのか?」
「それ以上の苦痛が上乗せされていたならば、私も辛抱しきれなかったろうな」
そんな風に言ってから、アイ=ファはいくぶん物思わしげな面持ちになった。
「だが……思いの外、あやつの存在そのものは苦にならなかった。あやつはあれほど浮ついた人間であるのに、絵筆というものを取っている間だけは、狩人もかくやという気迫を放っていたのだ」
「ええ? それはちょっと……想像しにくいな」
「うむ。私も少なからず驚かされた。あやつが軽佻浮薄な人間であることに疑いはないが、ただ、絵を描くという行いに関しては真摯に向き合っているのであろう。それで私にも理解できたが、あやつはおそらくニーヤなる者の同類であるのだ」
「ああ……ニーヤも軽薄そのものだけど、歌を歌っている間だけは別人みたいに見えるよな」
「うむ。普段の不愉快な言動も含めて、あやつらは本当によく似通っているように思うぞ」
「そういえば、ニーヤもアイ=ファに執心してたもんな」
俺の言葉に、アイ=ファは可愛らしく唇をとがらせた。
「アスタに執心する人間には立派な者が多いのに、私に執心する人間には浮ついた者が多いようだ。まあ、しょせん私に執心する人間など、そのていどということであろう」
「ええ? 俺はそんなに浮ついてるかなぁ?」
アイ=ファは瞬時に顔を赤くすると、無言で俺の頭をかき回してきた。
俺は温かい気持ちで「ごめんごめん」と笑ってみせる。
「でも、アイ=ファは他にも色んな立派なお人たちに執心されてきただろう? だからそんな、自分を卑下することはないさ」
「……まだ仕置きが足りていないようだな」
「いやいや、ごめんってば。……それで、例の話はどうだろう?」
俺の頭に手をのばしかけていたアイ=ファは、「ふむ」と難しげな顔をこしらえた。
「明日はお前も屋台の商売が休みであるため、城下町に同行したいという申し出か。いちおう今日の内に、ティカトラスから了承を取りつけることはできているが……」
「アイ=ファには、許しをもらえるか?」
「私もまた、今日の様子でそれを判断しようと考えていた。あのティカトラスは……まさしく真情から、肖像画なるものを描きあげたく願っているのであろう。よって、お前が同行しても危険はないように思える」
「そうか。だったら――」
「しかし、得るものなどは何もないはずだぞ。私はティカトラスとともに部屋にこもり、ルド=ルウたちやあやつの従者などは部屋の外で待ち受けるのみであるのだ。あれほど無駄な時間はなかろう」
「でも、家でひとりで待ってるなんて、俺には耐えられそうにないんだよ」
アイ=ファは目を細めて微笑みながら、今度はぱふっと俺の頭に手を置いてきた。
「私がお前の立場でも、きっと同じ心持ちであろうな。……わかった。了承する。ただし、ルド=ルウたちのもとを、決して離れるのではないぞ?」
「わかった。ありがとう。扉の外で、アイ=ファの退屈な時間が早く過ぎるように祈っているよ」
「うむ。……扉一枚の向こうにお前の存在を感じられるだけで、私の苦痛もずいぶんやわらげられような」
そう言って、アイ=ファは子供をあやすように、俺の頭を優しく撫でてくれたのだった。