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異世界料理道  作者: EDA
第六十九章 西の果てより
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西の果ての道楽者③~思わぬ申し出~

2022.4/13 更新分 1/1

「あのティカトラスって貴族様は、ジェノス城に戻ってもずっと悲嘆に暮れていたようだよ」


 その日の夜――ファの家における晩餐の場でそのように言いたてたのは、ザッシュマであった。彼は貴族たちを追うようにしてジェノス城へと舞い戻り、またいくばくかの情報を携えてファの家を訪れてくれたのだった。


「あの貴族様は正妻を持っていないくせに、側妻ばかりを山のように抱え込んでいるらしい。そればかりか旅先でも女人に手をつけて、子供の数は20人でもきかないそうだ。そこまでいくと、さすがに羨ましいって気持ちも吹き飛んじまうな」


「……その側妻というのは、何であるのだ? 耳に入れたくもないような話であるようだが、私はあやつの発した言葉の意味を正しく理解しておく必要があろう」


 アイ=ファは心の底から嫌そうな顔をしながら、そのように応じた。

 俺の準備した心尽くしに舌鼓を打ちつつ、ザッシュマは苦笑する。


「側妻ってのは、まああれだよ。正式な伴侶ではないものの、それに準ずる存在に認められた人間ってことだ」


「伴侶に準ずる存在とは? まったくもって、意味がわからんのだが」


「うーん。俺も確かに、森辺の人間にこんな講釈を垂れるのは気が引けてならないよ。……とにかくまあ、ただの浮気相手とかではなく、伴侶の二番手みたいなものかな。伴侶との間に子を生すことができなかったら、側妻の子が嫡子になることもありえるんだよ」


「つまり、ひとりの人間が何人もの伴侶を迎えるということか? 王都の貴族の間では、そのような真似も許されるのか?」


「べつだん王都に限った話じゃないさ。貴族ってのは何としてでも嫡子を残さなけりゃならんから、そういう行いを許す法ができあがったんじゃないのかね」


「では、旅先でそういう関係を結んだ相手も、側妻として認められているのですか?」


 俺が口をはさむと、ザッシュマは「どうだかな」と頭をかいた。


「きっと、側妻になることを望んだ人間はダームに移り住んで、そうじゃない人間は現地で子を育てるんじゃないのかね。俺もそうまで貴族の裏事情に通じてるわけじゃないんだよ」


「何にせよ、我々には理解し難い習わしであるようだ」


 と、アイ=ファは嫌悪感もあらわに、深い皺を眉間に刻んだ。

 ザッシュマは逞しい首をすくめつつ、ペレのピリ辛和えを口の中に放り込む。


「ただまあ幸いなことに、あの貴族様は権力をかさに着るような人間ではないそうだよ。だからまあ、アイ=ファに無理強いすることもできず、お城で嘆き悲しんでいるんだろうさ」


「……あの男がそのように不埒な真似に及ぶようなら、私も刀を取る他ないからな。森辺の同胞の健やかな行く末のためにも、ありがたく思っている」


「ジェノスの貴族たちも、おんなじ気持ちだろうさ。本当に、風聞の通りの厄介なお人だよ。《北の旋風》だったら、ああいう輩を手懐けるのも得意そうなんだが……ここは俺が、微力を尽くさせていただくよ」


「うむ。ザッシュマの助力には、心から感謝している」


 アイ=ファが真剣な面持ちで頭を垂れると、ザッシュマは「いいってことよ」と陽気に笑った。


「俺だって、森辺のお人らには平穏に過ごしてほしいからな。とにかくここは波風を立てず、あちらさんが王都に帰るまで息をひそめておくのが最善だと思うぜ?」


「うむ……しかしアスタは、晩餐会の厨を預けられてしまうのであろう?」


「ああ、うん、どうなんだろうな。けっきょくその話もうやむやのままで終わっちゃったけど……ザッシュマは何か聞いていますか?」


「いや。とりあえずひと晩置いて、あちらさんの気が静まるのを待つつもりであるようだ。詳しい話は、明日の会合とやらで聞かされるんじゃないのかね」


 族長たちは明日、臨時の会合で城下町に招集されることになったのだ。


「まあそっちは、外交官の補佐官の話が主題なんだろうけどよ。外交官の調書を読んだ王陛下がどんな具合だったかを聞かされるってんだろ? 本来は、そっちのほうがよっぽど大ごとだよな」


「うむ。これだけ日が空いたのは、何も問題がなかったという証であると聞かされていたが……決して気をゆるめることはできまいな」


 そもそもジェノスは、王国内に独立国家を築こうとしているのではないかという疑いをかけられていた立場であったのだ。最近はすっかりそんな話もご無沙汰であったが、外交官のフェルメスとオーグはその真偽を確かめるためにジェノスに滞在していたのであった。


「まああの外交官たちはすこぶる公正なお人柄って話だから、そっちのほうは問題ないだろうさ。森辺の側にもダリ=サウティやガズラン=ルティムっていう頼もしい人らがいるから、会合のほうも安心だろ。……ああ、もしもアスタが城下町に招かれるようだったら、ガズラン=ルティムとかに同行を願うべきだろうな。だったら、アイ=ファも安心だろ?」


「……それは、私に同行を控えよという話であろうか?」


「そりゃあまあ、アイ=ファはあの貴族様と顔をあわせないに越したことはないだろうからなぁ」


「あのように内心の知れぬ男のもとに、アスタだけを送りつけることはできん」


 アイ=ファが毛を逆立てた山猫のような顔つきになると、ザッシュマは「そうかい」と苦笑した。


「だったらせいぜい、そんなおっかない顔を見せないようにな。あの貴族様は、ずいぶん腕の立つ人間をはべらせてるみたいだからよ」


「うむ。あれは相当な手練れであるようだな。しかも、黒い肌をした女人のほうは……もしや、毒の武具を扱うのではないだろうか?」


「そうなのか? 俺は面が割れないように、あいつらとは顔をあわせないようにしてたんだよ。黒い肌ってことは、東の血を引いてやがるのかな」


「いや。東の民とは、まったく気配が異なっていた。少なくとも、草原の民や山の民ではなかろう」


「だったら、王都の民か海の民あたりかね。何にせよ、毒の武具ってのは剣呑なこった。アイ=ファはどうしてそいつを察知できたんだ?」


「あやつは殺気を放ちながら、刀の柄ではなく懐に手をのばそうとしていた。懐中に収まるほど小さくて刀よりも強い武具となれば、毒しかあるまい」


 そう言って、アイ=ファは鋭い眼光を俺に突きつけてくる。

 ミソ仕立てのモツ鍋を食していた俺は、それを飲み下してから「ああ」と答えた。


「そういえば、あのヴィケッツォってお人がリャダ=ルウに勝てるかって聞かれたとき、剣の勝負じゃ勝ち目はないって言ってたな。つまりは、剣以外の武器を扱えるってことか」


「……あの者をかまどの間に招く際、毒の武具は預からなかったのか?」


「うん。そのときは毒の武器なんて考えてもいなかったし……鋼の持ち込みを遠慮してもらうだけで精一杯だったんだよ」


 アイ=ファは厳しい面持ちのまま、真っ直ぐに俺を見据えてきた。


「我々は東の民を家に招く際も、毒の武具を預かってきた。たとえ相手が貴き身分にあろうとも、こちらから習わしを曲げることは許されん。また、あの者は東の民めいた風貌をしていたのだから、毒の武具を所持しているものと想定するべきであろう」


「うん、ごめん。俺が迂闊だったよ。今後は気をつける」


「うむ」とうなずき、アイ=ファは視線をやわらげた。アイ=ファはただ俺の安全を思いやると同時に、森辺の民として正しく生きてほしいと願っているだけであるのだ。アイ=ファの優しさに甘えることなく、俺も襟を正さなければならなかった。


「ま、あちらさんが権力をかさに着ることがないってんなら、あとは泣き落としか銀貨の山を積むぐらいだろう。短慮は起こさず、誠心誠意お断りしてやりゃあいいさ。……しかし、よりにもよってアイ=ファに目をつけるとは、なかなかお目が高いよなぁ」


 ザッシュマがそのように言いたてると、アイ=ファは「うむ?」とうろんげに首を傾げた。


「それは単に、他の女衆と顔をあわせておらぬゆえであろう。でなければ、私などに心をひかれることもあるまい」


「いやいや。あの場には、ユン=スドラたちもいたんだろ? それとも、俺が出た後にみんなも家に戻ったのか?」


「いえ。ユン=スドラやトゥール=ディンは、従者として仕えないかと誘われておりましたよ」


「側妻じゃなく、従者か。それじゃあやっぱりあの貴族様は、アイ=ファの独特の魅力に心を奪われたってこった。俺から見たって、アイ=ファみたいな女衆は他にいないからな」


 ザッシュマの言葉に、アイ=ファはまた心から嫌そうな顔をした。

 ザッシュマは、厳つい顔で無邪気に笑う。


「裏を返すと、他の女衆はアイ=ファほど執心されずに済むかもしれんってこった。だったら後は、アイ=ファがうまく受け流すだけで丸く収まるだろうからな。くどいようだが短慮は起こさず、穏便にやりすごしてくれ。こんな話で王都との関係性がこじれちまったら、アイ=ファも居たたまれないだろう?」


「……うむ。私もそれは、十分にわきまえている」


 そんな風に言ってから、アイ=ファは深々と息をついた。

 今回の貴族は、俺ではなくアイ=ファに執心してしまっているのだ。俺としては、普段アイ=ファが抱いているであろう不安や懸念を体感させられた心地であったのだった。


                 ◇


 そして、翌日――

 ファの家で夜を明かしたザッシュマを見送り、朝の仕事と行水を終えたタイミングで、新たな客人がやってきた。ルティムの見習い狩人、ディム=ルティムである。


「家長ガズラン=ルティムより、言伝を預かってきた。今日はルティムとミンが休息の日取りであったため、そちらの狩人が護衛役としてアスタたちに同行しようかと考えている。十分な人数を準備するので、ファの近在の狩人たちは安心して仕事に励んでほしい、とのことだ」


「そうか」と、アイ=ファは凛々しい面持ちで応じた。


「私も護衛役をつけるべきではないかと、ドンダ=ルウに相談しようと考えていたのだ。ガズラン=ルティムの配慮に心より感謝すると伝えてもらいたい」


「うむ。護衛役には、俺も参ずるからな」


 以前はアイ=ファに強い対抗心を抱いていたディム=ルティムであるが、現在はそれが尊敬の念にひっくり返っている。まだ若いディム=ルティムは頬を火照らせつつ、アイ=ファにも負けない凛々しい眼差しになっていた。


「出発の刻限、俺たちはルウの集落で待っている。では」


 と、ディム=ルティムはトトスのミム・チャーにまたがって、早々に帰還していった。それを見送ってから、アイ=ファは俺を振り返ってくる。


「あの貴族めが無法な真似に及ぶ恐れはないという話であったが、くれぐれも油断するのではないぞ」


「うん、わかった。アイ=ファのほうも、頑張ってな」


 アイ=ファは現在ランの狩り場において、ギバ寄せとギバ除けの実を使った新たな狩りの作法の手ほどきをしているのだ。なおかつ、2日前に休息の日を入れたばかりであったので、ガズラン=ルティムの申し出は心からありがたいはずであった。


 そうしてその後はいつも通りに仕事を片付け、いざ宿場町に出立する。

 ルウの集落には約束通り大勢の狩人が待ち受けており、その中にはダン=ルティムも含まれていた。


「おお、アスタ! 今日はひさびさに、俺も同行することになったぞ!」


「ありがとうございます。ガズラン=ルティムたちは、もう城下町ですか?」


「うむ! 会合というやつを終えたら、ガズランもこちらに合流する手はずになっておるぞ!」


 それはますます心強い話である。

 そうして宿場町に到着すると、露店区域に向かう道中でレビが心配そうに顔を寄せてきた。


「こんなにたくさんの狩人さんたちが同行するのは、ちょいとひさびさだな。王都の貴族が森辺に出向いたって噂だけど、そいつが関係してるのか?」


「うん。まあ、いちおうの用心にね。一番最初の王都の貴族も、なかなか厄介なお人たちだったからさ」


「ああ。《キミュスの尻尾亭》も、ガラの悪い兵士たちを押しつけられたって話だもんな。後から話を聞いて、俺も頭に来ちまったもんだよ」


 監査官のドレッグやタルオンが来訪したのは昨年の緑の月であったため、レビたちもまだ《キミュスの尻尾亭》では働いていなかったのだ。当時はミラノ=マスが別件で負傷してしまい、宿の仕事もままならなかったため、森辺のかまど番が夜の食堂を手伝うことに相成ったのだった。


(まだ1年と3ヶ月ぐらいしか経ってないのに、ものすごく懐かしく思えちゃうな。タルオンの悪だくみに、俺たちもさんざん引っかき回されて……それで最後には、西方神の洗礼を受けることになったんだ)


 しかし、タルオンの罪はきちんと裁かれたし、森辺の民が西方神の洗礼を受けるというのは正しい行いであったはずだ。もう片方の監査官であるドレッグとも何とか正しい関係を築くことができて、ファの家などはジルベという新しい家族を授かることになったわけであるし――ザッツ=スンやサイクレウスやシルエルが巻き起こした騒乱と同じように、それは正しい運命に進むための試練だったのではないかと、俺はそんな風に考えていた。


(だからまあ、今回の騒ぎも何とか乗り越えて、正しい道を進みたいところだよな)


 そんな気持ちを抱えながら、俺はその日の仕事に取り組むことになった。

 王都の貴族の来訪も宿場町に影響を与えた様子はなく、屋台の商売は至極順調である。そうして朝一番のラッシュを終えたぐらいの頃合いにやってきたのは、仏頂面のデルスと笑顔のワッズであった。


「あれ? おふたりは早々にジェノスを出立するという話ではありませんでしたか?」


「それがよお、昨日城下町までミソを届けたら、しばらくジェノスに居残るように命令されちまったんだよお。王都の貴族が、デルスと話をしたいんだってよお」


 ワッズがにこにこと笑いながらそのように答えると、デルスは深々と溜息をついた。


「どうやらそいつは西の王都で、ミソを口にする機会があったらしい。それで、こんな目新しい食材を生み出した人間がどんな面をしているのか拝んでみたいんだとよ」


「そうでしたか。もしかしたら、デルスたちも晩餐会に招かれたりするのでしょうかね」


「知ったことか。とにかく連絡があるまで、宿場町に居残れとのお達しだ」


「でもその分の宿賃はあっちで支払うって話なんだから、何も損はないじゃねえかあ?」


 ワッズの言葉に、デルスは「何を抜かすか」と眉をひそめた。


「理由もなしに居座ったって、時間の無駄になるだけだ。余所の土地で商談をする時間が削られる分、こんな話は損にしかならねえんだよ」


「南の王都との商談もまとまって、しばらくはのんびり過ごせるぜとか言ってたろお? だったら、ジェノスで羽根をのばそうぜえ」


「それで前回は、ひと月ばかりも足止めをくらうことになったのだぞ? まったく貴族や王族などというものは、商売人の苦労など何ひとつわかっておらんのだろうさ」


 そうしてデルスはワッズになだめられながら、青空食堂に立ち去っていった。

 屋台の裏でこのやりとりを聞いていたダン=ルティムは、「ふむ!」と大きな声をあげる。


「あやつらも、貴族の気ままな振る舞いに難渋しておるようだな! いったいどのような連中であるのかと、ドンダ=ルウもたいそう気にしておったぞ!」


「俺も顔をあわせていたのは一刻足らずですので、まだ何とも言えませんね。ただ、これまでに顔をあわせてきた貴族とは、ずいぶん毛色が違っているようです」


「ふうむ。しかし、よりにもよって、アイ=ファに嫁取りを願おうとはな! アスタも心中穏やかではあるまい? しかしアイ=ファは誰が相手でも心を動かすことはなかろうから、心配は無用だぞ!」


 ダン=ルティムはガハハと笑いながら、分厚い手の平で俺の背中をばしばし叩いてきた。

 それからしばらくして、今度は森辺の荷車が街道の北側からやってくる。会合を終えた、族長たちである。そこから離脱したガズラン=ルティムだけが屋台にやってきて、あとの荷車はそのまま街道を南下していった。


「おお、ガズラン! 厄介者の貴族というのは、どのような人間であったのだ?」


「残念ながら、王都のティカトラスなる貴族は同席しませんでした。ザッシュマが告げてくれていた通り、その人物は国政というものにまったく興味がないようです」


 屋台の裏手に回り込んだガズラン=ルティムは、穏やかな声音でそのように言いたてた。俺は商売に励みながら、背中でその言葉を聞き届ける。


「なんだ、つまらんことだな! では、会合のほうはどうであったのだ?」


「ええ。そちらは、平穏に終わりました。セルヴァの王も今のところは、ジェノスの在りように文句はないそうです。まあ、正確に言うならば、ジェノスにかまっているいとまもない、という状況であるようですが」


 あくまで穏やかな口調で、ガズラン=ルティムはそのように言いつのった。


「どうやら現在、王都は戦のさなかのようです。オーグの帰りが遅く、また、数ヶ月にわたって連絡がなかったのも、それが原因であったようですね」


「なに、戦!? 西の王都が、マヒュドラと戦をしておるのか?」


「マヒュドラのみならず、ゼラド大公国とも刃を交えているそうです」


「ぜらどたいこうこく……それは、何であったかな?」


「セルヴァの南方に位置するという、独立国家なる存在です。王都を追放された大公家というものがその地に新たな国を打ち立て、自分たちこそが西の王国の正統なる支配者だと主張しているわけですね」


 そういう悪しき前例が存在するために、王都の人々はジェノスが独立を目論んでいるのではないかという危機感にとらわれたわけである。

 それにしても、これはなかなか剣呑な話題であった。


「ふたつの国と戦とは、ずいぶん豪気な話だな! しかし、王都に出向いていたシュミラル=リリンは、無事に帰ってきておるぞ! シュミラル=リリンらが王都を出立してから、戦が始まったというわけか?」


「いえ。戦と言っても、それは辺境の地の領土争いであるそうです。王都からは半月やひと月も離れた地のことであるので、王都そのものは平和であるのでしょう」


「ふむ? では何故、オーグなる者の帰りが遅れたのだ? そやつは雨季の頃にジェノスを出立したのに、それ以来まったく音沙汰がなかったのだと、ララ=ルウがそのように語らっておったぞ」


「王都は北方と南方の戦場に、それぞれ数万ずつの兵を送っているのです。フェルメスいわく、戦場の様子は狼煙というものを使って王都にまで伝えられるため、王や貴族たちはその対応に追われることになるのでしょう。また、現在の王は年若く血気盛んであるため、戦が起きればそちらに注力し、ジェノスの存在など頭から吹き飛んでしまうはずだ、とも言っていました」


 そうして優しい笑いを含んだガズラン=ルティムの声が、俺の後頭部に向けられてきた。


「それでオーグも男爵家という立場から、戦にまつわる仕事に忙殺されていたようですが……ようやく戦況が落ち着いたため、王とジェノスについて語らう時間を持てたそうです。現在のところ、王はフェルメスとオーグの判断を信じ、ジェノスに叛意はないと見なしているそうですよ。シムやゼラドの間諜ではないかと疑われていたアスタも、また然りというわけですね」


 王都において、俺にはそのような疑いがかけられていたのである。ジェノスに独立を持ちかけているのはシムかあるいはゼラド大公国であり、俺こそがその陰謀にひと役買っているのではないか、と――そんな素っ頓狂な話であったのだ。


「きっとフェルメスはあの聡明さを駆使して、アスタが無実であるという調書をこしらえてくれたのでしょう。次にお会いする機会があれば、謝礼の言葉を申し述べるべきかと思います」


「はい。必ずそうします。ガズラン=ルティムも、ありがとうございました」


「私は会合の内容を伝えているに過ぎません。ただ、このように喜ばしい話を伝える役目を授かり、とても嬉しく思っています」


 きっとガズラン=ルティムも、俺の行く末をたいそう案じてくれていたのだろう。その声の響きの優しさと温かさに、俺は思わず涙をこぼしてしまいそうだった。


「さしあたって、フェルメスとオーグは今後も外交官としてジェノスに留まるよう、セルヴァの王から命じられたそうです。外交官の任期というものは半年間であるそうなので、この灰の月いっぱいで2期目が終わり、3期目も任されたという話であるようですね」


「ああ、それじゃああとひと月足らずで、フェルメスたちがやってきてから丸一年が経つというわけですか。なんだか……あっという間の1年でしたね」


「はい。新たな貴族がやってきてしまったために、またファの家まで出向く機会が遠のいてしまいそうだと、フェルメスはひそかに嘆いているようでした」


 そういえば、オーグがいない間はフェルメスも比較的自由に動けるという話であったのに、邪神教団の騒ぎがあって以降は体調を崩してしまい、けっきょく宿場町にも森辺にも顔を出さず仕舞いであったのだ。


「俺もなんとなく、フェルメスとゆっくり語らいたい気分です。フェルメスは、あのティカトラスという貴族について何か仰っていましたか?」


「ええ。その人物が権力や武力に頼る人間でないということは保証してくれました。ただ、何より自分の感情を重んずる人柄であるため、悶着を起こさないように気をつけてほしいとのことですね」


「そうですか……アイ=ファに対する執心を何とかしていただければ、きっと大丈夫だと思うのですけれど……」


「はい。族長たちも、判断に困っている様子でした。貴族らしからぬ人柄というものが、我々にとって益になるのか害になるのか……気を引き締めて、推移を見守るべきでしょう」


 ガズラン=ルティムは、そのように語らっていた。

 もちろん俺も、まったく同じ心情であったのだが――しかしやっぱりティカトラスという人物の素っ頓狂さは、俺たちの想定の斜め上をいっていたのだった。


                   ◇


 そうして、また夜である。

 おたがいの無事を喜びながら、俺とアイ=ファが家人水入らずの晩餐を楽しんでいると――土間のジルベが野太い鳴き声をあげ、アイ=ファがぎらりと双眸を輝かせた。


「何者かが、トトスに乗ってこちらに近づいてきている。アスタ、用心するのだぞ」


「ええ? まさか、こんな時間に貴族様が来訪したりはしないよな?」


 しかし、そのまさかであったのだ。

 刀を握ったアイ=ファが俺を半分抱え込むようにして待ち受けていると、戸板の向こうからティカトラスの甲高い声音が響きわたったのだった。


「愛しきアイ=ファよ! わたしだ! ティカトラスだ! どうかこの戸を開けてもらいたい!」


「……貴き身分にある人間が、このような刻限にいったい何用であるというのだ?」


「わたしは決して無法を働いたりはしない! だからどうか、話を聞いてもらえぬだろうか?」


 アイ=ファは厳しい面持ちで考え込んでから、土間に身を起こしたジルベとラムの頭を撫でた。


「ジルベ、ラム。お前たちが戦う必要はない。ただ、アスタの身を守るのだぞ。アスタ、お前は土間の端に寄り、身をひそめるのだ」


「う、うん。わかったよ」


 俺はサンダルをつっかけて、言われた通りの場所に膝を折った。すると、ジルベやラムばかりでなく、ブレイブとドゥルムアまで俺のことを取り囲み、広間の隅っこで丸くなっていたサチも大あくびをしながらこちらに向かってくる。

 それらの姿を見届けてから、アイ=ファは戸板のかんぬきに手をかけた。


「おお、アイ=ファ! 愛しい人よ! このような刻限に押しかけてしまい、本当に申し訳ない! しかし、君の美しき姿を頭に浮かびあげるだけで、わたしは居ても立っても居られなくなってしまったのだ!」


「……いったい何用であるのだ?」


 アイ=ファが低い声で応じると、戸板の外からヴィケッツォの声があげられた。


「貴き身分にある客人を外に立たせたまま語るとは、あまりに無礼でありましょう。まずは、家の中にご案内するべきでは?」


「その際には、そちらから鋼ばかりでなく毒の武具をも預かることになるが、それでもかまわんのであろうか?」


 土間の片隅に縮こまった俺からは、表の様子もうかがえない。ただ、その場にたちこめた静寂にはヴィケッツォの怒りの念がありありと感じられた。


「いいのだよ、ヴィケッツォ! 無礼を働いているのは、こちらであるのだからね! とにかくわたしは、一刻も早くアイ=ファと顔をあわせたかったのだ!」


 と、ティカトラスのけたたましい声がすぐさま静寂を打ち破った。


「アイ=ファよ! 今一度だけ、同じ言葉を繰り返させてもらいたい! ……どうかわたしの側妻になってもらえないだろうか?」


「断る」


「ああ、そうか……君の美しさは、その強靭な心からもたらされるものであるのだ! だからきっと、どれだけの銀貨を差し出されようと、たとえ斬首の刑に処されようと、君は決して自分の意志を曲げたりはしないのだろうね!」


「……そちらの申し出を拒むならば、私の首を刎ねようという心づもりであるのか?」


「まさか! 君に害をなそうとする者が現れたならば、わたしはこの非力な身を投げ打ってでも庇ってみせよう! だからどうか、わたしの真情を信じてもらいたい!」


「ティカトラス様!」と、ヴィケッツォが怒気に震える声をあげた。

 俺には何も見えなかったが、アイ=ファが少しだけ視線を下げたので、ティカトラスがまた地べたに膝をついたのだろうと察することができた。


「君がそうまで側妻になることを拒むのであれば、わたしもその非情なる現実を受け止めよう! ただ、どうか……どうかわたしに、一片の情けをかけてもらいたい!」


「……情けとは?」


「わたしに、君の肖像画を描かせてもらいたいのだ!」


 耳に突き刺さるような金切声で、ティカトラスはそのように言い放った。


「わたしは君の美しさを余すところなく画布に封じ込め、それをダームに持ち帰ることで無念の思いを呑み込もうと思う! だからどうか……どうかこの願いだけは聞き届けてもらいたい!」

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― 新着の感想 ―
[良い点] 絵で納得するならかわいいもんだね! でも誰が描くんやろう。 絵画の方はそれなりの腕ってゆうてたけど、 それなりの腕でアイ=ファの美しさを絵画に描ききれるかな。
[一言] ヴィケッツオとはそのうち戦いになりそうですね
[一言] ええっ、森辺の民の気持ちをまったく無視して 罰なら受けるとかほざきつつ公爵家の権力を背景に好き勝手してるやつを 族長らはスルーの方向で行くのか? ありえなくないか? 政治とやらに完全に屈服す…
感想一覧
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