西の果ての道楽者②~対面~
2022.4/12 更新分 1/1
「やあやあ! 出迎え、大儀であったね! おお! これは噂に違わぬ、美しき女人たちだ! はるばる王都から足をのばした甲斐があったというものだよ!」
はしゃいだ声で言いながら、その人物が俺たちのほうに近づいてきた。
いつしかその左右には、護衛役の人間がぴったりと付き従っている。しかし俺たちは、まずその素っ頓狂な身なりをした人物に目を奪われることになった。
予想に反して、その人物は壮年の男性であった。放蕩息子だとか問題児だとかいう前情報のせいで、俺はもう少し若めの人間を想像してしまっていたのだ。しかしまた、彼は公爵家の当主の弟君という話であったのだから、そういう意味では相応の年齢であるのだろう。
彼はひょろりと背が高く、西の民らしい黄白色の肌で、褐色の髪と瞳をしていた。西の民としては彫りの深い顔立ちで、特に鼻などはトトスのくちばしみたいにとんがっていたが、まあ驚くほどではないだろう。驚くべきは、彼の容姿ではなく、そのいでたちであったのだ。
まず彼は、実にけばけばしい長羽織のようなものを羽織っていた。
下半分は青色で、上半分は赤色で、そこに金と銀の糸でこまかい図案が刺繍されている。そうして全体がラメ素材のようにきらめいているものだから、眺めているだけで目が痛くなるほどであった。
そしてその下に纏っているのは、城下町でお馴染みの長衣であったのだが――そちらもまた、赤、黄、黒の入り乱れる、得体の知れない幾何学模様であったのだ。
さらには、頭に巻いたターバンのようなものも、腰に巻いた飾り帯も、足に履いたサンダルまでもが、色とりどりに染めあげられている。そうしてそれでも足りぬとばかりに、金銀宝石の耳飾りや首飾りや腕飾りや指輪などを装着しているものだから、《ギャムレイの一座》の座員にも負けないぐらいのけばけばしい姿になってしまっていたのだった。
「し、失礼いたします、ティカトラス殿。まずは僕が、ファの家のアスタ殿にご紹介させていただきます」
慌てて追いすがってきたポルアースがそのように言いたてると、その人物は無邪気な笑顔で「うん、よろしく!」と応じた。
「アスタ殿、こちらは王都の五大公爵家のひとつ、ダーム公爵家のティカトラス殿であられるよ。……ティカトラス殿、こちらが森辺の料理人、ファの家のアスタ殿です」
「うんうん! この場に男性はひとりきりだから、きっとそうなのだろうと思っていたよ! しかし、これほど美しい女人たちに囲まれて、なんとも羨ましい限りだね!」
にこにこと笑いながら、その人物――ダーム公爵家のティカトラスは、俺たちの姿を見回してきた。
ポルアースが気まずそうにしていると、フェルメスが優美な微笑をたたえつつ進み出る。
「ティカトラス殿。さきほどポルアース殿がご説明した通り、森辺においては異性の容姿をむやみに褒めそやすことを禁ずる習わしが存在するのです」
「うんうん! もちろん、覚えているよ! でも、美しいものは美しいからね! それを語ることが罪になるというのなら、わたしは甘んじて罰を受けてみせようじゃないか!」
「でも、森辺の方々が貴き立場にあられるティカトラス様に罰を下すことはかないませんわ。そうすると、森辺の方々には大事な習わしが踏みにじられたという無念の思いだけが残されてしまうのではないでしょうか?」
そのように言葉を添えたのは、デルシェア姫であった。本日は、いかにも姫君の平服といった、簡素ながらも瀟洒なワンピースに肩掛けといった格好で、セミロングの髪も簡単な形に結わっている。
「それではきっと、森辺の方々と正しく絆を結ぶことも難しいでしょう。賞賛の思いは、なるべく胸の内にひそめるべきかと思いますわ」
「ううん、それは難しい話だけれども、なるべく努力いたしましょう! デルシェア姫のご忠告に、心より感謝いたします!」
幸いなことに、デルシェア姫だけはこの素っ頓狂な人物よりも高い身分にあるのだ。俺はその事実をこっそり四大神と母なる森に感謝することに相成った。
最初の驚きが過ぎ去ると、森辺の女衆は誰もがつつましい面持ちとなってティカトラスの言動を見守っている。このけたたましい貴族は善人であるのか悪人であるのか、正しく見定めようとしているのだろう。
するとティカトラスはにんまりと笑いながら、そんな女衆らの姿をひとりずつ検分し始めた。
屋台の当番であったユン=スドラ、トゥール=ディン、マルフィラ=ナハム、レイ=マトゥア、ガズ、ラッツ、ダゴラ、リッドの女衆に、フォウの女衆を加えて9名――それらのひとりひとりを念入りに眺め回した末、ティカトラスはユン=スドラのもとで視線を固定させた。
「うん! やっぱり、君だね! 君、名前を聞かせていただけるかな?」
「……わたしはスドラの家人、ユン=スドラと申します」
ユン=スドラは決して感情をこぼすことなく、丁寧にお辞儀をした。
その姿に、ティカトラスは満足そうに「うんうん!」とうなずく。
「まだまだ若いが、野に生きる人間としての逞しさの中に、涼やかな気品が感じられるね! ……ユン=スドラ。よかったら、わたしの侍女にならないかね?」
「ティ、ティカトラス殿!」と、ポルアースが慌てきった声をあげたが、ティカトラスはユン=スドラを見つめたまま気安く手を振った。
「わかっているよ! 森辺の民は身持ちが固くて、どのような身分の相手にもそうそうなびいたりはしない、というのだろう? でも、行動を起こす前にあきらめるというのは、わたしの流儀ではないのでね! そもそも誘いをかけるだけなら、王国のどのような法にも反していないはずだよ!」
ティカトラスはにまにまと笑いながら、小柄なユン=スドラの顔を覗き込んだ。
「それで、どうだろう? もしも了承してくれるなら、君のご家族にも十分な謝礼をさせていただくよ!」
「……申し訳ありません。わたしは森辺を離れて生きていくつもりはありません」
ユン=スドラは素晴らしい精神力で内心を押し隠しつつ、また深々と一礼した。
ティカトラスは「たはー!」と手の平で自分の目もとを覆い隠す。
「これは無念だ! しかし、誘いをかけるのも自由なら、それを断るのも自由だからね! でも! もし気が変わったら、いつでも声をかけてくれたまえ!」
ユン=スドラは無言のまま、三たび頭を垂れた。
ポルアースは冷や汗をぬぐいつつ、目だけでユン=スドラに詫びている。しかし何をどのように考えても、ポルアースに罪のある話ではないはずであった。
「で、では、ティカトラス殿、アスタ殿に晩餐会のご依頼を――」
「いやいや! その前に、わたしの従者も紹介させてもらおうかな! この先も、何かと顔をあわせる機会があるだろうしね!」
そう言って、ティカトラスは長羽織のごとき装束の袖をはためかせるようにして両腕を広げた。
「右がデギオンで、左がヴィケッツォだ! 愛想はないが、どちらも優秀な従者だよ! どうぞ見覚えてくれたまえ!」
ティカトラスの左右に立ち並んだ者たちが、慇懃に頭を下げてくる。
主人がこれほど素っ頓狂な格好をしていなければ、そちらも十分に目を奪われそうな容姿をした人々である。
デギオンというのは、背丈が190センチばかりもありそうな年齢不詳の男性だ。ただしやたらと痩身で、同じぐらいの背丈である《銀の壺》のラダジッドよりもさらに細いのではないかと思われた。
その顔も、骸骨のように頬がこけており、目も深く落ちくぼんでいる。そうして陰影が濃いために、ずいぶん陰気で不吉な眼差しをしているように感じられてしまった。
その痩身に纏っているのはピンと襟の立った軍服のような白装束で、腰には細身の長剣を下げている。まず間違いなく武官であろうし、これだけ痩せているにも拘わらず、ずいぶんな手練れなのではないかと思わせる迫力がにじんでいた。
そして、もう片方のヴィケッツォなる人物は――デギオンと同じデザインで色だけの異なる黒装束を纏っている。まるで主人のけばけばしさを引き立てるかのように、彼らはモノクロの色合いをしていたのだった。
なおかつこちらの人物は、東の民のように黒い髪と瞳と肌をしている。ただ、くっきりとしたアンズ形の目に、西洋的な彫りの深い顔立ちで、背丈も俺と変わらないていどである。肌の色を除くと、まったく東の民とは共通点のない容姿であった。
(それに、このお人は……ひょっとしたら、女性なのかな?)
とても精悍な面持ちで、相棒に負けないぐらい迫力のある雰囲気でありながら、その人物は中性的で秀麗な顔立ちをしていた。胸もとなどはぺったんこであるが、アイ=ファだって武官のお仕着せを纏うときなどは大きな胸を押し潰されているのだ。とりあえず、女性であるほうが自然なぐらい容姿は端麗で、アップにまとめた黒髪もほどけばずいぶん長そうだった。
「……あらためまして、ファの家のアスタと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
俺が一礼してみせると、ティカトラスは「うんうん!」と鷹揚にうなずいた。
「どうぞ、よしなにね! ……さて! それじゃあさっそく、ジェノスで一番の料理人にその腕を振るってもらおうか!」
「ええ? 今日は晩餐会のご依頼をするために足を運ばれたのでは?」
ポルアースが慌てて声をあげると、ティカトラスは愉快そうに笑い声を響かせた。
「たったそれだけの話なら、使者を出せば済むことじゃないか! あの美食家で知られるダカルマス殿下にその腕を認められたというファの家のアスタが、いったいどれだけの料理人であるのか! わたしはジェノスに到着する前から、ずっと期待に胸をふくらませていたのだよ!」
「アスタ様の料理は、それは素晴らしい出来栄えですわ。……でも、このような場で料理の味見をなさいますの?」
デルシェア姫がにこにこと微笑みながら問いかけると、ティカトラスは「もちろん!」と大声で応じた。
「料理というものは、出来立てこそが至高の味わいでありましょうからね! デルシェア姫とて、料理の勉強という名目でこちらにいらしたことがおありなのでしょう?」
「ええ。ですがわたくしは、王族でありながら調理にうつつを抜かす酔狂者ですもの」
「酔狂者と仰るなら、わたしの右に出る者はありますまい! わたしはもっとうらびれた自由開拓民の集落でも祝宴に興じたことがあるのですから、何もご心配はいりません!」
そんな風に言いたててから、ティカトラスはぽんと手を打ち鳴らした。
「そうそう! この場に、あの娘はおられるのかな? ええと、名前は何といったかな……菓子の部門で勲章を授かり、ジェノス侯爵家の姫君にも菓子を受け渡しているという……」
「それは、トゥール=ディン様ですわね」
「そう! トゥール=ディン! 彼女もこの場に居合わせているなら、話が早いのだけれども!」
気の毒なトゥール=ディンは、かちこちに緊張しながら進み出た。
「わ、わ、わたしがディンの家の家人、トゥール=ディンと申します」
「おお、君が! 若年とは聞いていたけれど、これは想像以上の若さだね! そのように幼い身でダカルマス殿下から腕を認められるとは、大したものだ! 君の菓子も、味見をさせてもらいたく思うよ!」
トゥール=ディンは困惑しきった面持ちで、ティカトラスの左右に居並ぶ人々を見回した。それに応じたのは、ずっと無言であったメルフリードである。
「では、アスタとトゥール=ディンにそれぞれ料理と菓子をひと品ずつ準備していただきたい。……それでよろしいのですな、ティカトラス殿?」
「うん! 晩餐会の厨を預けるかどうかは、その出来栄えで判断させてもらいたく思っているよ!」
メルフリードは鉄仮面のごとき無表情で、内心がうかがい知れない。ただその灰色の目は、申し訳なさそうにトゥール=ディンを見つめていた。
ポルアースもそれは同様であり、フェルメスやデルシェア姫は俺たちをなだめるように微笑んでいる。とにかくこの場はティカトラスの要請に従ってほしいという、そんな空気ができあがっていた。
(これは確かに、想像以上に大変そうなお人だ)
きっとメルフリードやポルアースたちは、またダカルマス殿下のときのような苦労を抱え込むことになるのだろう。それを思いやることで、俺は新たな活力を得ることができた。いきなり出張ってきて料理を準備しろというのはあまりに意想外な申し出であったが、俺にとっては大した苦労でもないのだ。
「承知いたしました。では、どれだけの時間をかけることが許されるのでしょうか?」
「別にどれだけの時間がかかっても、いっこうにかまわないけどね! だけどそれじゃあ際限がないから、ここは半刻ていどということにさせてもらおうか! それでもし可能なら、ダカルマス殿下の試食会で勲章を授かった献立をお願いしたく思うよ!」
「承知いたしました。……トゥール=ディンは、大丈夫かい?」
俺がこっそり問いかけると、トゥール=ディンは懸命に不安をこらえている面持ちで「はい」とうなずいた。
そして追い打ちをかけるように、ティカトラスがまた大声を張り上げてくる。
「あっ! ひとつ言い忘れていた! 料理と菓子は、手伝いの人間を使わずに作ってもらえるかな? ここは君たちの純粋な技量を見せてもらいたいのでね!」
俺たちとしては、「承知いたしました」と繰り返すばかりである。
「ところで、味見用の料理と菓子は何名分ずつ準備すればよろしいのでしょうか?」
「手間がなければ、従者たちの分まで準備してもらいたいところだね! ジェノスの方々は、如何かな?」
「あ、いえ、僕たちまで所望したならば、半刻の時間で収めることも難しくなってしまいましょう」
きっと俺とトゥール=ディンの苦労を鑑みて、ポルアースがそんな風に言ってくれた。
すると、デルシェア姫がもじもじしながら声をあげる。
「あの……もしお手間でなかったら、わたくしの分もお願いできますかしら? 屋台の料理は毎日のようにいただいておりますけれど、試食会で勲章を授かった献立はもう長らく口にしていないので……」
「俺のほうは大丈夫です。トゥール=ディンは、どうかな?」
「は、はい。3名分も4名分も、大きな変わりはありませんので……」
「ありがとうございます」と、デルシェア姫はエメラルドグリーンの瞳をきらめかせた。
かつては傍若無人に見えたデルシェア姫も、ティカトラスの前では控えめに見えるぐらいである。まあそれは、デルシェア姫と交流が深まったゆえの心持ちなのかもしれないが――ただやっぱり、デルシェア姫とティカトラスでは、根本の部分が違っているように思えてならなかった。
(熱心なことは熱心だけど、なんか浮ついてるように感じられるんだよな。まあ、デルシェア姫みたいに真っ直ぐなお人と比べるほうが酷な話か)
そんな思いを抱えながら、俺はかまど小屋に向かおうとした。
そこに、ひとりの武官が駆けつけてくる。その武官がメルフリードに報告する言葉が、こちらにも聞こえてきた。
「メルフリード閣下。ルウ家のリャダ=ルウなる人物が、目通りを願っておられます」
メルフリードは即座に「通せ」と命じてから、ティカトラスのほうに向きなおった。
「さきほどご説明させていただいた通り、ルウ家というのは森辺の族長筋と相成ります。こちらから使者を出しておいたので、様子を見届けに参ったのでしょう」
「ふうん? まあ、わたしは何でもかまわないよ!」
ティカトラスの寛大な計らいによって、リャダ=ルウがこちらに参じることになった。このタイミングで現れたということは、きっとメルフリードはファの家に向かう道中で騎兵のひとりをルウ家に差し向けたのだろう。
「失礼する。見届け人として、同席を許してもらえるであろうか?」
トトスを引いたリャダ=ルウが、右足を引きずりながら近づいてくる。
その姿に、ティカトラスは「ほうほう!」と大声を張りあげた。
「北の民というのは女人ばかりが美しいものだけれども、森辺の民は男性までもが秀麗な容姿をしているのだね! いやいや、王都の騎士にもなかなか見られないような凛々しさじゃないか! ……それに、ずいぶん腕も立ちそうだ!」
そうしてティカトラスは楽しげに笑いながら、左右の従者を見比べた。
「デギオン、ヴィケッツォ。君たちなら、このお人に打ち勝てるのかな?」
「……こちらの御仁は、右足が不自由であられるようです。ならば、我々が後れを取ることもありますまい」
ひゅうひゅうと吹きすさぶ木枯らしのような声音で、デギオンのほうがそのように答えた。
ティカトラスは、いっそう興味深そうに瞳を輝かせる。
「では、もしこのお人が手負いでなかったのなら?」
「それは……相討ち覚悟で、五分かどうかというところでありましょうか」
デギオンはそのように答えたが、ヴィケッツォは「いえ」と否定した。とてもハスキーで毅然とした声音だが、これは明らかに女性の声だ。
「わたくしであれば、後れは取りません。……ただし、剣のみの勝負では一分の勝機もないでしょう」
「ほうほう! ふたりきりで50名もの盗賊団を殲滅できる君たちでも、その言いようか! 森辺の狩人というのは、本当に大したものなのだねぇ」
ティカトラスはひとしきり笑ってから、リャダ=ルウに向きなおった。
「それで、なんだったかな? ああ、見届け人だったっけ? よくわからないけれど、好きにしてくれてかまわないよ! ここは君たちの暮らす場所であり、わたしたちのほうこそが部外者であるのだからね!」
「いたみいる」と、リャダ=ルウは一礼した。この奇妙な主従の言動にもいっかな心を揺らした様子を見せないのは、さすがである。
そうして俺たちは、列をなしてかまど小屋に向かうことになった。
ただし、客人を屋内に招くには、鋼を預かる必要が生じてしまう。俺が恐れ入りつつそのように申し述べてみせると、ティカトラスはにこやかな表情で「かまわないよ!」と応じた。
「それじゃあデギオンはヴィケッツォの刀を預かって、表で待機しているがいい。たとえアスタとトゥール=ディンが調理刀で襲いかかってきても、ヴィケッツォさえいれば危険なことはなかろうからね!」
そんなわけで、かまどの間にはティカトラスとヴィケッツォが踏み入ってきた。
あとは、デルシェア姫とお供のロデ、メルフリードとポルアース、フェルメスとジェムド、それにリャダ=ルウという顔ぶれで、8名のかまど番たちは表で待ってもらうことになった。
「ほうほう! 家は木造りだが、調理器具はなかなかのものだね! ちょっとした料理店よりも充実してるぐらいじゃないか!」
ティカトラスは終始、楽しそうだ。どうにもつかみどころのないお人柄であるが、その原動力が好奇心であるということに疑いはないようであった。
(さっき、自由開拓民の祝宴がどうとか言ってたもんな。美食そのものだけじゃなく、見知らぬ土地の文化に対する興味が強いってことなのかな)
そんな想念を抱えつつ、俺は調理を開始した。
半刻という時間制限で、勲章を授かった料理となると、俺に献立を選ぶ余地はない。俺としてはずいぶん簡単な献立になってしまうが、これも何かの思し召しと考えるしかなかった。
いっぽうトゥール=ディンも、てきぱきと作業を進めている。どんなに不安な心地でも、調理の手が鈍るようなトゥール=ディンではないのだ。
すると、またもやティカトラスが「ほうほう!」と大きな声を張り上げた。
「確かにトゥール=ディンは、素晴らしい手際だね! これなら勲章を授かるのも納得だ! ……トゥール=ディン、わたしの従者になる気はないかね?」
「え? え? も、申し訳ありません。わ、わたしも森辺の外で暮らすつもりはありませんので……」
「そうかそうか! きっと君も数年後には素晴らしい美人に成長するだろうから、残念なことだよ!」
トゥール=ディンは赤くなったり青くなったりしていたが、それでも手もとに乱れはなかった。
「それにしても、ティカトラス様が森辺に向かわれると聞いたときには、驚かされましたわ。西の王都からジェノスまでは、車でひと月がかりなのでしょう? 旅のお疲れは大丈夫なのですか?」
デルシェア姫がそのように声をあげると、ティカトラスは「大事ありません!」と元気いっぱいに答えた。
「何せわたしは、1年の半分以上をダームの外で過ごしておりますからね! 車の旅には、慣れたものです!」
「それはお羨ましいことですわ。本当を言えば、わたくしもさまざまな土地を巡って調理の修練をしたいと願っているのです」
「さすがに王族ともなられると、そうそうご自由には振る舞えないのですな! その点、わたしなどは気楽なものです! 家のほうは兄がしっかり守ってくれておりますし、跡継ぎも順調に育っているようですからね!」
「とはいえ、公爵家の当主の弟君であられれば、それなりのしがらみというものがつきまとうのではないですか?」
「いえいえ! わたしが跡目に興味もないものだから、兄などは喜んで自由な行動を許してくれておりますよ! そもそもわたしのような人間が公爵家などに生まれ落ちたことが、西方神の悪戯心であったのでしょう! わたしの願いは、ただひとつ! この世の美しさを堪能することのみであるのです!」
もしかしたら――デルシェア姫は、ティカトラスという素っ頓狂な人物の人となりを探っているのかもしれなかった。
俺は調理を進めながら、ありがたく聞き耳を立てさせていただく。
「美しい絵に、美しい音楽! 美しい彫刻に、美しい装飾品! そして、美しい人々に、美しい風景! わたしは、それらのすべてを愛しております! この魂を返すその日まで、わたしはそれらの美しさにひたっていたいのです!」
「素敵ですわね。そういえば、ティカトラス様はご自分でも絵画や楽器をたしなまれてらっしゃるとか?」
「絵画のほうはそれなりの腕と自負しておりますが、楽器などはほんの手慰みでありますね! 昔は彫刻も手掛けていたのですが、そちらは楽器以上に才がなかったようですので、早々にあきらめました! けっきょくわたしは、この世の美しさを享受する側の人間でしかないということです! ……だから君たちにも、十分に敬意を払っているつもりだよ!」
いきなり矛先を向けられて、俺は思わず「はい?」と反問してしまった。
「美しい絵が人の目を、美しい音楽が人の耳を楽しませるように、美味なる料理は人の口を楽しませてくれるだろう? そしてどの部位を入り口にしようとも、行き着く先は人の心だ! 美味なる酒や料理というものは、絵や音楽や宝石と同じぐらい、人を感動させられるのだよ! だから君たちはあまたの芸術家たちと同じように、この世を美しく彩ってくれている! それは凡夫たるわたしにはかなわぬ所業であるから、心から尊敬しているということさ!」
「そ、そうですか。どうも、恐縮です」
「とはいえ! わたしがどれほどの敬意を払うかは、これから食するものの出来栄えにかかっている! 願わくは、森辺の女人の美しさぐらい、わたしの心を震わせてもらいたいものだね!」
それには、なんとも答えようがなかった。
ポルアースやメルフリードも、さぞかし困惑していることだろう。喋れば喋っただけ、ティカトラスの素っ頓狂な本性が浮き彫りになっていくような心地であるのだ。
そうして半刻の時間を待たず、俺の料理は完成した。
それを告げると、ティカトラスは満面の笑みで「ほうほう!」と身を乗り出してきた。
「ずいぶん早かったね! 見たところ、ずいぶん簡素な料理であるようだけれども……でもこれが、ダカルマス殿下に勲章を授かった料理であるわけだね?」
「はい。最初の試食会で勲章を授かった料理となります」
俺が準備したのは、ワサビのごときボナのソースを使ったギバのステーキと、ツナフレークのごときジョラの油煮漬けとレタスのごときマ・ティノを使ったサラダであった。どちらか片方では簡素に過ぎるかと思い、ステーキにサラダを添えた格好である。
デギオンは表で待機しているために、ヴィケッツォが皿を届ける。
その間に料理を食したティカトラスは、「ふむ!」と満足げな声をあげた。
「これは美味い! が……やはり、簡素は簡素であるようだ。多少なりとも工夫が感じられるのは、ジョラの扱いぐらいのものかな。ヴィケッツォは、どう思う?」
「少々お待ちください。……はい、確かに美味です。このギバ肉というのは、きわめて力強い味わいであるようですね」
「そうそう! わたしもそれには、驚かされた! これは野生のカロンに負けないぐらい、力強い味わいだね! もちろん、ボナを使った調味液がその味わいをいっそう引き出しているわけだが……調味液をつけずとも、これは十分に美味なる肉なのだよねぇ」
「わたくしも、同感です。素晴らしい手際であるかとは思いますが、お屋敷の料理番でもこのていどの料理は容易く手掛けられることでしょう」
すると、ほくほく顔で料理を食していたデルシェア姫が発言した。
「ティカトラス様。こちらはアスタ様が南の王都の食材を手にしてから、わずか数日で作りあげた料理なのですわ。その手腕を認められて、アスタ様は勲章を授かったわけですわね」
「ほうほう! 南の王都の食材というと……ボナにマ・ティノにジョラでありましょうかな?」
そういえば、西の王都と南の王都は海路で通商を行っているという話であったのだ。そうだとすると、彼らにとってもっとも物珍しいのはギバ肉ということになるのかもしれなかった。
「確かにそれが真実であるならば、見事な手腕といえましょう! ……しかし、食材を手にしてから月日が経てば、そういった付加価値は失われてしまうよね。アスタは何故、この献立を選んだのかな?」
「申し訳ありません。勲章を授かった他の献立は準備に一刻以上もかかってしまうので、こちらの料理を選ぶしかなかった次第です」
これ以外で俺が勲章を授かったのは、生春巻きとハンバーグカレー・シャスカであるのだ。どちらもシャスカを仕上げるのに長きの時間がかかってしまうので、この場で準備するのは不適当と判じた次第であった。
「なるほどなるほど! しかしそうなると、君への評価は次の機会ということになってしまうね!」
そんな風に言いながら、ティカトラスは細長い顔でにんまりと笑った。
「これは、期待がふくらむいっぽうだ! それを狙っての所業であるなら、君はなかなかの策士だね!」
「あ、いえ、そのような考えはまったくありませんでした。ご満足いただけなかったのなら、申し訳ない限りです」
「いいよいいよ! 君の実力は、晩餐会で示してもらうからね! ……さてさて、トゥール=ディンのほうは如何かな?」
「は、はい。こちらも完成いたしました」
トゥール=ディンが準備したのは、ピーナッツのごときラマンパをクリームに仕上げた、ロールケーキだ。生地を焼き上げる手間を考えれば、これを半刻で仕上げるのは大変だったことだろう。そしてその苦労は、大きな賞賛によって報われることになった。
「これは美味だね! このやわらかい生地の仕上がりもさることながら、ラマンパを使った味付けが秀逸だ! ヴィケッツォも、これは文句ないだろう?」
「ええ、美味です。これほど美味な菓子を口にしたのは、生まれて初めてかもしれません」
ヴィケッツォが感情を殺した声でそのように答えると、戸板の向こうから「わたくしも同意いたします」という陰気な声が聞こえてきた。
「デギオンにも文句はないようだ! まあ、当然の話だね! いやあ、アスタに肩透かしをくらわされた分、目が覚めたような心地だよ!」
そう言って、ティカトラスはトゥール=ディンに満面の笑みを差し向けた。
「トゥール=ディン! 君には、最大限の敬意を払いたい! 晩餐会では、君も存分に腕を振るってくれたまえ!」
「は、はい。その、晩餐会というのは……?」
「試食会で一番の料理人と定められた君とアスタに、晩餐会の厨を預けたいのだよ! 明日というのは急だろうから、明後日あたりで如何かな?」
すると、ポルアースがまた慌てた様子で声をあげた。
「ティ、ティカトラス殿。さきほども申しあげました通り、アスタ殿やトゥール=ディン殿は族長の許しがない限り、何も決定することができないのです。期日については、また追々ということで……」
「ああ、そうか! その族長というのは、日が暮れるまで戻ってこないのだっけ? まあとにかく、なるべく早い期日でお願いするよ! 楽しみを先にのばすのは、わたしの流儀ではないのでね!」
そのとき――表のジルベが、「わふっ」と嬉しそうな声をあげた。
続いて、デギオンの「何者か?」という低い声が響きわたる。
「私はこのファの家の家長、アイ=ファだ。貴き身分にある客人らがファの家を訪れると聞き及び、取り急ぎ挨拶に出向いてきた」
アイ=ファの凛然とした声音に、ティカトラスが「ほう!」と声を張りあげる。
「噂の、女狩人というやつか! いったいどれだけ勇壮な女人であるのか、楽しみなところだね!」
ティカトラスがいそいそと出口に向かったので、俺も大慌てで追従することになった。
果たしてかまど小屋の外では、厳しい眼差しをしたアイ=ファが猟犬たちを従えつつ、デギオンと相対している。デギオンは飄然と立ち尽くしていたが、その指先は腰の剣の柄にかけられていた。
「ティカトラス様、ご用心を……これなる女人は、わたくしやヴィケッツォでは太刀打ちできぬ力を備えております」
黒い風のように屋外へと出たヴィケッツォが、デギオンから刀を受け取った。
アイ=ファはあくまで静かな面持ちで、ただ眼光だけを鋭くしている。その姿に、デギオンとヴィケッツォはきわめて緊迫してしまったようであった。
「アイ=ファ、おかえり。今、貴き方々に料理の味見をしてもらったところなんだよ」
アイ=ファの心を安らがせるべく、俺は笑顔でそちらに駆けつける。
アイ=ファは一瞬だけ眼光をゆるめてから、あらためてヴィケッツォたちを見据えた。
「私は何も、敵意を抱いているわけではない。ただ、貴族が前触れもなしに来訪することは稀であったため、いささか警戒しただけのことだ。そちらも殺気を収めてはもらえぬだろうか?」
アイ=ファの足もとでは、ジルベとラムもうなり声をあげている。俺にはわからないが、きっとヴィケッツォたちが殺気というものを発してしまっているのだ。
「いやいや、アイ=ファ殿にも心配をかけてしまったね! 何もおかしなことにはなっていないので、心配はご無用だよ!」
後から出てきたポルアースが懸命に取りなすと、アイ=ファは落ち着いた声で「うむ」と応じた。
「私の側に、敵意はない。ただ、そちらの両名が殺気を収めてくれぬのだ」
「それはおそらく、主人たるティカトラス殿への忠誠心ゆえであろう」
メルフリードが、冷たく冴えわたった声でそう言った。
「デギオン殿、ヴィケッツォ殿。森辺の狩人は稀有なる力を有しているが、決して無法な蛮族ではない。理由もなしに刀を抜くことはありえないので、そちらも気を静めていただきたい」
「……失礼いたしました。これほどの剣士と相対したのは、初めてでありましたもので」
デギオンが感情の知れない声で言いながら、剣の柄から指先を離した。
ヴィケッツォもまた完全な無表情であるが、その黒い瞳は炎のように燃えている。ただしそちらも、刀ではなく胸もとにのばしていた手をそっと下ろした。
そうしてその場には、ようやく平穏な空気が取り戻されたかに思えたが――それもティカトラスのけたたましい声音によって粉々に打ち砕かれてしまったのだった。
「美しい! なんと美しい女人であるのだ!」
ティカトラスはデギオンの長身を押しのけて、アイ=ファの前まで進み出た。
そして――感嘆の念をあふれさせた面持ちで、アイ=ファの足もとにひざまずいたのだった。
「君! 君を側妻に迎えたい! そうしてどうか、わたしの子を産んでもらえないだろうか?」
アイ=ファは半分だけまぶたを下げると、氷の刃のごとき声音で「断る」とだけ言い捨てた。
そうして俺たちは、かつてないほどの厄介さを携えた王都の貴族と正しい絆を結ぶために、大変な苦労を抱え込むことに相成ったのだった。