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異世界料理道  作者: EDA
第六十九章 西の果てより
1180/1683

西の果ての道楽者①~来訪~

2022.4/11 更新分 1/1

・今回は全9話の予定です。

 白の月が終わりを迎えて、俺にとって3度目となる灰の月がやってきた。

 俺にとっての灰の月というのは、少なからず節目の月という印象である。どうしてそのような印象であるかというと、それはやっぱり最初に迎えた灰の月において、サイクレウスとシルエルにまつわる騒乱が完全に終息したという記憶が強く残されているためであろうか。


 実際にさまざまな出来事が起きたのは、その前月たる白の月となる。サイクレウスらと決着をつけることになった運命の会談も、ジェノス侯マルスタインによって開かれた親睦の晩餐会も、のきなみ白の月の出来事であったのだ。それで、シルエルの手足となって荒事を受け持っていた盗賊団の討伐が完了したのが、灰の月の初旬であり――俺たちはそこから晴ればれとした心持ちで、新たな生活に踏み出すことがかなったのだった。


 そして、それから1年後――2度目に迎えた灰の月において、俺たちはシルエルの率いる《颶風党》に襲撃されることに相成った。

 それでシルエルがガーデルの手によって魂を返すことになったため、すべての禍根が絶たれたのだという思いを抱くことになり、それでまた灰の月が節目の月だという印象が強まったのかもしれなかった。


 何にせよ、現在のジェノスは平穏そのものである。

 もちろんダレイムの南方はいまだ復興のさなかであり、特定の食材は手に入りにくい状況であったものの、森辺の民も宿場町の民も平穏に過ごすことができている。それもこれも、ジェノスの貴族たちが力を惜しまずに復興の筋道を立ててくれたためであるのだろう。ここ最近は城下町まで出向く機会もめっきり減ってしまっていたが、俺が感謝の念を忘れることはなかった。


 そうして俺たちは、心すこやかに新たな月を迎え――

 ついでに、思わぬ客人をお迎えすることに相成ったのだった。


                 ◇


 灰の月の1日である。

 その前日が休業日であったため、俺たちは月の頭から気持ちも新たに屋台の商売を再開させることになった。


 ファの家に逗留していたレイとサウティの客人たちを見送る晩餐会を開いたのは2日前で、客人たちが帰還したのは昨日の朝のことだ。それでアイ=ファたちはギバ狩りの新たな作法を完成させ、俺たちは血抜きをしていないギバ肉の扱いの手ほどきを完了させたため、いっそう心機一転という心持ちになっていた。


 また、ラン家に逗留していたユーミも、本日の朝方に《西風亭》へと帰還している。ランの末妹もラン家に戻り、この5日間の行状をおたがいに報告し合うことになるのだ。それでまたしばらく日を置いたら、あらためて家人を預け合う手はずになっていた。


 あとは、昨日の休業日にトゥール=ディンが茶会の厨を預かることになり、2日後にはレイナ=ルウがサトゥラス伯爵家の晩餐会の厨を預かる予定になっている。さらに次回の休業日には城下町で勉強会を開く予定であるし、ドーラ家でのお泊まり会もそろそろ日取りを決めようかという話になっているし――月の変わりを区切りとして、俺たちはさまざまなスケジュールを立てていたのだった。


 しかしまあ、屋台を訪れるお客たちには、まったく関わりのない話である。

 よって俺は、新たな節目の月を迎えたという意気込みも胸の奥にそっとしまいこみ、いつもの調子で商売に励んでいたわけであるが――そこに変事を伝える使者として登場したのは、白の月の中旬からジェノスで身を休めていた《守護人》のザッシュマであった。


「よう、アスタ。宿場町は、平和なもんだな」


「あ、どうも。城下町では、何か騒ぎでもあったのですか?」


 ザッシュマは城下町へと通ずる街道の北側からやってきたので、俺はそんな風に言葉を返してみせた。

 ザッシュマはいくぶん難しげな面持ちで、「まあな」と無精髭に覆われた下顎を撫でさする。


「俺としては半月以上もたっぷり休めたんで、面倒事にならない内にずらかるって手もあったんだが……ま、アスタたちにもメルフリード殿たちにも義理がある身だし、ここは覚悟を決めて最後までつきあうことにするよ」


「何だかずいぶん不穏なお言葉ですね。いったいあちらで何があったんです?」


「外交官の補佐官が、ようやく王都から戻ってきたんだよ。まあ、それはべつだんどうでもいいんだが……余計なおまけがひっついてるみたいでなぁ」


「余計なおまけ?」


「ダーム公爵家の放蕩息子さ。王都でも有名な根無し草みたいなお人だが、まさかジェノスにまで出張ってくるとはな。まあ、政治やら何やらにはとんと興味のないお人なんで、そういう意味では心配もないんだが……きっとアスタたちは、それなり以上の苦労を抱え込むことになるだろうよ」


 聞けば聞くほど、不穏な内容である。また、不穏の方向性がよくわからないために、俺もいっそうの不安をかきたてられてしまった。


「よくわかりませんね。どうして俺たちが苦労を抱え込むことになってしまうのでしょうか?」


「そのお人は公爵家当主の弟君っていうけっこうな身分にあるんだが、絵だの音楽だの彫刻だのっていうもんに耽溺する、芸術家かぶれで知られてるんだ。それでまあ、美食や美女にも目がないって話なんだよ。……どうだい、これだけで厄介ごとのにおいがぷんぷんしてきただろう?」


 そう言って、ザッシュマは面白くもなさそうに笑った。


「美食のほうは、まあいいさ。南の王族をもうならせたアスタなら、不興を買うこともないだろう。ただ、女人についてはなぁ……正直なところ、森辺の女衆はしばらく東の民みたいに外套と頭巾で姿を隠しておいたほうが、安全かもしれねえぞ」


「それはちょっと……困ったところですね。そのお人は、フェルメスやオーグよりも高い身分ということなのですか?」


「外交官は公爵家の傍流で、補佐官は男爵家の末席だろ? 公爵家当主の弟君が相手じゃあ、手も足も出ないんじゃねえかな」


 それは何とも、悩ましいところであった。

 ザッシュマは、自らを鼓舞するように「よし!」と声をあげる。


「腹ごしらえをしたら、こっそりジェノス城の様子をうかがってくるよ。とにかく森辺の族長さんらには、短慮を起こすなと伝えておいてくれ。奔放で知られるダームの問題児がどこまで下々の立場や心情を推し量ってくれるものか、まったく知れたもんじゃないからな」


 そうしていくつかの料理を買い求めたザッシュマが青空食堂に立ち去っていくと、隣の屋台で働いていたマルフィラ=ナハムが心配そうに顔を寄せてきた。


「ま、ま、また新しい王都の貴族が、ジェノスにやってきてしまったのですね。な、何か面倒な話になってしまうのでしょうか?」


「うーん、どうだろう。まあ、最大限に用心しておいたほうがいいのかもね」


 俺たちが王都の貴族を迎えるのは、これが3度目のこととなる。最初は監査官たるドレッグとタルオンで、2度目は外交官たるフェルメスとオーグだ。彼らは森辺の集落を含むジェノスの行状を見定めるためにやってきたのだから、もちろん俺たちにとってもずいぶん面倒の多い来訪であったわけだが――今回のお相手は目的もまったく知れなかったため、なかなか判断に困るところであった。


(だけどまあ、こっちとしてはこれまで通りに、精一杯の気持ちでお迎えするしかないよな)


 王都の貴族ばかりでなく、俺たちはゲルドの貴人やジャガルの王族などという人たちとも相対することになった。しかしそれでも最終的には、健やかな関係性を築くことがかなったのだ。今回も、力を尽くして相互理解を目指すしかないだろう。まずは、相手の目的と人となりを見定めさせていただきたいところであった。


「よう、アスタ。ひさしぶりだなあ」


 と――ほどなくして、新たな客人が屋台にやってきた。

 ミソの行商人たる、デルスとワッズである。2ヶ月ぶりに見るその姿に温かい気持ちを誘発されながら、俺は「いらっしゃいませ」と笑顔で出迎えてみせた。


「おふたりがご無事で何よりでした。道中、危険なことはありませんでしたか?」


「それはこっちの台詞だよお。俺たちがジェノスを出るなり、あの騒ぎだもんなあ。アスタたちは大丈夫かって、デルスもたいそう心配してたんだぜえ?」


「ふん。ジェノスが滅んでしまったら、俺も一番の商売相手を失ってしまうわけだからな」


 陽気に笑うワッズのかたわらで、デルスはふてぶてしく笑う。彼らは礼賛の祝宴の翌日にジェノスを出立し、ジェノスはその2日後に飛蝗の襲来に見舞われたのだった。


「俺たちも帰り道で、飛蝗が空を埋め尽くすのを見かけてよお。悪い夢でも見てるんじゃねえかって、思わず頬をつねったもんさあ」


「本当に、悪夢みたいな出来事でしたね。でも、飛蝗を操っていた邪神教団の一派も討伐できて、宿場町はご覧の通りです」


「しかし、ダレイムの畑にはひどい被害が出たそうだな。城下町でもまったく商売にならねえと、コルネリアに立ち寄った行商人が嘆いていたんだが……そいつは本当の話なのか?」


 と、デルスが鋭い眼差しとなって身を乗り出してくる。


「ええ。《銀の壺》の方々も、城下町での商売には見切りをつけて出立してしまいました。でもそれは装飾品などの買い控えが生じているというだけで、食材に関してはむしろ商売の規模が大きくなっているぐらいなのですよ」


「それじゃあ、俺のミソが突き返されることもねえんだな? まあ、ジェノスの貴族様がそんな不義理な真似はしないと、信じたいところだけどよ」


「もちろんです。ダレイムの被害の影響から、宿場町の一般家庭でも外来の食材を使ってみようという気風が高まっているぐらいですので、むしろ発注の上乗せを期待できるかもしれませんよ」


「ふふん。それが本当なら、飛蝗さまさまだな」


 あまり趣味のよろしくない軽口を叩きつつ、デルスはふてぶてしい笑みを取り戻した。


「それじゃあ腹ごしらえをしたら、さっそく城下町にミソを届けてやるとするか。……あと他に、ジェノスで何か変わったことは起きてねえか?」


「昨日までなら、特にないとお答えできたのですけれどね」


 デルスたちはこれから城下町に乗り込もうというのだから、事前に情報を伝えておくべきであろう。そうして俺がザッシュマから伝え聞いた話をそのまま告げてみせると、デルスは心底から嫌そうな顔をした。


「ジャガルの王族の次は、西の王都の貴族かよ。そいつがまた、何かおかしな話を持ち出したりしねえだろうな?」


「俺たちもそれを心配しているんですが、まあなるようにしかなりませんからね」


「ふん。すっかり貴族にも手慣れたって顔つきだな。言っておくが、貴族を甘く見ていると痛い目を見るぞ? すべての貴族がジェノスの貴族のように温厚なわけではないのだからな」


 かつてジャガルの貴族を相手に痛い目を見たことがあるというデルスは、そんな風に言いながら大きな鼻を指先で撫でさすった。


「俺たちも、面倒事にならないうちにずらかるか。よし、さっさと食って、さっさと商売を終わらせるぞ」


「ええ? せっかくジェノスに来たんだから、ゆっくりしていこうぜえ。なんだったら、西の王都にも自慢のミソを売りつけてやればいいじゃねえかあ」


「あのフェルメスって貴族のおかげで、西の王都にもちっとばかりのミソを買わせることはできてるんだよ。南の王都との商談もまとまったところなんだから、今は攻めるより守る時期ってこった」


 そんな言葉を残して、デルスたちも青空食堂に消えていった。

 灰の月を迎えるなり、千客万来という印象が否めない。あとは今回の新たな出会いが穏便な方向に落ち着くことを願うばかりであったが――それもすべては神々と母なる森の思し召すままにであった。


                    ◇


 その後は特に大きなハプニングに見舞われることもなく、俺たちは森辺の集落に帰還することになった。

 休業日明けの本日は、ファの家で勉強会である。血抜きをしていないギバ肉にまつわる案件が終了し、本日からようやく平常の勉強会を行える手はずになっていた。


「さしあたって、生鮮肉の商売で次の当番となる北の一族とヴィンの血族は、ラッツやベイムやダイの血族と家人を預け合うことになったそうですね。フェイ=ベイムをナハムの家に預けている関係から、ベイムとダイの血族がヴィンの血族を受け持つことになったようですが……北の一族のかまど番を迎えることになったラッツの方々は、なかなか張り詰めた心地であるようです」


 そんな情報をもたらしてくれたのは、ラッツやベイムとご近所さんであるレイ=マトゥアであった。

 灰の月の初日たる今日からは、サウティ、ヴェラ、フォウ、ガズが生鮮肉の商売を受け持つ予定になっている。それで10日後には当番が切り替わるため、北の一族とヴィンの血族は取り急ぎ血抜きをしていないギバ肉の扱いを習得する必要に迫られているのだった。


「まあ確かに北の一族の方々というのは、女衆でも独特の迫力を持っておられるようですけれど……でも決して、暴虐な方々ではありませんものね! ラッツの方々も、すぐに胸を撫でおろすことでしょう」


 と、レイ=マトゥアは笑顔の矛先をトゥール=ディンへと移動させた。誰よりも北の一族と親交の深いトゥール=ディンは、「ええ」とはにかむような笑顔でそれに応える。


「それに、サウティの方々もギバ狩りの新たな作法を伝えるために、さまざまな氏族と家人を預け合う予定であるそうですし……アイ=ファも今日は、ランの狩り場で仕事を果たしておられるのでしょう? なんだかいっそう、血族ならぬ氏族との交流が深まりそうなところですね! ガズの血族も生鮮肉の当番を終えた後にはどこかの家と家人を預け合うことになりそうですし、とても楽しみです!」


「うんうん。何だか色んなことが、いっぺんに動き始めた感じだね」


 そして俺も、城下町における勉強会やドーラ家へのお泊まり会などを企画しているわけであるが、まずは本日来訪した王都の貴族の動向をしばし見守るべきであろう。これまでのパターンからいくと、俺は近日中に城下町に招集される可能性が高かったのだった。


(それが美食に関心のあるお人だっていうんなら、なおさらだよな。まあ、ダカルマス殿下やデルシェア姫みたいなお人柄だったら、まだ助かるんだけど……)


 そういえば、ジェノス城にはデルシェア姫が滞在中なのである。西と南の美食家が邂逅を果たしたならば、いったいどのような化学変化が生じるものであるのか。それも気になるところであった。


 しかしこちらは相手の出方を待つ他ないので、まずは平常通りに過ごすばかりである。

 そうして俺が、勉強会を開始しようとしたとき――表のジルベが、2度ほど雄々しい声音を発したのだった。


 これは、森辺の民ならぬ何者かが近づいてきた合図である。

 さっそく城下町から使者が到着したのかもしれないと考えた俺は、単身で表に出ることにした。


 そうして表に出てみると、ジルベがきりりとした面持ちで出迎えてくれる。同じく番犬であるラムは、普段通りの和やかな表情だ。これは、もともとの気性が出ているのだろうか。そして、入り口のひさしで丸くなっていたサチも、しかたなさそうに身を起こしていた。

 そんな中、トトスの手綱を引いてかまど小屋のほうに姿を現したのは――つい数刻前に挨拶を交わしたばかりの、ザッシュマであった。


「よう。ひさびさだから、危うく通りすぎそうになっちまったよ。アスタ、さっそく面倒事が舞い込んできたぞ」


「わざわざありがとうございます。いったい何事でしょうか?」


「例の貴族様が、こっちに向かってるんだよ。さすがのメルフリード殿も使者を出すのが間に合わなかったもんで、俺の出番が回ってきたってわけさ」


 ザッシュマの苦笑まじりの返答に、俺は「ええ?」と呆れることになった。


「ジェノスに到着したその日に、森辺までやってくるのですか? 今までに、そんなお人はなかなかいなかったと思います」


「そりゃあそうだ。普通の貴族なら、丸一日をかけて旅の疲れを癒やすところだろうからな。それだけ普通のお相手じゃないってことだよ」


 いくぶん早口になりながら、ザッシュマはそのように言いたてた。


「そもそもな、その貴族様が遠路はるばるやってきたのは、ジェノスで開かれた試食会ってやつの風聞を聞き及んだかららしい」


「ああ、ダカルマス殿下とデルシェア姫が来訪したという一件は、もちろん王都にまで伝えられているのですよね」


「そりゃあそうだ。荷車を使わずにトトスを走らせれば、ジェノスから王都まで片道10日ていどだからな。ジャガルの王族の来訪だの邪神教団の襲撃だの、そういう突拍子もないことが起きたときは、すぐさま使者を走らせるだろうさ。それで、アスタを筆頭とするジェノスの料理人ってもんに興味を持った道楽貴族が、外交官の補佐官にひっついてジェノスくんだりまで出向いてきたってのが、事の始まりであるらしい」


 そこで溜息をさしはさんでから、ザッシュマはさらに言葉を重ねた。


「さっきも言ったが、今回のお相手は政治だの何だのにはこれっぽっちの興味もない道楽貴族だ。だから目当ては、アスタの料理と森辺の女衆だろう。きっと森辺の習わしなんかにはまったく頓着してくれないだろうから、短気を起こさず、適当にやりすごすんだぞ」


「は、はい。俺は大丈夫だと思いますけど……でも、森辺の男衆が黙っていられるかどうかが、心配なところですね」


「それに、アイ=ファもな。アイ=ファはやっぱり、仕事中かい?」


「ええ。今日はランの狩り場まで出向いています」


「だったら俺は、そっちの家でアイ=ファの帰りを待つべきかもしれねえな。アイ=ファにも、心の準備ってやつが必要だろうしよ」


 すると、かまどの間からランの女衆が進み出てきた。


「でしたら、わたしがご案内いたします。そのほうが、ランの家人も安心するでしょう」


「よし。それじゃあ、お願いするよ。貴族様が到着しちまう前に、とっとと出発するとしよう」


「あ、ちょっとお待ちを! その御方は、ルウではなくファの家に向かっているのですか?」


 早くも身をひるがえそうとしていたザッシュマは、慌ただしく「ああ」とうなずいた。


「なんせアスタは、ジェノスで一番の料理人と認められた身なんだろう? それなら真っ直ぐ、アスタのもとを目指すはずさ。……それじゃあな。くれぐれも、短気を起こすなよ」


 そうしてザッシュマは、ランの女衆ともども立ち去っていった。

 すると他なる女衆らも、心配げに表へと出てくる。


「ザッシュマは、ずいぶん心配されているようですね。このたびの貴族は、それほどに道理をわきまえていないのでしょうか?」


「うーん、どうだろう。……みんなも自分の家に戻っておいたほうがいいかもしれないね」


「まあ、何を言うのですか。アスタおひとりを残して、家に戻ることなどできません」


 と、ユン=スドラがきゅっと眉を吊り上げる。ユン=スドラが滅多に見せない怒りの表情で、言っては何だがとても可愛らしかった。


「でも、今回のお人は美しい女性に目がないみたいだからね。以前のレイナ=ルウとリーハイムみたいに、何か面倒なことになるかもしれないし……」


「ですが、お会いする前から逃げ隠れするというのは、あまりに道理が通らないかと思われます。相手がどのような御方でも、こちらの道理を曲げる理由はないでしょう?」


 ユン=スドラ以外の女衆も、おおよそは真剣な面持ちでうなずいていた。トゥール=ディンは不安げな面持ちで、マルフィラ=ナハムはひとりあわあわとしていたが、何にせよ立ち去る気はないようだ。


 それにどの道、俺たちには逃げ隠れする時間もなかった。

 俺の足もとで、ジルベが再び鳴き声をあげたのである。


「どうやら、来ちゃったみたいだね。こうなったら、みんなで出迎えようか」


 本日ファの家に集まっていたのは、10名ていどの人数だ。そうして俺たちが移動を始めると、ひさしの上で身を休めていたサチもジルベの背に降り立った。


 このとき、俺が思い出していたのは、監査官とともにジェノスへとやってきた王都の兵士たちであった。彼らは森辺の民を調査するという名目で、何の前触れもなくルウの集落にやってきて、家を踏み荒らしていったのだ。それは監査官タルオンの嫌がらせに他ならなかったわけであるが――このたびは、いったいどういう意向なのであろうか。


(本当に、料理人としての俺に興味があるだけなのか? 政治には興味のない人間だって、ザッシュマはしつこいぐらい強調してたけど……でも、フェルメスなんかは政治と関係ないところで、俺に個人的な興味を持ってるもんな)


 しかしそのフェルメスでさえ、これほど強引な真似はしでかさなかった。

 きっとマルスタインやメルフリードたちは、森辺を訪れるならば事前に族長へと通達するべきであると主張してくれたことだろう。それを無視して強引に踏み込んできたからこそ、ザッシュマもあのように慌てて前触れをしてくれたのだろうと思われた。


 そうして張り詰めた心持ちで待つこと、十数秒――

 木立の向こう側に、森辺の道を疾駆するトトス車の影が見えた。

 その数は、4台だ。なおかつ、その前後にはトトスにまたがった騎兵の姿もうかがえた。


 ほんの2日前、60名もの客人を迎えたファの家の広場に、騎兵とトトス車がなだれこんでくる。

 まずは、トトスを降りた騎兵のひとりが、俺たちのもとに駆け寄ってきた。


「突然の来訪、失礼いたします。ファの家のアスタ殿。ダーム公爵家のティカトラス殿がご面会を求めておられますので、ご了承をいただけますでしょうか?」


 すると、トゥール=ディンが「あっ」と驚きの声をあげた。

 その人物は、穏やかな笑顔でトゥール=ディンのほうを振り返る。


「トゥール=ディン殿もいらっしゃったのですね。お元気そうで何よりです」


 その発言で、俺も彼のことを思い出した。彼はメルフリードの直属の部下である近衛兵で、かつてトゥール=ディンがオディフィアのお見舞いをした際、城下町での買い物をエスコートしてくれたそうであるのだ。そののちに、俺もどこかで彼とひとたびだけ顔をあわせていたのだった。


「本当に突然のことで、こちらも驚いているのですが……ここでお断りしたら、きっとジェノスの貴き方々に大きなご迷惑がかかってしまうのでしょうね?」


 俺がそのように確認すると、近衛兵の若者は申し訳なさそうに「はい」とうなずいた。


「なおかつ、アスタ殿にお断りされても、ティカトラス殿がご面会をあきらめることはないでしょう。ここはどうかジェノスの安寧のために、ご了承をいただけませんでしょうか?」


 ではこれは、あくまで形式上のやりとりであるということだ。

 と、いうよりも――メルフリードか誰かが森辺の民の顔を立てるために、あえて事前の了承を取りつけようとしてくれているのであろう。本来、貴族の側がそうまでへりくだる理由は存在しないはずであった。


「わかりました。その御方と面会させていただきます。どうぞお好きなように取り計らってください」


「ありがとうございます」と言い置いて、その若者はトトス車のほうに戻っていった。

 すると、トトス車から現れた30名ばかりの兵士たちが、ファの家を広場ごと取り囲む。貴き方々を森辺にお招きした際には、お馴染みの光景だ。


 ただ俺は、そこで多少ながら安心することができた。

 それらの人々は、いずれもジェノスの兵士たちであったのだ。王都の兵士たちは装備のデザインがいくぶん異なっているということを、俺は過去の経験から学んでいたのだった。


 そうして警護の配置が完了されたならば、最後のトトス車の扉が開かれる。

 真っ先に姿を現したのはポルアースで、その後にメルフリード、フェルメス、ジェムドが続き――さらにデルシェア姫まで現れたものだから、俺は心から驚かされてしまった。


 ジャガルの兵士に左右をはさまれたデルシェア姫は、遠い位置から俺のほうににこりと笑いかけてくる。

 そして最後に、その人物が姿を現したのだった。


「ほうほう! これが森辺の集落か! これは確かに、森の真っ只中だ! なんとも心が浮き立ってしまうね!」


 むやみやたらとキーの高い、ひっくり返ったような声音が響きわたる。

 なおかつ、その人物は、実に素っ頓狂な格好をしており――それを出迎えた俺と森辺の女衆らは、みんなで呆気に取られることに相成ったのだった。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] リーハイムなんかは以前の自分を見てる気分になるんでしょうか? こじれて【屋台を出すのを控える】みたいな展開にならない事を祈ります [一言] 準備や心構えをさせない為に森辺を強襲したって…
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