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異世界料理道  作者: EDA
第六章 背徳の家
118/1675

プロローグ ~多忙なる休業日~

2014.10/28 更新分 1/1 2016.1/19 誤字を修正


本日の更新をもちまして、書きため期間に突入いたします!

次の更新予定に関しては活動報告にて告知していきますので、よろしかったらお気に入りユーザの登録をお願いいたします(活動報告の更新が通知されるようになります)。

できるだけ早めに再開できるよう頑張りますので、引き続きご愛顧いただければ幸いであります。

 朝。


 宿場町において10日間の仕事を終えた、翌日の朝である。


 ルウの集落の仮の宿で、俺は昨日購入したふたつの調理器具にうっとりと見とれていた。


 調理刀と、鉄板。


 調理刀は、シム産で、刀身は20センチ、身幅は8センチほど。

 刃は薄く、片刃である。

 三徳包丁や肉切り刀のように刃線は反っておらず、刀身は長方形をしている。

 そうして刃線が真っ直ぐならば、垂直に下ろしたとき、まな板の面と刃がぴたりと合わさるから、刻みものなどに適しているのだ。

 しかしまた、片刃だと研ぎ方の要領が異なるので、今まで以上に注意が必要である。薄刃ゆえに、こいつは刃こぼれも起こしやすい。


 だが、切れ味に関しては、抜群だ。

 白銅貨18枚の値段は、伊達ではない。



 そして、鉄板。

 こちらは、ジャガル産であるという。

 というか、ジェノスで売られている鉄器の大半はジャガル産であるらしい。


 こちらは、きわめて武骨なデザインである。

 横幅は70センチ、奥ゆきは50センチ、厚さは6ミリていど。

 四方に3センチほどの返しがついており、左右に持ち手がついているだけで、後は装飾も何もない黒色の鉄の板だ。


 しかし、その武骨さがまたたまらない。


 シーズニング――いわゆる鉄の焼き込みと油を馴染ませる作業は昨日のうちに済ませておいたので、その表面は黒々と、そしてぬめるように輝いている。


 この森辺で暮らし始めて、はや一ヶ月半。どのような焼き料理でも鉄鍋ひとつでこなしてきた俺ではあるが。やはり鉄板の利便性は高い。これで、パテやポイタンを焼く仕込みの作業もかなりの効率化がはかれるはずだ。


 それに、ふだん使っている鉄鍋は厚さが1センチ近くもあるために、重量は30キロをこえるぐらいかもしれないが、この鉄板なら、せいぜい12、3キロていどであろう。そういう意味でも、使い勝手に優れている。


 また、厚さが薄いということは蓄熱性が低くなるということでもあるが。それは今までの鉄鍋が分厚すぎたというだけで、6ミリという厚さは鉄板として十分なボリュームだと思う。


 現時点でも相当に使えるアイテムであるし、今後の料理の幅もうんと広がるだろう。

 そんな風に考えると、いっそう微笑みが止まらない。



 装飾品のように美しいシムの調理刀と、実用性の塊みたいなジャガルの鉄板。


 朝日に照らしだされるそれらの姿を、俺はいつまでも飽きもせず見つめ続けることができた。


「……いったい何をしているのだ、アスタよ?」


 と、朝一番で水場に向かったはずのアイ=ファが戻ってきたので、俺はそちらに視線を巡らせる。


「やあ、早かったな。左腕の調子は、どうだ?」


「うむ。痛みなどはまったくない。……ただし、ずいぶんと力は落ちてしまったようだ。人間相手ならまだしも、これでギバを相手にするのは、やはり心もとないな」


 そう応じながら、アイ=ファは6日ぶりに解放された左腕を、ゆっくり曲げ伸ばしした。


「力が戻らぬうちに無理をすれば、また骨が外れてしまうやもしれん。あと数日は様子を見る必要があるだろう。……で、お前は何をしていたのだ、アスタ?」


「いや、別に何も。昨日買ったこいつらをぼんやり鑑賞していただけさ」


「……ふむ?」と小首を傾げつつ、アイ=ファは足を進めてきて、俺のかたわらに腰を落ち着けた。


 少し湿った金褐色の髪が、以前と同じように複雑な形に結いあげられている。

 肩でひとつに束ねただけの簡略ヴァージョンもなかなか魅力的であったが、やっぱりアイ=ファにはこの活動的な髪型が1番似合っている気がする。


「私が身を清め、晩餐の片付けを手伝っている間、ずっとこうして座りこんでいたということか?」


「ああ。今まで家にはなかった道具たちだから、何だか無性に愛着がわいちまってなあ」


 もしかしたら、俺は初孫を迎えた好好爺のような面持ちになってしまっていたかもしれない。

 アイ=ファは、ちょっと切なげに眉を寄せ始める。


「アスタ、お前は……」


「うん?」


「いや。何でもない」


「どうしたんだ? お前が途中で言葉を止めるなんて珍しいじゃないか?」


「うむ。何でもないのだ」


「何でもないことはないだろう。気になるなあ。何か思うところがあるなら、遠慮なく口にしてくれよ」


「……しかし、家人といえども礼節の気持ちを失してしまうわけにもいかぬだろう。だから、何でもない」


「いやいや、ますます気になるじゃないか! ちょっと前に、おたがいの気持ちを隠したりするのはやめような、とかいう話をしなかったっけ? 俺とアイ=ファじゃ考え方とか感じ方とか色々違うのは当たり前なんだから、そういうのは何でもあけっぴろげにして、真正面から相互理解に取り組むべきだと思うぞ?」


「そのように小難しい話ではない。ただ……お前に不愉快な思いをさせたくなかっただけだ」


「いいじゃないか。お前だって、不愉快なことを言ったら叩きのめすけど心情は隠すな、とか言ってただろ?」


「……私を叩きのめすのか?」


「できるか、そんな怖いこと」


「……怒ったりもしないか?」


「そんなにひどい内容だったら、納得いくまで話し合おう」


「そうか。……わかった。どうやら、この際はお前のほうが正しいようだな」


 アイ=ファはあぐらをかいたまま背筋だけ伸ばし、実におごそかな面持ちで俺を見つめやってきた。


「私はただ、ほんの少しだけ、お前のことを薄気味が悪いと思っただけだ」


「…………」


「怒ったか?」


「いや、全然」


 ただ、ちょっぴり涙がこぼれそうにはなった。


「それはつまり、鉄や木でできた道具などに対して、人間に向けるような慈しみに満ちた眼差しを向けるお前が、ほんの少しだけ薄気味が悪いと感じられた、という意味なのだが……」


「ああ、いや、きっちり意味は伝わっているから、追い打ちをかけてくれなくて大丈夫だよ」


「そうか。……怒ったか?」


「いや、全然」


「そうか」と、アイ=ファはうなずいた。

 そうして、ちょっと無邪気な感じに口もとをほころばせる。


「ならばやはり、口に出すのが正しかったようだ。少し胸が軽くなった気がするぞ、アスタ」


 それは何よりでございますー。


「それに、お前もずいぶん表情が明るくなったようだな。昨晩などは、ひどく思いつめた顔をしていたように思ったが」


「ああ、それはまあ、厄介事を解決したいなら、目の前の仕事をひとつひとつこなしていくしかない、と開きなおっただけさ」


 ミラノ=マスから得た、不穏な情報。

 際限なく高まっていく、スン家への疑惑と不審感。

 それに対して、今の俺に何ができるかといえば――やはり、万全の態勢で家長会議にのぞむことだけだろう。


「それじゃあ、俺も水場を借りてくるよ。今日も朝から大忙しだからな」


「うむ。まずは女衆に料理の手ほどき、か?」


「ああ。その後は明日のための仕込み作業がたんまり待ちかまえてるし、宿屋で出す料理の献立も決めなきゃいけない。なんだかんだで、1日仕事に追われそうだよ」


「……まったくもって、羨ましい限りだな」と、アイ=ファは少し唇をとがらせる。


「私には、薪を集めるぐらいの仕事しかない。なまじ身体が元気になってしまうと、森に入れぬことこそを苦痛に感じるようになってしまう」


「おいおい、だからって無茶はしないでくれよ?」


 少し心配になってそう呼びかけると、アイ=ファはいっそう唇をとがらせた。


「私がそのように愚かな人間に見えるか? 休むべきときに休むのも、狩人にとっては必要な仕事なのだ」


「ああ、ごめん。でも、ものすごく不満そうなお顔になってたからさ」


「不満は不満だ。……しかし、このような顔を見せられるのはお前だけなのだから、うだうだと文句を抜かすな」


 アイ=ファには、もっと色んな人たちと心を通いあわせてほしい――とか思いながら、そんな台詞を吐かれると、心臓を握り潰されそうになってしまう俺である。


「……朝からありがとうございます」


「何に対する礼だ、それは?」


「い、いや、何でもない! それじゃあ俺も仕事の前に身を清めてくるよ!」


 そうして、営業日と変わらぬぐらい多忙な俺の休日は、始まった。



            ◇



「――ということで、これは家長会議に向けた勉強会であるわけですが。とりあえず当日の作業工程を俺なりに組んでみました」


 勉強会は、午前と午後の二部制で行うことになった。

 あまり大勢を集めてしまうと目がゆきとどかなくなってしまうし、朝からルティムの女衆を呼びつけるのも気が引けたため、そのように取り計らったのだ。


 家長会議で、俺を手伝ってくれる女衆は、8名。

 ルウの本家から、ミーア・レイ=ルウ、ヴィナ=ルウ、レイナ=ルウ、ララ=ルウの4名。

 分家から、シーラ=ルウとタリ=ルウの2名。

 ルティムの本家から、アマ・ミン=ルティムとモルン=ルティムの2名、という顔ぶれだ。


 タリ=ルウというのは、シーラ=ルウの母親である。

 家長会議の日、この有能な母娘が同時に家を離れてしまうと、シン=ルウらのかまど番がいなくなってしまうことになるが、それは他の分家の女衆がフォローするらしい。


 どうやらシーラ=ルウばかりでなく、タリ=ルウもまたルティムの祝宴以来、調理の腕をめきめき上げているらしいのだ。

 それゆえの、ミーア・レイ=ルウによる大抜擢だった。


 そしてモルン=ルティムというのは、俺も1度だけ顔を合わせたことがある、アマ・ミン=ルティムの義妹――つまりはガズラン=ルティムの妹であり、ダン=ルティムの娘である。


 容姿は父親似で、ころころとした健康的な体躯をしている、愛嬌たっぷりの元気な娘さんだ。


 で、現在集まっているのは、その8名のうちの、5名だった。


 本家の3姉妹と、ミーア・レイ母さん、それにシーラ=ルウというメンバーである。

 ミーア・レイ母さんとシーラ=ルウには、午後の勉強会にも参加していただく。

 この精鋭部隊の小隊長を、彼女たちにつとめあげていただくためだ。


 それら5名の頼もしい姿を見やりつつ、俺は言葉を重ねていく。


「こちら側の目的は、スン家の女衆に調理技術を叩きこむ、ということでありますので。当日は、俺たちが見本を見せる形にして、できるだけスン家の女衆を動かしてほしいのです。言ってみれば、俺が2度目にルウ家のかまどを預かったあの夜の再現みたいな感じですね」


「ああ、うちの家長にすてーきを食べさせた、ルティムの婚儀の前祝いの夜のことだね? 確かにあのときは、ほとんどあたしらで調理したんだもんねえ」


 今日も溌剌としたミーア・レイ母さんが、一同を代表する形で大きくうなずく。


「だけど今回は、ルティムの祝宴と同じぐらいの人数が相手なんだろう? 本当にそんなやり方で通用するのかい?」


「それは大丈夫だと思います。祝宴のときみたいに凝った料理を作るわけでもありませんし、配膳で頭を悩ます必要もありませんから。……で、献立としてはですね、ミャームー焼きとステーキ、焼きポイタン、ギバ肉とアリアのスープ、でいこうと思っております」


「へー、スープに他の野菜は入れないの?」と、ララ=ルウ。


「うん。何せ食材費は代価の中から出さなきゃいけないことになってるからさ。アリアとポイタン以外にもミャームーと果実酒を使うわけだし、今回は質素にいこうと思うんだ」


 攻略すべきはスン家だが、家長会議にはすべての家長が集結するのである。


 どうせ血抜きと解体の技術を公開してしまうならば、そういった人たちにもシンプルでリーズナブルな料理を食べてほしいなと思い、ステーキを品目に追加した、という顛末だ。


「で、当日は、焼きポイタン、ギバスープ、肉料理、の順番で作業を進めていきたいと思います。同時進行でそれぞれの料理を作るのではなく、ひとつずつの料理を全員で仕上げていく、という形ですね。なので、焼きポイタンとスープに関してはもう問題もないでしょうから、肉料理に関して、それぞれがスン家の女衆に手ほどきができるぐらいの技術を身につけていただきたいと思っております」


 そうして俺は、ひっそりと立ちつくしているシーラ=ルウのほうに視線を向けた。


「それで、これは家長会議とは別の話なのですが。シーラ=ルウには、特に『ミャームー焼き』をひとりで完璧に作ってもらえるようになってほしいのですよね」


「え? ……何故ですか?」


「はい。明日からまた宿場町の商売が始まりますので、その際に、俺がいなくても『ミャームー焼き』の屋台を切り盛りできるようになってほしいのです」


 家長会議の翌々日、青の月の12日から、俺は《南の大樹亭》で、晩餐用の料理の仕込みを請け負うことになった。


 しかし、現在の状況では、時間が足りないのだ。

 屋台の商売が終わった後に仕込みの作業を始めていたら、帰宅の時間が遅くなってしまう。そうすると、今度は翌日の商売の仕込みをする時間が削られてしまうことになる。


「なので、中天を過ぎて『ギバ・バーガー』を売り切った時点で、俺は《南の大樹亭》に向かいたいんです。その間、シーラ=ルウに『ミャームー焼き』の屋台をおまかせしたいのですよ」


「わたしに……できるのでしょうか? あの料理は、火加減がとても重要なのですよね……?」


「はい、焼きすぎると肉が固くなってしまいますし、汁も煮詰まって味が濃くなってしまうでしょう。……だけどシーラ=ルウだったら、数日もあれば問題なくまかせられるようになる、と俺は思っています」


「そうでしょうか……?」


「はい。そして、そこまでまかせられるようになったら、シーラ=ルウにはこれまでの倍の代価を払いたい、という旨をすでにミーア・レイ=ルウにはお話してあります」


 シーラ=ルウは、びっくりしたようにミーア・レイ母さんを振り返った。

 ミーア・レイ母さんはにんまりと笑いつつ、手近にあったララ=ルウの頭をくしゃくしゃにかき回す。


「あんたたちはそれでいいのかいって、ララにもヴィナにも聞いたんだけどね。そんな真似ができるのはシーラ=ルウぐらいしかいないって話だったから、あんたにまかせることにしたんだよ。まあ、この子らはそこまでかまどの番が得意なわけでもないからねえ」


「うっさいなあ。それはシーラ=ルウが上手すぎるんだよ! あたしらにアスタとまるきり同じ味の料理なんて作れるわけがないじゃん!」


「本当よぉ……わたしだって頑張りたかったけどぉ、さすがに屋台で肉を焼く勇気はないわぁ……」


 そんな風に応じるふたりの瞳には、とても素直な賞賛と羨望の光が灯っていた。


 そして――今まで黙りこくっていた最後の人物が、そこで初めて口を開くことになった。


「ミーア・レイ母さん。わたしだって、かまど番の仕事ならそれなりに務めあげることができると思うんだけど……明日からも、やっぱり町に下りるのはヴィナ姉とララなの……?」


 次姉の、レイナ=ルウである。

 レイナ=ルウは、胸の前で両手を合わせて、懇願するように母親の顔を見つめていた。


 ミーア・レイ母さんは、ちょっと困ったような笑顔を浮かべる。


「最初にヴィナを選んだのは家長だからねえ。ヴィナとあんたがいっぺんに抜けちまうと、ちょっとばっかり家の仕事が滞っちまいそうだろう? ……それにやっぱり、スン家のほうがもう少し落ち着かない限りは、あたしもアスタのかたわらにはヴィナがいたほうがいいと思う。何だかんだ言って、1番人間あしらいが上手いのはあんたの姉さんだろうからさ」


「でも……」


「例えば、スン家の男衆が酔っ払って難癖をつけてきたら、そいつを1番上手にあしらえるのは、やっぱりヴィナだろう? 今回の家長会議のかまど番を果たして、それでスン家がもうアスタにちょっかいを出してくることもなくなるだろうって見込みが立ったら、家長も考えを変えるかもしれない。それまでは、ちょっとあんたも辛抱しな」


「……わかった」と、レイナ=ルウは少し頬をふくらませた。


 ヴィナ=ルウは、とても複雑そうな面持ちでそっぽを向きながら、栗色の髪の毛先をいじっている。


 そして――シーラ=ルウは、何やら決然とした面持ちで俺を見つめてきた。


「わかりました。アスタがそこまでわたしなどを信頼してくださるのでしたら――わたしもその信頼に応えたいと思います。アスタ、どうぞよろしくお願いいたします」


「ありがとうございます。……それではさっそく、勉強会を始めましょうか」


           ◇



 その後はこれといって場が乱れることもなく、午前の部の勉強会を無事に終えることができた。


 およそ2時間ぶりにかまどの間から脱出し、俺はうーんと両腕を伸ばす。

 外では、リミ=ルウとティト・ミン婆さんが、ピコの葉を乾かしつつ、薪を割っていた。


「やあ、リミ=ルウ。アイ=ファはまだ帰ってきてないのかな?」


「うん。そろそろ帰ってくるんじゃないかなあ」


 アイ=ファは、商売で使うための薪を採取しに森の端へと向かったのである。

 中天まではまだけっこう時間もあるのでどうしようかなと思っていると――意想外の人物が近づいてきた。


 ジザ=ルウである。


「アスタ。手が空いたのなら、少し貴方と話がしたいのだが」


「俺と話――ですか?」


 近頃めっきり影を潜めていたジザ=ルウが、満を持して俺に話とは――はっきり言って、あまり良い話であるとも思えない。


 俺に続いてかまどの間を出てきたミーア・レイ母さんも、少なからず不審そうに長兄の姿を見つめやった。


「あんたがアスタに話なんて珍しいじゃないかね、ジザ。……まさか、家長の決定に何か不満があるわけじゃないだろうね?」


「家長の決定は絶対だ。長兄である俺が、それに逆らうような真似をするとでも?」


 相変わらず、表情だけは温和そのものである。

 その糸のように細い目をじっと見返してから、ミーア・レイ母さんは小さく息をつく。


「あんたもアスタも仕事を抱えてるんだから、おたがいに余計な気苦労は背負いこむんじゃないよ?」


「ああ」とうなずき、ジザ=ルウは家屋の横手へと足を進めていく。

 俺としては、追従する他ないようだった。


「……貴方ときちんと言葉を交わすのはずいぶんひさしぶりだ、アスタ」


「そうですね。ルティムの祝宴の朝以来かもしれません」


「それでも、20日は経っていない。……しかし、その間に状況はめまぐるしく変化してしまった」


 ジザ=ルウが立ち止まり、俺に向きなおる。

 刀も、マントも帯びていない。布の胴衣と腰あてだけを纏った、平服の姿である。

 しかし、この恵まれた体躯を有する御仁がその気になれば、俺を粛清するのに刀など不要であろう。

 この御仁には、スン家を相手にするのと同じぐらいの慎重さで対するべきだと俺は心がけている。


「貴方はすっかり、森辺の中心人物になってしまった。貴方が動くと、森辺の行く末も動く。……俺には、そのように感じられてならない」


「そんなことは、ないと思います。何か色々な騒動の引き金になってしまっている、という自覚はありますが――だけどそれは、良い意味でも悪い意味でも、俺ひとりの力なんかじゃないですよ。アイ=ファがいて、ガズラン=ルティムがいて、ドンダ=ルウがいたからこそ、俺みたいな人間も森辺の行く末に関わる立場になりえたんだと思います」


「それはどうだろう。……少なくとも、貴方の存在がなければ、今日の事態はなかったと思うが」


 不可視の圧力が、ゆるりと俺の頭上にのしかかってくる。

 彼の兄弟たちが怖れる、見えない鉛のような圧迫感だ。


「それはそうかもしれませんが、でもやっぱり、それは他の人たちも同様だと思いますね。アイ=ファと、ガズラン=ルティムと、ドンダ=ルウ、そのうちのどのひとりが欠けても、やっぱり状況は全然違うものになっていたんだろうなと、俺には思えます。……世の中って、そういうものではないですか?」


「……貴方は変わったな、アスタ」と、ジザ=ルウの声が低くなった。


「以前の貴方は、もっと弱々しい印象だった。自分自身がどういう存在であるかもわかってはいないまま、わからないゆえに、その力を無秩序に振りかざしているような危うさがあったように思う」


「はあ……」


「しかし、今の貴方は、自分の力を理解した上で、その力を森辺に及ぼそうとしているように思える」


 ジザ=ルウの、ただでさえ大柄な身体がいっそう大きくなったような錯覚に陥ってしまった。


 圧力が、どんどん増してくる。


「貴方は、危険だ。たぶん、あのカミュア=ヨシュという石の都の人間よりも――異国人でありながら森辺の行く末を内側から動かす力を持った貴方こそが、俺には最も危険な人間に見えてしまう」


「それはやっぱり、まだ俺を森辺の一員として見なすことができない、ということなんでしょうかね?」


 恐怖感というよりも耐え難い息苦しさのようなものを感じながら、俺はそう応じた。


「俺はこれでも、心底から森辺の一員になりたいと願っています。だけどまだ森辺で暮らして日の浅い俺の判断だけで大きなことをしでかすのは不安だったから、アイ=ファや、ガズラン=ルティムや、ドンダ=ルウに自分の心情をさらけだすことによって、最善の道を選んできたつもりです。……ジザ=ルウは、現在のような形でルウの家が宿場町やスン家に関わるのが、不本意なんでしょうか……?」


「不本意か不本意でないかと問われれば――もちろん、不本意だ。森辺の行く末は森辺の民が決めるべきだと、俺は思っている」


「ううん……それならいっそのこと、ドンダ=ルウやガズラン=ルティムなどが、俺という道具を使って森辺の行く末を切り開こうとしている、という風に考えてみたりはできないものですかね? 俺としては、自分でもそういう意識がまだ少し残っていたりもするのですが……」


「貴方が道具だとしても、それを操っているのはルウやルティムではない」


 ジザ=ルウの目が――細い糸のようなまま、黒い光を発しているように感じられた。


 漆黒の刀の切っ先みたいな、鋭い光を。


「貴方を操っているのは、ファの家の家長だ。……言ってみれば、森辺の行く末は、眷族も持たないファの家の家長の手に委ねられてしまっているのかもしれない」


「それは、誤解です。そういう意味で、俺はアイ=ファひとりを重んじているわけではありません。というか、アイ=ファ自身だって私利私欲ではなく、森辺の行く末を思って行動しているだけじゃないですか?」


 だからこそ、アイ=ファは自分の気持ちを曲げてまで、ルウやルティムを頼る決断をしたのだ。

 その翌日に、心労のあまり熱を出すぐらい思い悩みながら――それでもアイ=ファは、自分が正しいと思えたガズラン=ルティムの言葉に従う道を選んだのである。


 だから俺は、ルウとルティムとファの家の人間が、おたがいに支え合いながら森辺の行く末を切り開こうとしているように思うことができたのだが――このジザ=ルウは、どうしてもそんな風に考えることができないのだろうか?


「……あのアイ=ファが2年前にダルムの嫁となっていれば、このような事態に陥ることはなかった」


 と、決して昂ぶることのない声音で、ジザ=ルウはそう言った。


「あるいは、ジバとリミがアイ=ファと縁を結んでいなければ――あるいは、アイ=ファと貴方が森の中で出会っていなければ――」


「俺にとっては幸福であったと思えるそれらのことが、ジザ=ルウにとっては不幸な出来事だとしか思えないのでしょうか?」


 不可視の圧力に耐えながら、俺も目もとに力をこめる。


「だったら、それは――とても悲しいことですね」


 空気がぴりぴりと電気を帯びているかのようだった。

 気を抜くと、膝が砕けそうになってしまう。


 これは確かに――怒り狂うドンダ=ルウにも匹敵する圧力だった。

 しかし、ドンダ=ルウは激情を解放してその圧力を形成しているように思えるのに、このジザ=ルウからは、やっぱりいかなる感情も感じられない。


 怒りや憎しみといった個人の感情ではない、もっと俺からは縁遠い感覚――使命感だとか、一族への帰属心だとか、狩人の尊厳だとか、そういうものが核にあるのだろうか。


 何にせよ、ものすごい圧力だ。

 俺としては、その圧力に屈しないように、ぐっと堪えることしかできなかった。


 そうして、どれほどの時間が経過したのか――


 俺たちの対峙は、ジザ=ルウの背後から上がったアイ=ファの声によって断ち切られることになった。


「このようなところで何をやっているのだ、アスタ」


 ふっ――と、ジザ=ルウの肉体から発散されていた圧力が消失する。

 ジザ=ルウが身体を傾けると、薪の詰まった袋を背に負ったアイ=ファの姿が見えた。


「お前も手が空いたのなら、私を手伝え。明日は昨日以上の薪を必要とするのだろう?」


「あ、ああ、そうだな。……わかった、そっちを手伝うよ」


 アイ=ファが、ゆっくりと近づいてくる。

 ジザ=ルウは、そちらに一礼してから、俺のほうを見た。


「では、俺はこれで失礼する。今日はひさしぶりに話せて良かった」


 気のきいた返事などはひねり出せぬまま、俺は小さくうなずき返す。

 そうしてジザ=ルウは俺のもとを去り、代わりにアイ=ファがやってきた。


「本当に、お前は何をやっているのだ、アスタ」


 と、アイ=ファが怖い顔を寄せてくる。


「あの長兄があれほどの殺気を撒き散らす姿は初めて見た。私のいない場で、あのような男とふたりきりになるな」


「だ、だけど、話がしたいって言われちゃったら、なかなか断れるもんでもないだろ?」


「それでも、断れ。……あの長兄は心情が読めぬから、私とてどのように警戒すればよいのかもわからぬままなのだ」


 さらにアイ=ファは顔を寄せてきて、ほとんど鼻先が触れそうなぐらいの距離から、俺の瞳を覗きこんでくる。


「ふん……しかしまあ、あれだけの殺気をぶつけられて、物怖じひとつしていないとはな。腕力のほうはお粗末なままで、胆力だけは備わってきたということか」


「あのなあ。けなすならけなす、ほめるならほめるで、どっちかにしてくれよ」


「そうか。では、ほめてやろう」


 ごつっ、とアイ=ファが額に額をぶつけてくる。


「あの長兄にあれほどの殺気をぶつけられて我を失わない者など、男衆にもそうはいないはずだ。非力なかまど番の分際で生意気だな、アスタ」


「いや、だから――」


「ほめているし、誇らしいと思っている」


 そう言って、アイ=ファはとても勇ましい笑顔を浮かべた。


「その胆力があれば、スン家の男衆など恐るるに値しない。家長会議の前に、少しは心を軽くすることができた。……それでは薪を集めに行くぞ、アスタ。私もなまりきった身体を元の状態に戻さねばならぬのだからな」

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