レイとサウティの逗留①~初日~
2022.3/21 更新分 1/1
・今回は全9話の予定です。
ルウの集落で行われた《銀の壺》の送別会から、2日後――白の月の25日である。
その日から、ついにファの家ではレイとサウティの人々を逗留させることに相成った。
ラウ=レイは狩人として手ほどきをされるため、ダリ=サウティらは新たなギバ狩りの作法を確立させるため、ヤミル=レイやサウティの血族の女衆らはかまど番として手ほどきをされるため――それが、表向きの理由となる。その実、レイやサウティの人々の根本にあるのは、「ファの人間と絆を深めたい」という思いであった。
しかしまた、ファには2名の家人しかいない。つまりラウ=レイやダリ=サウティらは、俺やアイ=ファと仲良くなりたいがために、こうしてファの家にやってくるのだ。稚気にあふれたラウ=レイはまだしも、ダリ=サウティほど立派なお人にそんな思いを向けられるというのは、きわめて光栄な話であった。
ただもちろん、あくまで個人的な欲求に従っているラウ=レイと異なり、ダリ=サウティのほうはきちんと族長らしい信念を抱いている。屋台の商売に関わっていないサウティの血族は、森辺の生活を一変させるきっかけとなったファの家と、もっと正しく絆を深めるべきではないかと、そういった思いが土台にされているのだった。
「とはいえ、俺個人もアイ=ファやアスタと絆を深めたいと思っているからこそ、こうして自らが出向いてきているのだ。また5日間、どうかよろしくお願いするぞ」
当日の朝一番に荷車で登場したダリ=サウティは、いつものように誠実さにあふれかえった笑顔でそのように挨拶してくれた。
その左右に控えるのは、真面目で苦労性であるヴェラの若き家長、大らかでのほほんとしたドーンの長兄、明朗で礼儀正しいサウティ分家の末妹、姉御肌であるダダの長姉、幼いながらもしっかりもので可愛らしいドーンの末妹という、前回と同じ顔ぶれであった。
「こちらこそ、よろしくお願いする。かなうことならば、このたびの滞在で新たなギバ狩りの作法を確立させたいものだな」
きりりと引き締まった面持ちで、アイ=ファはそのように挨拶を返した。
今日という日を迎えるために、休業日であった昨日の午前中は何の予定も入れずにアイ=ファとゆっくり過ごさせていただいたのだ。午後にはギバ狩りと勉強会でいったん行動を別にしたものの、夜にはまたふたりでゆったりと晩餐を楽しみ、おたがいの温もりをすぐそばに感じながら眠りに落ち――そうして、かなう限りの充電をほどこした次第である。これで甘えん坊たる俺とアイ=ファも、5日ていどは心置きなく客人を歓待することができるはずであった。
「ところで、レイの家長らはまだ参じていなかったのだな。あちらのほうが家は近いので、てっきり先んじられているかと思ったのだが――」
ダリ=サウティがそのように言いかけたとき、その場の狩人がそろって道のほうに視線を飛ばした。俺や女衆らがその理由を知ったのは、それから数秒後のことである。トトスに二人乗りをしたラウ=レイとヤミル=レイが、南の方角から駆けつけてきたのだった。
「いやあ、すっかり遅れてしまったな! 今日から世話になるぞ、アイ=ファにアスタよ!」
目つきの鋭いレイ家のトトスから降り立ったラウ=レイは、トトスを座らせた上でヤミル=レイに手を差し伸べる。あまり運動神経のよろしくないヤミル=レイは、取りすました顔でその手を取って、地面に降り立った。
「それに、族長ダリ=サウティとその血族らもな! お前たちがどれだけの力を持つ狩人であるのか、ずっと楽しみにしていたぞ!」
「それはこちらも同じことだ。ルウの血族においても屈指の力を持つレイの家長と仕事をともにできることを、喜ばしく思っている」
「仕事だけではなく、力比べもな! やはりおたがいの力を示し合うには、闘技の力比べであろう!」
ラウ=レイがあまりに無邪気な笑顔であるものだから、さしものダリ=サウティも苦笑を浮かべていた。
「まあ、仕事に支障のない範囲でな。では、アスタたちも仕事に励んでくれ。こちらの女衆も、よろしく頼む」
「承知しました。みなさん、こちらにどうぞ」
俺は4名の女衆を引き連れて、かまど小屋に向かうことにした。俺とアイ=ファはすでに薪と香草の採取作業を終えており、屋台の商売の下ごしらえに励む刻限となっていたのだ。
「この顔ぶれで、これから5日間を過ごすわけですね。おたがい見知らぬ相手ではないでしょうが、まずは自己紹介をどうぞ」
サウティの血族の女衆らは逗留するたびに屋台の商売にも同行していたため、ヤミル=レイも何度かは顔をあわせている。ただし、詳しい素性まではわきまえていないはずであるので、それをこの場で明かしてもらうことにした。
いっぽうヤミル=レイは森辺の有名人であるし、なかなか見忘れようのない容姿をしている。サウティの血族たる3名は、ヤミル=レイの美しさにあらためて感じ入った様子であった。
「わたしは建築屋の方々の送別の祝宴でも姿をお見かけしていましたが、きちんと挨拶をする機会はありませんでしたよね。これから5日間、どうぞよろしくお願いいたします」
サウティ分家の末妹が笑顔でそのように挨拶をすると、ヤミル=レイはクールに「よろしく」とだけ応じた。
ヤミル=レイがクールなのはいつものことであるが、今日はいつも以上に冷たく研ぎ澄まされているようだ。まだ13歳になったばかりであるドーンの末妹などはいくぶん恐れ入っている様子であり、豪気なるダダの長姉は探るような眼差しをヤミル=レイに向けていた。
「では、かまどの間にどうぞ。もう他の人たちは作業を始めてくれていますので」
俺たちがかまどの間に踏み入ると、あちこちから好意的な眼差しを向けられてくる。今日から客人を招くことは事前に通達していたし、サウティの血族がこちらに滞在するのももうこれで4度目となるのだ。邪神教団の騒動のせいでずいぶん期間が空いてしまったものの、それでも最後の滞在からはまだ2ヶ月ていどしか経っていないはずであった。
よって、この場でもっとも人々の関心を集めていたのは、ヤミル=レイである。屋台の商売に参加していればすっかり顔馴染みであろうが、そうでなければなかなか顔をあわせる機会も生まれないのだ。ファの家に滞在するのもほとんど1年以上ぶりであるし、フォウやランの女衆などはドーンの末妹と変わらないぐらい恐縮してしまっている様子であった。
(もっと昔には、ヤミル=レイもちょいちょいファの家で手ほどきを受けてたんだけど……あの頃とは、ずいぶん顔ぶれも変わってるはずだしな)
ファの家で調理の手ほどきを始めた黎明期は、むしろ年配で立場のある女衆が多く集まっていたように記憶している。それが最近では若い人間のほうが多数となり、年配の女衆はどちらかというと屋台の商売中に翌日分の下ごしらえを受け持つようになっていたのだった。
「それじゃあ4名の客人は、ひとりずつ誰かについてもらいますね。彼女たちは代価を受け取らず、調理の腕をあげるためにこちらの仕事に参加しますので、そのつもりで適切な仕事を割り振ってあげてください」
となると、面倒を見る人間はそれなりの熟練者としなければならない。俺がどのように割り振ろうかと思案していると、ヤミル=レイが低い声でぽつりとつぶやいた。
「そうか。トゥール=ディンは自分で菓子の屋台を出しているから、この時間には自分の家で仕事を果たしているのよね」
「ええ。たしか去年の段階から、もうそうだったでしょう? ですから――」
「それじゃあわたしは、マルフィラ=ナハムに指南をお願いしたいわね」
ヤミル=レイがしなやかな足取りで接近すると、マルフィラ=ナハムは「え? え?」と目を泳がせた。
「あなたは試食会とやらで勲章を授かるほどの腕なのでしょう? その前からずいぶん高い評価を受けていたようだから、ずっと気になっていたのよ」
「そ、そ、そうですか。も、もちろんアスタのお許しさえあれば、わたしのほうはかまいませんが……」
「それじゃあ、ヤミル=レイはマルフィラ=ナハムにお願いするよ。あとは……ユン=スドラとレイ=マトゥアにお願いしようかな」
まあ、この仕事を任せられるのは、やはり常勤たるこの3名であろう。だから、マルフィラ=ナハムにヤミル=レイのお世話を任せることにも、まったく問題はないのだが――ただ俺は、小さからぬ違和感を覚えることになった。
(ヤミル=レイが自分から相手を逆指名するなんて、珍しいよな。今回は、何か気合が入ってるんだろうか)
まあ、やる気があるのはけっこうな話である。ユン=スドラにはダダの長姉、レイ=マトゥアには年齢の近いドーンの末妹をお願いして、俺はサウティの末妹を引き受けることにした。
これまでの滞在中にも同じように仕事を果たしていたサウティの血族の3名は、滞りなく作業に参加できている。そしてヤミル=レイなどはルウの屋台の下ごしらえをちょくちょく手伝っているはずなので、それ以上に問題は見受けられなかった。
ただ何となく、マルフィラ=ナハムとヤミル=レイの間にぎこちない空気が感じられる。
俺がそれをいぶかしく思っていると、サウティの末妹がこっそり呼びかけてきた。
「あの、アスタ……ヤミル=レイは、何か怒っておられるのでしょうか?」
「え? どうしてそう思うんだい?」
「いえ、わたしはそれほどヤミル=レイの気性も存じていないので、確たることは言えないのですが……これまでお会いしたときとは、いくぶん雰囲気が違っているように思えるのです」
そう言って、サウティの末妹は思案顔になった。
「ただ、あれは……怒っているというよりも、心を閉ざしているのでしょうか……何か、人の目や言葉を拒んでいるような……見えない壁のようなものを感じてしまうのです」
確かに今日のヤミル=レイは、いつも以上にクールな雰囲気だ。俺はそれほど気にならなかったが、ヤミル=レイはただでさえ独特の迫力を有しているため、年若い女衆にはそれが威圧的に感じられてしまうのかもしれなかった。
(なんだろう。まさか、ミダ=ルウとマルフィラ=ナハムが仲のいいことを心配してるわけじゃないだろうし……宿場町に下りる前に、話を聞いておこうかな)
何せヤミル=レイとサウティの血族の女衆は、これから5日間も寝食をともにすることになるのだ。ルウとサウティの健やかなる関係性を保つためにも、わだかまりが残らないように配慮しなければならなかった。
ということで、俺は下ごしらえの仕事が終わるのと同時に、ヤミル=レイに声をかけようとしたのだが――ヤミル=レイはまるでそれを察したかのように、さっさとかまどの間を出ていってしまった。
(これはいよいよ、普段のヤミル=レイらしからぬ態度だな)
俺は荷物の積み込みをユン=スドラにお願いしてから、速足でヤミル=レイを追いかけた。
が、かまどの間の外に出てみると、ヤミル=レイの姿はどこにも見えない。ほんの数秒しか経っていないのに、ヤミル=レイは煙のように消え失せてしまっていた。
母屋のほうからは、男衆のあげる賑やかな声が聞こえてくる。きっとラウ=レイの要望に従って、闘技の力比べに興じているのだろう。
ヤミル=レイはそちらに向かったのだろうかと、俺が足を踏み出そうとすると――頭の上から、「なう」という声が聞こえてきた。
頭上を見上げると、サチが入り口のひさしの上で丸くなっている。そしてその金色に光る目が、かまど小屋の周囲を取り囲む雑木の一点を見つめていた。
ピンときた俺は、その一点に向かって歩を進める。
果たして――最初の茂みをかきわけるなり、樹木の裏になよやかなる女衆の肢体が隠されていたのだった。
「こんなところで何をしてるんです、ヤミル=レイ? まだ積み込みの作業が残されておりますよ」
「……非力なわたしでは、大して力になれないのじゃないかしら」
樹木にもたれたヤミル=レイは、悪びれもせずにそんな言葉を言い捨てた。主張の大きい胸の下で腕を組み、そっぽを向いたまま俺のほうを見ようともしない。
「ヤミル=レイの力が足りなければ、他のみんなが補ってくれます。でも、苦手な仕事だからといって、なまけることは許されないでしょう?」
「わかったわよ。それじゃあ、戻るわね」
と、ヤミル=レイがすぐさま身をひるがえそうとしたので、俺は「待ってください」と呼び止めた。
「やっぱり今日は、何か様子がおかしいようですね。もしかしたら、体調でもすぐれないのですか?」
「…………」
「それとも、ファの家に逗留することが意に沿わないとか? そもそもヤミル=レイは、ラウ=レイに無理やり引っ張ってこられた立場なのでしょうしね。でも、それならそれでラウ=レイときっちり話をつけるべきですし、他の人たちに冷たい態度を取るのは礼を失しているでしょう?」
「……あなたはいつだって、真面目たらしいわよね。でも、誰もがそのように振る舞えるわけではないのよ」
ヤミル=レイはそっぽを向いたまま、感情のうかがえない声で言い捨てる。
その物言いに、俺は思わず目を丸くしてしまった。
「もしかして、さっきマルフィラ=ナハムと組みたいと言い出したのは、俺と組みたくなかったからなのですか? もし何か俺に含むところがあるんだったら、何でも正直に打ち明けてください。俺に至らない点でもあったのなら、お詫びしますし……」
「だから、そういう真っ当すぎる言い草がいちいち腹立たしいのよ」
ヤミル=レイは頑なにあらぬ方向を向いたまま、目だけで俺をにらみつけてくる。
その、こまかく編み込まれた黒褐色の長い前髪の向こう側で――ヤミル=レイのなめらかな頬は、わずかに赤らんでいるようであった。
「あなたのように真面目くさった人間にそんな風に追い込まれたら、不出来なわたしには何も言い返せないわよ。わたしをやりこめることができて、あなたはさぞかしいい気分なのでしょうね」
「え……まさかヤミル=レイは、まだ一昨日のことを気にしているのですか?」
2日前、《銀の壺》の送別会において。宴料理の準備をしていた俺は、ラウ=レイの姉たちに辟易している様子のヤミル=レイに、助け船を出した。どうやらそれがヤミル=レイのプライドか何かを著しく傷つけたらしく、彼女は祝宴の場でかつてないほど悪酔いすることになってしまったのだ。
しかしそれもラウ=レイのおかげで丸く収まったものと、俺はそのように判じていたのだが――しかしヤミル=レイは、またもや俺の知らない顔をこの場でさらしてしまっていたのだった。
「なんだ、こんなところで何をやっておるのだ?」
と、ヤミル=レイのもたれた樹木の向こう側から、いきなりラウ=レイの顔が現れた。たちまちヤミル=レイは、両手で自分の頭をひっかき回してしまう。
「何よ、もう! どうしてあなたまで来てしまうのよ!」
「うむ。力比べが一段落したので、様子を見にきたのだ」
ラウ=レイは、汗だくの顔でにこにこと笑っている。そして俺の背後には、力比べのために長袖の胴衣と細身の脚衣を纏ったアイ=ファが、やはり汗だくで立ち尽くしていた。
「もしかしたらと思ったが、やっぱりヤミルは気恥ずかしく思う気持ちを抑えられなかったのだな。アスタよ、ヤミルは酔った勢いでお前にあれこれ言いたててしまったことを気恥しく思っているだけなので、何も気にする必要はないぞ」
「う、うるさいわよ! 黙らないと、その口を糸で縫いつけるわよ!」
ヤミル=レイは両手の先をラウ=レイの頭に移動して、今度はそちらをぐしゃぐしゃにかき回し始めた。
「痛い痛い!」とわめきながら、ラウ=レイはとても楽しそうだ。
そうして俺は、またもやヤミル=レイの常ならぬ姿をまざまざと見せつけられて――そんな騒ぎの中、6名の客人をお招きした5日間の共同生活が開始されたのだった。
◇
ヤミル=レイをなだめたのちは、宿場町へと出発である。
サウティの血族は自前の荷車で移動するため、ヤミル=レイもそれに同乗する。最近のヤミル=レイは他の女衆と同じく5日に1回ていどの勤務になっていたため、当番でない日はサウティの人々と同じように無料奉仕のお手伝いという身分であった。
ルウの集落でレイナ=ルウらと合流したならば、そのまま宿場町を目指す。俺の運転するギルルの荷車に同乗したリミ=ルウは、にこにこと笑いながら御者台の脇に身を乗り出してきた。
「レイとサウティの人たちは、今日からファの家にお泊まりするんだよね! いつか今度は、リミもお泊まりさせてね!」
「うん。リミ=ルウだったら、俺もアイ=ファも大歓迎だよ」
俺とアイ=ファは先日の祝宴の際にもルウ家で夜を明かすことになったのだが、リミ=ルウとしては毎日でもアイ=ファと寝食をともにしたいという気持ちであるのだろう。そういえば、リミ=ルウをファの家にお招きする機会はそれなりにあったものの、たいていは晩餐の後に帰宅していたのだった。
「でもまずは、ターラの家にお泊まりするんだろう? 日取りはもう決まったのかな?」
「ううん! 今日、ターラたちと話し合うの! 楽しみだなー! 今度はアスタとアイ=ファも一緒に行こうね!」
「うん。そっちの話も楽しみにしてるよ」
リミ=ルウの小さな身体から、活力をおすそわけしてもらっているような心地である。特にリミ=ルウはアイ=ファに対する情愛があふれかえっているために、それがいっそう俺を幸福な心地にさせてくれるのだった。
やがて《キミュスの尻尾亭》に到着したならば、今度はレビたちと合流して、露店区域へと足を向ける。
その道行きで、「アスター!」と元気に呼びかけてくる者があった。宿屋の屋台村で働く、ユーミである。
マルフィラ=ナハムにギルルの手綱を託して、俺がそちらの屋台に向かってみると――そこにはユーミとランの女衆と、それに見知らぬ女性が待ちかまえていた。
「あのさ、今日からこのコが屋台で働くことになったんだよ。何かとお世話になることもあるかもしれないから、いちおう紹介しておくね」
それは、ユーミの悪友とは一風異なる雰囲気の娘さんであった。丸い襟つきの胴衣に膝丈のスカートというのは、テリア=マスを思わせるつつましいファッションだ。ころんと丸っこい体形をしており、ちょっと気弱そうに目を伏せている。年齢は、18歳のユーミよりも少し若いぐらいであろうか。
「このコはね、母さんの遠縁の娘さんで、ビアっていうの。ルイアがいない間は、このコに手伝ってもらうことになったんだー」
「ビアですか。俺は森辺の民、ファの家のアスタといいます」
俺がそのように声をかけると、ビアなる娘さんは目を伏せたまま「ど、どうも」と頭を下げた。
「このコはあたしより年下だから、もっと気安く喋ってあげてよ! じゃないと、余計に緊張しちゃうでしょ?」
「うん、了解。それで、ルイアは――」
「ルイアは、あのシェイラって娘さんと一緒に、城下町だよ。なんか、仕事の口を紹介してもらえるかもって話だねー」
そんな風に言ってから、ユーミは赤くなり始めた頬を手の平で撫でた。
「で、このランの娘さんも、これで5日目の滞在でしょ? 宿の仕事も屋台の仕事も申し分ないようだから、それをそっちに伝えようと思ったんだけど……その矢先に、ルイアが抜けることになっちゃったからさ。とりあえず、ビアとふたりで屋台の商売をこなせるかどうか、こうして試してるわけさ」
「そっか。それで問題なかったら、ついにユーミがランの家に滞在するんだね?」
「なんだよ、もー! そんな嬉しそうな顔しないでくれる? こっちは冷や汗が止まらないんだからね!」
「大丈夫だよ。俺だって、こうして何とか森辺の家人が務まってるんだからさ」
そんな言葉とともに、俺はめいっぱいの笑顔を届けてみせた。
「それじゃあ、どうしよう? 帰り道に、また寄ればいいのかな?」
「うん。いつものクセでアスタを呼び止めちゃったけど、ユン=スドラに話を通しておいてよ。そっちの商売が終わる頃には、こっちも結論が出てるはずだからさ」
「了解了解。……でも、ふたりいっぺんに店番が交代ってのは、確かにちょっと心配だよね」
「それがさー、このビアってコは銅貨の勘定も料理の腕も確かなんだよ。以前にも、他の宿で屋台の商売を手伝ってたってんでしょ?」
「は、はい。復活祭の間だけですが……その際に、料理の勘どころも少し学ぶことができました」
と、ビアはまた目を伏せてしまう。しかし、多少気弱でも頼もしい人々をたくさん見てきた俺には、そういったつつましさも好ましく思えた。
「こっちのランのコも、あっという間に宿の仕事を覚えちゃってさー。親父たちには、あたしなんかよりよっぽど役に立つとか思われてるんじゃないかなー」
「とんでもありません」と、ランの末妹は嬉しそうに笑う。《西風亭》への滞在が5日目にまで及んでも、彼女の心は晴れわたったままであるようだ。
そうして俺は満ち足りた気持ちを抱きつつ、所定のスペースを目指すことになった。
俺の担当の屋台では、本日の相方であるダゴラの女衆とヤミル=レイが準備を進めてくれている。俺が「ありがとうございます」とお礼を言うと、ヤミル=レイは取りすました顔と声で「どういたしまして」と応じた。きっと他なる人間の前では、決して取り乱した姿を見せたりはしないのだろう。
ヤミル=レイから仕事を引き継いだ俺は、すみやかに屋台の準備を整えて、朝一番のラッシュを迎え撃つ。それをくぐりぬけたのち、さきほどの話を隣の屋台で働くユン=スドラに告げてみせた。
「ランの末妹は、滞りなく仕事を覚えることができたのですね。ではきっと、1日だけランの家に戻されて、それからあらためて《西風亭》と家人を預け合うことになるかと思います」
「いよいよユーミが、ランの家に滞在するんだね。ユーミだったら、きっと大丈夫だよね?」
「はい。もちろんユーミもラン家の人々も、おたがいに何かと戸惑う面はあるかもしれませんが……ユーミはとても真っ直ぐな気性であられるので、ランの人々に忌避されることはないでしょう」
生粋の森辺の民であるユン=スドラにそう言ってもらえれば、俺もいっそう安心であった。
その後も問題なく仕事を進めて、定刻の四半刻ほど前に俺の屋台の料理は売り切れとなる。そんなタイミングで街道の北側からやってきたルイアが、息せき切って俺に近づいてきた。
「ア、アスタ! あの、少しお時間をもらえるでしょうか?」
「うん、いいよ。ちょっとだけ待っててね」
青空食堂ではヤミル=レイやサウティの血族のメンバーが働いているため、俺が割り込む隙間もない。俺は空になった鉄鍋を荷台に運んでから、その場でルイアと向かい合うことにした。
「今日は城下町にお招きされたそうだね。仕事の口は、紹介してもらえたのかな?」
「は、はい。それが……本当に、思ってもいないような成り行きであったんです! まだしばらくは、おおっぴらにしないでいただけますか?」
「うん、もちろん。でも、そんな大きな声だと、街道のほうにまで聞こえちゃうんじゃないかな」
「あ、そ、そうですね! 実は、その……あたし、ダレイム伯爵家の侍女として働くことを許されたのです」
声を小さくひそめながら、ルイアの瞳には希望の光があふれかえっていた。
そして俺は、想定以上の驚きを授かることに相成ったのだった。
「伯爵家の侍女なんて、すごいじゃないか。それはもう本決まりなのかい?」
「はい。もちろん最初の内は見習いの立場で、給金というものも心づけていどのよですけれど、その働きぶりで正式に雇ってくれるかどうか、決めていただけるという話なんです」
なんとか声が大きくならないようにと懸命にこらえながら、ルイアはそんな風に言葉を重ねた。
「いきなりの話で、あたしも心から驚かされてしまったのですが、伯爵家の方々はこの数日、その……ええと、なんて言ったっけな。しんぺん……しんぺん……」
「身辺調査?」
「そう、身辺調査です! あたしの家のこととか、家族のこととか、あれこれ調べあげたみたいで……それはそれで、ちょっとこわい話なんですけど……でも、それであたしを雇うことを決めてくれたそうなんです」
ルイアは貧民窟ではなく、それより一段階だけ上等な住宅区域に住んでいるのだと、俺はそんな風に聞いた覚えがある。それに、ユーミの悪友に本当の悪党というのは皆無で、ルイアなどはちょっぴり背伸びをした不良少女未満という印象であった。
「なんか、そちらのお屋敷ではもともと人手が足りていなかったようなんですね。それで、宿場町の様子を知るには宿場町出身の人間を雇うのも有効じゃないかって、二番目の息子さんが後押ししてくれたみたいで……」
「ああ、ポルアースならそんな風に言ってくれそうだね。今日の面接も、ポルアースが同席してたのかな?」
「いえ。そのご伴侶の、メリム様がいらっしゃいました。試食会でちょっと挨拶をしただけなのに、あの御方はあたしなんかのことを覚えていてくれたんです」
そう言って、ルイアは輝く瞳に涙をにじませた。
「それで、あの素晴らしい料理を出していた《西風亭》の調理助手なら、厨の仕事もまかせられるだろうって……あたし、なんだか夢みたいで……」
「そっか。だったらそれも、色んな人たちのおかげで結ぶことのできたご縁だね」
「はい! ユーミにもサムスたちにも、なんてお礼を言っていいのか……」
「そのままの気持ちを伝えればいいんだと思うよ。おめでとう、ルイア」
「ありがとうございます……もちろんアスタにも、感謝しています……」
と、ついにルイアは子供のようにぽろぽろと泣き始めてしまった。
もともとはユーミの悪友のひとりに過ぎず、一時期などはシン=ルウに恋心を抱きかけて、ちょっぴりひやひやさせられたものであったが――それでも彼女も、レビやベンたちと同じように、2年以上も前からご縁を結んでいた相手であるのだ。それがまさかダレイム伯爵家で働くことになろうとは、まったくもって西方神の悪戯心としか思えないような成り行きであった。
レイとサウティの人々を迎えた日に、ランの家ではユーミを迎え入れる準備が整い、ルイアは城下町で働くことになった。
白の月も残り6日となっていたが、最後の最後まで賑やかな日々が続きそうなところであった。