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異世界料理道  作者: EDA
第六十八章 躍る日常
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《銀の壺》の送別会②~開宴~

2022.3/5 更新分 1/1

 そうしてついに訪れた、日没である。

 広場には、160名に及ぼうかというルウの血族と10名ばかりの客人たちが集結していた。


 この前の建築屋の送別会などは総勢200名であったのだから、それよりはずいぶん少ないはずであるのだが――森辺の民の有する生命力の前では、そのていどの違いなど誤差である。なおかつ、この場に集結したのは森辺でも最大の氏族であるルウの血族であるのだ。ルウの血族の人々は、その勇名に恥じない熱気と活力を備え持っているのであった。


「シュミラル=リリンの同胞たる《銀の壺》は、明日の朝にジェノスを出立する! 次にジェノスを訪れるのは、およそ10ヶ月後だ! この夜は、心残りのないように絆を深めてもらいたく思う!」


 本日も、ドンダ=ルウの重々しい声音が地響きのように広場を揺るがした。

 そしてさらに、客人の代表たるラダジッドにも挨拶が求められる。ドンダ=ルウのかたわらから進み出たラダジッドは複雑な形に指先をからめて一礼してから、低いがよく通る声で挨拶をした。


「前回、引き続き、このような祝宴、開いてもらえたこと、心より、感謝しています。そして、同胞たるシュミラル=リリン、森辺の家人、なれた喜び、あらためて、噛みしめています。さらに、シュミラル=リリン、通じて、我々、森辺の民、絆、結べたこと、大きな喜びです。10ヶ月後、健やかな姿、再会できること、東方神、西方神、モルガの森、祈っています」


 さすがにこの声量では、広場の隅々にまでは行き渡らなかったかもしれないが――しかし、大きな声をつつしむというのも、シムの習わしであるのだ。森辺の民はおたがいの習わしを尊重するという姿勢で臨んでいるため、誰も不満そうな顔はしていなかった。


「では、送別の祝宴を開始する! 儀式の火を!」


 広場の中央に積まれた薪の山に火が灯されて、それを追いかけるように外周のかがり火が焚かれていく。

 ほんの9日前にも建築屋の送別会で見届けた光景であるが――俺がこの神秘的な一瞬を見飽きたりすることは、生涯ないのであろうと思われた。


「《銀の壺》の無事な旅路と、10ヶ月後の無事な再会を願って……母なる森と四大神に!」


 静まりかえっていた広場に、怒号のごとき歓声が吹き荒れた。

《銀の壺》のメンバーは、いつも通りの静かなたたずまいでそれと相対している。しかしその内側には、建築屋の面々に劣らない驚嘆の思いが渦巻いていることであろう。

 そうして俺はアイ=ファとともに、ラダジッドのもとへと歩を進める。そちらでは、すでにシュミラル=リリンが穏やかな微笑みをたたえつつ参じていた。


「アスタとアイ=ファ、行動、ともにすること、ラダジッド、望んでいます。了承、いただけますか?」


「もちろんです。シュミラル=リリンもご一緒なら、嬉しさも倍増ですね」


「ありがとうございます」と、ラダジッドが一礼してくる。

 そしてアイ=ファのほうを見たその目が、眩しそうに細められた。


「ところで……女衆、宴衣装、驚かされました」


「ああ。たしか以前の祝宴では、宴衣装の着用を控えられていたはずだな。ルウの家でも、あれこれ祝宴の作法を思案しているさなかなのであろう」


 そのように応じるアイ=ファは、凛々しい面持ちで内心の不満を隠している。建築屋の送別会でも宴衣装を纏ったのだから、このたびも同じように振る舞うべきであろうと説得され、本日もしぶしぶ宴衣装を持参することになったのだ。それでもリミ=ルウやジバ婆さんが強く望んでいなければ、アイ=ファも自分の流儀を押し通していたやもしれないが――何にせよ、俺にとってはありがたい限りであった。


「女衆、外見、褒めそやすこと、森辺の習わし、そぐわない、聞いています。我々、森辺の習わし、従います。……ただ、感服しています」


「……であれば、そのように言葉を重ねる必要もないのではなかろうか?」


「感服の思い、伝えたい、願いました。習わし、従います」


 ということで、まずは広場を巡って宴料理を堪能することに相成った。バランのおやっさんたちはしばらく祝宴の責任者たちと腰を据えて語らっていたが、あれはあくまで本人たちからの申し出であり、外部からの客人には自由な行動が許されているのである。そして、旅を愛するラダジッドたちは、その静かなたたずまいとは裏腹にきわめて能動的な気性を備え持っているのだった。


 シュミラル=リリンを除く《銀の壺》の総勢は9名であるため、それが3名ずつに分かれて案内役の人間を割り振られる。このたびも、ラダジッドと同行するのはもっとも年若い団員ともっとも年老いた団員であった。


「あ、そうだ。忘れない内に、こちらをお渡ししておきますね」


 と、俺は腰の物入から小さな帳面を引っ張り出した。


「カレーの調理法と、ついでにシャスカの炊き方を書き記しておきました。どうぞお納めください。……ただ、西の文字なのですが、そのあたりは大丈夫でしょうか?」


「はい。我々、商売のため、西の文字、学んでいます。商売において、言葉より、重要な面、ありますので」


「それなら、よかったです。俺は読み書きが未熟ですので、ジーダ家のミケルに協力をお願いしてなるべく詳細を書き記しました。ただ、シムとこちらでは野菜の種類も異なるでしょうから、具材のほうはみなさんでお考えくださいね」


「ありがとうございます。アスタの厚意、心より、感謝します」


 ラダジッドと2名の団員が、同じ仕草で一礼してくる。大事な書面は、責任者たるラダジッドが保管することに相成った。


「では、かまどを巡りましょう。俺もルウ家の方々がどのような宴料理を準備したのかは聞いていませんので、ラダジッドたちと同じぐらい楽しみです」


「はい。胸、躍ります」


 俺とアイ=ファとシュミラル=リリン、そして《銀の壺》の3名という、なんとも嬉しい顔ぶれである。俺のほうこそ、胸の高鳴りを抑えられるものではなかった。

 広場は最初から、ものすごい熱気である。建築屋の送別会に参席していない人々にとっては、おそらく数ヶ月ぶりの祝宴であり――そうでなくとも、血族の全員が集められるのは収穫祭以来のはずであるのだ。早いもので、雨季の直後に行われた収穫祭からはもう3ヶ月以上が経過しているのだった。


(ラッド=リッドも言っていた通り、やっぱり血族による祝宴ってのは喜びもひとしおなんだろうな)


 まあラッド=リッドは血族ではなく近在の6氏族による祝宴を希望していたわけであるが――何にせよ、さまざまな氏族から少人数ずつ客人を招待する祝宴とは、ずいぶん趣が違っているはずであった。


 この場には、血族の全員が集められているのだ。5歳未満の幼子とその面倒を見る女衆だけは屋内であるものの、5歳以上の幼子たちや、ルウの血族には複数存在するご老人がたも、わけへだてなく祝宴を楽しんでいる。アットホームというには熱気の度合いが猛烈に過ぎるが、それでもさまざまな身分の人間が入り乱れる祝宴とは比較にならない一体感のようなものが濃密に漂っていた。


 で、俺やアイ=ファや《銀の壺》などは、数少ない客人の立場であるわけだが――そこで疎外感などを与えないのが、森辺の祝宴である。広場を行き交う人々も、すれ違うたびに温かな笑顔や言葉でもって、俺たちを熱気の中に溶かし込んでくれるのだった。


「ああ、シュミラル。《銀の壺》の方々をご案内してくれたのですね」


 やがて到着した最初の簡易かまどで待ち受けていたのは、リリン本家のウル・レイ=リリンであった。たびたびリリン家に招かれていたラダジッドらは、落ち着いた所作で一礼する。


「どうも、おひさしぶりです。ウル・レイ=リリンがかまどで働かれるお姿を拝見するのは、けっこうひさびさな気がいたしますね」


「ええ。これだけ大掛かりな祝宴ですと、幼子の面倒も順番で見ることができますので。まずはわたしがかまど仕事を引き受けることになりました」


 そのように語りながら、ウル・レイ=リリンは何かの妖精のように微笑んだ。森辺の民としてはずいぶん細身で、どこか幻想的な美しさを持つ女性であるのだ。


「アイ=ファも、リリンの家にお招きして以来となりますね。ひさびさに宴衣装を拝見しましたが、目の覚めるような美しさです。遠目にも、まるで輝いているかのように見えてしまいました」


「……私は狩人の身であるため、外見を褒めそやされても落ち着かない心地になるばかりであるのだが」


「そうでしたか。では、今後は心の内のみで賞賛させていただきます」


 ウル・レイ=リリンはふわりと微笑みながら、鉄鍋の中身を木皿に盛りつけた。


「お召し上がりになるでしょう? ご覧の通り、こちらはかれーです」


「はい。香り、芳しいです」


 ウル・レイ=リリンが担当しているのはシャスカの盛りつけで、その隣に控えていたリリン分家の女衆がカレーをかけていく。ウル・レイ=リリンはかまど仕事を得手にしているため、取り扱いの難しいシャスカの担当となったのだろう。


「カレー、海鮮の香り、芳しいです。以前、リリンの晩餐、供された、海鮮カレーですね?」


「はい。ラダジッドにはすで供していましたが、それでも屋台で出されているかれーよりは馴染みが薄いはずだと、取り仕切り役のレイナ=ルウがそのように取り決めたのです」


「レイナ=ルウの取り計らい、および、ウル・レイ=リリンらの尽力、感謝いたします。故郷、戻る前、もうひとたび、味わいたい、願っていたのです」


 アマエビに似たマロール、タコやイカに似たヌニョンパ、ホタテガイに似た貝類などを使い、燻製魚や海草でも出汁を取られている、森辺の海鮮カレーである。なおかつ同時にギバ肉まで使って味を壊さないように調和を求めたのが、俺たちの努力の結果であった。


 ラダジッドたちは表情を動かせないが、それでも十分に満足そうな眼差しで海鮮カレーを食している。そして東の習わしから解放されたシュミラル=リリンは、ぞんぶんに顔をほころばせていた。


「美味です。シュミラル=リリン、日常、このような料理、食せること、心より、羨ましい、思います」


 そのような声をあげたのは、年若き団員だ。

 シュミラル=リリンは微笑みながら、「はい」と応じた。


「ですが、ジギ、海の食材、多少ながら、存在します。カレーの調理法、習得したのですから、独自のカレー、目指してください」


「へえ。ジギの草原は、海に面しているのですか?」


 俺が思わず口をはさむと、シュミラル=リリンは「いえ」と軽く首を振った。


「王都ラオリム、行商、結果です。ラオリム、海、面しています」


「なるほど。ドゥラという領地ではなく、ラオリムとの行商が盛んなのですか」


「はい。ドゥラ、遠い上、旅程、いささか危険です。また、ドゥラの民そのものも、勇猛、知られているため、行商、向かう人間、より少ないです」


 そういえば、ドゥラというのもかつてはゲルドとともにラオリムとの戦いに敗れて、辺境区域に追いやられた一族の末裔という話であったのだ。温和で知られるジギの民とは、あまり相性がよろしくないのかもしれなかった。


「ただし、ラオリムとドゥラ、海路にて、行商しています。よって、ラオリムから、ドゥラの品、買いつけること、可能です。ただし、きわめて割高です」


「はい。ですから、ドゥラの幸、口にした、ジェノス、初めてです。マロマロのチット漬け、魚醤、ペルスラの油漬け、いずれも美味です」


 そんな風に言ってから、ラダジッドは楽しそうに目を細めた。


「ただし、料理人の腕、影響、大きいかもしれません。森辺の屋台、および、《玄翁亭》の食堂、料理、美味でしたが、他の屋台、残念な味わいでした」


「いえいえ。ドゥラの食材は、いずれも素晴らしい味わいだと思います。他の屋台でも、それらの食材をきちんと使いこなせている方々は多いはずですし……きっとラダジッドたちが次にジェノスにやってくる頃には、どの屋台でもそれらの食材を使いこなせていることでしょう」


「はい。他の屋台、アスタたち、比べれば、未熟、思いますが……この半年でも、大きな成長、見られました。10ヶ月後、楽しみです」


 きっとラダジッドが東の民でなければ、ゆったりと微笑んでいた場面であろう。

 そうして俺たちはウル・レイ=リリンらに別れの挨拶を告げて、次なるかまどに向かうことにした。


「あー、アイ=ファにアスタ! 今日は最初っから広場を巡ってたんだね!」


 と、後ろから元気いっぱいの声が追いかけてくる。それは可愛らしい宴衣装の姿で空のお盆を掲げた、リミ=ルウであった。


「うむ。リミ=ルウは、この夜も料理を配る仕事を受け持っていたのだな」


「うん! リミはじーっとしてるより、あちこち動き回ってるほうが好きだから!」


 そんな風に応じるさなかも、リミ=ルウは助走をつけるように足踏みをしていた。


「リミの仕事は、お菓子を出すまでなの! そしたら、リミも一緒にいさせてね! あ、あと、ちっちゃい子たちにお菓子を渡しにいくとき、ラダジッドたちも一緒にいく? ヴィナ姉が挨拶したいって言ってたから!」


「はい。是非、お願いします」


「わかったー! それじゃあ、お菓子を出すときに声をかけるね!」


 そんな言葉を残して、リミ=ルウはぴゅーっと駆け去っていった。祝宴の熱気が、そのままエネルギーになっているかのようである。その小さな後ろ姿を見送るラダジッドの眼差しは、とても温かかった。


「ルウの血族、誰もが、力、あふれていますが、ルウ本家の人々、格別です。そして、幼きリミ=ルウ、その力、象徴的である、感じます」


「うむ。リミ=ルウほど力にあふれた幼子は、他になかろうからな」


 心持ち誇らしげな面持ちでそのように応じてから、アイ=ファはシュミラル=リリンに向きなおった。


「ところで、ヴィナ・ルウ=リリンもこちらに参じていたのだな。荷車を使わねば、リリンからルウは遠かろう?」


「はい。休息、はさみながら、徒歩、参じました。まだ、身動き、控える時期、違いますので」


「そうか。まあ、他ならぬお前の伴侶であれば、これほど大事な祝宴もなかろうからな」


 アイ=ファがもっともらしくうなずいたところで、次なるかまどに到着した。

 そこで待ち受けていたのは、ジーダ家の面々だ。マイムとミケルはかまどの前に立ち、バルシャは料理の皿をお盆に補充しており、そして若き家長たるジーダは家人らの働きを静かに見守っていた。


「あ、《銀の壺》にファのみなさん! よろしければ、こちらの料理もどうぞ!」


 森辺においては少数派であるワンピースめいた装束であるマイムも、もちろん数々の飾り物をつけている。そしてこちらから期待に瞳を輝かせながら進み出たのは、年若き団員であった。


「こちら、屋台、料理ですか?」


「いえ! せっかくですので、屋台では出していない汁物料理となります!」


「そうですか。屋台、マイムの料理、しばらく、口、できませんでしたので、まったく不満、ありませんが……何にせよ、マイムの料理、ならば、期待、高まります」


 マイムの料理は外来の食材で代用することが難しく、ダレイムの野菜を扱えない間は屋台でも取りやめられていたのだ。よって、飛蝗の騒ぎが起きたのちにジェノスに戻ってきた《銀の壺》の面々は、ほんの数日しかマイムの料理を味わえていないということであった。


 そんなマイムが班長として準備したのは、カロン乳を主体にした汁物料理である。質感はクリームシチューに似ているものの、香草や海鮮の食材でもって独自の美味しさを有する逸品であった。

 それを口にした若き団員は、満足そうに息をつく。他の団員より油断の多い彼は、今にも表情を崩してしまいそうであった。


「美味です。こちら、調理法、知りたいほどですが……おそらく、ジギの食材、再現、難しいのでしょう」


「ああ、みなさんはかれーの作り方を習ったそうですね。かれーであれば、どのような食材でも美味しく仕上げられそうです」


 マイムのそんな言葉で記憶巣を刺激されたらしく、ラダジッドがミケルに一礼した。


「その際、ミケル、尽力してくれた、聞いています。感謝の言葉、伝えたい、思います」


「ふん。俺はアスタの言う通りに書面をしたためただけのことだ。そんな大仰に扱われるような話ではない」


 ミケルが相変わらずの仏頂面でそのように応じると、その埋め合わせをするかのようにバルシャが陽気な笑い声を響かせた。


「それにしても、東の民が西の民から香草やシャスカの取り扱いを学ぼうだなんて、愉快な話だよねぇ。あんたたちはもう何百年も前から、香草やシャスカで料理をこしらえていたんだろうにさ」


「はい。ですが、シムにおいても、カレーほど、美味な料理、稀です」


「ふん。フワノやアリアの存在しない地では、かれーを作りあげることも難しかろうな。せいぜい頭を悩ませることだ」


「アリア、少量ながら、存在します。……ですが、苦労、多いこと、事実でしょう。それでも、美味なるカレー、目指したい、思います」


「ええ。俺たちもダレイムの野菜を使えない間は、さんざん頭を悩ませることになりましたからね。きっとシムでは、また別種の美味しさを持つカレーを作り上げることができると思いますよ」


 かまど巡りはまだ始まったばかりだが、今のところはどの場におもむいてもスムーズな語らいが繰り広げられている。前回の祝宴や度重なる晩餐への招待によって、《銀の壺》の面々は着実にルウの血族と絆を深められているようであった。


 それにラダジッドたちは、シュミラル=リリンと同じように外界から森辺の家人となったジーダ家の人々に大きな関心を寄せているようである。いずれはその中に、ユーミも含まれるようになるのかもしれなかった。


「それにしても、アイ=ファの宴衣装は立派だね! あんまり眩しくって、目を痛めちまいそうだよ!」


「……同じような言葉を、つい9日前にも聞かされたように思うのだが」


「何回見たって、立派なもんは立派なのさ! ねえ、アスタもそう思うだろ?」


「え? いや、まあ、はい。それに関しては、森辺の習わしがありますので……」


「森辺の習わしって? アスタとアイ=ファは同じ家の家族なんだから、べつだん遠慮はいらないだろう?」


「え? それじゃあ俺は、アイ=ファのことをいくら褒めそやしても問題ないのですか?」


 俺がそのように応じると、頬を赤らめたアイ=ファに足を蹴られてしまった。

 木皿でお盆をいっぱいにしたバルシャは、そんな俺たちの姿を見下ろしながら、にっと白い歯をこぼす。


「あたしだって立派な森辺の民になれるようにきっちり習わしを教わったんだから、そいつは間違いのないことさ。アスタもジーダも、遠慮なく家人の美しさや可愛らしさを褒めてやるといいよ」


「おい。余計な口を叩いていないで、さっさと仕事を果たすがいい」


「はいはい。横暴な家長様だね。それじゃあ《銀の壺》のお人らも、またのちほど!」


 バルシャはお盆にいっぱいの汁物料理をこぼしてしまわないように、のしのしと立ち去っていく。後に残されたジーダとマイムはともに顔を赤くしており、それが何とも初々しくて微笑ましかった。

 そしてラダジッドが、小首を傾げながら俺のほうを見やってくる。


「アスタ、森辺の習わし、わきまえていない部分、あったのですね。意外、思います」


「そうですね。もしかしたら、誰かが恣意的に隠していたのかも……あいてて、わかったってば」


 もしかしたら、ラダジッドたちから見れば俺やアイ=ファも初々しい範疇なのであろうか。俺はふくらはぎの痛みとともに、ささやかな羞恥心を抱え込むことになった。


 その場でしばしマイムたちとの歓談を楽しんだのちは、また移動だ。

 その行き道で、敷物でくつろぐ他なる団員たちの姿を発見した。何やら複数の男衆らと同席しており、その中からもっともインパクトのある風貌をした人物が声をかけてきた。


「おお、そちらはファの者たちと一緒だったか。アイ=ファはずいぶんと、見違えた姿だな」


 大きな古傷で皮膚が引き攣れた顔で、勇猛に笑う。それは分家の若き家長たる、ディグド=ルウであった。

 その他に集結しているのは――いずれも名前まではわきまえていない、眷族の狩人たちのようである。はっきり見覚えがあるのは、ルティムからリリンに婿入りしたという分家の狩人ぐらいのものだ。一様に、年齢は若めであるようであった。


「こちらでは、邪神教団を退治した際の話をせがまれてな。あの遠征に加わった男衆らを適当に集めて、腰を落ち着けたのだ。このような役割は、ガズラン=ルティムこそが相応しいのであろうが……あいつはまたあちこちをうろついているらしく、姿が見えないのでな」


「そうでしたか。やはり東の方々は、邪神教団に関心が深いのですね」


「無論です」と応じたのは、こちらのグループである年老いた団員であった。


「東の民、西の民よりも、神々、近しく感じている、思います。よって、西の方々より、邪神教団や、聖域の民、星無――いえ。関心、深いと思います」


 アイ=ファがぴくりと肩を揺らしたのは、その人物が言いかけた言葉に見当がついたためであろう。この人物は星読みを得意にしており、星無き民に関しても造詣が深いようであったのだった。

 しかしその言葉を途中で呑み込んだのは、他ならぬアイ=ファが俺と星無き民を関連づけることを嫌っていると知っているゆえであろう。年老いた団員はアイ=ファに向かって詫びるように目礼をして、アイ=ファもまた同じ仕草でそれに応えた。


「ならば、お前たちも腰を据えていくか? 俺たちも、同じ話をなんべんも繰り返したくはないのでな」


「いえ。のちのち、その者たちから、伝え聞きます。6名、同じ場所、留まること、惜しいです」


「了承した。では、そちらも祝宴を楽しむがいいぞ」


 そうしてその一団から離れると、さっそくラダジッドが俺に声をかけてきた。


「あの御方、きわめて、強い力、感じます。ですが、前回の祝宴、見た覚え、ありません」


「ああ、あの御方は分家の家長のディグド=ルウといって、怪我のせいで祝宴に参ずる機会が少なかったようなのです。俺たちも今年の雨季の終わり際ぐらいに、初めてご挨拶をさせていただいたぐらいなのですよ」


「なるほど。理解しました。やはり、ルウの血族、人数、多いので、すべて把握する、難しいです」


 すると、穏やかな微笑みをたたえたシュミラル=リリンが「そうですね」と声をあげた。


「1年以上、暮らした、私でさえ、いまだ、すべての血族、把握できていません。……ゆえに、多くの楽しみ、残されている、思っています」


「はい。シュミラル=リリン、それだけの血族、得られたこと、得難い、思っています」


 ラダジッドは、シュミラル=リリンに負けないぐらい穏やかな眼差しでそちらを振り返った。

《銀の壺》の中でも、もっとも交流が深かったという両名である。10ヶ月の離別を果たすのは、これが2度目のこととなるが――その胸には、俺には及びもつかないほどの感慨が宿されているのだろうと思われてならなかった。


「ところで……星無き民について、一点だけ聞かせてもらえるであろうか?」


 と、アイ=ファが年老いた団員にそのような言葉を投げかけたため、俺は心から驚かされてしまった。

 年老いた団員が静かな眼差しで振り返ると、アイ=ファは宴衣装にそぐわぬ厳しい面持ちで言葉を重ねる。


「あなたもご存じの通り、私は星無き民というものに頓着することを忌避している。ゆえに、さきほどの取り計らいにも深く感謝しているのだが……しかし、どうしても一点だけ気にかかってしまっていることがあるのだ」


「何でしょう? 私、理解、及ぶ話ならば、お答えします」


「いたみいる。……これまでジェノスには、2度ほど邪神教団の脅威が及んでいる。そしてアスタはそのたびに、悪い夢にうなされることになってしまったのだ。それ以外では、アスタに星読みの兆候などは訪れていないのだが……これはもしや、星無き民という身分に関わる現象なのであろうか?」


 アイ=ファは、怖いぐらい真剣な眼差しになってしまっていた。

 それを無言で見返しながら、年老いた団員はしばし沈思し――そして、言った。


「私、想像、述べる他、ありません。それで、よろしいでしょうか?」


「かまわない。私には、想像することすらかなわないのだからな」


「了承しました。おそらく……アスタ、星、持っていないゆえ、星図の乱れ、影響、受けやすい、思われます」


 熱気に満ちた広場が、この時間だけしんと静まりかえったかのような感覚を覚えて、俺は思わず身震いしてしまった。


「邪神教団、世界の理、乱すため、星図もまた、乱れます。我々の星、そのうねり、巻き込まれますが……アスタ、星、持っていないゆえ、巻き込まれません。ですが、星、抱いておらずとも、アスタ、この世界、存在しています。星図において、アスタの存在、黒き深淵として、記されているのです」


「黒き深淵……」


「我々の星、うねり、流されます。ですが、黒き深淵、不動です。不動ゆえ、運命のうねり、満身、あびるのです。星図、川、たとえるならば、運命のうねり、激流です。我々、小石であり、アスタ、川の中央、そびえる、樹木です。小石、激流、流されるのみですが、樹木、その場、たたずみ、激流、耐えているのです。その激流、運命のうねり、アスタの精神、なんらかの影響、与えているのではないか……私、そのように、想像します」


 アイ=ファはなんとか彼の言葉を理解しようと、唇を噛んで考え込んでしまった。

 そんなアイ=ファの姿を、年老いた団員はとても静かな眼差しで見守っている。


「ですが、アスタ、運命のうねり、屈することなく、息災です。ジェノスの運命、揺るがすほど、大きなうねり、耐えたのですから、心配、ご無用でしょう。アスタの運命、私、読み解けませんが、アスタの肉体、魂、強い力、感じます。……あなた、同じもの、感じていませんか?」


「感じている。ただ、アスタの苦しむ姿を目にするのが……あまりに、忍びないのだ」


「それでも、アスタ、屈しません。……ひとつだけ、あなたの星、読み解くこと、許されますか?」


 アイ=ファが厳しい表情でうなずくと、年老いた団員はすべてを包み込むような口調で言った。


「アスタ、黒き深淵、さまざまな星、囲まれています。その中、もっとも近く、寄り添っている……あなたです。赤の猫、心臓の星、黒き深淵、食い入るほど、近づいています。赤と黒、いつか、溶け合うのではないか、思えるほどです。……だから、心配、ご無用です」


 アイ=ファは固くまぶたを閉ざし、震えるのをこらえているような声で答えた。


「やはり私には、あなたの言葉を半分も理解できていないのだろうと思う。しかし、それでも……あなたに心の内を打ち明けたことは正しかったのだと思っている」


「はい。多少でも、あなたの苦悩、やわらいだなら、幸いです」


「うむ。あなたの善意と誠実さに、心から感謝している」


 そうしてアイ=ファは強く首を振り、強い輝きを宿した瞳でシュミラル=リリンたちを見回した。


「このような場で時間を取らせてしまって、申し訳なく思う。まだまだ腹は一分も満たされていなかろうから、どうか宴料理を楽しんでもらいたい」


「はい。では、進みましょう」


 シュミラル=リリンは多くを語らず、ただ底知れないほど優しげな笑顔でそのように応じた。

 表情を動かすことはできずとも、ラダジッドは同じような眼差しになっている。そして年若き団員はさっぱり事情もわかっていない様子であったが、それでも俺たちを励ますようにうなずきかけてくれていた。


 そうして俺たちは止められていた歩を再開させ、そのさなかにアイ=ファが俺の指先をぎゅっと握りしめてくる。


「突然あのようなことを言いだして、お前のことまで驚かせてしまったな。私はかねてより、あの星読みを得意にする者と言葉を交わす機会をうかがっていたのだが……ついつい場もわきまえずに、その気持ちがこぼれてしまったのだ」


「俺のことを心配してくれてたんだから、何も謝る必要はないよ。……ありがとう、アイ=ファ」


「何も礼には及ばない。私たちは、どのような苦しみも分かち合うべきなのだからな」


 そんな風に語りながら、アイ=ファはさまざまな感情の渦巻く瞳で俺を見つめてきた。

 その眼差しと指先を包む温もりが、俺の心をどれだけ安らがせてくれたか――そのようなことは、言うまでもなかった。

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