《銀の壺》の送別会①~下準備~
2022.3/4 更新分 1/1
白の月の23日――《銀の壺》の送別会たるその日も、俺は屋台の商売に取り組んでいた。
およそ7ヶ月前、《銀の壺》がジェノスから西の王都に出立する際の送別会でも、俺はこうして屋台の商売を勤めあげていたのだ。また、祝宴の準備があるルウの血族は屋台を1台に縮小し、その分までファの屋台が多めに料理を準備するというのも、以前の通りであった。
骨休めの休業日は明日と定めたため、今回は8連勤となる。しかしもちろん屋台で働く女衆らは疲れの色を見せることなく、元気いっぱいに働いてくれている。そんな中、中天を少し過ぎた頃に、《銀の壺》の面々はやってきてくれた。
「いらっしゃいませ。今日もカレーを準備しておりますよ。きっと祝宴でも出されるかと思いますが、よろしければどうぞ」
「ありがとうございます。……もしかして、我々のため、準備してくれたのですか?」
「はい。みなさんが西の王都に出立される前日も、屋台でカレーを出していたことを喜んでいただけた覚えがありましたので」
「アスタの気づかい、感謝します。9名分、注文いたします」
ラダジッドは嬉しそうに目を細めながら、そう言ってくれた。
すると、《銀の壺》でもっとも若い団員が、ずいっと身を乗り出してくる。
「アスタ、私、相談あります。祝宴、話しそびれる可能性、ありますので、今、了承、いただけますか?」
こちらの団員も、顔をあわせるたびに西の言葉が巧みになっているようであった。
それはともかくとして、ラダジッドは苦笑をこらえているような面持ちでその団員を見やっている。この団員はいささか血気盛んなところがあって、先輩がたにたしなめられることも少なくなかったのだ。
「ええ。どういったご相談でしょうか? できる限り、お力になりたいと思います」
「我々、カレーの調理法、売ってもらいたい、願っています」
若き団員は、真剣そのものの眼差しでそう言った。
「アスタ、ジェノスにおいて、カレーの調理法、秘匿している、聞きました。カレー、これほど、素晴らしい料理、ゆえに、当然、思います。ですから、その調理法、買いつけたいです」
「ちょ、ちょっとお待ちくださいね。カレーの調理法を知って、どうするおつもりなのです? それで何か、商売でもしようというおつもりなのですか?」
「いえ。自分、および、シムの家族、いつでもカレー、食べられること、願っています」
当人は真剣そのものの眼差しであったが、俺はついつい笑ってしまった。
「以前にシムへとお帰りの際には、お土産としてカレー用に調合したスパイスをお渡ししましたよね。あれでは用事が足りなかったということでしょうか?」
「はい。あの喜び……えー……永続的。そう、永続的、願っています。それゆえ、調理法、買いたいのです。もし、了承、いただけるなら、9名の団員、銅貨、出し合います」
「承知しました。それじゃあ、基本的なスパイスの調合と、それをカレーに仕上げるための手順などをお教えしますね。のちのち帳面に書き記して、祝宴の際にでもお渡しいたします」
「ありがとうございます」と、若き団員は複雑な形に指先を組んで、一礼した。
「それで、そちら、代価は――」
「代価は、不要です。そのようなことで、《銀の壺》の方々から銅貨はいただけません」
若き団員は無表情を保ちつつ、目だけをぱちくりとさせた。
「で、ですが、そちら、アスタ、苦労、結晶でしょう? 無料、受け取ること、できません」
「俺にとって、すべての料理は苦労の結晶です。でも、おおよその料理はジェノスでも調理法を隠しておりませんよ。カレーに関してだけ秘匿することになったのは……まあ、たまたまの成り行きというものです」
俺はカレーに関しても秘匿するつもりはなかったのだが、ヴァルカスに「いけません」とたしなめられることになったのだ。これほど素晴らしい料理の作り方をうかうかと余人に広めるべきではないと、ヴァルカスはそのように熱っぽく語らっていたものであった。
「確かにカレーのスパイスの調合を完成させるには、大変な苦労がかかりました。それは俺ひとりの苦労ではなく、たくさんの人たちに力を借りてのことであったのですね。まあ、それは他の料理だって同じことなのですが……スパイスの調合は10人以上で数日がかりであったため、ひときわ大きな苦労であったように思います。それで、これを気安く余人に広めるのは、力を貸してくださった人々の尽力をないがしろにするような感じがしてしまって……それで、カレーの作り方だけは秘匿することになったのです」
「わかります。ですから、我々、代価を――」
「ただし、森辺においてはまったく秘匿していません。カレーの開発に関わっていない氏族にも、わけへだてなく伝えられているのですね。俺は森辺のすべての同胞と美味なる料理の喜びを分かち合いたく思っていますので、それが当然の話であるのです」
俺は笑顔で、そのように言葉を重ねてみせた。
「そして《銀の壺》の方々は、森辺の同胞たるシュミラル=リリンの同胞です。そんな方々から、代価をいただくわけにはいきませんよ。カレーを使って商売をしようというおつもりでもなく、ただ家族とカレーを味わいたいというおつもりであるなら、なおさらです」
「ですが……ひとたび、調理法、知ったなら、商売、転用すること、可能です」
「《銀の壺》の方々が断りもなしにそのような真似をするわけはないと、俺はそのように信じております」
若き団員がついに言葉を失ってしまうと、ラダジッドが大きな手の平でその肩をぽんと叩いた。
「アスタなら、そのように、言ってくれる、思っていました。ですが、こちらの団員、気持ち、収まらないようでしたので、あえて、止めなかったのです。……どうか、今の話、お忘れください」
「え? どうしてです? 遠慮などはご無用ですよ」
「ですが、我々の家族、数十名、及びます。それだけの人数、作り方、知れば、いずれ、秘密、保てなくなるでしょう」
「いえ。そもそも俺の故郷では、カレーの作り方なんて嫌というほど広められているのですよ。そこに自分流の工夫を重ねることこそが、腕の見せどころであったのです。だから俺も、カレーの作り方が広まることを忌避しているわけではありません。もしもみなさんのご家族を通じてカレーの作り方が世に広まっても、自分が一番美味しいカレーを作れるようにと奮起するばかりです」
「ですが――」
「それよりも、みなさんに喜んでいただけることのほうが、俺にとっては重要です。俺や森辺のみんなが苦労をして完成させたカレーにそこまでの価値を見出してもらえたのなら、そんなに嬉しい話はありません。みなさんが故郷でもカレーを食べている姿を想像するだけで、俺は幸福な心地であるのです」
ラダジッドはひとつ息をついてから、さきほどの若き団員と同じように指先を組んで一礼した。
「アスタ、そこまで言ってくださること、想像できていませんでした。自分の不明、恥じる、同時に、深く感謝します」
「いえいえ。カレーの開発に協力してくれたかまど番のほとんどは、ルウの血族の方々でしたからね。そういった方々も、きっと俺と同じぐらい幸福な心地であると思いますよ」
そんな感じで、祝宴前のちょっとした一幕は終わりを告げることになった。
《銀の壺》の面々が青空食堂に立ち去っていくと、ユン=スドラが感慨深そうな面持ちで俺に語りかけてくる。
「たしかかれーの開発というのは、わたしが屋台の商売の修練を始めた頃に取り組んでおられましたよね。のちのち完成したものを味見させていただいた際、アスタはルウ家でこのような料理を作りあげていたのかと、心底から驚かされたことを覚えています」
「ああ、その頃はユン=スドラすら勉強会に参加してなかったんだね。それじゃあルウの血族以外でカレーの開発に関わっていたのは、トゥール=ディンだけだったのかな」
「きっとそういうことになるのでしょう。そしてアスタはそれよりも前から、《銀の壺》の方々と交流を結ばれていたのですよね。当時のわたしはリィから話を伝え聞くばかりで、《銀の壺》と対面したのはシュミラル=リリンが猟犬をもたらした際のことでした」
「そっか。ユン=スドラだって、十分以上に古株なのにね。……何かまた、歳月の重みを思い知らされた心地だよ」
「ええ。わたしもです」と、ユン=スドラは魅力的なお顔で微笑んだ。
そうして俺は送別の祝宴に向けて、着実に思いを重ねていくことに相成ったのだった。
◇
屋台の商売を終えた後は、すみやかに森辺へと帰還である。
ルウ家に居残るのは俺ひとりということで、ギルルの手綱はユン=スドラに託す。それはすべてのかまど番を送り届けたのちにファの家に返されて、夕刻にアイ=ファが使用する手はずになっていた。
この日の当番であったララ=ルウとともに本家のかまど小屋に向かうと、レイナ=ルウの取り仕切りによって宴料理の準備が進められている。そしてミーア・レイ母さんが、いつも通りの朗らかな笑顔で出迎えてくれた。
「おかえり、ララ。アスタは、ルウの家にようこそ。今日もシン=ルウの家のかまど小屋でお願いするよ。ララもそのまま、アスタの手伝いをしてあげておくれ」
「わかった。屋台の当番だったレイとルティムの女衆は?」
「そっちのふたりは、たしかディグド=ルウの家の組だったよね、レイナ?」
「うん。それで人数はちょうどのはずだよ。アスタのもとにはあと5名のかまど番が参りますので、どうぞよろしくお願いします」
「わかった。ありがとう。それじゃあ、失礼いたします」
熱気の渦巻くかまどの間から退室した俺は、ララ=ルウとともにシン=ルウ家のかまど小屋を目指すことになった。レイとルティムの女衆は途中で離脱して、ディグド=ルウ家へと向かっていく。
「どうせなら、みんなアスタの手伝いにしちゃえばよかったのにね。どうしてこんな風に割り振ったんだろ」
「それはやっぱり、戦力を均等にしたいとか、そういう考えがあるんじゃないのかな。ララ=ルウもさっきのふたりもルウの血族ではかなりの熟練者だろうから、その3人を俺の組に割り振るのは戦力過多だと思うよ」
「あー、そっか! やっぱそういう話では、レイナ姉にかなわないなぁ。あたしももっと頑張らないと」
取り仕切り役に対して強い熱意を抱くララ=ルウは、そんな風に言っていた。まあ、ララ=ルウはあくまで屋台の商売の取り仕切り役であるのだから、宴料理の取り仕切りにまで頭を回す必要はないのだが――ララ=ルウの熱意の前には、そんな小理屈も吹き飛ばされてしまうのであろう。
「にしても、あたしの他に5人も集めるなんて、けっこうな人数だよね。つまり、あんまり経験のない女衆が集められたってことなのかな?」
「そうかもね。そういえば前回の送別会でも、あまり大がかりな宴料理の経験がない面々が集められていたよ。それでもまったく、仕事の腕に申し分はなかったけどね」
そんな風に語らっている内に、シン=ルウ家のかまど小屋に到着する。
そうしてかまどの間の戸板を開いた俺は、呆気に取られることになった。その場には、前回の送別会とまったく同じ顔ぶれが居揃っていたのである。
「やあ、来たね。今日もよろしくお願いするよ、アスタ」
そんな風に挨拶をしてくれたのは、きわめて若々しく美麗な面立ちをした、ラウ=レイの母親だ。
そして、ヤミル=レイを取り囲んでいた3人の娘さんたちも、先を争うようにして俺へと声を投げかけてきたのだった。
「やあ、アスタ。きちんと挨拶をするのは、ひさびさだね」
「今日も一緒に働けるのを楽しみにしてたよお。どうぞよろしくねえ」
「んー? 何をそんな、すっとぼけた顔をしてんのさ? まさか、あたしらと働くのを嫌がってるわけじゃないだろうね?」
長身でふてぶてしい面持ちをした長姉と、ふくよかな体形でのほほんとした次姉、そして小柄でツヴァイ=ルティムのように威勢のいい末妹――これぞ、ラウ=レイの姉君たる三姉妹である。それに取り囲まれたヤミル=レイは、本日も憂いげに溜息をついていた。
「へー、レイ本家の家人だった人間で固められてるのかぁ。でも、なんでこんな顔ぶれが集められたわけ?」
「だからそれは、あたしたちがそう望んだからだよ」
「うんうん。これなら家族で絆を深めながら仕事を果たせるしねぇ」
「かと言って、仕事に手を抜いたりしないから安心しなよ! 前回だって、ばっちり仕事を果たしてみせたでしょ?」
ララ=ルウのひと言にも、三姉妹がほとんど同時に言葉を返してくる。この連携攻撃が、きわめて場を賑やかしてくれるのだった。
そして、これを統制できるのは母親たる人物だけである。
「まったく、かしましいことだねぇ。ま、今日もあたしとあっちの次姉は幼子の面倒を見ながらだから、ふたりでひとりってことでよろしくお願いするよ。……あれ? 今日は東のお人らを連れていないのかい?」
「あ、はい。今回はまだ仕事が残されているそうです。でも、なるべく早めに切り上げて、こちらに参ずる予定であるそうですよ」
「了解了解。それじゃあ、なんでも申しつけておくれよ。ほら、あんたたちもヤミルにかまってないで、さっさと仕事の準備をしな」
「はーい」と子供のように応じながら、三人娘は水瓶の水で手を清め始めた。
まあ三人娘と言っても、全員が俺より年長である上に、全員が既婚者である。それで長姉を除く2名は他なる血族に嫁入りしたため、こういった際にしか家族と顔をあわせる機会もなかなか得られないという話であったのだった。
「今日はララ=ルウもご一緒なんだね。ずいぶんやかましくしちまうと思うけど、どうぞよろしくお願いするよ」
ラウ=レイの母親がそのように声をあげると、ララ=ルウは気安く「うん」と応じた。ラウ=レイの母親はララ=ルウの母親たるミーア・レイ母さんと幼馴染であるという話であったし、それに、ララ=ルウが仲良くしているサティ・レイ=ルウは、もともとレイ本家の家人であったのだった。
(そう考えると、ルウとレイはご縁が深いよな。まあ、俺の知らない部分でルティムや他の眷族も同じぐらいご縁を重ねてるんだろうけどさ)
ともあれ、まずは宴料理の準備である。
俺とララ=ルウも三姉妹に続いて、手を清める。その際に、ララ=ルウが不思議そうにヤミル=レイの姿を見上げた。
「なんかヤミル=レイは、ぐったりしてるね。どこか身体の調子でも悪いの?」
「いえ、別に。……あえて言うなら、すっかり耳が疲れてしまったわね」
「んー? それは、あたしらの声が耳障りってことかい?」
「あはは。ひさびさにゆっくり語らえたんだから、そんな寂しいこと言わないでよお」
「そーだよ! 余所の家に嫁いだって、あたしらがラウの姉だってことに変わりはないんだからね!」
ヤミル=レイが悩ましげに嘆息をこぼすと、ララ=ルウはすべてを察した様子で苦笑を浮かべた。が――他人顔で笑っていられないことが、すぐさま証明されたのだった。
「ああ、そういえばこの家の家長のシン=ルウが、新たな眷族の家長を務めることになったらしいね」
「うん、聞いた聞いたあ。シン=ルウなんてまだあんなに若いのに、すごいよねえ」
「で、シン=ルウといえば、あんただよね! あんただって、もう15歳にはなってるんじゃなかったっけ? やっぱりシン=ルウが新たな氏を授かる前に、婚儀をあげるのかい?」
「う、うるさいな! あんたたちには、関係ないでしょ! いくら血族だからって、余所の家の婚儀に首を突っ込むんじゃないよ!」
「なんだ、ちっとは落ち着いたように見えたのに、中身は子供のまんまだねぇ」
「あはは。でもララ=ルウは、元気なのが取り柄だからねえ」
「ふん! 新しい氏族の家長の伴侶が務まるかどうか、ちっとばっかり不安なところだけどね!」
ララ=ルウがわなわなと肩を震わせると、ラウ=レイの母親が「こら」と声をあげた。
「どうしてあんたたちは婚儀をあげても、そうまで落ち着きが備わらないのかねぇ。もう小娘じゃないんだから、余計な話で騒ぎたてるんじゃないよ」
「でもさー」と末妹が声をあげかけると、ラウ=レイの母親はキッと眉を吊り上げる。そうすると、彼女はますますラウ=レイに似て見えた。
「でもじゃないの。新しい眷族に氏を授けるってのは血族の一大事なんだから、そんな気安く茶化すんじゃないよ。しかもこのララ=ルウは、こんな若さで屋台の商売を取り仕切ってるって話なんだからね。あんたたちよりもよっぽど物事を深く考えてるだろうから、つべこべ余計な口を叩くんじゃないよ」
もっとも気性の荒そうな末妹でさえもが、首をすくめて「はーい」と応じた。これぞ母親の貫禄というものであろう。こういうときのラウ=レイの母親は、ほれぼれするような格好よさであった。
(アイ=ファはラウ=レイの母親を見ると、何故か自分の母親を思い出すって言ってたよな。アイ=ファの母親はシーラ=ルウみたいにひそやかなお人で、まったく似ていないはずなのにって不思議がってたけど……アイ=ファ自身が母親になったら、まさしくこういうお人みたいになるんじゃなかろうか)
俺がそのような妄念にとらわれてしまうぐらい、ラウ=レイの母親というのは魅力的なお人であったのだ。
こんな母親に育てられたラウ=レイも三姉妹も、同じ家で暮らすことになったヤミル=レイも、俺から見れば果報者であった。
「では、あらためまして、よろしくお願いします。まずは、今日の料理の内容をご説明しますね」
そうして俺は気持ちも新たに、本日の仕事に取りかかることにした。
驚くほどに口の回る三姉妹であるが、かまど仕事の手際はそう悪いものではないし、何より仕事への意欲や積極性にあふれかえっている。森辺の女衆に仕事をおろそかにする人間はいなかろうが、この三姉妹はもともとのアクティブな気性がいい意味で発露されるようであった。
ゆえに、作業そのものはきわめて順調であるのだが――普段の3倍ぐらい騒がしいという事実だけは、なかなか否めなかった。
「そういえば、この祝宴が終わったらいよいよヤミルたちがファの家に逗留するんだって?」
「あ、聞いた聞いたあ。前にファの家のお世話になってから、ずいぶん経ってるよねえ」
「ふん。普通は血族でもない相手の家に泊まり込むなんて、そうそうありえないんだからね」
彼女たちと会話をする際にはひとつの話題につき3名全員が発言してから言葉を返すべきであると、俺は前回の経験からそのように学んでいた。
「ええ。ラウ=レイは狩人、ヤミル=レイはかまど番として、それぞれ手ほどきを願っているわけですね。レイの方々にそうまで頼っていただけるというのは、光栄なことです」
「ふぅん。でも、ヤミルはそこまでかまど仕事に熱心な人間じゃないはずだけどねぇ」
「あはは。でも、ラウがヤミル=レイを置いて何日も家を空けるはずがないからねえ」
「そうまで入れ込んでるなら、とっとと婚儀をあげちゃえばいいんだよ。ヤミル=レイだって、レイの家人になってもうずいぶん経つんだからさ」
そんな言葉を投げつけられても、ヤミル=レイはすべての感情を押し殺した面持ちで作業を進めている。
そんなヤミル=レイを援護すべく、俺は話題の転換を試みた。
「そういえば、そちらのおふたりはルティムやミンに嫁入りしたのに、ラウ=レイのことをラウと呼んでおられるのですね」
「いいじゃん、べつに! どこに嫁入りしたって、家族は家族なんだからさ!」
「うんうん。ヤミル=レイはわたしたちが嫁入りした後にレイの家人になったから、いちおう氏をつけて呼ぶようにしてるけどねぇ」
「ま、ヤミルがラウと婚儀をあげたら、きっとあんたたちも氏をつけて呼ぶ気にはならないだろうね。……まったく、いつになったらその日が来るのやらね」
どうも彼女たちは婚儀に対する関心が強いらしく、なかなか話がそれてくれない。
それで俺は、ラウ=レイの母親に向きなおることになった。
「氏をつけずに呼ぶのは同じ家に住む家族に限るというのは森辺において大事な習わしなのでしょうが、許される範囲でそれを破るというのは絆の深さを表しているように感じられるので、俺は好ましく思っています」
「ふぅん? べつだん皮肉で言ってるわけじゃないみたいだねぇ」
「もちろんです。ルウ本家の方々も、家を出たダルム=ルウやヴィナ・ルウ=リリンのことをこれまで通りの呼び方で呼んだりしていますからね。それを氏つきで呼ぶのはよそよそしいという話ですが、俺も同じように感じています」
「ふふん。あたしもこの娘らも、根が雑なだけだけどね。呼び名なんて、短ければ短いほど楽なもんだからさ」
と、ラウ=レイの母親は悪戯小僧のように白い歯をこぼした。そういう表情がきわめて若々しく、そして魅力的なお人であるのだ。
「そういえば、あんたはアイ=ファのことを氏つきで呼んでたよね」
「あ、そうだったっけえ? でも、アスタとアイ=ファは同じ家で暮らす家族なんでしょお?」
「それなのに、なんで氏をつけて呼んでるわけ? あんたたちは、婚儀をあげないのが不思議なぐらい睦まじい関係だって聞いてるけど?」
思わぬ方向から、俺に火の粉が飛んできた。
が、ヤミル=レイから関心がそれたのはもっけの幸いである。俺は内心の動揺を押し隠しつつ、めいっぱい愛想よく答えてみせた。
「出会った頃は、まさか家族にしてもらえるなんて思ってもいませんでしたからね。それでアイ=ファっていう呼び方を長らく続けていたから、すっかり定着してしまったんです。みなさんも、伴侶になったお相手を氏なしで呼ぶことになったとき、少し照れ臭く感じたりはしませんでしたか?」
「ははん。そんなところで照れてどうするのさ」
「そうそう。本当に家族になれたっていう喜びでいっぱいで、照れるどころじゃなかったよお」
「婚儀ってのは、そういうもんさ。あんたたちも、さっさと婚儀をあげたほうがいいんじゃない?」
「婚儀ってのは、いいものですよね。実はこの前も、宿場町の婚儀を初めて目にする機会があったのですよ」
「あたしはもちろん、ラウやヤミルから聞いてるよ。ほら、あんたたちにもさっき話したでしょ?」
「ああ、ラウがその花婿に殴られて、顔の片方だけ倍ぐらい腫れあがっちゃったって話だねえ」
「それはそもそも、ラウがヤミル=レイの料理を残したくないから悪化したって話なんでしょ? ラウのやつは、それだけあんたに入れ込んでるんだから――」
「やっぱり町と森辺では婚儀の習わしもずいぶん違うようでした。でも、神々への誓いだとか、花を相手に捧げるところなんかは、少し森辺と似ているように思ったのですよね。それに、俺の故郷でも神への誓いだとか物品の交換だとかいう習わしがあったんです」
「へえ! あんたは、遠い異国の生まれだってんでしょ? それなのに、そんな習わしがかぶってるっての?」
「それは不思議な話だねえ。森辺と町で習わしが似てるってだけでも不思議なのにさあ」
「でも、森辺と町でそんな習わしが似てたの? ミンの人間は広場の祝宴ってやつにしか出向いてないから、婚儀そのものは見届けてないんだよね」
「森辺の民は、母なる森に誓いを立てますよね。町や俺の故郷では、神に誓いを立てます。物品の交換は、森辺が草冠で、宿場町が一輪の花で、俺の故郷は指輪です。宿場町では本人の準備した花束の中から一輪を選ぶという方式でしたけど、やっぱりそれが誓いの品で、末永く保存するそうですよ」
三姉妹たちは宿場町の婚儀や俺の故郷などに関心が向かった様子で、やいやいと騒ぎ始めた。
俺がしめしめと思っていると、ラウ=レイの母親が穏やかな面持ちで近づいてきて、耳もとに口を寄せてくる。
「ありがとう。あんたは優しいね、アスタ」
俺がびっくりして振り返ると、ラウ=レイの母親は至近距離から温かい微笑みを届けてくれた。
俺はただ、ヤミル=レイがラウ=レイとの婚儀をせっつかれるのがしんどそうであったので、なんとか話題をそらそうと奮起したまでである。そのしんどさは俺も身にしみてわかっているので、まったくお礼には及ばなかった。
そして、ヤミル=レイ本人はというと――俺のほうをちらちらと見やりながら、なんとか感情をこぼすまいと取りすました顔を保持しており、そんな姿がやたらと微笑ましく思えてならなかったのだった。