エイラの祝宴⑤~誓約の儀~
2022.2/11 更新分 1/1
日没の半刻前となったため、聖堂の中はずいぶんと薄暗い。
まずは修道女たちによって、壁際の燭台に火が灯された。
広々とした聖堂が、オレンジ色の光にやわらかく包まれて――そこに、清涼な音色が響く。何名かの修道女が、小さな鉦のようなものを鳴らし始めたのだ。
リーンリーンと、どこか秋の虫にも似た音色である。
高い天井に凝った薄闇と、それをはねかえす燭台の明かりと、耳にしっとりとしみこむ鉦の音色――聖堂の内には、いっぺんに厳粛な空気がたちこめたようだった。
聖堂のもっとも奥まった場所には祭壇が築かれて、そこにエイラの神像が設置されている。
背丈は1メートルほどで、白いなめらかな石で造られており、優美な曲線を描く腕には聖杯と思しきものが携えられていた。
たしかエイラというのは太陽神アリルの伴侶であり、月の女神でもあるのだ。去りし日の仮面舞踏会では、エウリフィアがエイラの扮装をしていたはずであった。
月の女神にして婚姻を司るエイラに見守られながら、その左右に設えられた扉が開かれる。
そこから、レビとテリア=マスが入場してきた。
どちらにも、斜め後方に父親が控えている。
そして、両名が纏っているのは礼賛の祝宴で準備された礼装に他ならなかった。試食会で着用した準礼装に、飾り物を増やした装いである。
やはり彼らにとっては、それこそが一番豪奢な服装であるのだろう。
城下町においては祝宴の参席者が纏う装束であるわけだが、宿場町においてはなかなか目にする機会がないぐらいの豪奢さであったし――そうでなくとも、ふたりはたいそう立派に見えた。
そしてふたりは、白地に金色の糸で刺繍をされた肩掛けを羽織っている。それがきっと、婚儀をあげる人間のための装いであるのだろう。
鉦の音色に歩調をあわせて、ふたりはゆっくりと祭祀長の前まで歩を進める。
レビは緊張しまくった面持ちであり、テリア=マスはそっと視線を伏せていた。
レビはきちんと髪を整えられて、どこに出しても恥ずかしくない立派な姿だ。
そして、テリア=マスは――いつも無造作に結っている髪を肩に垂らし、右のこめかみに小さな花飾りをつけて、別人のように可憐であった。
ミラノ=マスは普段以上の仏頂面で、ラーズは普段通りの柔和な笑顔で、それぞれの子供たちの後に続いている。ラーズのつく杖の音が鉦と同じタイミングで鳴るために、それも計算された音楽のように聞こえてしまった。
祭祀長のもとに到着した両名は、まず参席者に向かって一礼する。
参席者も礼を返して、その後に着席だ。俺たちが事前に聞かされていた式の内容は、これのみであった。
参席者がすべて着席すると、新郎新婦と父親たちは祭祀長のほうに向きなおる。そして、新郎新婦だけがその場にひざまずいた。
「……月神エイラの祝福を捧げます」
祭祀長が祭壇に置かれた聖杯に、黄色い鳥の羽根飾りをひたした。
そして、羽飾りが含んだ水滴を、新郎新婦の頭上にふわりと降らせる。
「西方神セルヴァとその子たる月神エイラの前で、誓約の儀を」
レビとテリア=マスが立ち上がり、それぞれの父親から花束を受け取った。レビのほうは白い花束で、テリア=マスのほうが黄色い花束だ。
レビはテリア=マスの花束から一輪の花を抜き取って、それを相手の胸もとに差した。
テリア=マスはレビの花束から一輪の花を抜き取って、それを相手の胸もとに差した。
残りの花束は父親に返されて、レビとテリア=マスはまた参席者のほうに向きなおる。
「サトゥラスの民ミラノ=マスの子テリア=マスは、サトゥラスの民レビを伴侶に迎え、ともに心正しく生きていくことを、父なる西方神と月神エイラ、およびこの場に参じてくださったすべての方々の前で誓います」
「サトゥラスの民ラーズの子レビは、サトゥラスの民テリア=マスを伴侶に迎え、魂を召されるその日まで手を携えて生きていくことを、父なる西方神と月神エイラ、およびこの場に参じてくれたすべての方々の前で誓います」
ふたりの声は、どちらも小さく震えていた。
そしてふたりは祭祀長のほうに向きなおり、また膝をつく。
そうして祭祀長が脇に退くと、ふたりはエイラの神像と向き合う格好になり――そちらに向かって深々と頭を垂れながら、同じ宣誓を繰り返した。
祭祀長は鉦の音にあわせて元の位置に戻り、再び黄色い羽根飾りで聖杯の水をふたりの頭上に散らした。
「婚姻の誓約は交わされました。どうかこの日の希望と喜びを生涯忘れず、ともに健やかな日々をお過ごしください」
レビとテリア=マスは立ち上がり、参席者のほうに向きなおる。
それと同時に、修道女たちの鳴らす鉦が鈴虫の大合唱のように音色を重ね、参席者たちがいっせいにお祝いの言葉をほとばしらせた。
「テリア=マス、おめでとう!」
「レビ、伴侶を泣かせるなよ!」
「レビとテリア=マスに、エイラの祝福を!」
「エイラの祝福を!」
森辺の民を含めて50名ほどにふくれあがった参席者が、盛大な拍手でふたりを祝福する。それでようやくレビは気恥ずかしそうに笑い、テリア=マスは――静かに微笑んだまま、透明の涙をこぼしていた。
ラーズは顔をくしゃくしゃにして笑い、ミラノ=マスは最大級の仏頂面だ。きっとそうでもしないと、涙をこらえきれないのだろう。ミラノ=マスのそんな頑固さに、俺のほうこそが涙を誘発されてしまいそうだった。
「それでは、ご退場をお願いいたします」
祭祀長のよく通る声に従って、レビとテリア=マスが聖堂の出口に向かって歩き始めた。すると、右側の席からは年配の女性とユーミが、左側の席からはベンとカーゴが立ち上がり、レビとテリア=マスの左右に並ぶ。祝宴の行われる広場までの、エスコート役であるのだ。
他の参席者は、その後に続いて聖堂の出口を目指す。
その道中で「大丈夫ですか?」というユン=スドラの声が聞こえてきたので、そちらを振り返ると――フェイ=ベイムが、誰よりも盛大に涙をこぼしてしまっていた。
「大丈夫です。お気になさらないでください。わたしは勝手に心を乱しているだけですので」
確かにフェイ=ベイムは、レビともテリア=マスともさほど親交が厚いわけでもない。しかし何にせよ、悲しくて泣いているわけではないはずなので、俺もそっとしておくことにした。
聖堂の出入り口では、修道女たちが小さな杯を抱え持ち、羽根飾りでもって参席者たちの頭上に水滴を撒き散らしている。その姿に、アイ=ファはうろんげに眉をひそめた。
「あれは、どういった行いであろう? 水をかわしてはならぬのであろうか?」
すると、いつの間にかリミ=ルウと手をつないで歩いていたターラが「あはは」と笑い声をあげた。
「あれはエイラの祝福の聖水だよー! アイ=ファおねえちゃんは、濡れるのがやなの?」
「理由もなく水をかぶって楽しいわけがあるまい。しかしそれが宿場町の習わしであるのならば、むやみに忌避するわけにもいかんな」
そんなわけで、俺たちもぞんぶんに祝福の聖水を浴びることになった。特に狩人たちは刀と外套を受け取るために立ち止まったため、それと一緒にいた俺も髪がしっとり濡れそぼるぐらいの祝福を授かることに相成った。
「まったく、奇妙な習わしだな。まあ、森辺の婚儀も町の人間から見れば、同様なのかもしれんが」
そんな風にぼやきながら、アイ=ファは湿った前髪をかきあげる。ここだけの話、それだけでたいそう艶めかしく見えてしまうアイ=ファである。
それはともかくとして、表はすっかり黄昏刻の風情であった。
空は深い紫色に染まり、気温もだいぶん下がってきている。そして道の先には、誰かが掲げているらしい燭台の火がぽつぽつと瞬いていた。
「いやあ、婚儀に出たのはひさびさだったけど、やっぱりいいもんだねぇ。俺はそんなにあのおふたりと交流があるわけじゃないんだが……末永く、幸せになってほしいもんだよ」
ドーラの親父さんはにこにこと笑いながら、そんな風に言っていた。ドーラの親父さんも、テリア=マスとは森辺の祝宴で何度かご一緒しただけの間柄であり、レビとも屋台で顔をあわせるていどのつきあいであるのだ。
そういえば、マス家の側の参席者は、ユーミたちを除くとほとんど年配の人間ばかりであった。いつも宿にこもっているテリア=マスにとって、同世代の友人というのはユーミを通じて知り合った相手ばかりなのかもしれなかった。
(でも、テリア=マスがユーミと仲良くなったのは、ここ2年以内なんだよな。それまでは、同世代の友達もいなかったんだろうか)
俺が知り合った当初、テリア=マスはものすごく内気そうに見えた。それは森辺の民に対する気後れだろうと思っていたのだが――それ以前に、母親を幼くして亡くすという体験から、内にこもる気性になってしまったのだろう。かつて耳にしたミラノ=マスやレイトなどの口ぶりからして、それは確かなことであろうと思われた。
(いっぽうレビは同世代の友達と遊ぶばっかりで大人とのつきあいもなく、ラーズは悪い関係を断ち切って縁者のひとりもいないわけか)
そんなふた組の家族が縁を結んだことにより、おたがいに不足していた交流関係が広まるという面もあるのではないだろうか。
そんな風に考えると、俺はいっそう幸福な心地になれた。
そうして五分ばかりも住宅区域の街路を練り歩くと、ようやく目的の地に到着する。
俺が初めて足を踏み入れる、その名も『エイラの広場』である。宿場町における婚儀の祝宴というのは、おおよそこの場で開かれるのだという話であった。
俺が知る『ヴァイラスの広場』と、規模も造りも大きな違いはないように見受けられる。ただし本日その場には、広場を取り囲むようにいくつものかがり火が焚かれて、なおかつたくさんの屋台が出されていた。
「ふん。ようやく来たな。くれぐれも騒ぎを起こすのではないぞ」
と、簡素な甲冑を纏った人物が薄闇の向こうから近づいてくる。それは俺が懇意にさせていただいている、小隊長のマルスに他ならなかった。
「どうもお疲れ様です。今日はマルスが見回りのお役目であったのですね」
「ふん。森辺の民とゆかりの深い人間の婚儀ということで、俺の隊に仕事を割り振られてしまったのだ。まったく、はた迷惑なことだな」
すると、顔馴染みのルド=ルウが「はは」と笑い声をあげた。
「ま、いーんじゃねーの? 今日は傀儡の劇も見せるらしいから、あんたも楽しめばいいじゃん」
「職務中に、そんな呑気なことを言っていられるか。とにかく、羽目を外しすぎるなよ」
そうしてマルスに別れを告げて、俺たちも広場に乗り込んだ。俺はさっそく、屋台に待機したメンバーに挨拶である。
「どうもお疲れ様です。何も問題はありませんでしたか?」
「はい。準備は万端です。アスタたちは、どうぞ祝宴をお楽しみくださいね」
ラッツの女衆が、朗らかな笑顔を返してくる。その場には10台ばかりの屋台が並べられており、その内の6台が森辺のかまど番の受け持つ屋台であるのだった。
宿場町においては地べたで火を焚くのが禁忌であるため、広場における祝宴でもこうして屋台で料理を準備するのが定例であるそうなのだ。もちろんこれは商売ではなく新郎新婦からのふるまいであり、その代わりに参席者は相場にのっとったご祝儀を支払うというのが宿場町の流儀であるという話であった。
俺はアイ=ファを引き連れて、片っ端から屋台を巡っていく。その内の2台は《キミュスの尻尾亭》の関係者で、最後の2台がロイとシリィ=ロウである。さらに彼らの屋台のかたわらには青空食堂から運ばれた卓がででんと置かれて、そこにボズルが保温の必要のないフワノ料理を並べていた。
「おお、アスタ殿。お疲れ様でありますな。婚儀のほうは如何でしたか?」
「はい。町の婚儀に参席するのは初めてだったので、とても感慨深かったです。……俺が言うのは筋違いかもしれませんが、今日はレビたちのためにありがとうございます」
「わたしもそれらの方々とは森辺の祝宴や試食会などで何度かご挨拶をさせていただいただけの仲でありますが……これを機会にご縁を深められたら何よりでありますな」
そう言って、ボズルは大らかに微笑んだ。
いっぽう屋台のシリィ=ロウは、張り詰めた様子で鉄鍋の中身を攪拌している。かつて森辺の祝宴で料理を出した際も、彼女はこんなたたずまいであったのだ。
俺がそちらに挨拶をしようとすると、黄色い華やいだ声が塊となってこちらに押し寄せてくる。予想通り、それはユーミが率いる若い女性の一団であった。
「あー、いたいた! シリィ=ロウ、ロイにボズルも、お疲れさん! 今日はみんな、あんたたちの料理を楽しみにしてるからねー!」
「ど、どうも。今日はずいぶんな大人数なのですね」
と、シリィ=ロウはその娘さんたちの賑やかさに圧倒された様子で言葉を返す。
娘さんたちは、興味津々でシリィ=ロウたちの姿を見回していた。
「城下町の女の子って、やっぱりなんか気品があるね! このコは顔立ちも綺麗だし!」
「あっちの男の子もいい感じじゃない? ちょっとツンケンしてるけど」
「えー、ひ弱そうで、あたしは好みじゃないなぁ」
「南のお人は、宿場町でも城下町でもあんまり変わらないみたいだね!」
ユーミはくびれた腰に手をあてつつ、「あのねー」と悪友たちの姿を見回した。
「ロクに挨拶もしない内から、やいやい騒ぐんじゃないの! シリィ=ロウたちに失礼があったら、あたしが許さないからね!」
「はーい」と子供のように応じつつ、しかし娘さんたちは興味の尽きない様子でシリィ=ロウらの姿を検分している。
「ったく」と息をついてから、ユーミはシリィ=ロウに笑いかけた。
「じゃ、ミラノ=マスたちの挨拶が終わったら、また来るね! あんたたちの料理、ほんとに楽しみにしてるから!」
そうしてユーミたちが早々に引っ込むと、シリィ=ロウはげんなりとした様子で肩を落とした。
「なんだか、ユーミが何名にも増えたような心地でした……しかも、出会ってすぐの傍若無人であった頃のユーミが……」
「あはは。でもあれは、みんなユーミを慕って集まった娘さんたちですからね。悪い人間はひとりもいないはずですので、温かい目で見守ってあげてください」
「アスタはあれらの方々と、いずれも懇意にされているのですか?」
「懇意というほどではありませんが、みんな屋台のお客さんですね。だから、舌は肥えてるはずですよ」
俺の言葉にシリィ=ロウは目をぱちくりとさせて、ロイは「へえ」と片方の眉を吊り上げた。
「お前がそんな言葉を吐くのは珍しいな。婚儀の空気にあてられて、ぞんぶんに浮かれてるってことか」
「はい。この日を心待ちにしていましたので」
そんな風に答えながら、俺はあらためて広場の様子をうかがった。
現時点で、すでに100名近い人間が集まっていそうだ。婚儀のお祝いでずっと腰を据えるのは新郎新婦とゆかりの深い人間だけで、あとは入れ代わり立ち代わりでさまざまな人々が訪れるのだそうだ。まったく見ず知らずの人間がふらりと立ち寄って、料理をひとつまみしてご祝儀の銅貨を置いていくなどというのも、珍しくはないそうである。
何にせよ、広場には大変な熱気が満ちている。
そんな中、広場の中央に設置された日時計の上に、ミラノ=マスが立ちはだかった。
「今日は俺の娘と花婿のためにこれだけの人間が集まってくれて、心から感謝している! 衛兵に叱られないていどに、飲んで騒いで帰ってくれ!」
人々は、惜しみない歓声と拍手でそれに答える。
夜の宿場町でこれほどの騒ぎが許されるのは、復活祭と婚儀の祝宴だけであるのだそうだ。確かにそこには、復活祭を思い出させる熱気と活力が満ちあふれていた。
(それにやっぱり、邪神教団の影響もあるのかな)
邪神教団の討伐が完了したと告げられた日も、宿場町にはこういった雰囲気がたちこめていた。それからすでにひと月近い時間が過ぎているわけだが――ジェノスの負った傷は野菜不足という形で、しっかり爪痕が残されている。そんな鬱屈を跳ね返すために、人々は祝宴の到来を心待ちにしていたのかもしれなかった。
「それで今日は、森辺と城下町のお人らが祝いの料理を準備してくれた! きっとたいそうな料理を準備してくれたろうから、そっちも大いに楽しんでくれ!」
そうしてミラノ=マスが口をつぐむと、レビも日時計の上にのぼり、テリア=マスとラーズがのぼるのに手を貸した。
レビは感情を持て余している様子で頭をかいており、涙をふいたテリア=マスは静かに微笑みつつ頬を火照らせている。そしてラーズは、やっぱり普段通りの柔和な笑顔であった。
人々がさらなる拍手と歓声を送る中、でっぷりと肥えた人物がレビに助けられながら日時計にのぼる。それはどこかの家に嫁いだというミラノ=マスの妹さんの伴侶であった。
「こんな盛大な婚儀の祝宴は、ちょっとひさしぶりのことだろう! ミラノ=マスの義弟として、心から誇らしく思っている! ……それでは、この夜から新たな人生を歩むテリア=マスとレビに、祝福を!」
ここは森辺と同じように、「祝福を!」の声が唱和された。
うねりをあげる歓声の中、ミラノ=マスたちはひとりずつ日時計の下におりる。それが、祝宴の開始の合図であった。
ミラノ=マスたちはそのまま日時計の近くに陣取って、人々からお祝いの言葉を受け取っている。俺もアイ=ファをともなって、さっそくそちらに出向くことにした。
やはり関係の深い人々こそ、真っ先に駆けつけているのであろう。俺たちの前に並ぶのは、いずれも聖堂で見た顔ばかりであった。
そして、いったん離れていたユン=スドラやレイ=マトゥアも俺たちのほうに寄ってくる。ドーラ親子とリミ=ルウとルド=ルウ、車椅子のジバ婆さんに、それを押すララ=ルウとシン=ルウ、さらにラウ=レイとヤミル=レイも俺たちのそばに立ち並んだ。
「ラウ=レイも、ひょこひょこどっかに行かねーでくれよ? 俺らは3人がかりでジバ婆を守るのが役割なんだからよ」
襟巻きで顔の下半分を隠したラウ=レイは目もとだけでにこにこと笑いながら、「わひゃっている」と応じた。左目は腫れあがった頬に圧迫されて細められているようだが、今日のラウ=レイは出会ったときからずっと笑っているように感じられた。
「ラウ=レイは、ずいぶんご機嫌だね。やっぱりレビたちの婚儀が嬉しかったのかな?」
「あひゃりまえら。れびはおれのともらからな。ともをみひょろらわないれすんらほろをうれひくおもている」
「え? な、なに? 後半は、なんて言ったんだろう?」
すると、ヤミル=レイがむすっとしたお顔で通訳してくれた。
「友を見損なわないで済んだことを嬉しく思っている、と言っているのよ。……この聞き苦しい声にもすっかり聞きなれてしまったわ」
「3日も腫れがひかないなんて、大変ですね。これで料理を口にできるのですか?」
「家でも普段と変わらないぐらい食べているわよ。やわらかい料理や香草を使わない料理ばかりじゃ物足りないと言い張って、いつも通りの晩餐をね。……そのせいで、いっこうに傷が治らないのじゃないかしら」
と、ヤミル=レイは感情を覗かれることを嫌がるように目を伏せた。が、そんなヤミル=レイらしからぬ仕草こそが、彼女の内心を雄弁に語っている。それで俺は、敢然とラウ=レイに語りかけることになった。
「ねえ、ラウ=レイ。その腫れがひくまでは、ちょっと食生活を見直したほうがいいんじゃないのかな? 辛いものはもちろん硬いものも控えて、汁物料理で滋養を取るとか……」
「やら。おれはギバにくをかじりらいのら」
「いや、だけど、あまり傷口に負担をかけないほうが……」
「やら」と繰り返すラウ=レイは、まだにこにこと笑っている。なんとなく、楽しすぎて気もそぞろといった様子である。俺がその無邪気な笑顔に撃退されて肩を落とすと、アイ=ファが耳もとに口を寄せてきた。
「お前に話を聞いたときは、ラウ=レイも立派な人間に育ったものだと感心していたのだが……今のこやつは、幼子そのままだな」
「うん。それはそれで美点なのかもしれないけど……」
「美点と欠点は裏表という面もあろう。あやつは傷の痛みをものともしない心の強さを持っているのであろうが、3日もあれほどの腫れがひかないというのは、かなりの深手であるはずだぞ」
そんな風に言われると、俺もますます心配になってしまった。
が、それ以上言葉を重ねる前に、挨拶の順番が回ってきてしまう。俺は気持ちを入れ替えて、レビたちに笑いかけることになった。
「レビ、テリア=マス、おめでとうございます。とても素敵な式でした」
「嫌だなぁ。そんなにかしこまらないでくれよ。ベンたちみたいに茶化されるほうが、まだちょうどいいや」
と、レビは相変わらず気恥ずかしそうな様子である。まあ17歳という若さを考えれば、何もおかしなことはないだろう。
いっぽうテリア=マスは、静かな微笑の内に喜びの気持ちを押しひそめている様子だ。それが彼女をいっそう可憐に見せているように思われてならなかった。
「テリア=マス、おめでとう! それでさ、これは森辺の習わしにも宿場町の習わしにも当てはまらないだろうと思うんだけど……」
と、車椅子をシン=ルウに託したララ=ルウが、腰の物入れから小さな包みを取り出す。そこに収められていたのは、鮮やかなのにとても清涼な色合いをした青のミゾラの花であった。
「これ、シーラ=ルウからのお祝いなの。本当は婚儀を見届けたかったけど、シーラ=ルウも身重だから宿場町に下りられなくって……受け取ってもらえる?」
「もちろんです」と、テリア=マスはミゾラの花を両手で押し抱いた。
その瞳に、また透明の涙がたたえられる。しかし、可憐な微笑が消えることはなかった。
「シーラ=ルウのお気づかいを、心より嬉しく思います。こちらの花は、誓約の花とともに大事に保管しますので……どうぞよろしくお伝えください」
「うん! ありがとう!」
ララ=ルウも、心から嬉しそうに笑っていた。
シーラ=ルウも内気な女性で、そうであるからこそ、同じように内気な相手を気遣う優しさを有しているのだ。スン家やトゥラン伯爵家にまつわる騒動が一段落して、テリア=マスがようやくおずおずと俺たちの前に姿を現したとき、誰よりも心を砕いてテリア=マスに接していたのはシーラ=ルウであり、ララ=ルウやレイナ=ルウよりも早く絆を深めていたことが、俺には強く印象に残されていた。
そうしてリミ=ルウやジバ婆さんたちも、テリア=マスへとお祝いの言葉をかけていく。
その間に、ラウ=レイがひょこりとレビの前に進み出た。
「ああ」と笑いかけたレビは、途中でうろんげに眉をひそめる。
「会いたかったよ、ラウ=レイ。あんたにはお礼とお詫びを言わなきゃならないところだけど……でも、その襟巻きは何なんだい? 聖堂で見かけたときから、ずっと気になってたんだよな」
ラウ=レイはにこにこと笑いながら、襟巻きを取り去った。
そこから現れた珍妙にして無惨な顔に、新郎新婦の一家がどよめく。
「ど、どうしたんだよ、その顔は? まさか……俺のせいじゃないよな?」
「きにひゅるな」
「いや、気にするなって言われても……」
「ひょうのおみゃえはおれなろにかまわじゅ、あいひゅるあいれろむひゅばれひゃよろろひをかみしめればよいのら」
「え、な、何? 何を言ってんのか、さっぱりわからねえよ」
「……今日のお前は俺などにかまわず、愛する相手と結ばれた喜びを噛みしめればよいのだ、と言っているのよ」
それでもレビが惑乱の表情でいると、ラウ=レイはいっそうにこーっと笑って、レビの心臓のあたりに拳を押し当てた。
「おみゃえはりっぱらにんれんら。やみるもおみゃえのようらゆうひをもっひぇ、おれのあいをうひぇいれれふれればいいのらなな」
「うるさいわね。さあ、後がつかえているわよ」
ヤミル=レイはラウ=レイの狩人の衣を引っ張って、レビたちの前から退場した。
俺はラウ=レイの容態が気にかかって、すぐさまそれを追いかけようとしたのだが――それよりも早く、ミラノ=マスに腕をつかまれることになった。
「おい。あれは本当に、レビが殴りつけたせいなのか? 森辺の狩人とは、そんなやわな身体をしておるまい?」
レビの耳をはばかって、そんな言葉が囁きかけられてくる。
俺も同じぐらいの小声で、「はい」と答えてみせた。
「ただ、口の傷が膿んでいるのに辛い料理や硬い料理を避けないために、悪化してしまったみたいです。だからまあ、半分はラウ=レイ本人の責任だと思うのですけれど……」
「……しかし、レビが原因であることに間違いはないのだな」
と、ミラノ=マスは迫力のある顔で俺に詰め寄ってきた。
「おい。お前さんは、東の民とも懇意にしていたな?」
「はい。今日のお祝いにも顔を出してくれるはずです」
「それじゃあそいつらに、あの怪我をどうにかできないか聞いてみてくれ。東の民なら、下手な医術師よりも怪我の手当てに長けているはずだ。銅貨が必要であれば、俺がいくらでも出す」
「了解しました。おまかせください」
「頼んだぞ。……こんなことで、レビたちの気持ちを台無しにしたくはない」
ミラノ=マスの声に、痛切なものが入り混じる。
そちらに力強くうなずき返してから、俺は《銀の壺》の面々を探すべく広場の賑わいに身を投じることになった。