森辺の合同勉強会①~意想外~
2022.1/22 更新分 1/1
城下町の晩餐会の2日後――白の月の6日である。
その日は、ヴァルカスの弟子たちを森辺に招いて勉強会を行う予定になっていた。
もちろんこの日も屋台の営業日であるために、ロイたちとは宿場町で合流して森辺に戻る算段である。それで俺は、浮き立った気持ちで商売に励んでいたのだが――案に相違して、ロイたちはなかなか姿を見せなかった。
「あと半刻ほどで、屋台の商売も終わってしまいますね。わたしはてっきり、城下町の方々もこちらで昼の食事を召しあがるのかと思っていたのですけれど」
そのような声をあげたのは、俺と同じ屋台で働いていたレイ=マトゥアであった。彼女もまた、ロイたちと勉強会をともにできることを楽しみにしていたひとりであったのだ。
「うん、俺もそう思ってたよ。もしかしたら、勉強会の味見に備えて昼食を抜こうっていう考えなのかもしれないね」
「ええー? そんな刻限まで何も口にしないなんて、わたしには耐えられません! ……あ、でも、町の方々というのはわたしたちよりも食が細いような印象がありますね」
「うん。ロイやシリィ=ロウなんかは、料理の味見が食事のすべてって日もざらにあるらしいよ。あまり健康的な食生活とは言い難いところだよね」
そんなやりとりをしている間にも、時間は刻々と過ぎ去っていく。
旅装束のマントで立派な身なりを隠したロイがやってきたのは、ほとんど営業終了まぎわのことであった。
「ま、待たせたな……悪いけど、水を一杯もらえねえか?」
ロイは両膝に手をついて、ぜいぜいと荒い息をついていた。どうやら城下町からここまで駆け足で参上した様子である。
「水ですか。食器洗いのために井戸から組み上げた水しかないのですけれど……」
「泥水でもなんでもかまわねえよ。咽喉がひりついちまって、死にそうだ」
ロイは城下町の民らしく、そこそこ虚弱な部類であるのだ。それでも人並み以上に繊細なヴァルカスやシリィ=ロウに比べればまったく頑丈なぐらいであるのだが、2年前に出会った当時から俺よりも遥かに腕力で劣っていたことが印象に残されていた。
ともあれ、俺は洗いたての木皿で樽の水をすくって、ロイに差し出すことになった。ロイはそれをひと息に飲み干したかと思うと、力尽きた様子で地べたにへたり込んでしまう。
「どうもお疲れ様でした。でも、いったいどうしたんです? シリィ=ロウたちは、来られなくなってしまったのですか?」
「いや、あっちがちょっと準備に手間取ってるから、俺だけ先行して事情を伝えることになったんだよ。……ったく、いい加減にしてほしいよなぁ。こんなに長い距離を走らされたのは、何年ぶりかもわからねえよ」
ぐちぐちとぼやくロイの周囲に、手の空いた女衆らがわらわらと寄り集まる。その中から、ララ=ルウが発言した。
「それじゃあ、シリィ=ロウとボズルも来られるんだね? あたしは関係ないけど、レイナ姉は今日のことをすっごく楽しみにしてたからさ」
「ああ。だけどその前に、了承をいただかないといけねえな。……なあ、アスタ。ふたりばかり人間が増えることを許してもらえるか?」
「ふたり? どなたとどなたのことでしょう?」
「……ヴァルカスと、タートゥマイだよ」
「ええーっ!」と声を張り上げたのは、ララ=ルウの脇から顔を出していたリミ=ルウであった。
「ヴァルカスとタートゥマイも来てくれるの? でも、ヴァルカスはなかなか城下町を出られないって話じゃなかったっけー?」
「ああ。あのお人は、人混みだとか砂埃だとかを苦手にしてるからな。若い頃はシムにまで出向いてたらしいけど、しょっちゅう熱を出して倒れてたって話だしよ。……それなのに、今日になっていきなり自分も連れていってほしいとか言い出しやがったんだよ」
と、ロイは深々と嘆息をこぼした。
「シリィ=ロウなんかは躍起になって止めてたんだが、どうしても譲ろうとしなくってさ。最近はダレイムの野菜が扱えないせいで研究のほうも行き詰まってたから、その鬱憤が爆発しちまったみたいだ。俺の親父でもおかしくない齢のくせに、ああなっちまったらもう聞き分けのない子供なんだよ」
「はあ……ヴァルカスをお招きできるなら、こちらは嬉しいぐらいですけれど……でも、大丈夫なんですか? もし、熱を出したり倒れたりしてしまったら……」
「そのときは、タートゥマイが責任をもって面倒を見るってよ。あと、さすがに森辺の家で夜を明かすのは難しいだろうから、宿場町で宿を取ることになりそうだ。でも、こっちは夜に車を動かせる御者なんざに心当たりがねえから……そこでも森辺のお人らに甘えなきゃならねえんだよな」
そうしてロイは、とても申し訳なさそうに俺を見つめてきた。
「当日になってこんな騒ぎになっちまって、本当に悪いと思ってるよ。でも、どうにか了承してくれねえか? これでそっちに断られたら、あの厄介な主人がどんな風にへそを曲げるか、俺には想像もつかねえんだよ」
「晩餐を食べ終えたら、宿場町の宿屋までお送りすればいいのですね? 宿のあてはあるのですか?」
「ああ。あの試食会で勲章を授かった、ナウディスってお人の宿になりそうだ。ボズルは何回か、そっちに挨拶に出向いてるらしいな」
「ああ、《南の大樹亭》なら安心ですね。きっと無法者に襲われたりはしないはずですよ」
そう言って、俺は苦悩するロイに笑顔を届けてみせた。
「アイ=ファだったら、宿場町までお送りすることも嫌がったりはしないはずです。ヴァルカスがそうまで来訪を希望してくださるのでしたら、こちらは喜んでお迎えいたしますよ」
「恩に着るよ。この恩は、必ず本人にも返させるからさ」
ほっと安堵の息をつくロイに、今度はリミ=ルウが笑いかける。
「ヴァルカスまで来てくれたら、レイナ姉も大喜びだよー! リミも、すっごく楽しみ! 今日は一緒に頑張ろーねー!」
「ああ。よろしくお願いするよ」
ということで、俺たちはあらためて出立の準備を整えることになった。
ルウ家は《南の大樹亭》からも1台の屋台を借り受けているため、それを返すついでに部屋の空きを確認する。幸い、5人が3つの部屋に分かれて宿泊することが可能であるとのことであった。
「ひとりで寝ることになるシリィ=ロウは、さぞかし不安な心地だろうな。ま、あんな厄介な人間を主人に選んだ自分を恨むしかねえか」
《南の大樹亭》を出て、《キミュスの尻尾亭》を目指す道中、ロイはそんな風にぼやいていた。
すると、一緒に屋台を押していたレビが、屈託のない笑みを向ける。
「本当に、あんたのご主人ってのは厄介なお人だね。黙って立ってれば、ずいぶん立派そうなお人なのにさ」
「ああ。料理を作らせたら申し分ねえけど、それ以外はどうしようもねえよ。天才ってのは人より優れてる分、何かが欠けてるもんなのかねえ」
こちらの両名も試食会で交流を深めていたため、なかなか気安い雰囲気であった。ロイはわりあい好き勝手な口を叩く人柄であったので、レビやユーミとも相性は悪くないようであるのだ。
そうして《キミュスの尻尾亭》に到着したならば、こちらの屋台を返却する。
そのときに、朝方には姿を見かけなかったテリア=マスが出てきてくれたのだが――どことなく、彼女は元気がない様子であった。
「よう、試食会以来だな。そっちも元気にやってたかい?」
ロイがそのように呼びかけても、「ええ」とはかなげに微笑むばかりである。
屋台を倉庫に片付けている間、ロイはうろんげにレビへと呼びかけていた。
「なあ、あのお嬢さんはどうかしたのかい? もともとつつしみ深い人ではあるんだろうけど、なんだかずいぶんしょげちまってるじゃねえか」
「ああ、うん……色々とね、考えなきゃいけないことがあるみたいだよ」
そのように答えるレビも、ずいぶん歯切れが悪かった。
この一件は、のちの俺たちにも大きな驚きをもたらすことになるのだが――それはまた後日の話である。俺もテリア=マスの様子に後ろ髪を引かれつつ、まずはヴァルカスの一行をお迎えする準備を整えなければならなかった。
ロイも荷車に同乗させて、まずはルウの集落だ。
そちらで待ちかまえていたレイナ=ルウは、リミ=ルウが予言していた通りの喜びをあらわにしていた。
「ヴァルカスが、勉強会に参加してくださるのですか? それはすごいですね! 心から喜ばしく思います!」
「……そんな風に言ってもらえると、俺たちも救われるよ」
そんな風に答えるロイは、レイナ=ルウの幸福そうな笑顔に心底から救われた様子で口もとをほころばせていた。
そうしてレイナ=ルウたちが出立の準備をしていると、広場の入り口から新たな荷車が到着する。しかしそれはヴァルカスの一行ではなく、森辺の民が新たに買い求めたトトスと荷車であった。
「よー、そっちもいま帰ったところかー? こっちのほうが、半刻ぐらいは遅いって話だったのになー」
御者台から降りたルド=ルウが、そんな言葉を投げかけてくる。そして荷台からは老若の女衆と幼子たちが総勢10名ばかりも降りてきたものだから、ロイが目を丸くすることになった。
「こ、こいつは何の騒ぎだい? ずいぶんな大人数じゃねえか」
「んー? こんなちっこい子供だったら、3人で男衆ひとりぶんぐらいだろうからなー。このトトスも、そんなに重そうにはしてなかったぜー?」
荷車から降りた幼子たちは、きゃっきゃと地面を駆け始める。それよりも少し年齢のいっている子供たちは、ひさびさに来訪したロイの姿を興味深そうにじっと見つめていた。
「こいつらは、聖堂の見物に行ってたんだよ。家長会議で、そういう風に取り決められたからよ」
「家長会議? よくわからねえけど……聖堂ってのは、学舎に通えないような子供に読み書きとかを教えたりしてるらしいな。ひょっとしたら、そういう話かい?」
「そうそう。でも、こいつらはちっこすぎて、なーんの実にもならなかったみてーだなー。読み書きやら計算やらを習うのは、5歳ぐれーになってねーと駄目みてーだ」
俺は大いに興味をそそられつつ、「そっか」と話に割り込んだ。
「でも、みんなすごく楽しそうにしてるみたいだね。宿場町の民との交流って意味では、実があったのかな?」
「どうだかなー。こいつらは初めて宿場町に下りたから、興奮してるだけだろ。洗礼で城下町から帰った後も、こんな調子だったしよー」
そんな風に言いながら、ルド=ルウはにっと白い歯をこぼした。
「でもまあ宿場町の子供らとは、楽しく遊べたみたいだなー。な、コタ?」
いつの間にかルド=ルウの足もとに寄り添っていたコタ=ルウが、にこにこと微笑みながら俺の顔を見上げつつ、「うん」とうなずいた。
家長会議から6日が過ぎて、ついに聖堂の見学が開始されたのだ。そのために新しいトトスと荷車を3組買いつけて、本日はルウの血族から3歳から7歳までの幼子を引き連れていったとの話であった。
それに付き添ったのは、老若の男衆と女衆だ。町との絆を深めるのは若い人間の役割であると定められていたものの、まずはあらゆる立場にある人間がこの行いを見定めるべしと、ドンダ=ルウがそのように決定したのだと聞いていた。
「ま、こいつは1日や2日で見定められる話じゃなさそうだ。何日かは男衆が交代で仕事を休んで、一緒に出向くしかねーだろうなー」
「そっか。ルウ家の人たちはいっつも率先して大変な役割を担ってくれるから、本当に感謝しているよ」
「そりゃまあザザやサウティじゃ、そんな気軽に宿場町まで出向けねーからな。普段は買い出しで楽をしてるんだから、そのぶん苦労を背負うしかねーんだろ」
そのように語りつつ、ルド=ルウは幼子たちに負けないぐらい楽しげな様子であった。もとよりルド=ルウは誰よりも頻繁に宿場町まで出向いていたので、こういう役割を苦労と思うこともないのだろう。
「で? そっちは城下町の連中を招いて、勉強会だったよなー。ロイしか見当たらねーけど、他の連中はどうしたんだ?」
「ちょっと事情があって、到着が遅れてるんだよね。なんなら、ルド=ルウも一緒に来るかい?」
「どうせかまど小屋には、俺が入る隙間なんてねーんだろ? 晩餐に出向くのはジーダの役割だし、俺はこいつらの相手でもしてるよ」
ならばと、俺たちも出立することにした。
本日、ルウ家から勉強会に参加するのは、レイナ=ルウとリミ=ルウとマイムの3名だ。普段であればルド=ルウも同席する場面であったのだが、本日は聖堂の様子をドンダ=ルウに報告するという仕事があったため、ジーダがその役を負うことになったのだった。
そうしてファの家に帰りつくと、ジルベとラムに出迎えられる。
さらにかまど小屋では、明日のための下ごしらえをしてくれていたフォウやランの面々がまだ居残っていた。
「せっかくだから、城下町のお人らに挨拶をさせてもらおうと思ってね。……でも、今日はひとりになっちまったのかい?」
「いえ。事情があって、他の方々は到着が遅れているようです」
あちこち寄り道をしていたもので、そろそろ下りの三の刻が近づいている。それでもロイを除く面々は、まだ姿を見せようとしなかった。
フォウやランの人々はロイにだけ挨拶をして帰っていき、俺たちはとりあえず荷下ろしと勉強会の準備を始める。こちら側の参席者はいつもの顔ぶれで、ユン=スドラ、レイ=マトゥア、マルフィラ=ナハム、トゥール=ディンに、先んじて城下町からやってきていたプラティカとニコラの6名だ。
ただし、晩餐をともにする森辺のかまど番は、ルウ家のメンバーのみとなる。あまり大人数だと話がまとまらないし、ロイたちは今後も時間が許す限り森辺におもむきたいと言ってくれていたので、晩餐まで居残る氏族は交代制にしようという話に落ち着いたのだ。
「だからまあ、ヴァルカスとタートゥマイが増えても、そんなに窮屈にはなりませんよ。最近は、10名ぐらいの客人を迎える機会も少なくありませんでしたからね」
「本当に、感謝してるよ。……でも、こういう話は事前に家長の承諾が必要だって話じゃなかったっけ?」
「あ、はい。でも、アイ=ファだったら快く承諾してくれると思いますよ。ヴァルカスもタートゥマイも、知らない相手ではありませんしね」
「本当か? アイ=ファはけっこう、ヴァルカスの態度に苛立つことも多いような印象なんだけど……」
と、ロイは心配そうに眉を下げてしまう。確かにまあ、アイ=ファとヴァルカスはそんなに相性のいい間柄ではないのだ。
「でも、ヴァルカスのことを嫌ったりはしていませんし、最近は料理の出来栄えに感心することも多いですよ。だからきっと、大丈夫です」
俺がそのように請け合えるのは、アイ=ファの気性を重々承知しているためである。もともとファの家に宿泊する予定であったロイたちが、宿場町で宿を取るというのなら――アイ=ファは間違いなく、喜ぶだろうと思うのだ。それは決してロイたちを疎んでいるわけではなく、ただひたすら俺とともに眠ることを望んでいるゆえであった。
(アイ=ファは、甘えん坊だからなあ)
と、俺がたわけた想念にひたりかけたとき――かまど小屋の外に待機していたジルベが「ばうっ」とひと声だけ吠えた。外来の人間が近づいてくる匂いを感知したのだ。
ちょうど勉強会の下準備ができたところであるので、俺たちは総出で母屋のほうに出向くことにする。
果たして、道の向こうから立派なトトス車がやってくるところであった。
城下町にしては珍しい1頭引きであるが、幌ではなく木造りで頑丈そうな車である。その御者台で手綱を握っているのは、ボズルであった。
「どうもお待たせいたしました。ロイがこちらに戻ってこなかったということは、こちらの勝手な申し出に了承をいただけたのですな?」
「はい。ようこそ、ファの家に。ヴァルカスもタートゥマイも歓迎いたしますよ」
「ありがとうございます、アスタ殿。心よりの感謝をお伝えいたしますぞ」
ボズルはロイと異なり、いつも通りの大らかな笑顔であった。これはきっともともとの性格の他に、ヴァルカスとのつきあいの長さも関係しているのだろう。ボズルはロイよりも数年は古くからヴァルカスのもとで修行を積んでいるはずであった。
御者台を降りたボズルはロイに手綱を預けつつ、後部の出入り口へと足を向ける。そうしてそちらの扉が開かれて、ヴァルカスたちが姿をあらわにすると――俺たちは、誰もが呆気に取られることに相成ったのだった。
「……おひさしぶりです、森辺の皆様方。本日は突然の申し出を聞き入れていただき、心より感謝しております」
そのように述べたてたのは、ヴァルカスではなくタートゥマイである。東の血を引くご老人で、身分としては西の民であるが、いつも引き締まった面持ちで表情を崩さない。長身痩躯で目つきの鋭い、どちらかというと森辺の民にも通ずるもののある風貌だ。
その横に並んだシリィ=ロウは、口もとを覆っていた襟巻きを首のほうに下ろしつつ、一礼する。彼女も彼女で砂埃を嫌う質であるため、城下町の外ではそのように対策しているのだ。ただ彼女は、ロイよりも遥かに疲れた顔をしてしまっていた。
それで、主人のヴァルカスであるのだが――そちらは実に、素っ頓狂な身なりをしていた。
まず彼は、素顔をまったくさらしていなかった。あの、調理中に着用する袋状の覆面をすっぽりとかぶり、さらに、目と鼻と口もとに奇妙な器具を装着していたのだった。
俺がまず真っ先に連想したのは、防塵のゴーグルとマスクである。ヴァルカスは鼻や咽喉が過敏すぎて砂埃に弱いという話であったから、まあ間違った連想ではないのだろう。ヴァルカスは砂塵を防ぐために、そのようなものを装着しているのであろうと思われた。
まず目もとを覆っているのは、硝子の細工物だ。眼鏡のように丸くて平たい硝子の板が、覆面に空いた目もとの穴にぴったりと接着されているのである。よほど丁寧に研磨されているらしく、ヴァルカスの緑色をした瞳が歪みもなく見て取れることができた。
そして、鼻と口もとを覆っているのは――やはり、防塵マスクと称するべきなのだろう。ニワトリの肉垂を思わせる袋がだらりと咽喉もとまで垂れており、その先端部だけが細かい網目状になっている。そしてヴァルカスが呼吸をするたびに、その網目からフシューフシューと呼気がもらされて、口もとの袋が大きく収縮するのだった。
(なんか……王都の武官のイフィウスを思い出しちゃうなぁ)
あのイフィウスという御方は鼻と上顎を欠損しているため、その箇所を奇妙な仮面で覆っていた。それで呼気が仮面とぶつかって、このような呼吸音をたてていたのだ。
フェルメスの場合は砂塵の侵入を防ぐために、通気口にとても細かい網を張っているのだろう。それでこのように、SF映画の悪役みたいな呼気をもらしているのだろうと思われた。
「ど、どうも、お待ちしていました。ヴァルカスは、とても念入りな装備でありますね」
ヴァルカスは礼儀正しく一礼したが、何も語ろうとはしなかった。
その代わりに口を開いたのは、やはりタートゥマイだ。
「こちらの装備を装着しておりますと、言葉を届けるのにずいぶん大きな声を発する必要がございます。ヴァルカスの体力を温存するために、会話は必要最低限に留めさせていただいてもよろしくありましょうか?」
「え、ええ、こちらはかまいませんけれど……でも、ヴァルカス自身が大変そうですね」
「砂塵の大部分はこれで防げるかと思われますが、呼吸にいささかの支障が生じてしまいますため、疲弊が溜まりやすいようです。森辺の皆様方にはご迷惑がかからないように取り計らいますので、何卒ご容赦をお願いいたします」
すると、ようやく我に返った様子のレイナ=ルウが、ヴァルカスたちの前に進み出た。
「今日はヴァルカスとタートゥマイまでお招きすることができて、わたしも非常に嬉しく思っています。ルウの家人は晩餐までご一緒させていただく予定ですので、どうぞよろしくお願いいたします」
ヴァルカスはやはり呼吸音をもらしながら、一礼するばかりである。
レイナ=ルウもお辞儀を返しつつ、シリィ=ロウのほうに視線を転じた。
「シリィ=ロウは、ずいぶんお疲れのご様子ですね。あなたとお会いできることも、心待ちにしていました。どうぞよろしくお願いいたします」
「はい。……よろしくお願いいたします」
シリィ=ロウが頭を下げると、そのはずみで涙が一滴こぼれ落ちた。
シリィ=ロウは慌てふためいて、それを手の甲でぬぐう。
「も、申し訳ありません。今日はその、朝から色々と慌ただしかったもので……」
「そうなのですか? お加減が悪くないといいのですけれど……」
レイナ=ルウが心配そうな面持ちになると、シリィ=ロウの目から新たな涙があふれかえってしまう。シリィ=ロウは頭を抱え込むようにして、レイナ=ルウから顔をそむけた。
「あ、あの、そんな目でわたしを見ないでください。な、なんだかやたらと心を乱されてしまうのです」
レイナ=ルウはわけもわからずに心配そうな顔をしていたが、俺にはシリィ=ロウの気持ちがわかるような気がした。さきほどのロイもそうであったが、疲れ果てているときに森辺の民の純真な気持ちをぶつけられると、人は大いに気持ちを揺さぶられてしまうものであるのだ。特にシリィ=ロウはヴァルカスの無茶な振る舞いに反対していたという話であったので、いっそう心労がつのっていたのだろう。
(ロイやシリィ=ロウにこんな苦労をかけたんだから、そのぶん有意義な時間にしたいところだよな)
俺はそんな風に考えながら、ヴァルカスの様子をうかがってみたが――そちらは学芸会の宇宙飛行士のごとき風体で、フシューフシューと不気味な呼吸音を鳴らすばかりであった。