城下町の晩餐会④~余興~
2022.1/21 更新分 1/1
「残る料理は、汁物料理のみとなります。あとはこれまでに食べていただいた料理の中から、お好きなように追加の分をお頼みください」
俺がそのように告げてみせると、デルシェア姫やポルアースは嬉々として追加の料理を頼み始めた。
その間に、俺はフェルメスへとお詫びの言葉を届けさせていただく。
「ギバを使っていない料理は、けっきょく3品しか準備できなかったのですよね。フェルメスには申し訳なく思っています」
「とんでもありません。僕は菓子だけでも口にできれば十分だと、デルシェア姫からお聞きになられていたでしょう? あの素晴らしいかれーを口にできただけで、十分すぎるぐらいです」
そのように語るフェルメスは、追加の料理を頼もうとしない。それで俺は、別種の心配を覚えることになった。
「フェルメスは、もうお食べになられないのですか? もしかしたら、お加減が悪くて食欲がないのでは……?」
「いえいえ。本当にもう、身体は復調しているのですよ。ジェムドがいらぬ話をしてしまったがために、無用の心配をおかけしてしまいましたね」
すると、アイ=ファがもの言いたげにフェルメスを見やった。
フェルメスがどこか甘えるような表情でそれを見返すと、アイ=ファは小さく息をついて、俺に囁きかけてくる。
「あやつはまだ、復調のさなかであるようだな。しかしそれをこの場で語ってほしくはないようだ」
「ああ、やっぱりそうなのか。この場で語ってほしくないっていうのは……主催者であるデルシェア姫の耳をはばかっているのかなぁ」
「どうであろうな。あやつはそもそも、体調を崩していたことを我々にも悟られたくなかったようであったしな」
立場のある人間というのは、体調不良であることを大っぴらにできないという一面もあるのだろうか。なんとなく、俺の故郷の政治家というものも、そういう一面を抱え込んでいる印象があった。
(そういえば、フェルメスが熱を出すのはこれが初めてじゃないもんな。あまり病弱だっていう印象が広まると、外交官の職務を解かれる危険があったりするのかなぁ)
俺がそんな風に考えている間に、最後の配膳が完了した。フェルメスを除く人々の前に、汁物料理と自らが追加した料理がずらりと並べられている。そのさまを見回したポルアースは、「あはは」と愉快そうな笑い声をあげた。
「アイ=ファ殿はもちろん、そちらの女性陣もなかなかの量だねぇ。僕よりも多いぐらいなのではないかな?」
「は、はい。森辺でも、いつもこれぐらいは口にしていますので……」
ユン=スドラがいくぶん恥ずかしそうに答えると、メリムが伴侶にたしなめるような笑顔を向けた。
「どなたがどれだけの料理を召し上がろうとも、それを面白がるのは礼節に欠けた行いであるように思いますわ。うら若き女人が相手であれば、なおさらではないでしょうか?」
「いやいや、そんなつもりはなかったんだよ! むしろ僕は、親しみを覚えたぐらいなのだけれど……お気を悪くさせたのならお詫びをさせていただくよ、ユン=スドラ殿にマルフィラ=ナハム殿」
「い、いえ、とんでもありません」
このような話では、詫びられてもいっそう羞恥心がつのるばかりであろう。それでユン=スドラが小さくなってしまうと、デルシェア姫が大きな声を張り上げた。
「でも、ユン=スドラ様より身体の小さなわたくしのほうが、より多くの料理を頼んでいたようですわ! これはむしろ、ジェノスの貴き方々の食が細いということなのではないでしょうか?」
「いやあ、ごもっともです。我々もデルシェア姫や森辺の方々を見習って、より多くの力をつけなければなりませんな」
デルシェア姫もポルアースも朗らかな表情であったので、これは軽口の応酬であるのだろう。ともに森辺を訪れて以来、両者はずいぶん気安い関係を構築できた様子であったのだった。
ともあれ、食事である。デルシェア姫たちの関心も、速やかに料理の内容へと引き戻された。
「それで、こちらの汁物料理ですけれど……こちらにはそれほど目新しい細工も施していないというお話でしたわね?」
「はい。ダレイムで収穫できる野菜を除いても、ジェノスにはこれだけ豊かな食材が存在するのだということをお伝えしたく思いました」
それはミソを基調にした汁物料理で、思いつく食材をあらかたぶちこんでいる。ダイコンのごときシィマ、ズッキーニのごときチャン、パプリカのごときマ・プラ、サトイモのごときマ・ギーゴ、サツモイモのごときノ・ギーゴ、タケノコのごときチャムチャム、大豆のごときタウ、白菜のごときティンファ、ブロッコリーのごときレミロム、長ネギのごときユラル・パ、小松菜のごときファーナ、カブのごときドルー、レタスのごときマ・ティノ、キュウリのごときペレ――それに、ジャガルのキノコが4種に、ギバの肩肉とバラ肉である。
「ほう……これだけさまざまな食材を使いながら、まったく味が壊れていないというのは、さすがアスタ殿の手腕だねぇ」
その汁物料理を口にしたポルアースは、しみじみとした口調でそんな風に言っていた。
しかし俺は、「いえ」と応じてみせる。
「味の調和が保たれているのは、ほとんどミソの恩恵だと思います。自分が心を砕いたのは、熱の入れ方ぐらいのものですね。それでも3段階に分けて煮込むだけで事足りましたので、大した苦労ではありませんでした」
「では、たとえばヤンやニコラでも、この料理を再現することは可能なのかなぁ?」
ポルアースがそのように発言すると、斜め後方に控えたニコラが挑むように目を光らせた。
そちらに笑顔を送りつつ、俺は「はい」と応じてみせる。
「煮込む時間や調味料の分量などは書き留めることができますので、何も難しいことはないかと思います。そんなにこちらの料理を気に入っていただけたのですか?」
「あ、いや、もちろんこれは素晴らしい料理だけれども、そういう話ではなくてね。ほら、さっき朝の市場で外来の食材も売りに出して、値段を周知させるべきだという話が出ただろう? でも、肝心の味がわからないと、なかなか目新しい食材には手が出ないだろうと思うのだよね」
そう言って、ポルアースはふにゃんと笑った。
「外来の食材を売るかたわらでこういった料理を味見してもらえば、多くの人々の関心を集められるのじゃないかなぁ。ただ煮込むだけでこれほど美味であるならば、誰だって興味をひかれるだろうしね」
「それは素晴らしいお考えですわ! ジェノスにはさまざまな食材が満ちあふれていますけれど、宿場町においてそれを買いつけているのは、ほとんど宿屋の関係者ばかりであるようですものね! 市井の方々も外来の食材を求めるようになれば、いっそう交易が盛んになるのではないでしょうか?」
デルシェア姫は満面の笑みであったが、ポルアースにはいくぶん迷いの表情も見受けられた。
「それはデルシェア姫の仰る通りなのですが……ただ、外来の食材があまりにもてはやされると、ダレイムの畑がよみがえったのちに、そちらの野菜が売れ残ってしまうという恐れが生じてしまうのですよね」
「ダレイムの野菜は素晴らしい品質ですので、そのような心配はご無用かと思います! ……ただもちろん、外来の食材がより多く買われるようになれば、ダレイムの野菜の売り上げが落ちるというのが自然の摂理なのでしょうね」
そう言って、デルシェア姫はいっそう無邪気に微笑んだ。
「その場合は、ダレイムの野菜を交易に回せばいいのですわ。外来の食材を買いつける分、ダレイムの野菜を売り渡せばいいのです。ジェノスにおいてはフワノとママリアが交易の大部分を担っているというお話でしたけれど、あのように素晴らしい野菜を売りに出さないのは惜しい話だと思います!」
「交易ですか。もちろん近在の領地などには、ダレイムの野菜を売り渡しておりますが……」
「それは、長期保存の必要がないぐらい近在の領地ということですわね? それでは交易の幅もたかが知れています。ジェノスの方々は荷車でひと月もかかる南の王都やゲルドとも通商を行っているのですから、ダレイムの野菜も交易で扱えるように長期保存のすべを学ぶべきではないでしょうか?」
それでもポルアースが迷った表情でいると、デルシェア姫はいっそうの熱を込めて言葉を重ねた。
「ポルアース様! ダレイムの野菜の質に関しては、わたくしの父様が高く評価しておられるのです! 父様がダレイムの方々に賞賛のお言葉と褒賞をお与えになられたことは覚えておられるでしょう? ジャガルで一番の美食家たる父様の舌を、どうぞお信じください!」
「デ、デルシェア姫はどうしてそうまで、交易の拡張に熱意を持たれているのでしょうか?」
「それは、わたくし自身が故郷でもダレイムの野菜を味わいたいと願っているからに相違ありません! とりわけ、ダレイムで収穫されるタラパとチャッチとギーゴなどは、王都で口にできるそれらよりも、遥かに上質ですもの!」
そう言って、デルシェア姫はエメラルドグリーンの瞳をきらきらと輝かせた。
「それに父様は、いずれ新たな食材をジェノスにお届けすると仰っていたでしょう? そうすると、きっとゲルドの食材を引き換えにするだけでは足りず、ジェノスの方々は銀貨を支払うことになってしまうはずです。それをダレイムの野菜で補うことがかなえば、ジェノスの方々のお手間や負担も軽減するのではないでしょうか?」
「なるほど……それは確かに、一考に値するお話であるのでしょうね」
と、ポルアースはようやく晴ればれとした笑顔を見せた。
「僕のほうから、ジェノス侯や外務官殿に提言させていただきます。……さ、デルシェア姫はどうぞ食事をお進めください。せっかくの料理が冷めてしまいますからね」
「はい! ついつい熱がこもってしまいました! ポルアース様も、どうぞお食べになられてください!」
そうして両名が食事を再開させると、無言でもりもり食欲を満たしていたアイ=ファが俺の耳もとに口を寄せてきた。
「どうもこの夜は、堅苦しい話が重なるようだな。何か、城下町における家長会議でも見物しているような心地だ」
「うん。さっきはアイ=ファなんかも、それに加わってたけどな」
「ああ、確かに。……ジェノスにはまだ大きな問題がいくつも残されているため、こういった様相になってしまうわけか」
そのように語るアイ=ファは、むしろ満足げな面持ちであるように感じられた。きっとデルシェア姫やポルアースのやりとりに、有意義なものを感じたのだろう。それは、俺自身の心情でもあった。
その後は、しばしやわらかい話題で歓談が続けられる。隣の卓も大いに盛り上がっているようであったが、そちらに聞き耳を立てる隙もないぐらいだ。
そうしてすべての料理が胃袋に収められたならば、最後に菓子が登場する。オディフィアが灰色の瞳を輝かせるさまは、俺も遠目に確認させていただいた。
「今日は、焼き菓子を準備いたしました。2種類あって、どちらにもノ・ギーゴを使っています」
トゥール=ディンがそのように説明すると、デルシェア姫がすぐさま反応した。
「わたくしも厨で拝見して、ずっと胸を躍らせていました! 南の王都の食材たるノ・ギーゴが今度はどのような菓子に仕上げられたのか、本当に楽しみです!」
「は、はい。お気に召したら、幸いです」
ということで、それぞれの卓に菓子が配膳されていく。こちらは各人の好きなだけお召し上がりになれるようにと、大皿から取り分ける様式だ。ピンポン球ぐらいの小さくて丸い焼き菓子で、ごく普通の黄色みがかった生地と、黒褐色の生地をしたものが、等分に積まれている。
「ふむふむ。見た目は、普通の焼き菓子であるようだね。この黒みがかっているのは……察するところ、ちょこれーと味というかな」
ポルアースは甘味も好んでいるため、うきうきとした顔でニコラに取り分けをお願いしていた。ここしばらく何も口にしていなかったフェルメスも、色違いの菓子をひとつずつ所望する。
(この菓子に文句をつける人はいないだろうな)
トゥール=ディンがこちらの菓子を完成させたのは数日前のことであるので、森辺のかまど番はすでに味見をさせてもらっている。ゆえに、気になるのは城下町の面々の反応であった。
その中でもっとも気になるのは、やはりオディフィアであろう。俺は隣の卓からこっそりオディフィアの様子をうかがい――そして、その瞳にさらなる輝きが宿されるのを確認した。
「トゥール=ディン、すごくおいしい」
「ありがとうございます。お気に召しましたか?」
「うん。すごくおいしい」
同じ言葉を繰り返すしかないオディフィアは、もどかしそうに身をよじる。しかしその瞳の輝きと幸福そうなオーラだけで、十分に気持ちは伝わっているだろう。オディフィアを見返すトゥール=ディンの瞳にも、同じぐらい幸福そうな光が宿されていた。
「まあ、これは本当に美味ですわね」
と、こちらの卓ではメリムが感嘆の声をあげる。
そしてデルシェア姫などは、いつぞやのように卓に突っ伏してしまっていた。
「美味です……トゥール=ディン様の作られる菓子には、まったく優劣がつけられません……わたくしはこれまでに食べてきた菓子の中で、トゥール=ディン様の作られる菓子こそがもっとも美味なのではないかと思わされた身であるのですが……その驚きと衝撃を、毎回味わわされているような心地です……」
俺の料理に対しては喜色を爆発させることの多いデルシェア姫であるが、トゥール=ディンの菓子には深く打ちのめされることが多いようだ。
まあそれはともかくとして、こちらの菓子は素晴らしい出来栄えであった。トゥール=ディンが試食会で好評を得たスイート・ノ・ギーゴやラマンパショコラにも引けは取らない完成度であろう。
これは、サツモイモに似たノ・ギーゴをアレンジした菓子であった。
甘みを引き出すためにじっくりと熱を入れたノ・ギーゴに、片方はチョコクリームを、もう片方はラマンパクリームを添加して、焼き菓子の餡としているのだ。
ノ・ギーゴそのものがとても甘いため、クリーム自体の甘さはごく控えめである。そうして食材の甘さを活かした菓子というものは、独特の優しさが生まれるものであるのだろう。とりわけピーナッツに似たラマンパのクリームなどは、気品を感じるぐらいの味わいであった。
これはもともと、ノ・ギーゴの甘みを砂糖の代わりとして使えないかというテーマから出発した菓子であるという。結果として、ノ・ギーゴの甘みだけではなくその風味や食感も存分に活かす形になり、このように素晴らしい菓子が完成されたのだ。かえすがえすも、トゥール=ディンの調理センスというのは人並み外れていたのだった。
「いやあ、トゥール=ディン殿の菓子というのは、本当に秀逸だねぇ。試食会で優勝を果たした力量を、あらためて思い知らされた心地だよ」
そう言って、ポルアースはしみじみと息をついた。
すると、突っ伏していたデルシェア姫ががばりと身を起こす。
「本当ですわね! わたくしは邪神教団によってもたらされた騒乱を、かえすがえすも残念に思います!」
「残念? とは、どういったお話でありましょうかな?」
「アスタ様とトゥール=ディン様は、試食会にて見事に優勝を果たされました! きっと何事もなければ、その勇名が近隣の領地に轟いたはずですのに……邪神教団がおかしな騒ぎを起こしたがために、それを邪魔されてしまったような心地であるのです!」
そんな風に述べてから、デルシェア姫はくりんと俺に向きなおってきた。
「でも、ご安心ください、アスタ様! 父様はお帰りの道中でも、試食会の結果を喧伝しているはずですので! きっと近在の領地のみならず遠方の領地からも、アスタ様の料理を求めてジェノスを訪れる方々が現れることでしょう!」
「あ、いえ、俺は十分に栄誉を賜りましたので……」
「それは謙虚に過ぎるというものです! ……まあ、父様の威光というものは、王都に近づけば近づくほど強まるはずですからね」
そう言って、デルシェア姫はにこーっと微笑んだ。
「父様たちはいまだ帰路のさなかであるはずですから、その影響が出るにはもう少し時間が必要なのでしょう。どうぞ楽しみになさっていてくださいね」
大きな栄誉など求めていない俺は、「はあ」と頼りない言葉を返すばかりであった。もちろん我が最愛の家長殿も、凛々しい表情に内心を隠している。
すると、隣の卓でエウリフィアが「さて」と声をあげた。
「デルシェア姫、菓子を食べ終えてしまう前に、最後の余興に移られてはいかがかしら?」
「あ、そうでした! こちらの菓子があまりに素晴らしい出来栄えであったものですから、ついつい失念してしまいましたわ!」
デルシェア姫の指示に従って、侍女たちが広間の片面を隠していた衝立を除去する。その向こう側で待ちかまえていたのは、城下町の装束を着込んだリコとベルトンに他ならなかった。
ダカルマス殿下の送別会においても、リコたちは傀儡の劇を披露していた。本日も、それと同じ余興が準備されていたのだ。リコたちはここ数日ずっと森辺に逗留していたので、もちろん俺たちもその話は事前に聞いていた。
「本日もわたしどものように卑しき旅芸人をお招きくださり、心より感謝しております。拙い芸ですが、わずかなりともお楽しみいただけたら望外の喜びでございます」
お馴染みの前口上を述べつつ、リコはぺこりと頭を下げる。もうリコたちは数度にわたって城下町に招かれているので、実に堂々とした立ち居振る舞いであった。
「本日お目にかけますのは、わたしどもが新たに手掛けた『マドゥアルの祝福』という物語になります。まだまだ至らない点も多いかと思われますが、ご容赦いただけたら幸いでございます」
貴き人々が上品に拍手を送ったので、俺たちもそれにならうことにした。
『マドゥアルの祝福』というのは、リコたちが銀の月にジェノスを離れてから作りあげた、新たな劇である。リコたちは一昨日ジェノスに戻った際、デルシェア姫からこの仕事をすでに依頼されていたため、森辺の集落でもお披露目を控えていたのだった。
「これは、邪神教団に集落を滅ぼされてしまった自由開拓民の方々から耳にした、ジャガルの古いおとぎ話であるそうですね。ジャガルの王族たるわたくしも聞いた覚えのない物語ですので、とても楽しみです」
リコたちが劇の準備をしている間に、デルシェア姫がそのように言いたてた。
するとフェルメスが、「なるほど」と感慨深そうに声をあげる。
「『マドゥアルの祝福』というのは、本当に古き時代の物語となります。僕もまさか、それを傀儡の劇で拝見できるとは思ってもいませんでした」
「あら、フェルメス様はその物語をご存じであられたの?」
「いえ。簡単なあらすじを聞き及んだばかりで、詳細は存じません。これは楽しみなところでありますね」
そうしてフェルメスが期待の色をあらわにすると、アイ=ファがいくぶん難しげな顔になってしまった。俺たちは以前、フェルメスに不意打ちで『聖アレシュの苦難』という演劇を見せつけられて――それで俺が大きく心を乱してしまったがゆえに、フェルメスとの関係に亀裂が入りかけてしまったのだった。
するとフェルメスが俺たちのほうに向きなおり、なだめるような微笑を届けてくる。その不思議な色合いをしたヘーゼルアイは、「心配いりません」と語っているかのようだ。
まあ、これはリコたちが自主的に作り上げた物語であるのだから、フェルメスには関わりのない話であるのだ。それがたまたま『星無き民』にまつわる内容であることなど、そうそうありえないはずであった。
そんな俺たちの思惑もよそに、傀儡の劇が始められる。
リコが澄みわたった声で「遠い昔のお話です――」と語り始めると、俺の胸にも純然たる期待の気持ちがわきおこった。
それは、ジャガルのどこかにある小さな村落の物語であった。
日照りに苦しむ人々が、神の啓示に従って「神の道」というものを掘り進め――その過程で七小神に助けられるという内容である。
話の内容はいかにもおとぎ話めいていたが、俺にとっては馴染みの薄い小神までもがすべて登場するために、たいそう興味深かった。
それに、新調したという傀儡の衣装が、また素晴らしい。特に最後の水神ナーダなどはきらきらと輝く青い鱗を持つ大蛇であり、その美しい本性があらわにされるとほとんどの人々が感嘆の声をあげることになった。
「……『マドゥアルの祝福』、これにて終幕でございます」
リコとベルトンが舞台の裏から出てきて一礼すると、人々は惜しみない拍手で両名をねぎらう。もちろん俺も、そのひとりであった。
「いやあ、素晴らしい! 君たちの傀儡の劇を拝見するのはずいぶんひさびさであったけど、以前よりも数段腕が上がったのではないのかな!」
「本当ですわね。すっかり物語の中に引き込まれてしまいました」
ポルアースとメリムはそのように語らっていたし、オディフィアも常ならぬ熱心さでぺちぺちと手を叩いていた。彼女がトゥール=ディンの菓子以外でこのように昂揚するのは、ちょっと珍しいかもしれない。なおかつ、『星無き民』などとは縁もゆかりもない物語であったため、アイ=ファも安らかな表情を取り戻していた。
ともあれ、少人数の見物客であったが、大盛況である。リコは白い頬を火照らせて、心から誇らしそうだった。
「傀儡使いのみなさん、どうもありがとう。それでは控えの間で、ゆっくりおくつろぎになられてね」
「はい。それでは、失礼いたします」
もとの位置に衝立が戻されて、リコたちの帰り支度は隠されることになった。この後、彼女たちは俺たちと一緒に城下町を出て、森辺に向かうのだ。
「本当に素晴らしい劇でしたわね! フェルメス様にもご満足いただけたでしょうか?」
デルシェア姫に水を向けられると、フェルメスはどこか夢見るような眼差しで「はい」と応じた。
「これほど古い物語の内容をつぶさに知ることができて、僕は心から嬉しく思っています。おそらく、これは……四大王国の黎明期の物語なのでしょうね」
「まあ、それじゃあ600年ばかりも昔の物語ということなのですか? それほど古い物語が、こうまでつぶさに語り継がれるものなのでしょうか?」
「あくまで、僕の推測です。この物語には、七小神への畏敬の念を強く感じましたので……そのように思えるのかもしれません」
とても静かな声音で、フェルメスはそう言った。
緑と茶色の入り混じった瞳が、じわじわと輝きを増していく。
「この大陸の民は、かつて大神と十四小神を信仰していました。それが大神の眠りとともに、七つの小神も眠りに落ちたわけですが……新たに生まれた四大神の子となった我々の祖は、半分の数に減じてしまった小神への敬服を忘れてしまわないように、数々の物語を生み出したようであるのです。その多くは、600余年の歳月で風化してしまったようですが……それはきっと、七小神への敬服が魂に刻まれて、教訓めいたおとぎ話も不要になったということなのでしょう」
「なるほど。さすがフェルメス殿は、博識であられますな。……それで、眠りに落ちた神々を無理に揺り起こそうというのが、邪神教団であるわけですか」
ポルアースが控えめに発言すると、フェルメスは「ええ」とうなずいた。
「十四小神というのは、対の存在として定められていました。太陽神アリルには生命神ケルヘル、月神エイラには薬神ムスィクヮ、運命神ミザには調和神ダッバハ……そして、水神ナーダの対となるのが、同じく水神にして蛇神たるケットゥアであったのです」
「……蛇神ケットゥアというのは、先日の邪神教団が信仰していた神ですな?」
「はい。『マドゥアルの祝福』における水神ナーダは地下水によって日照りに苦しむ村人を救い、邪神教団は洪水によって自由開拓民の村落を滅ぼしました。こういった符号が、この世界の真実というものを表しています。神々を間違った形で信仰すれば、人の世に災厄をもたらすということですね」
フェルメスの瞳がすべてを包み込むような光をたたえて、俺たちを見回してきた。
俺は思わず背筋をのばすぐらいで済んだが、ユン=スドラなどはびくりと肩をすくめてしまっている。それほどに、フェルメスの眼差しはあまりに底が知れなかった。
「ナーダとケットゥアは対の存在であり、上も下もないのです。ナーダが光でケットゥアが闇というのは……対になる神々のどちらかが大神の供として眠らざるを得なかったという結果にすぎません。時が至れば、ケットゥアも大神アムスホルンとともに覚醒し、再び光の神として幸いをもたらしてくれるのですから……その眠りをさまたげて、ケットゥアを闇の存在として扱うことこそが、最大の罪であるのです。だから僕は、邪神教団というものをどうしても容認できないのでしょう。彼らは魔術文明の再興という妄念に取り憑かれて、眠れる神々をも利用しているのです。彼らこそ、神々を穢す存在であるのです」
「だからフェルメス様は、邪神教団が騒乱を起こした際に、あれほど尽力してくださったのですね」
と――デルシェア姫がとてもやわらかい声音でフェルメスの長広舌をさえぎった。
フェルメスは、夢から覚めたようにそちらを振り返る。
デルシェア姫は、慈愛に満ちあふれた表情で微笑んでいた。
「わたくしの父様やジャガルの王陛下も、邪神教団を何よりも忌避しています。勉強の足りていないわたくしには、まったく及びのつかないお話なのですけれど……わたくしは、父様たちの正しさを信じておりますわ。そして、同じ思いを抱いておられるフェルメス様のことも、信頼し、敬服いたします」
「……僕など、浅はかな学士くずれに過ぎません。責任ある王族の方々などとは、比べるべくもないでしょう」
そのように語るフェルメスは、もう普段の優美さを取り戻していた。
ユン=スドラはほっとした様子で息をつき、アイ=ファも張り詰めていた気配を解く。俺もまた、いつの間にか握りしめていた拳を開くことになった。
(やっぱり……ジェノスが邪神教団の脅威を退けることがかなったのは、ダカルマス殿下とフェルメスとアリシュナが居揃っていたからなんじゃないのかな)
俺は、そんな思いを新たにしていた。
市井の人々にとっては、邪神教団などおとぎ話の登場人物ぐらい縁遠い存在であるのだ。しかし、邪神教団に対してはっきりとした危機感を持つダカルマス殿下とフェルメスとアリシュナが居揃っていたことで、ジェノスの人々は迅速に対応することができた――きっと、そういうことなのだろう。
「邪神教団の恐ろしさは、僕らも骨身にしみることになりました。今後はその思いを忘れることなく、彼らに傷つけられたジェノスの再興に臨もうと思います」
ポルアースが、とてもゆったりとした表情でそのように言いたてた。
そしてその目が、温かい光を宿して俺のことを見つめてくる。
「このような時世に美味なる料理で力づけてくれるアスタ殿も、まぎれもなくジェノスの復興を担っているおひとりなのだね。僕はようやく、それを実感できたような気がするよ。これからも、何かとお世話をかけることがあると思うけれど……どうぞよろしくお願いするよ」
「はい。俺にできることがあれば、何でもご遠慮なくお申しつけください」
そんな風に語らう俺たちの姿を、デルシェア姫はとても満ち足りた眼差しで見守ってくれている。
かつてダカルマス殿下は試食会を開催することによって、ジェノスのさまざまな立場にある人々を結びつけてくれたわけであるが――この夜の晩餐会も、少しご縁が薄くなっていた森辺の民とジェノスの貴族の間を取り持ってくれたような心地であった。
「では、もう一杯だけお茶をいただいて、本日の晩餐会は終了ということにいたしましょう。森辺の皆様方、本日はこのように楽しいひとときを準備してくださり、本当にありがとうございました」
「いえ。こちらこそ、このように楽しい晩餐会の厨をお預けくださって、ありがとうございました。いずれ情勢が落ち着いたら、ぜひ森辺にもお招きさせてください」
俺がそのように答えると、デルシェア姫は心から嬉しそうに微笑んでくれた。
そうしてその有意義で心温まる一夜は、ようやく終わりを迎えることに相成ったのだった。