城下町の晩餐会①~下準備~
2022.1/18 更新分 1/1
それから紆余曲折を経て、城下町の晩餐会は白の月の4日、ロイたちを招く勉強会は6日に開かれることになった。
どちらも打診があったのは白の月の2日であるのだから、かなりのスピード裁決といえるだろう。ララ=ルウから事情を聞いたミーア・レイ母さんはその日のうちにザザとサウティに使者を走らせ、翌朝にはもう各族長から了承の返事をいただいてみせたのだった。
「こっちに日取りを任せてくれるっていうんなら、早いに越したことはないだろうからね。ドンダを含めて、みんな快く了承してくれたよ」
こうしてドンダ=ルウが不在である日中の間に使者を走らせることも少なくなかったため、ミーア・レイ母さんもずいぶん手馴れてきたということなのであろう。まったくもって、心強い限りであった。
そんなわけで、まずは城下町の晩餐会である。
俺たちは予定通り屋台の商売を片付けたのち、半休で仕事を切り上げた護衛役の狩人と合流し、城下町を目指すことになった。
かまど番は5名で、俺、レイナ=ルウ、ユン=スドラ、マルフィラ=ナハム、トゥール=ディン。護衛役は3名で、アイ=ファ、ルド=ルウ、ゼイ=ディンという顔ぶれだ。荷車の手綱はアイ=ファが握り、ルド=ルウとゼイ=ディンはそれぞれトトスにまたがった騎兵スタイルである。帰りが夜半に及ぶということで、護衛役はいくぶん補強されていた。
「ゼイ=ディンが参席すれば、オディフィアも喜ぶだろうね。今日も美味しいお菓子をお願いするよ」
道中で俺がそのように呼びかけると、トゥール=ディンはたいそう嬉しそうに「はい」とうなずいた。オディフィアには3日にいっぺん菓子を届けているが、本人と対面するのは半月以上ぶりであるのだ。
また、嬉しそうにしているのはトゥール=ディンばかりでなく、レイナ=ルウもユン=スドラも今日は朝からご機嫌の様子であった。きっとみんな、ひさびさの城下町が楽しみでならないのだろう。ここ最近は森辺に客人を招くぐらいしかイベントらしいイベントもなかったため、誰もがこういった機会を心待ちにしていたようであった。
やがて城門に辿り着いたならば、見覚えのある南の侍女と武官が待ち受けている。そしてそのかたわらには、トトス車の手綱を握ったジェノスの武官の姿もあった。
「お待ちしておりました、森辺の皆様方。通行証はポルアース様が準備してくださいましたので、こちらの車に移動をお願いいたします」
帰りが夜半に及ぶ場合は特別に城門を開けてもらわなければならないため、貴族の準備する通行証が必要となるのだ。
それはともかくとして――御者役として待機しているのは、時おりお世話になる初老の武官であった。
「どうも、お疲れ様です。ガーデルは、お休みなのですか?」
「ええ。ガーデルは古傷が悪化してしまいましたため、このひと月ほどは休養しておりますな」
「えっ! ひょっとして、宿場町で飛蝗を相手取ったのが原因なのでしょうか?」
「ああ、あれは森辺の方々の屋台を訪れた際の出来事ということでありましたな。左様、あやつは無茶な暴れ方をしたがために、せっかく繋がった肩の筋をまた痛めてしまったようなのです。5日ほどは熱が引かずに、たいそう苦しい思いをしたようですな」
そう言って、初老の武官は苦笑めいた表情を浮かべた。
「仮病を使って職務を投げ出したあげく、無茶な真似をして古傷を痛めたというのですから、本来であれば懲罰ものなのですが……あやつには大罪人シルエルを仕留めたという武勲もありますし、このたびばかりは許されることとなりました。肩の痛みがおさまったならば、またこちらで顔をあわせる機会もありましょう」
「そうですか……どうぞお大事にとお伝えください」
そうしてトトス車に乗り込むと、ルド=ルウがけげんそうに呼びかけてきた。
「どうしたんだー? アスタは浮かねー顔をしてるみたいだなー」
「ああ、うん。ガーデルが仮病を使ってまで宿場町にやってきたのは、俺たちを心配してくれてのことだったからさ。なんだかちょっと、申し訳ない気がしちゃって」
「虚言を吐いたのはあいつの罪なんだから、アスタが気にする必要はねーさ。……でもまああいつは、アスタがからむと妙にムキになるみたいだよなー」
ルド=ルウの言葉に、アイ=ファも「うむ」とうなずいた。
「アスタたちを荷台に避難させて、それを守っている間も、あやつは尋常ならぬ様子でいきりたっていた。飛蝗がアスタに害を為すなら皆殺しにしてくれん、という勢いであったな」
「あー、普段はオドオドしてるくせに、すっげー気迫を撒き散らしてたなー。アスタによっぽどの恩でもあるのかと思っちまったよ」
「いや、シルエルを退治してくれたってことで、こっちが恩に思ってるぐらいなんだけどね」
しかし確かに、ガーデルは時おり俺に対する執着を垣間見せる。飛蝗を相手に大暴れしたのも、その一環であるのだ。
「よくわかんねーやつだよなー。案外、アスタに恋情でも持ってんじゃねーの?」
俺はがっくりと脱力し、アイ=ファは心から嫌そうな顔をした。
「ルド=ルウよ。ガーデルはあれほどに真剣な思いでアスタに心を寄せているのだから、それを茶化すような言葉は控えるべきであるように思うぞ」
「フェルメスのやつだって、最初はアスタに恋情でも抱いてんじゃねーかとか、カミュアのおっさんに言われてたんだろ? 森辺の外では、そういう話もなくはないみたいだしなー」
そんな風に言ってから、ルド=ルウは「にっひっひ」と笑った。
「ま、あいつがどれだけアスタを大事にしてるかは、あの日にハッキリしたからなー。ちっとばっかり胡散くせーところはあるけど、顔をあわせたら労ってやればいいんじゃねーの?」
「うん。俺もそのつもりだよ」
ガーデルが胡散臭いというのは、どうして俺などに執着しているのか、いまひとつ理由が判然としないためであろう。俺自身、彼にはつかみどころのないものを感じる場面が多々あったのだった。
(そういえば……いつだったか、クルア=スンがガーデルに対して予感めいたものを感じたってことがあったっけ。そういう話をむやみに口外するべきじゃないって言ったのは、俺だけど……あれはいったい、何だったんだろう)
俺がそんな想念を抱きかけたとき、トトス車が停止した。
到着したのは、白鳥宮だ。本日は、この場所で晩餐会が開かれるのだった。
小宮の入り口にも、ジャガルの兵士が2名ほど立ち並んでいる。城門から追従していた兵士はそちらと敬礼を交わしてから、小宮の内部でも俺たちにひっついてきた。
小宮の案内をしてくれるのはジェノスの小姓であるが、南の侍女もまだ行動をともにしている。そして浴堂で身を清める際は、その侍女が女衆に同行していた。
「どうもあのデルシェアという姫君は、なるべく自分の従者に仕事を受け持たせようとしているようだな。やはり、ジェノスの貴族に手間をかけさせまいという心情の表れなのだろうか?」
男性陣が身を清める際には、ゼイ=ディンがそのように語らっていた。
しなやかな体躯のあかすりに励んでいたルド=ルウは、「そうかもなー」と気安く言葉を返す。
「ま、どうせ従者は有り余ってるんだろうからよ。あのデルシェアってやつと一緒に、3人の侍女と10人の武官がジェノスに居残ってるってんだろ?」
「うん。俺としては、武官が少ないぐらいだと思ったけどね。でもまあ城下町から出なければ、別に問題はないのかな」
城下町の治安のよさは、俺たちも伝え聞いている。それに、滞在中のデルシェア姫にもしものことがあったら国際問題に発展しかねないのだから、ジェノスの貴族たちも全力で彼女を警護しているはずであった。
そうして浴堂を出たならば、俺にだけ調理着の着替えが準備されている。本日も護衛役の人々は、武官のお仕着せへの着替えを免除されたようだ。
女衆のほうも、かまど番は調理着か侍女のお仕着せで、アイ=ファは普段通りの姿である。しかし晩餐の時間には護衛役の面々も城下町の装束に着替えさせられるはずであるので、アイ=ファは俺がプレゼントした飾り物の一式を持参している。俺にとっては、それもまたひそかな楽しみに他ならなかった。
「それでは、厨にご案内いたします」
侍女と小姓の案内で、俺たちは厨に移動する。
するとそこには、満面に笑みをたたえたデルシェア姫ばかりでなく、プラティカにニコラにジェムドまでもが控えていたのだった。
「森辺のみんな、ひっさしぶりー! 半月ぶりだけど、元気にやってたかな?」
他には貴族の目もないということで、デルシェア姫は日常モードであった。
アイ=ファたちは目礼を返すばかりであったので、俺が代表して挨拶をさせていただくことにする。
「はい。森辺の狩り場も落ち着いて、ほとんど平常に戻ったようです。これもダカルマス殿下が邪神教団の討伐に協力してくださったおかげですね」
「うんうん! それなら、何よりだったよ! 今日はひさびさにじっくり見物させてもらうから、どうぞよろしくね!」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
俺が笑顔を返してみせると、デルシェア姫はいっそう嬉しそうに、にこーっと微笑んだ。本当に、ディアルに負けない無邪気さと朗らかさである。
半月前の送別の晩餐会でも、デルシェア姫は同じ姿を見せていた。そしてさらにその半月前の礼賛の祝宴では――夜のバルコニーで、俺に対する恋心を打ち明けていたのだ。
しかしあれは、今後も俺と気兼ねなくつきあっていくための告白であったという。だから俺は心の片隅に生じる申し訳なさや後ろめたさをねじ伏せて、普段通りに振る舞っており――そんな俺の態度に、デルシェア姫はこの無邪気な笑顔を返してくれているのだった。
(きっとデルシェア姫は、子供っぽい部分と大人っぽい部分が入り混じってるんだろうな)
そんな思いを噛みしめながら、俺はデルシェア姫のかたわらに控える人々を見回した。
「ところで、プラティカとニコラもご一緒だったのですね。彼女たちは、やっぱり晩餐会には参席できないのですか?」
「うん! なるべく少人数でってお達しだったから、今日のところは遠慮してもらったよー! ま、このおふたりとはダレイム伯爵家のお屋敷でもしょっちゅう顔をあわせてるしね!」
そういった話は、俺もプラティカからうかがっていた。プラティカが城下町に留まる際は、おおよそダレイム伯爵家のお世話になっているそうなのだが、ここ半月だけでデルシェア姫をお招きする機会が数回あったのだそうだ。
「だから今日は、厨の見物だけね! よかったら、このおふたりには味見をいーっぱいさせてあげてくれない? わたしは晩餐でいただくから、味見も必要ないしね!」
「承知しました。……それで、そちらのジェムドは――」
「いちおう、見届け役だってさ! ま、王都の外交官殿としては、わたしと森辺の民の接触を見張る必要があるんだろうねー!」
それでフェルメスがジェムドひとりを差し向けるというのは、ちょっと珍しい話である。
俺がそのように考えていると、明敏なるデルシェア姫が「あはは」と笑った。
「アスタ様は、聞いてなかったのかな? フェルメス様は病み上がりだから、大事を取って休んでるんだってよー! 本番は晩餐会のほうなんだから、ここは大人しくしておこうって算段なんじゃない?」
「え? フェルメスは体調を崩されていたのですか?」
俺がジェムドのほうに向きなおると、そちらには沈着きわまりない顔が待ちかまえていた。
「はい。フェルメス様は邪神教団に対してあれこれ思案を巡らせており、ほとんど不眠不休でありましたため、熱を出されてしまいました。ダカルマス殿下の送別会の際には、いったん持ちなおしたのですが……その後に、またぶり返してしまったのです」
「へー。だけど、討伐の部隊がジェノスを出てからは、頭を悩ませる話なんてなかったんじゃねーの?」
ルド=ルウがそのように口をはさむと、ジェムドは落ち着いたバリトンの声で「いえ」と応じた。
「討伐部隊の出兵中こそ、何が起きても対応できるようにとさまざまな算段を立てておられたご様子です。それらの算段を持ち出すまでもなく事態が収束したことを、フェルメス様はたいそうお喜びのご様子でした」
「へー。だったら、あんたがジェノスに戻ってきたとき、フェルメスはへろへろだったわけだ? そいつはあんたも、ずいぶん心配だったろうなー」
ジェムドはいっかな感情を覗かせることなく、ただ「はい」とだけ答えていた。
それにしても、ガーデルだけでなくフェルメスまで床に臥していたとは、難儀な話である。それもこれも、邪神教団の巻き起こした騒乱の余波であるに違いなかった。
「ま、こっちの事情は、そんなところだねー! 納得いったら、さっそく作業を始めてもらえる?」
子犬のように瞳を輝かせながら、デルシェア姫はそのように言いたてた。半月ぶりの厨の見学を、それだけ楽しみにしてくれていたのだろう。
そんなデルシェア姫の周囲を警護する兵士は、2名だ。その片方は俺が唯一名前を知っている若き武官の、ロデである。東の民たるプラティカの同席にどのような思いを抱いているのか、今日も彼は警戒心を剥き出しにした面がまえであった。
ちなみにこちらはゼイ=ディンが扉の外に居残って、アイ=ファとルド=ルウが控えてくれている。小姓や侍女も扉の外であったものの、かまど番が5名にそれ以外の人間が8名で、なかなかの人口密度になっていた。
「この半月ほど、デルシェア姫は城下町で勉強を進めておられたのですよね?」
おしゃべり好きのデルシェア姫のために、俺は作業場を整えながらそのように呼びかけてみた。俺たちの手の先を目で追いながら、デルシェア姫は「うん!」と元気な声をほとばしらせる。
「僕が見学をお願いするようなお人たちは、みーんなダレイムの野菜を扱えなくってさ! 誰も彼も、苦労してるみたいだったよー! 一番うまくやってるのは、やっぱりアスタ様たちなんじゃないのかなあ」
「そうですか。それは光栄なお言葉です」
「うん! そりゃあジェノスは世界中の食材が集まってくる場所だけど、ジェノスの料理人だったらジェノスの食材を基調にするのが当然だからねー! それでも立派な料理を作れるようにって、みんな頑張ってるみたいだよー!」
いよいよ楽しげな口調になりながら、デルシェア姫はそのように言葉を重ねた。
「ただ残念だったのは、ヴァルカス様かなあ。ヴァルカス様は朝から晩まで香草の調合で、しかも喋りかけると気が散るっていうから、見学のし甲斐がなかったよー。ヴァルカス様から調理を学ぶのは、ちょっとばっかり大変みたいだねー」
「そうですね。むしろヴァルカスのお弟子さんを間にはさんだほうが、理解しやすい面もあるんじゃないでしょうか? 」
「あーっ! お弟子といえば、今度あのお人たちは森辺にお招きされるんでしょ? いいなあ! 本当だったら、わたしもひっついていきたかったよー!」
と、デルシェア姫は子犬のように、俺にすりよってきた。
壁際のアイ=ファがぴくりと反応したが、デルシェア姫の身はぎりぎりで俺の装束に触れていない。いちおうは、森辺の習わしを重んじてくれているのだ。
「でも、城下町の外に出るとなると、ジェノスから護衛の兵士を借りないといけないからさー。ジェノス城のお人らはまだバタバタしてるみたいだから、もうちょっと猶予をあげたいんだよねー」
「ご立派だと思います。お弟子さんたちの来訪はこれっきりではないはずですので、いずれ是非ご一緒にお招きさせてください」
「うん! ありがとー! アスタ様は、優しいなあ」
デルシェア姫は本当に、俺の身に鼻でもすりつけてきそうな勢いであった。
しかしまあ、これこそが気兼ねなく振る舞っているという証であるのだろう。デルシェア姫はあの夜に、涙をこぼしながら真情を打ち明けてくれたのだから――俺がその言葉を疑うことはなかった。
「そういえば、リフレイア姫もアスタ様の家にお招きしたんだって? アレのおかげで、ちょっと流れが変わってきたみたいだよ!」
「はい? 流れといいますと?」
「うん。ジェノスの貴族たちって、大がかりな祝宴なんかを自粛中でしょ? ダレイムの畑の再興のために、寄付なんかも募ってたしさ。……でも、リフレイア姫はファの家にお邪魔しても、謝礼の銅貨を支払ったりはしてないよね?」
「はい。そういったお話は、こちらでもお断りしていますので。でも、心づけとして果実酒をいただきましたよ」
「果実酒の値段なんて、たかが知れてるからね! そうやって、貴族は銅貨を無駄につかわずに楽しむべきっていう流れが生まれたわけさ。そんな何ヶ月も縮こまってたら、貴族のお人らだって鬱憤がたまっちゃうだろうしねー!」
そう言って、デルシェア姫はにっこりと微笑んだ。
「だからわたしも追い打ちをかけようと思って、この晩餐会を企画したんだよ! 規模の小さな晩餐会なら、謝礼の銅貨も大したことないじゃん? これからは、ジェノスの貴族たちもまた森辺のみんなに厨を預けようとするんじゃないかなあ」
「本当ですか?」と反応したのは、レイナ=ルウであった。
デルシェア姫はそちらに向きなおり、同じ笑顔で「うん!」とうなずく。
「サトゥラス伯爵家のお人らなんかも今日の話を聞きつけて、それなら自分たちも! って思い始めたみたいだよ。ただ、そこでわたしが余計な提案をしちゃったんだけど……」
「余計な提案?」
「うん。これまでは森辺の料理人を城下町に招くときって、普通よりも多額の謝礼を支払ってたんでしょ? それはもう取りやめてもいいんじゃないかって提案しちゃったの。謝礼が多額になっちゃうと、けっきょく無用の贅沢ってことになっちゃうからさ」
「へー」と声をあげたのは、ルド=ルウであった。
「森辺のかまど番って、そんなに特別あつかいだったのか? 城下町の仕事でどれだけの銅貨を受け取ってるかなんて、俺はまるきり覚えちゃいねーけどさ」
「お、お茶会などでは、最低でも白銅貨20枚の褒賞で、わたしなどは白銅貨50枚をいただいたこともあります。あの短い時間でそれほどの代価をいただくのは、前々から心苦しく思っていたのですが……」
と、トゥール=ディンもおずおずと発言する。
俺の感覚で言うと、白銅貨20枚は4万円、50枚なら10万円という価値であるのだから、やはりなかなか高額な褒賞ということになるのだろう。
「一流の料理人ならお茶会でも白銅貨20枚はまずまずだけど、50枚ってのは破格だよ。でも、そうなったのは理由があるんでしょ?」
「はい。ジェノスの貴族が気軽に森辺の民を呼びつけられないように、あえて高額に設定されたのだと聞いた覚えがあります」
俺がそのように答えると、デルシェア姫は満足そうに首肯した。
「トゥール=ディン様はまぎれもなく、ジェノスで一番の菓子職人だけどさ! そうだからこそ、謝礼の額は力量に見合ったものに設定するべきだと思うよ! 他の理由で高額になっちゃうんじゃあ、トゥール=ディン様の力量を疑われかねないからね!」
「わ、わたしの評判はどうでもいいのですけれど……それでデルシェアは、すべての謝礼を普通に戻すべきだと提案されたということなのですね?」
「うん。部外者のわたしが口を出すべきじゃないかもしれないけど、なんか、そういうのって気持ちが悪いんだよね! 森辺の民を守るために、森辺の民を特別あつかいするって、なんかおかしくない? そんなえこひいきをされてたら、森辺の民が他のお人らから無用の反感を買っちゃうかもしれないじゃん!」
デルシェア姫は無邪気な笑顔のままであったが、その小さな身体に王族らしい風格がふわりと漂ったように感じられた。
「貴族がひょいひょい森辺の民を呼びつけるのが迷惑だってんなら、まず貴族のほうがきっちり自制して、森辺の民にも依頼を断る権利を与えればいいんだよ! そうしたら、無用の苦労を背負うこともないでしょ? 森辺の民はこんなにしっかりしてるんだから、謝礼を高額にするなんていうおかしなやり口で守る必要はないと思うんだよねー!」
「それはきっと、デルシェアがこれまでの経緯を見届けていないゆえなのだろうと思う」
とても静かな声で、アイ=ファがそのように発言した。
アイ=ファに対して多少の警戒心を抱いているロデはいっそう張り詰めた顔をしたが、デルシェア姫は興味深そうに瞳を輝かせる。
「それってつまり、昔はこのやり方が有効だったってこと?」
「うむ。我々はジェノスの貴族と確かな絆を結ぶべしと決めてから、ようやく2年に至ろうかというていどであるのだ。今でこそ、さまざまな場でさまざまな相手と縁を持つことがかなったが……2年前には数えるていどの相手しか見知っていなかったし、貴族がどのような性根をしているのかも判然としなかった。その頃には、何か特別な取り決めでもって絆を保つ必要があったのであろうと思う」
「ふむふむ。謝礼を高額に設定しておかないと、貴族たちはのべつまくなしに森辺の料理人を呼びつけようと考えかねないし、森辺の民もそれをどんな風に扱えばいいかわからなかったってこと?」
「まさしく、その通りであろうな。当時はギバ肉も宿場町の一部でしか売られていなかったため、城下町では口にするすべもなかったのだ。そこでアスタは初めて城下町でギバ料理をふるまい、ジェノスの領主たるマルスタインがいたく賞賛したために、たいそうな評判を呼ぶことになった――という話であったな?」
「うん。懐かしい話だな」と、俺はアイ=ファに笑顔を向けてみせた。
「それでその後、トゥール=ディンがオディフィアに見初められることになったんだけど、それはあくまで幼い姫君の我が儘な振る舞いだって周知されることになったんだよ。そうしないと森辺のかまど番に依頼が殺到しちゃうんじゃないかって、エウリフィアが気をきかせてくれたわけだな」
「うむ。そのようにして、エウリフィアを始めとするジェノスの貴族たちは我々の生活を守ろうと心を砕いてくれていたのだ。それは決して間違った行いではなかったのだと、私はそのように信じている」
「じゃあやっぱり、わたしの提案は余計なお世話だったかな?」
デルシェア姫の問いかけに、アイ=ファは「いや」と首を横に振った。
「森辺の民もジェノスの貴族も、この2年の交流でずいぶんおたがいのことを理解し合えたのではないかと思う。さらに正しく絆を深めていこうと願うならば、特別な取り決めなどはひとつずつ廃していき、より正しき道を模索するべきであろう」
「わたしも、そのように思います」と、レイナ=ルウも熱のこもった声で言いたてた。
「それに当時は、城下町のかまどを預かれるような人間もごくわずかでした。というよりも、茶会の菓子であればトゥール=ディンとリミも受け持つことがかないましたが、晩餐の支度であればアスタを呼びつけるしかなかったはずです。それでアスタに無用の苦労を負わせないように、貴族の方々はあれこれ心を砕くことになったのではないでしょうか?」
「なるほど! そういえば、以前にサトゥラス伯爵家の晩餐会を引き受けたのはあなただったんだよね、レイナ=ルウ様? ここ最近で、ようやく他のお人らも晩餐会の厨を預かれるぐらいの力量になったってわけかぁ」
「はい。それに森辺のかまど番は、宿場町にて手ほどきの仕事を受け持っていました。そちらは決して多額の謝礼などではなく、町の相場にあわせた額であったのです。わたしたちは城下町よりも宿場町のほうが馴染みが深かったため、より早く正しき道を進むことができたのでしょう」
「それじゃあ、わたしの提案を正しいことだと判じてくれたのかな?」
「はい。わたしも特別な取り決めではなく、自分の力量に見合った代価をいただきたく思います。力量に見合わない代価をいただくなどというのは……誇りを傷つけられることにも通ずるはずです」
レイナ=ルウは真剣そのものの面持ちであり、それと向かい合うデルシェア姫は満面の笑みであった。
「やっぱりわたしは、あなたたちが好きだなあ。たぶん、考え方の根っこが同じ質でできてるんだよ」
「はい。わたしも、そのように感じました」
レイナ=ルウも表情を崩して、デルシェア姫に笑いかけた。
デルシェア姫は満足そうにうなずいて、アイ=ファのほうにくりんと向きなおる。
「あなたとも心が通じたみたいで、嬉しいな。アスタ様に執着するわたしは、きっとあなたに疎まれてるだろうと思ってたからさ!」
「いや、べつだん疎んでいるわけではないのだが……」
と、アイ=ファは曖昧な表情で口もとをごにょごにょさせる。
その姿を見て、デルシェア姫はいっそう楽しげに微笑んだ。
そして俺のもとには、ユン=スドラとマルフィラ=ナハムがおずおずと呼びかけてきたのだった。
「あの、アスタ、調理の準備が整いましたので、作業を開始してもよろしいでしょうか?」
「え? あ、ごめん! すっかり話に夢中になっちゃってたよ!」
「あはは。心強い調理助手がそろってるね、アスタ様! ますます晩餐が楽しみになってきたよ!」
デルシェア姫は、屈託なく笑い声を響かせる。
それで俺たちは、ようよう作業に取り掛かることに相成ったのだった。