序 三度目の白の月
2022.1/17 更新分 1/1
・今回の更新は全9話です。
俺にとって3度目となる、白の月がやってきた。
俺がこの地で初めて迎えた白の月というのは、ものすごく印象に残されている。何故ならそれは、俺がリフレイアにさらわれたのち、サイクレウスやシルエルと決着をつけることになった時期であるためであった。
あの頃は、本当に殺伐としていたように思う。俺の誘拐というのは完全にイレギュラーな事件であったものの、森辺の民はジェノスの領主の代理人たるサイクレウスと敵対していたのだから、それも当然の話であるのだろう。
ぱっと思いつくだけでも、森辺の狩人に扮した盗賊団がダレイムの畑を襲ってドーラの親父さんに手傷を負わせることになったり、ズーロ=スンを捕らえていたザザの集落に不審者が侵入したり、森辺の民を父親の仇と見なしたジーダが出没したり――スン家の問題が片付いたばかりであるというのに、まったく気を休めるいとまもなかったのだ。
それも今にして思えば、森辺の民がジェノスの貴族を頼ることのできない孤立無援の立場であったためなのであろう。それまでに森辺の民と接見していた貴族はサイクレウスただひとりであり、その娘であるリフレイアも当時は俺を誘拐するような人間であったのだ。
また、メルフリードもサイクレウスの大罪を暴こうと画策していたものの、こちらとしては間にカミュア=ヨシュをはさんでの関係であったから、どこまで信用していいのかはなかなか判じきれなかった。唯一の例外は、騒動の渦中で知遇を得たポルアースであるが――サイクレウスによって貴族の悪いイメージを植えつけられた俺たちは、ポルアースの人柄を見定めるのにもそれなりの時間が必要であったのだった。
しかし俺たちはサイクレウスらと雌雄を決することになった会談の場で、ついにジェノス侯爵マルスタインと相まみえることがかなった。その後に親睦の晩餐会を開くことによって、ようやくジェノスの貴族と正しい絆を結ぶための確かな一歩を踏み出すことがかなったのだ。
そこから1年の時を経て、俺にとって2度目となった白の月は、まだしも平穏であったといえよう。その前月には大地震によって家屋が倒壊するという奇禍に見舞われつつ、家長会議ではファの行いが正しいと認められたため、俺もアイ=ファも意気は揚々であったのだ。
それにやっぱり前月には、聖域の民たるティアに巡りあったり、トゥール=ディンが独立して菓子の屋台を開いたり、マルフィラ=ナハムをこちらの屋台に迎えることになったりと、さまざまな嬉しい驚きに満ちていた。家長会議と大地震を中心に、青の月というものがとても騒がしい月であったため、翌月の白の月はいっそう平穏であったような印象なのである。
が、それでもひと月まるまる何事もなかったなどということは、どの月においてもありえないのであろう。俺は周囲の人々との会話によって、数々の思い出を引っ張り出されることになった。
たとえば家長会議の直前に客人として迎えたリフレイアなどは、「ムスルの罪が許されてから、もうすぐ1年も経つのよね」と語っていた。リフレイアから引き離されて失意のどん底に陥ったムスルが俺たちの屋台に押しかけたのが、昨年の白の月であったわけである。
また、家長会議の酒宴において、ガズラン=ルティムは「ゼディアスも、次の月でついに1歳です」と嬉しそうに語らっていた。ゼディアス=ルティムが産まれたのも、宿場町の聖堂で西方神の祝福を授かったのも、やはり白の月であったのだ。
それに屋台の商売中には、レビが「俺たちも屋台を出して、もうすぐ1年が経つんだな」と言っていた。レビたちが《キミュスの尻尾亭》のお世話になるきっかけとなったのは、父親のラーズが大地震で大怪我をしてしまったことであったから、それは青の月から遠からぬ白の月のことであったのだった。
斯様にして、騒がしい日々を生きている俺たちである。
本年で3度目となる白の月は、いったいどのような思い出を残してくれるだろうかと、俺はそんな充足した心地で新たな月の始まりを迎えることになったのだった。
◇
そうして迎えた、白の月――の、2日である。
その前日は家長会議の翌日であったため、屋台の商売は休業とし、家でのんびり過ごすことに相成ったのだ。家長会議は酒宴で夜ふかしをするし、翌朝もスンの集落からの帰還でずいぶんな時間を食ってしまうため、苦渋の決断で連休を取らせていただくことになったのだった。
まあ、普段であれば屋台で連休をいただくことに、それほど心苦しさを覚えるいわれはないのだが。バランのおやっさんが率いる建築屋の逗留も終わりが迫っていたため、俺は可能な限り屋台を休みたくなかったのだ。
「そんな風に気づかってくれるだけで、俺たちは十分に嬉しいさ。……ま、アスタたちの他にギバの料理を扱う屋台がこんなに増えてなけりゃあ、もっと気落ちしてたかもしれないけどな」
「まったくだ! アスタたちが休んでもギバ料理を食えるってのは、ありがたい限りだよなぁ」
その日、屋台を訪れたアルダスやメイトンは、陽気に笑いながらそんな風に言ってくれていた。建築屋の面々も宿屋の屋台村でひとつふたつの料理を腹に収めてから俺たちの屋台を訪れるというのが、すっかり定番となっていたのだ。
「ただ、間に飛蝗の騒ぎをはさんでるせいか、確かにアスタたちと喋り足りてない感じだよな。これまで以上に、晩餐にも招いてもらってるはずなのによ」
「アルダスとおやっさんは、その前にも試食会ってやつに招かれてたじゃねえか。喋り足りてないのは、俺たちのほうだよ!」
「ああ、そんなこともあったっけ。なんだかもう、ずいぶん昔の話みたいに思えちまうな」
俺もアルダスと同じように、王家の方々と邪神教団の騒乱のせいで、時間の感覚がいくぶん狂ってしまっていた。建築屋の面々がジェノスにやってきて、もう2ヶ月も経ってしまうのかという思いと、まだ2ヶ月しか経っていないのかという思いが、複雑にからみあいながら同居しているような心地であった。
「ただ俺たちは、予定よりも逗留がさらにのびちまいそうなんだよな。宿場町での仕事が一段落したら、トゥランの面倒を見てくれないかってお願いされちまったからよ」
「トゥラン? 以前にみなさんが手掛けた家屋に、何か不備でも見られたのですか?」
建築屋の面々は復活祭の時期にジェノスを訪れた際、トゥランで大きな仕事を引き受けていたのである。
しかしメイトンは陽気な笑顔で「馬鹿を言っちゃいけねえよ」と言った。
「俺たちの手掛けた家屋が、たった半年でどうにかなるもんかい。トゥランはいい具合に新しい領民が増えてきて、家屋も倉庫も足りなくなってきちまったんだとさ。それでまた、見積もりやら基礎の工事やらをお願いしたいって話らしいよ」
「そうそう。ダレイムでの仕事を引き受けた分で、もともと10日ぐらいは長く居残ることが決まってたんだが……それからさらにもう3、4日は逗留がのびる見込みなんだよ」
「そうなんですか。逗留が長引けば長引くほど、俺は嬉しく思ってしまうんですけど……そんなことを言ったら、故郷でお待ちのご家族に申し訳が立たないですね」
「逗留が長引くときは行商人か何かに言伝を頼むから、あっちは何の心配もしやしないさ。ま、俺たちばっかりジェノスでの暮らしを楽しむのはずるいだとか何だとか、そんな文句をつけられることはありえるだろうがね」
と、あくまで明朗快活なメイトンであった。
「だからまあ、俺たちが仕事を終えるのは、白の月の13日か14日あたりかな。その日には、また森辺で祝宴を開いてくれるのかい?」
「ええ、もちろん。現在も、各氏族から参席者を選んでいるさなかでありますよ。何せ希望者が多いものですから、どんな風に割り振るか難渋してるみたいです」
「嬉しい話だねぇ。ジェノスを離れるのは寂しいが、そいつを励みに頑張るよ」
そんな言葉と笑顔を残して、アルダスとメイトンは青空食堂へと立ち去っていった。
2日間の連休をいただいたためか、屋台はこれまで以上に繁盛している。新商品たる『ギバの玉焼き』も作るそばから売れてしまい、定刻よりもずいぶん早くタネが尽きてしまいそうなところであった。
「まいったな。連休明けだから2割増しのタネを準備してきたのに、それでも足りなそうだ。もうすぐ販売からひと月も経つのに、『ギバの玉焼き』は人気が衰えないね」
「それはやっぱり、宿場町においてこちらを食せるのがこの屋台のみであるからではないでしょうか? ディアルの準備してきた10枚の玉焼き器も、けっきょくすべて城下町で売れてしまったのですものね」
本日の相方であるユン=スドラが微笑まじりに、そんな風に答えてくれた。
家長会議での取り決めによって、本日から屋台の手伝いの代価は半額となる。それで不満がる女衆は皆無であり、むしろ嬉しそうな顔をする人々が大半であったのだが――ユン=スドラなどは、その筆頭であったのだった。
(ファの家ばかりが損をかぶることになって、ユン=スドラはずいぶん心苦しそうだった……って、ライエルファム=スドラが言ってたもんな。俺にはまったく、そんな素振りも見せてなかったけど)
つまりそれだけ、ユン=スドラが心優しく誠実であるということなのだろう。ファの家を思いやってくれるのも、それを俺たちに気取られぬように努めるのも、同じ優しさの表れであるはずであった。
「……どうかしましたか、アスタ?」
と、『ギバの玉焼き』の作製に勤しんでいたユン=スドラが、いくぶん頬を赤くしながら俺のほうを振り返ってきた。俺がずっとその横顔を見つめていたことを察知されてしまったようだ。
「ごめんごめん。ちょっと考え事をしてただけなんだよ」
「そうですか。黙って見つめられていると、いささか落ち着かない心地なのですが……」
「うん、ごめん。……ユン=スドラが屋台で働くようになったのは、黒の月あたりだったっけ?」
「はい。黒の月の終わり頃であったはずです。あと3ヶ月もしないうちに、丸2年となってしまうのですね」
と、ユン=スドラも感慨深そうに微笑んだ。
ユン=スドラは15歳になってすぐに俺と出会ったため、もうじき17歳になるという世代である。持ち前の朗らかさや小柄な体格などはそのままに、彼女も大きな成長を果たしているはずであった。
「……そういえば、わたしはもうすぐ初めてお会いしたときのアスタに年齢が追いついてしまうのですよね」
と、今度はしみじみと息をつくユン=スドラである。
「我が身を顧みると、至らなさばかり感じてしまいます。まあ、アスタと比較しようというのが、そもそも傲慢なのでしょうけれど……」
「傲慢なんて、ユン=スドラに一番似合わない言葉だね。俺はちょうど、ユン=スドラもずいぶん成長したなあと思っていたところだよ」
「そのようなことはありません。でも、何も焦ったりはしていませんので、どうぞご心配なさらないでくださいね」
そう言って、ユン=スドラはにこりと微笑んだ。
俺の故郷には、この若さでこれほどしっかりした娘さんなど、なかなかいないことだろう。もちろん環境が異なるのだから、そこを比較しても詮無き話であるのだが――しっかり者の多い森辺の集落においても、ユン=スドラのそれは頭ひとつ抜けているように思えてならなかった。
そうして俺たちが仕事に励んでいると、見覚えのある一団が屋台に近づいてくる。
2名の侍女と、2名の武官。その全員が南の民である、彼女たちはデルシェア姫のために料理を買いつけにくる一団であった。
「ファの家のアスタ様。デルシェア姫より言伝てがあるのですが、それをお伝えさせていただいてもよろしくありましょうか?」
と、普段は注文の際にしか声をあげない侍女のひとりが、玉焼きの完成を待つ間にそんなことを申し述べてきた。
「デルシェア姫は、ファの家のアスタ様に晩餐会の厨をお預けしたいとのことです。了承をいただけますましょうか?」
「晩餐会ですか。そういったお話は、いつもジェノスの方々を通じてお聞きしていたように思うのですが……」
「このたびはデルシェア姫の主催でありますため、ジェノスの方々のお手を煩わせるべきではないとお考えになられた次第です。もちろんジェノス侯には了承をいただいた上での申し出ですので、どうぞご安心ください。……もしも森辺の族長様に直接お話をお伝えするべきということでしたら、そのように取り計らわせていただきますが、如何でしょう?」
「そうですね。族長にはこちらからお伝えしますので、この場でルウ家の方々にもお伝え願えますか?」
玉焼きの作製をユン=スドラに一任し、俺は至急ララ=ルウを呼びつけることになった。
「ふーん。晩餐会か。城下町でも、やっと祝宴を開くことが許されるようになったの?」
ララ=ルウの問いかけに、侍女は「いえ」とつつましく応じる。
「ジェノスの城下町においては、いまだに大がかりな祝宴を控えるようにという気風が残されております。このたびの晩餐会も、極力人数を抑えるように取り計らう予定となっております」
「人数を抑えるって、どれぐらい?」
「ジェノス侯爵家の第一子息ご一家と、ダレイム伯爵家の第二子息ご一家に、王都の外交官殿を招待し、デルシェア姫と合わせて7名となりますが……できうれば、城下町に来訪される森辺の方々も、みなさま同じ卓で晩餐を食していただきたいとのことです」
「なるほどね。7人だったら、こっちもそれほどの人数は必要ないかな。……あ、日取りなんかは、どうするの?」
「それはもう、森辺の方々のご都合次第ということでお任せしたく思っております」
「了承したよ。とりあえず、族長に伝えておくね。返事は、明日か明後日かな」
「わたくしどもは毎日こちらにおうかがいいたしますので、どうぞよろしくお願いいたします」
そこでちょうど玉焼きが仕上がったので、侍女たちもこちらの屋台を離れることになった。
ララ=ルウは腕を組み、「ふーん」と声をあげる。
「ま、ついに来たかって感じだねー。あっちも邪神教団の騒ぎが収まってから半月ぐらいは辛抱してたんだろうから、ドンダ父さんたちも駄目とは言わないんじゃない?」
「うん。俺も小規模な晩餐会だったら、いつでもかまわないよ。それなら屋台の商売を終えた後でも、十分に間に合うだろうからね」
「了解。じゃ、また商売の後にね」
と、ララ=ルウも軽やかな足取りで自分の持ち場に戻っていく。
それを横目に、ユン=スドラが声をあげた。
「城下町に招かれるのは、送別の晩餐会以来となりますね。そうすると、もう半月以上ぶりになるということですか」
「そういうことだね。ユン=スドラも、都合は大丈夫かな?」
「わたしも連れていっていただけるのですか?」
ユン=スドラが、ぱあっと表情を輝かせた。どんなにしっかり者でも外見はちょっと幼げな女の子であるため、そんな笑顔は掛け値なく可愛らしい。
「少数精鋭なら、それ相応の手練れにお願いしないとね。あとは、ルウ家と相談かな」
「もしわたしも選んでいただけるようでしたら、力を尽くします」
もっと幼いレイ=マトゥアほど元気にはしゃいだりはしないが、その小柄な身体からうきうきとしたオーラが噴出されているかのようである。ことほど左様に、魅力的なユン=スドラであった。
そうして中天のピークを迎え、俺たちはいっそう慌ただしく仕事をこなし――それからまた、すぐに嬉しい客人を迎えることになった。
「アスタ! どうも、おひさしぶりです!」
こちらは年齢相応に元気いっぱいの、傀儡使いのリコであった。不愛想な相棒のベルトンも、そのかたわらにしっかり控えている。
「やあ、リコにベルトン。ようやくジェノスに戻ってきたんだね」
「はい! ついつい寄り道をして、すっかり遅くなってしまいました!」
リコたちはジェノスを訪れてすぐ、ダレイム南方の慰問という仕事を引き受けることになった。そちらの依頼は5日間ほどで完了したのだが、その後はジャガルにまで足をのばすという話であったのだ。
「ジェノスから荷車で3日の宿場町に、故郷を追われた自由開拓民の方々がいらっしゃるのですね? では、ダレイムでの仕事を終えた後は、ご挨拶にうかがってまいります!」
ダレイムに向かう前、リコはそんな言葉を残していた。故郷を追われた自由開拓民というのは、邪神教団が引き起こした洪水によって集落を滅ぼされてしまった人々のことである。リコたちも別の地で同じ境遇の人々と巡りあっていたため、かつての同胞が元気にやっていることを伝えに行きたいと申し出ていたのだ。
「西の自由開拓地に逃れた方々のことをお伝えしたら、宿場町の方々も涙を流して喜んでおられました! あちらの方々はご老人や幼子を抱えていたため、逃げきれなかったのではないかと心を痛めていたのだそうです!」
「そっか。リコたちのおかげで、そんな心配を晴らすことができたんだね。本当に立派なことをしたと思うよ」
「えへへ。そんなことないですよー!」
くりくりの巻き毛を揺らしながら、リコは気恥ずかしそうに身をよじった。
俺の周囲には何と心優しき人々が集まっているのだろうと、そんな思いを噛みしめる俺である。
「おい、くっちゃべってるヒマはねーだろ。とっとと用事を済ませちまおうぜ」
と、こちらは決して甘い顔を見せないベルトンが、ぶっきらぼうに言いたてる。まあ、こういうタイプも、俺は決して嫌いではない。
「ヒマはないって、何か急ぎの用事でもあるのかな?」
「はい! ジャガルから戻ったら顔を出してほしいと、城下町の方々から言伝をいただいていたのです! ……でも、そちらで時間を取られたら屋台の料理が売り切れてしまうかもしれませんので、先に宿場町に立ち寄ったのです!」
「それはどうもありがとう。その後は、どう過ごすのかな?」
「はい! 新しい傀儡衣装も完成しましたので、できれば森辺の方々にもご覧にかけたく思っています!」
それまた、ありがたい話である。俺の隣では、ユン=スドラも瞳を輝かせていた。
「森辺ではさまざまな氏族の方々が、リコたちの来訪を心待ちにしています。どうかスドラの家にもお招きさせてくださいね」
「はい! ありがとうございます!」
そんなやりとりを経て、リコたちは数々の料理を手に立ち去っていった。どうやらヴァン=デイロは宿場町の入り口に荷車をとめて待機しているらしく、そちらで一緒に食してから食器を返しに来るとのことであった。
(連休明けの忙しさと相まって、今日はなかなかの賑やかさだなあ)
俺はそのように考えていたが、しかしまだまだ話は終わっていなかった。
リコたちを迎えてからわずか数分で、またひさびさのお相手が屋台を訪れてくれたのである。
「あ、ボズル! どうも、おひさしぶりですね」
「はい。今日は一段と、屋台が賑わっておりますな」
ヴァルカスの弟子にして大柄なジャガルの民たるボズルが、大らかな笑顔でそのように挨拶をしてくれた。
「邪神教団にまつわる騒ぎは、城下町でも語り草になっておりました。森辺の方々がご無事であったことは、ヤン殿から聞き及んでいたのですが……どうも、ご挨拶が遅くなってしまって申し訳ありません」
「いえいえ、こちらこそ。そちらも問題なくお過ごしでしたか?」
「問題なく……と言うべきかどうか、いささか迷ってしまいますな。ダレイムの野菜が自由に扱えなくなってしまったため、ヴァルカスは落胆したり憤慨したりの日々でありました」
と、さしものボズルも苦笑を浮かべる。
俺も、「ああ」と笑ってみせた。
「城下町では大衆向けの宿や食堂を優先して、ダレイムの野菜を回していたそうですね。貴き方々を顧客にする《銀星堂》は、後回しにされてしまったわけですか」
「はい。一流の料理人であれば、限られた食材で美味なる料理を準備してみせるべしというお達しが回されたのです。おそらく貴き方々は、もっとも裕福である自分たちとそれにまつわる料理人たちこそが、ダレイムの野菜を買い控えるべきであるとお考えなのでしょうな」
「実にご立派な話だと思います。……でも、ヴァルカスとしてはガッカリなわけですね」
「ええ。それこそヴァルカスは、さまざまな土地の食材をまんべんなく使って料理を作りあげておりましたからな。ダレイムの野菜が使えないとなると、ほとんどの料理の調理法を見直さなければならなくなってしまうのです」
それは俺たちも同じことであるが、妥協を許さないヴァルカスであれば代用の食材で次善の策を練る、というのも難しいのであろう。
「よって現在は仕事のご依頼をすべてお断りして、ひたすら外来の食材の研究にかかりきりになっております。しかし、ダレイムの野菜を使えないとなると、そちらでも思うように作業を進められないため……ヴァルカスは、これまでにないほど気落ちしてしまっておりますな」
「それは大変ですね。ヴァルカス自身はもちろん、それをなだめるボズルたちがいっそう大変そうです」
「いえいえ。そのあたりの苦労はタートゥマイやシリィ=ロウが担ってくれますため、わたしやロイなどは気楽なものです」
と、ボズルはちょっとおどけた表情を見せた。
「そこでアスタ殿にお願いがあるのですが……またシリィ=ロウたちを、森辺の勉強会に招いていただけませんでしょうか?」
「ええ、こちらはまったくかまいませんよ。実のところ、俺たちも城下町の方々になかなか会えないことを寂しく思っていたのです」
「そうですな。なまじ試食会などでお顔をあわせる機会が増えていたため、我々も同じ心境でありました。それでも森辺の方々は邪神教団にまつわる騒ぎの影響で大変な時期であろうと思い、これまでは自制していたのですが……月も変わったことですし、そろそろお手すきになったかとおうかがいを立てさせていただいたわけです」
そう言って、ボズルは何だかお父さんのような顔で笑う。
「タートゥマイはまだしも、シリィ=ロウは根が素直すぎるためか、ヴァルカスの振る舞いにいちいち心を乱されてしまって……あれではヴァルカス本人よりもシリィ=ロウのほうが先に参ってしまうのではないかと、いささか心配になってしまったのです。それで森辺にお招きしていただけたら、少しはシリィ=ロウの気が晴れるのではないかと思いまして……いや、手前勝手な申し出で、本当に申し訳ありませんな」
「とんでもありません。シリィ=ロウたちと勉強会ができるなら、こちらにとっても嬉しい限りですので」
ここにもまた心優しい人がいたなあという感慨を噛みしめつつ、俺はそのように答えてみせた。
「ただ、シリィ=ロウたちをお招きするとなると、またこちらに宿泊することになるのですよね? そうすると、アイ=ファの了承が必要になりますし……あと、こちらもちょうど城下町の晩餐会の仕事を打診されたところですので、正式な返事は明後日以降ということでよろしいでしょうか?」
「晩餐会の仕事? なるほど、貴き方々もようやく動き始めたということでありますな」
「はい。デルシェア姫からのご依頼です。まあ、そちらもごく小規模なものですので、日取りさえずらせば問題はありません。……あの、《銀星堂》が休業中なのでしたら、ボズルもご一緒にいかがですか? そうしたら、他のみんなもいっそう喜ぶと思います」
「そうですな。ひとり残されるタートゥマイの苦労があまり募らないようでしたら、わたしも考えさせていただきたく思います」
そうしてボズルも持参した容器に屋台の料理を詰め込んで、城下町に戻っていった。
「なんだか白の月になって、また色々なことが起きそうですね。むやみに胸が弾んでしまいます」
ユン=スドラのそんな言葉が、俺の気持ちを代弁してくれていた。
◇
その夜である。
晩餐のさなか、俺が日中の出来事を報告すると、アイ=ファは「そうか」と息をついた。
「月の変わりで、さまざまな人々の辛抱が切れたということであろうかな。それだけ多くの人間が、お前との交流を待ち望んでいたということだ」
「うん、ありがたい限りだよ。……でも、アイ=ファは大丈夫か?」
「……大事な家人たるお前がそれだけの人望を得ているのだから、家長として誇らしく思っている」
などと言いながら、唇がとがるのをこらえるように口もとをむずむずさせているアイ=ファである。家長会議を終えたのは2日前のことであるし、月の半ばには送別の祝宴を控えているのだから、その間に晩餐会の仕事をこなしたり客人を迎えたりというのは、確かにそれなりの慌ただしさであるはずであった。
ちなみに森辺へとやってきたリコたちは、フォウの集落で傀儡の劇を披露して、そちらで晩餐をいただいているはずである。ファの家のこれからの慌ただしさを慮って、俺がそのように取り計らったのだが――それでもまだまだ、アイ=ファへの気遣いが必要であるようであった。
「ああ、そういえば送別会の後は、ダリ=サウティやラウ=レイたちをファの家に招くんだったな。……えーと、やっぱり日程を組みなおすべきかなあ?」
「組みなおすとは、どのように? 晩餐会の仕事などはダリ=サウティらを招く前に片付けておくべきであろうし、シリィ=ロウたちをあまり待たせるのも気の毒であろう。建築屋の後には《銀の壺》を送別する祝宴も控えているのであろうから、なおさらにな」
「アイ=ファは、優しいな。……それでいっそう、俺は心が痛んでしまうんだけど」
「お前が心を痛める必要はない。今日とてこのように、家人だけで大事な時間を過ごせているのだからな」
と、ついに唇をとがらせてしまうアイ=ファである。
その愛くるしい姿に、俺は大きな幸福感と申し訳なさを同時に抱くことになった。
「なあ、アイ=ファ。俺たちは心情を隠さないっていう約束だけど、こういう場合はどうなんだろう?」
「どうなんだろうとは、どういう意味だ?」
「いや、アイ=ファは家長として正しく振る舞おうとしてるけど、それとは裏腹な本心を抱え込んでるわけだろう? それは心情を隠してるってことにならないのかな?」
アイ=ファは小首を傾げつつ、慌てた様子でとがらせていた唇を引っ込めた。そして、赤い顔をして俺をにらみつけてくる。
「わ、私は本心を語っている。心情を隠したりはしていない」
「でも、こんな風に色々な出来事が重なるのは、あまり好ましくないんだろう?」
「だからそれはお前も述べていた通り、家長として正しき道を選び、そのように振る舞っているだけのことだ。そこで心を偽っているつもりはない」
「うん。でも、そのために個人的な感情は押し殺してるんだろう? それは別に、俺の前でまで押し殺す必要はないんじゃないかなあ?」
「……私は家長として、家人に甘えた姿を見せることは控えるべきであると考えている」
「ええ? 俺はアイ=ファに甘えてほしいけどなあ」
俺がそのように答えると、アイ=ファの青い瞳がきらりと輝いた。
「……私が家長らしからぬ振る舞いで、お前に甘えてもよい、というのだな?」
「お、おう、もちろんだよ。どこからでもかかってくるがいいさ」
俺は半分がた、アイ=ファがこちらに躍りかかってくるものと確信していた。
が、アイ=ファは木皿を敷物に戻すと、あぐらをかいたまま腕をのばして、俺の頭にぽんと手の平をのせてきたのだった。
このままわしゃわしゃと頭をかき回されるならば、数日にいっぺんぐらいはやってくるお馴染みのスキンシップである。
しかし本日のアイ=ファは、まるでブレイブたちを相手にしているときのように、ゆっくりと、優しい手つきで俺の頭を撫で回し――そして、「ふふ」と微笑んだのだった。
「……お前は可愛いな、アスタよ」
「な、なんだ? これはどういうプレイなんだ?」
「また異国の言葉が出ておるぞ。……お前の愛らしい姿と手触りで、心を満たしているだけのことだ」
そう言って、アイ=ファは心から幸福そうに、にこりと微笑んだ。
「城下町や客人を招いた場などでは、このようにお前を愛でることも許されんからな。本来であれば、我々は迂闊に触れ合うべきではないのだが……この夜は、お前のいたわりに甘えようと思う」
つい2日前の家長会議でも、俺たちはこっそり身を寄せ合っていたように記憶しているのだが――もちろん俺は、そんな無粋な指摘をする気持ちにはなれなかった。アイ=ファは本当に幸せそうで、それを見返す俺のほうも、たまらなく幸福な心地になってしまったのである。
(そういえば、アイ=ファの親父さんも黒髪だったんだっけ)
だからアイ=ファは、俺の髪に触れることを好んでいるのかもしれない。
そんな風に考えると、俺の胸にはアイ=ファに対する愛おしさがいっそうふくれあがってやまなかった。
そんな感じで、俺たちは3度目となる白の月のスタートをあらためて切ったわけである。