リリンの家②~幸福な時間~
2021.12/10 更新分 1/1
俺たちは2時間ばかりもかまど小屋にこもったのち、ヴィナ・ルウ=リリンのためにいったん休憩を入れることにした。
時刻はいまだ下りの二の刻ぐらいであるので、時間はたっぷりと残されている。実に有意義な、休日の昼下がりであった。
広場では、リリンの幼子たちがジルベやラムとたわむれている。かまど小屋の屋根にのぼったサチは、ずっと日向ぼっこを楽しんでいるようだ。少なくとも、こういった光景に災厄の影響などは感じられなかった。
「様子のおかしくなったムントというのも、ずいぶん数が減ってきたそうですね。リリンの狩り場においては、ギバの数も落ち着いてきたようですし……1日も早く、危険が去ることを願います」
ウル・レイ=リリンは、そんな風に言っていた。
俺もまったくの同感であるし、おそらくはすべての森辺の民がそんな風に念じていることであろう。俺たちがこのように平和な時間を過ごせるのも、森で奮闘する狩人たちのおかげであるのだった。
「シュミラルなどは、もっとも大変な時期に帰りが間に合わなかったことを、たいそう申し訳なさそうにしていました。今でも大変なことに変わりはないのですから、何も気にする必要はないと言い含めたのですけれどね」
「ええ。シュミラル=リリンは責任感が強いから、どうしてもそういう思いに至ってしまうのでしょうね」
「はい。ですが、行商人としての道を捨てないと決めたのはシュミラル自身ですし、わたしたちもそんなシュミラルを家人として迎えると決めたのですから、何も悔いる必要はないはずです」
そんな風に語るウル・レイ=リリンの言葉には、彼女らしい優しさと公正さが同居しているように感じられた。かえすがえすも、シュミラル=リリンの家がリリンに定められたことを嬉しく思う俺である。
そうして半刻ばかりも休憩したのち、メンバーを入れ替えて勉強会を再開することになった。
俺のもとに留まるのはヴィナ・ルウ=リリンとレイナ=ルウとプラティカの3名で、あとは総入れ替えだ。リリンのほうは10歳ぐらいの女衆、こちらはマルフィラ=ナハムとレイ=マトゥア、それにマイムという顔ぶれに相成った。トゥール=ディンは人数の調整のためにまたあちらに留まってもらい、次のローテーションで合流してもらう予定である。
「マルフィラ=ナハムたちは、香草の調合に取り組んでいたそうだね。俺たちにも味見をさせてもらえるかな?」
「は、は、はい。そ、それほど大幅に変えたわけではないのですが……」
木皿にこんもりと盛られたスパイスを木匙ですくい、それを味見させていただくと――これまでよりも清涼感の強い風味が口の中に広がった。
「なるほど。辛みが抑えられて、そのぶん酸味が加えられたみたいだね。それに、このさわやかな風味は……もしかして、ミャンツを使っているのかな?」
「は、は、はい。ミャンツの苦みも、かれーには調和するように思いましたので……」
ミャンツとは、ゲルドから届けられたセージのごとき香草である。謙虚なマルフィラ=ナハムが恐縮しきった様子で俺たちの姿を見回してくると、レイナ=ルウがきりりとした面持ちで発言した。
「こちらは普通のかれーばかりでなく、香味焼きに使ってもとても美味に仕上げられるように思います。さすが、マルフィラ=ナハムですね」
「い、い、いえ。レ、レイナ=ルウは香味焼きや腸詰肉などで、ミャンツを活用していたでしょう? わ、わたしなどは、そこから着想を得ただけですので……」
「そうしてミャンツを取り扱う機会を多く持ちながら、かれーに活かそうという着想に至らなかったことを恥ずかしく思います。やっぱりマルフィラ=ナハムは、ひとかたならぬかまど番なのですよ」
そのように語るレイナ=ルウは対抗心をめらめらと燃やしてしまうため、マルフィラ=ナハムをいっそう恐縮させることになった。
するとそれをフォローするかのように、マイムが朗らかな声をあげる。
「アスタたちも、試作品をこしらえたのでしょう? もし余っていたら、わたしたちにも味見させていただけませんか?」
「うん、もちろん。最初から、みんなにも食べてもらうつもりだったからね」
俺たちが準備したのは、和風出汁のカレーである。使われている具材は、長ネギのごときユラル・パ、ダイコンのごときシィマ、ヤマイモのごときギーゴ、タケノコのごときチャムチャムであった。
「わあ、とても美味しいですね! これまでのかれーとは、ずいぶん趣が異なっているようです!」
「うん。まずはこれまでカレーに使っていなかった具材だけで仕上げてみたんだ。これにチャンやマ・プラやマ・ギーゴを加えても、味が壊れることはないと思うよ」
「そうですね! これはフワノよりも、シャスカで食べたいように思います!」
そんな風に言ってから、マイムは隣にいたリリンの少女に笑いかけた。
「ね、美味しいですね? これならば、シュミラル=リリンにも喜んでもらえるのではないでしょうか?」
「は、はい。わたしも、そう思います」
10歳ぐらいの女衆は、はにかむような笑顔でそのように答えた。これまでの時間で、年齢の近いマイムと交流を深められたのであろうか。生粋のリリンの血筋である彼女は、いくぶん大人びている分、子供らしい無邪気さをあまり表に出さないタイプであったのだ。
そんな少女とマイムのやりとりを、少しお姉さんのレイ=マトゥアもにこにこ笑いながら見守っている。マイムやレイ=マトゥアの無邪気さが少女にいい影響を与えれば何よりであった。
「こっちは乾物の出汁にかかりきりだったから、この時間はカレー料理の幅を広げるっていう課題に取り組みたいんだよね。よかったら、マルフィラ=ナハムの調合したこの香草も使わせてもらえるかい?」
「は、は、はい。ど、どのような料理に取り組むのですか?」
「俺が試したいのは、コロッケやお好み焼き、それに回鍋肉や麻婆料理なんかかな。他に試したい料理があったら、みんなも提案しておくれよ」
「こ、こ、ころっけですか。チャ、チャッチは使えないわけですから、ノ・ギーゴのころっけで試すのですね?」
「うん。それにせっかく油を使うなら、ギバ・カツやメンチカツでも試してみたいところだね」
試してみたい料理が山積みであったため、俺たちは手分けをして下準備に取り組むことにした。少数なれども一騎当千の精鋭ぞろいであるため、作業の進捗はきわめてスムーズであった。
「やっぱりみんな、手際がいいわねぇ……少し前のわたしだったら、いらない引け目を抱え込むところだったわぁ……」
そんな風に言いながら、ヴィナ・ルウ=リリンは分家の少女へとやわらかく微笑みかけた。
「だからあなたも、気にしちゃ駄目よぉ……この場にいるのは、みんな森辺で指折りのかまど番なのだからねぇ……」
「は、はい。若年の方々も多いのに、みなさんすごいと思います」
分家の少女は気後れではなく、憧憬の込められた眼差しでレイ=マトゥアたちを見つめていた。
そこで声をあげたのは、ミンチの作業を手伝ってくれていたプラティカである。
「本日、集合した人々、全員、試食会の参加者です。文字通り、森辺、屈指の料理人なのでしょう」
「あ、言われてみたら、そうですね! まあ、わたしなんかはついでで選ばれたようなものですけれど!」
レイ=マトゥアがそのように応じると、プラティカは小首を傾げつつ俺のほうを見やってきた。
「彼女、ついでですか? 私、意見、異なります」
「もちろん、ついでなんかじゃないですよ。試食会に選出された8名というのは、全員が指折りの技量と熱意を持っているのだと思います」
「マ、マイムやトゥール=ディンばかりでなく、レイ=マトゥアも試食会というものに参加していたのですか。それは……見事な手際であるはずです」
分家の少女に熱っぽい眼差しを突きつけられると、レイ=マトゥアは気恥ずかしそうに「いえいえ!」と応じた。
「わたしなんて、本当にそんな大したものではないんです! 自分なりの料理なんて作れないから、けっきょくアスタの料理をそのまま出すことになっちゃいましたし……だいたい、プラティカのほうがすごいじゃないですか! たったひとりでジェノスで料理の修行をするなんて、わたしには考えられません!」
「はい。ですが、デルシェア姫、同様です」
「デルシェア姫という御方は、兵士や従者の方々にも居残ってもらっているのでしょう? もちろんそれでもすごいとは思いますけど、やっぱりプラティカにはかないません! プラティカは本当にひとりきりですし、しかもわたしと変わらない齢じゃないですか!」
「えっ」と、分家の少女がのけぞった。
「ちょ、ちょっとお待ちください。プラティカは、そんなに若年であったのですか? それともレイ=マトゥアが、見かけよりも齢を重ねているとか……?」
「わたしは雨季の前あたりに、14歳になったばかりですよ! プラティカは、もう生誕の日を迎えましたか?」
「いえ。いまだ、13歳です」
その返答には、ヴィナ・ルウ=リリンもきょとんとしていた。
「プラティカは、まだそんな齢だったのねぇ……もう17歳ぐらいにはなっているのかと思っていたわぁ……」
「わ、わたしもです! 背だって、そのようにお高いですし……」
「東の民、西の民より、長身です。ゆえに、高齢、見えるのでしょう」
プラティカは、そんなに小柄でもないヴィナ・ルウ=リリンよりも、3センチぐらいは長身であるのだ。そう考えると、本日集結した女衆の中でプラティカよりも長身であるのは、マルフィラ=ナハムただひとりであったのだった。
そんな楽しい交流を重ねている間に、下準備は着々と整っていく。
まずは手間のかかる揚げ物料理から挑むことにした。
「揚げ物は、具材と衣のどちらに香草を混ぜ込むかですね。俺の故郷では具材に混ぜ込むのが主流でしたけれど、せっかくですので両方試してみましょう」
「あらぁ……アスタの故郷では、揚げ物にかれーの香草を使う料理も存在したのねぇ……」
「はい。俺もあんまり馴染みはありませんでしたが、カレーコロッケというものが存在しましたよ。今回はノ・ギーゴなので、甘さが調和するかどうかですね」
サツモイモのごときノ・ギーゴが、カレーのスパイスと調和するか否か――答えは、「悪くない」であった。
「思ったほど、ノ・ギーゴの甘さがぶつかったりはしないようですね。具材に香草を混ぜ込んだほうなどは、ほとんど甘みを感じないぐらいです」
レイナ=ルウは真剣な面持ちで、そのように言っていた。
「そ、そ、そうですね。ノ、ノ・ギーゴも、軽く茹でるぐらいであれば、それほど甘いわけではありませんから……で、でもやっぱり、このほのかな甘みがいい意味で調和しているように思います」
「はい。ただ、マルフィラ=ナハムの調合した香草ですと、酸味が甘さとぶつかってしまうようです。こちらはきっと、肉が主体の料理のほうが調和するのでしょう」
それはギバ・カツとメンチカツの試食で、明らかにされることになった。特に、ミンチに香草を混ぜ込んだメンチカツなどは、かなり独特の美味しさであったのである。
「これは……アスタが時おり作りあげる、カレーまんに近い味わいでしょうか。ただ、油で揚げている分、それとも違う面がありますし……」
「うん。何より、酸味がいい感じだね。もともと揚げ物にはシールの果汁みたいな酸味も合うから、それと同じことなのかな」
衣に香草のパウダーを混ぜ込んだギバ・カツのほうも、悪くない感じである。なおかつこちらも、通常の調合よりもマルフィラ=ナハムのオリジナルブレンドのほうが、より好ましく思えるのだった。
「これはいいね。何かもうひと味、後掛けの調味料を加えてみたいところだけど……マヨネーズは少しくどいし、七味チットも違うかな」
「はい。うすたーそーすやけちゃっぷなども試してみたいところですが、それも今は準備できませんものね」
そのとき、俺の内なるリミ=ルウが「ボナは?」と声をあげてきた。
「ちょっと、ボナを試してみようか。チット系の辛みは余計かもしれないけど、ボナの辛みだったら――」
揚げ物をワサビでいただくというのも、俺の基本にはないことだ。
しかしまた、ワサビは肉料理に合うものであるし、あの清涼感が油の重さを緩和するという役を果たしてくれるかもしれない。そんな思いを込めながら、俺はワサビのごときボナをすりおろした。
「これは……ちょっと意外な味わいですが、なかなか美味なのではないでしょうか?」
レイナ=ルウも、びっくりまなこでそのように言っていた。
俺も、まったくの同感である。ギバ・カツにカレーのスパイスとボナというのは、なかなか素っ頓狂な組み合わせであるはずだが、ちょっと愉快な調和を果たしているようなのである。
「何か、少しの加減で城下町の料理に近づきそうな気配もするのですが……でも、それを忌避する理由はありませんものね」
「うん。レイナ=ルウだって、ロイに影響されて香草仕立てのギバ・カツに挑んでるもんね」
「そ、それはまた異なる話であると思います」
と、レイナ=ルウはわずかに頬を赤らめた。
「ごめんごめん」と、俺は笑ってみせる。
「ボナをタウ油で溶いてみたり、もっと凝ったボナのソースなんかも、試し甲斐があるかもね。でも、そんなに揚げ物ばかり試食していたらおなかがいっぱいになっちゃいそうだから、それは次の機会にしようか」
「そうですね。今日の課題は、あくまで美味なるかれーなのですから」
「あらぁ……わたしたちに遠慮することはないのよぉ……? リリンの家に来てもらえただけで、わたしたちは十分に感謝しているのだから……」
「いえいえ。シュミラル=リリンに喜んでもらいたいという気持ちは、俺も一緒ですので」
俺がそのように答えると、ヴィナ・ルウ=リリンは照れるのではなく、慈愛にあふれた笑顔で「ありがとう……」と言ってくれた。
俺のほうこそ、シュミラル=リリンのために力を尽くすことができて、お礼を言いたいぐらいである。
そうして俺たちは勉強会の後半戦も、充足した気持ちでやりとげることがかなったのだった。
◇
それから数刻が過ぎ去って、ついに晩餐の刻限である。
俺とプラティカを除く面々は夕刻に荷車で帰還し、それと入れ替わりでアイ=ファがやってきた。今日は3頭ものギバを狩ったとのことで、犬たちのために後ろ足をひと組まるまる持参しての来訪である。ジルベとラムはブレイブとドゥルムアの無事な帰りを喜びながら、リリンの猟犬たちも交えて仲良くその肉を食していた。
いっぽう人間たる我々は、リリン本家の広間で晩餐だ。
リリン本家の家人は、6名。家長夫妻と2名の幼子たち、それにシュミラル=リリンとヴィナ・ルウ=リリンである。そこに、ファの家の2名とプラティカがお邪魔する格好であった。
「以前にプラティカがリリンの家を訪れた際は、荷車で夜を明かしていたな。荷車にグリギの果汁をまぶしておけば、ムントに脅かされることもあるまいが……しかし、万一のことがあってはならないからな。プラティカは、分家の家で休むといいぞ」
狩りから戻ったギラン=リリンは、そんな風に言ってくれた。一昨日の晩もアイ=ファは同じ論調で、プラティカをファの家に宿泊させたのである。プラティカは両手の指先を複雑な形に組み合わせながら、「温情、感謝します」と答えていた。
「では、晩餐とするか。アスタたちがどのような料理を準備してくれたのか、楽しみなところだな」
ギラン=リリンが食前の文言を唱え、俺たちはそれを復唱する。
それを終えてから、シュミラル=リリンは喜びに輝く瞳で敷物の料理を見回した。
「カレーの香り、芳しいです。でも、どの料理、香り、放っているか、不明、不思議です」
「はい。カレーの香草の色合いは、別の色合いにかき消されてしまったようです」
本日の晩餐に選ばれたのは、カレー風味の回鍋肉と、カレー風味のメンチカツであった。和風出汁のカレーもいい具合に仕上がったのだが、それはせっかくなのでヴィナ・ルウ=リリンたちだけで仕上げて、後日の楽しみにしていただくことになったのだ。
で、メンチカツは具材にスパイスを混ぜ込んでいるので外見上ではわからないし、回鍋肉のほうは他の調味料がスパイスの色合いをかき消してしまった次第である。
豆板醤に似たマロマロのチット漬けの登場によって、格段にクオリティが向上した、自慢の回鍋肉だ。ゲルドの食材は《銀の壺》がジェノスを出立してから届けられたものであるので、シュミラル=リリンは改良版の回鍋肉を口にする前に、こちらのアレンジ料理を口にするわけであった。
現在はキャベツに似たティノやピーマンに似たプラが使えないため、具材には白菜のごときティンファとパプリカのごときマ・プラを使っている。チットやミャームーやケルの根といった元来の辛みも残しつつ、さらにカレーのスパイスを重ねたひと品である。こちらはどう考えても焼きフワノよりシャスカが合う料理であったため、何の細工もしていない白シャスカを準備させていただいた。
シュミラル=リリンばかりでなく、幼き兄妹も瞳を輝かせている。下の子などはまだ3歳ていどであるはずだが、兄ともどもカレーをこよなく好んでいるのだそうだ。もちろんそちらの兄妹には、辛みを抑えた特製の回鍋肉とメンチカツを準備していた。
「どちらも今日の勉強会で発案した料理ですが、なかなかいい具合に仕上げられたと思います。どうぞお召し上がりください」
「はい。心して、食します」
シュミラル=リリンは、まず回鍋肉の木皿を手に取った。
そうしてそれを口に含むと――黒い瞳が、いっそうの輝きを灯らせた。
「こちら、美味です。ホイコーロー、もともとの味わい、残しながら、カレーの味、調和しています。砂糖やタウ油、甘さや香ばしさ、心地好いですし、この風味――マロマロのチット漬けですね? 私、ドゥラの地、おもむいた際、何度か、食したこと、あります。マロマロのチット漬け、辛みと風味と香ばしさ、格別ですし、カレーとの調和、素晴らしいです。また、ギバ肉、ティンファ、マ・プラという具材も――」
と、そこまで言いかけて、シュミラル=リリンは気恥ずかしそうに微笑んだ。
「……すみません。気持ち、先走りました。気にせず、食事、続けてください」
「うむ。まるでアルヴァッハが乗り移ったかのような口ぶりであったな」
ギラン=リリンがそのように評すると、他の家人たちも楽しそうに笑い声をあげた。アルヴァッハはシュミラル=リリンたちの婚儀の祝宴にも参席していたため、みんなご存じの存在であるのだ。
「きっと、アルヴァッハ、すべての料理、同じだけの熱意、持っているのでしょう。幸福である、同時に、大変な生、思います」
シュミラル=リリンが照れ隠しのようにそう言うと、アルヴァッハの従者たるプラティカがきらりと紫色の瞳を輝かせた。
「確かに、アルヴァッハ様、すべての料理、熱意を持っているため、幸福な心地、授かる機会、多い分、同じだけ、失望の機会、得ています。それを、大変な生、察する、シュミラル=リリン、聡明、思います」
シュミラル=リリンは「恐縮です」とだけ答えつつ、プラティカに穏やかな微笑を返した。
プラティカは座ったまま、もじもじと身を揺する。やはり、シムが出自であるシュミラル=リリンが表情を動かしているのが落ち着かないのだろうか。
「こちらのめんちかつも食べてみてねぇ……これもけっこう目新しい味わいだと思うから……」
と、ヴィナ・ルウ=リリンが大皿のメンチカツをシュミラル=リリンのために取り分けた。
それを口にしたシュミラル=リリンは、ますます明るい眼差しとなる。
「きわめて、美味です。目新しい、確かです」
「あらぁ、それだけぇ……? さっきみたいに長々と語らってくれてもいいのよぉ……?」
「気持ち、隠すつもり、ありませんが、我を失う、気恥ずかしい、思います」
そんな言葉を交わしながら、シュミラル=リリンとヴィナ・ルウ=リリンは穏やかな眼差しで見つめ合った。
とても穏やかなのに、幸福そうなオーラがふわりと室内にたちこめたかのようである。俺もその余波で幸せな気分を満喫し――そして何故だか、プラティカはこっそり溜息をついていた。
「……ちょっと失礼する」と、アイ=ファが膝立ちの姿勢で俺を迂回して、背後からプラティカに囁きかけた。
「プラティカよ、まさかとは思うのだが……お前はシュミラル=リリンに懸想しているわけではなかろうな?」
回鍋肉の皿を持ち上げようとしていたプラティカはそれを取り落とし、あたふたとアイ=ファを振り返った。
「ア、ア、アイ=ファ、邪推です。わ、私、心外、思います」
「もっと声をひそめなければ、ギラン=リリンには聞こえてしまうぞ。……本当に、私は疑心を捨ててよいのだな?」
プラティカはなんとか無表情を保ちつつ、それでも黒い頬に血をのぼらせてしまっていた。
「そ、そのように、よからぬ思い、抱いていません。そ、そもそも、私、若年の身です」
「13歳の若年でも、恋心を抱くことぐらいはありえよう?」
アイ=ファは思いも寄らぬほど、真剣な眼差しになっている。
それでプラティカは観念したように、また嘆息をこぼしていた。
「……シュミラル=リリン、素敵な男性、思っただけです。ですが、人の道、踏み外すつもり、ありません。ゲルドにおいても、伴侶ある人間、想いを寄せる、禁忌です」
「そうか。シュミラル=リリンは我々にとっても大事な友であるため、念のために確認しておこうと思ったまでだ。ここはお前の誠実さを信じることにしよう」
「……アイ=ファ、軽口、許さないのに、私ばかり、心、暴かれる、不公平、思います」
「そ、それとこれとは話が違おう」
と、アイ=ファとプラティカはおたがいに顔を赤くしながら、至近距離でにらみ合うことになった。
そのさまを見て、ギラン=リリンが「どうしたのだ?」と小首を傾げる。
「何か問題が生じたのなら、俺も力を尽くしたく思うぞ。この家の家長として、客人たちには心安らかに過ごしてもらわなければならんからな」
「いや。ギラン=リリンの手を煩わせるような話ではない。晩餐のさなかに、失礼した」
アイ=ファは最後にプラティカの顔をひとにらみしてから、自分の席に舞い戻った。
すると今度は、ウル・レイ=リリンが何かの精霊のように微笑む。
「アイ=ファとプラティカは、どこか姉妹めいた雰囲気を持っていますね。とても好ましく思います」
「そうですよね。俺もずっと前から、そのように思っていました。喧嘩するほど仲がいいということなのでしょう」
すると、アイ=ファはぺしんと俺の頭をひっぱたき、プラティカは木匙の柄で俺の膝をぐりぐりと責め苛んできた。
これで両名の気が晴れるのなら、俺としても感無量である。
「でもこれ、ほんとーにおいしーね! かあさんやヴィナ・ルウも、もうおなじものをつくれるの?」
5歳の長兄がそのように言いたてると、ヴィナ・ルウ=リリンが「ええ……」と笑顔で応じた。
「というか、このほいこーろーとめんちかつは、わたしとウル・レイで作りあげたのよぉ……もちろん作り方を考えてくれたのはアスタたちだけど、わたしたちだけで作れるようになれないと意味がないからねぇ……」
「これ、かあさんとヴィナ・ルウがつくったの? すごーい!」
長兄がはしゃいだ声で両手をあげると、幼い妹もあまり意味を把握していない様子で「すごーい!」と真似をした。
「本当にすごいのはアスタたちだけど……そんな風に言ってもらえたら嬉しいわぁ……」
ヴィナ・ルウ=リリンが魅力的な微笑みを投げかけると、幼い兄妹たちもいっそう嬉しそうな笑顔になった。
それらの姿を見届けてから、シュミラル=リリンが俺に向きなおってくる。
「アスタ、心から、感謝しています。私、3日前から、ずっと幸福でしたが……今、さらに、幸福です」
「とんでもありません。明日からも美味しい料理が待ちかまえていますから、どうぞ楽しみにしていてくださいね」
俺が笑顔を届けると、シュミラル=リリンは心臓のあたりの生地をぎゅっとつかんだ。
「私、半年間、故郷たる森辺、離れていましたが……その分の幸福、今、味わわされている心地です」
「それは俺たちも、同じことだ」と、ギラン=リリンが笑い皺を深くする。
「離れている時間が長いからこそ、このような再会の喜びを味わえるのであろう。たとえて言うなら、病魔や怪我のせいで長らく飲めなかった果実酒を口にできたような心地であろうかな」
「まあ。シュミラルの行商を病魔や怪我にたとえるのは、あまり相応しくないのではないでしょうか?」
ウル・レイ=リリンが淡く微笑みながらそのように言いたてると、ギラン=リリンは頭をかきながら愉快そうに笑った。
「俺は言葉を知らんので、しかたあるまいよ。しかしまあ、それほど的外れなわけでもあるまい?」
「はい。家長の言葉、ありがたい、思います」
リリンの人々は、誰も彼もが幸福そうに笑っている。
そんな彼らの姿を見ているだけで、俺は何だか胸が詰まってしまい――そして横から、アイ=ファに頭を小突かれたのだった。
「アスタよ。私もあまり、同じ説教を繰り返したくはないのだが――」
「ごめんごめん。でも、こればかりはしかたないだろう?」
そんな風に答えながら、俺は目もとに浮かんだものを手の甲でぬぐった。
アイ=ファは「しかたのないやつだ」とでも言いたげに、眉を下げて微笑んでいる。
そうして俺は、中天から日没までの間、リリンの人々のために力を尽くし――そんなていどではとうてい釣り合わないような、幸福な気持ちを授かることがかなったのだった。