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異世界料理道  作者: EDA
第六十六章 再興の日々
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帰還と再来②~意外な申し出~

2021.12/7 更新分 1/1

 ジャガルの行商人が、ジェノスに猟犬を運んできた。

 これはシュミラル=リリンのおかげで猟犬を買いつけるようになってから、3度目のことであった。


 1度目は去年の朱の月で、およそ1年と3ヶ月前。その際に、ファの家では初めての猟犬たるブレイブを招くことになった。これはモルン・ルティム=ドムが秘めていた恋心を家族に明かして北の集落に逗留し始めたというイベントが付随していたため、俺もはっきりと印象に残されていた。


 2度目は去年の青の月なので、ちょうど1年前。『アムスホルンの寝返り』によって倒壊したファの家が再建されてからしばらくして、行商人が再来したのだ。そこでファの家に迎えられたのが、2番目の猟犬たるドゥルムアである。


 それから1年も時間が空いてしまったのは――やはり、猟犬というものはそんな一朝一夕に育てられるものではない、ということなのだろう。何せ前回はいっぺんに30頭以上もの猟犬を買いつけたため、その行商人が伝手を持つ牧場からすべての猟犬をかき集めることになったのだと聞かされていた。


「そもそもそれほど大量の猟犬をいちどきに買いつけようとする者など、これまでになかったようですな。行商人の御方もお喜びになると同時に、ずいぶん呆れていたようですぞ」


 ジェノス侯爵家からの使者はそのように語らっていたが、俺たちはそんな話もリアルタイムでシュミラル=リリンから聞いていた。


 何はともあれ、新たな猟犬が届けられたのは喜ばしい限りである。森辺においては前々から、もっとたくさんの猟犬を家人に迎えたいという声があげられていたのだ。


「行商人の御方もすっかり森辺の方々を信用されたようですので、このたびは自ら森辺に出向くこともやぶさかではないと仰っていたのですが……いささかならず、今は時期が悪くありましょう? ご足労ですが、今回もこれまで通り、城下町まで引き取りに来ていただけないかと……侯爵家の方々は、そのように仰っています」


 使者の男性は、そんな風にも言っていたらしい。

 猟犬の行商人を森辺にお招きできないのは残念なところであるが、こればかりは致し方ないところであろう。ムントの撃退法は確立されているものの、万が一のことがあってはジェノスの信用問題になってしまうのだ。


 そんなわけで、シュミラル=リリンはジェノスに戻ってきた翌日に、狩人の仕事を休んで城下町に向かうことになってしまった。引き取った猟犬にはギバ狩りに必要な再調教をしなければならないため、けっこうな時間を費やすことになるのである。


「ただ今回は、リャダ=ルウとバルシャにも同行してもらったよ。前々から、見定め役や調教役ってやつはリャダ=ルウに引き継がせようって話になってたからね。バルシャもルウ家の家人になったことだし、そいつを手伝ってもらうことになったのさ」


 屋台の商売の前に立ち寄ったルウの集落において、俺はミーア・レイ母さんからそんな言葉を聞かされることになった。シュミラル=リリンがジェノスを離れている間に猟犬が届けられる事態に備えて、そういった話が進められていたわけである。

 ただ残念ながら、シュミラル=リリンたちはもう城下町に出立してしまったとのことであった。


「あとはついでに、リミも連れていってもらったよ。行商人のお人が、森辺の料理をせがんでいたそうだからさ」


 それはもともとポルアースの発案で始められたことであった。当初は行商人の人々が森辺の民に不審の念を抱いていたため、交流を深めるためにギバ料理をご馳走してみてはどうかと提案されたのだ。

 これまではヴィナ・ルウ=リリンも料理を作るために同行していたはずであるが、もちろん現在は遠出を控えているため、リミ=ルウが単身で出向いたのだという話であった。


 そんなわけで、俺は非常にそわそわとしながら、その日の仕事に取り組むことになった。

 とはいえ、猟犬の到来をそうまで楽しみにしていたわけではない。もちろん猟犬が増えるのは喜ばしい話であるが、ファの家はすでに2頭も家人として迎えているため、これ以上は増員の必要もなかったのだ。


 よって、俺がそわそわしているのは、シュミラル=リリンに関してであった。

 リリンの家に戻ったシュミラル=リリンが、ヴィナ・ルウ=リリンからおめでたい話を聞かされて、いったいどれほど幸福な気持ちを授かれたのか――それをこの目で確認したくてならなかったのである。


「でしたら昨日、シュミラル=リリンを家にお送りする際に同行されればよかったのではないですか?」


 本日の相方であるレイ=マトゥアがそんな風に言いたててきたので、俺は「いやいや」と応じてみせた。


「いくら何でも、そんな図々しい真似はできないよ。そういう大事な時間は、家族だけで過ごすべきだと思うからね」


「そうですか。アスタは本当に、シュミラル=リリンのことを大切に思っているのですね」


 と、連日で心中を見透かされてしまう俺であった。


 しかし残念ながら、屋台の商売中はシュミラル=リリンに挨拶することもできなかった。シュミラル=リリンたちが城下町から戻ったのはちょうど中天のピークのさなかであったため、あちらが遠慮してそのまま通り過ぎてしまったのである。


(しょうがない。集落に帰るまで、お楽しみはおあずけだな)


 俺は気持ちを切り替えて、仕事に集中することにした。

 レイ=マトゥアは懸命に、『ギバの玉焼き』の作製に取り組んでいる。営業開始から1度の失敗も見られないので、彼女も完全にマスターしたものと見なして問題ないようだった。


「こちらの料理は、面白いし美味しいですよね! マトゥアの家でもこの器具を買いつけることが許されるかどうか、家長に相談してみようと思います!」


「そっか。それじゃあ今後は商売の後に、この器具をみんなの家に持ち帰ってもらおうかな。実際に料理を食べてもらったほうが、家長たちも納得できるだろう?」


「ありがとうございます! 美味しく仕上げて、家長たちを説き伏せてみせます!」


 そんな平和なやりとりを経て、その日の営業も無事に終了した。

 いざ森辺に戻る前に、俺はかまど番を集めて説明をさせていただく。


「申し訳ないんだけど、帰りにちょっとルウの集落に寄らせてもらってもいいかな? シュミラル=リリンと、話したいことがあるんだ」


「もちろんです! わたしたちも、新しい猟犬たちを拝見したいので!」


 レイ=マトゥアを筆頭に、誰もが快諾してくれた。

 ちなみにこのような通達を回したのは、森辺においても勉強会の再開が許されて、本日はファの家で開催する日取りであったためである。ポルアースたちの尽力によって、外の領地から買いつける食材で問題なく過ごせる見込みが立ったため、それらは好きなように扱ってかまわないというお言葉をいただけたのだ。


「これでようやく、祝宴を開くことも許されるわけですね。婚儀をあげる予定であった者たちも、心から喜ぶことでしょう」


 ラッツの女衆は、そんな風に言っていた。邪神教団のもたらした災厄というのは、そんな部分でも人々に心労を負わせていたのである。

 ちなみに城下町においてはいまだに祝宴を自粛中であるという話であったが、それは食材不足ではなく財政がらみの案件であるのだそうだ。ダレイムの畑が甚大なダメージを負ったゆえに、経済のバランスが大きく崩れてしまったのだろう。俺たちは外部から届けられる食材を買いつけるだけで事足りるが、そもそも最初に大きな資産を動かして食材を流通させているのは、貴き人々とそれに管理されている問屋であるのだった。


(それに、ダレイム南端への支援だって、けっこうな負担なんだろうしな)


 ガズラン=ルティムの交渉によって、傀儡使いのリコたちはダレイム南端に派遣されていた。畑の復興に尽力する人々を慰労するため、リコたちが傀儡の劇を披露しているのだ。そちらに対する褒賞も、ジェノス侯爵家あたりが準備しているはずなのである。


 そもそもダレイム南端の人々は畑が全滅してしまったのだから、銅貨を稼ぐ手段も失われてしまっている。それらの人々の生活費や、畑の復興に必要な費用や、10日間にも及んだ家屋の修繕の費用や、討伐部隊の遠征の費用や――そういったものも、すべてジェノスの財でまかなわれているのだった。


(それに、森辺の狩人を出兵させた件でも、けっこうな褒賞がいただけたって話だもんな。もちろんガズラン=ルティムたちは兵士でもないのに生命を張って使命を果たしたんだから、当然の話なんだろうけど……貴族の人たちは、大変だ)


 そんな思いを抱きながら、俺はひさびさに来訪したプラティカに笑いかけてみせた。


「そういったわけで、プラティカにもご容赦を願いますね。ちょっと話があるだけですので、四半刻もかからないと思います」


 ゲルドの料理番たるプラティカは、邪神教団にまつわる騒ぎが収まるまで、ずっと城下町に引きとめられていたのだそうだ。プラティカ自身は森辺の集落を心配してくれていたのだが、邪魔になってはいけないからとたしなめられていたとのことである。


 まあそれは、おそらくプラティカの安全を思ってのことであったのだろう。何せ彼女はゲルドの藩主の料理番として返り咲くことが確約されているようなものであるのだから、ジェノスにとっては賓客に等しい存在であるのだ。それが邪神教団にまつわる騒ぎで不測の事態に陥ってしまったら、アルヴァッハたちに面目が立たなくなってしまうのだろう。


 そんなわけで、宿場町にやってくるのも半月以上ぶりとなるプラティカは、相変わらずの凛々しい眼差しで「はい」とうなずいた。


「私、見物人ですので、アスタの意向、従います。なおかつ、私もまた、シュミラル=リリン、挨拶をしたい、願っています」


「ああ、アリシュナもシュミラル=リリンのことをご存じなのでしたね」


「はい。アルヴァッハ様、婚儀の祝宴、参席されていますので、お話、うかがいました。シムから森辺、移り住んだ、シュミラル=リリン、興味、引かれます」


 プラティカ自身は《銀の壺》がジェノスを出立してから来訪した身であったため、シュミラル=リリンとは顔をあわせたこともないのだ。


「それに、傀儡の劇、心待ちにしています。傀儡使い、まだダレイムですか?」


「はい。数日ほどは、あちらで過ごすそうですよ。空いた時間は、傀儡の新しい衣装の作製に勤しんでいるそうです」


「そうですか。来訪、楽しみです」と、プラティカはそわそわと身をゆする。草原の民よりも勇猛な雰囲気を有するゲルドの少女であるが、そうして無表情のまま感情をこぼすさまは、実に愛くるしかった。


「それじゃあ、出発しましょう。プラティカは、こちらの荷車にどうぞ」


 そうして俺たちは、いざ森辺の集落を目指すことになった。

 荷台では、ジルベとサチがユン=スドラたちに可愛がられている。不愛想なサチはともかく、ジルベにとってはこれも楽しいひとときなのだろう。ジルベは甘えん坊な面もあるので、家にひとりでいるよりはよほど嬉しいはずであった。


「ジルベ。ルウの集落にはたくさんの猟犬がいるはずだけど、仲良くするんだぞ」


 俺が御者台からそのように呼びかけると、ジルベは弾んだ声音で「わふっ」と応じてくれた。

 そうしてついに、ルウの集落に到着である。

 広場の賑わいは察して余りあったので、俺たちは集落の入り口で荷車を降りて、徒歩でお邪魔することにした。新たな猟犬たちの姿を拝見するために、ほとんど全員が同行を願っていたのだ。


 広場には、想像通りの光景が繰り広げられていた。

 猟犬たちにギバ狩りの作法を教え込むシュミラル=リリンと、それを手伝うリャダ=ルウにバルシャ、それに見物人たる女衆や幼子たちだ。


「レイナ姉、お帰りー! アスタたちも、お疲れさまー!」


 その人垣にまぎれていたリミ=ルウが、てけてけと元気に駆けてくる。


「あっ! プラティカ、ひさしぶりー! やっと森辺に来られるようになったんだね!」


「はい。今後とも、ご教示、お願いします」


 と、慇懃に一礼してから、プラティカは紫色の鋭い目を広場の中央に向けなおした。


「それにしても、壮観です。猟犬、これほどの数、初めて目にしました」


「うん、すごいよねー! 今回は、50頭もいるんだよー!」


 さすが1年がかりということで、行商人もそれだけの猟犬を準備してくれたのだ。それでもドンダ=ルウらは前回の倍の数でもかまわないと伝えていたはずなので、これでもまだこちらの上限には達していないのだった。

 と、俺たちがやいやい騒いでいると、猟犬たちの世話をリャダ=ルウらに託したシュミラル=リリンが、小走りでこちらに近づいてきた。


「あ、シュミラル=リリン、お忙しいところを――」


「アスタ、お待ちしていました」


 シュミラル=リリンが俺の言葉をさえぎるというのは、常にないことである。

 さらにシュミラル=リリンは、小走りの勢いそのままに、俺の手の先を両手でひっつかんできたのだった。


「アスタ、ご存じでしょうが、ヴィナ・ルウ、赤子、授かったのです。私……私、言葉、なりません」


「はい。俺もそれで、お祝いのお言葉を届けに参ったのですよ」


 俺がシュミラル=リリンの手を握り返すと、さらに強い力が返されてきた。


「アスタ、ご存じだったのに、あえて、語らなかったのですね。ヴィナ・ルウ、とても感謝していました」


「はい。それだけは絶対に口をすべらさないぞと、心に誓っていましたよ。部外者の口からおめでたの報告がされるなんて、絶対にあってはならないことでしょうからね」


「アスタ、部外者、ありません。ですが、心遣い、感謝しています」


 まだ西方神の子となってから間もないシュミラル=リリンは、表情を動かすのが得手ではない。しかしそのシャープな顔には、これ以上もなく喜びの念があふれかえっていた。

 特にその、切れ長の目に瞬く黒い瞳である。いつも沈着で穏やかな光をたたえたその瞳が、今は子供のようにあけっぴろげな歓喜の輝きをたたえていたのだった。


「シュミラル=リリンはこれから1年ぐらい森辺で過ごせるのですから、出産には立ちあえますよね。それを喜ばしく思います」


「はい。《銀の壺》、出産に立ちあえない覚悟、必要ですが……最初の子、立ちあえること、無上の喜び、抱いています。母なる森、父なる西方神、感謝です」


 シュミラル=リリンがこの話を聞いたのは昨日の昼下がりであるはずなのに、まだまだまったく昂揚は収まっていないようである。

 それを心から嬉しく思いながら、俺はシュミラル=リリンに笑いかけてみせた。


「あらためまして、おめでとうございます、シュミラル=リリン。おふたりの間にどのような子が産まれるのか、楽しみですね」


「はい。生誕、数ヶ月後ですが、どうか、アスタ、抱いてください」


 それだけ言って、シュミラル=リリンはようやく身を引いた。

 すると、大人しく見物していたプラティカが口を開く。


「シュミラル=リリン、熱情的です。いささか、印象、違っていました」


「はい。……あなた、どなたですか?」


「私、ゲルドの料理人、プラティカ=ゲル=アーマァヤです。ゲルドの藩主、第一子息、アルヴァッハ様、従者です」


「ああ……家族から、話、うかがっています。料理、修練のため、ジェノス、滞在しているのですね? 私、リリンの家人、シュミラル=リリンです」


 シュミラル=リリンは幸福な気持ちを隠しきれずに、瞳を輝かせて微笑んでいる。いっぽうアリシュナは、表情を動かすまいと眉のあたりに力を入れているようであった。


「あなた、森辺の民、相応しい、精悍な男衆、聞いていました。ですが、想像より、柔和、あるようです」


「はい。失望、させましたか?」


「いえ。ですが、あなた、容姿、東の民ですので……表情、動かす、違和感、覚えます。ただもちろん、神、移したのですから、異存、ありません」


 そんな風に語りながら、プラティカはつんとそっぽを向いてしまった。ここ最近の彼女には、ちょっと珍しい仕草である。

 すると、人垣から新たな人物が近づいてきた。朝方にもご挨拶をさせていただいた、ミーア・レイ母さんだ。


「やあ、アスタ。今日もご苦労様。……シュミラル=リリン、例の話はもうしたのかい?」


「いえ。アスタ、説明、必要でしょうか?」


「いや、ことさらアスタにだけ話す必要はないんだけど――」


 と、ミーア・レイ母さんは俺の足もとに視線を落とした。

 そこではジルベがででんと座り込み、きらきらと輝く瞳で猟犬たちのさまを見守っている。ついでのサチはその背中で丸くなり、大きなあくびをこぼしていた。


「――でも、そうだね。いちおう聞いてもらおうか。どうせ明日には、すべての氏族に通達される話だけどさ」


「はい。どういったお話でしょうか?」


「まずは、その目で見てもらおうか。そのほうが、話も早そうだ」


 ということで、俺は広場を迂回して、ルウの本家まで招かれることになった。追従するのは、シュミラル=リリンとプラティカと、ファの家の人間ならぬ家人たちのみだ。

 ミーア・レイ母さんは母屋を素通りして、その横合いのスペースにまで歩を進めた。そこには、猟犬を運んできたのであろう、ルウ家の荷車が鎮座ましましている。


「この子らには猟犬としてのしつけも不要ってことで、大人しくしてもらってるんだよ」


「この子ら? 荷台に誰かいるのですか?」


 ミーア・レイ母さんは曖昧に笑いながら、荷台の帳をめくりあげた。

 そこで待ちかまえていたのは――10頭ばかりの犬たちである。


「なるほど。しつけが必要ないというのは、どういうことでしょうか?」


「うん。猟犬ってのは、雄ばかりだろう? それでこの子らは、みんな雌の犬なんだよ。だから牧場って場所でも、猟犬としての修練を積まされてないって話なんだよね」


 では何故、雌の犬たる彼女たちがこの場に連れてこられたのか。

 その解答は、俺の想像の外であった。


「行商人のお人がね、この犬たちを猟犬たちの伴侶として買いつけてくれないかって……そんな風に言ってるらしいんだよ。飛蝗の騒ぎが収まったばかりだっていうのに、族長たちにはまた頭を悩ませてもらわないとならないだろうねえ」


                   ◇


 その夜である。

 ひさびさにプラティカを招いた晩餐の場で、俺がミーア・レイ母さんからの言葉を伝えてみせると、アイ=ファも心から驚いた様子であった。


「猟犬たちの、伴侶か……それは私も、まったく念頭になかったわけではないのだが……しかしそれは、行商人のほうから言い出した話であるのだな?」


「うん。今回で、森辺の民はもう100頭近くの猟犬を買いつけているだろう? その猟犬たちが子も生せないまま朽ちることになるのは、あまりに忍びないって……行商人のお人は、そんな風に言ってたらしいよ」


 ちなみに、正確な数は96頭。それに、シュミラル=リリンが西の王都から連れてきた最初の6頭もあわせると、森辺にはすでに102頭もの猟犬が存在するのだった。


「もともと雌の犬っていうのは番犬と繁殖のために売られてるらしくって、売り値は猟犬の半額なんだってさ。ただ、森辺の民は短期間ですごい数の猟犬を買ってくれたから、もっと割安で譲ってもいいって話らしいな」


「……そもそも犬というものは、どうして雄だけが猟犬として育てられるのであろうか? やはり雌の犬というのは、雄よりも狩りに向いていないのか?」


 アイ=ファが真剣な面持ちで問うてきたので、俺は「いや」と笑ってみせた。


「これはシュミラル=リリンに聞いたんだけど、雌でも訓練をすれば猟犬として働けるらしいよ。やっぱり雄のほうが大柄で力も強いみたいだけど、賢さでは雌のほうがまさる場合も多いんだってさ」


「では、何故に?」


「うん。どうやら雄と一緒に仕事をさせるっていうのが、まずいらしい。犬にはその、繁殖期ってものがあるから……そういう時期に一緒にいると、仕事をおろそかにしちゃう恐れがあるんだってさ」


 アイ=ファがうろんげに首を傾げると、一心に料理を食していたプラティカが面を上げた。


「交尾です」


「……なに? なんの話をしておるのだ、お前は?」


「ですから、仕事、おろそかにする理由です。獣、繁殖期、交尾する、必然です」


 アイ=ファは顔を赤くしながら、俺をにらみつけてきた。


「ま、まあ、そういうことらしいんだよ。そればっかりは獣としての本能だから、どんなにしつけてもどうにもならないんだってさ」


「……それで雌ばかりが、狩りの仕事から遠ざけられてしまうのか?」


「うん。他にも雌は、病魔に見舞われやすいって面があるらしい。それで雄だけを猟犬に仕上げるっていう習わしが生まれたみたいだな」


「なるほど」と、アイ=ファは気を取りなおしたように首肯した。

 するとプラティカが、いらぬ追い打ちをかけてくる。


「人間、常に、繁殖期です。アイ=ファ、美しいので、男衆、仕事をともにすれば、集中、乱されるかもしれません」


「ば、馬鹿なことを抜かすな! 私はつい先日もスドラやダイの狩人らとともに仕事を果たしたが、そのように粗忽な男衆などひとりして存在しなかったぞ!」


 プラティカは無表情のまま、紫色の目をぱちくりとさせた。


「……申し訳ありません。軽口でした。アイ=ファ、そこまで心、乱す、考えていなかったので……」


「やかましい!」と、アイ=ファは腕をのばしてプラティカの頭を優しく引っぱたいた。

 プラティカは口がとがるのをこらえているような面持ちで、ひっぱたかれた場所をさする。それはアイ=ファにそっくりの表情であったため、俺はひさかたぶりに微笑ましい気分を授かることができた。


「まあ、そんなわけでな。今回の10頭は、お試しとして森辺に預けたいそうだよ。もしも不要と判じられたなら、連絡ひとつで引き取りに来るんだってさ」


「引き取ると言っても、その行商人は南の民なのであろう? 自らそのような苦労を担おうというのか?」


「うん。最初に言った通り、そのお人は森辺に売った猟犬の行く末を案じてくれてるんだよ。だって、商売として考えたら、雌の犬なんて売らないほうが得だろう? 森辺の民だったら、産まれた子犬を自力で猟犬に育てられるかもしれないし……そうなったら、あっちはこんな大口のお得意さんを失うことになっちゃうわけだしさ」


「ふむ……」


「でもそれより、100頭近い猟犬が異国で孤独に朽ちていくほうが、我慢ならないんだってよ。きっとそのお人も、猟犬を人間みたいに大事に扱ってるんじゃないのかな」


「それはもちろん、猟犬の生命が人間より軽いことなど、ありえぬからな」


 人間ならぬ家人を溺愛するアイ=ファは、堂々たる口調でそのようにのたまわっていた。

 俺は温かい気持ちを抱きつつ、さらに言葉を重ねてみせる。


「とりあえず、この10頭を受け入れるかどうか、族長たちが話し合うらしいよ。明日の朝一番でルウ家に集まって、各氏族に猟犬を受け渡す際に会議の結果を伝える予定だってさ」


「なるほど。その結論が出る前に、何故にアスタが話を聞かされたのであろうか?」


「ああ、それはな……森辺の民の中でも、ファの家がもっとも獣の扱いに長けているように感じられるからだってさ。何せ我が家には、猟犬やトトスだけじゃなくジルベとサチもいるからなあ」


 それにかつてダリ=サウティたちをファの家に招いた際にも、アイ=ファがいかに猟犬たちを思いやっているかが取り沙汰されていた。ファの家は家人が少ないゆえに、もっとも猟犬たちと親密な関係を築けているようなのである。


「それでこれはミーア・レイ=ルウの個人的な意見だけど、もしも10頭の雌犬たちを受け入れることになったら、ファの家で1頭を引き受けてほしいんだってさ」


「なに? しかし……ファの家には、ジルベも含めて3頭の犬がおるのだぞ。そこに1頭の雌犬を迎え入れては、諍いのもとではないか?」


「今回の補充でおおよその氏族は2頭以上の猟犬を授かることになるから、そのあたりの条件に差はないんじゃないのかな。それに、猟犬同士で確かな絆が結ばれていたら、伴侶の取り合いにはならないはずだって話だよ」


 アイ=ファはいくぶん眉を下げながら、土間のほうに視線を向けた。

 ギルルは早くも丸くなっているが、3頭の犬たちは晩餐の名残であるギバの大腿骨をしゃぶっている。そしてアイ=ファの視線に気づくと、誰もが賢そうな目をきらきらと輝かせながら見返してくるのだった。


「ところでさ、アイ=ファはこんな話も念頭になかったわけではないって言ってたよな。ブレイブたちに伴侶を迎えたいって気持ちがあったわけか?」


「それはまあ……ピノから、あのような話を聞かされていたしな」


「ピノ? ピノが何だって?」


「ピノがサチをファの家に押しつけてきた際、いずれシムから雄の猫を連れてこようなどと言っていたではないか。サチが孤独のまま朽ちるのは不憫だなどと言いたててな」


 ピノとて復活祭の後にはジェノスを出立しているのだから、それはどうあっても半年以上も昔の話である。アイ=ファの記憶力は、さすがとしか言えなかった。


(まあそれ以上に、ブレイブたちの行く末を思う気持ちが強いってことなんだろうけどな)


 俺がそんなしみじみとした感慨を噛みしめていると、プラティカがまたふっと面を上げた。


「人間ならぬ家人、思いやるアイ=ファ、素晴らしい、思います。ですが、その前に、自分の伴侶は――」


 アイ=ファは再び腕をのばし、今度はぺしんぺしんとプラティカの頭を2度ほど引っぱたいた。


「何なのだ、お前は! 軽口しか叩けぬなら、黙って晩餐を喰らうがいい!」


「……申し訳ありません。ファの家、ひさびさであったので、少々、浮かれているかもしれません」


 そのように応じながら、プラティカはまたすねたような目つきになっている。ささやかな姉妹ゲンカのようで、やっぱり微笑ましい限りだ。


 ともあれ――10頭の雌犬たちは、いったいどのように扱われることになるのか。族長たちの決断が楽しみなところであった。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 「ああ、アリシュナもシュミラル=リリンのことをご存じなのでしたね」 アリシュナでなくプラティカですね、たぶん
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