帰還と再来①~二つの吉事~
2021.12/6 更新分 1/1
・今回は全7話です。
「読める!HJ文庫」に寄稿していた当作の番外編が、ウェブサイトのリニューアルにともない「ノベルアップ+」に転載されました。
内容は「母を偲ぶ日」「幼き狩人の誇り」「森辺のクリスマス」の3編となります。ご興味をもたれた御方はご笑覧くださいませ。
https://novelup.plus/story/810697027
青の月の17日――ダカルマス殿下と南の使節団の一行は、ついに故郷たる南の王都を目指してジェノスを出立することになった。
2ヶ月近くにも及んだダカルマス殿下たちのジェノス滞在が、ついに終わりを迎えたのだ。たび重なる試食会と、それに連なる礼賛の祝宴――さらには邪神教団にまつわる騒乱を経て、ダカルマス殿下との出会いというのは俺にとって忘れられない記憶として刻みつけられることになったのだった。
デルシェア姫だけは調理の勉強という名目で数ヶ月ばかりもジェノスに留まるそうであるが、しばらくは城下町にこもるという話であったので、今のところは俺にお呼びがかかる気配もない。いずれこちらにお役が回ってきたら、誠心誠意お相手をする所存である。
ただし、そうでなくても現在のジェノスは、いまだ平常ならぬ状態にある。
邪神教団の一派は討伐され、作物を荒らす飛蝗の駆除も完了したものの、ダレイム南端の畑が完全に復興するのは数ヶ月先であり、その間は各種の食材が不足してしまうのだ。
また、森辺においてもいくつかの懸念事項が残されている。
主たるは、荒らされた狩り場とムントの狂暴化についてであった。
サウティの血族は森辺の集落の南端に住まっているため、飛蝗の被害が著しく、狩り場の随所ではあらゆる草葉が喰らい尽くされてしまい、その場にはもう森の恵みが回復することもないのではないかと見なされていたのだった。
もちろん数年や数十年という歳月が流れれば、そういった場所にも緑が回復する可能性はあるのであろうが、それを漫然と待っているわけにはいかない事情が存在する。端的に言って、森の恵みが実らない場所にはギバも近づいてこないのだ。それはつまり、サウティの血族の狩り場が何割か縮小してしまったという事実を示していた。
「飛蝗の始末に追われてギバ狩りの仕事が滞っていた分、現時点では危険なぐらいにギバがあふれかえってしまっている。しかしそちらが落ち着いたならば、収獲に不足が生じるやもしれん。そのときは、狩り場をもっと奥部にまで広げるか――最悪、眷族のいくつかをもっと北側に移住させることになるやもしれんな」
ダリ=サウティは、そのように語らっていたそうだ。
まあ当面は収獲に困るどころか増殖したギバの対応にかかりきりであるので、先のことは不明であるとの話であった。
そしてもう一点のムントの狂暴化については、しばらく尾を引きそうな案件であった。何せ森には数千数万という飛蝗の屍骸が放置されていたため、それがムントの餌にもならないぐらい腐敗し果てるまでは予断を許せない状況であったのだった。
飛蝗の屍骸を喰らったムントは、運が悪いと寄生虫に寄生されて狂暴化してしまう。それを退けるには、グリギの果汁を使うしかないのだ。よって、俺や女衆が森の端で薪やピコの葉を採取する際や、宿場町におもむく際にも、グリギの果汁が必須となってしまったのだった。
「それに、ギバとて虫や蛇を喰らうことはあるのだから、飛蝗の屍骸を喰らわんと限った話ではない。ギバの臓物を取り分ける際には寄生虫というものがひそんでいないかどうか、入念に確かめる必要があろうな」
寄生虫の存在が明らかになった時点で、俺たちはそのように言い渡されていた。
まあ、このたびの寄生虫というのは全長が20センチばかりもあるので、見落とす心配は皆無であったが――ギバの腹を開くたびに寄生虫の存在を警戒しなければならないというのは、なかなかに神経の削れるものであった。
とはいえ、かまど番たる俺の苦労などは、微々たるものである。
本当に大変なのは、狂暴化したムントのうろつく狩り場で仕事を果たす狩人たちや、ダレイム南端で畑の復興に勤しむ人々であるのだから、泣き言などをこぼしているいとまはなかった。
一部の食材の不足に関しても、また然りである。ダレイムの収穫物が扱えないのはそれなりの痛手であったものの、宿場町の貧しい人々にとっては、それこそ死活問題になりかねないのだ。とりわけ安価で栄養価の高いアリアとポイタンの不足に関しては、貧困層にとって大きな痛手であるはずであった。
「これが2年以上も前の話であったなら、俺たちの家などは早々に滅んでいたやもしれんな。アスタのおかげで豊かな生活を得られたからこそ、俺たちは飢えずに済んでいるのだ」
そんな風に言ってくれたのは、ライエルファム=スドラであった。スドラの家に限らず、おおよその氏族はアリアとポイタンに頼って生き永らえていたため、まったく他人事ではなかっただろう。
しかし現在では、すべての氏族が一定の水準の暮らしを確保できている。
少なくとも、アリアとポイタンの不足で飢えるような氏族は存在しない。アリアとポイタンの代わりに他なる野菜とフワノを買うことになっても、経済的に困る氏族はなかったのだった。
「それに引き換え、貧民窟の連中は目の色を変えて朝の市場に押し寄せることになっちゃったからね! 宿屋なんかはこれまで通りの量を卸されてるから、なんの苦労もないけどさ!」
そのように語っていたのは、貧民窟に宿を構えるユーミであった。
ダレイムの野菜というのは朝の市場で大々的に販売され、余ったものが露店区域で販売される。現在はその朝の市場でひとつ余さず売り切れてしまうため、森辺の民もよほど早起きして宿場町に向かわなければ、ダレイムの野菜を購入することはかなわないという顛末であった。
が、そういった話が行き渡っても、市場に向かう森辺の民は存在しなかった。
自分たちがそちらの野菜を購入してしまうと、より貧しい人々が飢えてしまうという事実を察しているためである。かつてはジェノスでもっとも苦しい生活に身を置いていた森辺の民が、現在ではそうして他者を慮ることのできるぐらいの豊かさを得たということであった。
「どうしてもタラパやティノを使いたくなったら、城下町で割高なやつを買いつけることはできるからな。しばらくは、手に入る食材だけで何とかしてみようと思うよ」
俺がそのように伝えると、アイ=ファはとても優しげな面持ちで「うむ」と応じてくれたものであった。ファの家ばかりでなく、すべての氏族がそれなりの豊かさを手に入れたのだと再確認することができて、それを嬉しく、誇らしく思っているのだろう。俺にしてみても、それは同じことであった。
そんなわけで、俺は日常と非日常が微妙に入り混じった環境下で日々を過ごすことになり――そうして、青の月の17日を迎えることになったのである。
その日はダカルマス殿下がジェノスを出立しただけではなく、俺にとってはきわめて喜ばしいふたつの変事も待ちかまえていたのだった。
◇
その日も俺たちは、宿場町で屋台の商売に勤しんでいた。
前日はダカルマス殿下たちの送別会であったが、べつだん商売の準備に支障はなかったので、あえて休みは取らなかったのである。俺たちはメルフリードの要請があってからぶっ続けで商売を敢行しており、討伐部隊が帰還した日の翌日を休業日にさせていただいたので、そこからはまた5日営業して1日休むという元の日程に戻させてもらう予定であった。
もはや兵士たちの護衛も解除されているし、使節団の方々も帰国したということで、バルシャやリャダ=ルウが同行することもなくなっている。以前と異なるのは、ムント除けのために荷車がグリギの果汁の香りを匂いたたせていることと――あとは、ジルベとサチが俺のかたわらにちょこんと控えていることぐらいであった。
「グリギの細工を施しておけば、宿場町への行き来でムントに襲われることもあるまい。……しかし万一のこともあるので、しばらくはジルベを同行させるのだ」
それが、アイ=ファからのお達しであった。
ただそれは、俺の安全だけではなくジルベの心情をも思いやった上での判断であるようであった。
「やはりジルベも、家に残されるよりは家人のそばにあるほうが心を満たされるようだ。特にジルベはお前に懐いているので、喜びもひとしおであるのであろう」
そんなアイ=ファの言葉を証明するように、ジルベは騒がしい宿場町でもご機嫌の様子であった。
森辺においてはグリギの香りのしない人間を警戒するようにしつけられているジルベであるが、町なかではそういった命令も解除されている。ただ、俺に危害を及ぼそうとする存在を気取ったならば、すぐさま勇敢なるナイト役を果たしてくれることだろう。しかしまた、俺がそのような災厄に見舞われることはそうそうなかったので、ジルベも楽しそうにぱたぱたと尻尾を振るばかりであった。
ちなみにサチに関しては本人の自由意思に任せているのであるが、彼女も青の月となってから皆勤賞であった。それでおおよそは、ジルベの大きな背中の上で眠っている。家であろうがジルベの背中であろうが、サチは安らかに眠れる場所さえあれば満足な様子であった。
「よう、アスタ。今日もそいつを10人前、お願いするよ」
と、朝一番のピークが終わるなり、やってきたのは建築屋の面々であった。俺の屋台に並んでくれたのは、メイトンとバランのおやっさんである。
「毎度ありがとうございます。みなさんは、『ギバの玉焼き』がお気に召したみたいですね」
「ああ。まだ飽きるほど食べちゃいないからな。こんな珍しい料理は、アスタの屋台でしか食べられないしよ」
にこにこと笑いながら、メイトンはそんな風に言ってくれた。
「うまくいけば、この器具もジャガルで売りに出されるらしいですけどね。でもやっぱり、なかなかみなさんの故郷であるネルウィアまでは普及しないのでしょうかね」
「そうだなあ。ネルウィアとゼランドは、そうまで遠いわけじゃないけど……でもどっちにしろ、そいつでギバ料理を仕上げてくれるのはアスタだけだからな」
メイトンは、あくまで屈託がない。そしてバランのおやっさんが仏頂面であるのも、いつも通りのことであった。
ディアルからたこ焼き器を購入して以来、俺は毎日『ギバの玉焼き』を販売していた。ギバ・ベーコンとギャマの乾酪をフワノの生地で包み、マヨネーズと七味チットで味わっていただく、我が屋台の新商品だ。これは別にそうまで重用しようというつもりではなかったのだが、物珍しさも手伝ってずいぶんな人気商品と成り果ててしまったため、取り下げるタイミングを失した状態にあった。
よって、現在は『ギバ・カレー』をしばしお休みとさせていただき、そちらの屋台で『カレーチャーハン』と『クリームパスタ』を交互に販売してもらっている。ホウレンソウのごときナナールが使えないため、パスタの具材はレタスのごときマ・ティノとブナシメジモドキだ。
それで3つ目の屋台においては、『ケル焼き』と『ギバまん』のコンビと2日置きに、日替わりメニューを出している。ダレイムの野菜を使えないとどうしても日替わりメニューの献立がせばまってしまうため、ゆとりをもって考案できるような体制を敷いたのだ。そういう意味では、『ギバの玉焼き』が人気を博したのもいいタイミングであったのだろう。
「……集落の者たちは、息災であるのか? 森辺では、まだ多くの問題が残されているのだろう?」
と、『ギバの玉焼き』が仕上がるまでの間、バランのおやっさんがそんな風に問うてきた。
「ええ。問題はあれこれ残されていますが、狩人のみんなも元気です。飛蝗の始末に追われていた頃は、本当に大変そうでしたからね」
「そうか。俺たちのことなどは、何も気にする必要はないからな」
ぶすっとした顔のおやっさんに、俺は「いえいえ」と笑いかけてみせた。
「もうちょっと生活のほうが落ち着いたら、またみなさんを森辺にご招待できると思います。それに、ジェノスに滞在する期間も多少延長されるのですよね?」
「ふん。10日ばかりもダレイムのほうに駆り出されて、こちらの仕事が滞ってしまったからな。同じていどは長く居残らんと、仕事が終わる道理はない」
「その頃には、祝宴を開けるぐらいの状態になっているかもしれません。それが無理なら、せめて晩餐にご招待いたしますよ。……これは俺だけじゃなく、多くの人たちが望んでいることですから」
実際に、飛蝗の騒ぎが収まって、狩人たちの疲弊も癒された頃、あちこちの氏族からそのような声があげられたのである。建築屋の面々とは限られた期間しか交流できないのだから、その機会を逃したくない――という、ありがたい言葉である。
「故郷でみなさんのお帰りを待ちわびているご家族の方々には申し訳ないですけれど、おやっさんたちの滞在が延長されて嬉しく思っています。どうか出立の日まで、よろしくお願いいたしますね」
「ふん。俺たちの帰りが10日ばかり遅くなっても、どうせ故郷の家族連中は――」
と、そのように言いかけたおやっさんが、はっとしたように目を見開いた。
そして、笑顔になるのをこらえるように眉をひそめて、「来たな」という言葉をこぼす。
「アスタよ、俺たちなどにかまけている場合ではないようだぞ。せいぜい無事な帰りを祝ってやるといい」
おやっさんのそんな言葉だけで、俺はすべてを察することができた。
本日は、青の月の17日――青の月の半ばを過ぎてから、俺は今か今かと帰りを心待ちにしていた人々があったのだった。
「アスタ。息災なこと、嬉しく思います」
やがて、『ギバの玉焼き』が焼きあがった頃、その懐かしい声が響きわたった。
おやっさんたちの横に並んだ人物が、マントのフードを後方にはねのける。そこからこぼれ落ちたのは、綺麗な白銀の長い髪だ。
「シュミラル=リリン……無事なお帰りをお待ちしていました」
俺は声が震えてしまわないように自分を律しながら、そのように答えてみせた。
青の月の中旬は、『銀の壺』が行商から帰還する日取りであったのだ。
半年ぶりに見るシュミラル=リリンは、俺が知っている通りの懐かしい顔で微笑んでいた。
その切れ長の目に宿された優しげな光も、口もとに浮かべられたやわらかい微笑みも、何ひとつ変わっていない。俺にとっての大切な友人、シュミラル=リリンの好ましい姿であった。
「隣町、ダバッグにて、ジェノスを見舞った災厄、聞き及びました。アスタ、無事であること、行商人、聞きましたが――」
「リリンの方々も、みんな元気です。出兵で負傷した方々もおられますが、取り返しがつかないほどの深手を負った人はいません」
俺がせわしなく答えると、シュミラル=リリンは深々と安堵の息をついた。
「ありがとうございます。飛蝗であれば、死傷者はない、思っていましたが……邪神教団、相手では、どのような危険、見舞われたかも、わかりませんでしたので……」
「はい。俺たちが真っ先にシュミラル=リリンとお会いできる公算は高かったので、リリンの家の様子も確認しておきました。ヴィナ・ルウ=リリンはもちろん、リリンの家から出兵した男衆も無事です」
「ありがとうございます」と繰り返して、シュミラル=リリンはまた微笑んだ。
なんだか、見ているこちらが涙をこぼしてしまいそうになるほど、情愛に満ちた微笑である。
「昨晩、どうしても、不安、ぬぐいきれませんでした。よって、太陽、のぼる前から、トトス、走らせてもらったのです」
「ええ。ダバッグからジェノスまでは、どんなに急いでも半日がかりですもんね」
しかし現在は、中天までに半刻ばかりを残している。それはシュミラル=リリンたちが夜明けの半刻前にダバッグを出立したという証であった。
そうして俺たちが再会の喜びを噛みしめている間に、相方のマルフィラ=ナハムがおやっさんたちの大皿にひょいひょいと『ギバの玉焼き』を移し替えていく。手先の器用なマルフィラ=ナハムは、ここ数日で『ギバの玉焼き』の作り方を完全にマスターしていたのだった。
「さて、俺たちの用事は済んだ。それではな」
大皿を受け取ったおやっさんに、シュミラル=リリンが穏やかな眼差しを向ける。
「ご挨拶、遅れてしまい、申し訳ありません。バラン、メイトン、息災、何よりです」
「ああ、そっちもな。邪魔はしないから、存分にアスタとのおしゃべりを楽しみな」
メイトンはにっと白い歯をこぼして、おやっさんとともに立ち去っていった。もともとは2年前から顔をあわせていた間柄であるし、シュミラル=リリン個人は西方神に神を移した身であるので、もはやメイトンたちが忌避する理由はないのだ。復活祭においてはけっこうな頻度で顔をあわせていたため、ぎこちなさも完全に払拭された様子であった。
「実はつい先日、リコたちもジェノスに来てくれたのですよ。その前には、ディアルも戻ってきたところでしたし……何かもう、千客万来という気持ちです」
「はい。ディアル、ジェノス、離れていましたか?」
「あ、そうか。ディアルがジェノスを離れたのは、2ヶ月ちょっと前の話でした。ディアルもずいぶん長いことジェノスに逗留していたので、休暇で里帰りしていたのですよ」
半年ぶりの再会で、話題が尽きることはない。それにシュミラル=リリンとしては、飛蝗の被害や災厄の顛末についても気にかかるところであろう。
そうして俺が、何から話したものかと考えあぐねていると、南の方角から《銀の壺》の他なる面々もやってきたのだった。
「アスタ、おひさしぶりです。ジェノス、無事、何よりでした」
「ああ、ラダジッドたちもおひさしぶりです。《玄翁亭》に、荷車を預けてきたのですね」
俺の位置からは確認できなかったが、ダバッグ経由であれば街道の北側から荷車を引いてきたはずであるのだ。バランのおやっさんがそれに気づくのと同時に、荷車から離脱したシュミラル=リリンが単身で屋台に来てくれたということなのだろう。
《銀の壺》の面々は、誰もが変わらぬ姿を見せていた。
シュミラル=リリンとラダジッドを含めて、総勢は10名。俺の屋台の最初のお客である若い団員も、星読みを得意とする初老の団員も、誰もがフードをおろして丁寧に挨拶をしてくれた。
「シュミラル=リリン、仕事、ここまでです。半年間、お疲れ様でした。今後、自由、お過ごしください」
「はい。ありがとうございます。何か用事、生じたならば、いつでもご連絡、お願いします」
シュミラル=リリンとラダジッドは、屋台の前でそんな言葉を交わしていた。《銀の壺》はこれからひと月ほどジェノスで商売に励むわけであるが、シュミラル=リリンの労働契約はこのジェノスに戻るまでであるのだ。
西の言葉ではいささか仰々しく聞こえるやり取りであるが、シュミラル=リリンもラダジッドもその眼差しは温かかった。家族に恵まれなかったシュミラル=リリンにとって、《銀の壺》の団員たちは血族同然の間柄であるのだ。いっさい表情を動かさないラダジッドたちでも、俺がその真情を見誤ることはなかった。
「とりあえず、食事、済ませましょう。シュミラル=リリン、その後、リリンの家、戻るのですね?」
「はい。家族、待っていますので」
そこで俺は、慌てて声をあげることになった。
「お待ちください、シュミラル=リリン。実は今、森辺ではムントの狂暴化が問題になっているんです。腕飾りの他に、干していないグリギの実の持ち合わせはありますか?」
「ムント、狂暴化? ……グリギの実、持ち合わせ、ありません」
「でしたら、こちらの商売が終わるのを待って、一緒に森辺に戻りましょう。荷車には、グリギの果汁でムント除けの用心をしていますので」
シュミラル=リリンは切なげに眉をひそめつつ、屋台の内側に身を乗り出してきた。
「ムント、狂暴化、危険です。集落の家、安全ですか?」
「はい。どの家も、グリギの果汁でムントを退けています。狂暴化したムントも、グリギの果汁の香りは忌避するのだそうですよ」
「そうですか。……家族、会いたい気持ち、いっそうふくらみます」
と、シュミラル=リリンは眉をひそめたまま微笑んだ。
「ですが、危険、冒せば、叱責されるでしょう。心、静めて、商売の終わり、待ちます」
「はい。もしお時間があったら、俺にもおしゃべりさせてください」
俺は少しでもシュミラル=リリンの心を慰められればと、精一杯の笑顔を送ってみせた。それでシュミラル=リリンも、ようやく愁眉を開いてくれたのだった。
《銀の壺》の面々はあらためて屋台に並んで、料理を購入していく。その間に、シュミラル=リリンはルウの血族たちにも帰還の挨拶をしていた。
そして俺のかたわらからは、マルフィラ=ナハムがふにゃんと笑いかけてくる。
「た、た、確かにここ最近は、色々な方々がジェノスに戻ってきましたけれど……や、やっぱりシュミラル=リリンのお帰りが、アスタにはひときわ嬉しいようですね」
「そりゃまあ、シュミラル=リリンには一番古くから親しくさせてもらっているからね。バランのおやっさんたちだって、それは同じことだけど……」
「は、は、はい。け、建築屋の方々が来訪された際も、アスタはとても嬉しそうでした。た、ただ、シュミラル=リリンは森辺の同胞ですので、さらなる喜びが加えられるのかもしれませんね」
俺は大切な相手に順番をつけたりはしたくない。が、シュミラル=リリンがひときわ大事であるという事実に疑いはないので、ことさらマルフィラ=ナハムの感想を否定する気にはなれなかった。
それから中天が近づくにつれ、客足はどんどん増していく。
俺はマルフィラ=ナハムの仕事を見守りつつ、お客から銅貨を受け取る役目を受け持ち――それから半刻ていどで客足が落ち着くと、屋台の裏からシュミラル=リリンとラダジッドが近づいてきたのだった。
「アスタ。私、シュミラル=リリンと一緒、話、うかがってもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろん。他の方々は帰られたのですか?」
「はい。大勢ですと、ご迷惑ですので」
東の民としてもひときわ長身のラダジッドは、190センチぐらいの高みで穏やかな眼差しをしていた。
「食堂でも、多少、話、うかがいました。邪神教団の災厄、2度目であったのですね。私、とても驚いています」
「ええ。赤の月も、大変な騒ぎでした。さすがに王都にまでは伝えられていませんでしたか」
「はい。王宮、伝えられているのでしょうが、城下町、風聞、ありませんでした。ジェノス、あまりに遠いためでしょう」
それはまあ、荷車でもひと月がかりである辺境領地の騒動など、王都の城下町の人々にとっては関心の外であろう。俺だって、王都の出来事などはほとんど耳に入ってこないのだ。
「邪神教団、恐るべき存在です。根絶されたこと、喜ばしく思います」
「はい。それでも邪神教団というのは、大陸のあちこちに潜伏しているという噂のようですが……」
「ええ。ですが、邪神教団、石の都、近づきません。ジェノス、襲われたこと、不思議です」
これはまた、赤の月の騒動から念入りに説明する必要があるのだろう。
俺はそのように考えたが、ラダジッドはそれを察したように機先を制してきた。
「過去の話、宿場町、聞けると思います。私、シュミラル=リリン同様、現在の森辺、気になっています」
「ありがとうございます。現在の森辺は、飛蝗の被害とムントの狂暴化に悩まされているさなかですね」
『ギバの玉焼き』は焼きあげるのに時間がかかるため、その間はマルフィラ=ナハムの手もとをチェックしつつ、俺も存分に語らうことができた。
とりあえず、飛蝗の被害とムントの狂暴化について、ざっくりと説明する。しばらくダレイムの野菜が不足するようだと伝えると、シュミラル=リリンたちはたいそう驚いていた。
「だから、どの料理も、アリアとポイタン、使われていなかったのですか。不思議、思っていたのです」
「はい。もしもご不満な点があったら、お聞かせくださいね。今後の参考にさせていただきます」
「不満、ありません。いずれも、美味でした。……そう、それに、ジャガルの王子、今朝まで、滞在していたのですか? アスタ、トゥール=ディン、勲章、授かったと聞いて、驚いています」
「ああ、その話もありましたね。つい先日も、リコたちにあれこれ語ったところであったのですよ」
《銀の壺》とリコたちはほとんど同時期にジェノスを離れたので、同じだけの情報が欠落しているのである。ダカルマス殿下にまつわる話だけで、片手間に語るのが難しいぐらいであるのだが――それに加えて、アルヴァッハたちの再来や、トゥランの北の民たちが南方神に神を移したことや、モルン・ルティム=ドムの婚儀についてや、ルウ本家に新たな家族が誕生したことや――ざっと数えあげるだけでも、それだけの出来事が生じていたのだった。
(だけどまあ、ルウにまつわる話に関しては、血族の方々から聞くべきかな)
それにリリンの家では、とびきりのサプライズが待ち受けているのだ。それを耳にしたシュミラル=リリンがどれだけの喜びをあらわにするかと想像しただけで、俺は微笑をこぼしてしまいそうであった。
そうしてしばらくシュミラル=リリンたちとの歓談を楽しんでいると、新たな一団が屋台の裏から近づいてきた。
品のいい壮年の男性と、それを警護する2名の武官――オディフィアのためにトゥール=ディンから菓子を買いつける、ジェノス侯爵家の従者である。
トゥール=ディンは現在でも3日にいっぺん、オディフィアのために菓子を準備しているのだ。それを受け取った従者は、いつも通りのにこやかさでトゥール=ディンに一礼し――そして何故だか、トゥール=ディンともども俺のほうに近づいてきたのだった。
「あ、あの、こちらの御方がルウの方々に言伝をしたいとのことなので、ララ=ルウを呼んできますね」
「あ、うん。俺も一緒に話を聞くべきなのかな?」
「い、いえ、アスタではなく、シュミラル=リリンもご一緒のほうがいいかと思って……」
予定外の事態を苦手とするトゥール=ディンは、いくぶんあわあわとしながらルウの屋台のほうに駆けていった。
そうしてやってきたララ=ルウは、朗らかな表情で「やあ」と言う。
「どうもお疲れ様。ひさびさに、ジャガルから猟犬が届いたんだって?」
「はい。その受け渡しについて、森辺の族長ドンダ=ルウ殿に言伝をお願いしたいのです」
従者の男性は悠揚せまらず、そのように言っていた。
俺のかたわらでは、シュミラル=リリンが目をぱちくりとさせている。猟犬を買いつける際は、いつもシュミラル=リリンが見定め役を担っていたのだ。それでトゥール=ディンも、シュミラル=リリンに同席させるべきかと考えたのだろう。
「……新たな猟犬、私と同時、ジェノス、到着したのですね。何か、不思議な心地です」
「ええ。まったく関係はありませんけど、ダカルマス殿下がジェノスを出立した日でもありますしね」
ダカルマス殿下と南の使節団がジェノスを離れて、《銀の壺》と猟犬の行商人がジェノスにやってきた。そこには何の因果関係も存在しないのだが――なんとなく、騒がしい日々はこうして続いていくのだぞと、天上の神々に悪戯を仕掛けられたような心地であった。




