復興の日々③~使者~
2021.11/17 更新分 1/1
ムントの腹にひそんでいたのは、まぎれもなく寄生虫だった――そんな報告が城下町から届けられたのは、その日の夕刻のことであった。
「これは本来、水辺の虫や獣に寄生する寄生虫ですね。これに寄生された宿主は、捕食の欲求が高まって狂暴化するものと伝えられていますが――水や体液の内でなければ生き永らえることもかなわない、脆弱な寄生虫です。よって、ムントの腹から引きずり出された時点で息絶えたのでしょう」
使者によると、フェルメスはそのように語らっていたようだった。
「また、捕食されるたびに宿主をかえるというのも、アスタが指摘された通りです。ただし、これだけ肥大化してしまうと、捕食の最中に噛み千切られてしまうでしょうから、運よく無傷で生き残った寄生虫だけが宿主たるムントを狂暴化させたのでしょう。……察するに、この寄生虫を飛蝗に植えつけるというのも、妖術の一環なのでしょうね。飛蝗の大量発生か、あるいは巨大化をうながすために、この寄生虫が何らかの役割を負っているものと推察されます」
やはりフェルメスの博識には、舌を巻く思いであった。
ただし、そんなフェルメスをしても、有効な解決策は思いつかないとのことである。
「唯一有効であるのは、飛蝗の屍骸を焼き払うことでありますが……たとえ屍骸を岩場などに集めたとしても、森の中で火を放つというのは危ういことでしょう。かといって、数万に及ぶ飛蝗の屍骸を森の外まで運び出すというのも、あまりに労力がかかりますし……あとは、ジェノスの立場ある方々と森辺の方々にご判断をゆだねたく思います」
そんな苦労をかけるぐらいであれば、狂暴化したムントを相手取るほうがマシだ――というのが、三族長の判断であった。
「狩人を5人以上の組にすれば、どれだけのムントに囲まれても危ういことにはなるまい。これまでは3名ていどの人数で組んでいたのだから、飛蝗の退治にはいっそう時間がかかってしまおうが……まず重んずるべきは、同胞の安全であるからな」
「うむ。それにムントも、グリギの実の香りを嫌う。俺たちのつけている腕飾りていどでは効き目も薄いようだが、もぎたての実から汁をかけてやったら、逃げ出していったぞ。ならば、家の周りにもそういった細工を施しておけば、家人に危険が及ぶこともなかろう」
そんな会議が為されたのは、サウティ家の晩餐であったという。グラフ=ザザはサウティ家に逗留中であったため、ドンダ=ルウが使者からの言葉を伝えるために出向くことになったのだ。のちのちその内容を教えてくれたのは、お供として同行したルド=ルウであった。
「北の狩人たちのおかげで、サウティの狩り場もあらかた片付いたみたいだぜー。そうすると、いよいよ面倒な仕事に取り掛かる頃合いってこったなー」
面倒な仕事――それは、半日では帰ってこられないような遠方にまで、捜索の手をのばすということであった。朝一番で森に入り、本来の狩り場を踏み越えて、未知なる領域にひそむ飛蝗を退治しなければならないのだ。
「我々も、明日からその仕事に取り組む算段になっていた。ルウ家より北側にある氏族では、すでにその仕事に移行しているのだ」
アイ=ファは、そんな風に言っていた。アイ=ファとスドラ家の3名は別動隊としてダイの家に助勢していたが、フォウ、ガズ、ラッツ、ベイムを親筋とする氏族とディンおよびリッドは、すでにその段階に移行しているとのことである。
それよりも北側に住まうザザの血族とラヴィッツの血族、およびスンとミームの家は、ルウやサウティの眷族の家で仕事を果たしている。そして、狩り場における飛蝗退治を終えた氏族は、半分が森の奥部に足をのばし、もう半分がギバ狩りの仕事を再開させる手はずであるという話であった。
本当に森辺の狩人たちは、これまで以上の労苦を背負わされてしまっているのだ。
ギバ狩りの仕事とて過酷なことに変わりはないが、それでも中天まではゆっくり過ごすことができたし、数日に1度は休みを入れていた。しかし青の月になってからは、朝から晩まで森に入り続けているのである。飛蝗そのものは容易い相手でも、飢えたギバや狂暴化したムントを警戒してのことであるのだから、それは大変な労苦であるはずであった。
フォウの男衆は疲弊が溜まっているようだと、俺は屋台の商売を再開させた日に聞き及んでいる。
アイ=ファやルウ家の狩人たちが、それと同じ状態に陥ったのは――それから3日後のことであった。
ダイ家に通う都合と夜間の安全面から、俺とアイ=ファはルウ家に逗留し続けている。最近は城下町から使者を迎える機会も多いし、それならいっそうルウ家に身を置くべきであろうというのが、アイ=ファの判断であった。
それで俺たちは、ひさびさに連日ルウ家で過ごすことになったわけであるが――日を重ねるごとに、狩人たちは口が重くなっていった。アイ=ファはもともと無口であったが、ドンダ=ルウとジザ=ルウもじわじわと口を開くことが少なくなり――しまいには、ルド=ルウまでもが眠そうな面持ちで黙々と晩餐を食するようになってしまったのだった。
「アイ=ファはね、寝所に入ったらすぐに眠るようになっちゃったの。森の主を相手にしてたときより、もっと疲れてるみたい」
アイ=ファと同じ寝所で眠るリミ=ルウが、そんな風に教えてくれた。
しかし、それで気落ちしないのが、リミ=ルウの強靭さである。
「だから晩餐は、美味しいものをいっぱい作ってあげようね! アリアは使えないけど、今日ははんばーぐにしようよ!」
「うん、そうしよう。ちょっと城下町のほうに話を通して、チャッチを分けてもらおうか? 少し値は張っちゃうけど、このさき何ヶ月もルド=ルウがチャッチを食べられないのは気の毒だもんね」
「うん、そうしよー!」
俺たちにできるのは、やっぱり料理を作ることぐらいであるのだ。
だけど俺はもう、無力感に苛まれているいとまなどなかった。俺がうじうじ思い悩んだって、アイ=ファたちの苦労が軽減するわけではないのだ。俺たちには料理を作ることしかできないが、同時にまた、美味なる料理で家人を力づけることができるのは俺たちだけであるのだった。
そんな中、俺はディアルから買い求めたたこ焼き器も活用することになった。
タコともイカともつかない謎の食材ヌニョンパは、西の王都からの輸入品であるため、これまで通りに流通している。まずはそれを使ってスタンダードなヌニョンパ焼きをこしらえてみせると、レイナ=ルウたちは感嘆の声をあげていた。
「この鉄板には丸を半分にした穴が空いているだけなのに、こんなまん丸の形に焼きあげることができるのですね! なんだか、不思議です!」
「うん。見た目は団子や饅頭と大差ないだろうけど、食感はまったく違ってるからね。これなら、評判を呼ぶこともできるんじゃないかな」
ただ問題は、具材である。俺たちはあくまでギバ肉の美味しさを知らしめるために屋台を出しているのだから、王道のヌニョンパ焼きでは主旨から外れてしまうのだ。
しかしまた、それでも具材に悩むことはなかった。むしろ、数ある候補の中からどれを採用するか迷ったぐらいの話である。
家で作るたこ焼きなどは、遊び心を発揮してなんぼのものであろう。俺も故郷では、数々の珍奇な料理を作りあげたものであるのだ。その経験が、図らずも活用できたわけであった。
それで最終的に選ばれたのは、ギバ・ベーコンとギャマの乾酪、長ネギのごときユラル・パと揚げ玉という組み合わせであった。
ウスターソースはダレイムの野菜不足で作製が難しいため、これをマヨネーズと七味チットでいただいていただく。ルウ家の晩餐でお出ししたところ、口数の減っていたルド=ルウも「おもしれー料理だなー」と笑顔をこぼしてくれたものであった。
いっぽうアイ=ファは「美味だな」という言葉をこぼすぐらいで眠そうな面持ちのままであったが、その眼差しはとても満足そうであった。
アイ=ファがこれほど疲れをあらわにするのは、かつてなかったことである。さすがに心配になった俺が就寝前に少しだけでもふたりきりの時間を作ってもらうと、アイ=ファはまたやわらかい眼差しになって「案ずるな」と言った。
「森の中で十全な働きを果たすために、身体が休息を欲しているだけのことだ。それでも休息の足りない狩人は無理をせず休むようにと、族長らに言いわたされているからな。何も危険なことはない」
「うん。俺もアイ=ファの判断を疑ったりはしないけど……」
「うむ。邪神教団の討伐に参ずることのできなかった私は、どの氏族よりも多くの仕事を果たすべきと考えている。しかし、それで無理をして仕事をしくじれば、いっそうの恥をさらすことになろう。決してそのようにぶざまな姿は見せん」
そう言って、アイ=ファはそっと俺の身を抱きしめてきたのだった。
「それに……森に朽ちては、お前とともに生きることもかなわなくなってしまうからな。私がそのような幸福を打ち捨てるとでも思うのか?」
「思わないよ」と答えた俺は、同じぐらいの力加減でアイ=ファの身を抱きしめてみせた。
◇
そうしてさらに、日は過ぎて――青の月の10日である。
飛蝗の災厄に見舞われてから10日目、ガズラン=ルティムたちが出兵してから7日目、屋台の商売を再開してから6日目であった。
本来であれば、年に1度の家長会議を行う日取りとなる。しかしもちろん、それはこの騒ぎが収まるまで延期するものと決定されていた。そしてその代わりとばかりに、その日にはいくつかの出来事が重なることに相成ったのだった。
まず、建築屋の面々が宿場町に戻ってきたのは、その日である。ダレイムの南端までは荷車を使っても往復で2時間以上もかかるため、彼らはずっとそちらに宿泊していたのだった。
「よう、アスタ! 会うのは、10日ぶりぐらいだったか? 元気そうで、何よりだったよ!」
屋台にやってくるなり大きな声でそう言ったのは、アルダスであった。
「ま、アスタたちに変わりがないって話は、あっちでも聞いてたけどさ。それでもやっぱり、実際に顔をあわさないと落ち着かないもんだからなあ」
「え? あちらで俺の風聞でも流れていたのですか?」
「風聞っていうか、森辺のお人らが食事を作りに来てくれたんだよ。アスタは聞いてなかったのかい?」
俺は、聞いていなかった。最近はドンダ=ルウらも口が重かったため、よほど重要な話でなければ語られることもなかったのだ。
「森辺の南の端に住む、ええと、サウティだったっけ? その血族のお人らが、食事の世話をしてくれたのさ。もちろんそれはダレイムのお人らに対するふるまいだけど、泊まり込んでた俺たちだって外すわけにはいかないだろうからな」
どうやら村落の人々は総出で畑の世話をするため、サウティの血族に食事の支度の依頼がされたということであるようだった。もちろん依頼したのは城下町の立場ある方々であり、サウティの女衆らは護民兵団の護衛つきで村落に行き来をしていたようだ。
「なんせ人数が人数だから、簡単な汁物料理ばかりだったけどよ。でも、ギバ肉が使われてるだけ、上等だろ?」
「ああ。最初の何日かは味気ないキミュスの汁物料理で、村落の人らもしょんぼりしてたしなあ。それを見かねて、貴族の人らが森辺の民を引っ張り出すことになったんじゃねえかな。そのへんの人らはギバ肉を食べるのも初めてだったみたいで、みんなたいそう喜んでたよ」
と、メイトンも笑顔で補足してくれる。やはりもっとも被害の大きかったダレイム南方の人々は、どこよりも手厚くケアされている様子であった。
「そういえば、ずいぶん前に鉄具屋の娘っ子が通りかかったぞ。あやつも無事に、城下町まで到着したのだろう?」
むすっとした顔のおやっさんがそんな風に呼びかけてきたので、俺は「はい」と笑顔を返してみせる。
「俺もディアルから、おやっさんたちの話を聞いていました。それでこれが、ディアルから買いつけた新兵器ですよ」
「なんだ、これは? 鉄板に穴ぼこが空いているではないか」
「よかったら、召し上がりませんか? 今のところ、お客さんには好評ですよ」
俺はたこ焼き器に具材を流し込み、自慢の料理を作りあげてみせた。
便宜上、こちらの料理は『ギバの玉焼き』と称している。『ギバ焼き』では何のことやらわからないので、そのように名付けた次第だ。
「ふむ。鉄板でフワノの生地や具材を焼き上げるというのは、あのユーミという娘が屋台に出している料理と似ているようだな」
「ええ。《西風亭》のお好み焼きにかなり近い料理です。ただ、形と焼き加減が異なるので、なかなか独特の美味しさだと思いますよ」
『ギバの玉焼き』は6個セットで赤銅貨2枚、1回の調理で10名分を作りあげることができる。しかし建築屋のメンバーは総勢20名で、全員が購入を希望したため、2回に分けることになった。
ただし、復活祭で大皿の便利さを知った彼らは、今回もそれを持参していた。よって、列に並ぶのは2名のみであり、残りの面々は他の屋台に列を為す。俺の前に留まったのは、バランのおやっさんとメイトンであった。
「食事の世話をしてくれた娘たちから、森辺の様子は聞いている。あの虫どもばかりでなく、それを喰らったムントまで悪さを始めたそうだな。お前たちが町まで下りてくるのに、危険はないのか?」
「はい。ムントが寄ってこないように、グリギの果汁で荷車を守っています。サウティの人たちも、そうだったのではないですか?」
「ああ、そういうことになるのか。……本当に、大変な災厄に見舞われたものだな。討伐に向かった同胞が戻るまで、お前も心が安らぐまい?」
「そうですね。でも、気落ちしているいとまはありませんので」
俺がそのように答えると、おやっさんは目を細めて微笑んでくれた。
急遽の仕事を受け持つことになった建築屋の面々も、ともに苦難を乗り越えようとしている同志のようなものであるのだ。そんな風に考えると、俺はいっそうの心強さを授かることができた。
往来では、大勢の人々が行き交っている。
衛兵の数は相変わらずであったが、それを除いた通行人の数も、災厄の前とそれほど差はないように感じられる。この時期になると、外套を纏う人間もずいぶん少なくなっていた。
それらの顔には、まだいくぶん警戒や緊迫の色が残されていたものの――町の賑わいに変わりはない。
俺たちが屋台を休み続けていたならば、これほどの活気も生まれていなかったのだろうか?
それを確かめるすべはなかったが、俺は充足した気持ちで仕事に取り組むことがかなったのだった。
「やあ、アスタ! 今日も料理をいただきに来たよー!」
と、おやっさんたちが青空食堂に向かったのと入れ替わりで、ディアルとラービスが顔を出してくれた。この6日間で、3度目の来訪である。
「実はね、アスタが考案したこの調理器具、城下町のほうで買い手がついたんだよ! それも、3件いっぺんにね!」
「へえ、それはすごいね。これの使い方を教えてから、まだ3日しか経ってないのに」
「へっへー! アスタが考案した器具を、僕が売りに出してるんだもん! これぐらい、当然の結果でしょ!」
どんなに威張りくさったことを言っても無邪気で可愛らしく見えてしまうのは、ディアルの人徳のようなものであろう。後ろでくくった髪がぴこぴこと動いているのではないかと思えるぐらい、ディアルは子犬のようにはしゃいでいた。
「それに、ハリアスに使い方を伝えるのも、ぎりぎり間に合ったからね! あとは父さんとハリアスの頑張り次第で、ジャガルのほうでも買い手がつくかもしれないし! ……本当は、宿場町でも売り込みをかけたいぐらいなんだけどさー。さすがに今は、時期が悪いよねー」
「そうだねえ。機会があったら、俺のほうでも器具の値段や使い方なんかを広めておくよ」
「え、ほんとー? そうしてくれたら、すごく助かるよ! ……でも、宿場町であんまり流行っちゃうと、アスタの料理が売れなくなっちゃうんじゃない?」
「俺は別に、この料理を屋台の目玉にしようってつもりではなかったからね。それよりも、誰かがこの器具を使って目新しい料理を考案してくれるほうが楽しみかな」
そんな風に言いながら、俺はディアルに笑いかけてみせた。
「それに……俺の考案した器具がジャガルでも売られるなんて、想像したら楽しい気分だよ。なんていうか、俺の生きた証が見知らぬ土地にまで広がっていくような感覚でさ」
「あはは。アスタの場合は、あの傀儡の劇でぞんぶんに広がってるだろうけどね!」
「いやあ、あれはちょっと気恥ずかしさがともなうからなぁ」
『ギバの玉焼き』をこしらえながら、俺は屈託なくディアルと笑い合うことができた。
「あ、それとね! こいつをきっかけにして、ついに王家の方々とお目見えすることができたんだよ!」
「ああ、そうなんだね。でも、これをきっかけにして?」
「うん! あのお人らは毎日のように使いをよこして、アスタたちの料理を買いつけてるんでしょ? で、この『ギバの玉焼き』って料理も、たいそうお気に召したみたいでさ! この器具を作りあげた僕の店にも興味を持ってくれたってわけだね!」
そんな風に言いながら、ディアルはえっへんとばかりに胸をそらした。
「本当は、あの手この手で近づく隙をうかがってたんだけどさー。今は城下町でも、派手な祝宴や晩餐会ってのは自粛中なんだよ。不足した食材の買い入れには目処がついたみたいだけど、やっぱり出兵中に浮かれるわけにはいかないんだろうねー」
「うん。ダレイムや森辺は、まだまだ復興のさなかなわけだしね」
「そうそう! そっちに送る支援金とかも募ってたりね! ポルアース様の家なんて、相当大変なんじゃないかなあ。飛蝗とかいうやつのせいで、領地の畑が大損害を受けたわけだしねー! ジェノス侯爵家が補助してなかったら、とうてい立ち行かなかったと思うよー!」
しかしまた、ダレイム南方の畑がいつまでも復興しなかったら、それはジェノスにおける食材不足に直結するのだ。
なおかつ、逗留客の減少はサトゥラス伯爵家のダメージになるのだろうし――畑の被害は出ていないトゥランも、まったく無関係ではないだろう。もとよりジェノスは余所の領地との通商にフワノやママリア酒を銅貨の代わりに差し出している面があったはずであるのだが、現在はポイタンの不足をフワノで補わなければならないため、何らかの手立てが講じられているはずであった。
けっきょくジェノスというものは、三大伯爵家の領地と森辺の集落あっての存在であるのだ。
だから現在は、その地に住まうすべての人々が手を携えて、この苦難を乗り越えようとしているはずであった。
「……でね、ダカルマス殿下もデルシェア姫も、アスタにすっごく会いたがってたよー! ダカルマス殿下なんかは、本当だったらもうジャガルに戻ってる頃合いだったんでしょ?」
「あ、うん。そのはずだね。俺なんかは、送別の祝宴の厨を預かる予定だったんだけど――」
「大々的な祝宴は自粛しないといけないから、つつましい晩餐会の料理をお願いするつもりだとか言ってたねー。まあ、それもこれも、邪神教団とかいう輩を殲滅した後の話だろうけどさ!」
ディアルがそんな風に言ったとき――往来のほうがわずかにざわめいて、サチとジルベに顔を上げさせた。
が、べつだん荒事が生じたような雰囲気ではない。やがて街道を北上してきたのは、トトスの手綱を引いたひとりの武官であった。
目にも鮮やかな真紅の外套を纏っているが、その下に見え隠れしているのは城下町でよく見かける白革の甲冑だ。その外套も甲冑もトトスも、いかにも長旅の帰りといった風情で薄汚れており、武官の顔にも疲労の色が濃かった。
「あれって、セルヴァの使者だよね。でも、甲冑はジェノスのものじゃない?」
いくぶん昂揚した声で、ディアルがそのように言いたてる。
セルヴァの領地を行き来する使者というものが真紅の外套や肩掛けを身につけていることは、俺もわきまえていた。この使者の通行をさまたげたならば重罪に処すというのが、西の王国の法であったのだ。
しかし、その使者がジェノスの甲冑を纏っているということは――
「待たれよ。貴官は、討伐部隊から派遣された使者であろうか?」
と、屋台の護衛に取り組んでいたマルスが、俺たちの目の前でその使者を呼び止めた。
使者は立ち止まり、疲弊していても力のある眼差しでマルスを見返す。
「如何にも、小官は邪神教団の討伐任務を負った第五大隊の使者であるが、何用か?」
「いや、気が逸って、つい呼び止めてしまったのだ。……邪神教団の討伐任務は、完了したのであろうか?」
使者は、いったんまぶたを閉ざし――それから、毅然とした声で「完了した」と宣言した。
「討伐部隊の本隊は、3日後に帰参する予定である。小官は先触れの使者として、ジェノス侯にその旨をお伝えしなければならんのだ。宿場町には、追って布告が回されよう」
それだけ言い残して、使者は街道を北上していった。
そして――宿場町にはさざ波のようにどよめきが広がり、いつしかそれが地を揺るがすような歓呼の嵐に変じたのだった。
「アスタ! 兵士や狩人たちが、ついに使命を果たしたのですね!」
隣の屋台で働いていたユン=スドラが、こらえかねたように俺の袖を引いてくる。その瞳も、純然たる喜びに光り輝いていた。
往来の人々は手を取り合って、この喜びを分かち合っていた。
中には、涙をこぼしている者もいる。ジェノスは本当に平和な日々を取り戻せるのかと、大きな不安にとらわれていた人々も少なくはないのだろう。
今はまだ、災厄の後始末をしているさなかとなる。飛蝗の駆除が完了したわけではないし、ダレイム南端の実りが回復するのは数ヶ月後であるのだ。
しかし今は、喜びに打ち震えても許されるはずであった。この10日間でつもりにつもった不安や悲嘆や憤懣を、喜びの念でかき消すべきであるのだ。
だから、後は――討伐部隊の無事を確認するばかりであった。
森辺の同胞を含む兵団は、果たして全員無事であるのか。ガズラン=ルティムやライエルファム=スドラ、ディグド=ルウやディール=ダイ、クルア=スンやアリシュナ――そういった人々が、3日後に元気な姿を見せてくれるのか。喜びにわきかえる人々の姿を見やりながら、俺は居ても立っても居られないような焦燥感を覚えることになったのだった。