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異世界料理道  作者: EDA
第六十五章 黒き竜の災厄
1116/1682

復興の日々①~騒乱の中で~

2021.11/15 更新分 1/1

・第65章の前に、「登場キャラクター一覧⑫」を差し込みました。

・今回の更新は全11話です。

 邪神教団を討伐するための兵団がジェノスを出兵した日の、翌日――青の月の4日から、俺たちは屋台の商売を再開させることになった。

 宿場町の活気を守るために尽力を願いたいというメルフリードからの依頼を、族長たちが承諾してくれたわけである。


 アイ=ファなどは相当に渋いお顔をしていたが、最後にはなんとか納得してくれた。メルフリードは護衛の部隊を準備してまで、商売の再開を願ってくれたのである。森辺の民の屋台は、もはや宿場町の活気の象徴である――というメルフリードの言葉には、俺も心からの誇らしさを抱くことがかなったのだった。


 俺以外のかまど番たちも、それはもう喜びをあらわにしていた。現在は食料不足を懸念して勉強会すら自粛していたので、かまど番としての腕がうずいていたのであろう。営業再開の日にかまど小屋に集結した面々は、誰もが力強く、そして晴れやかな表情をしていたものであった。


 ただ一点、取り仕切り役である俺やレイナ=ルウには頭を悩ませる案件が存在した。ダレイム南方の畑に大きな被害が出たため、そちらで収穫されていた作物に関してはしばらく不足するものと言い渡されていたためである。


 ダレイムで収穫されていた作物というのは、14種にものぼる。

 タマネギに似たアリア、トマトに似たタラパ、キャベツに似たティノ、ジャガイモに似たチャッチ、ニンジンに似たネェノン、ピーマンに似たプラ、ヤマイモに似たギーゴ、ホウレンソウに似たナナール、ニンニクに似たミャームー、ニラに似たペペ、キイチゴに似たアロウ、リンゴに似たラマム、レモンに似たシール――そして、穀物のポイタンである。


 それらの作物も、多少ばかりは余所の領地から買いつけられていた。が、それはダレイムで収穫されるものより上質で値の張るものに限られていたため、もともと城下町でしか出回っていなかったらしい。そういったものを多量に仕入れても、宿場町の人々が積極的に購入するかどうかは見込みが立たなかったため、現時点では保留にされているとのことであった。


 その代わり、もともと余所の領地から仕入れていた食材に関しては、莫大な量が発注されたのだという。要するに、ダレイム南方の畑が回復するまでは、そういった食材を中心に献立を組み立てなければならないということであった。


「つまりは、ここ2年ほどで自由に扱えるようになった食材だけを使って、献立を考案しなければならないということですね。それはとても大変な作業なのでしょうけれど……でも、なんだかとてもやりがいがあるように思います」


 レイナ=ルウなどは激しい意欲を燃えさからせながら、そんな風に言いたてていた。

 サイクレウスが失脚して以降、ジェノスにおいては実にさまざまな食材を自由に扱えるようになったのだ。また、美食の町を目指すポルアースの尽力もあって、それ以降も目新しい食材が続々とジェノスに届けられるようになっている。その数は、14種どころの騒ぎではないはずであった。


 ぱっと思いつくだけでも、ダイコンに似たシィマ、タケノコに似たチャムチャム、ズッキーニに似たチャン、サトイモに似たマ・ギーゴ、パプリカに似たマ・プラ、白菜に似たティンファ、ブロッコリーに似たレムロム、金ゴマに似たホボイ、大豆に似たタウ、落花生に似たラマンパ、ルッコラに似たロヒョイ、ショウガに似たケルの根、モモに似たミンミ――というラインナップが存在するし、シムの香草、ジャガルのキノコ類、それに、ゲルドおよび南の王都から買いつける食材も加えられるのだった。


 また、調味料に関してもほとんどが外部からの輸入品であったため、そちらもまったく損なわれていない。ダバッグから買いつけるカロンの乳や乾酪、西の王都アルグラッドから買いつける乾物なども、また然りである。アリアやタラパが使えないというのは相当な痛手であったものの、これで文句を言ってはバチが当たろうというものであった。


「それにこれは、屋台でシャスカを扱う、またとない機会なのではないでしょうか?」


 レイナ=ルウは、そんな風にも言っていた。

 試食会を契機として、宿場町の人々もシャスカに強い興味を寄せるようになったわけであるが、現時点では宿屋の食堂でしか扱われていない。理由は単純に、原価率のためである。安価であるポイタンの代わりにシャスカを扱うとどうしても原価率が跳ね上がってしまうため、屋台の軽食ではどうしても儲けに響いてしまうのだ。

 が、ポイタン不足となってフワノを使わなければならないとなると、原価率の差額もずいぶん減ずることになる。もともとフワノはポイタンの5割増しの値段であるため、俺たちにしてみればずいぶん割高の食材であったのだった。


 そんなわけで、俺たちは取り急ぎ、新たな献立を考案することになった。

 族長たちの許しをもらえれば、依頼を受けた翌日から商売を再開させることがかなうのだ。それが実現することを願いながら、俺たちは日も高い内からディスカッションを重ねて、その仕事を果たすことになったのだった。


 その結果、ファとルウの屋台でひと品ずつシャスカ料理を出すことになった。

 手始めは、無難にチャーハンである。現地でシャスカを炊くのは手間と時間がかかりすぎるため、どうしたって冷や飯ならぬ冷やシャスカで調理できる献立を選ばなければならなかったのだ。とりあえず、ルウ家においてはスタンダードなチャーハン、ファの家においてはカレー風味のチャーハンを出すことで話はまとまった。


 以前はチャーハンの具材にアリアを使っていたが、現在は長ネギに似たユラル・パを獲得できたので、それを代わりに使うことにする。あとはレタスのごときマ・ティノやパプリカのごときマ・プラなども加えて、ギバ肉はチャーシューの角切りだ。屋台の料理は肉も野菜もたっぷり使うのが定番であったため、こちらのチャーハンも俺の感覚としては相当の具沢山に仕上げることに相成った。


 それ以外のメニューに関しては、ひとまず既存の献立のアレンジでまかなうことにした。とにかく翌日からの営業に備えて、俺たちは早急に方針を打ち立てる必要があったのだ。この食材不足は長きにわたって続くのであろうから、新たな献立について発想を巡らせるのはのちの苦労と楽しみにしておくことに決められたのだった。


 ファの家の屋台に関しては、さほど大きな苦労もない。『ギバ・ベーコンとナナールのパスタ』や『ミートソースのパスタ』は不可であるし、『ギバ・カレー』にアリアとチャッチとネェノンを使えないのは大きな痛手であったが、パスタやカレーはバリエーションが豊かであるため、アレンジにはまったく困らなかったのだ。

『ギバまん』に関してもアリアをユラル・パに置き換える策が有効であるし、『ケル焼き』も一緒に炒めていたアリアをマ・プラに置き換えるだけで事は済んだ。安価のアリアを他の野菜に置き換えると多少は原価率が上昇してしまうものの、頭を悩ませるほどの差額ではなかった。


 それよりは、まだしもルウ家のほうが苦労は大きかったことだろう。『ギバ・バーガー』のソースや『クリームシチュー』の具材などは、ダレイム産の野菜を主体にしていたのだ。それにマイムが考案した料理に関しても、古くからジェノスに流通していた食材こそが主体であったため、こればかりは他の食材に置き換えることも難しいようだった。


「とりあえず、明日はモツ鍋と香味焼きを売りに出そうと思います。くりーむしちゅーよりは、モツ鍋のほうが具材の置き換えも容易であるかと思いますので。ぎばばーがーは、いずれ満足のいくそーすを仕上げられるように励みます」


 レイナ=ルウは、そのように語らっていた。

 難しい課題を負ったことが、実に嬉しそうな様子である。その時点で、勉強会が休止となってからまだ3日目であったのだが、すでにレイナ=ルウは調理に飢えていたのであろう。家族の晩餐を作りあげるだけでは、もはやレイナ=ルウの内に燃える熱情は消化しきれないのであろうと思われた。


 いっぽうトゥール=ディンは、もともと果実を使わない菓子をメインにしていたため、食材不足の影響も少ないようだった。生地に関しても、ポイタンよりはフワノを使うほうが割合的には大きかったのだ。


「もしも砂糖やカロン乳やキミュスの卵などが不足していたらと思うと、ぞっとしてしまいます。でも、チャッチがないとチャッチもちが作れないので……リミ=ルウは残念でしたね」


「ううん! ブレの実があるから、だいじょーぶ! あんこさえあれば、色んなお菓子を作れるもん!」


 レイナ=ルウばかりでなく、トゥール=ディンやリミ=ルウたちも、もちろん表情は明るかった。この時点ではまだ族長たちから商売再開の許しも出ていなかったのだが、具体的な目的もなくディスカッションを交わすよりは、大きなやりがいを見出すことがかなうのだろう。俺にしても、それは同じことであった。


 そうして夜になって、森から戻ってきたドンダ=ルウらにお許しをいただけた俺たちは、明朝に訪れた城下町の使者にその旨を伝えて、3日ぶりに商売の下ごしらえを開始することになったのだった。


 その頃には家や道の周囲の飛蝗は駆逐できたものと見なされていたため、俺も日中はファの家に戻ることが許された。そこであちこちの氏族からかまど番を迎えて、アレンジした料理の概要を伝達する。ほんの3日ぶりだというのに、やはり誰もが商売の再開を心から喜んでくれている様子であった。


「ただ問題は、ギバ肉ですね。どの氏族でもあるていどの蓄えはあるのでしょうが、もともとピコの葉で保存できるのは半月ていどですし……3日間もギバを狩っていないなんて、ここ最近ではなかったことです」


 フォウの女衆が不安そうな言葉をもらすと、ユン=スドラが「大丈夫ですよ」と笑顔で応じた。


「そんな何日もギバを放っておいたらけっきょく森の恵みが危うくなってしまうため、近日中にはギバ狩りの仕事を再開するのだと聞いています。そうですよね、アスタ?」


「うん。飛蝗狩りとギバ狩りで役割を分けるという話だったね。それで、収獲したギバはすべての氏族で均等に分けるっていう話だったけど……フォウ家には、その話が伝わっていなかったのですか?」


「はい。最近は男衆らも疲弊しきって、晩餐の間も口数が少ないのです。晩餐を食べ終えると、すぐ眠りに落ちてしまいますし……やはり、朝から日が暮れるまで森に入るというのは、きわめて大変な仕事なのでしょう」


 アイ=ファやルウ家の狩人たちは昨晩も元気いっぱいであったので、俺はそのような変化を感じることもできていなかった。

 すると、フォウの女衆は何かを振り切ったように、にこりと笑う。


「ただ、昨日も一昨日も『心配はいらない』と言ってくれていました。わたしは、その言葉を信ずるべきであったのですね。すべての血族のために身を削ってくれている男衆のために、わたしも尽くしたく思います」


 そんな風に男衆の身や家の行く末を思いやっている時点で、十分に尽くしているだろう。そんな思いを込めて、俺はフォウの女衆に笑いかけることになった。


 まさしく現在は、すべての森辺の同胞が心をひとつにして、この苦難を乗り越えようとしているさなかであるのだ。ひさしぶりにさまざまな氏族の人々と顔をあわせたことにより、俺はいっそうそんな思いを噛みしめることができた。


「こうして商売を再開させるのも、宿場町を活気づけるためですからね。ジェノスの民の一員として、頑張りましょう」


 そうして下ごしらえの仕事を終えた俺たちが荷台に荷物を積み込んでいると、約束の刻限に送迎の衛兵たちがやってきた。

 トトスにまたがった、20名ばかりの騎兵たちである。その先頭でトトスの手綱を握るのは、小隊長のマルスであった。


「あ、マルスがこちらの部隊の責任者であったのですか? お手数をかけますが、どうぞよろしくお願いします」


「ふん。俺は上官の命令に従っているだけのことだ。お前たちとて、自らの意思で無理に商売を再開しようと考えたわけではないようだしな」


 勤務中は甘い顔を見せないマルスであるが、非番の日には毎回のように屋台まで足を運んでくれるお得意さんだ。そんな人物が護衛部隊の責任者を担ってくれるというのは、ありがたい限りであった。


「ルウ家には、同じ人数の部隊が迎えに行っている。こちらで護衛するのは、2台の荷車だな?」


「はい。あとはこの荷物を積み込めば、いつでも出発できます」


「こちらは10名ずつで前後をはさむので、先行の部隊の後に続くがいい。……うお、なんだその生き物は!?」


 気づけば、サチを背中に乗せたジルベが俺の足もとにすり寄っていた。


「ああ、これはうちの家人のジルベとサチです。王都の獅子犬に、シムの猫ですね。……大丈夫だよ、ジルベ。この方々は、味方だからね」


 グリギの腕飾りをしていない人間には警戒するようにしつけられているジルベであるのだ。俺が警戒解除の合図を送ると、ジルベは「わふっ」と吠えて尻尾を振りたてた。


 商売の際には必ずジルベとサチを同行させるようにと、アイ=ファに厳命されている。ファの家人となってからずっと森辺で過ごしていたジルベは、なんだか嬉しげに黒い瞳を輝かせているようであった。


 そうしてジルベとサチも乗車させて、俺たちは宿場町に出発する。

 ルウ家の荷車とは個別で向かうように取り決められていたので、このまま直行だ。俺が晴れやかな気分でギルルの手綱を操っていると、やがてマルスが隣にトトスを並べてきた。


「飛蝗というのは、荷車に乗った人間を襲うような虫ではあるまい。ならば、これは……邪神教団を警戒しての護衛ということになるのだろうな」


 今回の騒ぎに邪神教団が関与していることは、ダカルマス殿下が乱入した会合の日にジェノス全土に周知されたのだと聞いている。マルスがいくぶん緊張気味のお顔であったため、俺は「そうですね」と笑顔を返してみせた。


「でも、その可能性はきわめて低いのだと聞いています。だからこれは、本当に万が一の事態に備えてのことなのでしょうね」


「そうであってほしいものだな。人間の無法者ならいざ知らず、俺はギーズやムントを退治するような剣術は修めておらんぞ。ギバなどは、もっての外だしな」


 かつて邪神教団が森の獣たちを操っていたことも、もちろん当時から周知されている。伏せられているのは、あくまでチル=リムについての詳細のみであった。

 そして今回も、アリシュナについては詳細が伏せられているのだと聞いている。

 西や南の王都には詳細が伝えられるのだという話であったが、それ以外の部分ではせいぜい「シムの占星師が助言を与えている」というていどのものであるようなのだ。


 それはもちろん、占星師の託宣によって災厄の到来を予見したり、邪神教団の本拠を突き止めたりというのは、あまり当たり前の話ではないのだろう。

 そしてそれ以上に、それはアリシュナの身を守るために必要な行いであるのだった。


 理由は、ふたつ。邪神教団の恨みを買わないためと、そしてチル=リムのように邪神教団の関心を引いてしまわないためである。

 今回の遠征は邪神教団の撲滅を命題にしているが、それは大陸中に存在する邪神教団の一派に過ぎないのだ。フェルメスいわく、邪神教団というのは数十名から数百名ていどで集団を作り、大陸のあちこちに身をひそめているようだった。


「以前にジェムドを通してお伝えした通り、邪神というのは眠れる大神アムスホルンと小神たちに他なりません。王国の民はそれらの神々の信仰を禁ずるために、あえて邪神という名を冠し、自分たちの生活から切り離したわけですね。……それで、もともと小神は十四あり、その内の七神が四大神の子として光の世界に留まり、残る七神がアムスホルンとともに眠りについたわけですが、ジェノスを襲ったのはその小神のひとつ、蛇神ケットゥアを信奉する一派となります。ケットゥアは水神ナーダと対をなす存在であるため、本来であればマヒュドラで信奉されそうなものですが……まあ、四大王国の区分というのも大神が眠りについた後に生じた文化でありますしね。邪神教団であれば、北と西を区分する理由もないのかもしれません」


 会合の場で、フェルメスはまるで雑談のように語らっていたという。

 まあ何にせよ、邪神教団は大陸中に存在するということだ。ならばこちらは、それらの目も警戒しながら、ことを進めなければならないということであった。


(アリシュナのせいで邪神教団の一派が潰されたと知られたら、そりゃあ大きな恨みを買うだろうし……それだけ強力な星読みの術者なら、チル=リムみたいに誘拐されかねないもんな。下手に公言できないのは、当然だ)


 それで今回の騒ぎにおいても、アリシュナの存在は分厚いオブラートに包まれて周知されたわけである。彼女はあくまでアドヴァイザーに過ぎず、ジェノスは自力で邪神教団の本拠を突き止めたのだと公言していたのだった。


 真実を知るのは、ジェノスと王国の上層部――および、森辺の民のみである。思えば俺たちも、ずいぶん重要な機密を託されたものであった。それだけマルスタインたちは、森辺の民を信頼しており――そして、虚言であざむくべきではないと考えてくれているのだろう。むろん、森辺の民は赤の月の時点で邪神教団がらみの騒動に深く関わっていたために、隠し立てするのが難しかったという面もあるのであろうが、それにしてもありがたい限りであった。


「……よし。無事に到着したな」


 マルスの声が風に乗って、俺の意識を現世に呼び戻した。

 町に通ずる細い道に差し掛かった時点で、マルスは前側に移動していたのだ。それらの騎兵の隙間から、道の終わりが見えていた。


 そして、森と町の境目には、また別なる部隊が控えている。トトスを降りたマルスたちは、それらの部隊に手綱を受け渡した。


「宿場町では、徒歩で移動する。まずは、屋台を借り受ける宿屋――《キミュスの尻尾亭》だな?」


「はい。ルウ家では《南の大樹亭》からも借りていますが、こちらは《キミュスの尻尾亭》のみです」


「では、行くぞ」


 徒歩となった兵士たちは、俺たちの荷車を前後と左右から囲んでくる。

 これでは目立ってしかたがないのではないかと思われたが、往来に出てみると巡回の衛兵たちがわらわらと行き交っていたため、さほどでもないようだった。


「あの、こちらでも邪神教団の襲撃を警戒しているのですか?」


「いや。さっきお前も言っていた通り、邪神教団が別の手口で襲撃してくる可能性はきわめて低いと言い渡されている。だからこれは、町の住人や逗留客の心を安らがせるための配置だな」


 飛蝗の発生および誘導というのは大がかりな妖術であるため、邪神教団にもそれほどの余力はあるまいという見込みであったのだ。それに、蛇神を信奉する一派は右の手の甲に刺青を入れており、ジェノスでは現在でもその箇所を隠すことを禁じていたため、そうそう潜伏することもできなかったのだった。


(あと、王国の文明がはびこっている場所では、妖術を発動させにくいなんて話もあったな。だからこそ、石造りの家屋や街路の存在しないダレイムや森辺が標的にされたって面もあるわけか)


 そんな思案を巡らせながら、《キミュスの尻尾亭》に出向いてみると――受付台で頬杖をついていたミラノ=マスが、血相を変えて立ち上がった。


「な、なんだ? お前たちは、しばらく屋台を休むという話だったろうが?」


「連絡を差し上げることができなくて、申し訳ありません。いちおう屋台は貸し出しの期間中であると思うのですが、問題ないでしょうか?」


「そりゃあもちろん、契約中の屋台を勝手に貸し出したりはしないが……もう森辺のほうは、虫どもの騒ぎも収まったのか?」


「すべての飛蝗を始末するには、もう何日かかかるようです。ただ、貴族のお人らに護衛をつけるから商売を再開してほしいというご依頼を受けることになったのですよ」


 俺が事情を説明すると、ミラノ=マスはいつもの仏頂面を取り戻して「ふん」と鼻息を噴いた。


「それは確かに、昨日だけでずいぶんな数の客が、ジェノスから逃げ散ってしまったようだからな。俺の宿も、半分がたは部屋が空いてしまったわ」


「え? もうそれほどの影響が出ているのですか?」


「邪神教団やらいう輩を叩き潰すのは数日がかりという話であったのだから、それまではジェノスを離れておこうと考えるのが当然であろうよ」


 往来で衛兵の姿が目立ったのは、他の通行人が減少したという影響もあったのかもしれなかった。

 ジェノスを見舞った騒動の厄介さをあらためて痛感し、俺は拳を握り込む。


「それは由々しき事態ですね。少しでも宿場町に活気を取り戻せるように、俺たちも頑張ります」


 ミラノ=マスは笑顔になるのをこらえるような面持ちで、俺を追い払うように手を振った。


「ちょうどレビたちが、倉庫から屋台を出そうとしているはずだ。屋台を使いたいなら、さっさと行くがいい」


「はい。それでは、またのちほど」


 倉庫のほうに回ってみると、まさしくレビが屋台を引っ張り出しているところであった。

 それを見守るラーズやテリア=マスたちも、きっちり革の外套で身を包んでいる。宿場町ではもう飛蝗の姿も見られないという話だが、念には念を入れているのだろう。もちろん俺たちも、暑いのを我慢して雨具を纏っているのだ。

 そうして俺が声をかけるより早く、こちらの接近に気づいたテリア=マスが「あっ!」と声をあげながら駆け寄ってきた。


「アスタ! アスタたちも、屋台の商売を再開してくださるのですか?」


「はい。ルウ家の方々は、まだでしたか。てっきり先に来ているかと思いました」


「は、はい。ルウ家の方々はまだ来られていませんが……みなさん、商売を再開してくださるのですね」


 テリア=マスは胸もとに手をやって、深々と息をついた。


「どうしました? 何かずいぶん、思い詰めたご様子でしたけれど」


「あ、いえ……レビたちは、昨日も屋台を出していたのですが……まわりに森辺の方々がおられないと、どうにも心配で……あの不気味な虫たちに襲われたときも、森辺の方々がレビを荷台にかくまってくださったのでしょう?」


 そんな風に語りながら、テリア=マスはうっすらと頬を染めていく。それだけ、レビの身を案じていたのだろう。

 いっぽうレビは、とても朗らかな笑顔で俺たちを出迎えてくれた。


「よう、アスタ。つい一昨日に、屋台をしばらく休むってガズラン=ルティムから聞いたのに、もう再開することになったのか?」


 宿場町に下りるすべのなかった俺たちは、城下町の会合に向かうガズラン=ルティムらに伝言を頼むことになったのだ。


「うん。事情は道すがら説明するよ。俺たちにも屋台を貸してもらえるかな?」


 そんな言葉を交わしている間に、ルウ家の一行も到着した。屋台でシャスカを出すのは初めてであったので、準備に手間取ってしまったのだそうだ。

 その分の屋台も引っ張り出して、俺たちは勇躍、露店区域を目指すことになった。その行き道で簡単に事情を説明すると、レビは「なるほどなあ」と感じ入った様子で息をつく。


「貴族様じきじきの依頼で、屋台を出すことになったわけか。護衛のために衛兵まで準備されるなんて、さすがアスタたちだな」


「うん。俺たちばっかり手厚くされてるみたいで、なんだか申し訳ない気分だね」


「なに言ってんだよ。森辺と宿場町を行き来するのはひと苦労なんだから、それぐらい当然だろ。ダレイムの連中だって、衛兵に守られてるようなもんだしさ」


 聞いてみると、宿場町とダレイムを繋ぐ街道にも、相変わらず大勢の衛兵が巡回したり立ち並んだりしているのだそうだ。


「それは、街道を進む者たちの心を安らがせるためと、そして東側の森から飛蝗が出現することを警戒してのことだな」


 聞き耳を立てていたらしいマルスが、そんな風に説明してくれた。


「宿場町に現れた飛蝗は最初の日に駆逐できたようだし、森にひそんだ飛蝗どもが緑の少ない宿場町にまで再び足をのばすことはあるまい。念のために裏手の雑木林にも衛兵を配置するが、お前たちは心置きなく仕事に励むがいい」


「はい。ありがとうございます」


 護民兵団の面々も、フル稼働で任務にあたってくれているのだろう。討伐部隊に多くの人員を割かれている中、それは大変な苦労であるはずであった。


「ダレイムといえば、ドーラもアスタたちのことをたいそう心配してたよ。アスタたちが来るってわかってれば、宿場町に居残ってたろうにな」


「え? ドーラの親父さんは、もうダレイムに帰っちゃったのかい? まさか、畑の被害が大きかったとか?」


「いや、畑はほとんど無事だったらしいよ。ただ、ダレイム南方の連中が受け持ってた仕入先に野菜を卸すことになったから、露店で売りさばく分がなくなっちまったんだってさ。だから、馴染みの宿屋に野菜を届けるだけで、宿場町での仕事は終わっちまうってこったな」


 やはりダレイムの収穫物は、自由に扱えない状態になっていたのだ。

 屋台を押しながら、レビは嘆息をこぼしていた。


「半分ぐらいの野菜売りがそんな感じだから、朝方の露店区域は野菜の取り合いで大変らしいぜ? アリアやタラパやポイタンなんかは、ダレイムの野菜売りからしか買えねえからな。ま、たいていの宿屋は野菜売りから直接買いつけてたから、特に不自由もねえけど……アスタたちは、どうにかして手に入れることができたのか?」


「いや。俺たちは余所から買いつけられる食材だけを使ってるよ。あらかじめ、ダレイムの野菜はしばらく不足するだろうって言われてたからね」


「へえ、そうなのか。……まあ、宿場町には貧乏人も多いからな。アスタたちには気の毒だったけど、下手に優遇されると反感を買っちまうだろうから、ここはこらえどころだな」


 レビがずいぶんと大人びたことを言うので、俺がびっくりしていると、彼は「なんだよ」と気恥ずかしそうに笑った。


「俺も試食会やら祝宴やらで、ちっとばかりは貴族のお人らと語らう機会があったからな。貴族様もそれなりに下々の人間のことを考えてくれてるんだなって、そんな風に思いなおしただけだよ」


「ああ、そうなのか。うん、俺もそれは同感だよ」


「だろ? だからアスタたちも、護衛のことで引け目を感じる必要なんてねえのさ。貴族様は、必要な部分に必要なだけの力を添えてくれてるんだろうからよ」


 そんな言葉を交わしている間に露店区域へと到着し、右手の側に宿屋の屋台村が見えてきた。

 こちらも、半分ぐらいの屋台は休業中であるようだ。客足が減少しているせいなのか、あるいは飛蝗の出現を恐れているのか――どれほど危険は少ないと説明されても、あのように怪物じみた巨大昆虫には恐怖を抱いて然りであろう。


「あ、そうだ。昨日はアスタたちの食堂が使えなかったから、こっちで屋台を出して食堂を借りることになったんだよ。今日は不要だって伝えておかないとな」


「え? どうしてこっちの食堂が使えなかったんだい?」


「どうしてって、アスタたちに断りもなく使えねえだろ。あれはアスタたちが銅貨をはたいて準備した場所なんだからよ。……おーい、ユーミ! 見ての通りだから、今日はいつもの場所で屋台を開くことにするよ!」


 レビが大きな声で呼びかけると、屋台の向こう側で働いていたユーミが手を振ってきた。

 そして――その屋台の前に立っていた小柄な人影が、猛然たる勢いでこちらに駆けつけてくる。マルスは思わず長剣の柄に指先をかけていたが、それはとても可愛らしい面立ちをした女の子であった。


「アスタ! よかったー、無事だったんだね! ジェノスが大変な騒ぎに見舞われたって聞いて、ずっと心配してたんだよー!」


 懐かしい声が、往来に響きわたる。

 翡翠を思わせるエメラルドグリーンの瞳が、真正面から俺を見つめていた。

 それは――里帰りでふた月以上もジェノスを離れていた、鉄具屋のディアルに他ならなかったのだった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 姫とディアルが出会って、お互い自分の夢に向かってまっすぐだし 良き友達や親友になれたらいいな。 同族嫌悪にならないといいなと思った。
[気になる点] ただただ、姫とのキャラ被り、差別化を懸念してる。
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