出立の朝
2021.10/31 更新分 1/1
・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。
そして、翌日――青の月の3日の朝、ルウの集落には36名の狩人が集結することになった。
時刻は、上りの三の刻である。家の遠い氏族のために、集合時間はゆとりをもって設定されたのだろう。アイ=ファやルウの狩人たちは、すでに森に入った後であった。
ルウの集落に集まった狩人は、誰もが静かに闘志をたぎらせていた。
不安の色を表に出している人間など、ひとりとして存在しない。昨晩ドンダ=ルウが言っていた通り、自らの手で邪神教団を討ち倒せることに強い意欲を見いだしている様子であった。
もとより森辺の狩人というのは誰もが比類なき力を有しているが、それはギバを狩るための力であり、人間と争うために修練を積んでいるわけではない。しかし彼らは母なる森を荒らされたことに、深甚なる怒りをかきたてられているのだった。
ただ、その場にはそれほど俺のよく見知った相手はいなかった。
やはり、森辺を何日も離れる任務に、本家の家長や長兄を出そうという氏族はなかなかないのだろう。おおよその氏族は、分家の中から手練れの狩人を選出したのだろうと思われた。
そんな中で、俺が名前までわきまえているのは、ガズラン=ルティムとディグド=ルウ――それに、ダイの分家の若き家長たる、ディール=ダイぐらいのものであった。ただ、ディール=ダイとはつきあいらしいつきあいもなく、ただ彼がかつてヤミル=レイとヴィナ・ルウ=リリンに立て続けに恋心を抱いたという素っ頓狂なエピソードが印象的で、忘れられずにいただけのことである。ジョウ=ランなどは分家の出で類い稀なる力量を有しているものの、まだ若すぎると見なされたためか、選出されていなかったのだ。
そうして俺が、数少ない友人であるガズラン=ルティムやディグド=ルウらと別れを惜しんでいると――そこに、思いも寄らない2名が近づいてきたのだった。
「アスタよ。出立の前に挨拶をすることができるのを、嬉しく思うぞ」
「ラ、ライエルファム=スドラ? まさか、本家の家長であるライエルファム=スドラが、出兵するのですか?」
「うむ。まだ子も生していない男衆に、このような仕事を任せるわけにはいかんのでな」
そう言って、ライエルファム=スドラは子猿のような顔にくしゃっと皺を寄せたのだった。
「スドラにはもう1名、年をくった男衆がいるが……あやつは若い頃の無理がたたって、ずいぶん力が損なわれてしまっている。ならば、まがりなりにも勇者である俺が力を尽くすべきであろうと考えたのだ」
「で、でも、本家の家長がこんな危険な仕事を受け持つなんて……」
「俺の家はつい先年まで、全員が本家の人間であったのだ。それに、ホドゥレイルが育つまでには、まだまだ長きの時間がかかるのだからな。どのみち次代の家長は、チムかもうひとりの男衆が担うことになろう」
すると、ライエルファム=スドラにひっついていたもう1名の人物が「おいおい」と声をあげた。
「何やら、剣呑な話をしているな。それはもちろんひとかたならぬ苦労の生じる仕事であろうが、お前たちは異国で生命を散らすつもりであるのか? 俺はそのように無惨な行く末など、毛ほども考えておらんかったぞ」
それはなんと、ラヴィッツの長兄であった。
ラヴィッツの長兄は骨ばった顔でにんまりと笑いながら、お得意のすくいあげるような眼差しで俺たちを見回してきた。
「そうでなければ、このような仕事など引き受けるものか。べつだん俺が魂を返そうとも、弟が家長になればいいだけのことだが、愛する伴侶と子らを残して、森辺の外で魂を返せるはずがなかろうよ」
「ラ、ラヴィッツでは長兄のあなたが選ばれたのですね。他の氏族は、おおよそ分家の方々が選ばれたようですが……」
「面倒な話は本家の人間が担うというのが、ラヴィッツの習わしなのでな。まあ、氏族にはそれぞれの考えがある。眷族たるナハムやヴィンでも分家の狩人が選ばれていたが、親父殿もべつだん文句は言いたてていなかったぞ」
「それにしても、弟ではなく長兄のあなたが選ばれてしまったのですね」
ガズラン=ルティムが穏やかな面持ちで口をはさむと、ラヴィッツの長兄はいっそう愉快そうに口の端を上げた。
「そこはそれ、腕の立つ狩人を出せという族長らの言葉に従ったまでだ。俺の弟は性根が甘ったれなので、森辺の外で本来の力を発揮するのは難しいように思える。ここは兄として、俺が手本を見せるしかあるまい」
「あなたはスンやミームとともに行った収穫祭において、勇者の座を得たのですよね。あなたのように力のある狩人に同行していただければ、心強く思います」
「ふふん。お前こそ、ルウの血族の勇者なのであろう? おまけに族長らの信頼も厚い、森辺きっての知恵ものであるという評判だしな」
「知恵ものと言えば、ライエルファム=スドラでありましょう。あなたの同行も、きわめて心強く思います」
「俺などは、滅ぶ寸前であった小さき氏族の家長に過ぎんよ。まあ、俺ほど歳をくった人間は他にいないようだから、長く生きた人間なりの知恵でも出せれば幸いだな」
そんな風に語らうライエルファム=スドラらの姿を、ディグド=ルウは底光りする目で興味深そうに見回した。こちらは全身に古傷を負った、若いながらもルウの血族で屈指の力を持つ狩人である。
ガズラン=ルティムにディグド=ルウ、ライエルファム=スドラにラヴィッツの長兄――それぞれ異なる力と魅力を持つ、いずれも歴戦の狩人であった。それは周囲の狩人たちも同様であったが、俺にはこの4名の存在感が際立っているように思えてならなかった。
「……ルティムの家長よ、こちらだったか」
と、この4名にまさるとも劣らない存在感を有する人物が、音もなく近づいてくる。北の集落の収穫祭でかなりの活躍を見せていた、ドムの分家の家長である。北の集落には凄まじい力量を備えた狩人が多いため勇者の座は逃していたが、それでも荷運びの力比べでは勇士の座を授かっている。ディック=ドムにも負けない巨躯と迫力を持つ、こちらも尋常でない存在感であった。
そしてその人物のかたわらには、2名の若き狩人が控えている。その片方はギバの毛皮を頭からかぶっていたが、もう片方はいかにも誠実そうな素顔をさらしていた。
「こちらはザザ分家の長兄、およびサウティ分家の長兄となる。この両名から、お前とルウの男衆に相談があるそうだ」
「はい。どういったお話でしょうか?」
ガズラン=ルティムがうながすと、サウティの若き狩人が語り始めた。
「この場に集められた36名の狩人は3組に分かれて、それぞれ隊長を定めるように申しつけられている。隊長の役は族長筋の人間が受け持てばよかろうという話であったが……俺やザザの男衆はいまだ家長の座を受け継いではいないため、人を率いる経験が不足している。よってここは族長筋という肩書きにとらわれず、相応の力を持った人間にその役目を譲るべきであるように思うのだ」
「ふむ。俺が隊長というものを受け持つことに、文句はないのか?」
ディグド=ルウが不敵な笑顔で問いかけると、サウティの男衆は「無論」と首肯した。
「そちらも俺たちとさして齢は変わらぬようだが、すでに家長として分家の狩人を率いる身であるのであろう? お前が隊長という役割を重荷に感じていないのなら、そのまま受け持ってもらいたく思う」
「承知した。それで、ザザの代わりはドムのお前が受け持とうという話か?」
「うむ。俺もお前と同じように、分家の家長を務める身であるからな。それで最後の1名を、ガズラン=ルティムに任せたく思うのだ。お前などは本家の家長であるのだから、その役目にはもっとも相応しいことであろう」
「ドムとルウとルティムで、隊長の座を担うわけですか。……サウティのあなたに異存がなければ、私はかまいませんが」
「異存など、あろうはずもない。むしろ、自分が担うべき仕事を押しつけてしまって、申し訳なく思っている。サウティの血族は、ルティムの家長の隊に組み入れてもらいたい」
「なるほど。他の氏族に関しても、どの組に振り分けるか考えなければならないわけですね」
そうしてガズラン=ルティムは、その場にいる狩人たちを見回していった。
「では……スドラを含むフォウの血族はドムの隊に、ラヴィッツの血族はルウの隊に組み入れることを提案いたします」
「うむ? それはどういう意図であろうか?」
「スドラの狩人は、スンの狩り場でザザの眷族と仕事を果たす機会が多かったため、すでに絆が結ばれていることでしょう。また、ディンやリッドはフォウの血族とともに収穫祭を行っているため、そちらでも絆が深められています。それらの人々が架け橋となれば、血族ならぬ身でも速やかに心をまとめることがかなうのではないでしょうか?」
「では、ラヴィッツの血族は? そやつらとルウの血族にも、何かしらの絆があったのか?」
「いえ。こちらのラヴィッツの長兄とディグド=ルウが手を携えれば、さらなる力を発揮できるのではないかと考えた次第です」
「ほう。俺とお前は、ほとんど言葉を交わしたこともなかったように思うのだが。いったい何をもって、俺という人間を見定めたのだ?」
ねっとりと笑いながら、ラヴィッツの長兄がガズラン=ルティムを見上げる。
それを見返すガズラン=ルティムは、清涼なる笑顔であった。
「あなたのお話は、以前にもアスタからうかがっていたのです。お会いしてみたら、アスタから聞いていた通りの印象でありました」
「ほう、アスタが、俺の風聞をな」
と、ラヴィッツの長兄が横目で見やってきたので、俺は愛想笑いを返しておいた。彼はすこぶる物珍しいお人柄であったため、以前のルウの祝宴でガズラン=ルティムに雑談として語る機会があったのだった。
「あとは……スンはラヴィッツの血族と収穫祭で絆を結んでいるため、ルウの組に。ダイの血族は近在のサウティとそれなりの縁があったでしょうから、ルティムの組に。そうなると、人数の関係からラッツの血族がルティムの組になりますため……ベイムの血族がルウの組、ガズの血族がドムの組ということでいかがでしょうか?」
「ベイムとガズの血族は、人数にも変わりはないはずだな。それでどうして、そのように振り分けたのだ?」
「礼賛の祝宴にて、ベイムとラヴィッツの血族がともに行動している姿をお見かけしただけのことです。そちらでは、絆が深められつつあるのでしょうか?」
ガズラン=ルティムの問いかけに、ラヴィッツの長兄は「ふふん」と鼻を鳴らした。
「それはべつだん、この場で語るような話ではないな。ただまあ、ベイムの血族と同じ組になることに異存はないぞ」
「では、整理させてもらう。ルウの組は、ルティムを除くルウの眷族と、ラヴィッツおよびベイムの血族。そして、スンの家。ドムの組は、ザザの眷族と、フォウおよびガズの血族。ルティムの組は、サウティとダイとラッツの血族。……これで、12名ずつになるわけか?」
「ええ。間違いありません」
「よくもそうまで、余所の氏族の眷族の数まで頭に入っているものだな。……まあ、人数さえそろっていれば、どのような顔ぶれでもかまわん。迎えの車が来る前に、同じ組となった狩人で集まっておくことにするか」
そうして狩人の組分けが始められてしまったので、部外者たる俺は弾き出されることになってしまった。
人垣の外からガズラン=ルティムやライエルファム=スドラの姿を目で追いつつ、俺はこっそりと嘆息をこぼす。決して俺が心配するような顔ぶれではないのだが――やはり、ジャガルの領地にまで踏み入って、恐るべき力を持つ邪神教団と雌雄を決しようというのだから、心配せずにはいられなかった。
(きっとガズラン=ルティムたちなら、どんな凶運でも退けてくれるだろうけど……何日も離ればなれで無事を祈ることしかできないってのは、しんどくてたまらないな)
広場の周囲では、飛蝗よけの雨具を纏ったルウの女衆らも狩人たちの様子をうかがっている。とりわけディグド=ルウの家族などは、俺以上に切羽詰まった心地であることだろう。
そんな中、ジルベの背中に乗っていたサチが「なう」と短い声で鳴いた。
迎えのトトス車が来たのかと、俺は集落の出入り口に視線を飛ばしたが――そこに姿を現したのは、トトスにまたがった森辺の男衆であった。
「遅くなって申し訳ない。俺はスン本家の長兄だ」
そのように名乗りながら、その男衆はひらりとトトスから飛び降りた。
すると――その後ろに乗っていたクルア=スンの姿が、あらわになる。俺は仰天して、そちらに駆け寄ることになった。
「ク、クルア=スン! まさか、君も同行するのかい?」
「はい。アリシュナから、お誘いを受けていましたので」
兄の手を借りて地面に降り立ったクルア=スンは、はかなげな笑顔で俺を見つめ返してきた。
その件は、すべての氏族に通達されている。このたびの遠征にはアリシュナも同行する手はずになっていたのだが、驚くべきことにクルア=スンまで同行の誘いを受けていたのだ。
「星図の乱れが正されるさまを身近な場所で感じれば、わたしの力を制御する助けになるかもしれないというお話でした。それでしたら……わたしも同行するべきであるように思うのです」
「で、でも、邪神教団の本拠まで出向く、危険な遠征なんだよ?」
「はい。ですが、アリシュナも同行を了承したのでしたら……その覚悟を見習いたく思います。アリシュナなどは、敵対国たるジャガルの地に足を踏み入れることになるのですからね」
そう言って、クルア=スンはまた微笑んだ。
月の下に咲く小さな花のように、はかなげな微笑だが――それはどこか神秘的で、アリシュナが微笑んだらこのような表情になるのではないかと夢想させてやまなかった。
「わたしは奇妙な力を授かってしまいましたが、森辺の民として――いえ、ひとりの人間として正しく生きたいと思います。そのためには、星見の力を正しく制御するべきであるように思うのです」
「お前も、同行するのだな。スンの家長がそれを認めたならば、俺たちに口出しする理由はない」
ドムの男衆はそう言って、出入り口のほうへと目を向けた。
「迎えのトトス車も来たようだ。さっさとトトスを片付けて、スンの長兄はルウの組に加わるがいい。……お前の役目は妹の護衛ではなく、邪神教団の討伐であるのだからな」
「うむ、承知している」と、スンの長兄は引き締まった面持ちで応じ、それからクルア=スンのほっそりとした肩に手を置いた。
「俺は俺の仕事を果たす。お前も自らの道を定めたのだから、決してくじけるのではないぞ?」
「はい。スンの家人として恥じることのないよう、力を尽くします」
クルア=スンは最後に俺へと微笑みを投げかけてから、兄とともにディグド=ルウのもとへと立ち去っていった。
俺がいよいよ切羽詰まった気持ちでその背中を見送っていると、ガズラン=ルティムが近づいてくる。
「クルア=スンも、心を固めることがかなったようですね。正しい道を歩もうとする人間が、母なる森に捨て置かれることはないでしょう。どうか母なる森とともに、私たちの帰りをお待ちください」
「はい。だけど俺は……どうしても、心配する気持ちを止められません」
「それは、アイ=ファを森に送り出すときも同様でしょう? 森辺の女衆は、そうして家族を心配しながらも、強い気持ちで無事な帰りを待つのです。心配すること自体は当然の話であるのですから、何も恥じる必要はありません」
そうしてガズラン=ルティムはさきほどのスンの長兄のように、俺の肩に温かい手を置いてきたのだった。
「そして、このようにお考えください。もしもアスタが、我々の立場であったら――あるいは、クルア=スンの立場であったら――森辺を離れることに、躊躇いを覚えるでしょうか? アスタほど勇敢な人間であれば、同じ運命に身を投じるはずです」
「それは……どうなんでしょう。自分でも、まったく想像がつきません」
「私はこの手で森辺とジェノスの運命を救えることに、強い誇りを抱いています。それは他の狩人らも、同じことでしょう。普段、ギバ狩りの仕事に身を捧げるのと、なんら変わりはありません。どれほど危険な仕事であっても、誇りと愛する者たちの存在が、我々の力となってくれるのです」
そう言って、ガズラン=ルティムはとほうもなく優しい顔で微笑んでくれたのだった。
「私はアスタを失いたくありません。しかし私が魂を返してしまえば、2度とアスタと相まみえることはできなくなってしまうのです。ならば、アスタと再び相まみえたいという気持ちも、私の力になってくれることでしょう。私がアスタに傾ける情愛のほどを、どうぞ信じてください」
「……それを疑ったことは、一度としてありません」
俺が泣き笑いのような顔で応じると、ガズラン=ルティムはぎゅっと強い力で俺の肩を励ましてから、身を引いた。
「アスタも、どうかお気をつけて。強い気持ちで、この苦難を乗り越えてください」
そうしてガズラン=ルティムたちは迎えのトトス車に乗り込んで、出立していった。
邪神教団を討伐するための、長い長い旅である。万感の思いを込めて、俺がその姿を見送っていると――何故だかこの場に居残っていた城下町の武官らしき人物が近づいてきて、サチにうなり声をあげさせた。
「失礼します。小官はメルフリード殿の使者として、ファの家のアスタ殿とドンダ=ルウ殿のご伴侶にお伝えしたき言葉があるのですが……そちらに近づいても問題はないでしょうか?」
「はい、大丈夫です。サチ、このお人は味方だよ」
俺がサチの咽喉もとを撫でて黙らせると、その人物はほっとした様子でさらに近づいてきた。まだ若い、凛々しくて誠実そうな面立ちをした青年の武官だ。
そして人垣のほうからは、雨具を纏ったミーア・レイ母さんが進み出てくる。誰かがこちらのやりとりを伝えてくれたのだろう。
「また城下町からの使者さんかい? 毎日毎日、ご苦労なことだねぇ」
「恐縮です。……メルフリード殿から森辺の方々にご依頼がありますため、それをお聞き届けていただきたく存じます」
狩人たちが出兵した直後に、今度はどういった依頼であろうかと、俺たちが神妙な心地で待ち受けていると――その人物は、実に意想外な言葉を口にしたのだった。
「森辺の方々は現在、宿場町における商売を休業されております。明日からそれを再開していただくことはできないか――というのが、メルフリード殿からのご依頼と相成ります」
「屋台の商売を? どうして城下町のお人らが、そんな話を持ちかけてくるんだい?」
「はい。先日に飛蝗の襲撃を受けて以来、宿場町には不安の影が落ちてしまっております。それを森辺の方々に払拭していただきたいというのが、このたびのご依頼の本意であるそうです」
どうにも要領を得ない説明である。同じ感想を抱いたのか、ミーア・レイ母さんもうろんげな面持ちになっていた。
「よくわからないね。去年の地震いのときにも、あたしたちは屋台を出すようにお願いをされたけどさ。あれは、富を失ったお人らに料理をふるまうっていう仕事のはずだったよね。今回の騒ぎで富を失ったのは、宿場町じゃなくってダレイムのお人らなんだろう?」
「はい。宿場町には畑も存在しませんため、被害といえば逃げ惑う際に負傷を負った方々ぐらいのものでありましょう。ですが、このたびの騒ぎは邪神教団による陰謀であり、その討伐には数日がかかると周知されたため、宿場町にも大きな不安の影が落とされてしまったのです。それを払拭するために、森辺の方々のお力をお借りしたいという次第であります」
「やっぱり、よくわからないね。あたしたちが屋台を出したら、何がどうなるっていうのさ?」
「森辺の方々がお姿を見せるだけで、宿場町の民やそこに逗留する人々は元気づけられる……というのが、メルフリード殿のお考えであられるようです」
そう言って、その人物は意外に人懐っこそうな微笑をこぼしたのだった。
「逆に言いますと、森辺の方々がお姿を見せないことにより、不安の気持ちが高まってしまうのでしょう。森辺の民ほど勇猛な一族が屋台の商売をあきらめるほどに、このたびの災厄は深刻なものであるのか、と……森辺の方々が1日屋台の商売を休まれただけで、すでにそういった声が宿場町に蔓延しているそうです」
「それはまあ、実際に深刻な話だからねえ。だからこそ、男衆が総出で森に入って護衛役を出せないから、屋台の商売も休むしかなかったんだよ」
「宿場町までの往復と商売中の警護に関しては、護民兵団から人員を出す手はずとなっております。もとより飛蝗というのは人間に直接害を為す存在ではありませんため、護民兵団の兵士たちでも警護の役を果たすことは可能でありましょう」
「兵士さんたちだって、飛蝗の退治に大わらわなんじゃないのかい? しかもこれから、たいそうな人数がジェノスを離れようとしてるわけだしさ」
「畑を襲う飛蝗に関しては、すでに退治を完了いたしました。平地であれば、さほど厄介な害虫ではありませんので。雑木林に潜伏したものに関しては対策を練っているさなかとなりますが、畑の守りは万全であるとお考えください」
「……ダレイムが襲われて野菜やポイタンが不足するはずだから、無駄に食材を使うなって言いわたされてるんだよねえ」
「今後不足する食材は、ダレイムにて収穫されていた作物のみとなります。ポルアース殿より覚書をお預かりしておりますので、こちらをご参照ください」
使者の男性が、1枚の紙片を手渡してくる。文字の習得にあまり時間を割けない俺でも読み取れるぐらい、そこには馴染み深い野菜の名前がずらりと羅列されていた。
「そちらに記されている作物を避けていただければ、あとはどのような食材でも自由にお使いください。特にジャガルから買いつける食材に関しましては、ダカルマス殿下のご尽力によって十分な量を仕入れられる目処がついたとのことですので」
こちらがどのような疑念を呈しても、すぐさま明確な答えが返ってくる。それでミーア・レイ母さんも、観念した様子で苦笑を浮かべることになった。
「わかったよ。とにもかくにも、すべてを決めるのは族長たちだからね。そちらのお言葉は、ひとつ余さず伝えさせてもらうけど……ただ、これがどれだけ大事な仕事かってところを、もういっぺん聞かせてもらえるかい?」
「はい。森辺の方々はこの2年ほどの期間で、宿場町の活気の象徴に成り得たのでしょう。森辺の方々がこのまま長きにわたって屋台の商売を休業するようであれば、外来の客人たちもいっそう不安をかきたてられて、ジェノスへの逗留に躊躇いを覚えてしまうやもしれません。邪神教団の暴虐な行いに屈することなく、ジェノスを支える一助になってもらえないものかと……メルフリード殿は、そのように懇願しておられました」
「なるほど。どうもあんたは、メルフリードってお人と近しい間柄みたいだねぇ」
「小官は、メルフリード殿直属の近衛兵であります。去りし日には、トゥール=ディン殿のご案内をするために城下町の商店区を巡るお役目を授かりました」
それはきっと、オディフィアが雨季の病魔に見舞われた際のことであろう。チョコレートパフェに相応しい容器を探すために、トゥール=ディンは城下町の商店区を巡ることになったという話であったのだ。
「うん。そちらのお言葉は、しっかり伝えさせていただくよ。あとは、族長たち次第だね」
「何卒よろしくお願いいたします。明朝に、ご返答をうかがいに参りますので」
そうしてその武官の青年も、トトス車に乗って立ち去っていった。
ミーア・レイ母さんはひとつ息をついて、俺に向きなおってくる。
「族長たちが許しをくれたら、レイナなんかは飛び上がって喜ぶだろうけど……アスタは、どう思うかね?」
「俺も、レイナ=ルウと同様ですよ。こんな大変な時期に、俺はなんの力にもなれませんから……少しでも人のお役に立てたら、嬉しく思います」
「そうだねえ。あたしも根っこは、おんなじ気持ちだよ。……ただ、あたしは屋台の商売に関わってないから、けっきょく力になれないんだけどさ」
そんな風に言いながら、ミーア・レイ母さんは朗らかに笑った。
「でも、家を守るのはあたしたちの仕事だからね。大変な仕事を果たしてる男衆のために立派な晩餐を準備するってのも、立派な仕事さ。……それじゃあ、家に戻ろうかねえ」
「はい」と応じつつ、俺は森の隙間に覗く空を仰ぎ見た。
ジェノスの空は、今日も青く晴れわたっている。すでにジェノスは邪神教団の陰謀によって、深く傷つけられていたが――そうとは思えないほどに、この場は騒擾と無縁であった。
しかし、森の中では狩人たちが飛蝗退治に明け暮れて、ダレイムの南方では畑の作物を喰い荒らされた人々が悲嘆に暮れているのだ。マルスタインやメルフリードやポルアースたちだって、ジェノスの安寧を守るために奔走しているはずであった。
(こんな非道な真似をする連中に、絶対屈するもんか)
狩人ならぬ俺には、刀を振るうこともできない。
朝から森に入っているアイ=ファたちや、出兵することになってしまったガズラン=ルティムたちに比べれば、泣けてくるぐらい微々たるものであったが――それでも俺は、同じジェノスの地で暮らす人々のために力を尽くしたかった。
「……また苦労をかけちゃうかもしれないけど、よろしくな」
俺がそのように呼びかけると、サチは文句ありげに「なうう」とうなり、ジルベは嬉しそうに「わふっ!」と吠えた。
そんな頼もしい家人を引き連れて、俺はルウ本家のかまど小屋を目指すことにした。