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異世界料理道  作者: EDA
第六十五章 黒き竜の災厄
1112/1685

災厄の日③~退避~

2021.10/28 更新分 1/1

 荷台に詰め込まれた俺たちは、たいそう落ち着かない心地でしばらくの時間を過ごすことになった。


 防衛上の都合から、ひとつの荷台に10名ばかりのかまど番が詰め込まれている。俺と同じ荷台に押し込まれたクルア=スンはずっと青ざめた顔で目を伏せており、そんな彼女の手をかつての血族たるトゥール=ディンがぎゅっと握りしめていた。


 それ以外には、すぐ隣の屋台で働いていたレビとラーズもかくまわれている。レビはしきりに《キミュスの尻尾亭》の様子を気にしており、父親のラーズがそれをなだめている格好であった。


 荷台の壁の向こうからは、ずっと騒乱の気配が伝えられてきている。

 しかしそれは往来を行き交う人々の騒ぎであり、森辺の狩人たちがどのような形で力を尽くしてくれているのかは、さっぱり見当もつかなかった。


 床に座った俺の足もとには、サチが毅然と立ちはだかって、ずっと周囲の様子をうかがっている。今のところ、巨大バッタの魔手がこちらに向けられる気配はなかったが、サチが警戒をゆるめることはなかった。


(本当に、頼もしい家人だな)


 俺がサチの頭を撫でようとすると、「なうう!」という不機嫌そうな声を返されてしまった。仕事の邪魔をするな、ということか。普段は眠ってばかりのサチも、今日ばかりはアイ=ファにも負けない凛々しさであった。


 そうして、どれほどの時間が過ぎたのか――

 後部の帳がめくられて、厳しく引き締まったアイ=ファの顔を覗かせた。


「とりあえず、この周囲の化け物どもは一掃できたように思う。しかし往来ではまだ騒ぎが収まっていないので、もうしばらく待っているがいい」


「うん、了解。誰か手傷を負ったりはしなかったか?」


「我々が手傷を負うほどの相手ではなかった。と、いうよりも……あやつらに人間を襲おうという気配は薄かったように思う。こちらに向かってくるやつもいなくはなかったが、それよりも飢えを満たしたいという一心で、雑木林の枝葉をあさろうとしているようであったのだ」


「そうか。あれが俺の知る虫のお仲間だったら、草食のはずだからな。もしかしたら、人間を襲おうとしていたのは装束が狙いだったんじゃないか? 装束は、木の繊維から作られているものも多いんだろうしな」


 俺の言葉に、アイ=ファは深く眉を寄せた。


「お前は先刻も、あやつらを奇妙な名で呼んでいたな。それは、如何なる虫であるのだ?」


「ああ、俺が知るバッタっていうのは、とても無害な虫だったよ。でも、何かのはずみで大量発生すると、森や畑の草葉を残らず喰い尽くそうとするんだって聞いたことがあるんだ」


 俺の言葉に、クルア=スンがびくりと肩を震わせた。

 そちらに一瞬だけ目をやってから、アイ=ファは「そうか」とうなずく。


「では、そのばったなる虫めが喰らうのは、草葉のみであるのだな? 確かにあやつらは、荷車やトトスにはまるきり無関心であるようであった。人や獣の身はもとより、木の壁や革細工を喰らうこともできないのやもしれん」


「それは不幸中の幸いだったな。でもそうすると、ジェノスの南側に下りたっていう連中は……」


「うむ。森の恵みと畑の作物を喰らい尽くそうとするやもしれん。それに、わずかなりとも宿場町にまで流れてきた一団があるのだから、森辺の集落の中央部……ファの家の狩り場にまで被害が及ぶ恐れもあろう」


 アイ=ファの目が、いっそう苛烈な輝きをたたえた。


「そうして森の恵みを喰らい尽くされてしまえば、飢えたギバが人里に下りることになる。これはまさしく、ジェノスそのものを脅かす災厄であろうな」


 そのとき、「おーい」というルド=ルウの声が聞こえてきた。


「通りの騒ぎも、ずいぶん収まったみてーだぞ。そろそろトトスを出せそうだから、狩人とかまど番で半分ずつ乗れるように準備しとこーぜ」


「ルド! ターラたちは、無事だった?」


 同じ荷台にいたリミ=ルウがぴょこんと立ち上がり、出入り口のほうに駆けていく。アイ=ファの横から顔を出したルド=ルウは、「当たり前だろ」と白い歯をこぼした。


「虫どもを退治しながら木に登ったら、ドーラたちもユーミたちもきっちり衛兵に守られてるのが見えたよ。ドーラの店なんかすげー数の虫にたかられてたけど、野菜を喰い荒らすのに夢中で周囲の人間には目が向かなかったみてーだなー」


「よかったー! ルド、ありがとー!」


 リミ=ルウは荷台を飛び出して、ルド=ルウの首っ玉にかじりついた。

 ルド=ルウは可愛い妹の小さな身体を片腕で抱きとめて、苦笑する。


「だから俺は、なんにもしてねーっての。通りのほうも大騒ぎしてたわりには、大した被害も出てねーみたいだぞ。むしろ、逃げる人間に突き飛ばされたり踏み潰されたりで、何人か手傷を負っちまったみてーだな」


「うむ。アスタの知るばったという虫は、草葉のみを喰らうのだそうだ」


 アイ=ファが手短に説明すると、ルド=ルウはすぐさま表情を引き締めた。


「それじゃあ森辺でも、人間より森の恵みがまずいことになるってわけか。それはそれで、すっげー厄介だな」


「うむ。早急に集落まで戻り、ドンダ=ルウの指示を仰ぐべきであろう。……いや、おそらくドンダ=ルウらも、すでに森の中であろうな」


「ああ。俺たちの知ってることぐらい、すぐに察しがつくだろうしな。よし、かまど番はいったん外に出てくれ。大急ぎで、集落に戻るぞ。……ああ、だけどその前に、屋台をなんとかしないといけねーんだな」


 ルド=ルウの言葉に従って、とりあえず俺たちも荷台の外に出ることにした。

 とたんに、見慣れた面々が俺を取り囲んでくる。誰あろう、それは青空食堂で食事をしていたはずの、建築屋のメンバーであった。


「いやあ、アスタたちも無事で何よりだったよ! まったく、とんでもない騒ぎだったなあ!」


 メイトンが俺の手を握りしめながら、大きく安堵の息をついた。その背後では、バランのおやっさんが仏頂面で腕を組んでいる。


「あんなものは、なりが大きいだけの虫に過ぎなかったのだろうよ。俺たちでもどうにかできるような相手であったのだから、アスタや森辺の女衆が後れを取ることもあるまい」


「ははん。一番心配そうにしてたのは、おやっさんだろ。こういうときぐらい、素直に喜べよ」


「やかましいわ!」とおやっさんが怒鳴り返すと、まだリミ=ルウの身体を抱きかかえているルド=ルウが笑い声をあげた。


「バランたちも荷台に入れてやろうと思ったのに、外に居残って荷台を守るのに力を貸してくれたんだよ。ま、荷台に近づくやつはほとんどいなかったから、危ねーことはなかったけどなー」


「ああ。それと、こっちのお人もな」


 と、アルダスが親指で後方を指し示す。そこに立ち尽くしていたのは、青黒い粘液に顔や胸もとを濡らしたガーデルであった。


「アスタ殿……ご無事で何よりです……」


 と、そのように言うなりガーデルが倒れそうになってしまったので、同じぐらい大柄なアルダスが「おっと」と支えてくれた。


「お前さん、熱を出してるみたいだな。どこか身体の具合でも悪いのかい?」


「いえ……いささか古傷がうずいているだけです……」


 ガーデルは苦しげな面持ちで、左肩を押さえていた。外傷はとっくにふさがっているはずだが、内側の神経や骨の損傷が完治していないために、彼はいまだ護民兵団に復職できない身であったのだ。


「傷ついた肩を無理に動かしたため、熱を出してしまったのやもしれんな。アスタたちは我々が森辺に連れ帰るので、お前も城下町に戻るがいい」


 アイ=ファが厳しい表情でそのように言いたてると、ガーデルは「はい……」と弱々しくうなずいた。


「やっぱり俺などは、何のお役にも立てませんでしたね……どうか、アスタ殿をお守りください……」


「言われるまでもない。アスタは、私の家人なのだからな」


 そうしてガーデルの身は、往来を行き交う衛兵の手にゆだねられることになった。

 俺たちは屋台や青空食堂の片付けをして、あらためて荷台に乗り込む。行き道と同じように、男女半々となる構成だ。


 ギルルの手綱はアイ=ファが受け持ってくれたので、俺は御者台の脇から往来の様子を確認する。が、その場を行き来しているのは衛兵ばかりで、すこぶる物々しい雰囲気であった。きっと町の人々は、自分たちの家に逃げ帰ることになったのだろう。


 露店区域も、すっかり閑散としてしまっている。宿屋の人々が寄り集まった屋台村にも、人影は残されていなかった。

 屋台を返すために《キミュスの尻尾亭》と《南の大樹亭》に立ち寄ると、そちらでも被害はなかったという。ずっと建物の中にいた人々は、巨大バッタの姿すら見ていないのだ。ただお客たちが大騒ぎしながら舞い戻ってきたために、町を襲った災厄については俺たちと同じかそれ以上の知識を携えていた。


「さっき、衛兵の連中からも通達があった。巨大な虫どもが押し寄せてきたが、あいつらは草葉しか食わないんで危険はない、とさ。もしも襲われるとしたら装束の生地を狙ってのことだから、用心したいときは革の外套で身を隠せ、などと言っていたな」


 ミラノ=マスは、そんな風に言っていた。

 ではこのジェノスにも、あの巨大バッタの生態を知る誰かが存在したのだ。人間が襲われる可能性が低いというのは、きわめてありがたい情報であったが――しかし、森や畑の被害を思えば、やはり安穏とはしていられなかった。


 そうして俺たちは森辺に戻ることになったわけであるが、町と森辺をつなぐ道にさしかかったとき、アイ=ファの不穏なつぶやきを耳にすることになった。


「左右の森に、あやつらの気配を感ずる。こちらにはギバの糧になるような恵みも存在はしないが……それでも、いずれは退治せねばならぬだろうな」


 あの巨大なバッタどもの群れが森の端にひそんでいるというだけで、俺は悪寒を禁じ得なかった。

 これはある意味で、大地震よりも恐ろしい災厄である。モルガの森に散った巨大バッタの群れを掃討しない限り、いつまでも被害が出てしまう恐れがあるのだ。狩人たちの苦労を思うと、俺はそれだけで気が重くなってしまった。


「ああ、やっと戻ってきたね。無事なようで、何よりだったよ」


 ルウの集落では、ミーア・レイ母さんが安堵の笑顔で俺たちを出迎えてくれた。その身には、雨季に活躍した革の雨具をしっかりと着込んでいる。


「ほんのついさっきまで、狩人の半分は居残っててくれたんだけどね。衛兵さんに話を聞いたら、その連中もみんな森に向かっちまったよ」


「へー。人間が襲われる危険は少ないって、わざわざ教えに来たわけか? そいつはずいぶん、親切なこったなー」


「ああ。その代わり、森の恵みがまずいんだろう? 今日はギバじゃなく虫退治に力を尽くしてくれって、そんな言葉を言いわたされたのさ。だから、こっちの女衆を案内役に出して、衛兵さんたちがすべての氏族にその言葉を伝えて回ってるところだよ」


 俺たちが荷台に引きこもっていたのは、せいぜい一刻ていどの間である。その間にジェノスの上層部は現状を分析し、この災厄を退けるための手を打ち始めたというわけであった。


「では、私も森に入る他あるまい。……ミーア・レイ=ルウよ、申し訳ないのだが、アスタを夜まで預かってもらえないだろうか? 危険が少ないのは承知しているが、ひとりきりでは余りにも不用心であるし……」


「了解したよ。それじゃあ今日はひさびさに、晩餐をご一緒しようじゃないか」


 そんなわけで、俺はルウの集落に預けられることになってしまった。

 アイ=ファは他のみんなとともに、ひとまず自分の家に帰還である。その際に「気をつけてな」と声をかけると「お前こそな」とおもいきり肩をつかまれてしまった。


「よいか。決して森には近づくのではないぞ。あやつらの狙うのが装束だけだとしても、あれだけ鋭い牙を有していれば、人間の皮膚など容易く噛み破られてしまおうからな」


「うん、わかったよ。アイ=ファのほうこそ、くれぐれも気をつけて」


「大事ない。ブレイブとドゥルムアには、最大限の用心をさせなければならんがな」


 そんな言葉を残して、アイ=ファは御者台に乗り込んでいった。

 そちらの荷台からは、ユン=スドラやトゥール=ディンが心配げな顔を覗かせている。荷車が発進する前に、俺はそちらにも声をかけておくことにした。


「それじゃあ、みんなも気をつけて。危険のない範囲で、余った料理の分配をよろしくね」


 俺たちは中天を少し過ぎたところで商売を中止する羽目になったので、屋台の料理も半分がた残されてしまっていたのだ。それらは屋台の当番であった氏族の晩餐に回してもらうように、俺は帰り道で伝えていたのだった。


「はい。アスタもどうか、お気をつけて。食材の代価は、後日かならずお支払いしますので」


「そんなの気にしなくていいよ。……って言いたいところだけど、きっと家長たちも納得しないんだろうね」


「ええ。食材の代価だけで屋台の料理を食せるなら、誰もが喜んでくれるはずです」


 と、ユン=スドラは気丈に笑みをこぼした。

 トゥール=ディンは憂いを含んだ面持ちで、荷台の内側をちらちらと見やっている。それに気づいた俺は、トゥール=ディンの視線の先にいる人物にも声をかけるべく、荷台の内側を覗き込んだ。


「クルア=スン、色々と思うところはあるだろうけど、あまり気にしすぎないようにね。結果的に、クルア=スンの言葉は俺たちの助けになってくれたんだからさ」


 クルア=スンは目を伏せたまま、無言で一礼した。その手の先は、トゥール=ディンがしっかりと握りしめている。しかしやっぱり、悪夢が的中したという事実はクルア=スンの心を大きく脅かしているようであった。


「もうよいか? 出発するぞ。……ミーア・レイ=ルウよ、また夜に」


 アイ=ファが手綱を操って、ギルルの荷車が発進された。

 それを見送ってから後方に向きなおると、本家の母屋の前でルド=ルウたちが森に入る準備を進めている。


「俺たちの狩り場だって、森辺では南寄りだからな。けっこうな数の虫どもが入り込んでるかもしれねーぞ」


「うむ。それにあやつらは、刀より棒切れのほうが相手取りやすいのではないだろうか? 弓矢は……さすがに不要か」


「いや。俺たちの側が虫狩りと定めても、飢えたギバには関わりがあるまい。万一に備えて、弓矢も携えるべきであろう」


 森辺の狩人らは、ギバと出くわす危険まで想定しながら、虫狩りに取り組まなくてはならないのだ。考えれば考えるほどに、狩人らの負担は大きかった。


 ちなみにルウの集落では、リャダ=ルウとバルシャが家の周囲を見回ってくれていた。なおかつ、外に出る際に雨具を纏うことはもちろん、幼子や老人は決して外出しないように申しつけられたらしい。それだけの策を講じながら、ドンダ=ルウらは総出で森に向かったのだった。


 ルド=ルウたちの姿を頼もしそうに見守っていたミーア・レイ母さんが、「さて」と俺のほうに向きなおってくる。


「アスタは、サティ・レイの雨具を使うといいよ。サティ・レイには、ずっと家にいてもらうつもりだからさ」


「ありがとうございます。コタ=ルウたちは、怖がっていませんか?」


「ああ。今のところ、こっちには2、3匹の虫しか顔を見せてないしね。ほとんどの人間は、その姿を見てもいないんだよ」


 そうして雨具をお借りするためにルウの本家にお邪魔すると、寝所のほうからコタ=ルウがとてとてと飛び出してきたのだった。


「アスタ! だいじょうぶだった? けが、してない?」


「大丈夫だよ。ルド=ルウたちが、守ってくれたからね」


 俺が笑顔でその小さな頭を撫でてあげると、コタ=ルウもほっとした様子で笑顔を見せてくれた。

 そして、俺の足もとに目をやったコタ=ルウは、きょとんと目を見開く。


「えーと……ねこ、ひさしぶり。なまえ、わすれちゃった」


「ああ、祝宴の日に預かってもらった以来だね。名前は、サチだよ」


「サチ」と繰り返したコタ=ルウは身を屈めて、土間にたたずむサチのほうに手をのばそうとした。

 が、サチはそっぽを向いて、コタ=ルウの手の届かない場所まで下がってしまう。コタ=ルウがとても残念そうな顔をしていたので、俺はサチの身をすくいあげて、差し出してみせた。


「サチ、コタ=ルウの手をひっかいたりしたら、今日の晩餐は硬いスジ肉だからな」


 サチは不満げに咽喉を鳴らし、コタ=ルウはおずおずとその頭を撫でる。ルウの祝宴にお招きされた夜には幼子たちと同じ場所に預けられるサチであるが、彼女はいつも梁の上などに逃げ出してしまうため、なかなか触れ合う機会もないのだ。


「サチ、くろくてきれいだから、コタはすき」


「ふうん? コタ=ルウは、黒い色が好きなのかな?」


「うん。とうもじいも、くろっぽいかみだし……アスタは、めもかみもくろいから」


 と、はにかむように笑うコタ=ルウである。

 大きな苦難を退けているであろうジザ=ルウやドンダ=ルウたちも、早くこの笑顔で疲れた心を癒やしていただきたいものであった。


 ともあれ、家にこもっていても為すべき仕事はない。

 若い女衆たちはかまど小屋で料理の余りの分配について相談し合っているという話であったので、俺はそちらにお邪魔させていただくことにした。


「ああ、アスタ。ご無事で何よりです。まさか、このような形で災厄に見舞われるとは思ってもいませんでした」


 かまど小屋に出向くと、レイナ=ルウがそんな言葉を投げかけてきた。最近はララ=ルウと交代で屋台の商売に取り組んでおり、本日は居残りの日取りであったのだ。

 レイナ=ルウも分家の女衆も、みんな朗らかかつ力強い表情であった。苦労を担うのは狩人たちであるので、自分たちがめげているいとまはない、という心情であるのだろう。かくも清廉にして強靭な森辺の女衆であるのだ。


 しかし俺がバッタの生態や、南の空を埋め尽くしていた群れの規模を説明すると、レイナ=ルウはたちまち青ざめてしまった。


「そ、それでは……森の恵みだけでなく、ダレイムの作物も脅かされてしまう恐れがあるのですね?」


「うん。特に危ないのは南の側だろうけど……ダレイムは、サウティの集落の付近まで村落が広がってるって話だから、そっちが心配なところだね」


「それはあの、ダリ=サウティが懇意にしていた方々の村落ですよね? わたしも礼賛の祝宴で、挨拶をさせていただきました」


 俺も、その人物のことを思い出していた。サウティの集落から近い南の道で外界に出ると、そこにダレイム領の南端にあたる村落が存在するという話であったのだ。俺は礼賛の祝宴にて、その村落の取り仕切り役を務める老人からもお祝いの品と言葉を授かっていたのだった。


「それに、そういった村落の作物も、ジェノスで売られているわけでしょう? それらがばったという虫に喰らい尽くされてしまったら……この先、野菜やポイタンが不足してしまうのではないでしょうか?」


「うん。その危険はあるだろうね。本当にこれは、ジェノスにとって未曾有の災厄なんだろうと思うよ」


 俺がそのように答えると、レイナ=ルウはこらえかねたように嘆息をこぼした。


「実は……ドンダ父さんが森に入る前、ジェノスの情勢がはっきりするまでは勉強会をするなと言い置いていったのです」


「勉強会を? ああ、用心のために、食材を無駄にしないようにってことだね」


「はい。それに、森の端にまで虫の群れが入り込んでいるのなら、薪やピコの葉を集めるのにもこれまで以上の苦労が生じるかもしれない、と言って……何もかも、ドンダ父さんが心配していた通りであったのですね」


 レイナ=ルウ沈んだ声でがそんな風に答えたとき、かまどの間までついてきていたサチが「なう」と鋭い声を発した。

 巨大バッタが押し寄せてきたのかと、俺は思わず身構えてしまったが、ほどなくして姿を現したのは母屋に残っていたミーア・レイ母さんであった。


「アスタ、また城下町から使者ってお人が来ちまったよ。アスタにも挨拶をしたいっていうんで、ちょいと来てもらえるかい?」


「え? 城下町の使者が、俺なんかにどういったご用事でしょう?」


「さあ? ただその片方が、アスタとも顔馴染みのお人でね」


 俺は小首を傾げながら、サティ・レイ=ルウから借り受けた雨具を纏い、ミーア・レイ母さんとともに母屋の前まで舞い戻った。

 そこに待ち受けていたのは、朝方と同じようななりをした武官の青年と――そして、フェルメスの従者たるジェムドである。


「ああ、ジェムドでしたか。わざわざ森辺にまで出向いてこられるなんて、いったいどうしたのです?」


「アスタ殿の安否を確認するように、フェルメス様から申しつけられた次第です。こちらはメルフリード殿からの使者となりますので、まずはそちらの言葉をお聞きください」


 ジェノスが深みのあるバリトンの声でうながすと、使者の青年が一礼して進み出た。


「調停官メルフリード殿より、森辺の族長ドンダ=ルウ殿のご伴侶にお言葉をお届けいたします。……明朝、上りの三の刻より城下町の会議堂にて臨時の会合を行いたく思いますため、定刻までに参じていただきたいとのことです」


「やっぱり、そんな話だったかい。……ええ、族長ドンダ=ルウの伴侶ミーア・レイ=ルウが、確かに聞き届けましたよ。他の族長らには、そちらから伝えてもらえるのかねえ?」


「はい。すでに使者が向かっております。飛蝗の始末で多忙の折とは存じますが、何卒よろしくお伝え願います」


「ひこう? それがあの、薄気味悪い虫の名前かい?」


「はい。小官は、そのように聞き及んでおります」


 使者の青年は同じ位置まで下がり、ジェムドのほうに目を向けた。

 ジェムドは穏やかなる無表情で、それを見返す。


「わたしは、いささか時間をいただきたく思います。あちらでお待ちいただけますでしょうか?」


「承知しました」と言い残して、使者の青年は広場の真ん中に停車させられていたトトス車のほうに戻っていった。今回は用心してか、トトス車で森辺にやってきていたのだ。


「まずは、アスタ殿がご無事であったことに、喜びの言葉をお伝えさせていただきます。森辺の他の方々にも、何か被害はなかったでしょうか?」


 使者の青年がトトス車に乗り込む姿を見届けてから、ジェムドはあらためて語り始めた。

 俺は気を引き締めつつ、「はい」と応じてみせる。


「少なくとも、宿場町に下りていた面々はみんな無事です。集落に居残っていた方々については、俺もわきまえていないのですが」


「それは現在、護民兵団の方々が確認におもむいていることでしょう。……アスタ殿、これはフェルメス様からの非公式の言伝となります。申し訳ないのですが、森辺の外では口外法度ということでお願いできますでしょうか?」


「口外法度ですか。町の方々に秘密を持つのは、少なからず心苦しいのですけれど……」


「明日の会合の結果次第では、こちらの話もジェノス全土に通達されることになります。ですがその前に、森辺の三族長とアスタ殿には事情をわきまえておいていただきたいと、フェルメス様はそのように仰っています。……フェルメス様からの懇請を、お拒みになられますか?」


 ジェムドは落ち着いた表情のまま、俺の顔をじっと見つめてくる。

 下手をしたら、東の民よりも内心のわかりにくいジェムドである。俺は早々に白旗をあげることになった。


「では、秘密を持つ時間が短くて済むことを祈っておきます。……いったいどういったお話でしょうか?」


「はい。どうやらこのたびジェノスを見舞った災厄は、邪神教団の陰謀であるようなのです」


 俺は呆気に取られてしまったが、ジェムドはもちろん凪の海みたいに落ち着いた物腰のままであった。


「そ、それはどういうことでしょうか? どうしてフェルメスが、そんな裏事情を……?」


「これは、ジェノス城の客分たる占星師アリシュナ殿の星読みの結果です。彼女は最初から、災厄の向こうに邪神教団の存在を感知していたのです」


 実に驚くべき言葉を、ジェムドは淡々と言い放った。


「これはフェルメス様が王都に報告しないという条件で、メルフリード殿から聴取した話となります。メルフリード殿も先の騒乱によって邪神教団の恐ろしさを痛感したため、フェルメス様に秘密を打ち明けるご決断を下されたのでしょう。……このたびの飛蝗は自然発生したものではなく、邪神教団の妖術によって現出された災厄となります。邪神教団はジェノスを滅ぼすために、これだけ大がかりな妖術を発動したものと見られます」


「ど、どうして邪神教団が、ジェノスにそんな真似をしなければならないのです?」


「ジェノスにおいては去りし赤の月に、邪神教団と相争うことになりました。その際の騒乱に加担した邪神教団の教徒たちはひとり残らず掃討いたしましたが、けっきょくその者たちの本拠を突き止めることはかないませんでした。よって、星見の力を持つチル=リムなる娘を奪われ、20余名に及ぶ同胞を討伐された邪神教団の本隊が、ジェノスに報復するべくこのような妖術を発動させたのではないか、と……フェルメス様は、そのように仰っています」


 俺は驚きのあまり、相槌を打つことも忘れてしまった。

 その間に、ジェムドはすらすらと言葉を重ねていく。


「無論、動機については推測に過ぎません。ですが、こちらの災厄が邪神教団の妖術であることは星読みの結果で示されているのです。かつて邪神教団の教徒たちは森の獣を操って森辺の方々を脅かしましたが、このたびは飛蝗によってジェノス全土を脅かそうとしているわけですね」


「邪神教団……俺もうすうす、そんな予感は覚えていたのですけれど……本当にこれは、あいつらの仕業だったんですね」


「はい。モルガの森の恵みを脅かせば、恐るべきギバの力でもってジェノスを滅ぼすことがかないます。飢えたギバは、ダレイムやトゥランの作物を狙って、人里に下りてしまうのですからね。そこまで見込んで、邪神教団はこのような陰謀を目論んだということです」


 俺はこれまでで最大の悪寒を覚えることになったが、やはりジェムドの様子に変わりはなかった。


「これだけ大がかりな妖術を発動させたからには、邪神教団の側にもさしたる余力は残されていないものと推察されますが……それでも、くれぐれもご用心を願いたいと、フェルメス様はそのように仰っていました」


「まったく、呆れた話だねえ。伴侶が怒り狂う姿が、今から想像できちまうよ」


 ミーア・レイ母さんが、溜息まじりにそう言った。


「そんな話は、一刻も早く町中の人間に伝えるべきだと思うけどねぇ。貴族のお人らは、いったい何を足踏みしてるんだい?」


「それはやはり、南の王都の方々の耳を警戒しておられるのでしょう。現在は外交官の補佐役たるオーグ殿も不在のため、王都への報告書に関してはフェルメス様の一存でどうとでもなりますが、相手が異国の王子殿下では迂闊な真似もできないのだろうと思われます」


「ふうん? これが邪神教団とかいう輩の仕業だって突き止めたのも星読みってやつの力なわけだから、そいつを南のお人らに知られちゃならないってことかい? 南の王家のお人らってのは、そんなにも星読みってやつを忌避してるのかねえ」


「それは、不明です。ですが、南の方々がシムの秘術たる星読みの技を忌避していることは確かですし……それに関して口止めをお願いすることは、やはり難しいのでしょう。ジェノス侯としては、南の王家の方々を通じてセルヴァの王陛下に真実が露見することを警戒しなければならないのです」


 ダカルマス殿下が星読みの技をどれだけ忌避しようとも、ジェノスの国政に口出しする筋合いはないだろう。しかし、そちらからセルヴァの王にまで話が伝わってしまうと、マルスタインの立場が悪くなってしまうということだ。


「だけど、邪神教団っていうのは王国の敵でしょう? それを打ち倒すためなら、星読みの技でも何でも活用するべきだと思うのですけれど……」


「それだけセルヴァの王陛下は、魔術に関わる手管を忌避されているということです。わたしも王都の出身でありますため、それがどれほど根の深い思いであられるかは、十分にわきまえています。星読みの託宣に従って兵士を動かすことなど、王陛下は決してお許しになられないでしょう」


 魔術に傾倒する邪神教団も、そうまで魔術を忌避するセルヴァの王も、俺にはどちらも同レベルの厄介者であるように思えてならなかった。

 しかし、そのような言葉をうかうかと口にすることはできない。俺はさまざまな思いを呑み下しながら、「承知しました」と応じてみせる。


「そこまで俺や森辺の民のことを案じてくださったことを感謝していると、フェルメスにお伝えください」


「ありがとうございます。それでは、最後にもう一件……クルア=スンなる人物は、問題なくお過ごしでしょうか?」


 俺はまた、ギクリと身を強張らせることになった。


「ク、クルア=スンがどうしましたか? フェルメスは、クルア=スンのことまで心配くださっているのですか?」


「はい。正確に言うならば、クルア=スンなる人物の身を案じておられるのは、占星師のアリシュナ殿となります。邪神教団の妖術というのは、著しく星図を乱すようで……星見や星読みの力を持つ人間には、小さからぬ影響を与えるようであるのです。このたびの妖術の波動にあてられて、クルア=スンなる人物が変調を迎えてはいないかと……具体的には、星読みの力が強まったりはしていないかと、そのように案じておられるご様子です」


「星読みの力が強まる……なんてことが、ありえるのですか?」


「はい。その場合は、アリシュナ殿に力を制御するすべを学ぶべきであろうと仰っていました。もしもクルア=スンなる人物に、星見の才覚が備わってしまっていたならば……先のチル=リムなる娘と同じ危険を招く恐れがある、とのことです」


 クルア=スンの苦しげな様子を思い出し、俺は総身の血がひく思いであった。

 するとミーア・レイ母さんが、「承知したよ」と穏やかに応じる。


「ちょいとリャダ=ルウに、スンの集落までひとっ走りしてもらおうかね。それで、今のお言葉をクルア=スンって娘に伝えさせていただくよ。……アスタも、それでかまわないね?」


「え、ええ。もちろん」


「重ねがさね、親切なお言葉をありがとうねぇ。あたしからもお礼の言葉を伝えておいておくれよ。あの、フェルメスってお人にさ」


 ミーア・レイ母さんがそのように言いたてると、ジェムドは「はい」と一礼した。


「フェルメス様は、アスタ殿を筆頭とする森辺の方々の行く末を、とても気にかけておられますので……どうぞ、ご自愛ください」


「うん。あんたは何だか、嬉しそうなお顔だね」


「は……フェルメス様がこれほど真情から感謝されることは、なかなかありませんので……フェルメス様があなたと直接対面できなかったことを、いささかならず残念に思います」


 そう言って、ジェムドはわずかながらに口もとをほころばせたのだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 細かくディテールを描写しているのに、それでいて情報過多にならず、 物語の緊張感を高めていく地の文が素晴らしい。
[気になる点] 状況的には詰みですね 人が駆除できる数ではありませんし 今この瞬間にも森はヤベーことになっていってますし これをどうなんとかするのか楽しみです
[一言] 魔術で産み出した生物は繁殖するのか? 飯食うなら繁殖もしそうなものだけど
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