災厄の日②~到来~
2021.10/27 更新分 1/1
予告通り、宿場町には衛兵があふれかえっていた。
そしてその場には、森辺の集落よりも遥かに緊迫した空気がたちこめていたのだった。
「何せ去年も同じ時期のこういう日に、あの『アムスホルンの寝返り』が起きたわけだからな。嫌な予感がして当然であろうよ」
《キミュスの尻尾亭》のミラノ=マスは、仏頂面でそのように言いたてていた。
長年ジェノスで暮らすミラノ=マスいわく、そもそも去年のあの日以外に、町なかで衛兵の演習などという行事が行われたためしはないのだそうだ。それでは町の人々も、不安に駆られるのが当然であろう。
「だいたいな、衛兵たちのほうこそが、やたらと張り詰めた空気をぷんぷんさせてやがるんだ。これじゃあ町の人間だって、こりゃあ何かあるなと思うだろうさ」
ミラノ=マスは、そんな風にも言っていた。
末端で働く衛兵たちにも、星読みの一件などは伝えられていないはずである。であれば、彼らもまた町の人々と同じ理由で気を張っているのであろうと思われた。
(衛兵たちにしてみれば、前日だか当日だかに、いきなり大がかりな演習をするって告知されるわけだもんな。それで去年はあんな騒ぎになったんだから……そりゃあ不安になるよなあ)
しかし、それで警戒心が高まるのならば何よりであろう。
どのような災厄に見舞われるかもわからない以上、警戒するに越したことはないはずであった。
(でも、いったい何が起きるっていうんだろう?)
クルア=スンは暗雲の向こうに「黒い竜」を感じると言っていた。
それもまた天変地異の比喩であるのか、あるいはジェノスに災厄をもたらそうという真犯人が存在するのか、それは誰にもわからない。ただ、クルア=スンがわざわざ邪神教団を引き合いに出していたことが、俺の警戒心をかきたてていた。
確かにかつてチル=リムは、自分をさらった一団を「灰の竜」と呼んでいたのだ。
竜というのも星座のひとつであるのなら、今回は「黒の竜」の星を持つ者が真犯人なのではないかと――俺には、そんな風に思えてならなかったのだった。
しかし何にせよ、星読みの力を持たない俺たちは、現実に災厄が勃発するかどうかを自分の目で確かめる他ない。
そんな覚悟をひそかに固めながら、俺は屋台の商売に取り組むことになった。
いつも通り屋台を開くと、お客の入りは上々である。
すっかり今回の騒ぎでかき回されてしまったが、まだ礼賛の祝宴から3日しか経っていないのだ。俺やトゥール=ディンが優勝を収めた試食会も記憶に新しいところであるし、森辺の民の屋台の評判はうなぎのぼりの渦中にあったのだった。
また、宿場町で不安そうにしているのは、去年の大地震をジェノスで体験した人々のみとなる。事情を知らない遠来よりのお客などは普段通りの陽気さで料理を買い求めてくれた。
「しかし、こんなにぞろぞろ衛兵が出回ってるのは、落ち着かないもんだな。演習だか何だか知らないが、とっとと引っ込んでほしいところだぜ」
そんな風に語るお客も、少なくはなかった。
衛兵たちは、ひたすら街道を巡回している。昨年と同じように、宿場町とダレイムをつなぐ街道にも、びっしりと衛兵が動員されているそうなのだ。
「たしか前回も、こんな風に衛兵のお人らが駆り出されたのは、青の月だったんだよな。何も起きないまま、無事に日が過ぎてほしいもんだよ」
大事な娘の手をしっかりと握ったドーラの親父さんは、そんな風に言っていた。
そういった人々に事情を明かせないというのは、きわめて罪悪感をかきたてられるものである。
しかしまた、俺たちも裏事情は通達されないまま、ただ想像に想像を重ねているに過ぎないのだ。それで得た結論が、「本当に何か災厄が起きるかもしれない」というものであるのだから、実際は町の人々と大きな差はないのかもしれなかった。
何せアリシュナは、大地震を星読みの力で予見した、とも明言していないのである。
セルヴァの王様が星読みの術を嫌っている以上、こればかりは致し方のない話であった。
(でも、星読みの力がそんなに凄いなら、おおっぴらにその力を使って国を守ったほうが利口なんじゃないのかな。シムではそうやって、星読みを国政に取り入れたりしてるんだろうか)
俺はそんな風に考えたが、それもはなはだあやしいところであった。何せアリシュナの祖父というのは、藩主の悪い未来を予見したせいで、シムを追放されたという話であったのだ。
故郷たるジの領地ばかりでなく、シム全土から追放されたというのなら、きっと東の王様の許可が必要となるのだろう。であれば、シムでも星読みの術式は認められているものの、国政などからはきっちり切り離されているのかもしれなかった。
(やっぱり王国としては、魔術をルーツにする星読みを手放しで歓迎することはできないってわけか)
俺はなんとなく、一抹の寂しさを覚えてしまっていた。
セルヴァの王様が魔術を嫌うのも、星読みの結果をおおっぴらに重んじることができないのも、すべては王国の民と聖域の民の乖離を根にしているように感じたためである。
また、邪神教団の存在もそこに含まれる。
彼らは魔術の文明こそが正しいものであるとして、王国の文明を滅ぼそうとしている一団であるそうなのだ。聖域の民がひっそりと暮らしながら大神アムスホルンの目覚めを待っている中、邪神教団は無理にでも大神を揺り起こして魔術文明の再興を夢見ているのだという話であったのだった。
この世界には、かつて魔力というものがあふれかえり、魔術の文明が築かれていたのだと聞く。
それで大地の魔力が枯れてしまったために、人々は石と鋼の新しい文明を築き――一部の人間だけが聖域の民として、大神の目覚めを待つことになった。
それ自体は、きっと避けようのない運命であったのだろう。
しかし、それから600年ほどの歳月が過ぎて――何かが、歪んでしまったのではないだろうか? その象徴が、邪神教団であるように思えてならなかったのだった。
フェルメスは、これが正しい運命なのだと言っていた。
いずれ大神が目覚めたならば、王国の民と聖域の民は再び同胞となり、ふたつの文明があわさった新しい時代が到来するのではないかと――そんな希望を、俺たちに与えてくれたのである。
そんな時代が到来したならば、俺たちは今度こそティアたちと手をつなぐことができる。
チル=リムだって、誰の目をはばることなく生きていくことができるようになるのだ。
そして――そんな希望を根底から覆そうとしているのが、邪神教団の存在であったのだった。
あいつらは、魔術をありがたがるばかりに、王国の文明を憎悪してしまっている。だからチル=リムを手に入れるために、あれほど非道な真似をすることができたのだ。
今回のこの騒ぎも、邪神教団が一枚かんでいるのではないのか――ぬぐってもぬぐっても、俺はそんな不安を消し去ることができなかったのだった。
「……アスタ殿。ご壮健なようで、何よりです」
と――そんな言葉が、俺を現実に引き戻してくれた。
オートマチックに屋台の仕事をこなしていた俺は、おどおどと目を泳がせる大柄な若者の姿を、そこに見出す。それは護民兵団を休職中の、ガーデルに他ならなかった。
「いらっしゃいませ。今日は御者のお仕事はお休みですか?」
肩の負傷がなかなか完治しない彼は、城下町で御者の仕事を果たしているのだ。最近は俺たちも城下町に招かれる機会が多かったため、ガーデルともたびたび顔をあわせていた。
が、気弱な彼は「いえ……」と小さな声で応じる。
「ほ、本当は今日も勤務の予定であったのですが……体調不良という虚偽の申告をして、無理に休みをもらってしまいました」
「虚偽の申告を? どうしてまた?」
「それは、その……去年もこんな風に護民兵団の演習が実施された日に、あのような騒ぎが起きたでしょう? ですから……アスタ殿の身が心配になってしまい……」
その言葉には、俺も呆れかえることになってしまった。
どうもこの若者は今ひとつ内心が知れないのだが、妙に俺の行く末を気にかけている様子なのである。その理由が判然としないため、こういった際にはずいぶん驚かされてしまうのだった。
「で、でも今日は、普段以上に狩人の方々をお連れになっているようですね。これではきっと、俺の出る幕などないでしょう。……というか、俺風情が出張ったところで、なんの力にもなれはしないのですが……申し訳ありません。どうか俺のことなどは気になさらず、仕事にお励みください」
そうしてガーデルはいくつかの料理を買い求めて、青空食堂に引っ込んでいったのだった。
俺の屋台のそばに陣取っていたアイ=ファが、うろんげな面持ちで近づいてくる。
「あやつは、相変わらずのようだな。アスタの安否を気にかけているという言葉に、嘘はないように思うのだが……どうにも内心が知れぬため、いささかならず落ち着かん」
「うん、俺もそんな感じだな。まあ、あんな風に気にかけてくれるのは、ありがたい限りだけどさ」
「……お前はそれだけ、魅力のある人間であるからな」
と、最後は声をひそめてそんな風に言い残し、俺の心をかき乱すアイ=ファであった。
「あ、ユーミ! ようやくお会いできましたね!」
と、今度は隣の屋台の裏に待機していたジョウ=ランが、そんな声をあげながら突進してきた。
そちらの屋台の料理を買おうとしていたユーミは、びっくりまなこでジョウ=ランを見返す。
「あ、あんた、こんなところで何やってるのさ? 最近の護衛役は、リャダ=ルウとバルシャの役割じゃなかったっけ?」
「いえ。今日は宿場町もこのような騒ぎであったため、俺たちも駆り出されることになったのです。まあ俺は、自分で志願したのですけれども」
そんな風に語りながら、ジョウ=ランはこれ以上もなく朗らかに笑っている。ユーミの無事な姿を見て、心から安堵したのだろう。いっぽうユーミはこの奇襲攻撃に、また顔を赤くしてしまっていた。
「このような騒ぎって、衛兵の連中のこと? 別に、衛兵どものせいで地震いが起きるわけじゃないでしょ」
「いえ。地震いではなく、別の災厄が起きる可能性も――」
「ジョウ=ラン」と、そちらの屋台で働いていたユン=スドラがにっこりと笑いながら掣肘した。
ジョウ=ランはしょげた犬のような面持ちになりながら、ユン=スドラとユーミの姿を見比べる。
「……このような際は、ユーミが町の人間であることがとても不自由に感じられてしまいます。ユーミと早く婚儀をあげられるといいのですが……」
「あ、あんた、真昼間からおかしな口を叩いてるんじゃないよ!」
「いえ、わかっています。ユーミの心残りがすべて消え去るまで、俺は待ち続けるつもりです。サムスやシルとももっと絆を深めて、不安を消してあげなければなりませんし……」
「だ、か、ら! その口を閉じろって言ってんの! ユン=スドラ、料理を2人前ね! こっちも商売中に抜けてきたんだから、急いで戻らないと!」
「えっ! ユーミはもう行ってしまうのですか? ……どうしよう。俺はこの場から離れることが許されないのです」
「どうしようもこうしようもないでしょ! あんたはいっつもおかしいけど、今日はいつも以上だよ!」
ユーミはぷりぷりと怒りながら、さっさと立ち去ってしまった。
これも町の人々に秘密を持ってしまった弊害の一環であろう。ジョウ=ランはしょんぼりと肩を落としながら、ユーミの背中を見送っていた。
中天が近づいてきたために、こちらの屋台もいっそう賑わってきている。
往来の衛兵の数の多ささえ気にかけなければ、いつも通りの様相だ。ひさびさに同行してきたサチも、俺の足もとであくびを連発していた。
「失礼いたします。そちらの料理を6人前、こちらの器にお願いいたします」
と、透き通っていて張りのある少年の声が、そんな風に告げてきた。
ダカルマス殿下の小姓を務める少年である。昨日から、こういった人々が屋台の料理を求めて来訪していたのだった。
同じようななりをした小姓たちが数名がかりで、すべての料理を買い求めている。それを見守るのは、平服で人目を忍ぶ南の武官たちだ。賑わいにまぎれて気づかなかったが、きっと町の入り口には立派なトトス車がとめられているのだろう。ダカルマス殿下はとうていデルシェア姫とふたりきりでは食べきれないような量の料理を買いつけて、城下町まで運ばせているのだった。
ダカルマス殿下は礼賛の祝宴から10日以内に帰国するものと、すでに宣言している。
デルシェア姫は調理の技術を学ぶためにジェノスに居残るという話であったが――ついにあの陽気な王子殿下とは、お別れの日が近づいているのだ。
(でも……もしも今日、ジェノスがとんでもない災厄に見舞われたら……それでもダカルマス殿下は、デルシェア姫の逗留を許すんだろうか?)
これが大地震などの天災であったなら、まあ支障はないのかもしれない。
しかしもしも、悪意ある人間からもたらされる人災であったのなら――大事な娘を預けることはできないと考えるのが普通であるように思えた。
(俺だって、安全のためにはそうしたほうがいいと思うけど……でも、デルシェア姫はガッカリするだろうなあ)
俺がそんな風に考えていると、また見慣れた一団が到来した。
バランのおやっさんを筆頭とする、建築屋の面々である。
「よう、アスタ。今日はおかしな騒ぎだな。嫌でも去年の地震いを思い出しちまうよ」
アルダスは陽気に笑いながら、そんな風に言っていた。
町の人々と同じ結論に至っても、南の豪放な人柄がそれをはねのけてくれるのだろう。他の面々もいつものたたずまいで、どの料理で腹を満たそうかと瞳を輝かせていた。
「町の連中は、また地震いでも起きるんじゃないかって、戦々恐々みたいだな。ま、アスタたちの家は建てなおしたばかりだから心配はいらないだろうが、何か困ったことがあったら遠慮なく声をかけてくれよな」
「ありがとうございます。みなさんも、くれぐれも気をつけてくださいね」
「ああ。何が起きたって、屋根から落ちるような間抜けはいないよ。俺たちは普段から、そういうことにも気を張ってるからな」
アルダスたちの陽気な笑顔が、俺にジョウ=ランと同質の思いを抱かせた。
どのような話であれ、やっぱり隠し事というのは罪悪感をかきたててやまないのだ。もしもこれで、親しくさせてもらっている人々が何らかの実害を負ってしまったら――俺たちは、さらなる罪悪感を抱えることになってしまうはずであった。
(きっとマルスタインなんかは、これとも比べ物にならないような思いを抱え込んでいるんだろうな)
領主たるマルスタインなどは、領民すべてに真実を隠すという立場になっているのだ。
しかしそれでもマルスタインは衛兵を動員して、万事に備えようとしている。セルヴァの王様に叱責されないぎりぎりのところで、領民を守ろうとしているのだった。
(いっそ、アリシュナやクルア=スンの予見が外れてくれればいいんだけど……クルア=スンはともかく、アリシュナの星読みが外れることはありえるのかなあ)
クルア=スンは、俺のかたわらで仕事に励んでいる。表面上は平静で、しっかりと仕事を果たしてくれていた。
しかし彼女こそ、俺とは比較にならないほどの不安を抱えていることだろう。災厄が起きれば、自分にこれまで以上の予見の力が発現したという証になってしまうし、災厄が起きなければ、無用に人心を騒がせたという気まずさだけが残されるのだ。どう転んでも、彼女の心は安寧とほど遠いはずであった。
(唯一の救いは、チル=リムがジェノスを離れていたことか。そろそろ《ギャムレイの一座》と合流できたのかなあ)
と、俺がそんな想念を浮かべかけたとき――サチが「なうー!」とうなりながら俺の背中を駆けのぼり、アイ=ファが「何だ、あれは?」と緊迫した声をあげた。
気づけば周囲に見える狩人の全員が、南の方角に視線を向けていた。
そして往来でも、何割かの人々が同じ方向に目をやっている。
俺の肩を踏み台にして頭にのしかかったサチは、咽喉の奥でうなり声をあげていた。彼女もまた、きっとみんなと同じ方向をにらみ据えているのだろう。
俺はおそるおそる、南の方角を振り返り――そこに、思いも寄らないものを見た。
隣で働いていたクルア=スンは、「ああ……」と悲痛な声を振り絞りながら、木皿を地面に取り落とす。
「そんな……これじゃあ、夢で見た通りの……」
クルア=スンが夢で見たのは、ジェノスに暗雲が押し寄せる光景だ。
そこには確かに、暗雲と見まごう存在が天空に広がっていた。
晴れわたった青い空が、南の側から暗い影に浸蝕されているのだ。
まるで雨季が再び到来したかのような――いや、雨季でもなかなか見られないような、真っ黒な暗雲の影である。
「な、なんだろう? 大雨でも降るのかな? それとも、カミナリとか……?」
俺がそのようにつぶやくと、アイ=ファが厳しい声音で「いや」と答えた。
「あれは、雲ではない。まだ形までは判然としないが……クルア=スンよ、お前はジェノスが化け物の群れに襲われるという夢を見たのだな?」
クルア=スンは弱々しく首を振りながら、その場にへたり込みそうになった。
その腕を、アイ=ファが力強い指先でつかみ取る。
「しっかりせよ! お前は正しく、災厄の到来を言いあてたのだ! ……アスタよ、今のうちに屋台の火を消して――」
アイ=ファの声は、往来から響きわたった悲鳴によってかき消されることになった。
屋台に並んでいた人々が、モーゼの十戒のように割れている。そうして生まれた隙間から、俺は彼らに悲鳴をあげさせた存在を見出すことができた。
「な……なんだよ、ありゃ……?」
そんな風につぶやいたのは、隣の屋台で働いていたレビであった。
俺に至っては、言葉も出ない。そこにそうして存在している物体の意味を認識することを、脳が拒んでいるかのようだった。
きわめて不気味な生き物が、石の街路に這いつくばっている。
細長い胴体に、くの字に折れ曲がった大きな後ろ足。
細かい棘の生えた、4本の前足。
頭には2本の触覚が生えのびて、その双眸は網目状の複眼である。
それはまぎれもなく、バッタの類いであった。
ただし――大きさは50センチ以上にも及ぶ。俺の頭にのしかかったサチよりも、遥かに巨大なバッタであったのだ。
その体表は、不吉などす黒い色合いをしている。
顔の下側にある口では、横向きに生えた牙のようなものが、がちがちと噛み合わされていた。
人々に恐怖と惑乱の視線を突きつけられて、いったいどのような心情であるのか――その複眼から内心を読み取ることはできない。その、他者とのコミュニケーションを拒絶する無機的な雰囲気が、何よりも俺の理性を脅かした。
「……アスタよ、後ろに下がるのだ」
俺の腕をつかみながら、アイ=ファがそんな風に囁きかけてきた。
俺が半分我を失ったまま、その言葉に従おうとしたとき――
「うわあああっ!」という獣じみた絶叫とともに、大柄な人影が巨大バッタのもとに躍り出た。
ガーデルである。
もうとっくに料理を食べ終えているはずのガーデルが、青空食堂の方向から駆け出してきたのだ。
その手には、青空食堂で使われている切り株の椅子が掲げられていた。
そしてガーデルは、その椅子でもって巨大バッタの頭を叩き潰したのだった。
その一撃で巨大バッタの頭は粉々になり、どす黒い粘液めいたものが街路に飛び散る。
それでもガーデルは二度三度と椅子を振り下ろし、巨大バッタの原形がなくなるまでその身の力を振るい続けたのだった。
「アスタ殿、お逃げください! 怪物は、この1匹ではありません!」
そのようにわめくガーデルは狂乱の形相であり、バッタの体液でまだらとなって、それこそ怪物さながらであった。
そして――ガーデルのそんな振る舞いが、呆然とたたずんでいた往来の人々を恐慌状態に突き落としたのだった。
「くそっ! 無用の騒ぎを起こしおって……」
アイ=ファはほとんど俺の身体を片腕で抱え込むようにして、周囲に視線を走らせた。
すると、狩人の眼光を浮かべたジョウ=ランがユン=スドラの身を庇いつつ、「アイ=ファ!」と呼びかけてくる。
「背後から、得体の知れない気配を感じます! あの者の言っていた通り、怪物は1匹ではないのでしょう!」
「わかっている。かまど番は荷台にひそませて、この場を離れるべきかと考えたのだが――これでは、トトスを走らせることもできん」
すると、リミ=ルウの小さな身体を横抱きにしたルド=ルウもこちらに駆け寄ってきた。
「おい! ぐずぐずしてるヒマはねーぞ! かまど番は、全員荷台に放り込んどけ!」
「うむ。しかし怪物は、雑木林にひそんでおるようだ。通りがこの有り様では、荷車を雑木林から遠ざけることもできんぞ」
「それでも、荷台に詰め込んだほうが守りやすいだろ! こいつら、人間にも襲いかかってくるぞ!」
見れば、ルド=ルウは逆の手で抜刀しており、その刀身はどす黒い粘液で濡れていた。
「だけど、1匹ずつは大した敵じゃねー! それに、ここまで流れてきたのは、大した数じゃねーだろ! ほとんどの連中は、もっと手前で地面に降りたみてーだからな!」
俺は凄まじい悪寒に見舞われながら、思わず南の空を仰いだ。
天を覆わんばかりであった黒い影が、幻であったかのように消え失せている。しかしその事実が、いっそう俺を惑乱させたのだった。
「まさか……さっきの影が、すべて巨大バッタの群れだったっていうのかい……?」
「ばった? それがあいつらの名前かよ? とにかくあいつらは、こっちが騒いでる間にみんな地面に降りちまったよ。……たぶん、サウティの集落あたりもまずいことになってるだろうな」
ジェノスの恵みが、南の側から喰らい尽くされていく――
クルア=スンの予言の意味を思い知らされた俺は、背筋が凍るような思いであった。
「とにかくお前らは、荷台に閉じこもってろ! サウティの心配をするのは、この場を切り抜けてからだ!」
「ルド! ターラたちも、絶対たすけてね!」
ルド=ルウに抱えられたリミ=ルウが、兄の装束の胸もとをぐいぐいと引っ張る。
その瞳に狩人の眼光をたたえつつ、ルド=ルウはいつもの表情でにっと白い歯をこぼした。
「当たり前だろ。余計な心配してんなよ、ちびリミ。……さ、ぐずぐずしてんなよ! 化け物を全部退治して、森辺に戻るぞ!」