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異世界料理道  作者: EDA
第六十五章 黒き竜の災厄
1109/1684

序 ~紅蓮の微笑~

2021.10/25 更新分 1/1

今回の更新は全7話です。

 俺はまた、悪夢によって苛まれていた。

 地獄の業火で永遠に焼かれ続ける、あの悪夢だ。


 しかし今回は、いささか様相が違っていた。

 前回この悪夢に見舞われたときも、真紅と暗黒の向こう側から謎の存在がちらちらと垣間見えて、俺にいっそうの恐怖を与えていたのだが――今回は、そちらの存在こそが悪夢の本体を担っていたようなのである。


 謎の存在とは、顔に火傷の痕を持つ、謎の人物のことだ。

《ギャムレイの一座》のナチャラの不可思議な術によって、俺の深層心理から引きずり出されたその存在が、再び紅蓮の悪夢に登場したのだった。


 そいつは永劫の死を繰り返す俺の頭上で、ずっと微笑んでいた。

 きっと俺のことなどは見えていないのだろう。とても穏やかで、とてもやわらかい、どこか懐かしくも思えるような笑顔である。


 俺はかつて、この人物と出会ったことがあるのだと、ナチャラはそんな風に言っていた。

 ナチャラの術は星見でも予知でもなく、人の心の奥底にあるものを解き明かすだけのものであるので、これは必ず過去の出来事に起因しているのだという話であったのだ。


 しかし俺には、その人物の正体がわからない。

 顔に傷痕があることや、いつでも優しげに微笑んでいることや――なんなら性別や体格だって見当がつくぐらいであるのに、その顔立ちだけがどうしても認識できないのだ。


 ただ俺は、顔に火傷を負った知り合いなどいなかった。

 だから、きっと――俺は、記憶の一部を失っているのだ。

 この人物があまりに恐ろしいために、俺はその存在を記憶から抹消してしまったのだった。


(でも、それはいつの話のことなんだ? まさか、故郷での出来事じゃないだろうし……俺は死んですぐ、モルガの森に放り出されたはずだ。ありえるとしたら……死んでから森辺で目覚める間にも、俺はどこか別の場所で過ごしていて……そのときの記憶をすっかり忘れちまってるってことか……?)


 俺は悪夢の中で自分の名前も思い出せないほどのあやふやな意識でありながら、いつしかそんな疑念にとらわれていた。

 その間も、俺の肉体は地獄の業火に焼かれては瓦礫に圧し潰されるという永遠の死を繰り返し、その頭上では顔の見えない何者かが微笑んでいる。


 その何者かには、悪意も敵意も感じられない。

 しかし、そいつが善良であろうと悪辣であろうと、俺が苦しいことに変わりはなかった。

 自分が正体も知れない何者かを死ぬほど恐れているというだけで、人間の正気や理性を脅かすには十分であったのだった。


(いい加減にしろよ! 俺はどんな運命も恐れたりはしない! そんな高みで笑ってないで、俺の前に姿を現せ!)


 俺はそんな風にわめいたつもりであったが、そいつはこちらを見ようともしなかった。

 そして――

 俺はいつもと同じように、温かい真っ白な光によって地獄の苦しみから救われたのだった。


                    ◇


「アスタ、しっかりせよ! 私の声が聞こえぬのか!?」


 不安の念を懸命にねじ伏せたアイ=ファの声が、俺の意識を速やかに悪夢から引きずり出してくれた。

 まだまぶたも開かぬ内から、俺は「大丈夫……」と答えてみせる。


「何が大丈夫なものか! 目覚めたのならば、目を開けるがいい!」


「ああ、うん、ごめん……一刻も早く、アイ=ファに謝らなきゃって思って……」


 俺が重たいまぶたを持ち上げると、薄闇の中でアイ=ファの姿が光り輝いていた。

 そうしてアイ=ファは俺の首裏と背中に手を差し込むと、優しくも力強い所作で俺の身体を寝床から引き剥がし、そしておもいきり抱きすくめてきたのだった。


「またあの悪夢に苛まれていたのだな? お前はいつになったら、その悪夢から解放されるのだ?」


「うん、本当にな……いつも心配かけて、アイ=ファには悪いと思ってるよ」


「私のことなど、どうでもよいのだ!」


 アイ=ファはこらえかねたように、ぎゅうっと腕に力を込めてきた。

 が、俺のあばらが軋む前に力をゆるめて、こめかみのあたりに頬ずりをしてくる。その温もりと甘い香りが、悪夢の残滓を跡形もなく消し去ってくれた。


「どうでもいいことはないよ。俺のほうこそ、ただ夢の中で苦しんでるだけだから……ただそのたびにアイ=ファに心配をかけちゃうのが、申し訳なくてたまらないんだ」


 俺はアイ=ファの背中に手を回し、そのやわらかい髪ごと抱きしめてみせた。


「でも、ありがとう。いつも言ってるけど、俺はアイ=ファのおかげであの悪夢を乗り越えられるんだ。どんなに得体の知れない恐怖を抱かされても、アイ=ファがいてくれれば大丈夫だって……そんな風に思えるんだよ」


 アイ=ファは最後に俺の頭をわしゃわしゃとかき回してから、名残惜しそうに身を離した。

 アイ=ファは厳しい面持ちをしながら、ただその青い瞳にいたわりと情愛の光を浮かべてくれている。まだ髪を結っていないので、その上半身が金色に輝いているかのようだった。


「……このたびも熱を出したりはしておらぬし、瞳にも力が満ちているようだ。しかし、これほどに短い期間でまた悪夢に見舞われてしまうというのは……いったいどういうことであろうな」


「短い期間って言っても、3ヶ月以上は経ってるはずだよな。前回この悪夢に見舞われたのは、雨季に入って間もなくのことだったしさ」


「しかしその前は、『アムスホルンの息吹』に倒れた際であったのだ。あれも雨季の話であったのだから、1年近くは空いていたことになる。それが、3ヶ月に縮んでしまったのだぞ?」


 アイ=ファはいっそう真剣な面持ちになりながら、俺のほうににじり寄ってきた。


「それに、前回その悪夢に見舞われた際には、邪神教団の騒動に巻き込まれることになった。また何か、新たな災厄に見舞われなければよいのだが……」


「やだなあ。俺には予知夢の才能なんてないぞ? 一番最初にこの夢を見たときだって、何も起きたりはしなかったし――」


 俺がそのように言いかけたとき、薄手の毛布から顔を出したサチが「なうう」と鳴いた。

 それと同時に、アイ=ファが中腰となって枕もとの刀を取り上げる。


「トトスと荷車の気配が近づいてきている。アスタよ、私から離れるのではないぞ」


「ええ? こんな朝早くに、いったい誰だろう?」


 寝所の中は薄明るかったが、まだ陽光は差し込んでいない。ならば厳密には、夜明け前であるのだ。

 アイ=ファは俺の腕をつかんで寝所の出口に近づき、戸板にぴったりと背中をつけた。


「ジルベは、反応していない。では、森辺の同胞ということか……?」


 そんな風につぶやきながら、アイ=ファが戸板を薄く開くと――玄関口から、何者かの声が聞こえてきた。


「日も出ぬ内から申し訳ない! 我々は、スンの家長と家人である! ファの家のアイ=ファとアスタに届けたい言葉があるので、しばし時間をもらえるだろうか?」


 アイ=ファは深く眉を寄せつつ、俺のほうを振り返ってきた。


「これはまさしく、スンの家長の声であろう。何か森辺に異変が生じたのやもしれん。アスタよ、くれぐれも油断するのではないぞ」


「う、うん、わかった」


 俺がそのように答えると、寝床のサチも渋々の様子で這い出てきた。しかし彼女もずいぶん大きくなってきたので、俺の肩に居座るのは難しくなっている。よってサチは、自分の足で俺たちとともに寝所を出ることになった。


 土間のジルベやブレイブたちも、きょとんとした顔で戸板を見やっている。ジルベは番犬としての役割を与えられているが、毒虫除けのグリギの実を身につけている森辺の同胞は警戒しなくてよいと教え込まれているのだ。

 ジルベたちの頭をひと通り撫でてから、アイ=ファは玄関口のかんぬきを外した。


「夜明け前の眠りを妨げてしまって、申し訳ない。ただ、どうしても伝えたき話があったのだ」


 戸板から覗くスンの家長の顔はいつも通り沈着であったので、俺はほっと安堵の息をつくことになった。

 しかしアイ=ファは腰に刀をさげたまま、厳しい眼差しでその場の人々を見回していく。


「何か危急の事態なのであろうな。ともあれ、家の中で話をうかがおう、鋼を、お預かりする」


「うむ。ただその前に、伝えておかねばならぬ話がある。我々は、スンの家に預けられていたトトスでこの場に駆けつけたのだが……その道中で、ラヴィッツの家に預けられていたトトスも借り受けることになった。ファの家の許しも得ぬままに勝手な真似をしてしまったことを、まず詫びさせてもらいたい」


 アイ=ファはいっそう眉間の皺を深くしながら、「トトスを?」と反問した。


「うむ。それらのトトスはさまざまな氏族が持ち回りで世話をしているが、もとを質せばファの家が買いつけたものであるのだからな。それを勝手に動かしたのだから、詫びずに済ますことはできなかろう」


「……では、何のためにラヴィッツのトトスを借り受けたのだ?」


「北の集落に、言葉を伝えるためとなる。そして、俺たちの乗ってきたトトスは、このままルウとサウティの集落に向かわせなくてはならんのだ」


 スンの家長の背後では、別の男衆がトトスを荷車から解放しているさなかであった。

 そちらの姿を確認しながら、アイ=ファは「なるほど」とつぶやく。


「つまり、族長たちの意向を仰がなければならないほどの、危急の事態であるというわけだな」


「いや。この事態をどのように受け止めるべきか判然としないため、族長たちの意向を仰ぐ他なかったのだ。なおかつ、ファの家にも話を伝える必要を感じたため、こちらに立ち寄らせてもらった次第となる」


「承知した。ともあれ、話をうかがおう」


 アイ=ファはスンの家長とそのかたわらに控えていた男衆から、刀を預かった。

 そうして両名は、ブレイブたちの待ち受ける土間に足を踏み込み――さらにその後からもう1名の女衆が続いて、俺に「あれ?」と声をあげさせた。


「クルア=スンも一緒だったんだね。みんなの陰になってて気づかなかったよ」


 クルア=スンは無言のまま、ぺこりと一礼した。

 その端麗な面には、隠しようもない不安と焦燥の色が浮かべられている。ひとたび安堵した俺も、すぐさま気持ちを引き締めることになってしまった。


「では、荷台はこちらに置かせていただく。またのちほど」


 トトスを解放した男衆はそのように告げてから、森辺の道に駆け出していった。

 それを見届けてから、アイ=ファは戸板をぴたりと閉める。


「本当に、このような刻限から騒がせてしまって、申し訳ない」


 そんな風に述べながら、スンの家長は広間に腰を下ろした。

 お供の男衆とクルア=スンは、それぞれ左右に分かれて座する。俺とアイ=ファはそれと向かい合う格好で膝を折り、最後にサチが俺のかたわらで丸くなった。


「さきほども伝えた通り、俺はこの事態をどのように受け止めるべきか、決めかねている。しかし、何事もないようであれば、無用に騒ぎたてた俺が責任を取るだけのことだ。そのように思って、どうか最後まで聞いてもらいたい」


「むろん、ひと言あまさず聞かせていただこう。お前は決して、無用に騒ぎたてるような人間ではなかろうからな」


「アイ=ファほどの狩人にそのように言ってもらえることを、光栄に思う」


 そう言って、スンの家長は静かに微笑んだ。

 かつてのスン本家が断罪されて以降、しばらくの猶予を置いて、新たな本家と定められた家の家長である。クルア=スンの父であり、合同の収穫祭で勇者の称号を得た彼は、俺にとってもそれなりに親交の深いお相手であった。


「実は……クルア=スンが、夢を見たのだ」


「夢」と繰り返したアイ=ファの瞳が、鋭く光る。

 俺も、大きく驚かされていた。ファの家も、ほんのついさっきまで俺の見た悪夢によって大騒ぎしていたところであったのだ。


「それは聞き捨てならんな。クルア=スンが、いったいどのような夢を見たというのだ?」


「うむ。夢ごときで騒ぎおってと怒りを買わなかったことを、まずは喜ばしく思うぞ」


「怒る理由など、どこにもあるまい。そちらのクルア=スンは、わずかなりとも星見の力めいたものを備え持っているという話であったのだからな」


 その話は、それこそ邪神教団の騒動の際に露見していたのだ。星見の力に苦しむチル=リムのために、東の占星師アリシュナがファの家を訪れた際、クルア=スンに対しても「教示が必要か?」と問うていたのだった。


 シムにおいて、銀色の瞳をした人間には星見の力を持つ者が多いのだと聞く。チル=リムなどはまぎれもなく白銀の瞳をした少女であったし、このクルア=スンもまた、それよりくすんだ色合いながら銀灰色の瞳をしていたのだ。


 しかしクルア=スンは、アリシュナの申し出を丁寧にお断りしていた。自分は予感めいたものを感じることもあるが、その力に苦しめられたりはしていない――と、クルア=スンはそんな風に申し述べていたのである。

 そのクルア=スンが何か夢を見て、それで族長たちのもとにまでトトスを走らせることになったのだという。

 これはやはり、のっぴきならない事態が生じたのだとしか思えなかった。


「クルアのそういった力について、俺たちはまったく重きを置いていなかった。予感めいたものを感じるといっても、それは必ずしも当たるわけではないようであったし……それでは、気にかける甲斐もあるまい? また、クルア自身も気にかけておらず、最近では話題にのぼることもなかったので、あの邪神教団にまつわる騒ぎが起きるまで、俺はすっかり失念していたぐらいであったのだ」


「しかしこのたびは、重きを置くべきと考えたのだな?」


「いや。重きを置くべきかどうか、族長たちの判断を仰ぐべきと考えた。アイ=ファたちにも意見をもらえれば、ありがたく思う」


 そうしてスンの家長は、うつむいた娘に優しげな視線を投げかけた。


「夢の内容については、クルア自身が語るべきであろう。……自分の仕事を果たせるか、クルアよ?」


「は、はい。……本当に、このような話でファの家まで騒がせてしまって、申し訳ありません」


 クルア=スンは顔をあげようとしないまま、深々と頭を垂れてしまった。

 アイ=ファが口を開きかけると、それを制してスンの家長が言葉を重ねる。


「お前はその話を家長たる俺に伝えたに過ぎない。スンの家人として、それは正しき行いであろう。……そしてそれをこのような騒ぎにしたのは家長たる俺の判断であるのだから、お前に責任のある話ではないぞ」


「でも、わたしが夢などに怯えたりしなければ……」


「それは違うよ」と、俺はアイ=ファより先に口を出してしまった。


「チル=リムなんて、その夢のせいであれほど苦しんでいたじゃないか。星見の力を持っている人間にとって、それは決して軽んじられない話のはずだよ。……それに、星見の力を持っていない俺だって、今日はさんざん悪夢に脅かされてしまったしね」


「アスタが……悪夢に?」


「うん。それでね、前にその悪夢を見たときには、邪神教団の騒ぎが起きたんだ。だから今回も何かおかしな騒ぎが起きたりするんじゃないかって、ちょうどアイ=ファがそんな風に言っていたところだったんだよ」


 クルア=スンは小さく肩を震わせながら、ようやくその顔を上げた。

 その銀灰色の瞳は――うっすらと、涙をにじませてしまっていた。


「アスタは……どのような悪夢をご覧になったのでしょう? もしも、聞くことが許されるのであれば……」


「簡単に言うと、自分が死ぬ場面が延々と繰り返される悪夢かな。ほら、俺は故郷で死んだと思ったら、何故かしら森辺で倒れてたって話だったろう? そのときの死の記憶が、悪夢の中で繰り返されちゃうんだ」


 深刻な口調にならないように気をつけながら、俺はそんな風に説明してみせた。


「あの悪夢は星見の力と無関係なんだろうけど、俺にとっては重要な意味を持つんだろうと思ってる。だから、クルア=スンの夢だって絶対に軽んじたりはしないよ。どうかそれを聞かせてくれないかな?」


「はい……はい、承知しました」


 クルア=スンは決然とした様子で、口もとを引き締めた。

 すると、とたんに凛々しい顔に変ずる。末はヴィナ・ルウ=リリンかヤミル=レイかと思わせるほどの美貌を持つ、クルア=スンであるのだ。


「わたしが見たのは、ジェノスが暗雲に包まれる悪夢でした。とても禍々しい、暗い雲で……わたしはそこに、無数の化け物を見たように感じました」


「化け物?」


「はい。実際には目にしたこともない、不気味な生き物です。それがジェノスの恵みを喰らい尽くして、滅びに導くという……そんな悪夢です」


「それは……何かを象徴しているのであろうか? チル=リムも、夢の中では人の姿が獣の形をした星に見えると申し述べていたはずだ」


 アイ=ファが厳粛なる声音で問い質すと、クルア=スンは「わかりません」と首を横に振った。


「ただ、わたしが感じ取ったのは……ジェノスは南の側から凶運に見舞われていく、ということだけです」


「南の側?」


「はい。たぶん、ダレイムと……あとは、モルガの森辺も含まれるのだと思います。森辺とて、ジェノスの領土であるのですから」


 森辺の集落は南北に長々と切り開かれているため、サウティの集落などはジェノスの最南端と言ってもいいぐらいのはずであった。

 またサウティの集落が何かの災厄に見舞われてしまうのかと、俺は思わず生唾を吞み込んでしまう。


「あとは、その暗雲の向こうで渦を巻く、禍々しい星の気配……夢の中で、わたしはそれを『黒い竜』だと感じていました」


「竜? 竜とは……たしか、おとぎ話に出てくる怪物の名であったはずだな」


「はい。そしてチル=リムは故郷を滅ぼした邪神教団のことを、『灰の竜』と称していたように思います」


 森辺の民は認知していないが、おそらくこの世界にも星座というものが存在するのだ。森辺の族長は獅子の星で、それを補佐する猫や猿や鷹の星――といった星見の託宣を、俺は遥かなる昔日に《銀の壺》の占星師から聞いていた。


「クルアの見た夢は、それですべてとなる。この話に重きを置くべきかどうか、俺は族長たちの意向を仰ごうと考えたのだ」


 スンの家長がそのように締めくくると、アイ=ファは「なるほど」と首肯した。


「それで、その話を我々にも伝えようと考えたのは――」


「うむ。トトスを借り受けた話も伝えねばならなかったし、それにアスタたちは今日も屋台の商売であろう? 商売を行うか否かを判ずるのに必要かと、いちおう伝えておくべきであるように思ったのだ」


「そうか。スンの家長の配慮には――」


 そのように言いかけたアイ=ファは、いきなり足もとの刀を取り上げた。

 それと同時にスンの家長と男衆も膝を立て、広間ではサチが、土間ではジルベが、それぞれ低く鳴き声をあげる。それを聞きながら、アイ=ファはスンの狩人たちから預かった刀を投げ渡した。


「またトトスを駆けさせる気配がする。しかもこれは、直接トトスにまたがっており……数は、ふた組だな」


「うむ。ならばさきほどの男衆が、何かの都合で引き返してきたということにもなるまいな」


 俺とクルア=スンの耳には、そのような音も聞こえてこない。

 しかし数秒後には、それらしき気配を察することがかなった。


「俺たちが外の様子をうかがおう。アイ=ファは、アスタとクルアを頼む」


 言うが早いか、スンの家長は玄関口の戸板に駆け寄った。

 お供の男衆は、右手の窓にへばりつく。俺とクルア=スンはアイ=ファの誘導で、逆側の壁際に移動することになった。


「うむ、あれは……城下町の兵士のようだ」


 スンの家長が、低いがよく響く声でそのように言いたてた。


「甲冑などは纏っておらんが、立派な身なりで刀をさげておるので、まずは間違いなかろう。いわゆる、城下町からの使者というやつであろうかな」


「城下町からの使者が、このような朝早くからファの家を訪れたというのか」


 アイ=ファはいよいよ剣呑な眼差しになっている。

 スンの家長はアイ=ファの承諾を得てから、玄関の戸板を細く開いた。


「何者だ! 用件があるなら、うかがおう!」


 外の人間が何か答えたようだが、やはり俺の耳では聞き取れない。

 しかし聞き耳を立てたアイ=ファは、白刃のごとき眼光をたたえていた。


「……聞こえたな、アイ=ファよ?」


「うむ。メルフリードからの使者か。気配が、ひと組に減ったようだな」


「ああ。もうひと組は、そのまま道を南に下っていった。もしかしたら……俺とまったく同じ真似をしているのやもしれんな」


 メルフリードがファの家にだけ使者を飛ばすというのは、あまりに不自然だ。ならばきっと、すべての族長筋にも使者を走らせているのであろう。今ごろルウ家では、スン家と城下町の使者をほとんど同時に迎えているところかもしれなかった。


「見る限り、不審な点は感じられない。家に迎えることを了承するか?」


「……了承しよう」


 しばらくして、その人物が土間に入室してきた。

 確かにスンの家長の言う通り、いかにも立派な外套と装束で身を整えている。外套の陰には、長剣の鞘が覗いていた。


「このような早朝から、失礼いたします。調停官メルフリード殿の使者として参上いたしました」


「うむ。どのような用件であろうか?」


「はい。まずこちらの話は、三族長にも同時にお伝えされるものと思し召しください。そして決して、森辺の外には持ち出さないと……そのようにお約束していただけるでしょうか?」


 土間に直立したまま、使者の若者はそのように言いたてた。

 アイ=ファも刀を預かる手間をはぶいて、その眼前に立ちはだかる。


「我々は、何事につけても族長らの意向に従うことになる。それでよければ、話をうかがわせてもらいたい」


「承知いたしました。……本日、ダレイムと宿場町と森辺南方の通用門において、衛兵の演習が行われるものと決定いたしました。少々騒がしくはなりましょうが、治安に問題は生じませんので、どうぞ通例通りに屋台の商売を実施していただきたく思います」


「森辺南方の通用門? それは、森辺の南端と街道の間に築かれた門のことであろうか?」


「はい。それで間違いはないかと思われます」


 そう言ったきり、使者は口をつぐんでしまった。

 アイ=ファはうろんげに、その実直そうな顔を見据える。


「メルフリードからの言伝とは、それのみであるのか?」


「いえ、あともう一点。……現在はジェノス城にて南の王家の方々が逗留されておりますため、無用の誤解が生じないように配慮をお願いいたしたいとのことです」


 そう言って、使者の若者は恭しげに一礼した。


「メルフリード殿からの言伝は、以上となります。それでは、失礼いたします」


 使者が早々に土間を出ていくと、スンの男衆が「いったい、なんなのだ?」と声をあげた。


「俺にはさっぱり意味がわからなかったのだが……家長らは、どうであろうか?」


「うむ。俺も同様だ。しかしメルフリードという貴族は、実に頭が切れるのだと聞き及んでいる。この短い言伝にも、なんらかの大きな意味が隠されているのであろうな」


 そう言って、スンの家長は俺とアイ=ファの姿を見回してきた。

 アイ=ファはこれ以上もなく表情を引き締めつつ、家長らと一緒になって俺を見つめてくる。


「私は何か、引っかかるものを感じたのだが……どうにも正体が見えてこない。アスタよ、お前はどうであろうか?」


「うん。たぶん……わかったような気がする」


 俺はどくどくと心臓が高鳴るのを感じながら、頭に浮かんだ想念を整理した。


「まず、これはみなさんもご存じかと思いますが……去年の青の月に大地震が起きたときも、ダレイムや宿場町では衛兵の演習というものが行われていたのです。そのおかげで、大地震で被害をこうむった人々の救助活動もずいぶん円滑に行うことができたようなのですね」


「うむ? 確かにそのような話があったような気はするな。しかしその頃は、俺たちもまだ屋台の商売に関わっていなかったので、町の様子などは想像するばかりであったのだ」


「はい。それでこれは、俺とアイ=ファしか知らない話なんですが……その前日、俺はアリシュナから災厄除けのお守りを手渡されていたのです」


 スンの男衆はぎょっとしたように身を引き、クルア=スンは食い入るように俺を見つめてきた。


「ア、アスタ、それはつまり……アリシュナが地震いの到来を星読みの力で予見していたということなのでしょうか?」


「それは、明言してくれなかったんだ。ただ、もしも自分がそんな未来を予見したのなら、お世話になってるジェノス侯に報告するし……ジェノス侯なら、秘密の内に用心をするだろうって言ってたんだよね」


「秘密の内に?」


「うん。今のセルヴァの王様は、星読みとかのあやしげな力を忌避してるって話だっただろう? だから、たとえ星読みの力で大地震の到来を予見しても、表だっては行動できないんだよ。それが王様にバレちゃうと、ジェノス侯がまずい立場に立たされちゃうんだってさ」


 セルヴァの王の気性については、邪神教団の騒動の折にもジェムドの口から語られていたのだ。それを思い出したらしいクルア=スンは、どこか無念そうな面持ちで唇を噛んだ。


「だからジェノス侯は、衛兵の演習っていうよくわからない行事を持ち出して、こっそり大地震に備えることになった。衛兵たちにも事情は通達されてないはずだから、みんな首を傾げながらダレイムや宿場町で待機して……そこで大地震が起きたから、つつがなく救助活動を行うことができたわけだね」


「それはつまり……このたびも、アリシュナなる占星師が何らかの災厄を予見したということか」


 厳しく引き締まった面持ちで、スンの家長がそのように問うてきた。

 俺は「おそらく」と首肯してみせる。


「それで最後の、南の王家が云々っていうのは……ジャガルはシムと敵対しているので、セルヴァの王様に負けないぐらい星読みの力を忌避してるんじゃないかって、心配してるんじゃないですかね。だからくれぐれも、こちらが星読みの力で指針を定めていることを悟られないように注意してほしいってことじゃないでしょうか?」


「しかしそれなら、どうしてはっきりそのように伝えないのだ? ……ああ、衛兵たちすら、星読みの予見については知らされていないという話だったな」


「はい。これはきっと、ジェノスの貴族の中でもごく一部の人たちだけが知る重要機密なんです。だからわざわざ、町で吹聴しないようにってつけ加えたんでしょうね」


「だが、前回はアスタたちにも、真実は告げられていなかったのであろう?」


「はい。アリシュナが、たとえ話という体裁でこっそり打ち明けてくれただけです。だからきっと、今回は……アリシュナが、森辺の民には真実を告げるべきだと助言してくれたのではないでしょうか? ずいぶん婉曲な言い回しではありましたけど、俺ならこうやって簡単に察しのつく話ですし……それならわざわざファの家にまで使者をよこした理由も立ちますしね」


 では、どうしてアリシュナが、そのように取り計らってくれたのか――それは、森辺の集落に脅威が迫っているゆえなのではないだろうか? このたびはダレイムと宿場町ばかりでなく、森辺の南方の通用門にも衛兵が集められるという話であるのだ。


 なおかつクルア=スンは、森辺もダレイムも南側が危険であると予見している。

 ひとつの真実に辿り着いた俺たちは、森辺で真っ先に惑乱の思いを抱え込むことになってしまったのだった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 恵みを食い荒らす化け物、黒き竜とは恐らく蝗害でしょうね。 過去から「終末の虫」を竜に例える文化は存在します。 そして、中近代の農耕社会において、蝗とは作物を食い荒らし、土地を毒で汚染するまさ…
[一言] これ、火災から瀕死の状況で、火傷した親父に助けられたアスタの見ている夢の世界だったりしないよね
[良い点] 久しぶりにシリアス展開のようですね。 続きが楽しみです。
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