マドゥアルの祝福(下)
2021.10/14 更新分 1/1
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傀儡使いの一行は、その日からしばらく自由開拓民の集落に腰を据えることになった。
とはいえ、集落の片隅に荷車を置いて、そこで寝泊まりする許しを得ただけのことである。元来、旅芸人というのは市井の人間と深く交わるべき存在ではないので、おたがいむやみに干渉しようとはしなかったのだった。
「あんまり長居をするのはご迷惑になっちゃうから、まずは5日を目処に形を整えよう!」
リコはそのように宣言していたが、ベルトンの反応は冷ややかであった。
「たった5日でどうにかなるような劇のために、これだけの新しい衣装を準備しなきゃいけねーのかよ? まったく苦労に見合ってねーな」
「だから、最初の形を整えるだけだってば! 『森辺のかまど番アスタ』に比べればずいぶん短い劇だけど、そんな簡単に完成させられるような内容じゃないもん! だけどとにかく、あのおばあちゃんたちに喜んでもらえるように頑張らないと!」
ベルトンがどれだけ文句をつけても、最後にはリコに押し切られてしまうのが常である。余人に対しては礼儀正しくて節度を持つリコであったが、同胞たるベルトンにだけは遠慮も容赦もなかったのだった。
しかしそれこそが、リコがベルトンに対して誰よりも親密な思いを抱いている証であるのだろう。リコにとって、もはやベルトンは自分の半身のような存在であり、そして、自分自身に対して遠慮や容赦をするような人間はいない、ということだ。そんなふたりのことを、ヴァン=デイロはいつも一歩離れたところから満足そうに見守っていたのだった。
そうして後は、傀儡の衣装作りと筋書き作りと、稽古の日々である。
筋書きは南の民たちから聞いた通りであったが、やはり劇に仕立てるとなると、あれこれ手を加えなければならなくなる。もとの筋書きからそれないように配慮しつつ、見る人々が楽しめるような脚色を施さなければならないのだ。また、傀儡のほうもそれに見合った動きをさせなければならないため、仮の筋書きと仮の傀儡で稽古を進めつつ、満足のいかない部分に手を加えていくというのがリコたちのやりかたであった。
それらはすべて、リコの親たちの背中から学んだものである。
《ほねがらすの一座》として楽しい日々を送っていた頃、まだ幼いリコとベルトンは雑用を手伝っているに過ぎなかった。それである日に、すべての家族と同胞を失ってしまい――親たちの遺した傀儡と思い出の中の知識だけを頼りに、リコたちは傀儡使いとして身を立てなければならなかったのだった。
今ではそれなりの数の演目をこなせるようになり、先日にはついに『森辺のかまど番アスタ』という新たな演目を自分たちで作りあげることがかなった。今回の『マドゥアルの祝福』は、リコたちにとって2度目の挑戦となるのだ。最初は気の毒な老婆のためにという思いであったが、『マドゥアルの祝福』の筋書きを聞かされてからは表現者の意欲というものに激しく衝き動かされていた。
(まったく、毎回無茶ばっかりしやがってよ)
そんな風に思いながら、ベルトンは懸命にリコを手伝っている。自分の本業は余興の刀子投げともって任じているものの、たったふたりの座員しかいない現在は、そのような余興も余計にしかならないのだ。刀子の的当てなどという地味な見世物は、もっと華やかな余興の中のひとつとしてまぎれていなければ、とうてい客寄せにもなりえなかったのだった。
(歌や鳴り物の賑やかしだの、軽業の曲芸だの……それこそ《ギャムレイの一座》みたいに手駒がそろってりゃあな。刀子投げの腕だったら、俺はザンにも負けねーぞ)
そうして頼もしい座員をつのって、《ほねがらすの一座》を再興する――それが、リコとベルトンの共通の思いであったのだった。
そのためには、まずは腕と名をあげることである。『森辺のかまど番アスタ』にまつわる騒ぎではジェノスの貴族たちに目をかけられて、城下町で商売をすることが許されたし――のちには南の王都の使節団というものと行きあって、芸を見せることになった。使節団のお偉方などはずっとトトス車に引きこもって窓から遠目にうかがっていたばかりであったが、『森辺のかまど番アスタ』を披露した後には従者ごしにおほめのお言葉とたいそうな見物料を賜るに至ったのだった。
ベルトンたちはべつだん、貴族のごひいきにされたいわけではない。旅芸人にとって最大の立身出世というのは、そうして貴族の目にとまり、城下町から城下町へと優雅な巡業を行うことであるのだろうが――そんな気取った生き方は自分たちの流儀ではなかったし、また、出自も定かでない自分たちが目指すようなものとも思えなかった。
ただし、数多くの貴族たちに腕を認められたというのは、ふたりにとって大きな財産であった。
リコなどは、最初に『森辺のかまど番アスタ』を披露した夜、ひそかに歓喜の涙をこぼしていたのである。自分たちは立派に親たちの仕事を受け継ぐことができたのだ、と――そんな思いで胸を満たされることになったのだろう。決してリコのように人前でそんな姿をさらすことはなかったが、ベルトンだってもちろん同じ気持ちであった。
だから今回のこの騒ぎも、必ず自分たちの糧にしてみせる。
そんな思いで、ベルトンは懸命にリコの仕事を手伝っていたのだった。
◇
そうして訪れた、5日目の夜――
リコとベルトンは、ついに人々の前で『マドゥアルの祝福』を披露することになった。
「これまでわたしたちの滞在を許してくださり、心から感謝しています。今日の劇はみなさんの厚意へのせめてものお返しですので、見物料は不要です。まだまだつたない部分もあるかと思いますが、お楽しみいただけたら幸いです」
リコがそのように前口上を述べたてると、広場の人々は盛大な拍手で迎えてくれた。ただで芝居を見物できるなら、誰だって嫌がりはしないだろう。このように辺鄙な自由開拓地に立ち寄ろうとする旅芸人はそうそう存在しないはずなので、なおさらだ。
そして今日は最前列に、南の地から移り住んできた人々が並べられていた。リコの希望を、村長が了承してくれたのだ。それらの人々はたいそう気まずそうにしていたが、これは彼らの地に伝わるおとぎ話であるのだから、しっかりと見届けてもらわなければならなかった。
そしてその中には、あの頑固で元気な老婆もしかめっ面で控えている。最初の夜は広場まで出向こうともしなかったそうであるが、この夜はなんとか家族が説得して連れてきてくれたのだ。老婆の隣に座した幼子などは、誰よりも真剣な面持ちでリコの言葉に聞き入っていた。
「それでは、《マドゥアルの祝福》、始めさせていただきます」
リコの挨拶に従って、ベルトンは舞台裏に回り込んだ。
まずは、村人たちの傀儡である。これは南の地に伝わるおとぎ話であったため、その村人たちも南の民の傀儡を使うことに決められていた。
「遠い昔のお話です。とある南の集落において、村人たちは長きにわたる日照りによって苦しめられていました」
リコの澄みわたった声が、夜の広場に響きわたる。
それにあわせて、ベルトンは傀儡をあやつった。
雨がまったく降らないために、その集落ではすっかり畑が干上がってしまう。集落のそばには小さな森があったが、その恵みだけで腹を満たすことはとうていできないのだ。やがて飢えに苦しむ人々は、燦々と輝く太陽に向かって呪いの言葉を吐きつけることになった。
「何が太陽神の恵みだ! 俺たちを炙り焼きにするつもりか?」
「ちっとはその忌々しい姿を隠しやがれ! 家族に何かあったら、ただじゃおかねえぞ!」
すると、村長である老人が慌てて村人たちをたしなめた。
「これ、神に向かって何と失礼な口を叩くのだ。太陽神の恵みがなければ、畑の作物を育てることもかなわぬのだぞ」
「今はその太陽神のせいで畑が干上がっちまってるんじゃねえか!」
「そうだそうだ! 俺たちはこの先、どうやって生きていけばいんだよ?」
困り果てた村長は、豊穣の神たるマドゥアルに祈ることになった。
するとマドゥアルが夢の中に現れて、村長に神託を授けたのだった。
「ひとときの苦しみで神を呪うとは、人の身に許されぬ罪である。しかしおぬしは道理をわきまえておるようなので、我が救いのすべを授けよう」
そうして豊穣神マドゥアルは、神が通るための道を作るべしと告げた。
村長は半信半疑の村人たちを説得して、畑の横に穴を掘らせる。畑の西側から南に真っ直ぐ、神の通る道を掘り進めるべし――それが、マドゥアルの神託であったのだ。
しかしその道は、人の背丈よりも深く、人が手をのばした幅よりも広く掘らなければならないという。荒れ地の硬い地面をそうまで長々と掘り進めるというのは、並大抵の苦労ではなかった。
「こんなの無理だよ! 一刻ばかり働いただけで、もうクタクタだ!」
「ああ。あんな燃えさかる太陽の下じゃあ、俺たちのほうが干上がっちまうよ!」
するとそこに、不思議な銀色の髪をした少女が現れた。
「だったら、昼ではなく夜に働けばいいのじゃないかしら?」
「夜に働く? 馬鹿を言うなよ! 夜なんて真っ暗闇で、なんにも見えやしねえじゃねえか!」
「そうだそうだ! そんな毎晩かがり火を焚いてたら、森の木をみんな切り倒すことになっちまうよ!」
「でも、あなたたちは毎日太陽に苦しめられているのでしょう? それはつまり、空に雲が少ないということなのだから、月明かりを頼りにすればいいのじゃないかしら?」
村人たちはまったく納得しなかったが、どのみちその日は力尽きてしまったので、夜まで身を休めることにした。
そうして夜になって、家の外に出てみると――月の光が、世界を青白く照らしている。これならば火を焚かずとも働くことができたし、日も沈んでいるので暑さに苦しむこともなかった。
「人の子よ、神々を呪うことなかれ」
銀色の髪をした少女はそんな言葉を残して、天空に舞い上がった。
その背中には、髪と同じ銀色の翼が生えのびる。その少女は太陽神アリルの伴侶たる、月神エイラであったのだった。
村人たちは恐れおののきつつ、神の道を作るための仕事に取り組んだ。
月神エイラのおかげで、数日ばかりは何事もなく作業を進めることができたが――それでもやはり、硬い地面を掘り進めるという仕事は難儀に過ぎた。そもそも村人たちは飢えに苦しんでいたため、身体が弱りきっていたのだ。
「だったら、もっとしっかり滋養をつければいいんじゃないかねえ」
そんな風に言い出したのは、この暑いのに外套と頭巾で人相を隠したあやしげな老婆であった。
老婆の語る滋養というのは、森に実る黒い果実のことであった。それはとてつもなく渋い果実で、煮ても焼いても食べられないとされていたのだが――ひと晩水に漬けておくと渋みが抜けて、たいそう立派な味わいに変じたのだった。
「人の子よ、神々を呪うことなかれ」
老婆は一陣の風と化して、村人たちの前から消え去った。
それは風神シムの子にして運命神たるミザの変じた姿であったのだ。
そんな調子で神々に救われながら道を切り開いていくというのが、この『マドゥアルの祝福』の筋書きであった。
やがて大岩に行く手をふさがれると、奇妙な帽子をかぶった幼子が現れる。大岩の上で火を焚いて、岩全体に熱が通ったところで水をかければ、硬い岩ももろくなる――それを教えた幼子は、火神ヴァイラスの化身であった。
そうして10日ばかりが過ぎると、集落に疫病が蔓延した。運命神ミザの教えてくれた果実だけでは滋養が足りず、ついに病魔を招いてしまったのだ。
そこに現れたのは、人の語を解する鴉である。鴉はその病魔を退けるための薬草が森の奥に生えていることを教えた。
「だけどね、夜に生きるっていうのは人の領分じゃない。この仕事を終えたら、きちんと昼の生活に戻るんだよ。さもないと、今度は救いようもない病魔に見舞われてしまうだろうからね」
そんな言葉を残して飛び去った鴉は、冥神ギリ=グゥの化身であった。
ギリ=グゥのおかげで病魔を退け、さらに5日目――その夜も村人たちが仕事を進めていると、不思議な青い髪をした女がどこからともなく姿を現した。
「生命が惜しかったら、そこまでにしておくことだね。飢えて死ぬ前に溺れ死ぬことになっちまうよ」
「溺れ死ぬ? こんな荒れ地のど真ん中で、何を言ってやがるんだか」
「お、おい、よせよ。あの不思議な髪の色……あれも何かの神の化身なんじゃないのか?」
村人たちは、大慌てで地上に這いあがることになった。
「でも俺たちは、この道を完成させないといけねえんだ」
「いったいどこまで掘り進めれば、神の道ってやつは完成するんだろう?」
村人たちが思案顔で言葉を交わしていると、青い髪の女はけらけらと笑い始めた。
「こいつが神の道かい。ずいぶんお粗末な出来栄えだねぇ。……まあ、あんたたちもずいぶん苦労したみたいだし、今回はこれで勘弁してあげようか」
女の言葉に従って、村人のひとりが大きな岩を穴の底に落とした。
すると、穴の底に黒い亀裂が走り抜け――そこから地下水が噴き出したのだった。
地下水の奔流は伝説に聞く竜のような姿で、村人たちの掘り進めた道を辿っていく。そうして半月がかりでこしらえた神の道が、水神の恵みによって満たされたのだった。
「ああ、これで畑に水をやることができます。水神様のおかげで、我々は救われました」
村人一同は、青い髪をした女の前にひれふした。
この女人こそが、水神ナーダの化身であったのだ。
「そいつはけっこうな話だけどさ。あたしがやったことって言えば、そこに岩を落とせって命じたぐらいだよね。たったそれだけのことでそうまで頭を下げられても、挨拶に困っちまうねぇ」
水神ナーダは陽気に笑いながら、その本性をあらわにした。
美しい蒼玉のごとき鱗を持つ、大蛇である。
「太陽神アリル、豊穣神マドゥアル、月神エイラ、運命神ミザ、火神ヴァイラス、冥神ギリ=グゥ、水神ナーダ――我々七小神は兄弟であり、上も下もない。人の子よ、神々を呪うことなかれ。……さすれば、我々が幸いなる行く末を授けよう」
そんな言葉を残して、水神ナーダも天空に帰っていった。
七小神の慈悲によって村人たちは救われ――これにて終幕である。
リコが最後の言葉を語り終えると、広場には5日前にも負けないほどの歓声と拍手が響きわたった。
リコは頬を火照らせながら、ベルトンは相変わらずの仏頂面で、舞台の前に進み出る。そうしてふたりが頭を下げると、いっそうの歓声が届けられた。
「いやあ、見事な劇だった! こいつをたった5日やそこらで仕上げたってのかい? あんたがたの力量は、本当に大したもんだねえ!」
この集落の村長も、満面の笑みでそんな風に言いたてた。
リコは「ありがとうございます!」と、それ以上の笑顔を返す。
「でも、まだまだ稽古不足ですし、傀儡の衣装もほとんど間に合わせでしたので、決して満足のいく出来栄えではありません」
「そんなことはないだろう! 最後の水神様の傀儡なんて、たいそうな出来栄えだったじゃないか!」
「えへへ。あれは物語の締めくくりの大事な傀儡だったんで、他よりも優先して立派に仕上げたんです」
そんな風に言ってから、リコは視線を巡らせた。
「ところで、南の方々は――」
「ああ。そりゃもう大満足だろうさ」
村長は目を細めて笑いつつ、自分の後方を指し示した。
人垣の最前列に、南の人々が座している。そして、あの右足が不自由になってしまった頑固な老婆は――枯れ枝のように痩せ細った老婆の身に取りすがって、わんわんと泣いてしまっていた。
リコは深く息をついてから、かたわらのベルトンを振り返る。
しかしベルトンは帽子を深くかぶりなおして、目もとの表情を隠してしまっていた。
そこに、老婆の孫である幼子がちょこちょこと駆け寄ってくる。
「おねえちゃん、おにいちゃん、どうもありがとう! おばあちゃんは……子供の頃を思い出して、泣いちゃったみたい」
そんな風に語る幼子も、目もとに涙をにじませている。
ただその小さくて丸い顔には、とても澄みわたった笑みがたたえられていた。
「あれは本当に楽しいおとぎ話だったな。俺も感心させられちまったよ」
と、村長がその場に膝をついて、幼子の頭に手の平をのせた。
「俺たちも、もっともっと七小神に感謝を捧げないとな。……それでもって、神々の前には西も南もない。俺たちは、みんな神々の子供なんだ。引け目なんて感じなくていいから、仲良くやっていこうって親父さんたちに伝えておいてくれ」
「うん!」と、幼子は大きくうなずいた。
それから幼子は、またリコたちのほうに向きなおり――そして、不思議そうに小首を傾げた。
「あれ? おにいちゃんも泣いてるの?」
「泣くか馬鹿! 自分の劇で泣くやつがいるかってんだよ!」
怒った声で怒鳴り散らしつつ、ベルトンはいっそう帽子を深く下げてしまう。
その姿を見て、リコはやわらかく微笑んだ。
もちろんベルトンは、『マドゥアルの祝福』の内容に涙したりはしないだろう。ただ――子供のように泣き伏す老婆の姿は、やはりかつて《ほねがらすの一座》でベルトンが仲良くしていたレノ婆を思い出させてやまなかったのだった。
「さて! それじゃあ、晩餐だな! 今日も南の連中の家に運ばせるかい?」
村長がそのように言いだしたので、リコは「え?」と目を丸くした。
「いえ、最初にもお伝えした通り、これは逗留することを許していただいたお礼ですので――」
「逗留ったって、あんたがたは集落の隅に引っ込んでるだけで、なんの世話を焼く必要もなかったからな。それであんなに立派な劇を見せられたら、釣り合いが取れねえさ」
そう言って、村長はまた朗らかに笑った。
「いいから、ゼボラの肉をたらふく食っていってくれ。それで今度は、もうちょっと日を空けずに来てくれよな。あんたがたの劇は、みんな楽しみにしてるんだからさ」
「はい、ありがとうございます!」
おおよその人々は、まだ広場に留まってリコたちを遠目に眺めている。
それらの人々の浮かべる笑顔と温かい眼差しが、リコたちにとっては何よりの褒美であった。
◇
翌朝である。
荷台の中に敷いた寝具の上で目覚めたリコは、ねぼけまなこでこちらを見やっているトトスに「おはよう」と笑いかけた。
荷台には、トトスの姿しか見当たらない。半身を起こしたリコは「うーん!」と大きくのびをしてから、昨晩の楽しいひとときを反芻した。
(みんなに喜んでもらえて、よかったなぁ。もっともっと稽古をして、もっともっと立派な劇に仕上げないと!)
昨晩は、あの幼子や老婆の住む家で晩餐をともにすることになったのだ。老婆は目を赤く泣きはらしつつ、これまで通りの仏頂面であったが、決してもうリコたちに悪態をつこうとはしなかった。
それ以外の家族たちは、みんな朗らかな笑顔であった。老婆が元気になったことを喜ぶと同時に、『マドゥアルの祝福』の内容についても感銘を受けた様子であったのだ。
「俺たちは故郷を失っちまったけど、こうして家族全員が元気でいられるんだ。うじうじ思い悩むのは、もうやめよう。心正しく生きていれば……きっと神々が幸いな行く末を与えてくれるさ」
家の主人は、そんな風に言いたてていた。
神話やおとぎ話というのは、神々の存在を間近に感じさせてくれるものであるが――『マドゥアルの祝福』には七小神がのきなみ登場するために、いっそうそういう思いが強まったのだろう。リコにしてみても、このおとぎ話にはとても心をひかれるものがあった。
(七小神の化身の傀儡は、もっと立派に仕上げないとな。どこか大きな領地を目指して、上等な糸や生地を仕入れよう)
そんな風に考えながら、リコは荷台の扉を開けた。
すると、御者台を下りてすぐのところに、ベルトンとヴァン=デイロの姿が見える。地図を広げて、行路の確認をしているようだ。
「おはよう、ふたりとも。まだどこに向かうかも決めてないのに、何を相談してるの?」
リコがそのように声をかけると、ふたりが同時に振り返った。
ベルトンはきわめて不機嫌そうな顔をしており、ヴァン=デイロは――静かな面持ちの中で、その瞳だけを鋭く輝かせている。
「ど、どうしたんですか、ヴァン=デイロ? なんだか、すごく真剣そうな目つきですけれど……」
「うむ。いささか気になることがあったので、あの南の民たちの住んでいた集落の場所を確認させてもらったのだ」
「へえ。何が気になるんですか?」
リコも荷台から下りて、ヴァン=デイロの手にしていた地図を覗き込んだ。
これはヴァン=デイロが《守護人》の時代から使っていた地図である。町で売っている簡単な地図に、ヴァン=デイロ自身の手でさまざまな項目が書き加えられたものであった。
「我々が留まっている集落は、こことなる。南の民たちは南東の方角から3日がかりでこの地にまで逃れてきたという話であったが……見ての通り、そこは地図にも記されていない辺境の地であるため、目ぼしい川も見当たらない」
「ええ。小さな自由開拓地の集落は、なかなか地図にも記されていませんものね」
「うむ。しかし先刻、南の民たちに詳細を聞いて、おおよその見当をつけることができた。この場所に、岩山のしるしがあろう? どうやらこの山麓の北側に川が流れており、そこに集落が開かれていたらしい」
ヴァン=デイロの差し示した場所に、岩山を表す記号が記されている。確かに、地図に載るような街道からは遠く離れた、僻地であるようだ。
「こちらの集落に逃げ込んだ者たちは、幼子や老人を抱えていたために、北西の道を辿るしかないと言っておった。大きな街道へと通ずる方向には化け物の群れがひそんでいたゆえに――と、申しておったな?」
「ええ。最初の夜、そんな風に言っていましたね」
「この集落は、南側を岩山にふさがれている。それで北側は崖であったため、逃げるのであれば北西か東しかない。そうして東に真っ直ぐ進むと――行き当たるのは、この街道だ」
その街道はゆるやかな曲線を描きつつ、南から北にのびていた。
その街道沿いに記された領地の名を見回して、リコは小さく息を呑む。
それはリコたちが半年ほど前に通過した――南の領地とジェノスを繋ぐ街道であったのだった。
「え、ええと……南の方々の大半は、この街道を目指して逃げ出した、ということですね?」
「うむ。そしてこれは、別なる南の民に話をうかがったのだが……化け物の群れというやつも、同じ方向に移動していたという話であったのだ」
「……この街道に向かって、化け物の群れが?」
「うむ。より正確に言うならば、北東の方向であったとのことだ」
その名も知れぬ集落から北東の方向ということは、まさしくジェノスの方角であった。
「ま、まさか、ジェノスに何か危険が差し迫ったりはしていないですよね?」
「彼らの集落が川の氾濫で流されたのは、もう10日ばかりも前の話となる。青の月になるかどうかという頃合いだな。今さらジェノスに向かっても、詮無き話やもしれんが――」
「行きましょう! そんな話を聞かされたら、放ってはおけません!」
リコがそのように言いたてると、ベルトンは「あーあ」と天を仰いだ。
「お前、ヴァン=デイロの話を聞いてたのかよ? たとえジェノスが化け物の群れだかに襲われてたとしても、10日も過ぎてりゃ全部終わってんだろ」
「でも、放っておけないじゃん! アスタたちに、もしものことがあったら――!」
「泣くなよ、馬鹿」と、ベルトンはリコの頭を小突いた。
「ったく、好きこのんで面倒ごとに首を突っ込もうとするなよなー。そら、出発するならさっさとトトスを起こしやがれ」
「……ジェノスに行ってくれるんだよね?」
「ふん。ここからジェノスまでは、どんなに急いだって5日がかりだ。半月も過ぎてりゃ、どんな化け物でも退治されてんだろ。べつだん、避ける理由はねーや」
「うむ。あの地には、屈強なる森辺の狩人らも住まっておるしな」
落ち着いた声で言いながら、ヴァン=デイロはリコの肩に手を置いた。
「案ずるな。アスタはこれまでにも数々の苦難を乗り越えてきたのだし、森辺の狩人はひとりで兵士10人分の力を備え持っている。どのような化け物が相手でも、決して後れを取ることはあるまい」
「はい!」と応じながら、リコは目もとに浮かんだ涙をぬぐった。
ジェノスがどのような災厄に見舞われて、アスタを筆頭とする森辺の民たちがどのような運命を辿ったか――リコたちがそれを知ったのは、それから5日後の話であった。