第八話 マドゥアルの祝福(上)
2021.10/12 更新分 1/1
リコとベルトンとヴァン=デイロの一行がその集落に行きついたのは、青の月を数日ばかり過ぎた日のことであった。
リコとベルトンは傀儡使いで、ヴァン=デイロはそれを護衛する《守護人》――いや、かつて《守護人》であった老剣士である。彼らの乗り回す荷車には旅芸人に相応しい装飾が施されていたため、集落の畑で働いていた人々はひと目で歓声をあげてくれていた。
「おや、やっぱりあんたたちだったかい。ずいぶんひさびさだったじゃないか」
その中から、年配の女衆が笑顔で近づいてくる。荷車の運転はベルトンに任せて、御者台の脇から顔を覗かせていたリコは、それよりも朗らかな表情で「おひさしぶりです!」と挨拶を返した。
「ちょっと遠出をして、新しい演目を仕込んでいたんです! わたしたちが初めて自分たちでこしらえた自慢の演目ですので、よかったら観ていただけませんか?」
「そりゃああんたたちの傀儡の劇は、見事なもんだからねえ。みんな大喜びするだろうさ。……でも、まだ畑の仕事があるんでね。日が暮れるまで待っててもらえるかい?」
「はい、もちろんです! こちらの隅で休ませていただいてもかまわないでしょうか?」
「ああ。村長には、あたしから話を通しておくよ。それじゃあ、また後でね」
年配の女衆はきびすを返して、村長の家に向かった。
他の人々は畑仕事をしながら、リコたちに手を振っている。リコはそちらに手を振り返してから、御者台のベルトンに笑いかけた。
「この集落の人たちも、みんな元気そうだね! 『森辺のかまど番アスタ』は喜んでもらえるかなあ」
「さて、どうだかな。こんな辺境の自由開拓地じゃ、ジェノスの風聞なんて届きゃしないだろ。見も知らぬ人間の話を聞かされたって、しらけるだけなんじゃねーの」
ベルトンが仏頂面で言葉を返すと、リコは「そんなことないよ!」と眉を吊り上げた。
「たとえアスタを知らない人でも、あんな不思議な物語を聞かされたら胸が躍るでしょ? そうだからこそ、わたしはアスタの物語を傀儡の劇にしたいって思ったんだもん!」
「だったらいちいち、俺に同意を求めんなよ。俺は俺なりの気持ちを正直に話しただけだろ。……大体こんな辺鄙な場所じゃ、どんな立派な芸を見せたって見返りはたかが知れてるしな」
「もう! ベルトンの偏屈者!」
リコはいーっと可愛らしく顔をしかめてから、荷台の内に引っ込んでしまった。
ベルトンはひとつ肩をすくめつつ、手ごろな空き地へとトトスの首を巡らせる。その間も、周囲におかしな気配はないかと、ベルトンはぬかりなく視線を走らせていた。
荷車にはヴァン=デイロも控えているのだから、おかしな気配でもあればベルトンより先に察知することであろう。たとえ荷台でくつろいでいても、それを見逃すようなヴァン=デイロではない。彼はすでに60歳を超える老境であったが、ベルトンの知る限り、誰よりも腕の立つ剣士であったのだ。
(でも、いつまでもヴァン=デイロに頼ってられないからな)
半年ほど前に新たな年を迎えて、リコは12歳、ベルトンは13歳となっている。何をどのように考えても――本当は、そんなことは想像したくもないのだが――ヴァン=デイロは、リコやベルトンよりも早く魂を返すことになるのだ。ならばベルトンは、それまでに自分の力であらゆる苦難を退けられるようにならなければならなかったのだった。
「もう! ベルトンって、どうしてあんなに素直じゃないんだろう! 『森辺のかまど番アスタ』は、ベルトンにとっても自慢の劇のはずなのに!」
いっぽう荷台に引っ込んだリコは、ヴァン=デイロに憤懣をぶちまけていた。
荷台の窓から外の様子をうかがっていたヴァン=デイロは、落ち着いた表情でリコを振り返る。
「あやつは確かに口は悪いが、誰よりもおぬしのことを案じておる。それはおぬしが、一番よくわかっておろう?」
「それはわかってますけど……でも、あんなに憎まれ口ばっかり叩かなくてもいいでしょう?」
「あやつは人里に足を踏み入れる際、ずいぶん気を張っているようだからな。それでついつい、ぞんざいな態度になってしまうのであろう」
「えー? 街道を進んでる間だって、ベルトンはずっと同じ感じだと思いますけど……」
「街道を進んでおる間は、野盗や獣を警戒しておるのであろうな」
「だったら、どこにいたって一緒じゃないですか! ……そんなにずっと気を張っていて、疲れちゃったりしないのかなあ」
と、リコはたちまち心配そうな顔になる。身内に対しては年齢相応の顔を隠さないリコであるが、彼女も彼女で誰よりベルトンの身を案じているのだった。
ヴァン=デイロは沈着な面持ちのまま、穏やかな眼差しでリコを見やる。
「おぬしさえそばにおれば、あやつの心がくじけることもあるまい。ベルトンはおぬしのために力を尽くしておるのだから、おぬしも広い心で受け止めてやるがいいと思うぞ」
「はい……」とリコがうなずいたとき、荷車が動きをとめた。
ベルトンはさっさと御者台を下りて、2頭のトトスを荷車から解き放っている。適当な木の枝に手綱を結ばれたトトスたちは、その間にもう葉をついばんで食事を始めていた。
「日が暮れるまで、もう二刻もないぐらいかな。……ベルトンもずっと運転で疲れたでしょう? ゆっくり身を休めてね?」
リコがそのように声をかけると、ベルトンは「あん?」と帽子のつばの下で眉をひそめた。
「なんだよ、ついさっきまでキーキーわめき散らしてくせに、薄気味悪いな。……俺の干し肉でも狙ってんのか?」
「そんなわけないじゃん! せっかくねぎらってあげてるのにー!」
怒ったリコが、平手でベルトンの肩をぺしぺしと叩く。しかしそのような光景も慣れっこであるヴァン=デイロは、はしゃぐ孫たちを見守るような眼差しでリコたちを見やっていた。
そこに、小さな人影が近づいてくる。
ベルトンは素早く振り返ったが、それが年端もいかない幼子であると気づくと、「なんだよ」と肩をすくめた。
「傀儡の劇は、日が暮れてからだぞ。親に叱られないうちに、引っ込んでな」
「うん……」と応じながら、その幼子はもじもじとする。髪も肌も淡い色合いをした、10歳にもならないような幼子である。
「あれ? あなたはもしかして、南の子なのかな?」
リコがそのように呼びかけると、幼子は「うん」とうなずいた。その幼子はふくふくと丸っこい体形をしており、その瞳は緑色に輝いていたのだ。
「へー。なんで西の自由開拓地に、南の人間が出向いてきてるんだよ? 行商人の子か何かか?」
ベルトンも興味を引かれた様子で問いかけると、幼子は「ううん」と首を振った。
「僕の集落、母なる川の怒りでなくなっちゃったの。だから、ここで暮らすことになった」
「はん? ってことは、もともとは南の自由開拓民だったってことか? それにしても、南の民は南の民だろ。それがどうして、西の地で暮らしてるんだよ?」
幼子は少し悲しげな顔をしながら、「わかんない」と言った。
それから、思い詰めた様子でリコとベルトンの顔を見比べる。
「ね、あなたたちは傀儡使いの旅芸人なんでしょ? 『マドゥアルの祝福』っていうおとぎ話、知ってる?」
「『マドゥアルの祝福』? 『マドゥアルの泉』だったら、演目にあるけれど」
マドゥアルとは、豊穣を司る小神である。畑を耕す農民ばかりでなく、商売繁盛のご利益があるとして、西と南の区別なく信仰されている存在であった。
「泉じゃなくって、祝福。……おねえちゃんたちは、知らない?」
「うん。神話やおとぎ話には、それなりに詳しいつもりなんだけど……もしかしたら、南のおとぎ話なのかな? 南には、西にも伝わってないおとぎ話がいっぱいあるんだろうしね」
探究心の旺盛なリコは瞳を輝かせていたが、幼子のほうはしょんぼりと肩を落としてしまった。
「おねえちゃんたちも、知らないんだね。……余計な話をしちゃって、ごめんなさい」
「あ、待って待って! その『マドゥアルの祝福』がどうしたの? もしかしたら、その劇が見たかったのかな?」
「うん。僕じゃなくって、おばあちゃんが。……おばあちゃんは病魔で元気がないから、その劇を観たら元気になるんじゃないかって思ったの」
幼子は、泣くのをこらえるような顔でそう言った。
リコはすっかり同情しきった面持ちで、「そうなんだ……」と幼子の頭を撫でる。
「ごめんね、力になれなくて。……でも、あなたのおばあちゃんはそのおとぎ話の内容を詳しく知ってるのかなあ? もしそうなら、わたしたちが傀儡の劇にできるかもしれないよ」
「おいおい」と、ベルトンが声をあげる。
「俺らは新しい劇の修練を積んでる最中だろうがよ。そんな最中に、また新しい劇に手をつけようってのか?」
「うん。だって、この子のおばあちゃんを元気にさせてあげたいじゃん」
「勘弁しろよー。劇のひとつで病魔を退治できたら、それこそおとぎ話だろ」
「何それ! ベルトンは、そんな気概で傀儡の劇に取り組んでるの?」
リコが眉を吊り上げると、幼子が慌てた様子でその腕に取りすがった。
「ごめんなさい! もう余計なことは言わないから、喧嘩しないで!」
「余計なことなんかじゃないよ。あなたにとっても、それは大事なお話でしょ?」
たちまち優しい笑顔を取り戻したリコが、幼子のほうを振り返る。
しかし幼子は、いっそう悲しげな顔になってしまっていた。
「うん……だけど僕たちはよそものだから、西の人たちに迷惑をかけちゃいけないって……」
「あはは。ちっとも迷惑なんかじゃないよ。それにね――」
と、リコはその場に膝を折って、幼子の顔を覗き込んだ。
幼子は、びっくりしたように目を見開く。リコはその幼子と同じように、緑色の瞳をしていたのだ。
「おねえちゃん……南の民なの?」
「ううん。いちおう西の民なんだけどね。親の片方が、南の民だったみたいなの。まあどっちにしろ旅芸人はきちんと四大神の祝福を受けたりしないから、あやふやなんだけどね」
そう言って、リコは無邪気に微笑んだ。
「だからわたしたちには、西とか南とかで遠慮する必要はないんだよ。……よかったら、家族の人たちにお話を聞かせてもらえるかな? 『マドゥアルの祝福』がどんなおとぎ話なのか、わたしもすごく気になるの」
幼子は迷うように身をよじってから、やがて決然とした様子で「うん」とうなずいた。
そうしてリコと幼子が歩を進めようとすると、ベルトンが「ちょっと待てよ!」と飛び上がる。
「ひとりで勝手に動くんじゃねーっての! ヴァン=デイロ、悪いけど荷車を見ててもらえるか?」
「うむ、かまわんぞ」と応じてから、ヴァン=デイロはベルトンの耳もとに口を寄せた。
「何も危ういことはないかと思うが、いざというときには草笛を吹くのだぞ」
「なんだよ、俺ひとりじゃ頼りねーってのか?」
ベルトンが口をとがらせると、ヴァン=デイロは穏やかな声音で「そうは言っておらん」と応じた。
「だが、ふたりでかかればいっそう速やかに災厄を退けられるというだけのことだ。……リコを守ってやるがいい」
「へん」と鼻を鳴らしてから、ベルトンはリコたちを追いかけた。
幼子は、集落の細い道をちょこちょこと進んでいく。右手の側は広々とした畑で、左手の側は深い森だ。幼子と一緒に歩きながら、リコは胸いっぱいに緑の香りを吸い込んだ。
「この森が、この集落の人たちの母なんだよね? あなたたちも、この森を母にすることになったのかな?」
「うん。本当は、川のほうがよかったんだけど……もうこれ以上は進めないぐらい、みんなくたびれちゃってたから……」
「だから、どうして南じゃなく西の地で暮らすことになったんだよ? まさか南で罪を犯して、西の地に逃げ込んできたんじゃねーだろうな?」
ベルトンのぶっきらぼうな声に、幼子はびくんと小さな身体をすくませる。それを見て、リコは「こら」とまた眉を吊り上げた。
「この子たちは母なる川の怒りで集落を失ったから、この地に逃れてきたって言ってたでしょ? あんまりおかしなことを言うんじゃないの!」
「おかしいのは、どっちだよ。南の民が西の地で暮らすほうが、よっぽどおかしいだろ」
幼子は「ごめんなさい!」と言いながら、リコの腕に取りすがった。
リコは「いいのいいの」とその頭を撫でる。
「あなたが謝る必要なんてないんだよ。わたしたちはいっつもこうだから、心配しないでね」
そうしてやいやい騒いでいる内に、一行は目的の場所に到着した。
いかにも急ごしらえといった様相の家屋が、5つばかりも建てられている。右手の畑もいつしか荒れ地に変じていたので、ここが集落の端であるのだろう。草葺の屋根で、灰色の土の壁をした、まだ新しそうだが粗末な家であった。
「大人はみんな、働いてる頃だよね。おばあちゃんは、家で休んでるのかな?」
「うん。あと、母さんがかまど仕事をしてるはずだけど……ちょっと待っててね?」
幼子はリコの手の先をぎゅっと握ってから、家のひとつに駆け込んでいった。
しばらくして、幼子に手を引かれた年配の女衆が外に出てくる。南の民らしく、小柄でずんぐりとした――そして、お腹の大きな孕み女であった。
「おやおや、こんな場所まですみませんねえ。……いまひとつ話がわからないんだけど、旅芸人の方々だそうで」
いくぶん疲れをにじませながら、それでも善良そうな面持ちで、幼子の母親は頭を下げてきた。
リコは両手を前にそろえて、ぺこりとお辞儀をを返す。
「初めまして。傀儡使いのリコにベルトンといいます。旅芸人という卑しき身分で家にまでおうかがいしてしまい、申し訳ありません」
「いいんですよお。あたしらも元の集落で過ごしていた頃は、ときどき来てくれる旅芸人を楽しみにしていたもんさあ」
そう言って、母親は切なげに微笑んだ。
「とりあえず、あがってもらっていいかい? 見ての通り、身体がしんどいもんでねえ」
「お身体が大変なときに、申し訳ありません。それでは、失礼いたします」
リコはもういっぺん深々とお辞儀をしてから、家の中に踏み入った。
それに続くベルトンは、だぶついた袖の中に両手をもぐらせている。彼は身体の至るところに、刀子をひそませているのである。たとえ善良そうな孕み女に出迎えられても、ベルトンの目に油断の色は皆無であった。
家の内は、外面と同じく粗末なものである。入ってすぐが広間であり、その真ん中に大きな卓と椅子が並べられている。靴を脱ぐのは、寝所だけであるのだろう。足もとには草を編んだ敷物が地面に直接敷かれているようであった。
「よっこらしょっと。……それで、旅芸人さんがどういうご用事で?」
「あのね、おばあちゃんに『マドゥアルの祝福』の劇を見せてあげたいの」
幼子が勢い込んで言いたてると、母親は「ああ」と目を細めた。
「なるほど。ばあちゃんは、ずいぶんそのおとぎ話に入れ込んでるみたいだしねえ。……でも、あんな古いおとぎ話を傀儡の劇に仕立ててるのかい?」
「いえ。ただそれがどのような物語であるかをおうかがいできれば、傀儡の劇に仕上げられるかもしれません」
「へえ、そいつは大したもんだ。……でもそれは、うちの集落でも年をくった人間しか知らないような、古い古いおとぎ話でねえ。あたしなんかも、名前ぐらいしか知らないのさあ」
「では、おばあさまにお話をうかがえるでしょうか?」
「いやあ、うちのばあちゃんはちょっと……偏屈すぎて、よそのお人らとは話にならないんだよねえ。今は病魔で足を痛めちまってるから、余計に気が立っちまうみたいでさあ」
「足?」と、ベルトンが口をはさんだ。
「病魔で足を痛めることなんてあるのかよ? 俺は聞いた覚えもねえな」
「病魔というか、老いなのかねぇ。右足の膝から下が痺れちまって、杖なしじゃ歩くこともままならないのさ。だから、新しいねぐらを探すときにもうちの亭主が背負うしかなくって……おまけに、あたしはこの身体だろう? にっちもさっちもいかなくなって、けっきょく西の地で腰を据えることになっちまったのさ」
両方の袖に手の先をもぐらせたまま、ベルトンは「ふうん」と目をすがめた。
「ここには5つばかりの家があるよな。その家ぜんぶが足の悪い老人を抱えてるってことか?」
「ちょっと、失礼なこと言わないの!」
「だって、おかしな話だろ? 南で住む場所を失った人間が、どうして西の地に逃げ込んできたんだよ?」
ベルトンがそのように言いつのると、母親はぶるっと身を震わせた。
「これはあんまり、思い出したくもないことなんだけど……あたしらの集落は、もともと西と南の狭間にあったのさ。それで、母なる川の怒りで、集落のなんもかんもが流されちまったとき……恐ろしい化け物が……」
「化け物?」
「いや、あたしなんかは見ちゃいないんだけどね。集落の連中が、騒いでたんだよ。化け物の群れが、逃げ道をふさいでるってさ。だから、老人や幼子を抱えた家なんかは、西の地につながる獣道を辿るしかなくって……それで、この集落に行き当たったってわけだね」
「このご時世に、化け物かよ。あんたたちの集落は、そんな辺境の最果てにあったのかい?」
「うん、まあ、王国の町をつなぐ街道からは、大きく外れてたね。それでも母なる川の恵みで、なに不自由なく暮らしていたんだけど……どうして母なる川は、あんなに怒り狂っちまったのかねぇ……」
母親の目に涙がにじむと、幼子が心配そうに取りすがった。
リコはきゅっと顔を引き締めながら、帽子に包まれたベルトンの頭に手を置いて、無理やり下げさせる。
「おつらいことを思い出させてしまって、申し訳ありません! なんとかおばあさまのために、お力を添えさせていただけませんか?」
「お力って? ばあちゃんは、なんにも話してくれないだろうと思うよ」
「では、他の家の方々はいかがでしょう? どなたか、『マドゥアルの祝福』というおとぎ話を詳しくご存じの方はおられないでしょうか?」
「ううん、どうだろう。もうひとりやふたりは、ばあちゃんと同じぐらい歳をくってる人間もいるはずだけど……」
母親がそのように言いかけたとき、いきなり「おいっ!」という蛮声が響きわたった。
リコとベルトンが仰天して振り返ると、広間の奥の帳からひとりの老婆がまろび出てくる。痩せてはいるが骨格のがっしりとした、とても頑健そうな老婆であった。
「ぺちゃくちゃぺちゃくちゃ、いつまで騒いでるんだい! これじゃあちっとも眠れやしないじゃないか!」
「ああ、ごめんごめん。でも、そんなことぐらいで起きてきたりするんじゃないよ。転んだりしたら、どうするつもりだい」
「はん! あたしより不自由な身体をした人間に、そんな口を叩かれる覚えはないね!」
そう言って、老婆は右手につかんでいた木の杖を振り回した。
ほとんど白くなった髪を頭のてっぺんでひっつめた、70歳は超えていようかという老婆である。しかしその顔は粗く彫られた彫像のように厳めしく、緑色の瞳は炯々と輝いていた。
「……おい。まさかとは思うけど、あれがお前のばあさんじゃねーだろうな?」
ベルトンが小声で問い質すと、幼子は「うん」と首肯した。
「あれが僕のおばあちゃん。病魔のせいで、杖なしじゃ歩けなくなっちゃったの」
「おいおい、ふざけるなよ。足が悪いのか知らねーけど、元気なんざ有り余ってるじゃねーか」
「何をごちゃごちゃ抜かしてるんだい! この餓鬼どもは、何者なのさ!」
老婆ががなりたてると、リコが立ち上がってお辞儀をした。
「初めまして。わたしたちは、傀儡使いのリコにベルトンと申します。よろしければ、『マドゥアルの祝福』というおとぎ話についておうかがいしたいのですが……」
「あん? 傀儡使い? なるほどね! 南の物珍しいおとぎ話でお粗末な劇を仕立てあげて、銅貨を稼ごうって魂胆かい! ふざけるんじゃないよ! さっさとあたしの家から出ていきな!」
「ばあちゃん、そんな言い草はないだろう? このお人らは、ばあちゃんのためにそのおとぎ話を劇に仕立てようとしてくれてるんだから……」
「余計なお世話だよ! そうやって、あたしの大事な思い出を踏みにじろうっていうのかい? そんな餓鬼どものいいようにされたら、せっかくのおとぎ話も台無しさ!」
老婆は今にも崩れてしまいそうな壁にもたれると、また右手の杖を振り回した。
「さ、出ていきな! 二度とうちに近づくんじゃないよ! 次にその顔を見せたら、こいつで痛い目を見せてやるからね!」
リコはなおも何か言いつのろうとしたが、しかめっ面をしたベルトンに引きずられて家を出ることになってしまった。
家の中からは、まだぎゃあぎゃあと老婆の騒ぐ声が聞こえてくる。それを背中で聞きながら、リコは憤然とベルトンを振り返った。
「聞いた、ベルトン? お粗末な劇だって! あの人は、わたしたちの腕を知らないのに!」
「おかしな話に首を突っ込むから、こういう目にあうんだよ。さっさと荷車に戻ろうぜ」
すると、家の中から幼子だけが駆け出してきた。
「おねえちゃんにおにいちゃん、ごめんなさい! せっかくおばあちゃんのために、家まで来てくれたのに……」
即座に怒気を消したリコは、泣きそうな顔をした幼子に「いいんだよ」と微笑みかけた。
「おばあさんはきっと、足が痛いせいで怒りっぽくなっちゃってるんだね。わたしたちが『マドゥアルの祝福』の劇を見せてあげたら、きっと元気になると思うよ」
「おいおい、本気かよ? どんな劇を見せたって、足の痛みがひく道理はねーぞ?」
「足の痛みは治せなくても、心を慰めることはできるはずだよ。わたしたちが、力を尽くせばね!」
リコが屈託なく笑いながら言ってのけると、幼子はついにぽろりと涙をこぼしてしまった。
「おばあちゃんは、すごく優しい人なの。でも、病魔のせいで畑仕事ができなくなっちゃって、故郷までなくしちゃったから……」
「うん、わかってる。おばあさんは、すごく怒ってたけど……でもそれ以上に、悲しそうだったもん。わたしは故郷を持たない身だから、あなたたちの苦しみなんてこれっぽっちもわかってないんだろうけど、でも、力になってあげたいと思うよ」
そう言って、リコは優しく幼子の頭を撫でた。
ベルトンは帽子のつばで表情を隠しつつ、「あーあ」と天を振り仰ぐ。そちらを振り返ったリコは、幼子に向けるのとは別の笑みを浮かべた。
「ベルトンだって、本当は放っておけない心地なんでしょ? あのおばあさん、レノ婆にそっくりだもんね」
「あー? 誰だそりゃ?」
「忘れたふりしたって、駄目だよー。ベルトンのほうが、レノ婆と仲良くしてたじゃん」
くすくすと笑い声をたてながら、リコは幼子に向きなおった。
「あのね、わたしたちは昔、《ほねがらすの一座》っていう旅芸人の集まりだったんだけど……そこに、レノ婆っていうおばあちゃんがいたの。わたしと一緒で南の血が入ってるせいか、見た目もあなたのおばあさんにそっくりだったんだ。それでそのレノ婆は偏屈者で、いっつもみんなに怒鳴り散らしてたんだけど……あれってきっと、さびしさの裏返しだったんだよね」
「うん……?」
「それでレノ婆は、わたしの親の傀儡芝居が大好きでね。そのときだけは夢中になって、とっても幸せそうだったの。……だからわたしも、わたしの劇であなたのおばあちゃんを幸せな心地にさせてあげたいな」
幼子は小さくしゃくりあげながら、リコの装束の袖を握りしめた。
リコはとても優しい眼差しで、幼子の泣き顔を見守っている。
そしてそれを横目で見守るベルトンは、何かの感情を吐き出すように溜息をこぼしていたのだった。