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異世界料理道  作者: EDA
第六十四章 群像演舞~七ノ巻~
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     君に幸あれ(下)

2021.10/11 更新分 1/1

 しばらくして、《ギャムレイの一座》の荷車はジェノスって場所に到着した。

《ギャムレイの一座》はこの半月ぐらいで色んな場所を巡ってたけど、まあ間違いなく一番にぎやかだったのはこのジェノスって町だったろうね。


 だけどまあ、あたしには関係のないことだった。今さら他の人間に関わる気なんてなかったし、ずっと荷台で丸くなってるなら、どこにいたって一緒だもん。けっきょくあたしは《ギャムレイの一座》に助けられてからも、荷台の内側が世界のすべてっていうしょうもない生活を送っていたわけだね。


 ただひとつ、これまでとは違う点もあった。

《ギャムレイの一座》の連中が、町の中に天幕とかいうやつを張り始めたのさ。

 これはよっぽど大きな町で芸を見せるときにだけ使う、とっておきの準備だったみたいだね。

 まあこんな馬鹿でかいものを張り巡らせるには、それ相応の広さが必要なんだろうからさ。それも当たり前の話だね。


 でもとにかく、この天幕ってのは面白かった。

 いや、天幕そのものはどうでもいいんだけど、こいつは雑木林をすっぽり覆う形で作られるから、あたしも遊び放題だったんだよ。


 ここには木がたくさん生えてるけど、危険な獣なんかはいない。

 芸を見るためにたくさんの人間が押しかけてくるけど、木にでも登っちゃえば、そんなのは関係ないしね。


 だから、あたしは……まるで森で暮らしているみたいな心地を味わうことができたのかな。

 まあここは森じゃなくって雑木林だし、けっきょく獣じゃなく人間の居場所であることに変わりはなかったけど……それでも薄汚い荷台に比べれば、もう最高さ。やっぱりあたしの中には、自然の中で暮らす獣の本能ってやつが、少しばかりは残ってたんだろうと思うよ。


「なんだ、また檻を抜け出したのかァい? まったく、油断も隙もないヤツだねェ」


 ピノのやつに見つかると、あたしは荷台の檻の中に引きずり戻されることになった。どうやらあたしが芸を見に来た人間に悪さをするんじゃないかって心配してたみたいだね。

 でもピノは檻に鍵を掛けたりしないから、けっきょくあたしは遊び放題だった。

 きっとあいつは、真っ当な生を送れそうにないあたしのことを憐れんでたんだろうね。まったく、大きなお世話だけどさ。


 でもまあピノには恩義があったし、本気で怒らせたら絶対にまずい相手だから、あたしも他の人間に悪さをしたりはしなかったよ。

 あたしは荷車を抜け出して、木の上で眠りこけてるだけで、十分に楽しかった。

 いつかシムの森に飛び込んだら、1日も過ぎないうちに他の獣に食い殺されちゃうんだろうから……生きてるうちに、少しぐらいは心を安らがせたって悪いことはないはずだもんね。


 それで、ジェノスで過ごし始めてから、2日目――

 ついにそいつらが、《ギャムレイの一座》の天幕にやってきたのさ。

 お察しの通り、森辺の民の一団だよ。


 それはもう、朝からピノに聞いてた話だった。

 ピノはあたしが檻から逃げ出す前から、そんな話を伝えに来たんだよ。


「今日は森辺の民っていう大事な大事なお客サンが来てくれるはずだから、くれぐれも大人しくしておいておくれよォ? ……ま、あのお人らに悪さをしたら、怖い目を見るのはアンタだろうけどねェ」


 そんな話を聞かされても、あたしはべつだん気にしてなかった。

 ちょっと前にピノたちがそいつらのことを話してたのは覚えてたけど、あたしには関係ないやって思ってたからね。


 でも――その日もこっそり檻を抜け出して、木の上からそいつらの姿を見た瞬間、あたしはびっくり仰天しちゃったわけさ。

 こんな人間がこの世に存在するのか! って、もうひっくり返りそうになっちゃったね。


 森辺の民は、何もかもが不思議な連中だった。

 人間の姿をしてるけど、本当は別の獣なんじゃないかって疑わしくなるほどだったね。

 においも、雰囲気も、身のこなしも、普通の人間とは全然違う。どれぐらい違うかって言ったら、あたしと銀獅子ぐらいかな? 森辺の民は銀獅子みたいに馬鹿でかかったりはしなかったけど、それに負けないぐらい強そうだったんだよね。


 それに、森辺の民が纏ってる、あの雰囲気……あの頃はわかんなかったけど、今ならわかるよ。森辺の民は、まるで野生の獣みたいな雰囲気を持ってたんだ。

 あたしはそれまで、野生の獣ってやつを見たことがなかった。あたし自身も《ギャムレイの一座》の獣たちも、みんな人間の世界で生まれた獣だったからね。

 そんなあたしたちが持って生まれることのできなかった野生の獣の力と雰囲気を、森辺の民たちはしっかりと携えていた。これで驚くなってほうが無理な話だよね。


 だからあたしはめいっぱい気配を殺して、そいつらをつけ回すことにしたんだ。

 どうして人間のくせに、そんな力と雰囲気を持ってるのか。どうしても、放っておくことができなくなっちゃったのさ。


 天幕にやってきた森辺の民たちは、他の人間たちと同じように《ギャムレイの一座》の見世物を楽しんでるみたいだった。

 人数は、10人以上もいたんだよね。昼の見世物なんて獣の見物だけなのに、みんな子供みたいにはしゃいでたよ。


 その中で、奇妙な人間が入り混じってることに気づいた。

 森辺の民なのに、他の連中とはちょっと毛色の違う……ひとりだけ、ほわほわ温かい空気を撒き散らしてるやつがいたんだ。


 森辺の民とは違うのに、町の人間とも空気の違う、不思議なやつだったね。なんかそいつは、森辺の民と町の人間の空気を両方あわせ持ってるみたいだったから、最初は銀獅子と豹の子であるドルイみたいな混血なのかなって思ったぐらいさ。


 でも、それだけじゃあ説明がつきそうになかった。そいつは森辺の民みたいな空気と町の人間みたいな空気を撒き散らしながら、それとも違う独特の空気も持ってたんだ。

 あたしはこれまでにそれほど多くの人間を見たきたわけじゃないけど、そいつが普通じゃないってことはすぐに理解できた。もともと普通じゃなかったのか、普通じゃない人生を送ってきたから普通じゃなくなったのか、それはあたしにもわからないけど……とにかく、普通じゃないってことだけは一目瞭然だったね。


 だけど、そんなのはどうでもよかったんだよ。

 普通だとか普通じゃないとか、そんな話は重要じゃないからね。あたしだってきっと普通の獣じゃないんだろうけど、それが何? って話でしょ。それに人間の中でも、ピノやギャムレイはまったく普通じゃなかった。だけどあたしは、ピノたちに心をひかれたりはしなかったしね。


 そう……あたしはひと目で、そいつに心をひかれちゃったんだろうと思う。

 だから後先も考えずに、ついつい木の上から飛びかかっちゃったのさ。

 我に返ったのは、そいつの顔にへばりつきながらそいつの悲鳴を聞いた後だったね。


 そうしてあたしは、アスタと出会っちゃったわけだよ。

 人間だったら、神の導きが云々とかいう場面なのかね。


 アスタはたいそう驚いてたけど、やな顔も見せずにあたしを受け入れてくれたよ。

 やな顔をしてたのは、アイ=ファのほうさ。あたしがアスタに飛びかかったときも、親の仇を見つけたみたいに怒り狂ってたからね。

 一歩まちがえてたら、あたしはアスタの顔にへばりつく前に、アイ=ファに斬り捨てられてたかもしれない。森辺の民の前でよくあんな無謀な真似ができたなあって、今から思うとぞっとしちゃうよ。


 でも、ピノが取りなしてくれたおかげで、あたしはファの家に連れて帰ってもらうことができた。

 まあ、最初の日に連れていかれたのは、森辺じゃなくってダレイムって場所の誰かの家だったけどね。


 アスタは、あたしが見込んだ通りの人間だったよ。

 何も難しい話じゃない。アスタのそばにいると、心が安らぐんだよ。

 アスタの持ってるほかほかした空気が、あたしのささくれだった気持ちをめいっぱい和ませてくれたんだよね。


 アスタの肩に乗ってるだけで、あたしは母さんと一緒に過ごしていた頃と同じぐらい幸福な心地になれた。

 いや、あの頃は盗賊どもにいいようにされてたから、それ以上の幸福さだね。


 それに森辺の民ってのも、慣れてみればなかなか悪くない連中だった。

 誰も彼もが野生の獣みたいな雰囲気で、最初はちょっと落ち着かなかったけど……森辺の民に囲まれてるだけで、生きた森の中で過ごしてるような心地なんだ。天幕で覆われた雑木林よりも、森辺の民に囲まれてたほうが、いっそう自然の中で過ごしてるような心地だったかもしれない。森辺の民ってのは、ひとりひとりが生きた森みたいな存在だったんだよ。


 でもあたしは、そんな環境に安穏とはしていられなかった。

 あたしを家人として迎え入れるかどうかは数日ばかりも様子を見てから判断するって話だったから、そんなうかうかとはしていられなかったのさ。


 あたしはようやく、自分の居場所を見つけることができたんだ。

 もうシムの森で魂を返したいとも思わない。あたしはアスタと出会ったことで、生き物としての本分を取り戻すことができたのさ。ただ生きていたいっていう、ごく当たり前の願いをね。


 そんな中、難儀だったのはアスタじゃなくアイ=ファのほうだった。

 どうやらあたしがいきなりアスタに飛びついたのがお気に召さなかったらしくて、アイ=ファはずっとあたしのことを厳しい目で見てたんだよ。

 めいっぱいに愛嬌を振りまいても、アイ=ファはにこりともしてくれないの。しまいには、媚を売ってるんじゃないかって言い出す始末でさ! ……まあ実際、媚を売ってたんだけど。


 だけどあたしは、アイ=ファのことも嫌いじゃなかった。アイ=ファってのは森辺の民の中でも、ひときわ生きた森みたいな人間だったからね。生き物としての力もものすごく強いみたいだし、アイ=ファが家長なら家も安泰って思ってたよ。


 だけどあたしは年がら年中愛嬌を振りまいていられるような気性じゃなかったし、アスタのそばにいるのはあまりに心地好いもんだから、けっきょくは毎日寝てばかりだったんだよね。

 だいたいさ、媚を売るとかあたしの領分じゃないし、アイ=ファは妙に鋭いもんだから、そんな真似をしたって無意味なんだよ。だからあたしは内心でひやひやしながら、これまで通り気ままに振る舞うことにしたってわけさ。


 で、何日ぐらいが経った頃だろうね。

 あたしは無事に、ファの家の家人に迎えられることになったんだ。


 アイ=ファもきちんと、あたしのことを見ててくれたんだと思う。

 いつだったかは、アスタの持ち物を盗もうとした輩を教えてやったしね。


 アスタは特別な人間だけど、森辺の狩人みたいにすごい力を持ってるわけじゃないし、どこか間の抜けたところもあるみたいだから、あたしとしてはのんびりくつろぎつつ、アスタのことを守ってあげてたつもりだよ。

 アスタはようやく手に入れた、あたしの居場所なんだ。それを守るのは、まあ当たり前のことだよね。


 とにかくまあ、あたしはファの家人っていう新しい生を授かることになった。

 サチっていう名前をつけてくれたのは、アスタだね。アスタの故郷の言葉で、「幸い」って意味なんだってさ。


 あたしのこれまでの生で、幸いと思えることなんてひとつもなかった。

 だからあたしは、シムの森で魂を返そうと思ってたわけだしね。

 だけどこの場所なら、あたしはのんびり生きていくことができる。「なんのために生きているんだ?」なんていう生き物としては欠陥品の苦悩に脅かされることもなく、この世に生まれ落ちたことを感謝できるようになったんだ。


 だけどまあ……ファの家での暮らしも、なかなか賑やかだったよ。

 あたし自身はなんの苦労もなかったけど、アスタは毎日忙しそうにしてたからね。アスタはとりわけ騒々しい人生を歩んでるって後から聞かされて、心から納得さ。朝起きてから夜眠るまで、アスタはいつ休んでるんだろうっていうぐらい、一日中なんやかんやと騒いでたね。どうもその頃は太陽神の復活祭とかいう人間たちのお祭りの時期だったから、いっそうそんな風に見えたのかな。


 だけどきっと、それだけが理由じゃないんだろうなと思う。

 やっぱりアスタっていうのは、ひときわ騒々しい人生を送る運命を授かってたのさ。


 あたしが最初にそれを知ったのは、ファの家に初めて連れていかれた日だった。

 あたしはそこで、ティアとかいう言語道断の存在と出くわすことになったんだよ。


 ティアこそ、普通の人間とは思えないような存在だった。

 森辺の民よりも、生きた森そのもので……本当に、森の一部分が人間の形をつくって動いてる、みたいな存在だったんだよね。ファの家ってのは森のど真ん中にあったもんだから、余計そんな風に思えちゃったのかな。


 ティアは、不思議な人間だった。

 その気になったらあたしと言葉を交わせるんじゃないかって疑わしくなるぐらい、獣めいた人間だったんだよね。

 だけどまあ、幸か不幸か、ティアはあたしに関心を寄せようとしなかった。よくわかんないけど、ティアは聖域とかいう場所の生まれで、よその存在とは友にも同胞にもなれないんだってね。しかも聖域の民ってのは故郷で獣を同胞にしてるから、外界生まれの獣ってのも例外にならないんだってさ。


 だからあたしはティアのことを気にしないようにしてたし、ティアのほうもそれは同様だった。

 ただ、1回だけ……アスタもアイ=ファも姿が見えなかった時間、ティアに語りかけられたことがあるよ。


「ティアは間もなく、聖域に魂を返すことになるだろう。サチよ、お前もファの家の家人として迎えられたからには、アスタやアイ=ファのために苦労を惜しむのではないぞ」


 そんな風に語るティアは、とても寂しそうな目つきだった。

 後から聞いたけど、ティアは魂を返す覚悟を固めてたみたいだね。けっきょく最後まで事情はよくわからなかったけど、それが故郷の掟なんだとかって……ティアみたいに森そのものみたいな存在でも人間の掟に縛られるのかって、あたしもちょっぴり驚かされることになったよ。


 で、なんの話だったっけ?

 そうそう、アスタが騒々しい人生を歩んでるって話ね!


 そもそも聖域の民ってのは、故郷の外に出ることも許されなかったんでしょ? そんな物珍しい存在を家であずかることになるなんて、アスタはつくづく騒々しい人生を送る巡りあわせなんだと思う。


 でも、ティアを送り返すときに、一緒についていくって決めたのは、アスタ自身だ。

 だからアスタはただ運命に弄ばれてるだけじゃなく、自ら騒々しい人生を選んでるように思うんだよね。


 で……聖域から戻ってきたアスタとアイ=ファは、もう大変だったよ。

 あたしはまだ数日ばかりしか暮らしてなかったからわかんなかったけど、ふたりにとってティアってのはよっぽど大事な存在だったみたいだね。

 けっきょくティアは魂を返さずに済んだみたいだけど、この先一生会えないってことに変わりはないから、アスタもアイ=ファも悲しみに暮れちゃったのさ。


 あたしにとって大事だったのは、母さんだけだったけど……アスタたちにとって、ティアはそれぐらい大事な存在だったのかな?

 それともひょっとして、今のあたしにとってのアスタぐらい大事な存在だったのかな?


 まあ何にせよ、あたしにできるのは一緒に寝てあげることぐらいだったから、ずっとそうしてたよ。

 それにあたしが出しゃばるまでもなく、アスタとアイ=ファはぴったり寄り添って眠るようになってたしね。


 それなら最初っからくっついてりゃいいのに、寝静まってからアイ=ファが布団にもぐりこんでくるもんだから、あたしは踏み潰されないようにするのでもう大変さ。普段のアイ=ファだったらそんな迂闊な真似はしないけど、どうもアイ=ファは寝たまま動いてるみたいだったから、あたしも気が抜けなかったんだよね。


 でもまあそれぐらい、アスタとアイ=ファは悲しみに暮れてたんだ。

 アイ=ファが布団にもぐりこんだ日の朝なんかは、目を覚ましてもしばらくはくっついたまま、なんか甘ったるい雰囲気を撒き散らしてたしね。これが噂の発情期ってやつなのかなって、最初はそんな風に思ったぐらいだよ。


 あ、発情期について教えてくれたのは、もちろん母さんね。もしも貴族に売り飛ばされたら、そこに他の同胞がいるかどうかはわからない。もしもひとりぼっちだったら発情期に苦しい思いをしてしまうけど、決してくじけないでね……なんて、母さんはそんな風に言ってたなあ。


 人間の発情期って、どうなってるんだろう。あたしがアスタやアイ=ファから感じる甘ったるい空気こそが発情の証だって、あたしの本能はそう言ってるんだけど……アスタたちが交尾に励んでる様子はないし、アイ=ファも子を授かったりはしてないんだよね。


 あとそれに、あたしが感じるのは発情の空気だけじゃないんだよね。

 これはちょっと、説明が難しいんだけど……発情して交尾して子を生すってのは、要するに生き物の本能でしょ? それでもって、人間は本能だけで生きてるんじゃないって聞いた覚えがあるんだよね。


 それを話してたのは、誰だったろう? 《ギャムレイの一座》の誰かだったのは確かなんだけど……なんか騒がしい感じだったから、ピノとニーヤあたりかな? あのふたりは、いっつもそうやってやいやい騒いでるんだよね。


 まあとにかく、人間は本能だけで生きてるんじゃないって話だったの。

 本能に裏打ちされた欲求こそが肝要だとか何だとか、そんな話だったんだよね。


 たとえば、生き物が食事をするのは生きるための本能でしょ? 

 でも、人間みたいにあれこれ手を加えて「料理」とかいうものに仕上げるのは、本能に裏打ちされた人間ならではの欲求なんだ、とか言ってたの。

 それと同じ話で、人間が誰かを愛するのも、本能に裏打ちされた欲求なんだってさ。


 交尾したいのは、本能。交尾の相手に優れた個体を求めるのも、本能。でも、本能だけで片付かない情愛を抱くのが、人間サマの特権だろォ……って、そんな風に言ってたね。この喋り方は、やっぱりピノかな。


「アンタみたいに誰彼かまわず女の尻を追っかけてるやつは、獣としての本能が先走ってるんだよォ。人としての情愛を育んでたお人らにそんな獣が横槍いれたら、蹴り飛ばされるのが当たり前だろォ?」


 とか何とか、言ってたね。

 そのときのあたしには、いまひとつ意味がよくわかんなかったけど……いまならちょっとわかる気がする。

 だってあたしは、アスタのことを大好きだもん。

 でも、アスタは安全な居場所を確保してくれる存在だから、生き物の本能として欲してるだけだ……なんて言われたら、ちょっと釈然としないもんね。


 もちろんそれは、大事な本能だよ。

 だからピノも、「本能に裏打ちされた欲求」っていうややこしい言い回しをしてたんだと思う。


 あたしは母さんのことも大好きだったけど、親と子がおたがいを慈しむのも、きっと本能だよね。そうじゃないと生き物として生きていくことが難しくなっちゃうから、もともとそういう風に肉体や魂に刻みつけられてるんだと思う。

 でも、あたしの母さんに対する思いは、本能だけじゃない。……そんな風に思えるのは、あたしが人間の世界で生まれ落ちたせいなのかな。


 母さんだって生まれたのは森の中だけど、近在の人間たちと遊んでたって言ってたから、きっと人間の影響を受けてると思うんだよ。

 もしかしたら、自然の中だけで暮らしてる野生の獣ってのは、あたしたちみたいには考えないのかもしれない。本能に従って、ものを食べて子を生して、それで十分に幸せなのかもしれないね。


 でもあたしには、本能だけですべてを片付けたくないって思いが宿されてる。

 それで、アスタとアイ=ファにも、おんなじものを感じるんだよ。


 アスタとアイ=ファは生き物の本能として、おたがいを求めてると思う。あの甘ったるい空気は、絶対に発情の証だもん。アスタとアイ=ファはおたがいに交尾したくてしたくてたまらないはずなのに、なんでかそれを我慢しちゃってるんだよね。


 だけどアスタとアイ=ファの間には、本能だけじゃなく、本能に裏打ちされた情愛ってやつも存在する。だから交尾したくても我慢できるし、交尾しなくてもあんなにおたがいを慈しむことができるんだと思うのさ。

 あたしがふたりに感じるのは、そういう空気だ。交尾したくてたまらないっていう生き物としての本能よりも強い、本能に裏打ちされた情愛。あたしがアスタに抱く思いを何十倍も強くしたような、そういう空気を感じるんだよ。


 ま、さっさと交尾して子を生せば、もっともっと幸福なんじゃないかって思わなくもないんだけど……あたし自身がまだ発情期を知らないから、よくわかんないや。

 とにかくあたしは、アスタが大好きなの。

 アスタが大好きなアイ=ファも大好きなの。

 それで……アスタたちが他の人間たちやこの世界そのものを大好きなんだったら、いつかあたしも同じ気持ちになれるんじゃないかって期待してるんだよね。


 これまでのあたしは、人間への復讐しか考えられない存在だった。

《ギャムレイの一座》に救われてからも、恩知らずで無力な存在でしかいられなかった。

 そんなあたしを変えてくれたのが、アスタなんだ。

 だから、あたしにとって、アスタは大事な存在なの。

 わかったら、あたしよりちょっとぐらい古くからファの家に居座ってるからって、あんまり大きな顔しないでよね!


                   ◇


 サチの長広舌を長々と聞かされていたジルベは、きょとんと小首を傾げてから、その大きな舌で小さな同居人の頬をぺろりとなめた。

 サチは憤慨して、「もう!」とジルベの大きな顔を引っぱたく。


「あたしがこれだけ切々と語っても、なんにも通じやしないんだから! でかい図体して、頼りにならないね!」


 サチがどれだけ憤慨しても、猫と犬で言葉が通ずる道理は存在しなかった。

 ジルベはただ不思議そうに、いきりたつサチの姿を見やっている。その無邪気で呑気そうな面持ちが、いっそうサチを憤慨させるのだった。


 最近はサチも屋台の商売に同行することが少なくなり、そういう日は朝から晩までファの家でのんびり過ごしている。そうしてアイ=ファや猟犬たちが狩りの仕事に出向いてしまうと、番犬のジルベとふたりきりなのだった。


「とにかくね、あたしたちはファの家を守らないといけないの! あんたなんかあたしより何倍も肉を食べてるんだから、いざというときにはお役に立つんだよ!」


 にゃあにゃあと鳴きわめくサチを前に、ジルベは「わふっ!」と元気な声をあげた。

 もとより護衛犬として育てられたジルベは、どれだけ孤独な環境でも耐えられるように躾けられていたが、このファの家に移り住んで以来は、すっかり甘えん坊の気質が育まれてしまったのだ。そんなジルベにとって、一緒に留守番をしてくれるサチの存在はありがたくてならなかったのだった。


 そうしてジルベにあどけない眼差しを向けられたサチは、再び「もう!」と怒声をあげる。


「長々と喋らされて、くたびれちゃったよ! あたしは昼寝するから、邪魔しないでよね!」


 そう言って、サチは土間のすぐそばの壁際で丸くなった。

 土間にたたずむジルベもサチと同じ側の壁際に移動して、丸くなる。

 ファの家は、今後も何かと騒々しい運命に巻き込まれていくのであろうが、今日のところは平和そのものであるようだった。

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― 新着の感想 ―
ジルベ大好き。 サチも好き。一緒に暮らしたくなるわ〜
[良い点] まさかのジルベオチ
[良い点] いい話のようには見える [気になる点] けどやっぱり森部には猫は不似合いな生き物にしか見えない。猫なんてのは愛玩動物なのだから、貴族関係が飼うのが良かった。ポルアースとか。アリシュナとか。…
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